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「何時に出られる?」私は声を殺した。
電話の声は《交替の子が来ないのよ・・・》と低く答えた。その声が、ホームに入って来た電車の轟音で半分かき消えた。
《怖いわ・・・》電話の声が囁く。《私、怖いわ。助けて・・・》
「しっかりしろ。心配するな」
レベッカ・ラウはまだ勤め先にいた。午後5時に夜勤の者と交替することになっていたが、もう6時を半時間も過ぎている。
初っぱなから予定が狂い始めたのに苛立ち、失望しながら、私は気を紛らわせるためにまた腕時計を覗いた。
「何時に出られる?」私はくり返した。
《7時半までには・・・》レベッカは言葉を濁した。
「ぐずぐずするな。8時まで待つ。俺は待ってる。必ず来てくれ」
《ええ、分かったわ》というレベッカの気弱な声を聞きながら、私は受話器を置いた。ポケットにはもう小銭も入っていない。電話はこれが最後だ。
そこはオーストリア、ウィーンにある南駅だった。南部のグラーツやクラーゲンフルトへ延びる路線がここから出ている。駅から200メートルほど離れた繁華街にレベッカはいる。だが、待つのは8時が限度だった。ここからウィーン国際空港まで出て、フランクフルト行きの最終便に乗らなければならない。
私はボストンバッグひとつ手に、のろのろと公衆電話の並んだ台を離れた。ホームを吹き抜ける寒風で、ダスターコートの裾が吹き飛ばされた。外の寒さを思うと足がすくみ、私は構内の風の当たらない場所へ移動することにした。人が多過ぎてひとつひとつの顔が見分けられない雑踏は、私にもレベッカにも危険だった。レベッカには『心配するな』と言ったが、本当に安全なのかどうか。
得体の知れない白人の中年男がひとり、さっきから私を見ている。電話をかけている間に気付いたその男は、20メートルほど離れて、たしかに私の方を見ている。私を尾行しているのかも知れないが、プロにしては隙があり過ぎ、尾行の仕方も拙い。何のつもりなのか、私にはまったく身に覚えのないオッサンだ。
一度睨み返したが、それでも動じる気配がないので、結局放っておくことにした。思い過ごしかも知れないし、何者であろうと、こっちこそ用はない。
ファヴォリテン通りを北へ進み、左にコルシツキーガッセに入ると、喫茶店〈ファイルヒェン〉がある。レベッカには、そこへ来るように言ってあった。今から1時間半もひとつの場所で待つのは気が進まなかったが、この雑踏や寒さもそれ以上にこたえた。
私は入口の脇のガラス窓を見た。ほんの少し自分の姿をガラスに映してみるためだった。
借り物のスラックスやジャケットとダスターコートのいでたちに、どこかおかしいところはないか。結び方が間違っているのか、ネクタイがどうも変だ。私はマフラーをかき寄せて、それを隠した。
店に入ると、私は通りが見える窓際の席に座った。ウェイトレスにブラックコーヒーを注文した。
「アイスでよろしいでしょうか」
私は一瞬、ウェイトレスの言葉に面食らい、「ホットを」と呟いた。不意に、これで声を聞かれたと思った。
コーヒーがテーブルに置かれた。私はひと口だけ、無理に啜った。構内で拾ったタブロイド紙を広げて紙面に顔を落とし、背筋を固くする。下品な写真や活字を眼にするのは苦痛だったが、こういうサラリーマンの恰好をしている限り、一番目立たない小道具がタブロイド紙だというのは分かっている。学生の恰好なら、車の雑誌が週刊誌。普段なら、決してどれも手にしない。
時間潰しに、昨日起きた大統領府爆破未遂事件の記事のアルファベットをひとつひとつ読みながら、私は喫茶店にいるほかの客に眼を配った。
喫茶店としては、大きい方だろう。こういう店では早朝から、入れ代わり立ち代わり1杯のコーヒーを飲み干していく客で席が温まることがない。昼にはランチをかき込むサラリーマンで混み合い、午後は待合や商談に使う客が増え、夕刻のこの時刻は、もはや帰宅を急ぐサラリーマンの姿はない。今いるのは、ちょっとわけのわからない人間ばかりだ。