〇ウクライナの解放
これまで南部のドニエプル河を巡る過酷な戦闘の方に一般の注目が集められていたが、ソ連軍は中央軍集団に対しても攻勢をかけ続けていた。これは南部の戦いと同様に重要であったが、それほどには成功しなかった。
9月末、スモレンスクの陥落に乗じて「最高司令部」は白ロシア解放に着手するよう命じた。この時、ブリャンスク正面軍は解体され、中央正面軍に統合された。
10月初め、カリーニン正面軍は急襲によってネヴェリ市を奪回し、中央軍集団と北方軍集団の連絡を切断し、北翼からヴィテブスクに迫った。その直後、白ロシア正面軍(10月16日、中央正面軍より改称)が白ロシアの南部で「ゴミョル=レチッツァ」作戦に乗り出し、西部正面軍はヴィテブスク東部のオルシャとモギリョフにあるドイツ軍陣地をくり返し攻撃していた。
11月初め、緒戦の成功によって「最高司令部」はバルト正面軍(10月16日、カリーニン正面軍より改称)、西部正面軍、白ロシア正面軍に集中攻撃に移るよう下令した。目標はミンスクの奪取と白ロシア東部全体である。だがこの野心的な攻勢も11月半ばには、天候の悪化とドイツ軍の頑強で抵抗に遭って失敗した。
白ロシアでの戦況が膠着したこと、そしてソ連軍がドニエプル河橋頭堡に閉じ込められたように思われたことにより、ドイツ軍は冬季のための作戦を中止し、これで戦闘は一時的に休止するだろうと考えた。だが、ソ連軍はそうはさせなかった。
12月中旬、ジューコフとヴァシレフスキーはモスクワからの召喚命令を受けて、クレムリンで1944年の全般的な戦略についての国家防衛委員会の会議へと出席した。
1943年の冬季戦はこれまでに行われてきた冬季戦のような全前線での同時攻勢ではなく、兵力を一戦域に集中して行うことが決定され、第1~第4ウクライナ正面軍が主攻勢正面と定められた。ドニエプル河東岸を掃討するため、「最高司令部」は4つの作戦を立案し、1個ないし2個正面軍が担当させた。そして、レニングラードの解放など一部の作戦を除き、他の正面軍では補助的な作戦以上の行動は行わないよう指令が下された。
ドニエプル河東岸を掃討する4つの作戦は、以下の地点と日付が設定されていた。
43年12月24日、ジトミール=ベルディチョフ。
44年1月5日、キーロヴォグラード。
44年1月29日、ロブノ=ルーツク。
44年1月30日、ニコポリ=クリヴォイローグ。
これらの攻勢を連動的に実施することによって、「最高司令部」は設定した攻撃目標をある時点まで隠蔽しながら、ある正面軍から別の正面軍に必要な砲兵と戦車部隊を移動させつつ運用することを可能とさせた。
ウクライナの冬は通常、ロシア本土よりもはるかに穏やかであった。そのため、ドニエプル河東岸解放のためのソ連軍の攻勢は1943年12月から1944年2月末まで休みなく続けられた。この間にも、ドイツ軍の後方地域ではクレムリンの指揮下にあるパルチザンや、ソ連からの独立を目指すパルチザンが縦横に活動し、ドイツ軍との小競り合いを繰り広げていた。そして、1944年初頭の南部では「ウクライナ蜂起軍(UPA)」がパルチザンの最大勢力となっていた。
〇コルスン=チェルカッシィ包囲戦
第1ウクライナ正面軍(ヴァトゥーティン上級大将)と第2ウクライナ正面軍(コーネフ上級大将)による最初の2つの作戦―「ジトミール=ベルディチョフ」作戦と「キーロヴォグラード」作戦は、実際にはドニエプル河東岸の橋頭堡を拡大するという、今までの作戦の延長上に位置するものであった。
一連のソ連軍による攻勢の結果、キエフ南東のコルスン=チェルカッシィで、ドイツ南方軍集団は第1装甲軍(フーベ大将)と第8軍(ヴェーラー大将)が北東に向かってドニエプル河沿岸に大きく湾曲していた。幅125キロ、深さ90キロに及ぶその巨大な突出部は皮肉にも、ソ連軍がヴェリキイ・ブクリンで最初に渡河して橋頭堡を造った場所であり、ドイツ軍の「東方防壁」の最後の残滓だった。
ドイツ南方軍集団の情報部は、切迫したソ連軍の攻撃日時と場所は把握できなかったが、コルスン突出部でむき出しの部隊に対する作戦は、おそらく遅かれ早かれ開始されると推論していた。マンシュタインは陸軍総司令部を通じて、ヒトラーに部隊の撤退を進言したが、その要請は拒否された。
現地を視察した最高司令官代理ジューコフ元帥はドニエプル河から250キロも北西に延びていた第1ウクライナ正面軍にとって、コルスン突出部が潜在的な脅威になりえることを鋭く感じ取っていた。突出部を足がかりに、キエフとキーロヴォグラードへの奪還を行える可能性がある。この背景は、43年12月のコロステニとジトミールへの進撃中に、敵の第4装甲軍が行った強力な反撃があった。
そこで、ジューコフは急きょドイツ第8軍を包囲しつつ、敵の反撃を排除する二重包囲作戦を「最高司令部」に提案した。
「最高司令部」はジューコフの二重包囲作戦を承認し、現地で作戦指揮の監督を行うよう指示した。その間に第2ウクライナ正面軍は、クリヴォイローグの周辺に展開していた主力部隊を100キロ北方に移動させ、包囲作戦の準備を整えた。
1月24日早朝、第2ウクライナ正面軍の第4親衛軍(リューショフ少将)と第53軍(ガラーニン中将)はチェルカッシィ付近から攻撃を始め、ドイツ第11軍団(シュテンマーマン大将)の陣地を突破した。第5親衛騎兵軍団の支援を受けながら、第5親衛戦車軍が翌25日に真西に向かって突進した。
1月26日、今度は第1ウクライナ正面軍の第6戦車軍(クラヴチェンコ中将)と第40軍(ズマチェンコ中将)がブクリンの南西からドイツ第7軍団(ホルン中将)と第37軍団(リープ中将)の間隙を突破し、第6戦車軍の先鋒を行く第20親衛戦車旅団は東へ向かった。
1月28日、第1ウクライナ方面軍の第6戦車軍が第2ウクライナ正面軍との接続に成功し、コルスン=チェルカッシィの地区で薄い包囲網を造り上げた。
この日の夕方、東プロイセンから戻ったマンシュタインは麾下の2個軍団がソ連軍の戦車部隊によって包囲されたという報告を受けた。包囲陣にある2個軍団は異なる上級司令部に属しており調整に混乱を来すため、マンシュタインは第1装甲軍に所属する第37軍団に対し、第8軍の指揮下に入るように命じた。現地の指揮は第11軍団長シュテンマーマン大将が執ることになった。
ソ連軍の指揮官たちは、情報部の評価から10万人を超えるドイツ軍の兵力を包囲したと信じていた。第2ウクライナ正面軍司令部にいたある参謀将校は、後に回想している。
「これは第二のスターリングラードになる。今度もまた、逃れることは出来ないだろう」
しかし、実際に包囲されたドイツ軍―シュテンマーマン集団の兵力は約6万5000人だった。定員半数の4個歩兵師団(第57・第72・第88・第389)と1個支隊(軍団の半分に相当)を中心に、第5SS装甲師団「ヴィーキング」(ギレ少将)も含まれていた。
〇救出
マンシュタインは包囲された部隊を救出するため、第3装甲軍団(ブライト大将)と第47装甲軍団(フォアマン中将)の指揮下に多数の装甲部隊を集めた。だが、ヒトラーは「いかなる代価を払ってでもドニエプル河を死守すべし」と厳命し、「チェルカッシィ包囲陣」となる地域へ補給物資の空路補給を行うよう、作戦の変更を余儀なくされた。
「チェルカッシー包囲陣」への空路補給は1年前のスターリングラード攻防戦の時と異なり、大きな成功を収めた。ドイツ空軍は総計で医薬品4トン、弾薬868トン、燃料約8万ガロンを空輸し、東部戦線におけるドイツ軍将兵の士気が考慮されたため、一部の上級指揮官と約4000名の負傷者が後方へ送られた。
2月5日の夜、第2ウクライナ正面軍司令官コーネフ上級大将は3個軍(第4親衛軍・第27軍・第52軍)に対して包囲陣内を間断なく叩くよう命じ、これらの部隊は1週間後にコルスンの飛行場を占領した。残存するドイツ軍が隠れている拠点に対して、第2飛行軍が焼夷弾による空襲を行った。
2月11日、救出部隊である第3装甲軍団と第47装甲軍団は進撃を開始した。第47装甲軍団は第5親衛戦車軍の反撃を受けてほとんど前進できなくなってしまったが、その北翼を進む第3装甲軍団は第6戦車軍の前線を突破することに成功する。
2月13日、シュテンマーマン集団は包囲陣の北方に展開する部隊をコルスンから撤退させ、包囲陣の南西部に位置するシャンデロフカを占領した。時を同じくして、第3装甲軍団の先鋒をゆく第1装甲師団(コル少将)がリシャンカに到達した。
2月16日、スターリングラードの惨劇を繰り返すつもりは無かったマンシュタインは集団司令官のシュテンマーマンに対して直接、無線連絡を行った。
「合言葉は自由。目的地はリシャンカ。2300時」
シャンデロフカとリシャンカの間は距離10キロ。シュテンマーマン集団は第5SS装甲師団「ヴィーキンク」を先頭に、後衛は2個歩兵師団(第57・第88)がつとめた。シュテンマーマン自身は後衛と行動を共にした。
スターリンから包囲されたドイツ軍の殲滅を求められると、コーネフは第4親衛軍を南東へ、第5親衛戦車軍を南西へ攻撃するよう命じた。「パンター」や「ティーガー」を装備するベーケ重戦車連隊と第1SS装甲師団「LAH」(ヴィッシ少将)が、リシャンカへの回廊を保持している間、シュテンマーマン集団は西方へ脱出した。ドイツ軍の突破を阻もうと、第4親衛軍と第27軍は容赦ない攻撃を加え、シュテンマーマンは退却戦の最中に戦死してしまった。
2月17日、第3装甲軍団とシュテンマーマン集団は合流した。包囲された兵力のうち3万5000人の将兵を包囲網の外へ脱出させることに成功し、同月19日に救出作戦を終了した。包囲から逃れることのできた部隊は多数の重装備と兵員を失い、再編成を行うため後方に送らざるを得なくなっていた。
しかし、ドイツ軍の注意が「チェルカッシー包囲陣」に釘づけになっている間にも、第1ウクライナ正面軍は伸びきった南方軍集団の北翼に対して、「ロブノ=ルーツク」作戦を行っていた。第13軍と第60軍は2月11日までに、ドイツ軍の後方に対する今後の作戦を遂行する上で重要な地点であるロブノとルーツクを奪取した。
もっと南方では、第3ウクライナ正面軍(マリノフスキー上級大将)と第4ウクライナ正面軍(トルブーヒン上級大将)が、ドニエプル河大彎曲部の対岸に布陣したドイツA軍集団(クライスト元帥)に対する大規模な攻勢に乗り出した。1月30日に攻撃を始めると、ニコポリの橋頭堡を壊滅させてクリヴォイローグ市を占領した。
ウクライナでのドニエプル河東岸に対する5つの作戦によって、2月末までにドニエプル河の全ての線でドイツ軍は完全に掃討された。ドニエプル河南部の防衛線を奪われた南方軍集団は、ウクライナの広大な平原で各個撃破される危機に瀕していた。
〇レニングラードの解放
ドイツ陸軍総司令部は1944年1月以降、ウクライナにおけるソ連軍の脅威が増大したことに動揺していたが、北方軍集団司令部は白ロシア(ベラルーシ)に関心を向けていた。しかし、モスクワの「最高司令部」は白ロシアよりもさらに北方に着目していた。
すなわち、レニングラード正面軍(ゴーヴォロフ上級大将)とヴォルホフ正面軍(メレツコフ上級大将)によるレニングラードの包囲解放を主眼とした「ノヴゴロド=ルガ」作戦を実施しようとしていたのである。
ソ連軍にとって幸運だったのは、フィンランド軍がレニングラードの奪取に対してあまり熱意が無く、緒戦時に「冬戦争」で奪われた自国領を奪回すると、その後は目立った軍事行動を行わなくなっていた。このフィンランド軍の無関心と北方軍集団(キュヒラー元帥)から戦略予備が南方へ転出したことが相まって、1943年末の時点でドイツ第18軍(リンデマン上級大将)は決定的なまでに弱体化していた。
「最高司令部」は第2打撃軍(フェデュニンスキー中将)に氷上を通ってオラニエンバウム橋頭堡に移動するよう命じた。オラニエンバウムはドイツ軍に占領されずに残ったレニングラード西方の狭い筋状の土地で、今やここがドイツ軍に対する挟撃作戦のための跳躍台とされたのである。
1943年11月中に氷が次第にフィンランド湾を閉ざしつつあったが、第2打撃軍は夜間にそっと船団を組んで、オラニエンバウムの橋頭堡に潜入した。表向きはソ連軍が橋頭堡から撤収しつつあるということになっていたが、1944年1月までに兵員2万2000人、戦車140両、火砲380門を氷上突破させて、橋頭堡を強化していた。
1944年1月14日、レニングラード正面軍はバルト艦隊の支援を受けて、火砲2万1600門による重砲撃を加えた。第2打撃軍はオラニエンバウムからゆっくりと南翼へ攻撃を開始した。ドイツ軍の注意がオラニエンバウムに注がれている間に、翌15日には3個軍(第8軍・第42軍・第54軍)が攻撃に加わり、さらにヴォルホフ正面軍も南方のノヴゴロド周辺で攻勢に乗り出した。
1月22日の朝、北方軍集団司令官キュヒラー元帥は総統大本営「狼の巣」を訪れ、ヒトラーに対し撤退許可を求めたが却下された。翌23日、ドイツ軍による市街地への攻撃が終了した。
だが、「ノヴゴロド=ルガ」作戦におけるソ連軍の進撃は遅い上に手探り状態のものであり、南部での成功とは大きな隔たりがあった。なぜなら、多くの上級指揮官がこれまでレニングラード市内もしくはその周辺で過ごしてきたため、他の戦線で同僚たちが攻撃の経験を積み重ねていったような機会に恵まれなかったからである。多くの場合、戦車部隊も砲兵も偵察もうまく機能することなく、1941年当時の無様な戦術が繰り返された。しかもドイツ軍が構築した陣地は、歩兵と工兵が命知らずの勇気を振るってようやく制圧できるほどに堅固だった。
1月27日、レニングラードは公式に解放が宣言された。ドイツ軍の先遣部隊が市の外郭防衛線に姿を見せた1941年8月21日から数えて、ちょうど889日目のことだった。ヒトラーはレニングラード陥落の責任からキュヒラーを更迭し、北方軍集団司令官に後任として第9軍司令官モーデル上級大将を任命した。
新しく北方軍集団司令官に就任したモーデルは防御戦を指揮しながら、麾下の部隊をルガ河とイリメニ湖西岸まで後退させた。北方軍集団はペイプス湖からフィンランド湾に至る幅45キロの狭い陣地―「パンテル線」に立てこもった。
「パンテル線」の中央を通るナルヴァ河を突破することで、ドイツ軍は包囲されることを恐れ、エストニアから退却せざるを得なくなることが予想された。スターリンはエストニアからドイツ軍が撤退させることにより、「継続戦争」を続けているフィンランドの抵抗を崩壊させようと考え、レニングラード正面軍に対して「ノヴゴロド=ルガ」作戦の延長線上として、エストニア攻略作戦を命じた。
2月8日、スターリンはフィンランドのヘルシンキ政府に対し、「継続戦争」に関する和平条件を提示した。しかし、この和平条件はフィンランドにとって到底受け入れられない内容だった。
フィンランドに和平条件を承認させるため、エストニアを占領するよう迫られたレニングラード正面軍は2月中旬から4月にかけてナルヴァ河への攻撃を繰り返し行ったが、ドイツ軍は「パンテル線」の防衛に成功した。
4月18日、フィンランドはソ連との和平交渉を終了した。北方の戦線はその後3か月間に渡って、独ソ両軍のにらみ合う状態が続いた。