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4月13日、真壁は富樫と携帯電話で話しながら、朝8時過ぎの警視庁6階の廊下を歩いていた。半開きになった捜査一課のドアからはすでにタバコやコーヒー、整髪料の臭いが漂い、ざわざわと騒々しい刑事たちの声が響く。
「東都日報・・・『七社会』でもいい。桐谷という名前のサツ回りをしていた記者を知らないか?」
「桐谷勲さんのことかな、ウチの社会部にいた」
「何年前?」
「ぼくが本社の社会部に入ったぐらいの頃だから・・・3年前だね」
3年前は、渡辺は町田署の刑事課にいたことが分かっている。
「なぁ、奥さんには俺の事、何て話してる?刑事だって話してるのか」
「大学時代の友人。公務員。そんなとこかな。刑事だなんて言ったら、お前のことなおさら怖がっちゃうよ」
真壁は礼を言い、電話を切った。
捜査一課の大部屋は在庁番の捜査員たちが神棚に手を合わせ、在庁開きの真っ最中だった。それが終わるのを見計らい、さっと自分のデスクに座った。捜査一課長室に向かう管理官の冷たい視線を受け流し、デスクの上に置かれたA4サイズの2つの封筒に眼を向けた。
1つは三鷹南署から送られてきた調書一式だった。もう1つの封筒には「目撃ジャパ~ン!」という週刊誌名が書かれていた。真壁は思わず眉をひそめ、毛利悟の冴えない顔つきが脳裏に浮かび上がった。
初台のサンライズ興信所に勤める探偵の毛利に、紀子の父親である新條博巳の身辺を探るように依頼しておいたのだった。週刊誌のフリーライターに化けて調査すると毛利は話していたが、同封された名刺に書かれた名前は「富田誠」。富樫が山岳雑誌に寄稿していた時に使っていたペンネームだった。富樫と毛利の付き合いの深さがうかがえた。
真壁は骨の髄から探偵という職業を嫌っていたから、報酬はタダにさせた。その割に調査資料はよく書けており、毛利という男は割と優秀なのかもしれないと思ってみた。
資料のうち、真壁が興味を持ったのは、新條博巳がひどく教育熱心だという記述だった。娘の紀子が通っている学校も名門だが、父親の博巳は、しばしば学校の授業内容について紀子の担任に対して不満を口にしているという。予備校へ通う紀子の青白い顔を思い浮かべて、真壁はなんとなく納得出来るような気がした。
全国弁護士名鑑のコピーと思われる新條博巳の写真は粒子が少し荒かったが、平板で特徴のない四十男の顔を映し出していた。弁護士や検事を取材した後で、富樫が「法曹家っていうのは、まるで無機物の眼をしてる。お前が法学部にいたのが信じられないよ」と呟いていたが、新條の眼も似たような感触だった。
記載によれば、新條博巳は二浪して国立の帝都大を出ている。国家公務員Ⅰ種試験は落第したが、大学卒業から3年後に司法試験に合格。現在は神宮前6丁目に事務所を開いている。紀子の母親は名門の女子大出身で、現役の高校教師。
想像の先走りを退けても、見えてくる靄の色は1つだった。子どもが外で見せる顔が、往々にしてその家庭を映しているという一般的な常識に立てば、この新條の家庭の内側はどんなものだろう。
課長室から戻ってきた管理官の秦野警視が「おい」と開渡係長へ顎をしゃくった。
「八王子東の例の件、機捜と交替だ。九時に捜査本部を立てる。出番だ」
「・・・だ、そうだ」
今度は開渡係長が、真壁に顎をしゃくった。真壁は読みかけの資料をたたみ、近くで将棋を打っている第二特殊犯捜査班の同僚に「呼出し、やっといて下さい」と声をかけると、「好き放題してやがって」と囁いているのが聞こえた。
内堀通りからタクシーに乗る。車内で事件の話は出来ないから、開渡係長が手帳にさっとメモを書き、それを破いて真壁に手渡した。それによると、事件の方はこうだった。
一昨日の4月11日の深夜、八王子市子安町4丁目の路地で、顔や頭から血を流した男が1人、「助けてくれ」と叫びながら数十メートル走ってきたところで倒れた。男は近所の住人の通報で駆けつけた救急車で病院に運ばれたが、意識が回復しないまま昨日の午後に死亡が確認された。一昨日の事件発生後、すぐに所轄や機動捜査隊から捜査員が出て付近を捜索したが、すぐに足がつくだろうと予想したホシは捕まらず、犯行の動機も状況も不明のまま、被害者が死亡したために結局、捜査本部の設置となったのだった。
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《子安町四丁目通り魔殺人事件捜査本部》
八王子東署の会議室の外に掲げられた、まだ墨の乾かない出来立ての捜査本部の看板はそう書いてあった。署長や刑事課長以下、所轄と第二機動捜査隊、鑑識併せて十数名が部屋に入っていた。十係の8人は三々五々、署へやって来た。
1番乗りは、中野の愛人宅から来たらしい高瀬。続いて、開渡係長と真壁。4番目が、眼の下にくまを作ってウィスキーの臭いをぷんぷん漂わせた馬場。5番目が、寝起きの鈍い面をした渡辺と吉村。6番目が杉田。船橋在住の磯野がビリになった。
会議室に現れたどの顔は、一様に憮然としていた。今回のヤマは事件発生から34時間も経っているから、現場も残っていないし、ガイシャもすでに東都大の冷蔵庫。まずは所轄や機捜の捜査報告書と、実況見分調書や検証調書、死体検案書などをえんえん読み聞かされ、数十枚の写真を拝まされてもらうために、足を運んできたようなものだ。
本来なら顔ぐらい出すべき本庁の捜査一課長と管理官の姿もなく、本庁を代表して、開渡係長の「どうも」という一言で、すぐに形式ぬきの本題に入った。
刑事課長が「では、現場の状況から・・・」と言いかけると、ちょっと酔いが醒めたらしい馬場が、初っぱなから横柄に遮った。
「まずガイシャの身元説明」
憮然とした顔で、課長が黒板に貼り出した四つ切りの顔写真を示した。瓜実顔の女性的な印象の二枚目だが、首は太く、肩の線もがっしりしている。口髭をたくわえた口許はすねたように歪み、表情はあいまいだ。
「氏名、梁瀬陽彦。年齢、34歳。フリーライター。自宅兼事務所は、新宿区高田馬場2―5―2―201。独身」
「第1発見者の住所、氏名、職業は」馬場が続けた。
「氏名、本間泰和。万町119―2―303。商社勤務」
「次、本間の供述調書を」
刑事課長が読み上げた調書によると、本間某は4月11日午後11時ごろ、帰宅途中の子安町4丁目18番の路上で男が1人ふらふらした足取りで走ってくるのに出合った。男は本間を見ると、「助けてくれ」と叫び、さらに5メートルほど走って倒れた。本間が近づいてみると、男は頭や顔から血を流していたので、本間は急いで携帯電話から110番通報したという。
八王子駅南口の交番から駆けつけた巡査が、午後11時12分に現場で倒れている被害者を確認し、すぐに無線で救急車を要請すると同時に、傷害事件として署へ通報した。
巡査の現認では、被害者はうつ伏せに倒れた状態で、顔面と後頭部から右耳介部にかけて打撲と見られる創傷があった。「大丈夫ですか、どうしましたか」という問いかけに応答はなく、意識不明の状態だった。
被害者の身なりはスラックスとポロシャツにローファーの軽装。服装に乱れはなし。カバン等の手荷物はなく、スラックスのポケットに財布があり、現金は6万7000円の紙幣と硬貨が526円、クレジットカード3枚が入っていた。ほかにハンカチとポケットティッシュが1つずつ。
真壁の隣で、高瀬が手を挙げた。
「被害者の状況についての供述は、それだけですか」
「というと・・・」
「服装のどこが濡れていたとか、髪の乱れ方、アルコールの臭いの有無」
「いや、今読み上げただけです」
現場検証の責任者が作成した調書に添付された鑑識撮影の写真には番号が付してあり、枚数は60枚近くあった。写真を取りに立った杉田から、写真を1枚ずつ仲間に順送りに渡していく。1番という番号のついた写真には、被害者の倒れていた位置と体位がチョークの線で路上に描かれたものが写っていた。被害者はただちに病院に運ばれたために、姿はない。
写真を見ている間に、鑑識の報告書が読み上げられた。血痕は、被害者が倒れた場所から南へ52メートルにわたって点々と続いていた。血痕の起点となっている場所はすなわち、被害者が最初に襲われた場所と見られるが、写真で見ると、ちょうど縦と横の通りの交差点に当たる。
その交差点から被害者が倒れた場所まで、自分の流した血痕を踏んだ被害者の革靴を除いては有効な靴痕跡は採取できなかった。事件発生時の1時間ぐらい前まで雨が降っていたことによる。被害者が交差点を曲がってきたのか、それとも直進してきたのか、それも靴痕跡で確かめられなかった。ほかに、ホシの特定につながるような遺留品、毛髪、皮膚片、衣服片その他も見つからなかった。
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鑑識の声とは別に、真壁の後ろで「現場、どこだっけ?」と囁く渡辺の声がした。
「4の18」と応えたのは吉村の声。
「4の18・・・」
「何、聞いてたんだ」というのは杉田。
真壁が振り向くと、渡辺は回覧している写真を何枚か掻き集めて眼を近づけているところだった。
「何か見つかったか」と高瀬。返事はない。続いて磯野が「ヘッヘッ」と小さく笑った。「そういや、今度の彼女のマンション、この近くだっけか」
「あれは台町の方だろ」と馬場の茶々が入った。
「平町。言うのなら正確に言って下さい」
真顔で訂正した後、渡辺は手にしていた写真を高瀬に渡して、ふいとそっぽを向いた。すかさず、真壁は高瀬の手からその写真をひったくった。「静かに!」と幹部席の開渡が机を叩いている。
渡辺が見ていた4枚の写真は、犯行現場の交差点を、いくつか角度を変えて撮ったものだった。二度さっと眼を通すと、渡辺が注視していたのが、おぼろげに見当がついた。4枚の写真に共通して写っていたのは、交差点の東側に立つ6階建てのマンションだ。
真壁がちらりと背後の渡辺の様子を窺うと、渡部は虚空を睨んでいた。ただ何か考え込んでいるふうだった。
その間も所轄の報告は続き、十係の耳は、片方ではそれらをしっかり聞いていた。
最初に被害者を診断した病院の医師の診断書と、死亡後解剖した監察医の死体検案書。被害者は、長さのある棒状の鈍器で頭と顔面を2回強打されており、著しい裂傷と頭骨の陥没が見られた。直接の死因は、頭腔内損傷による硬膜下出血。裂傷の状態から、成傷物体は一部に突起か凹凸があり、かなりの重量があると見られるが、具体的な凶器の見当はつかない。
「質問です」ふいに渡辺が手を挙げた。「病院で治療中、被害者の身体を拭いたり洗ったりしたんですか」
「それは・・・分かりません」
「以上です。続けて下さい」
課長の報告は続いていた。今朝までの地どりと聞き込みの結果、犯行の目撃者はゼロ。物音を聞いた者なし。現場は閑静な住宅街であり、午後11時を過ぎると、ほとんど人通りもなくなる。しかし、被害者が第1発見者に向かって「助けてくれ」と叫んだのとほぼ同じころ、近隣のマンションで2軒の住人が男の大声を聞いている。ただしそれが、本間の聞いた「助けてくれ」という叫び声と同一かどうかは不明。
「被害者の姿を、事件発生前に見た者は」馬場が言った。
今のところ、JR八王子駅で午後8時ごろに改札の駅員が被害者によく似た男を見たという証言が1つ。被害者によく似た男が、駅員に財布の落し物を届けてきたため、たまたま顔を覚えていたらしい。
ほかには、駅前商店街や通り沿いの商店などを当たったが、目撃者はなし。
「被害者が11日深夜、現場にいた事情について、分かってることは」
どうやら、分かっていることは何もないようだった。
被害者の梁瀬は独身のフリーライターであり、仕事はほとんど自宅兼事務所のマンションでパソコンと電話とファックスでしていた。たまたま事件当日は仕事上の外出や打合せの予定が入っていなかったことは、梁瀬が高田馬場の事務所に残していた手帳の内容で確認できている。
また、梁瀬の手帳に記されていた十数件の得意先に確認したところ、某広告会社のディレクターが事件当日の11日の午後4時ごろ、ゲラの直しの打合せのために梁瀬と電話で話していたことが分かった。そのときの電話は仕事の話だけで終わり、その後の梁瀬の行動を予測するような事柄は含まれていない。今のところ、交際していたような特定の女も見つかっていない。
名簿には八王子方面の得意先はなく、知人の名は2つあったが、1人は福生、1人は国分寺の住人でいずれも当夜は梁瀬には会っていない。これは裏付けが取れている。
そのほか、カン(敷鑑)で複数の知人たちに当たった限りでは、梁瀬の身辺に仕事・私生活・金銭の上での怨恨やトラブルがあった事実は確認できなかった。総じて、しごく平均的なフリーライターのようだが、詳しい経歴や交友関係の調査はこれからだ。
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「では、うちからの報告は以上・・・」
「まだ、聞くことがある」馬場が鋭く遮った。「さっきの続きだが、ガイシャが事件当夜、現場にいた理由に関して、近所の聞き込みの成果は」
「目撃者は、先にも言った通り・・・」
「目撃者じゃない。被害者が、襲われる前に訪ねた家なり店なりを探したのか」
「今のところ見つかってない」
「地番のどこからどこまで探した」
「4丁目全部と・・・」
「誰か地図よこせ」
馬場は所轄の誰かから住宅地図をもらい、その場でこれまでの地どりの区割りを聞き出し、素早く自分で線をひき直し、その地図を胸の高さに掲げた。1時間ほど前までの酔っぱらいが嘘のようだ。
「全員、2つの点に注意してほしい。まず、犯行現場はここだ。人通りもない住宅街の夜道を、被害者は南から北へ向かって走っていた。現場から約70メートル北は野猿街道。途中で西に折れても国道16号までは120メートル。助けを求めるのに、野猿街道の方が近いことを知っていた可能性がある。ならば、土地勘があるということだ。
次に、被害者が深夜に現場にいた理由。午後8時にJR八王子駅で目撃され、午後11時に血を流して4丁目18番の路上に倒れたのだから、その間、3時間。被害者は事件発生前、現場に近い、この街の中のどこかの家か店に必ずいたはずだ。被害者に特定の目的で訪ねる人間がいたのなら、土地勘があったことも理解出来る。今から班分けをするから、各班はこの交差点を中心にして、被害者が訪ねた家を必ず探し出すこと」
「聞き込みの結果、もし被害者の訪問先が出てこなかった場合は、聞き込み先の中に嘘をついている者がいることも考えられる。くれぐれも慎重にやって下さい。同じく、被害者のカン捜査も洩れている点が多々あると思われるので、一からやり直します」
杉田が傍からそう付け加えると、所轄の刑事から「どこがどう洩れてるんですか」と不満の声が出た。
「調べてみなければ分からん。しかし、今うちの者が言った通り、被害者が事件前にいた場所を探すのは当然です」
「そんなことは分かってる。うちは洩れなく探した。4丁目の全世帯を当たった」
「被害者が立ち寄った先が出てくるまで、探します」杉田ははねつけた。
5分ほどで班分けをやってしまった馬場が、名前と分担を読み上げ始めた。開渡を除く十係7名のうち、真壁と磯野を除く5名は各々所轄の人間と組になってカン。残りは地どり。地どりは犯行現場を中心に、放射状に六区に割ってあった。
真壁は馬場の采配を聞き、内心呆れながらも同時に、ある種の非情さを感じた。馬場は渡辺を犯行現場の四つ角の東側に立っている例の六階建てのマンションを含む地区を割り振っていた。
要するに、馬場の鋭敏なアンテナは全方位をカバーしていて、真壁が察知したようなことは全てつかんでいるのだろう。渡辺があのマンションに注目した理由が何であれ、そこへ本人を割り当てて馬場が狙っているのは、1つは迅速なネタの収穫であり、1つは不発の場合の渡辺の失点という収穫だった。
渡辺の顔を窺うと、本人はこれといった表情はしていなかった。何か他に考えることがあって、馬場の作為を感じるヒマがないのかも知れない。
「質問がなければ、これで会議は終わります。本日の上がりは午後7時。今日1日、鋭意捜査に全力を尽くして下さい」
刑事課長のその言葉で、二十余名の捜査員は午前10時前に席を立った。
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真壁は署の裏口にある喫煙所に立ち、タバコを吹かしていた。被害者のカン捜査で組むことになった磯野も傍らで、紫煙をくゆらせている。
いつも通り被害者の顔や現場の鑑識写真を自動的に頭に並べ、真壁は未だ何ひとつ形にならない事件の捜査に端緒を得ようとしたが、連日繰り返してきた脳の回転が今回はいくらか鈍いのを感じていた。
磯野がタバコを灰皿に押しつぶすと、「ガイ者が会ってたのコレだぜ、コレ」と小指を曲げて囁いた。
真壁は訝しげな表情を顔に浮かべた。
「女、ですか?根拠は?」
磯野は隠微な顔つきで、根拠を列挙してみせた。
「ガイ者の顔。生活環境。自宅から離れた現場。服装」
その指先は、どこかのホステスから贈られたイタリア製のネクタイを弄り回している。
「さっき、渡辺が病院でガイ者の身体を洗ったかどうか気にしていたのも、性交の痕跡の有無を確認したんだ。すなわち、女」
もっとも仮に事件前に性交があったとしても、被害者はその後でシャワーか風呂を浴びただろうから、身体には何も残っていなかっただろうと考え、真壁は急に脳のエンジンが掛かりだしたのを感じた。捜査会議の席上、11日の深夜に第二発見者の巡査が現場に到着した時、被害者の頭髪が湿っていたかどうか確認したか、高瀬が質問したのも女の影を感じ取っていたからだった。
「この辺に、梁瀬の女がいるという話は出て来てないんですが」
「人目をはばかるような関係なんだろうよ」
市井ならどこにでも転がっている話だが、磯野はガイ者の顔写真を見ただけで分かったという。磯野の思考にいまひとつ付いて行けない真壁は、これが経験の差か刑事の勘なんだろうかと考えてみる。
「女の場所は、すでに馬場さんが目星つけてんだろうしな」
「主任が?」
「刑事課長と話してるのが聞こえた。渡辺が気にした4丁目18番の例のマンションの住民台帳を、署に調べさせてる」
地獄耳にかけては、磯野も馬場に劣らない。ことさら本庁の捜査一課に名を連ねる刑事たちは「俺が俺が」のムラ社会に身を置いている。誰でも割り込み、抜け駆けはお手の物。馬場に関して言えば、時おり同じ係の人間であっても心の内では敵とみなしているところがあると、真壁は思った。
「さあ、女の臭いがなかったかどうか病院を当たってみるか」磯野が言った。
「はあ・・・」
真壁と磯野は被害者の救急治療をした病院へ立ち寄った。
病院では、搬入された瀕死の重傷患者を診た医師と看護婦たちに聞き込みを行ったが、開頭手術の執刀をした医師と助手の2人が、患者の髪に「整髪料が多めについていた」と証言したほかは、めぼしい収穫はなかった。手術が始まったのは午前0時5分ごろだから、仮に1時間以上前に被害者が洗髪をしていたとしても、もう乾きかけていたかも知れないし、洗髪後にドライヤーで乾かして整髪料をたっぷりつけたのなら、それなりに湿っていたかも知れない。あるいは、洗髪はせずに整髪料を多めにつけていたのかも知れない。いずれにしろ、事件発生直前に洗髪したという裏付けは得られなかった。
また、救急病院では、手術のために急いで上半身のみアルコール消毒をし、その他はとくに手を触れなかったらしいが、死亡後の監察医による検屍時の外表検査では、遺体に他人の体毛や体液、皮膚片などの付着はなかったとのことだった。
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その日の午後、真壁と磯野は、杉田と吉村の2つの班と合流し、総勢6人でまず被害者梁瀬陽彦の新宿区高田馬場の自宅の捜索で3時間を潰した。梁瀬が仕事場に残したパソコンや手帳、私信、外出や仕事の締切日などを書き込んだカレンダー、クレジットカードの利用明細書、銀行の各種自動引き落としの明細、通帳、仕事関係の通信、ファックスの通信記録などはすでに回収されているが、そのほかに、隠れた付き合いや生活事情を明かす資料がないか探したのだ。
ざっと見たところでは、被害者像をくつがえすような資料は何もなかった。2LDKのマンションは男の独り暮らしらしく適度に散らかり、キッチンのゴミ袋の中は、缶ビールの空き缶のみ。衣類や生活道具その他に、それと分かるような女の影もなかった。
「女ですか、やっぱり」杉田と組んだ所轄の刑事が言った。「うちもその線で探してきたんですがね、今のところ出てこないんですよ、そういうモノが」
「しかし、何かあるはずだ」という杉田の執念で、皆で絨毯をめくり、食器棚の皿から湯飲みまで裏返し、ゴミ箱をひっくり返し、仕事場の壁に貼られたポスターやカレンダーを剥がし、書籍をめくった結果、冷蔵庫を開けた磯野がある物を見つけた。
磯野が白手袋をはめた手でつかみ出したのは、弁当箱大のタッパーウェアだった。蓋を開けると、うっすらと白カビの生えた高野豆腐とサヤインゲンとカボチャの煮物が入っていた。少しつついて大方食べ残し、そのままになったのだろう。
「これだぜ、これ」と磯野は言い、吉村が「そうだな」と相槌を打った。
手料理をタッパーウェアに詰めて梁瀬に差し入れたのは無論、どこかの女だ。
「指紋、採れるな」杉田が言った。
「この手料理、何日ぐらい前の差し入れですかねえ」と所轄の刑事。
塩分や保存温度によるだろうが、火を通した高野豆腐の煮物が、何日ぐらいで白カビが生えるのか、刑事たちに分かるはずもなかった。結局、中身ごと鑑識行きになった。
被害者梁瀬陽彦には女がいたという確信を得て、午後4時前、3班は捜索を切り上げて別れ、それぞれの分担先へ向かった。時間を惜しみながら、真壁と磯野が回った聞き込み先はわずかに3件だった。いずれも梁瀬に仕事を回した神保町の出版社。
関係者の話を総合すると、梁瀬陽彦というフリーライターは編集者たちに強い印象を残すような個性的な仕事で名を売っていくよりも、付き合いの良さやオールマイティの守備範囲で重宝されるタイプだったようだ。雑多な注文をそつなくこなし、適当に飲み歩き、誰とでも気さくに話をする。
3件目の出版社で、梁瀬と大学の同期だったという雑誌編集者に会った。
「彼、ラクビー部にいましてね。根っからのスポーツマンだと思ってたら、小説なんか書いたりして。体育会系というより、文学青年でした。私はここへ就職して、彼は広告会社に入りました。本当は新聞社に行きたかったらしいですが。広告会社ではコピーの仕事をしていました。よく私のところへやって来て、『雑文を書かせてくれ』と言ってました。フリーになったら生活が大変だから、会社だけは辞めるなと私は言ったんですが、結局5年で辞めて・・・」
「辞めた理由は?」真壁が言った。
「そこそこ、ルポとかインタビューとかの仕事が入るようになったからでしょう。なにせ、みんなに好かれる性格でね、あちこちの雑誌の編集者が何かと彼に仕事を回してましたよ。まあ、ライターとしては成功した方じゃないですか」
「女性関係については、どうです?」
「何人かはいたんだとは思いますがね、梁瀬君の口から聞いたことは無いですね」
出版社を出てから、真壁は「どう思います?」と磯野に声をかけてみた。いつもは騒々しい磯野が聴取の間、ずっと黙ったままで真壁にまかせっきりだった。形のいい唇をにやりと横に裂いてみせたが、返事は素っ気なかった。
「ガイ者が己の人生に満足していたかどうかは、疑問だよなぁ」
「どういう意味です?」
「女との付き合い方も、どこか臭う」
その点だけは、真壁も納得できた。手帳や携帯電話に名前や番号も記さず、メールも残さず、誰にも話さない。人目をはばかった女との情交というのは、そこそこやってきて業界歴10年の感がある被害者像からは結びつかない。
磯野が不敵な笑みを浮かべた。
「若いの。お前もそのうち分かるようになると思うが10年早ぇよ、10年」
「覚悟してます」
13
午後10時半、真壁は奈緒子と法医学教室の岡島進助教授と一緒に、東都大学付属旗の台病院近くの居酒屋に入り、日本酒と焼き鳥をつついていた。1日中、春風にさらされて都内を歩き回ったために、花粉症にかかった真壁は鼻をぐずぐず鳴らしていた。
眼の前でレバーを頬張っていた奈緒子が言った。
「どうしたの、マーちゃん。食べないの?」
「いや・・・」
「なら、そのネギマもらっていい?」
「お前、よく食うな」
「オペ看の後は、お腹がすくの」
そう言って、奈緒子は真壁の皿からネギマの串を取って鶏肉を齧り、「ん、おいし」と微笑んだ。真壁はタバコに火を付けた。開腹手術で人の内臓を存分に見た後に、鶏肉を美味しそうに食べる幼馴染みの品性を少し疑った。
一方、「今日はチョンガ。家内が里帰りで」という理由付きで居酒屋について来た岡島は黙々と熱いおでんを食べながら、奈緒子の隣でテーブルに肘をついて東都日報の夕刊をめくっていたが、急に真壁に声をかける。
「やっぱりおかしいよ。八王子の事件で『通り魔』と判断したのは、誰なの?」
居酒屋で仕事の話は御法度だったから、真壁は低い声で返事した。
「所轄の刑事課長」
「通り魔って言うのもおかしくない?」奈緒子が口をはさんだ。「被害者は37歳の男性なんでしょ?通り魔だったら、もっと狙いやすい・・・子どもとか女性を襲うと思うけど」
「今のところ、被害者には夜道で突然襲われるような理由は見つかってない」
「この被害者は殴られて血をたらしながら、三十数メートルも走ってる」
岡島は夕刊を開き、記事に添付された地図を示した。
「それだけ走る元気があったら、普通・・・犯人と格闘しない?」奈緒子が言った。
「格闘はあったのかも知れない」
「いや、あの傷だと格闘はしてないなぁ」
「だから・・・?」
「被害者が、抵抗も格闘もせずに、ただひたすら逃げたのだとすれば、そうする特別の理由があったのだと考えられる」
「たとえば・・・」
「常識的に考えて突然襲われた時に、何もせずに逃げる理由は2つ」岡島は指を2本立てて見せる。「極端に動転したか、もしくは顔見知りの、会っては困る人間だったか」
「しかし・・・ホシが素手では太刀打ちできない凶器を振り回していたら、近寄れないでしょう」
「現に犯人は2度殴っているのだから、2人は格闘できるぐらい接近してたはずだよ。走る元気があれば、抵抗もできる」
「だから?」
「被害者が無抵抗で逃げた理由を考えると、犯人と被害者には互いに不都合な面識があったんじゃないかな。また、犯人は被害者がある時刻にその場所を通ることを知っていたから狙うことが出来たんだよ」
岡島の推理に、奈緒子は眼を丸くする。
「岡島先生、すごーい」
「いやぁ最近、ミステリにハマってて」
実のところ、その時の真壁は、箸を取る気も起こらずに伸びた蕎麦を眺めているような怠惰な気持ちだった。事件から立ってくる臭いが、ますます自分の一番苦手な臭いだと感じていたせいだ。
棒状の鈍器で2回殴りつけるという、ホシの不細工な襲い方にしても、女に絡んで感情的になっていたとすればなおさら説明がつく。日夜、寝不足と低血圧と格闘しながら、血なまこになって街を這いずり回り、解明しようとしているものに大した理由など相応にして無いのが実情だ。
真壁はタバコを灰皿に押しつぶした。奈緒子が微笑みながら首を傾げた。
「これくらいの事件、マーちゃんになら、すぐにでもわかるものじゃないの」
「いや・・・」
「現場に立ってないんでしょう」岡島が言った。「被害者が倒れたままの生の状態の現場に立って、事件の臭いを嗅ぐ。そうした臭いを感じて初めて、被害者の声無き声に耳をすますことが出来る。あなたはそういう人でしょう、真壁刑事」
真壁は思わず苦笑を浮かべた。
「そう言えば、ファイルは届きました?」
「ええ、届いてたよ」岡島がうなづく。
「何しろ、今年の2月にあった件なんで、遺体も無いですがよろしくお願いします」
奈緒子が「何のファイル?」と口をはさむ。
「一酸化中毒による死亡事故のな」