59
その日の晩、リュトヴィッツはしばらく大屋敷の窓辺に座って、大きな身体をしたヘラジカがとまどったようにリテイヌイ大通りを右へ左へ走るのを眺めていた。マフィアへの対応に追われた時間の中で、ささやかな気晴らしになった。
「ライフルがあったなぁ」スヴェトラーノフが言った。「久しぶりに本物の肉にありつけるんだが」猟銃を肩に当て、ヘラジカに狙いをつけるふりをした。
グルジア人たちの送検手続きを終え、身柄を再拘置した後、ギレリスは刑事部長のコンドラシンとOMON部隊長のシェバーリン中尉を相手に、1時間かけて翌日の作戦について話し合っていた。
会議を終えたギレリスが刑事部屋に入ると、控え室に待たせてあるポターニンと秘書のことを2人に尋ねた。
「帰してしまうわけにもいかんが、ゴロツキどもと一緒に下に閉じ込めることも出来ん。昔はそれで良かったんだが。どうすればいいと思う?」
「ホテルを取ってやるというのは、どうです?」リュトヴィッツは言った。「最上級の部屋で、電話は無し。外に警官を1人立たせておけば」
「そいつは妙案だ。スヴェトラーノフ大尉、ホテルの手配を至急たのむ。サーシャ、君にはただちにやってもらわねばならないことがある」
「なんでしょう?」
「大型トラックの運転だ」
翌朝、大屋敷の全員が早めに出勤して、会議室で夕刻の作戦活動についてギレリスの説明を聞いた。国家車両監査局(GAI)からも、ノヴィコフ大尉も出席している。クリコフが照明、ペトロフがブラインド、ラザレフが映写機を担当していた。
「みんな、よく聞いてくれ」ギレリスは言った。「本日午後の《肉弾》作戦は、私の指揮により1600時に開始される」
手を上に伸ばし、サンクトペテルブルクとその近郊の地図を引っ張り下ろす。
「この作戦には、2つの段階がある。
第1段階はこうだ。ノヴィコフ大尉のGAIチームがガッチナからM20号線をプスコフ方面に15キロほど南下した地点に待機する。同時に、OMONと私とサーシャがそれより5キロほど北に陣取る。空港のすぐ手前に、ソヴィンテロートのガソリンスタンドがあって、その隣が木立ちに隠れた待避所にみたいになっている。
輸送車隊がGAIの前を通過したら、パトカーが1台、その後を追いかけて、最後尾の車両を我々の位置になるべく近いところで停止させる。我々は木立ちの陰に停車しているから、向こうからは見えないはずだ。GAIの諸君がトラックの運転手と助手を下車させ、ブレーキランプの故障という名目で、後部まで彼らを連れてくる。ところが、そこにはOMONと私とサーシャが待ち構えている。運転手と助手には、旅程を全うできなくなったことを深くお詫びして・・・」
笑いが起こり、ギレリスはしばらく話を中断した。
「それで、私とサーシャがトラックの運転台に乗る」
寝不足の頭痛に悩むリュトヴィッツの隣で、スヴェトラーノフが小突いてくる。ギレリスの説明は続いていた。
「我々は残りのトラックの後を追いかけ、携帯無線機を使って、OMONの本隊を肉の受け渡し予定地まで誘導する。相手側がどのくらいの人員を配置しているかは分からんが、全員が武器を所持していて、いつでもそれを使用する態勢にあることは予期しておいた方がいいだろう。ただし、我が方の情報提供者によると、次の3人が相手側の顔ぶれに含まれていると思われる」クリコフへうなづいた。「明かりを消してくれ」
ラザレフが映写機のスイッチを入れた。最初のスライドは、民警ファイルの顔写真だ。
「マカル・ナズドラチェンコ。別名、《小人》。ペテルのウクライナ・マフィアの組頭だ。1958年、キエフ生まれ。殺人未遂で5年間服役していた。よし、次だ」
ラザレフが2枚目のスライドを入れる。
「アラム・ウルマーノフ。1956年、ドニエプルペトロフスク生まれ。陸軍でレスリングのヘビー級チャンピオンだったことから、《レスラー》と呼ばれている。オリンピックに出場する予定だったが、麻薬の常習が発覚して、2年の懲役をくらった。だが、ヤク中といっても、身体はでかい。気軽に格闘は挑まん方がいいだろう。
この2人がドミトリ・ヴィシネフスキーとオレグ・サカシュヴィリとスルタン・ドゥダロフを殺害したことは間違いない。だから、取り逃がすことのないように。よし、次」
次に映し出されたのは、犯罪記録部からの写真だった。
「レオニード・スヴォリノフ。1955年、ウマーニ生まれ。闇屋として知られている。窃盗で、前科一犯。汚染された肉をペテルのコーペラチヴに売っていた男だ。そして、最後にもうひとり」
4枚目のスライドは、これまでの顔写真とは違っていた。黒い革のコートを着た年配の男が、キーロフ・オペラバレエ団の本拠地であるマリインスキー劇場の前に停まったベンツから降りるところを撮った望遠写真だ。
「最後だが、けっして優先順位が低いわけじゃない。ヴァレンティン・ルイバルコ。1946年、ロストフ生まれ。バレエの愛好家ということから、《黒鳥》と呼ばれている。70年代に為替法違反で捕まっているが、以後は無傷だ。だいぶ以前から、我々はこの男がペテルのウクライナ・マフィアの大ボスじゃないかとにらんでいる。今回の件に奴がどの程度まで関わっているかは不明だが、全く知らないということはないだろう。直々に姿を現した場合に備えて、この顔をよく見ておいてくれ」ギレリスはペトロフに向いた。「ブラインドを上げてくれるか?」
ラザレフが映写機のスイッチを切り、ペトロフがブラインドを上げる。
「何か、質問は?」
OMONの1人が手を上げた。
「なぜ、運転手と入れ替わるのですか?ただ追跡していくだけの方が、簡単ではないでしょうか?」
「輸送車隊がいったん市内に入ると、どこにマフィアの眼が光っているか分からん。追手の姿を見られたら、そこで一巻の終わりだからな。ヘリコプターを使いたいところだが、空軍は作戦全体の指揮を自分たちに任せない限り、1機も貸せんと言ってきた。空軍の手柄にしたいということだろう」
怒りと驚きに、室内がしばしざわめいた。また1人の手が上がる。
「運転を入れ替わったことが、他のトラックから見れば分かるんじゃないですか?」
「いや、風防ガラスには鎧板が張られている」
さらに、もう1人。
「作戦が終了した後、運ばれてきた肉はどうなるんですか?」
「よくぞ聞いてくれた。どんなことがあっても、肉には絶対に手を触れないように」
大きな不満の呻きが湧き起こった。ギレリスが声を張り上げる。
「放射能に汚染されているんだ。この際はっきりさせておくが、トラックに積まれている肉は人間の食用に適さない」
「誰もそんなこと、気にしないさ」茶化しぎみの声がした。
「見た目には安全に映るかもしれん。だが、古い格言にあるように『眼に見えるもの、信ずるべからず』だ。この問題については、コンドラシン刑事部長と相談した結果、アングロ・ソユートザム運輸に核廃棄物と同じ方法で処理してもらうことになった。全てを専門家に任せるんだ。いいな?」
60
「肉弾」作戦用に準備された3台の車のうち1台は、全く走行不能であることが分かったが、代わりを見つけてくる時間はなかった。
ギレリスとリュトヴィッツをはじめとする刑事たちはガッチナより少し南のM20号線の路傍に停まったインツーリストのバスで出番を待つ羽目になった。民警が対マフィアの作戦活動に観光バスを使うとは誰も思わないだろうと、ギレリスは呑気なことを言った。
「おまけにエアコンは効いてるし、ラジオも楽しめる。どれだけ待たされるか、わかったもんじゃないからな」
OMON部隊長のシェバーリン中尉が、「輸送車体が通過した」というノヴィコフ大尉からの送信を引き出そうとするように、携帯無線機をにらんでいた。リュトヴィッツはバスの運転手と同じく、居眠り中。スヴェトラーノフはタバコを吹かしながら、ラジオの音楽に合わせて大きな足で拍子を取っている。3人のOMON部隊員は、バスの窓からじっと外を見ていた。科学技術部のポポフは、作戦の全容を収めることになるビデオカメラの電池を確かめていた。銃の掃除をしていたクリコフが顔を上げ、咳払いをした。
「ある男が食肉市場に入っていって、売り場の店員にこう言いました。『ソーセージを薄く切ってもらえないかね?』すると、店員は・・・」
「『ソーセージを持ってきてくれたら、いくらでも薄く切ってやるよ』」リュトヴィッツが薄目を開けて応えた。
「その笑い話、カビが生えてるぜ」スヴェトラーノフが言った。
「じゃあ、少尉のを聞かせて下さいよ」
「笑い話は知らないんだ。この前、記憶をなくしちまってさ。よし、その記憶をなくした時の話をしよう。たまたま食肉市場の前に立っててな。買い物袋を見ると、中は空っぽなんだが、これから市場に入ろうとしてたのか、市場から出てきたとこだったのか、さっぱり思い出せないんだ」
これには、ギレリスも口元を緩めた。
シェバーリンの手の中で、携帯無線機がはぜるような音を立てる。ペトロヴァからの送信で、保健局が市場で汚染された牛肉を発見したという報せだった。一瞬、バスの中で全員が黙り込んだが、その報せをじっくり反芻する間もなく、今度はノヴィコフから「輸送車隊が現在、眼の前を通過中」という連絡が入った。
ギレリスがマカロフを抜く。
「全員、用意はいいか?いよいよだ。配置につけ」
バスの運転手が体を起こし、自動ドアを開けて、ラジオを切った。スヴェトラーノフと数人を残して、ギレリスとリュトヴィッツとシェバーリンとその部下の1人がステップを降り、姿勢を低くして道路との間を隔てる木立まで走った。木立と道路の間にはトラックが何台も停まれそうな空き地があった。
ギレリスはシェバーリンから携帯無線機を受け取り、ラザレフを呼び出した。車2台に分乗したラザレフとOMON部隊員たちは、20号線と並行して走るM10号線上に待機している。
「標的はこちらに向かっている。準備、いいか?」
GAIのパトカーのサイレンが聞こえてきた。それから、減速を始めたフォーデンの大型トラックのエンジン音。最初の3台のトラックはやがて油圧ブレーキのけたたましい軋り音と共に、待避所のだいぶ先で次々と停車する。その3台の後方で、青いライトを点滅させたGAIのパトカーが、4台目のトラックの前に出て停車を命じた。
完全に静止するよりも早く、ギレリスとリュトヴィッツはトラックの後部に向かって駆け出した。サイドミラーからマフィアの運転手と助手がパトカーに引き寄せられているのを確認すると、リュトヴィッツはOMONの部隊員に合図を送った。OMONが手早く運転手と助手を車外に引きずり下ろすと、リュトヴィッツが運転席に、ギレリスが助手席に乗り込んだ。
パトカーが遠ざかると同時に、4台のトラックのエンジンが再起動する。リュトヴィッツはゆっくりとアクセルを踏み込み、ギレリスが無線機に口を当てる。
「搭乗完了。このチャンネルをしばらくオープンにしておく。こっちの様子が生で伝わるようにな」
「捕虜の聴取を始めます」ラザレフの無線が応答した。
「そいつらが受け渡しの場所を知ってるかどうか、聞き出すんだ」ギレリスが応じた。
ラザレフから返事があったのは、輸送車隊がモスクワ大通りの郊外地区に差しかかった頃だった。
「キーロフスキー地区にある倉庫です。スターセック大通りをはずれた所のようですが、ここにいる2人はいつも他のトラックの後についていくだけらしくて、精確な位置は分かりません。とにかく、昔は国家魚介事業局が使ってた冷凍倉庫があって、マフィアがそこの役人に袖の下をつかませたようです。警備もかなり厳重で、武装した連中が30人か40人で固めてるということです」
「曲がりますよ」リュトヴィッツが言った。
ギレリスが送信ボタンを押した。
「クラスノプチロフスカヤを北西に向かっている。アウトーヴォ方面だ」
ラザレフが運転手に、タスケンツカヤ通りを西へ行くよう指示するのが聞こえる。
「M11から、スターセック大通りを北上」ギレリスが続ける。
その時、前方に1頭の馬が飛び出してきて、リュトヴィッツは大きくハンドルを切った。
「生きた肉だ」元の車線に戻ってから、ギレリスは言った。「この道を走ってる運転手は食い物には絶対に困らないな」
「トレフォーヴァ通りに入れ」ラザレフの指示。
輸送車隊は市街の外縁部に差しかかり、まるでその事実を車体に刻みつけるかのように、路面から盛り上がった市電の軌道に、横腹をどんとぶつけた。
「そちらが見えますよ」ラザレフが言った。「トレフォーヴァ通りに入りました」
「左に方向指示が出てます」リュトヴィッツが言った。
「アンドレイ、こちらは左折して・・・」
「オボロナーヤ通りに入る」リュトヴィッツが口をはさんだ。
「まっすぐスターセックを突っ切れ」ラザレフが運転手に言い、それからギレリスに報告する。「トレフォーヴァを並行して走ります」
「近づいたみたいですよ」リュトヴィッツが言った。「減速してます」
「着いたぞ」ギレリスが言った。「グビーナ通りとセヴァストポル通りの間だ」
ラザレフはもう1台のOMON部隊員の車にセヴァストポル通りに入るよう指示し、自分の車の運転手にはトレフォーヴァ通りを突き当たりまで行くよう命じた。
「こちらは右折して、バリカードナヤに入る。両方から標的に迫るんだ」
「本番だぞ、諸君」ギレリスが言った。「一網打尽にしてやろう」
61
リュトヴィッツは1台目のトラックが倉庫に入っていくのを見た時、最初に頭に浮かんだのは、兵力で民警が劣るのではないかという考えだった。トラックを誘導する者、コンテナから積み荷を運び出す者、銃を手にしているボディガードなど至る所にマフィアの構成員の姿があるのだ。
2台目、3台目とトラックがバックで鋼鉄のシャッターの下をくぐり、誘導係の男が大きな口笛を吹いて、リュトヴィッツのトラックを差し招いた。
リュトヴィッツはクラッチをつなぎ、男の指示に従って、バックでトラックを動かした。後方からさっきと違う口笛が聞こえて、サイドミラーをのぞくと、別の男が手招きをしている。
「時間を稼げ」ギレリスが言った。「中に入って、シャッターを下ろされると、後の部隊が突入できなくなってしまう」
リュトヴィッツはギヤを入れ、アクセルから足を外して、それからクラッチを上げた。大型トラックは痙攣するように揺れて、エンストを起こした。キーをイグニッションに入れ、アクセルには触れずにエンジンを再び動かそうとしているふりをする。ロシア製のトラックなら、確実にオーバーフローを起こせただろう。しかし、フォーデンは一発でエンジンがかかった。
「考えが甘かった」リュトヴィッツが言った。「大したトラックですね」
「他の連中は何をしとる?」
リュトヴィッツはバックで倉庫の方へトラックを動かし始めた。車体が半分まで入ったところで、またエンストを起こさせた。今度はキーを抜いて、ポケットに放り込む。
後方で叫び声がして、誰かが焦れたように、コンテナの横腹を拳で叩いた。
「パーティーの招待状を用意しといた方がいいぞ」
ギレリスが言うと、リュトヴィッツはマカロフを取り出し、遊底を動かした。
「ドアマンが来ましたよ」サイドミラーを見ながら言う。
「何やってんだよ?」運転席の外で声がした。「さっさと動かせ」
ギレリスとリュトヴィッツは息をひそめた。
男が怪訝な顔をし、そのうち何かがおかしいと感じて一歩下がるのが、風防の鎧板を通して見えた。
「電気系統がイカレたんだ」リュトヴィッツは怒鳴った。「ドアも開かない」
男はすでに銃を手にしていた。もう1人の男に何か叫び、運転席のドアへ銃口を向ける。
「どうします?」
「こいつが噂通りに頑丈であることを祈ろう」
ひとしきり銃声が聞こえたが、運転台に当たった様子はない。やがて、一連の銃声と叫び声がした。ひとつの声が、拡声器を通して次第にはっきりと聞こえてくる。
「警察だ。ここは包囲されている。銃を捨てろ。外へ出て来て、両手を頭の後ろへやって横たわるんだ。くり返す。ここは包囲されている・・・」
「もういいだろう」ギレリスがドアのハンドルに手を伸ばした。
リュトヴィッツはほんの少しドアを開け、外を覗いてみる。武器を捨てた男たちが次々と両手を上げて投降し、倉庫のあちこちからOMON部隊の隊員が姿を現していた。
ギレリスは運転台から飛び降り、1台のトラックの方へ歩いた。開いた後部扉から、コンテナ内に積まれた何百もの肉のカートンが見える。中には、青地に黄色い星のECの紋章が貼ったままのものもある。
そのトラックの横で、OMON部隊員がウクライナ人全員を壁に向かって立たせ、ポポフのカメラの前で、隠し持った武器が無いか身体検査をしていた。両手を上げた男たちに並んで《小人》のナズドラチェンコと《レスラー》のウルマーノフがいて、その中の1人は上等のスーツを着て、金の指輪をいくつもはめていた。最後のスライドで見た顔だ。
ヴァレンティン・ルイバルコ。その手には、札束の入った財布が握られている。
「ほう、ほう」ギレリスは言った。「キャビアばかりじゃない。でかいチョウザメが網に掛かったぞ」
ルイバルコの後方では、OMON部隊員が命令に従わないマフィアの構成員の脚を蹴飛ばして、地面に横たえていた。ルイバルコはまだ立ったままだ。ニヤッと笑って、手下たちから離れて、ギレリスの方へ一歩近づいてくる。
「何か行き違いがあったようですな。我々はあなた方をマフィアだと思ったのです」
「それは面白い」ギレリスは笑った。「お前たちが我々をマフィアだと思った?」
ギレリスのすぐ後ろにラザレフが現れ、まだ敵が残っていないか、倉庫の天井に近い通路に眼をやった。
ルイバルコがさらに一歩進み出た。
「ところが、ありがたいことに民警の方々でした。納得していただけるよう、ご説明いたしましょう。私どもはただのビジネスマンで、商品を守ろうとしていただけなのです」親しみやすい人間であることを示そうと、肩をすくめてみせる。
「どうか誤解を解いていただけませんか?」慎重に両手を下ろし、財布を開いて、ひとつかみのドル紙幣を取り出した。
「ささやかなお詫びのしるしです。おかけした時間と手間への・・・それに、守っていただいたお礼として・・・5000ドル近くございます。分けていただいても、皆さんのお給料の二年分ほどにはなりますでしょう」
リュトヴィッツは驚愕を募らせながら、ルイバルコを見ていた。次の瞬間、ギレリスはルイバルコの手からドル紙幣をひったくると、ウクライナ人のにやけた口許に目がけて投げつけた。
「よくもこんなマネが出来たもんだ。面と向かって、私に賄賂を差し出すとは。しかも、部下たちの眼の前で」
ギレリスの腰の辺りから繰り出された拳が、ルイバルコの顎に炸裂した。床に倒れたルイバルコに、ギレリスは飛びかかり、襟首を掴んでまた殴りつけた。
ラザレフがギレリスを制止しようとした瞬間、大きな銃声が響き渡った。ラザレフは助けようとしたギレリスの腕に、崩れ落ちた。リュトヴィッツが銃声に眼を向けると、1人の男が裏口から逃げていくところだった。男の横顔に見覚えがあった。ボリスだ。
リュトヴィッツは冷凍倉庫から飛び出し、丸石を敷いた路地に駆けた。ボリスがエカテリノスラフ運河に向かって走っていた。桟橋の先に、小さなボートが係留している。街灯に、ボリスの後ろ姿が映える。
リュトヴィッツは足を止め、両手でマカロフを構えた。
「そこを動くな!さもないと、射殺する!」
ボリスは運河の土手を走り続けた。桟橋はもう眼の前だ。リュトヴィッツはほんの一瞬ためらったが、ゆっくりとマカロフの引き金をひいた。銃声が轟き、ボリスの足元で土手がはじけ飛んだ。
ボリスが桟橋に脚をかけ、振り向きざまに引き金をひいた。同時に、リュトヴィッツは発砲した。左肩に強い衝撃を受け、リュトヴィッツはよろめいた。気が付いた時、水面を叩く大きな音がした。後ろから、何人ものOMON部隊員が駆け寄ってくる音がする。
リュトヴィッツはよろよろと運河のへりまで行って、汚れた水面を眺め下ろした。
「サヨナラ(ダ・スビダーニャ)、ボリス」
62
リュトヴィッツは左肩に手を回した。ボリスが放った銃弾は間一髪で通り過ぎ、背広を引き裂いていた。冷凍倉庫まで戻る途中で、スヴェトラーノフに会った。
「ラザレフは?」
スヴェトラーノフが首を横に振る。
リュトヴィッツが倉庫の中に戻ると、OMON部隊員がマフィア全員を壁に向かって立たせ、隠し持った武器が無いか身体検査をしていた。ポポフが検査を終えたマフィアの顔写真を撮っていく。
ラザレフは口から血を流していた。クリコフがその傍に膝を付き、ラザレフが自分の血で窒息しないように、体をうつぶせにしてやろうとする。ラザレフは身体を縮め、クリコフの腕を掴んだ。
「言ったろう・・・この防弾チョッキは・・・あまり質が良くないって」
まるで感電したようにびくんと身をひきつらせると、ラザレフは息絶えた。
ギレリスは赤い旗のように広がっていく死人の血が革靴を浸すのも構わず、ラザレフの傍に立った。リュトヴィッツは何か慰めになる台詞が浮かんでくることを祈りながら近づいて行ったが、あまりの虚しさに言葉を失った。ギレリスは感情のこもった口調で、プーシキンの叙事詩「エフゲニー・オネーギン」の中の詩句を暗唱してみせた。
「『嵐は止み、空は白み、大枝の花はしおれて、祭壇の火もついに消えぬ』」
「さあ、大佐。うちへ帰りましょう。幕は下りたんです」
スヴェトラーノフが言うと、ギレリスは恨みがましい眼つきで睨んだ。
「少なくとも、次の幕が上がるまでは」
リュトヴィッツが付け加えると、ギレリスは「その通りだ」と言ってうなづいた。
ハッと眼が覚めて、リュトヴィッツはベッドから半身を起こした。見慣れたピンク色の天井。隣では、カテリーナが寝息を立てて片腕をリュトヴィッツの胸にかけている。冷凍倉庫から犯人たちの移送を済ませた後、リュトヴィッツは大屋敷を出て、近くの公衆電話からカテリーナに電話をかけた。カテリーナをホテル・プーシキンの505号室に誘い、2人で裸になってベッドに入ったものの、ヴィシネフスキー事件の顛末をしているうちに眠りに落ちてしまったようだった。
もう一度ベッドにもぐり、リュトヴィッツはカテリーナの柔らかで濃密な髪に鼻をうずめて深く息を吸い込んだ。カテリーナが眼を覚ましたのか、身じろぎをする。
「どんな匂いがするの?」
「赤い匂いだ」
「何それ」
「俺はじじいになったよ」
「私も歳を取ったわ」
カテリーナの腕とシーツの匂いは心地よく、リュトヴィッツは久しぶりに安全だと感じた。眠く満ち足りた気分。もう一生、黙っていてもよかった。しかし、リュトヴィッツは再びベッドから起き出した。突如、自己嫌悪と気おくれを覚え、かつてないほど、自分は今まで抱き合っていたカテリーナにふさわしくないと感じた。
リュトヴィッツはベッドから降りた。鬱屈した不満が、小卓の上に広げた携帯用のチェス・セットの周りに浮遊していた。大屋敷からホテルに帰る途中、まだ開いていた本屋で購入した安物で、206号室に残された棋譜を再現してあった。
白側の椅子に腰かけ、ニコライと仲良くゲームを愉しむ恰好で、リュトヴィッツは本格的にゲームに取り組み始めた。ヴァレリー・サカシュヴィリを殺した奴が、まだいる。そいつを捕まえないと、自分の気が済まないらしい。
電気スタンドのスイッチをひねる。チェス盤をじっと見つめる内に、リュトヴィッツはいい気分になってきた。こんなことは初めてだった。想像で駒を動かしていると、b8に達した白のポーンが気になった。プロモーションできる位置にある。ビショップ、ルーク、クイーン、ナイト。そのどれに成るのがいいか。
ナイトだと判断した。すると、黒はd7のポーンを逃がさなければならない。
《どこへ?》
突然、リュトヴィッツはぱっと立ち上がり、片手で椅子を持ち上げる。毛足の短いカーペットには4つの脚の跡が、浅くだがハッキリと付いている。
リュトヴィッツは今まで、ニコライが部屋に客を迎えたことは一度も無かったと思っていた。ホテルのフロント係が全員そう証言したからだ。だから、チェス盤に残されていたゲームは何かの対戦の再現、もしくは自分自身との対戦といったものだと思い込んでいた。だが、もし実際には訪問者がいて、チェス盤をはさんでニコライと対座したとしたら。訪問者が坐った椅子は、カーペットに跡を残したに違いない。もちろん、今ではもう消えているだろう。だが、ポポフが撮った写真には写っているはずだ。その写真は、科学技術部の倉庫のどこかに保管されている。
ズボンに脚を通し、シャツのボタンを留め、ネクタイを締めた。靴を履き、ベッドの上掛けをカテリーナの顎まで引き上げてやった。背をかがめて電気スタンドを消して部屋を出ようとした時、ドアの下に四角い紙が落ちていることに気づいた。手に取ると、新しく出来たスポーツクラブからの勧誘ハガキだった。添付されたモデルの写真を見る。
利用前(ビフォー)と利用後(アフター)。肥満と痩身。出発点と到達点。
その時、リュトヴィッツは感じた。身体に手をかけられたような感触。ビフォーとアフター。ニコライの手の電撃を伝えるような感触が、リュトヴィッツに奇妙な祝福を送ってきた。そして、それは消えて、ホテル・プーシキンの部屋だけが残った。
カテリーナはベッドで身体を起こして片肘をつき、リュトヴィッツを見ていた。
「どうしたの、サーシャ?」
リュトヴィッツはベッドの端に腰かけた。
「あれは対戦じゃなかったんだ・・・」
「どういうこと?」
「206号室のチェス盤に残っていたのは、チェス・プロブレムなんだ。駒の配置が普通じゃない。あの夜、誰かがあの部屋を訪ねてきた。ニコライはその人間にプロブレムの課題を出した。かなり手の込んだやつだった」
リュトヴィッツはしっかりした手つきで盤の上に駒を並べた。
「白が、ポーンを他の駒に昇格できる状態にあった。白はそれをナイトにした。普通は一番強いクイーンにするんだが、アンダープロモーションと言って、それ以外の駒にすることもある。この場合、ナイトだと3通りの王手のかけ方があると考えたからだろう。ところが、それはミスなんだ。黒、つまりニコライが引き分けに持ち込める。白は、ビショップをc2へ動かすという頭の悪そうな指し方を選ぶべきだ。この段階ではその秀逸さが分からないが、これ以降、黒はひたすら自滅するほかない」
「好手が無くなるわけね」
「こういうのを、ツークツヴァンクという。ドイツ語で“動きの強制”を意味する。黒としてはパスしたいんだが、とにかくどれか動かなくてはならない」
「チェックメイトになると分かっていても」
リュトヴィッツは、カテリーナが理解し始めているのを見て取った。
「どうしてわかったの?」
「俺は決め手になる手がかりをこの眼で見た」リュトヴィッツは言った。「でも、最初はそのことに気づかなかった。206室で撮られたチェス盤の写真は“アフター”の写真で、それは間違ってるんだ。大事なのは“ビフォー”。つまり、白のナイトが3つになったチェス盤だ」
「でも、チェスのセットには白のナイトは2つしかないわ」
「他のもので代用するしかない」
「ライターとか、コインとか」
「錠剤のビンでもいい」
63
リュトヴィッツは夜勤支配人のフィリポフからジグリを借りた。カテリーナをアパートまで送った後、早朝の市街をスモリヌイ聖堂の北に広がる森の中に建つセミョーノフの作業所まで飛ばした。
作業所の前で、セミョーノフに使われている学士がモップで石畳を拭いていた。ジグリから降りると、リュトヴィッツは学士に聞いた。
「セミョーノフ師はいるかい?」
「いらっしゃいます」学士はドアの方へ顎をしゃくった。「でも、とても忙しいです」
「救世主の話を書いてるのか」
リュトヴィッツは作業所の引き戸を開けた。セミョーノフが大きな地図が広げられた卓上から顔を上げ、横柄に唸りながらうなづいた。まるでリュトヴィッツが約束の時間に遅れてきたかのようだった。
「朝食の時間はおわりだ」
「朝食だなんて。このテーブルのゴタゴタを整頓するだけで何年もかかる。コンテナがひとついるよ」
セミョーノフは電気ポットのところへ行き、グラスを2つ出した。
「ペテルの地下に、トンネル網があるって話は聞いたことはあるか?万が一、ドイツ軍に街を占領された時にゲリラ戦を行えるように、スターリンが造らせたものだ」
「そう言えば、なんとなく聞いたことがあるような気もするな」
「そのトンネル網の地図は持ってないか?」
セミョーノフはまだこちらに背中を向けたまま、ティーバッグの入った袋を開けた。
「持ってなきゃ、地質学の先生っていうのは嘘か」
セミョーノフは湯が沸騰する前にプラグを抜き、ティーバッグを入れたグラスに湯を注いだ。そして、トレイにグラスとジャムの瓶と小さなスプーンを載せてテーブルの隅に置く。2人はテーブルの周りに座った。ティーバッグがぬるい湯に色をつけ始めた。リュトヴィッツはタバコを勧めて火を付けてやった。
「ヴァレリー・サカシュヴィリが殺された日の夜、ホテル・プーシキンに来ただろ?」
「あんなボロいホテル、義理の母親のチワワを泊めさせるのも嫌だよ」
「あのトランクの中身を見せろ」
リュトヴィッツはセミョーノフの顔をまっすぐ見つめながら言った。
「こんなご時世だ。ヴァレリーは国を出たかったんじゃないか。パルサダニヤンから命を狙われてたかもしれない。だから、アンタに頼った。アンタは救世主のポン引きを装って、街をふらついて金をかき集めた。そして、あの日、ヴァレリーに金を渡そうとしてホテル・プーシキンに来た」
セミョーノフは鼻から紫煙を吐き出した。
「それが、わしに何の関係があるんだ?」
「後頭部に、黒い穴がひとつ。ヴァレリーは即死だった。オートマチックじゃない。38口径のリボルバーだ。エミール・リヒテルが自殺に使った銃と似たようなやつだ」
セミョーノフは黙って、タバコを床に落として踏み潰した。しばらくして、血色の悪い頬を涙が流れ始めた。リュトヴィッツがテーブルにあったティッシュ箱から1枚を取って渡すと、セミョーノフは鼻の角笛を鳴らした。
「わしはあの子にもう一度、会いたい。そのことは認めるよ」
リュトヴィッツは質問を変えた。
「ヴァレリーのチェス相手のことだ」
「うん?」
「ヴァレリーは母親に相手のことを“カイーサ”と呼んでた。心当たりは無いか?」
セミョーノフは瞬きをし、鼻梁をつまみながら、思案顔になった。
「10年くらい前のことだ」セミョーノフは結論を下した。「ヴァレリーが男とゲームしてるところをユスポフで見たことがある。後ろ姿で顔は分からなかった。男が時どき髪に櫛を通すんだ。その櫛が明かりで反射して光るんだ。金属製の物だったんだろう」
「男を見たのは、その時だけか?」
セミョーノフは力なくうなづき、リュトヴィッツはテーブルから立ち上がった。
「犯人は必ず捕まえる」
リュトヴィッツはジグリを飛ばした。自動車電話から大屋敷に掛け、ペトロフを呼びつけた。ホテル・プーシキンに駆けつけると、ホテルの前にはパトカーが1台停まり、ペトロフが降りてくるところだった。
地下室につづく階段の上に立つと、ひんやりとした埃と黴の匂いがした。リュトヴィッツは紐を引いて裸電球を付け、ペトロフが先に階段を下りた。
狭い空間に入るドアを見ると、掛け金の代わりのロープがだらりと垂れていた。リュトヴィッツはこのホテルで殺しがあった夜にここから情けない退却をした時、ロープを掛け釘にかけてきたかどうか思い出そうとした。しばらく記憶を探ったが、まもなく諦めた。
「行きますよ」
ペトロフが膝を付き、「這ってしか入れない空間」に潜り込んだ。リュトヴィッツは尻込みした。脈が速くなり、舌が乾いてくる。間もなくペトロフの全身が闇の中に消え入り、リュトヴィッツは淋しく取り残された。《さぁ、後に続け》と呟いて自分を説得し、けしかけている内に「同志大尉?」とペトロフに呼ばれた。
ペトロフが丸いベニヤ板を回してから持ち上げ、リュトヴィッツに渡した。アルミ製の管の内側にある突起を足がかりに、ペトロフは下へ降りていった。リュトヴィッツも続いた。ペトロフは小さく唸って飛び降り、次いでリュトヴィッツも闇の中に落ちる。ペトロフが支えてくれて、何とか倒れずに済んだ。
今降りてきたアルミ製の管と直角に、別のアルミ製の管が出ていた。リュトヴィッツがまっすぐ立つと、頭が湾曲した天井をこする。先はまっすぐ伸びてサドーヴァヤ通りの下をくぐっている。空気は冷たくて土と鉄の匂いがした。足元はベニヤ板が敷いてあり、その上を歩いていくと複数の足跡が光の先に浮かび上がった。
「何ですか、これは・・・」ペトロフが呆然とした顔で言った。
サドーヴァヤ通りを半分ほど進んだと思われるところで、南北に走る管と交差した。ベニヤ板の上をさらに歩いていくと、別のアルミ製の管が上に向かって伸びていた。内側には、やはり足がかりの突起がついている。
ペトロフが一番低い突起に脚を掛けて、上まで登った。頂上を覆う蓋の裂け目か穴に、光がちらちら見えている。ペトロフが上に出て、リュトヴィッツに手を伸ばしてくる。冷たく硬いものが手に触れた。アルミ製の管から這い出ると、床はタイル張りで便器が並んでいた。
「トイレに出たようです。有難いことに男性用です」
そのとき、トイレのドアがきしりながら開き、1人の男が入ってきた。
「刑事さんがなんで、ここにいるんですか」
アルヴィド・ヤンソンスの息子、ロージャだった。
「奇遇だな」リュトヴィッツは言った。「なら、ここはユスポフのチェスクラブか」
ロージャが訝しげな表情を浮かべながらうなづいた。
その後、リュトヴィッツとペトロフはトイレを捜索した。ペトロフが洗面台の下にある物入れを開けると、何か光る物を見つけた。
「金色の櫛がありますよ」
「見せてくれないか」
リュトヴィッツは櫛を手に取った。見覚えのある物だった。柄の部分に彫金文字で書かれている。
“GからFへ 愛のたけを込めて”
64
「お前のチェスが上達しなかったのは、負けん気が足りなかったからだ」
フェデュニンスキーは玉葱スープと石鹸の匂いを漂わせて、湿地の上に立つロッジ風の家でソファに身体を横たえていた。パジャマのズボンがめくり上がり、脚が見えている。リュトヴィッツは大きな革張りの安楽椅子に陣取り、ペトロフが家の出入口の傍に立っている。2人の警官は埃まみれで、見るも無残な姿をさらしていた。
「俺は負ける方がいいと思ってるんです」リュトヴィッツは言った。「正直言うとね。勝ち始めると、なんだか変な感じがする」
「私は負けるのが嫌いだった。特に、お前の父親に負けるのが」伯父の声は激しくしゃがれていた。風邪をひいていたが、薬を拒否しているせいで喉に痛みを覚え、疲れ、気鬱になっていた。「ヴァレリー・サカシュヴィリに負けるのも、それくらい嫌だった」
フェデュニンスキーの瞼が瞬き、眼を覆った。リュトヴィッツは手を軽く二度叩くと、眼がパチッと開いた。
「話して下さい。疲れで寝てしまう前に。ヴァレリー・サカシュヴィリとは知り合いだったんですか?」
「そうだ。私はヴァレリーを知ってた」
「どこで知り合ったんですか?ユスポフで?」
フェデュニンスキーはうなづこうとしたが、気を変えて、首を片側へ傾けた。
「最初に会ったのは、ヴァレリーがまだ子どもの時だった。でも、その後で会った時にはその子だと分からなかった。ひどい変わりようだった。子どもの頃はぽちゃぽちゃしてたが、大人になった時は痩せてた。ヤク中だった。ユスポフへ来て、賭けチェスで麻薬を買う小金を稼いでた。クラブでよく見かけた。ニコライと名乗ってた。普通のプレーヤーとは違ってた。私も時どき相手をして、いくらか取られたものだった」
「それが気に入らなかった?」
「いや」伯父は答えた。「不思議なことに、平気だった」
「ヴァレリーのことが好きだったんですか」
「私は誰も好きにならないよ」
フェデュニンスキーは唇を舐め、痛そうな顔をして、舌を突き出した。リュトヴィッツは椅子を立ち、テーブルから氷水が入ったグラスを取った。それを伯父の口にあてがうと、氷が小さく音を立てた。フェデュニンスキーはこぼさずに水を半分ほど飲んだ。礼は言わず、しばらくの間じっと寝ていた。身体の中を水が流れる音がした。
リュトヴィッツは再び切り出そうとして、指を弾いた。
「あなたはヴァレリーの部屋に行ったんですね?ホテル・プーシキンの206号室に」
「招かれたんだ。エミール・リヒテルの銃を持ってきてくれと頼まれた」
「なぜ、伯父さんがリヒテルの銃を持ってるんですか?」
「ヴァレリーはこちらが話さなくても、私のことをいろいろ知ってるようだった。私がリヒテルの自殺で後処理をしたことも掴んでた。ヴァレリーはパルサダニヤンから逃げてた。パルサダニヤンは小心者だから、先代のボスに血の繋がった奴を全員始末するつもりだと話した。だが、逃げ隠れにうんざりした。ずっと隠れて暮らしてきたからだ。そこで、パルサダニヤンに連絡を取った。パルサダニヤンは命を保証するし、ヤクも好きなだけくれてやると言った。ヴァレリーはすぐに後悔した。どうしたらいいか分からなくなった。ヤクを続ける気はない。だが、やめられない。それで、私に助けを求めてきた」
「どう助けてくれと?」
フェデュニンスキーは唇を引き結び、肩をすくめて、視線を部屋の暗い隅へ滑らせた。
「ヴァレリーはあのプロブレムを見せた。あの二手問題だ。ヴァレリーはある人からそれを出されたそうだ。私にそれを解いてもらいたい。そうすれば、自分の気持ちが分かってもらえるからと言った」
「ツークツヴァンクですね。好手がないのに、どれか動かさなきゃいけない」
「私は何日もの間、気が変になりそうだった」伯父は話を続けた。「どう考えても三手は必要だった」
「ビショップをc2へ」
フェデュニンスキーは長い時間、眼をつぶって考えていた。それから、うなづいて口を開いた。
「ツークツヴァンクだな」
「でも、何故です?」リュトヴィッツは訊いた。「なぜ、ヴァレリーはあなたがその問題に取り組むのを知ってたんです。親しい知り合いでもなかったのに」
「ヴァレリーは私のことを知ってた。よく知ってた。私が負けず嫌いなのも知ってた。あのプロブレムは、君の父親が作ったものだった。自殺する前、君の父親は通信チェスをしてた。その相手は、子どもの頃のヴァレリーだった」口の中で苦い味がしたというように顔をしかめた。「ところが、どうだ。あのプロブレムを解いてみせたのは君だ」
「親父は自殺する前、何かに追い詰められてたということですか」
「そうだ」
「何にです?」
「KGBだ。そうに決まってる」
連日遅くまで役所にいることが多かった伯父は、私生活がほとんど無いように見えた。それでも、リュトヴィッツの父親に対する親密な情を覗かせる時、この検事は生身の何者かになるのは何度か感じていた。人知れず積み重なって来た人間関係の歴史。彫金文字に書かれたGはガリーナではなく、グレゴリーだった。ひょっとしたら、そんなことがあるのかも知れない。1人の男に対する「ほの字」。
いずれにしろ、自分にはもはや遠いものばかりだと思うと、リュトヴィッツは自分のために苦笑を洩らした。
長い2、3分が時間の糸巻きからほどけた。
「私はヴァレリーがヤクをやるのを手伝ってやった」伯父はようやく言った。「そして深い陶酔に浸るのを待った。うんと深い陶酔に浸るのを。それからリヒテルの拳銃を出して、それを枕で包んだ。38口径のコルトだ。ヴァレリーをうつぶせで寝かせた。そして、後頭部へ。あっと言う間だ。苦痛は感じさせなかった」
「トンネルを通ってホテルに入ったんですか」
「トンネルってなんだ。私は玄関から入った。お前は気づいてないかも知れんが、あれは警備の厳重なホテルとは言えない」
伯父を後部座席に横たえ、ペトロフはパトカーを出した。リュトヴィッツは大屋敷に帰るまでの間、助手席で心あらずという状態だった。ほとんどの時間、心中はヴァレリーの事件や、父親のことで占められていた。
市街地に入ったところで、無線がざわざわと鳴り始めた。その内容に耳を澄ませると、リュトヴィッツは心臓が大きく跳ねるのを感じた。
カテリーナ・ヴィシネフスカヤが自宅アパートで自殺したという報せだった。
65
リュトヴィッツは大屋敷にフェデュニンスキーを拘留すると、グリボイェードフ運河沿いのアパートまでジグリを走らせた。アパートの前は、民警のパトカーや鑑識のヴァン、マスコミの車両でごった返していた。
ジグリを停め、4階にあるヴィシネフスキーの部屋まで駆け上がると、鑑識が布を被せられたカテリーナの遺体を担架で運び出していた。リュトヴィッツは鑑識にひと言断ってから、十字を切り、カテリーナの亡骸を見た。生前と変わらぬ美しさで、寝ているようにしか見えなかった。部屋のドアの傍に立っていたペトロヴァが言った。
「睡眠薬です。ひと瓶を全部飲んで」
ギレリスは窓の外に眼をやっていた。運河の向こうの教会を見つめているようだった。リュトヴィッツが狭い部屋に入って来たことに気づいて振り向くと、ギレリスは自然とカテリーナに告げた話の内容を口にし始めた。
早朝、リュトヴィッツがカテリーナをアパートに送った後、カテリーナはギレリスから電話を受けたらしい。ギレリスは「ドミトリ・ミハイロヴィチについて、まだ話してないことがあります」と言って、レルモントフスキ大通りのユダヤ教会で待っていると告げた。
カテリーナが墓地に着いた時、ギレリスが一輪のカーネーションをヴィシネフスキーの棺を覆うむきだしの土に供えていた。カテリーナに気付かれるよりも早く、ギレリスは足元の紙袋からファイルを取り出し、通路の上に投げ出した。
カテリーナはすぐに、そのファイルの内容を悟った。革表紙に押された剣と楯の印章はKGBのものだった。触れば火が噴いてしまうという風情で、カテリーナはひたすらじっとファイルを見つめた。
「あなたが自分の手で始末したいんじゃないかと思ったんです」ギレリスが言った。「ドミトリ・ミハイロヴィチが死んでしまった以上、彼らはもう、あなたを必要とせんでしょうから」
「彼ら?」カテリーナが声をとがらせる。
「そう、私じゃない。私は何の関わりもありません」
首を振りながら言って、ギレリスはタバコに火を付け、カテリーナがしぶしぶファイルを拾い上げるのを見つめた。
「あなたがなぜ、我々に対してあれほど頑なにふるまうのか、理解できませんでした。ご主人を殺した犯人を捕まえようとしてるのに、あなたは何も話してくれないんですから。だが、もちろんこのファイルを見たら、疑問がたちまち氷解しました。恥は人を寡黙にするというわけですな」
「彼らがこれをあなたに与えたというの?」カテリーナの声が怒気をはらむ。「これだけのものをそっくり?よくもそんなことが・・・」
「私も全く同じことを思いました。よく出来たものだ。自分の友人たちを、自分の夫をスパイするようなマネが」
「今、それを言うのは簡単だわ。過去を語る時には、多くの人が勇敢になれる。だけど、KGBに逆らうのは、それほど簡単なことじゃなかったのよ」きらっと眼が光った。「私はずっと彼らへの恐怖を抱えて生きてきた。その恐怖を最初に植えつけたのは、父を自殺に追いやったあの人たちだった」
「説得力のある話だが、なぜ彼らのために働くようになったのかの説明としては、不十分です」
「ファイルを読んだんでしょ?」
「ええ。しかし、それには1980年から、つまりあなたがまだ学生の頃から、情報を提供してきたと書かれている。ずいぶん長い間です」
「私の父、エミール・リヒテルの葬儀の時です。彼らは母が私の指導教員でもある反体制活動家と不倫してる証拠をつかんでると言ってきました。いくら不倫でも、自分の母親を収容所送りにできますか?」カテリーナは首を振った。「私と同じ選択をした人も少なくなかったはずよ。ご存じでしょう?」
ハンドバックを開いて、タバコの箱を取り出す。1本に火を付けて、あまりおいしくも無さそうに吸った。
「大学を出た後、しばらくは彼らからの連絡も途絶えてました。役に立たなかったからでしょう。私は他人が何を言ったか、いちいち覚えてるような人間じゃありません。ところが、ミーチャと結婚した後、彼らはまた接触してきました。ミーチャがユダヤ人だからという理由で、仕事を取り上げることが出来ると言うんです。分かるでしょう?そんなこと、ミーチャに耐えられるわけがないわ。仕事はあの人の命でした。私が求められたのは、ほんのちっぽけな重要じゃない情報だった。ミーチャの知り合いの外国人ジャーナリストたちが、何を言ったか、誰に会ったか・・・でも、しばらく経つと、ミーチャは何か感づいたらしくて、口には出さなかったけれど、私を疑い始めたようでした」
「だから、仕事の話をしなくなったわけですな?あなたに心配かけたくなかったからではなくて、あなたが信頼していいのかどうか分からなくなったから」
「そうね。私はある意味で、あなた方に真実を語っていたのよ。本当に、何も知らなかったですもの」
「で、それ以後、どうなりました?」
「外に出かける時も、ミーチャはどこへ行くのか、誰に会うのかを私に言わなくなりました。アパートに誰かを連れてくることも無かった。彼らにとって、私はあまり利用価値のない存在になったわけです。そこで、彼らはミーチャ本人に狙いをつけました。イギリスのあるジャーナリスト、諜報機関とつながりがあると思しい人物をスパイしてほしいと言ってきたんです。ミーチャはきっぱりと断りました。彼らはありとあらゆる手で脅しをかけてきました。ええ、もちろんミーチャは怯えてたわ。でも、あの人は私より強い心の持ち主でした」
「強かったんじゃない。善良だっただけでしょう」
「なぜ、あなたにこんな弁解をしてるのか分からないわ。あのKGBの人でなし連中と比べて、あなたがほんの少しでも善良だというの?あなたの手はそんなにきれいなの、ギレリス大佐?」
「私は今でも友人たちの眼をまっすぐに見ることができます」
「じゃあ、あなたは運が良かったのね」
青磁の色をしたカテリーナの眼に、涙があふれる。
「冷たい、鬼のような人」
ギレリスはニヤりとした。
「密告者であると同時に、読心術の達人。あなたの才能には、限りが無いようですな」
ギレリスが独白を終えると、リュトヴィッツは相手を愛情と蔑みのこもった眼でじっと見つめていた。ギレリスは苛々しながら、身体を揺らした。
「で、どうする気だ?」
「どうする気だとはどういう意味です?」リュトヴィッツは答えた。
「よく分からないが、君はなんだかピリピリしてる。何かやりそうな感じだ」
「何をです?」
「だから、それを訊いてる」
「別に何もしません」リュトヴィッツは言った。「何が出来るって言うんですか」
その日の朝刊に、自殺が政治の武器になってきたと題する記事が載っていた。また、女性は男性に比べて、自ら命を絶つ率が低いとも書かれていた。長く続いた熱波が収まった頃、リュトヴィッツはこの記事をカテリーナに教えてやるべきだったと後悔した。
66
ウクライナ・マフィアの大捕物があった3日後、ラザレフの葬儀が執り行われることになった。それまで、ラザレフの遺体は法医学検査所に保管されていた。
リュトヴィッツはスレイドニイ・オクチンスキー7号棟にあるスヴェトラーノフの自宅まで行き、喪服用の黒いネクタイを借りた。身重のマリアが2人の刑事を玄関まで送り出した。
「俺は階段を降りた方がよさそうだ」リュトヴィッツは言った。
「じゃ、そうしろよ。サーシャ」
リュトヴィッツがようやく1階にたどり着くと、スヴェトラーノフが待っていた。
「なんで、そんなに遅かった?」
「途中で休憩したんだ」
「タバコをやめろよ」
「やめる。もうやめた」
リュトヴィッツはタバコの箱を出して、中身を15本残したまま、願いごとをしながら硬貨をトレヴィの泉に放り込むように、ゴミ入れに投げ込んだ。少し愉快で、悲壮な気分だった。何か芝居がかったこと、オペラ的な愚行をしそうだった。躁病的というのが適切な形容詞だろう。
「でも、休憩したのはそのせいじゃない」
「最近、寝てないんだろ。それに、酒の量も増えてる。違うというならそう言ってみろ。マッチョぶって歩き回りやがって。ひどい生活を送ってるんだろ」
「ひどいのは、心の傷だけだよ」リュトヴィッツは答えた。「とにかく2回ほど立ち止まらずにはいられなかった。考えるために。いや、考えないためにかな」
スヴェトラーノフはふんと鼻を鳴らして、リュトヴィッツを助手席に乗せ、ジグリを出した。
参列者にはラザレフの両親の他に、刑事部長のコンドラシンを筆頭に、大屋敷のほとんどの警察官が制服姿で来ていた。ラザレフは最大限の敬意をもって葬られた。OMONの狙撃手隊が、墓の周りで弔砲を放った。両親には、市議会から2000ルーブルの小切手が送られた。給料のたった4か月分に過ぎない金額だった。
葬儀の後、何人かがギレリスの家に集まり、酒を飲んだ。あまり盛り上がらなかった。はじめにスヴェトラーノフがグラスを掲げて「健康のために」と言うと、ギレリスが絡むような眼つきで「酒を飲むのか?故人をしのぶのか?」と応じた。
そこで、ギレリスの妻が料理を出してくれた。キャベツのスープに続いて、チーズを絡めてたっぷりの油で揚げたマッシュルームとポテトが供され、最後にアイスクリームが出て来た。ギレリスが「私は時どき、炊事界のウィンストン・チャーチルと結婚したんじゃないかと思ったくらいだ」と言ったのは大げさではなく、味はどれも美味しく、ほんの少しだが場が和んだ。
リュトヴィッツはギレリスとチェス盤を囲み、ヴァレリーが部屋に残したプロブレムを解説してみせた。2人とも手元には、ギレリス自家製のウィスキーが入ったグラス。聞けば、風紀犯罪課の刑事と共有している市民菜園で採れた野菜から作ったものだという。
「君にすぐ知らせた方がいいと思ってね」ギレリスが低いしゃがれ声で言う。「フェデュニンスキーが死んだよ」
リュトヴィッツは口の中で、ビートの根から作ったウィスキーが苦味を増すのを感じた。頭をすっきりさせようとして、深呼吸する。肺に、空気を満たした。
「風邪をひいてただけだったのに」
「コルサコフの話によると、強い酢を飲んだらしい。どこに隠していたものやら」
「取調はどうだったんですか?」
リュトヴィッツはヴィシネフスキー事件の後処理にかかりっきりで、ヴァレリー・サカシュヴィリ殺害事件は別の刑事に取調を担当させていた。
「何も喋らなかったそうだ」ギレリスはグラスに口をつけた。「それと・・・君の勝ちだ。カテリーナにあんなことを言う必要は無かった。許しがたい行為だった」
「勝ち負けもないです。お互い間違ってたのかもしれません」
ギレリスはうなづいて、その場を離れた。
この何日か、リュトヴィッツはヴァレリー・サカシュヴィリと出会うチャンスをつかみ損ねたのだと考えてきた。せっかく同じホテルにいたというのに。セミョーノフはヴァレリーが救世主だと言っていた。どういう人物かついぞ知らず、救済される機会を棒に振ってしまったのだと思った。だが、救世主など初めからいなかったのだ。
しかし、今回の一連の事件で命を落としたヴァレリー、カテリーナ、ヴィシネフスキー、ラザレフ、フェデュニンスキーには天上で神の祝福があらんことを、リュトヴィッツは普段めったに祈らぬ相手に向かって呟いてみせた。
スヴェトラーノフがニヤニヤ笑いながら、近づいてきた。
「お前がセンチメンタルな人だとは思わなかったな、サーシャ」
「何のことだ?」
「だって、お前」低い声でささやく。「泣いてるじゃないか」