神戸市街地

東灘区から須磨区までの市街地部分とします。

西国街道に沿って、西に下っていきます。

芦屋市との市境、国道2号線森南町1丁目を起点に、西へ220m「森南交差点の一本西」の四辻を右(北)に折れ200mJR甲南山手駅南の遊歩道に出る手前左(西)に民家の庭があり、ここに「尼崎藩境界石」があります。元は芦屋の古美術商の前に置かれていたものとお聞きしました。
南に200m戻り2号線を右(西)に折れ330m(上記起点からは550m)赤鳥居前交差点の北西部に「森南町3の道標」があります。旧西国街道は現国道に完全に吸収されているようでここに置かれていても不思議はないでしょう。明治の地図でも深江の集落西から高橋川に沿って北上する道との四辻にみえます。

芦屋市の古美術店前にあった藩の境界碑です。

店主の御厚意でここに残されたようです。見物は一声かけた方がよいでしょう。
芦屋の店頭にはこれまた変わった道標も残されています。

森稲荷神社 への参詣道

宮は北500m弱、阪急ガードを潜り山手幹線を越えてすぐにあります。市内では数少ない檜皮葺本殿とし近々2500万で吹き替え予定らしい。

ここで寄り道です。
国道2号赤鳥居前交差点から西へ200mの大きな籾取交差点を渡り右(北)に折れ280mJRのガードをくぐってすぐ、山幹に出ず左(西)へ登る階段をあがり、線路北脇の細い道にでます。階段を出て西に線路沿いに280m小さな川を越え右に要玄寺の山門が有ります。
稲森神社に寄り道した方は150m南に下り、山手幹線を西に340m進み、山本北1丁目交差点を左(南)に折れ40mほどで線路脇の道に出て、右(西)折れ150mで山門となります。たぶん山門横の勝手口のインターホンで案内をお願いする事になるでしょう。

東灘区田中町5丁目4の旧道にある大正の「花松首地蔵」この西20mが突当り

寄り道をしないときは、国道2号赤鳥居前交差点から西へ2.9㎞で本住吉神社南東の「住吉交差点」になりますが、途中旧道マニアの方は、田中町に残る旧道をおすすめします。赤鳥居前から1.4㎞に「田中東交差点」があり北西側に山王神社があります。明治の地図でみますとこれを北にまいて北西に進む道が見えその通り進もうとしたが叶いません。しかたなく神社の西を北に50m入り三ツ辻を左(西)に折れ旧道へ進みます。80mで十二間通りと呼ばれる広い道へ出ますが、これを道なりに突っ切り本山南中学の南を過ぎ、神社北西辻から690mの突き当り(直前に首地蔵))を南に曲がり現国道に出ます。ただ明治の地図では真っすぐに住吉川を渡っていた様にみえます。
国道2号に出てから住吉川を越え480mの
「住吉交差点」北東角にわりと新しい道標が立ちます。また、神社境内には「住吉村道路元標」が移設されています。昭和4年の地図では南の呉田から北の六甲山中の五助橋までの里道が交差する辻であったようで元標がおかれても不思議はない地点でしょう。北の有馬から六甲山頂付近をとおり、海岸近くまでを「住吉道」としてこの道沿いには多くの道標が残っているが、別項とさせていただきます。

要玄寺境内に保管された道標

これは一時期阪神の深江駅近くに有り要玄寺を案内していたものであるが、遺失を恐れこの寺を安住の地としたようです。元々の位置は不明ですが、浜街道あたりから「北へ八丁」と案内している。

本住吉社東の道標

旧西国街道から、近世の住吉道が分岐する辻に建つが古い道標ではなさそうである。

本住吉社境内の道路元標

御影中西門前から西に復活の旧道(右奥へ)

一里塚橋説明

住吉交差点から西へ230m辺りで旧道は南へ分かれていた様に見えるが今は無く、御影中町2交差点の南20mの三ツ辻から西に旧道が残っているようです。が150m進むと突当りで道が無くなります。しかたなく右(北)へ折れし50mで現国道2号東灘警察署前に戻り、西に180m、大手筋交差点を南に80mの三ツ辻へと迂回する。御影中学校西の三ツ辻から旧道が復活するのを右(西)折れし、100mで天神川の一里塚橋を渡り、250mで石屋川の堤に出ます。ここに橋が無いので南へ70m行、右(西)に折れ西国橋を渡ることになります。この間には幾つかの旧西国街道案内碑が設置されています。西国橋を渡った旧道は300m西で県道95(高羽線)と交差し、その四辻南東部に「乙女塚の石標」があります。学校や公共施設はよく道を分断しますが、ここはすでに明治の地図でも師範学校により途切れていたようである。

東灘区のほぼ西端にある石標
幾つかの資料に「乙女塚への道標」として載るが、私見では「道標」ではないとします。

東灘区の西端は「乙女塚の石標」の四辻から更に西へ310mほどありそうですが、西国街道の北はすでに灘区になっているようです。

旧西国街道を少し北に外れ備後町1丁目、成徳小学校の南東角、成徳公園東端に 綺麗な道標がある。
「左ハ本可いど」とする「本街道」にあったか、街道へ出る道を示したかは微妙なところ。

暗渠南の橋名「きだはし」

灘区に入っていきなり寄り道です。東灘区の「乙女塚の石標」の四辻から西へ200m、小さな高羽川(暗渠で見えない)の記田(きだ)橋の手前を右(北)に折れ、国道2号は東の歩道橋で越えて、直線で330mの四辻北西石垣の上に公園があります。その中に「灘区備後町1の道標」があります。四辻から近いのですが直には行けません。一度西に50m進み成徳小学校の南の入口を北に入り東に戻ってきます。きれいな自然石の道標で、字も読みやすいのですが、この石の「左ハ、本可いど(左は、本街道)」とはどこなのでしょうか。土地勘のある人には元位置を探すのに絶好な一基かとおもいます。

灘区、二番目は脱線です。

灘区に入り、旧街道沿いにはしばらく道標は見当たらないが、街道を北側に外れると摩耶山を案内する道標が沢山ある。これ等は別項で述べるとするが中に一基、西国街道筋に建っていたと思われる道標が有る。
これは太田南畝(蜀山人)が記した『革令紀行』に述べられたそのものと思われ、此処で少し述べておく。(詳細は右のボタンから)
『神戸の道標』山下道雄 さんの資料からも漏れており一時期所在不明であったのかも知れない。今は私有地と思われる一画に置かれるが眼に付き易い場所にある。案内先が「一王山十善寺」に限られているので道標扱いされなかったか、単に地蔵として載せなかったのかも知れない。
立派な道標で「元文四年未四月」(1739年5月)の銘と案内の文字、施主などが綺麗に読める石碑で、南畝さんならずとも書き留めてしまう秀逸な一基でしょう。
因みに、同紀行には文化元年八月十八日(1804年9月8日金曜日)とあり、建築後65年のことになる。

旧西国街道を続けましょう。東灘区の「乙女塚の石標」の四辻から西へ1.5㎞道なりに進み都賀(とか)川の橋の西詰を北に30m、細道を西に60m、北に10mで現2号に出て吸収されてしまいます。国道を西に70mの四辻の南東部に「厄除東向八幡宮」への大きな道標が鉄柵に守られてありますが大正15年の新しいものです。

船寺通1の道標は、珍しく南への案内。
厄除東向八幡宮は南一丁(109m)とある。

旧西国街道を続けますが、ここから先は明治の地図をもってしてもとらえにくい。鉄道が古い道を消しているためである。近世の道を探るには古絵図しかないと思うが資料がない。
取り敢えずは手持ちの中で最も古い明治18年地図(鉄道大坂神戸間は明治7年開通)を使って、現在の道をそれらしくたどることにします。

明治18年測図「神戸」地図

Googleマップに明治18年地図を重ねた

灘南通6丁目2の旧道の橋か

灘駅前の西折れ地点
公園ロータリー左から右へ

大正作の厄除東向八幡宮」道標からの続きです。
2号線に沿って西へ230mの船寺交差点を北に渡ります。道幅20mほどでしょうか、国道北側を直進し国道から分かれた西灘原田線に入ります。船寺交差点から200m地点に筋違いの四辻がありますがこの辺りまでが旧道と思われます。旧道は北西に蛇行しながら西郷川のJR神戸線南側に出ますが今は道がありません。西へ190mの岩屋中橋の手前を北に110m進み、三ツ辻に突当り、左(西)折して進みますが、直前10mほどに怪しげな橋がかかります。旧道の名残と出来るかもしれず渡ってみるのもよいでしょう。JR南の三ツ辻から西へ130m、南東から来る先ほど分かれた西灘原田線に合流し大きな交差点を西に進むが高架道には行かず、南下側の側道を進みます。側道を道なりに200mで右(北)に折れ20m、高架下への側道に移り、西へ200mJR灘駅南の交差点を西に渡り、北西線路方面に50mの三ツ辻(右側公園)を左(西)折れして100m、朝鮮中級学校の校庭フェンスに突当り左(南)折し160m南行すると脇浜公園の南端に近い四辻にでる。左手前の電柱に「岩屋北町5丁目一」とあり、東に進むと正面に阪神岩屋駅となる辻です。ここから西へ旧西国街道が復活します。
googleマップでは岩屋中橋からほぼ直線で西に進み岩屋北町5丁目1の南西の四辻までを「西国街道」と表記しています。なぜ直線的な道でなかったのか、私なりには、敏馬神社(みぬめじんじゃ)が埼(さき)の上に有って直線にすると傾斜がきつくなるという地形的なものと、神域や岩屋村集落が北に延びており、これを北に避けた為、などをあげておきます。
敏馬神社が岬の高台にある様子は、国会図書館デジタルアーカイブの「摂津名所図会」にみえる。

上記の旧道をたどると遠くなってしまうのだが、西郷川の岩屋中橋を渡り真っすぐ、Googleマップの旧西国街道を進んだ場合は「灘区岩屋中町4の道標」に寄り道してみよう。
旧西国街道よりも浜街道に近い位置にあるが、旧西国街道を案内している可能性もあるのでここにも載せておきます。

岩屋中橋の西詰から350m真っすぐ進むと西灘幼稚園の北西角の四辻になりこれを左(南)折れし、200mの下り坂途中の右手(西)の龍泉寺 南擁壁の下部に添うように置かれた小さな「岩屋中町4の道標」がたちます。国道43号のすぐ手前です。
この道標の「右、京、大坂」がどこを指すのか気になるところです。浜街道か旧西国本街道かどちらを案内してもよさそうであるが。

敏馬神社の案内板

ここまで来たら、ぜひ敏馬(みぬめ)神社にお参り下さい。南R43に出て、右(西)に80mで鳥居になります。ここで見たいのは、北に階段を登り、本殿前の西側すみにある、敏馬浦の案内板です。古地図等があります。
神社を西に下りて、北に100mで阪神岩屋駅の南側に出ます。ここを左(西)に220m下ると「岩屋北町5丁目一」の四辻、脇浜公園の旧道復活地点となります。灘区はこの公園手前までとなるでしょう。次は中央区になります。

中央区の旧道

中央区吾妻通4のコミスタ角より西を見る新しい「旧西国街道石碑」

中央区の東端、脇浜公園の旧道復活地点から西に400m北側に子安地蔵、同じく1.2㎞にコミスタ神戸北西角の新しい「旧西国街道石碑」などがありますが、古い道標はありません。1.4㎞で生田川を越え、2kmでJR三ノ宮駅南東の交差点に突当ります。ここまでは、幅も広くなり直線的な道は旧道を感じさせず退屈です。

生田川を渡ってからは、神戸市立中央図書館デジタルアーカイブの『生田川ヨリ二茶屋図』(作成年不詳)を参考にして現在の地図に置き換えようとしました。一言で言うと「生田の宮筋を南下し三宮前を西行し二軒茶屋へ」ですが、上記「JR三ノ宮駅南東の交差点」から「生田神社二の鳥居前」までは、鉄道により近世の道は無くなっており今の道筋を追っても意味はないと思います。JRと阪急の北側を通って鳥居前まで600m程度進んでください。

この間に寄り道が一件あります。県道30号の三宮北交差点(阪急高層駅ビル北)の北西角から南西へ50mの筋違い四辻を右(北)折れし北野坂を目指し30mの三ツ辻南西部のビル壁に接して「北長狭通1の郡界碑」が立ちます。西には北向き地蔵がまつられています。地蔵前を西に突当り南に廻り込むと鳥居まえになります。

北長狭通1の郡界碑を南に見る

生田神社の道標

街道筋ではなく、生田神社の中に「下山手通1の道標」があります。名所「生田の森」の表示が第一であると思うが、道案内も明確に書かれている。どこに立っていて、東面「右、播磨道」がどこをさすものか大いに気になります。 神社北側に生田の森があり、そこだけは雰囲気がガラット変わります。
『摂津名所図会』には鳥居前に来る道と、南に下がり四辻を西に折れ三宮前を通過する道が描かれている。旧往還でしょう。文中には「海岸から本社まで八丁の馬場があり、左右は梅桜がつらなりその中を海道が貫き、行人がたえまない」とある。

生田の森(杜)

三宮神社
左へ西国街道下る

生田神社の「二の鳥居前」から南行再開とします。南へ道なりに430m生田筋が南に突当り、筋違いの四辻となっているのを右(南西)に110m進むと三宮神社が右(北)にある。そのまま道なりに150mで元町商店街のアーケードに入り、1.2㎞を道なりに進むと出口では道は南を向いており方向感覚がずれる。出口の横断歩道を渡ると右(西)に大きな「兵庫県里程元標」が立っている。明治四十三年二月とあるので、大正の道路元標とは少し異なる。

里程元標を北に見る
後は元町商店街アーケード

下山手通8の道標をメルカロード方面に見る

ここで寄り道です。里程元標の立つ北側の大きなX字状の「元町通6丁目交差点」を北北西にJRのガードをくぐり220m道なりに進むと「メルカロード宇治川」と書いたアーチ状の看板がかかる四辻にでます。これを右(北東)に折れて80mの三ツ辻北部に「下山手通8の道標」があります。「左、再山道」とあり旧西国街道とのつながり具合いを感じ取れるように思います。

「兵庫県里程元標」までもどり、中央区の西端へ向います。
里程元標の東側歩道から南へ車道か歩道か良く分らない道を70m道なりに進むと旧街道は少し南西に向きを変え県道21号(国道28)にのみ込まれ90m進み、JR高架をくぐった後は線路沿いに南へ250m進み、神戸駅入口の西側を通過します。
湊八幡神社の南東辻の「湊口惣門跡」の石碑をたよりにこに続く道を見ると、神戸駅西側を大きなロータリーとみなし線路西脇を1本目の道とした時、4本目にあたる道が旧西国街道となりそうです。「里程元標」から4本目の道を地図で見るとほぼ一直線で、鉄道が出来る前は直線であったと想像します。
神戸駅入口からバスのたまり場横を通り100mで上記4本目道への信号付き交差点にでます。信号を渡り350m
の新開地本通りと交差する辺りが相生町中央区の端になるでしょう。手前40mの五つ辻の西側には大きな「西国街道」の石碑があります。

湊川神社を北に見る
右側奥に小さく道標

忘れ物がありました。湊川神社境内の「多聞通3の道標」です。
JR神戸駅の北側ガードをくぐった地点から、国道28号に進み160m南西へ、湊川神社前交差点を北西に渡り南西に40mで神社の入り口になります。神社の赤い大きな門の北西20m石畳の東側にあります。
この道標については、太田南畝の『革令紀行』や『摂津名所図会』などで検討することができて楽しいです。また本来の目的「楠公の墓」も見なければならない。

神社HPに「「嗚呼忠臣楠子之墓」の8字は光圀公自らが筆…」と有りますがどうなのでしょう、あまり見ない字体の様です。

ここから旧西国街道に戻るには、神社の南西交差点を渡り神戸駅方面に直行するのが近くなりますが、駅西部分の旧道は通らないことになります。国道を渡って後4番目の道を右折となります。

兵庫区に入って

神戸市が中国行程記から作った「兵庫津」の案内板です。解説には宝暦年間とあるが、webには有馬喜惣太の徳山毛利家文庫・絵図「行程記(写) 」の奥書より、明和元年(1764)作との説が有るようです。90度左回りにすると北が上向きになります。図中の赤字は私が読み下したもので間違いに注意してください。
数か所「此の
棒杭に…」とするものが道標で、材質は石標であろうと思います。図中には白い長方形が書かれており木製の棒、あるいは杭では無いとおもう。

湊口惣門跡碑
湊八幡神社の南東角

JR神戸駅前ロータリー分岐点から680m、緑地帯を持つ湊町線を越えた西側の湊八幡神社の角に「惣門跡」碑があります。途中JRの高架をくぐるときも道なりに進めば問題ないでしょう(逆に北向きに進むときは少し難しいので注意が要ります)。
惣門跡碑の北にある湊八幡神社には「迷い子のしるべ」なるものが有ります。その真相は知りませんが「みちしるべ」ではないとしました。古い方が明治10年11月、新は昭和46年3月とありました。
この後旧道は道なりに南へ直進するのだが、150m南でR2と高速で途切れています。マニアの方はR2まで進み東に120mの「七宮交差点」に迂回していただくととして、一般の方はここから南東へショートカットします。
「惣門跡」碑から南東へ120mの「七宮交差点」を南に渡り、南西に170mで旧道の復活です。

「まよひ子のしるへ」
八幡社入って右奥

南仲町2の道標を北に見る。旧道は奥から左(西)須磨へ

上の「中国行程記」の絵図にある札場の辻に「南仲町2の道標」が立ちます。現在の町名と行程記の町名では場所的に一致しないものもありますが、道標位置をつかむにはあまり影響しないでしょう。横に立つ解説には札場の辻とあるので行程記に記す「此の棒杭」に相当するかとしたいが、表記の内容が違うのと、辻内の位置的にも対角線線上とみえ現在の道標とは異なることが分ります。
『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊で兵庫区№11として紹介される道標が行程記に書かれた道標であったかも知れないが、見つけ出せなかった。

摂津名所図会に「築嶋寺来迎寺」の絵図はあるが、街道の曲り角は見えない。

道標を北西に見る
左後、真光寺本堂

ところで、街道筋からは離れるのですが、真光寺に私が「松原通1の道標」とした道標があり、この表記が行程記のものと一致するのでこの可能性はとしたいのだが、上記『神戸の道標』では大きさの点でハッキリと別物であるとされている。非常に丁寧なつくりで、失われた道標を想像する手掛かりにもなりそうなので是非見てください。
上記札場の辻からの道順です。
札場の辻を南に140mで広い「会下山線」に突当ります。右(西)へ折れ170m「古湊線」との交差点を左(南)に折れて古湊線に入り南へ320mの道の右手(西側)に山門があります。山門を入り西へ50mの植込み中に立っています。

左面「右、はりま」変体カナ

西口惣門跡碑
左が西国街道

札場の辻解説板の
兵庫津絵図(博物館蔵)

札場の辻を西に折れ、旧西国街道を進むと280mで国道2号の門口町交差点となり、道なりに渡り240m西に進むとJRガード手前の大きな交差点に出る。交差点の手前左(南)側に「西口惣門跡碑」が立てられており兵庫津の西端にあたるのでしょう。
JR高架をくぐり、柳原交差点を左(西)折し線路沿いに220m、兵庫駅前で少し北に線路をはずれ120mの兵庫駅北交差点を左(西)に道なりに進みます。高架の手前からは新しい道に吸収されて旧道の雰囲気は一切ありません。駅北交差点から西600mで国道28号と合流します。ここまでが兵庫区と思います。
なお、「兵神市街之図」明治13年(1880)を見ると、札場の辻から西惣門へは今の様に一直線ではなく多少の曲折を経て続いていたことが分る。本陣や問屋場などが立て込んでいたのでしょう。

長田区に入ります。

長田交差点の北西部
左奥(南西)へ西国街道

国道28号に西市民病院前歩道橋がかかる交差点からです。道なりに500m西に進むと高速長田駅上の大きな「長田交差点」に着きます。西国街道はこの交差点手前で南西に向きをかえます。この交差点の北西部に明治の大きな「長田交差点北西の道標」が立ちます。北東面に「距離五町四十間」とあり換算すると620mとなり今の600mより20m長いようです。元は20m南に建っていたとするのはどうでしょう。即ち国道28号(県道21)は北側に拡幅されたとする。

四番町8の道標は中央
右奥、西国街道に出る

ほんの少し寄り道です。長田交差点から道の北側を南西へ60mここまでは本街道でしょう。三ツ辻を右(北西)に折れて70m進むと左手(西)に村野工業高校の壁、東側に少し奥まって監物太郎頼賢(けんもつたろうよりかた)之碑があり、入口右手に「四番町8の道標」が立つ。ここへは移設されたものとおもいます。
平家物語についてはほとんど知らないので詳細や信憑性については何も言えませんが、碑がこの地点に置かれていてほぼ移動していないことは明治の地図からもうかがえる。『
五畿内志 』を編纂した儒学者・地理学者の並河誠所が碑を建てたとすれば享保の終わりころと出来るか。(五畿内志には住所無。)その後の『名所図会』には「智章墓の北、街道の側畑の中にあり。これも並河氏石表を立つ。」と記されていて、「智章墓」は移動するもこちらは不動としたい

智章之碑
左は新湊川

70m戻って西国街道に復帰します。120m南西の橋手前の北側、新湊川左(東)岸堤防上に「平智章(たいらのともあきら)之碑」が見えます。元は上記の復帰地点辺りにあったものとできるのではないでしょうか。

蓮池小を西に見る

直線的に800m右(北)側に蓮池小学校校門があります。許可を得て中に入り壁に沿って戻ること15mに道標が四基立ちます。歩道からも見えない事はない。

四基を南に見る

蓮池小の道標4
左 妙法寺毘沙門堂へ
十八丁
何処か遠くからの移設

蓮池小の道標3
従是勸音山 北二丁
近接移設、
南東30m

蓮池小の道標2
右 高取山道
近接移設、南20m

蓮池小の道標1
従是大山寺道
近接移設、
南20m

大谷町3の道標二基

少し寄り道です。校門を出て南西へ15mの県道21号から分かれる北西への細い道(学校西沿い)を150m進むと三ツ辻正面に二基の道標が立つ。
左側大きい大正の道標は「右高取神社本道 是より十八丁」、右側の小さいものは「右 大円寺」と近くの寺を案内している。小さい方は昭和の作か。

大きい方の案内する、高取山への丁石を調べてみると、ここから始まる参道とは別のルート(長田神社西から)が主(表)参道とされている様で、その関係でこちらからは「本道」としたものでしょうか。ここから高取神社まで「十八丁」では足りないのですが。

大も小も右を指す

蓮池小学校の南西角まで戻り、西国街道を続けましょう。西国街道は県道21号線高架道路の進む南西方向です。西の道を進むと板宿にでてしまいます。高架道路の南側歩道に移った所から始めます。410mで「西代通3丁目交差点」となり、そこから100m南西の次の信号の交差点が長田区の端になるとおもいます。

須磨区の西国街道

妙興寺進入道
奥、板宿へ
左、
妙興寺へ

長田区から須磨区に入り県道21号を200mで「大田町交差点」になります。交差する道を右(北東)に行くのが板宿本通りと呼ばれるらしく、山電板宿駅方面までわずかの様ですが、ここは西国街道を直進します。
大田町交差点から730mで妙法寺川、1.1㎞で大井川、1.5㎞で小さな道が交差する四辻になります。大きな目標はありません。道の北側の電柱には「北町三丁目1」の住所表示が有り右手に接骨医がある。辻北西部には小さな石標「月見山妙興寺参道」が立つが、この道幅が3mほどしかなく、古い道を予想させます。

須磨区北町三丁目1-5を右(北西)に入り街道から一時外れることになります。
北西に入り15m
大きな寺標石が左右に立ち、80mほどで行止りになるように見えます。この左(西)が妙興寺で山門右手(北)に「北町3の道標」があります。北面に「是与利めう古うし(妙興寺)道」とあり移設されたものであることが分ります。目立つことが第一なら本街道に立ち、現東面「両末派妙興寺」を南面させていたと思う。そうすると現南面にある「古禮與利月見濃松道 」も西面になり北への道を指すものと受け取れるので、寺参詣の後に月見山へも行けますとアピールしていた石になりそうです。
行止りに見えた北への道も、山電を踏切で越え須磨離宮に繋がっていました。

北町3の道標
右奥、山電踏切へ

月見山本町2の道標
右奥、板宿へ
左、多井畑へ

浜離宮へ行きたいのを我慢して、西国街道に戻ります。
160m南西に進むと「月見山本町2丁目」の大きな交差点に出ます。この北西部歩道上に大きな「月見山本町2の道標」が立ちます。東面に「
右、多井畑村迄距離三十三丁 」と厄除八幡を案内していて、明治17年の銘を持っています。現在の道は高倉台あたりで付け変わり当時よりは少し遠回りになっている様に見えます。

天神町3の道標
奥、須磨寺へ
60m先旧道は右へ

西国街道を南西へ320m進み「行幸( みゆき)町3丁目交差点」を南に渡って下さい。旧道の跡なのか、公園の遊歩道なのか良く分りませんがレンガ風の敷石道があります。これを80m南西へ進んだ右手(北側)に「天神町3の道標」が立ちます。
「綱敷天満宮寶前」と案内?しているので移設かも知れない。また「發起人、松浦武四郎」から明治18年頃の作と思われるらしい。綱敷(つなしき)天満宮へはこの道標南の細い道を300m程進むと右手(西側)に東口がある。この細い道は明治の地図にのるが、摂津名所図会には描かれていない。

奥、300m綱敷天満へ
手前は
天神町3の道標

綱敷天満宮を北に見る
東口は階段上右側

綱敷天満宮へ寄り道します。道順は上の通りですが、南側が正面であろうと思います。上記の経路で正面に回った場合は70mの追加となり、本殿に参詣となると坂を下った後、逆に50mほど階段を登ることになり大変である。
本殿南西7m植込み中に「天神町2の道標」が立ちます。銘に「寛政七卯歳」とあり上記よりこちらの方が古いと思われ、「つなし起天神者ま(つなしき天神はま)」とある事から浜側の道にあったものかと考えられます。

天神町2の道標
後は本殿

菅の井広場南西角

千守交差点を南に見る
左に渡り南下して右に渡り返す

次の道標へは浜側の道が近いのですが、旧西国街道へ戻るとしましょう。東口から出て300m北上です。
天神町3の道標」から南西に60mで車道が旧道を分断しています。菅の井広場南西角になるか、マニアの方は北に横断し、西に進むと道なりに須磨寺駅前から200mで再び今の道に合流します。合流してから道なりに200mで大きな交差点に出てその南の国道2号の北側歩道に行きたいのですが直行できず、横断歩道を迂回しなければならない。(現光寺へはここを右(北)折。)山電の高架南からコの字型に千守交差点の北を渡ること100mで村上帝社の小さな鳥居にでます。

現光寺の須磨の関跡碑
川の東西が関趾で
西側がこもり江か

須磨浦通4の道標
鳥居奥、村上帝社
画面右50m千守交差点

村上帝社の鳥居左(西)下に「須磨浦通4の道標」が立ちます。
東面「右、川西、隠江 」、西面「左、巳之日祓社、上野岡道」のどれも馴染みのない場所の様に思われるが「右、須磨隠江(すまのこもりえ)跡(現光寺西)」、「左、関守稲荷神社、須磨寺(上野山福祥寺)」と読み替えできるようで、この地にあってもおかしくはない。ただ、名所図会の絵を見る限り村上天皇陵は小高い位置に見え現在の国際学校辺りにあったとすれば取り付け道はすぐ西の三ツ辻あたりがふさわしい気がします。「こもり江」も摂津名所図会に依った。

関守町1の道標
正面北口、右手に本社

ここで寄り道です。
この道標の示す
「左、巳之日祓社(みのひはらい) 、上野岡道」へ進みます。道標すぐ西の三ツ辻から北へ、山電をくぐり160mの左(西)側に関守稲荷神社へ登る階段があります。上がって右手(北)に本社、やや左の境内壁際に大きな「関守町1の道標」が立ちます。
横の『須磨の関の由来』に「市バス須磨駅前の停留所から東方百m暗渠になってしまった千森川と旧西国街道の交叉する地点に明治初年土中から掘り出された」とあるが埋められる前の元の位置を想像できるでしょうか。今の北東面に「長田宮」、北西面に「川東左右関屋跡」だけが手がかりです。

160m南に戻り西国街道に戻りましょう
街道は
更に西に続きますが、この後に道標はありません。目ぼしい目標だけあげておきます。170m山電須磨駅、940m一の谷戦碑、1.5㎞須磨浦公園駅前、1.6㎞で敦盛塚、2.2㎞で境川となり国境です。ここより西は播磨国になります。国境まで須磨浦公園を楽しみましょう。

貞照寺への道標とすべき「鯖大師」碑
左下に「上半丁」とある。未調査

村上帝社から960m西、須磨浦公園内の「戦の濱」碑

播磨国境の境川の川口を西に見る

敦盛塚、大きな五輪塔である。解説に「総高397㎝㎝、全国2位、室町末~桃山時代」とあった。

敦盛塚入口西前の「西国街道碑」の西面「摂津播磨国境/堺川」は「境川」ではないかと思うが。

その境川から東を望む「須磨区」とあり現在は区境になる。右側海に下りる道は鍵が掛かっていた。

青線は文中の経路と異なることがあります。

西国街道終。(2021/8/31)