西宮市といえば、大阪と神戸の間、尼崎と芦屋の間の感じがするんですが、よくよく地図を見ると六甲山を越えた北側に「山口町」が、福知山線に「西宮名塩駅」があるなど北に広い市域を持っている。西宮の山は「苦楽園、甲山」との思いをかえなければいけないようです。
大きな道をひろい出すと市域南部から、西国街道、尼崎道(現国道2号)、伊丹道、西宮道(宝塚へ)、有馬道、神呪寺参詣道。北部では生瀬からの有馬道、三田道(丹波道)、山口からの播磨道などが思いつきます。
さて、西宮では西国街道が最も名高いと思うのでこれから始めたいと思います。
西国街道はR171の呼び名でもあり、ほぼこの道に沿って旧道も走り、沿道の各市もこれをよくPRしているようである。近世の街道を説明する場合には「山崎道」「山崎通り」と言われることも多い様である。私がいつも言う「近世の道の名に『xx街道』は使わない」に従えば「西国街道」と言ってはならないのだが、この道を「西国道」では何かおかしく感じるので、しかたなく使います。ただしやはり近世道標に使われる場合は「京道」「西宮道」と使われています。
東から進みます。武庫川が市境となっているので、これからです。対岸は尼崎市か伊丹市か少し不安ですが、ここを徒歩(かち)渡しで越えたようです。「髭の渡し」の顕彰碑が建っていたり、石灯籠等が残っていたり旧道の趣が残りますが、西宮側は何もありません。西宮の郷土史を調べられている方の話では「文教都市の名に恥じる」予算の使い方であるらしい。そこで登場するのが「甲東文化財保存会」であります。内容はよくしりませんが、確かに道標などの横には立札が建てられていて、ありがたいです。
さて、渡しの西側上陸点は明確では有りませんが、堤防から降りて、報徳学園高校の北側の道がそれであろうことは明治の地図からも分ります。
学園の北西角の三ツ辻(西国街道標識あり)を南に折れて100m左(東)手に建てられた保存会の「西国街道説明板(1)」、ここからがふさわしいとしたのでしょうが、ぜひとも、武庫川右(西))岸、せめて土手のあたりから始めてほしいと思います。
明治の地図ではこのあと、上大市の東と南に辻が見えるが案内の必要もなかったようで道なりに下大市まで続いています。ただし、現在では案内なしに旧道をたどることはむつかしいでしょう。所々書いておきます。「案内(1)」から50m南西四辻は道なりに直進です。160mで五つ辻になり広い南北の道を50m南へ、三ツ辻かを南西細い道に分かれ(振り返って見ると旧道を直進)て新幹線のガードを目指します。分岐から240mガードをくぐった南側で南西に新幹線を離れ、細い川を渡り西にいきます。200mほどで阪神水道企業団のフェンスにはばまれるのでこれを迂回します。正面には「旧西国街道」の案内が出ています。100m南フェンスの角を西(案内板あり)に折れ、70mで三ツ辻(案内あり)を南の細い道へ曲がり右手水路側に保存会の案内も建つ。又70mで左から一方通行のやや太い道に出でそこから南西200mで中津浜線の大きな六つ辻の交差点になります。旧道からすると直線となる南西への道に入れば、後は迷うことはないと思います。南西への道は右手(西側)に自転車屋さんと水路があります。
上記、中津浜線と旧西国街道の交差点から340mの五つ辻です。左の写真では中央赤い自販機の左から出てきて、右背後(南西)に続きます。右はR171門戸陸橋東交差点から来て、左の門戸厄神への道との交点です。当然通行量は多かったことでしょう。左端の大小二基の道標は大きい方が尼崎から門戸厄神へ、小さい方が大坂から甲山神呪寺を第一目的地として案内するものと思われます。ただし両方とも移設されたらしく元位置についてはそれぞれを見てください。
南へ30mの三ツ辻に建つ道標から二基方面を見る。
尼崎、大坂方面と門戸厄神を案内しているが、これも今のままでは案内がシックリせず移設を考えねばならないでしょう。
尼崎、大坂への道は項を改めて書きます。
二基の道標から南西に下りましょう。阪急今津線を渡り、840m地点に三ツ辻が有ります。北に向かって分かれているのが「やくじんさん筋」で、名前の通り神戸女学院の前をぬけ、厄神(東光寺)の少し東をとおり、甲東園、仁川から宝塚へ続く主要なみちであったと思います。道標があって当然と言えるでしょう。ただし、風格のある石ですが、なんとなくウサンクサイ道標なのです。詳細を是非ご覧くださいとして、先に進みましょう。
門戸岡田町4からもほぼ一直線に延びる街道は600mでY字路になり、正面の電柱には「広田町10」とあります。これを左(南)へ進み道なりに進むと180mで北側から東川に突当ります。「みたらし通り」の案内が有ります。時代によりますが、文化3年(1806)の『山崎通分間延絵図』を見ると、西国街道はこれを左(東)に20m進み「広田橋」を越え真南に進み、中央公園の中に呑み込まれてしまいますが、南の中村(現中須佐町)を通り東川に出会ってからは川の西沿いに進み正念寺の一本西を通り、現旧国道に合流していたと思われます。明治の地図でも道筋は異なりますが、現阪神電車を越えるまでは余り立て込んだ様子はなく、もう少し道標があってもよさそうであるが、見当たりません。「えべっさん」の南東角まで、西国街道に係る案内はなく、広田神社を案内する明治期のものが数点ある程度です。主要道が通っていたのに他地域に比べ極めて少なく感じます。
西国街道、神社辺りから門戸岡田町方面への経路は時代により色々あったようだが、神社から西への道は左の写真の右手(北)の表大門から始まり南へ40m、「社家町常夜灯の道標」を西に折れ、現阪神香枦園駅の南に続いていたとされるようです。この常夜灯型道標の案内には「右、兵庫、播磨」「左、京都、大坂」とあり、若干の移設や向きの変更はあるものの大街道の案内にふさわしい地名が書かれているでしょう。
上にも述べたように、東方面の京都と大坂の分岐点が分るような道標が残っておらず残念である。現用海筋の一本西の橋を越えた北側辺りに有ったであろうと考えています。「山崎通分間延絵図」にはそれらしい絵がのるが字が読み取れない。
青線は文中の経路と異なることがあります。