〇泥濘
10月6日から7日にかけての夜、中央軍集団戦区で降り始めた秋雨が夜のうちにみぞれ混じりの雪へと変わった。これらの雪はすぐに解けたが、それから道という道が粘土のような泥沼に変わる「泥濘期」がやってきた。
泥濘の中を進むドイツ軍の一部の部隊は、これまでにない新型の武器に遭遇した。奇妙な形の鞍に荷を付けてドイツ軍の車両に向かって走ってくる犬である。犬が背負っているのは、棒の付いた地雷だった。パブロフの条件反射に基づいて訓練されていたこれらの犬は、大型車両の下に走りこめば餌がもらえると教え込まれていた。車両の下部に棒が触れると、地雷が爆発する仕掛けになっていた。たいていの犬は目標にたどり着く前に撃ち殺されてしまったが、この気味悪い戦術はドイツ軍の士気を低下させるには効果的だった。
モスクワの「最高司令部」は、ブリャンスク正面軍の戦区でキエフ包囲戦を終えたばかりの第2装甲軍がこれほど早く新たな攻勢を仕掛けてくるとは予想しておらず、後方の第2線は全く用意されていなかった。
そのため「最高司令部」は、2個親衛狙撃師団(第5・第6)に2個戦車旅団(第4・第11)、第5空挺軍団(実態は師団規模)など即座に派遣可能な部隊をかき集めて、元第21機械化軍団長レリュウシェンコ少将の指揮下で「第1親衛狙撃軍団」を応急的に編成し、第2装甲軍の進撃路に当たるオリョール北東のムチェンスクに急派した。
10月6日、ムチェンスクに接近した第24装甲軍団の第4装甲師団はソ連第1親衛狙撃軍団の第4戦車旅団(カトゥコフ大佐)の反攻を受けて、ひどい損害を被った。
この時、カトゥコフは第4戦車旅団に配属されている少数のT34を森の中に秘匿し、ドイツ軍の先鋒をやり過ごすよう命じた。その後、レリュウシェンコの歩兵と空挺部隊が正面からドイツ軍の装甲部隊を食い止めている間に、待ち伏せていたT34に側面から攻撃させるという巧妙な戦術を駆使してみせた。
この時期にドイツ軍が標準装備していた37ミリ対戦車砲は、T34の厚い装甲に対しては無力で、ほぼ同口径の75ミリ短射砲を装備したⅣ号戦車でさえも後方に回り込まないと撃破は不可能だった。カトゥコフのこの作戦は見事に成功し、第1親衛狙撃軍団はその後、4日間に渡って第4装甲師団をその進路上で食い止め、装備戦車の半数を撃破することに成功した。
この出来事は第2装甲軍に大変なショックを与え、グデーリアンも渋々ながら敵が「学習」しつつあることを認め、このように書いている。
「苦しい戦闘が、じわじわと将校や兵士たちに悪影響を及ぼしていた。激しい戦闘によって、優秀な将校がどれだけ消耗しているかを眼の当たりにして驚いた」
しかし、ドイツ軍の将兵たちを待ち受けていたのは、ソ連軍との戦闘だけでは無かった。10月6日の夜に降り始めた初雪が、ロシアの町を結ぶ未舗装の道路を深い泥濘へと変貌させていたのである。
「こんなひどい泥濘は、誰も見たことがないと思う」グロスマンは書いている。「雨、雪、雹、ぬらぬらと底なしの湿地、小麦粉をこねたような黒い泥が、幾千幾万もの軍靴、車輪、キャタピラが地面につけた刻印と入り交じっていた」
このあと数週間に渡って続いた「泥濘期」によって、ドイツ軍はもともと貧弱だった兵站機能にさらなる負担を強いられることになった。物資を運ぶ輸送部隊のトラックが深い泥濘に足を取られしばしば立ち往生したので、戦闘を続ける前線部隊は一頭立て荷車を農村から手当たり次第に徴集して急場を凌いでいた。
最も長い距離を進撃する必要のある第2装甲軍は装甲部隊の移動能力を維持するため、10月5日に第2航空艦隊に対して燃料の空路補給を要請したが、オリョールを攻略した後から同地に到着する燃料積載の列車本数を減らされ、ソ連軍の反攻を乗り切った10月11日には進撃をいったん停止せざるを得なくなっていた。
〇防御態勢の再構築
10月7日の夜、モスクワに到着したジューコフはクレムリンの執務室で、ひどい風邪にかかっていたスターリンに迎えられた。スターリンはぶつぶつと文句を吐いた。
「西部正面軍は非常にまずいことになっている。戦況についての詳しい情報が入ってこないのだ。すぐにその司令部や部隊を訪ねて状況を確かめて報告せよ」
肉体的にも精神的にも疲労していたが、ジューコフは車に乗り込み、モジャイスク北東約4キロの位置にあるアラヴィノに置かれた西部正面軍司令部に向かった。翌8日午前2時半、ジューコフは待ち構えていたスターリンに電話をかけ、現状の報告を行った。
「現在の主たる危険な要因は、モスクワまでの道路がほとんど守られていないことです。モジャイスクの防衛線に沿った施設は、ドイツ軍の攻撃を阻止するためには、あまりにも手薄です。できるだけ早急に、この防衛線に兵力を集中させなければなりません」
10月10日、スターリンはジューコフを西部正面軍司令官に任命した。要職の人事異動で指揮系統が動揺することを恐れたジューコフは、前任者のコーネフを罷免せずに副官として登用するようスターリンに願い出て、スターリンはしぶしぶこの提案を認めた。そして、部下の全員に「自分の流儀」を分からせるために、ジューコフは最初に行った訓示を次のように述べた。
「戦場を勝手に離脱する者、許可なく現在の陣地から後退する者、兵器や車両を放棄する臆病者、パニックを起こす者はその場で射殺すべきである」
10月12日、「最高司令部」は西部正面軍の主力部隊がヴィアジマで包囲されたため、背後に展開していた予備正面軍を西部正面軍に編入させるよう命じた。この命令により、ブジョンヌイは役職を失ってモスクワに帰還した。
そして「最高位司令部」はモジャイスク防衛線を掩護させるために、4個狙撃師団、3個狙撃連隊、5個機関銃大隊、7個戦車旅団その他をはじめとする部隊を応急的に配置させた。ヴォロコラムスク、モジャイスク、マロヤロスラヴェツ、カルーガの各方面で防備についていたこれらの部隊はそれぞれ第16軍、第5軍、第43軍、第49軍の各軍司令部に統合された。
さらにこの日、国家防衛委員会はモスクワ市街地から半径100キロの外周に「モスクワ防御地帯」を設定し、市街地そのもの周辺に防衛線を構築するよう命じた。その防衛線はモスクワ=ヴォルガ運河からセルプーホフまでの外郭ベルトと、市内の3本の防衛線から構成されていた。
モスクワ河岸通りの住民には立ち退きが命じられ、徴集された住宅やアパートは防御拠点として改築された。婦人を中心とする約60万人のモスクワ市民が動員され、防衛線の構築作業に従事していたが、ドイツ軍が首都に迫りつつあるとの噂や将来に対する悲観的な空気が急速にただよい始めていた。
10月13日、ヴィアジマから進撃していた第4装甲軍の第40装甲軍団はモスクワ街道に立ちふさがるモジャイスク防衛線のほぼ中央に位置するボロディノに到達した。同地を守っていたのは、ソ連第5軍(レリュウシェンコ少将)の第32狙撃師団(ポロスーヒン大佐)と3個戦車旅団(第18・第19・第20)だった。
極東軍管区から派遣された「シベリア部隊」である第32狙撃師団は戦車部隊の支援を受けながら、第40装甲軍団の第10装甲師団(シャール中将)とSS自動車化歩兵師団「帝国」(ハウサー中将)とナポレオン戦争の古戦場で凄まじい白兵戦を繰り広げたが、17日には後退せざるを得なくなった。
10月14日、第3装甲軍の第41装甲軍団はソ連第29軍をヴォルガ河の東に追い払ってモスクワ北西約160キロに位置するカリーニンに電撃的に突入した。第41装甲軍団長モーデル大将は第1装甲師団に対し、即座にヴォルガ河にかかる橋脚を確保して、その北岸に橋頭堡を築くよう命じた。
モスクワの「最高司令部」はカリーニンを奪回するために、急きょ北西部正面軍から2個狙撃師団、2個騎兵師団、1個戦車旅団を引き抜いて機動集団を編成した。この機動集団の司令官には、北西部正面軍参謀長ヴァトゥーティン中将が任命された。
10月17日、ジューコフはカリーニンの防衛に副官のコーネフを派遣し、「カリーニン正面軍司令部」を創設するよう命じた。カリーニン正面軍にはヴァトゥーティン機動集団のほかに西部正面軍から第22軍・第29軍・第30軍・第31軍が編入された。
ドイツ中央軍集団は10月18日までにモジャイスク防衛線を北ではカリーニン、中央ではボロディノ、南ではカルーガでそれぞれ突破することに成功し、ジューコフは西部正面軍司令部をアラヴィノからペルフシコヴォへ後退せざるを得なくなった。
〇戦時下のモスクワ
秋が深まるにつれて、モスクワ市民は厳しい寒さを身にしみて感じるようになった。それは電力の不足や石炭の供給不足で暖房が使用できないといった物理的な要因だけではなく、ドイツ軍が首都に迫って来ているという精神的な圧力も関係していた。
10月8日、スターリンはドイツ軍がヴィアジマで包囲環を完成させたことを受け、国家防衛委員会に対しモスクワ市および州で「焦土作戦」の準備を行うよう命令を下した。NKVD次官セーロフが作成した破壊すべき建物のリストには、駅その他の鉄道施設、発電所、橋脚、タス通信本社ビル、電話交換局が含まれていた。クレムリンの守備隊には構内を爆破するための爆薬が支給され、NKVDも管轄下のオフィスを破壊する手筈を整えていた。
一般の民衆には、こういった事態についての説明は一切なかった。負傷兵や看護師、記者たちが前線からモスクワに戻ってきては、それぞれが見てきた状況を語った。この時期になると、モスクワでも遠雷のような砲声が聞こえるようになり、流言が事実にとってかわられた。ある市民の日誌には次のように書かれていた。
「破局が迫りつつあるという無常観、際限のない流言が広まっている。オリョールが陥落し、ドイツ軍はマロヤロスラヴェツを攻略。今日の気分はとりわけ憂うつである」
10月15日、ドイツ第4軍はモスクワ南方約160キロに位置する古都カルーガを占領し、その陥落はクレムリンに伝えられた。迫り来る途方もない脅威を身近に感じたスターリンは、急きょクレムリンの執務室に共産党政治局のメンバーを召集して会議を開いた。出席者の顔がそろうと、スターリンは平静に状況を説明し始めた。
「ドイツ軍がいつ何時、突破攻撃してくるかも分からないので、必要な準備は整えておかねばならぬ」
短い討議の後、スターリンは決定を口述させた。この日の内に共産党政治局、政府、外交団の大部分をモスクワ東方のヴォルガ河岸クイビシェフ(サマラ)に疎開させ、モロトフが副首相として随行する。国防人民委員部(国防省)と海軍人民委員部(海軍省)はクイビシェフに移転させるが、赤軍参謀本部はヴォルガ河岸ニジニ・ノヴゴロドのアルザマスに移転させる。スターリン自身がモスクワを離れるかどうかは言及されなかった。
そして、モスクワ軍管区司令官アルテミエフ中将は最後の抗戦の準備を整える。敵がモスクワに到達した場合、NKVD長官ベリヤとモスクワ市共産党議長シチェルバコフがリストアップされた施設の破壊に責任を負うとされた。党が必要としない文書は完全に焼却するよう厳命され、党文書館ビルに隣接する公衆浴場のボイラー室から黒い煙が上がった。
10月16日、コスイギンが共産党人民委員会の建物に入ってみると、すべてが放置されていた。書類は散乱し、ドアの開いた無人のオフィスには鳴り響く電話の音しかしなかった。コスイギンは部屋を駆けずり回って、電話に出た。だが、間に合って受話器を取っても、相手は無言のままだった。正体を明らかにした1人は、無愛想にこう尋ねた。
「モスクワは降伏するのか?」
政府による公式報道は皆無だったが、一般の市民はさまざまなルートから状況をかなりよく把握していた。省庁の疎開のニュースと度重なるドイツ空軍の空襲、それにヴィアジマとブリャンスクでの敗戦を受けて、モスクワ市民の間でデマや噂が広まった。クレムリンの政変でスターリンが逮捕されたとか、ドイツ軍の落下傘部隊が降りてきて、赤軍の軍服を着たドイツ軍兵士が市内に潜伏しているといった噂が飛び交った。
10月16日の朝は、低くたれこめた雲から時おりみぞれまじりの雨が降っていた。街頭に出た市民は市内の状況が一変していることに気付いた。新聞が配布されず、多くの郵便配達員が解雇されていた。バスや市電は運休し、地下鉄は運行本数を減らしていた。出勤した人々は、工場の門が閉鎖されていたことに気付いた。
10月16日から18日にかけて、モスクワは恐慌状態に陥った。街では店が襲われ、缶詰めを積んだトラックが略奪され引っくり返され、火が放たれた。家の壁からスターリンの肖像画が外され、党員証が平気で焼かれた。朝になると、急造されたガリ版のビラが街にばらまかれた。その文面はひどく扇情的で、政府をこき下ろしたものだった。あるジャーナリストの日誌には、この日のモスクワの様子が詳細に描かれている。
「誰が工場の閉鎖を命じ、労働者の解雇を命令したのか?この大混乱、集団逃走、略奪、人々の心の中の困惑を招いた黒幕は誰なのか?人々は怒りに燃え、大声で喋っている。おれたちは騙された。船長らが真っ先に船を見捨て、しかも貴重品を持ち逃げしたと。3日前だったら、軍法会議に掛けられそうなことを、みんなが大声で話している。トップのヒステリーが大衆に伝染した。人々はあらゆる屈辱、抑圧、不正、官僚たちの傲慢な態度、当の欺瞞と自惚れ、大衆に対するごまかし、新聞の大嘘や提灯記事を思い起こし、数え上げるようになってきている。こんな雰囲気に支配されている都市の防衛が、はたして可能だろうか?」
〇戒厳令
10月18日、政府や共産党、警察はモスクワの事態収拾に腐心していた。すでに暴動はモスクワだけに限らなかった。労働者と話し会い、平静に戻らせるために政府高官が出向くことになった。共産党政治局のメンバーの1人であるミコヤンは自らスターリン自動車工場を訪れ、集会を開いていた労働者たちに訴えた。
「スターリンもモロトフも、モスクワに留まっている。政府の諸機関が退去したのは、戦線がモスクワに近づいたからだ。諸君は落ち着いていなかればならぬ」
この日の午前中、クレムリンにあるスターリンの住居に航空工業人民委員部長官を務めるシャフリンをはじめとする省の長官らが集まった。寝室から出てきたスターリンはパイプに火を付け、部屋の中を行ったり来たりしはじめた。そこにモロトフ、マレンコフ、シチェルバコフ、コスイギンらが入って来た。スターリンは突然、脚を止めて尋ねた。
「モスクワはどんな様子かね?」
誰も答えなかった。無言のまま、互いに眼と眼を合わせていたが、やっとシャフリンが口を開いた。
「市電と地下鉄が運転を停止し、パン屋その他の商店が閉鎖され、市内で略奪が行われているという噂もあります」
スターリンはちょっと考えてから口を開いた。
「うむ、それぐらいならまだよかろう。事態はもっと悪くなりかねないとわしは思う」
そしてシチェルバコフに顔を向けて、付け加えた。
「市電と地下鉄の件は即刻調査の必要がある。パン屋、商店、飲食店を開き、残留している医師を集めて診療所を再開させること。君は今日にでもラジオで平静を呼びかけ、あらゆる公共サービスの正常な運営を君たちが保証すると民衆に告げよ」
実際にシチェルバコフは前日にもラジオ放送を行ったが、効果のほどはこの日の放送の方が大きかった。大げさな決まり文句を排し、平静で思慮深い口調で彼は語った。市内の交通機関は正常に運行され、劇場や映画館も開かれる。部署を放棄する者は厳罰に処するとされた。モスクワ市民は市政の最高責任者であるシチェルバコフのこの放送を信用し、パニックは次第に収まっていった。
10月19日の夕刻、モスクワ市内の様子はだいぶ落ち着いてきていたが、クレムリンの雰囲気は相変わらず重い空気が垂れ込めていた。灯火管制で室内は暗く、人けが少なくがらんとしていた。クレムリンで開かれた会議で、スターリンは陰鬱な面持ちで室内を行き戻りつしていた。
「モスクワをいかにすべきか?」
この問い掛けに誰も答えなかったので、スターリンは言葉を続けた。
「私が思うに、モスクワは放棄すべきではない」
「もちろんです、スターリン同志。そんなことは問題にもなりえません」
まっさきに口を開いたのは、ベリヤだった。モロトフをはじめとする他の出席者も揃ってスターリンの意見に賛同を示した。その後、スターリンはシチェルバコフに「モスクワに非常事態を布告する」政令の口述を書き取らせた。
10月20日、「ここに公表する文書によって以下の諸項を布告する」として、モスクワで発行される各紙に「全市を戒厳令下に置く」とする政令が公表された。
「モスクワ警備司令官シニロフ少将の特別許可証を所持せぬ者は、午前0時から5時まで外出してはならない。唯一の例外は空襲中に待避所へおもむく場合である。シニロフには市内の秩序を極めて厳格に維持する責任があり、そのため警官、NKVDおよび民兵が彼に配属される。公共の秩序を乱す者は逮捕され、軍法会議にかけられる。挑発者、スパイ、その他社会不安を助長する全ての人物は即座に銃殺される」
翌日から、市内の雰囲気はがらりと変わった。だが、党の政策、軍法会議、処刑をもってしてもモスクワを覆う堕落を食い止めることは出来なかった。疎開した住居は荒らされ、脱走兵の隠れ家となった。防衛線の構築作業を逃げ出した少年たちが街を徘徊し、警備に当たるNKVDは地下鉄や駅、廃墟などを頻繁にパトロールしなければならなかった。
〇極限状態
モスクワは戒厳令によって平静を取り戻したが、依然としてその頭上には暗雲が立ち込めていた。ドイツ軍が首都に近づくにつれ、空襲はますます頻繁になり、市民は待避所に入ろうが、自宅に居ようが危険の度合いに大差が無いことを感じ取っていた。
最悪の被害を出したのは、10月28日の空襲だった。スタライヤ広場にある共産党中央委員会の建物が大型爆弾の直撃を受けた。ある医師はこの日の空襲の模様を次のように書き記している。
「ボリジョイ劇場が昨日やられた。中央電信局の隣を走るゴーリキー通りにも爆弾1発が落下。食糧品店の外の行列から多数の死傷者が出た。すべて警報が鳴る前のことだった。みんな品物を持ち、リュックを担いで歩き回っている。まるで旅行に行くか、よそに引っ越すみたいに」
10月29日、ゴーリキー通りのモスクワ市共産党本部のすぐ近くで爆弾が炸裂し、議長のシチェルバコフをはじめとする会議の出席者たちは爆風に吹き飛ばされ、ガラスと漆喰の破片が雨あられと降り注いだ。ドアが固く閉まって開かなくなったが、消防隊がそれを蹴破って全員を救出した。負傷者はいなかったが、シチェルバコフは軽い脳震盪を起こしていた。
11月に入ると、ドイツ第2航空艦隊は護衛戦闘機を付けることのできる距離にまで近づいていたので、夜間のみならず昼間爆撃も可能になった。空襲警報のサイレンは1日に何回も鳴り響き、警報が鳴ってから市民が待避所に駆け込む時間の余裕は、ある時には5分も無かった。死傷者が増えはじめ、市の監察医務院は残業を余儀なくされた。共同墓地もスペースが無くなり、遺体をまとめて埋葬したり、墓穴の間隔をせばめたりした。
スターリンが最も危惧したのは、モスクワ市民の心理的恐慌が首都防衛を担う赤軍将兵へ飛び火することであった。実際、前線のソ連軍部隊では「台風作戦」の開始後、所属部隊からの脱走や戦友への投降の呼びかけ、部隊の戦意低下を引き起こすような噂を流布したなどの理由で銃殺される兵士の数が急増していたのである。
この状況に対して、各正面軍司令部は所属する各部隊に政治指導員(ポリトルク)を派遣して、ほかの部隊で友軍の兵士が見せた英雄的な行為を力説し、兵士の戦意と「ドイツ軍への復讐心」を鼓舞する働きかけを絶えず行っていた。
ドイツ中央軍集団の南翼を担う第2装甲軍は小休止を取った後、ブリャンスク包囲戦を終了した第2軍の歩兵部隊がようやくオリョール周辺まで進出したことで装甲部隊がオリョール街道の側面防護を後退することができ、オリョールからトゥーラに向かう総攻撃を再開する準備を整えていた。
10月25日、第2装甲軍で組織変更が行われ、第48装甲軍団と2個兵団(第34・第35)は第2軍に転属された。それと入れ替わりに、第43軍団(ハインリキ大将)と第53軍団(ヴァイゼンベルガー大将)が第2装甲軍の指揮下に入った。
10月24日にようやくムチェンスクを占領した第2装甲軍の第24装甲軍団は再び攻勢を開始し、29日にはトゥーラの郊外にまで迫った。16世紀はじめにモスクワをタタールの侵略から護る要塞として発展したトゥーラは重要な兵器工場、製鉄所や化学工場が密集し、首都南方を走る鉄道の重要な結節点であった。
10月末の時点でトゥーラ市とその周辺に展開していたのはソ連第50軍の3個師団のみでいずれも兵力が半分近くにまで減少していた。トゥーラ市の共産党はNKVD連隊、労働者連隊、警察大隊などを編成して師団に組み込ませ、市の防衛と徹底抗戦を命じた。
第24装甲軍団と第50軍の間で激しい戦闘が11月7日まで続いたが、第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将は前線からの報告を分析した結果、トゥーラ市の外周から4キロの地点で前線を確保した上でいったん停止し、後続の部隊と補給物資の到着、そして地表の凍結を待つとの決断を下した。
中央軍集団司令官ボック元帥は「台風作戦」を冬の到来までに完了させるべく、攻撃再開を急ぎたいと考えていたが、11月4日に南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は部隊の消耗と補給体制上の問題からただちに進撃の停止を命じ、陸軍総司令部に1942年の攻勢のために軍集団の建て直しを要請した。
このルントシュテットの要請に、中央軍集団の各軍指揮官たちも続き、「台風作戦」はモスクワ攻略を狙う第2次攻勢を眼の前にして計画全体の見直しを迫られることになった。