神南邊(7)
太子町へ出発だ
太子町へ出発だ
2024/4/15 神南邊の最後になると思う撮影行に出かけます。果たして廻り切れるか。
最も遠い場所は、太子町駒ヶ谷です。「竹内街道」と銘打った大阪府内の南東端、街道の名の元にもなった竹内峠へ向います。事前の調査で、途中、松原市の陽雲寺梵鐘に銘が有るとする資料を見つけたので、これから始める事にしました。
大阪市内を抜けた後、どのコースを進むかを考えました。何時もと違う道をと考え「疎開道路」を南へ進み、松原を目指す事にしました。という事で、森ノ宮が第一目標、林寺2の交差点から大和路線、近鉄南大阪線もくぐり、一本道です。長居公園の東から大和川を越えようとして一苦労しましたがそこはカットして、尚も南進あるのみです。
長尾街道に東折れするつもりが誤って通り過ぎてしまいます。堺市に入った様で、道路標識「左藤井寺⑫」を見て東折れします。明治の長尾街道は一本北側の道だったようです。多分西除川の橋を渡った所で、旧街道で無い事に気づき、北に折れる事にしました。地図で陽雲寺を確認し、「高見学園通り」交差点を左折し、近鉄を再び越えて交差点から700mで突当りとなりました。ドンツキをクランク状に東に回り、再び突当り、松原市田井城の、ご町内グルグル回りの結果「陽雲寺」に何んとか到着しました。
東除川に向けユルユルと下り、高鷲橋を渡り、羽曳野市島泉の雄略天皇陵の北を通ります。この人は倭の五王の一人で悪名が高かく強権の王であったと覚えていますが、陵墓はあまり大きくなさそうです。この後、変則の四辻から東に向かう旧街道を道なりに進みます。雄略陵の東端から700mで三ツ辻に突当ります。さて何方に進みましょうか?
突当り(辻東部)に道標があります。上部は無くなっていますが、竿部に大きく「右ハ いせ」とあります。今日は伊勢までは行きませんが、これに従います。南折れします。
「藤井寺市小山1の道標」とします。
三ツ辻道標から府道12号を南に突っ切り200mに四辻があります。ここに道標が無ければ直進してしまうのですが道標は有りません。事前に地図を調べていて、旧道は東に折れると知っているので、東折れして200mで藤井寺市役所南西の四辻に出ます。松原、羽曳野、藤井寺と来たが、何処が市境か良く分りませんでした。この市役所玄関脇に道標があります。
東横の解説石板
道標の詳細は「藤井寺市役所前道標」を見て頂くとして、先の道標が有って然るべき辻から移設したものらしい。となれば此の道は既に奈良を目指している事になる。
今日目指している太子町に間違いなく向かっているでしょう。しかしこの道が明治の頃に「竹内街道」と呼ばれるのは竹内峠を越えるからだと思うが、奈良の中央部には向かっていない。何処かで分かれるのであろう。
まだ二つ目です。先を急ぐことにします。東へ460m西名阪の下を通り抜け、その東の大きな「藤井寺IC前」交差点の東端辺りを北に渡り旧道に戻ります。旧道を東へ150m程進むと国道170号に突当ります。突っ切ろうにも横断できません。仕方なく南の交差点に向かいますが此処も渡ることが出来ず、歩道橋を昇る羽目になります。人に優しくない道です。そんなこんなで再び旧道に復帰しそれらしい雰囲気を残す道を東に進みます。
迂回した為に距離は良く分りませんがR170から1㎞弱で御陵西の四辻に突当ります。これをやや南に道なりに進み陵墓西辻から310mで電柱に「国府一丁目7」とある四辻に出ます。辻の南東部に小さな道標が有ります。この四辻が東高野街道との交点らしい。道標は必然でしょう。長尾街道はこの辻をそのまま東に進み、石川を越え、柏原市国分本町へと続くようだが、現、旧道では川を渡れず府道12号に出なければならない。今日はここで長尾街道とお別れします。
「藤井寺市国府2の道標」とします。磁針により求めた向きは文字面が北に近いので北面とします。構造物の影響があるかも知れません。地図で見ると北西面とした方が良いかも知れない。
北面に「右 道明寺…」とあります。
府道12号を渡り、近鉄土師ノ里第2号踏切を越えてから280mの三ツ辻が、蓮土山道明寺の東門になります。山門南側に道標が立ちます。
「道明寺東門前の道標」とします。
北面、「左 大坂、左海道」
「すぐ道明寺」は西へ山門を潜れと受け取るのか…。
実際は、当辻内で移設があったと思われ、設置の向きを変える事で案内の整合性が取れる様になり、「すぐ道明寺」は南を指示すことになります。詳しくは下のボタンから参照下さい。
道明寺を過ぎ、誉田に入ると再び羽曳野市になる様です。市境が見当も付きません。
道標南面
「誉田中学校西の道標」とします。この道標は西面に「天保九戌年」とあり近世(江戸時代)の作であるが、東面に「南 上之太子…」と方角を書いて、行先を案内する。進む方角を書く道標は珍しいと思います。
北西部の一基目がこれ、西方向(写真奥)を示し「左 ふぢ井寺大坂道」と案内します。地図を見ると確かに、今日(今)来た道よりこちらが近いようです。
直線では有りませんが道なりに南へ580m、蓑の辻道標を東折れし、道なりに一度左岸沿いを北上後、臥龍橋を東に渡り、石川右岸を南に少し進み、初めての三ツ辻で堤防道と分れ、東に折れて川から離れるように進みます。
この三ツ辻南部に道標二基が建ち、その内一基が「神南邊」関係ですが、今日は急ぐので立ち寄りません。辻の写真を撮り、前回の最遠地点を越すことになりました。
記事詳細はこちら、道標詳細は別項こちら「羽曳野市川向の道標(大)」を参照下さい。
写真左側の角柱石が「役行者錫杖水」碑です。この前乗った近鉄電車、吉野行が通り過ぎて行きます。知っていれば、車窓から見ることが出来たのですね。
よく見ると道標で、北面に「右 金剛山…」とあり、南面に施主とは書かれていないが「堺神南邊隆光」とあり、西面には少し変わった座像と「駒ヶ谷村」と、四面を利用している。きっと四方が開けた場所に建てられていたたものと思われます。詳細は「羽曳野市役行者錫杖水の道標」を参照下さい。
ようやく、今日の目的一番目をゲットしました。
錫杖水道標を後にして2.3㎞地点が「春日西」交差点です。この変則四辻に来て、道に迷います。国道166号は道なりに、東の方へ曲がっていくのですが、ほぼ直進(南へ)の道の左脇に「竹内街道」の石標がありこれに従い、狭い方の道へ進みますす。30m程先の三ツ辻を右の広い道に曲がってしまい、気が付けば丘の上の新興住宅街、慌てて戻ります。時間が無いのに何たる失敗か。折り返して旧道に戻ります。ところがここで又々ミス、「春日西」交差点まで戻ってしまい、これを国道166号に進んでしまいます。
後で調べた所、30m南の、南河内郡太子町春日92の「Kモン教室」の前を南東進(直進)が正解です。何時間か後、帰路はここに出てきました。
辻西側に建てられた解説板に、西への道が「茅渟(ちぬ)道」、北からやや東に曲がる道が「竹内街道」とある。昭和中期まで「角屋」という旅籠が建っていたらしい。
解説をよく読めばわかったのでしょうが、文字もカスレ読み難く、「竹内街道」のみがよく見え、西への道が「竹内街道」と思い込み混乱してしまった。
解説中の「角屋」は『河内名所図会』二巻42コマで見ることが出来ます。
このすぐ西に道標が有るらしいのですが、時間が有れば帰りに寄る事にし、三番目の目的地に向かいます。道なりに南東へ140mの「六枚橋」を越え、230mで現国道166「六枚橋東」交差点を斜めに横断すると、一気に登り道になります。舗装道ですが旧街道のようで、道なりに進めば街道を外れる事はないでしょう。
「六枚橋東」交差点から660m三ツ辻に「太子町餅屋橋の道標」があります。
餅屋橋は道標を南に見た写真の右下に見える橋かと思いますが、この道標北東面に「餅屋橋」が大きく書かれていることから元はもっと橋の近くにあったものかも知れません。或は地名の字が餅屋橋であった為に、建設地として書かれたものかも知れません。地番(字)は未確認です。
道標を後にして200mで「竹内街道資料館」入口前になる。訪ねたいが時間がありません。通り過ごして300m大きく左へ廻り込んだ地点の右側(東)に石柱が二基見えます。これが二基とも道標になっており、分岐道があるのですが、道とは思えない状況です。偶然そこで作業されていた方に「これは道ですか」と尋ねてしまった。答えは「一応道でしょう。通る人はいませんが。」との事です。
今日の目的地の中で一番遠くになり、予定よりは1時間程遅れたが、何んとか到着したことを喜びます。
写真の奥の石が目的の石です。「太子町山田の道標」としました。北西面に「左海 神南邉…」と有りますが、埋もれて下部が読み取れません。石畳風に舗装された道は改修の度に嵩上げされるも、道標は据え置かれたままで、その分埋もれる状況はよくある事です。ある資料には「左海 神南邉大(道心)」と有りますが、現在では「大」の上部らしきは見えるが確定出来ません。
左に下る道は畦道にしか見えない。が左面に案内では不自然
右面(道路側)に「神南邉…」とあり不自然
この道標と、後で少し述べる南隣の道標の二基対で一つの役目を果しているようです。南側を補足する様に、北側道標には主要街道で案内の必要が少ないと思われる「大坂、堺」の案内を持っている。
さて、南側のもう一つの道標「山田の当麻奥院の道標」を見てみましょう。多分こちらの方が「神南邉」の道標より古いと思われます。こちらには明和三(1776)年とあり、神南邊の道標は旧くても1817年が知られるだけでこれと同じとしても、南側の道標が40年程古いことになります。行先を見ると、神南邊の道標が「親鸞聖人御旧蹟」を案内するのに対し、こちらは圓光(法然)大師二十五霊場の内「当麻寺」を案内し被る事はなく、神南邊が補うように立てたとしたい。
なぜなら、先に見た「春日の道標」には「たへま」も案内しており、本来ならここでも書きたいでしょうが、南側道標との重複を避けた為と思う。
この先、竹内峠に神南邊の石造物がもう一基有る様だが、紀年銘がないらしく、ここで引き返す事にします。
「太子町春日西の道標」としました。
写真を撮っているとご近所の方が、道路改修の折に向きが変わって置かれ、案内通りになっていませんとの事でした。では見てみましょう。
向きもさることながら、設置位置もどうかと思う。東の新しい石に隠れ、北は電柱の陰になり、前には小さな石も置かれ、散々たる様子です。鉄壁のガードですが、昔は触り易く愛されていたのでしょう、頭部はツルツルになっています。
道標現南面に「右 たへま津ぼ坂竹内峠/左 なら郡山穴虫峠」とあり、少なくとも「右、当麻…」は正しそうである。東面「右 大坂ミち/左 上ノ太子道」の「大坂」は北へ進みこれも正しそうである。設置向き不具合は起きているのでしょうか。詳細は「太子町春日西の道標」を見て頂くとし、ここでは正しく設置し直されているとします。土地の方は「大坂道は竹内街道を示すべき」と受取られていると思う。
蛇足になりますが、近世の道標は目的地への最短経路を案内し、主要道路を案内するものではありません。
ここでは、集落東側を通る竹内街道が大坂への道となるのではなく、集落の西側を抜け春日神社の鳥居前に出る道が最短になります。これは穴虫峠への最短の道でもあります。
16:30分。今日の予定は一応達成しました。春日の集落西側を通りぬけ、何処で竹内街道と合流するかを確認して、帰る事にします。新池の北で合流が確認出来、「春日西」交差点の手前に出ました。
これで、一応「神南邊」に関する現地資料は揃いましたので、後は机上でまとめる作業に取り掛かります。尚、奈良、和歌山や四国等にも多く石造物が有るようですが遠方につき省きます。
尼崎の一道標の年代推定に、数行の文章を挿入する為の根拠を求める作業が、これ程時間を要するとは考えていませんでしたが、大変面白かったと思います。