〇ヴォロネジ攻防戦
ソ連軍はハリコフとセヴァストポリで立て続けに苦杯をなめる結果となったが、ドイツ軍も第2次ハリコフ攻防戦のために、「青」作戦のための準備が台無しにされてしまい、工程表に大きな変更をせざるを得なくなった。
6月1日、ヒトラーはポルタヴァの南方軍集団司令部に飛び、「青」作戦の第2段階の攻勢開始日を同月28日まで延期することに同意した。その間に、南方軍集団の各部隊は修復と補充を済ませ、出来るだけ多くのソ連軍を排除しようと前線に集結していた。
6月19日、ドイツ第23装甲師団作戦参謀ライヘル少佐が乗った軍用機が、ソ連軍の後方地帯に墜落した。ソ連軍の情報将校は墜落機から「青」作戦の完全な文書を鹵獲し、すぐさまモスクワに通報した。
スターリンは依然としてヒトラーが再びモスクワを叩くと考えており、カフカス地方の制圧を目指す「青」作戦の文書を欺瞞であるとして退け、耳を貸そうとはしなかった。来たるべき「青」作戦の担当正面に当たるブリャンスク正面軍司令官ゴリコフ中将は6月26日、たまりかねてモスクワに電話したが、スターリンはにべもなく文書の信憑性を繰り返し否定してみせた。
6月28日、南方軍集団の夏季攻勢が予定通り開始された。第4装甲軍の第48装甲軍団(ケンプ大将)と第2軍はクルスク東方からブリャンスク正面軍と南西部正面軍の境界面を裂くように進撃し、ロシア中央に位置する交通の要衝ヴォロネジへ向かった。
7月3日、南西部正面軍に最大の危機が訪れる。ヴォルチャンスクから進撃を始めた第6軍と第4装甲軍の第40装甲軍団(シュヴェッペンブルク大将)が、スタールィ・オスコルで合流を果たしたのである。その結果、包囲された3個軍(第13軍・第21軍・第40軍)は統制を失い、各軍の部隊は散り散りになりながら、東方へ脱出しなければならなかった。
「最高司令部」は南西部正面軍の機能を回復させるべく、ブリャンスク正面軍司令官ゴリコフ中将に対して、司令部とともにヴォロネジに向かうよう命じた。現地には、参謀総長のヴァシレフスキーも援助のために駆けつけた。さらに崩壊した戦線を立て直すために戦略予備の中から第6軍、第60軍、第63軍、第5戦車軍が派遣された。
一方、ドン河湾曲部の南東にいるソ連軍を逃すつもりはなかったヒトラーは再びポルタヴァに飛び、南方軍集団司令官ボック元帥と協議した。スタールィ・オスコルで得られた戦果に満足していなかったヒトラーはヴォロネジの占領に関して、次のように発言した。
「私はヴォロネジに固執しない。それを必要とも考えていない。ただちに南進することを貴官の裁量に委ねる」
独裁者のあいまいな言葉遣いに、ボックはヴォロネジ占領を中断させるか決断を迫られる形となったが、夕方遅くに第48装甲軍団の第24装甲師団(ハウエンシルト少将)がヴォロネジから3キロの地点に到達したという報告を受けると、ヒトラーは第48装甲軍団のみでヴォロネジの占領を続行させ、それまで並行に進撃していた2個装甲軍団(第24・第40)を南方に方向転換させるという妥協案を指示した。
7月4日、第24装甲師団が「大ドイツ」自動車化歩兵師団(ヘールンライン少将)とともにヴォロネジ市の西端に突入したが、ソ連第5戦車軍(リジューコフ少将)による大規模な反撃が翌5日、ヴォロネジ北方から実施された。
この危機に対し、第4装甲軍は南進させるはずだった第24装甲軍団(エルレンカンプ中将)を割かねばならなくなった。結局、ソ連軍の反撃は失敗に終わるが、スターリンはモスクワへの攻勢を封じるために7月7日、「最高司令部」に第6軍、第40軍、第60軍からなるヴォロネジ正面軍(ヴァトゥーティン中将)を編成するよう命じた。
このため、ドイツ軍の2個装甲軍団(第24・第48)は7月13日まで、ヴォロネジ正面軍との壮絶な市街戦にくぎづけにされたのである。
〇ロストフの陥落
7月6日、南方での事態を重くみたスターリンは、それまで固辞し続けていた「ソ連軍部隊は撤退してはならない」という方針をいったん棚上げにし、南西部正面軍に対して「全面後退戦略」を命じた。南東へ戦線を後退させることによって、敵の攻撃軸をモスクワから誘導させることが目的だった。
7月9日、「青」作戦の第3段階が開始された。第1装甲軍と第17軍がスラヴィヤンスクからドン河を渡って、ドンバス地方の工業都市ヴォロシロフグラードに向けて攻勢を開始した。この段階の最初の目標はミレロヴォで包囲網を形成し、多数のソ連軍部隊を崩壊させることだった。
7月12日、南西部正面軍はスターリングラード正面軍に改称され、「最高司令部」は南西部正面軍の残存部隊に、戦略予備の中から3個軍(第62軍・第63軍・第64軍)を編入させた。各部隊は大きな不安を抱えながら、スターリンの命令に従って、東方への撤退を続けていた。
7月13日、第1装甲軍がミレロヴォに到達し、ヴォロネジから南進してきた第4装甲軍の第40装甲軍団が翌14日に合流したが、包囲できたのは第9軍と第38軍の一部だけだった。この3週間あまりで、ドイツ南方軍集団が得られた捕虜はわずか5万4000人に留まった。
この日に開かれた作戦会議の冒頭、ヒトラーは「第4装甲軍の遅延は、最も不快な現象である」と激怒して、ボックを南方軍集団司令官から解任した。ボックの司令官解任に伴い、南方軍集団はA軍集団とB軍集団に再編され、A軍集団司令官にはリスト元帥、B軍集団司令官にはヴァイクス上級大将がそれぞれ任命された。
7月16日、ヒトラーは自らの手でA軍集団・B軍集団を監督するため、陸軍総司令部と国防軍総司令部の作戦課を東プロイセンのラシュテンブルグからヴィニッツァ付近の「人狼(ヴェアヴォルフ)」野戦指令所に配置させた。
7月23日、A軍集団の先鋒をゆく第1装甲軍が劇烈な市街戦の果てに、ドン河下流の要衝ロストフを占領した。しかし、この地で得られた捕虜は第12軍と第18軍の一部でしかなかった。
前年のキエフに匹敵する包囲殲滅戦を目論んでいたヒトラーは苛立ちを募らせたが、参謀総長のハルダーが「敵の後退によるものでは」と推論を述べると、ヒトラーは「ばかばかしい」と一蹴した。
「敵は逃げている。ここ数か月で我が軍から受けた打撃のため、崩壊中なのだ」
ヒトラーはハルダーの反対を押し切って、第4装甲軍を分割してB軍集団に第24装甲軍団、A軍集団に2個装甲軍団(第40・第48)を合流させ、A軍集団に合流させるはずだった第11軍をレニングラードの攻略に派遣し、「大ドイツ」自動車化歩兵師団とSS自動車化歩兵師団「アドルフ・ヒトラー親衛隊旗(LAH)」(ディートリヒ上級大将)を休養と補給のためにフランスへ帰還させた。
さらに「総統指令第45号」において、ヒトラーは「青」作戦に変更を加えた。その内容は、カフカス全域の占領を最優先事項とするというものだった。
「3週間と少々の作戦で、私が東部戦線南翼に課した目的は大体において達成された。包囲を逃れてドン河南岸に達した部隊は、ティモシェンコ指揮下の一部のみである。
A軍集団はまずドン河流域の敵兵力を包囲殲滅し、次に黒海東岸全域を占領し、黒海艦隊と沿岸諸港の機能を奪った上で、カフカスのグロズヌイを占領、さらにカスピ海沿いに進撃してバクーを占領。
B軍集団はドン河流域に防衛線を構築しつつスターリングラードへ進出し、周辺地域に集結中の敵兵力を殲滅した後に同市を占領し、さらに快速部隊をアストラハンへと進出させて、ヴォルガ河の水運を封鎖せよ」
ヒトラーが下した判断について、ハルダーはこの日の日誌に次のように記している。
「敵の力に対する過小評価は徐々にグロテスクな形を取りつつあり、危険の度合いが増している」
〇高山を巡る戦い
ロストフの占領を完了させたA軍集団の第1装甲軍と第17軍は7月20日、ドン河南岸の橋頭保を出撃してカフカス地方への進撃作戦「エーデルヴァイス」を開始した。
高山植物にちなんだ作戦名が物語るように、A軍集団の目指す先はヨーロッパとアジアの境界に位置する標高4000メートル級の高山地帯、カフカス山脈が立ちはだかっていた。山脈の麓まではロストフから直線距離で一番近いクラスノダール付近でも200キロ以上、重要な作戦目標であるグロズヌイまでは600キロも離れており、そこに至るまでの乾燥した平原地帯は装甲部隊による機動戦に適した土地だった。
第1装甲軍(クライスト上級大将)の2個装甲軍団(第3・第57)が最初の難関であるマヌィチ河に到達すると、ソ連軍はマヌィチ河上流のダムを破壊して、ドイツ軍のドン河渡河点を水浸しにした。だが、その結果はカフカスに向かうドイツ軍を一時的に孤立させただけで、7月30日にはスターリングラードから黒海沿岸のノヴォロシースクに通じる重要な鉄道を遮断されてしまう。
敵の突破を許したソ連南部正面軍司令部は7月28日に廃止され、その所属部隊は北カフカス正面軍(ブジョンヌイ元帥)へと編入された。この時点で、北カフカス正面軍には計7個軍(第9軍・第12軍・第18軍・第24軍・第37軍・第47軍・第56軍)が所属していたが、戦車兵力は正面軍全体でわずか2個戦車大隊しかなく、敵の装甲部隊に対して反撃できる能力を有してはいなかった。
ソ連軍は戦車兵力の劣勢を補うため、この戦域に計7本の装甲列車(装甲板で周囲を覆われ、鉄道上でのみ移動できる砲台)を投入し、敵の進撃を食い止めようと試みた。長距離砲撃を主眼とするドイツ軍の列車砲と異なり、ソ連軍の装甲列車は敵との近接戦闘を想定して設計されていた。
だが、25年前のロシア内戦では大きな威力を発揮した装甲列車も、ドイツ空軍の爆撃などで線路を破壊されれば、後方へと離脱することすら出来なかった。結局、前線に投入された装甲列車のうちの5本は退却するソ連軍自身の手で爆破され、1本はドイツ軍の攻撃で破壊、残る1本のみが味方とともに南東へ退却した。
8月10日、ドイツ第57装甲軍団の第13装甲師団(ヘア少将)は石油採掘地のあるマイコプを占領し、A軍集団は黒海とカスピ海に挟まれた大きな地峡部を内側からくり抜くようにして、占領地を日毎に拡大させていった。
前線のドイツ軍にとって、それは栄光の日々であるかに思われた。「戦車とハーフトラックは見渡すかぎりの大草原を前進していく。きらめく午後の空に、三角旗が翻る」指揮官たちは臆面もなく戦車の砲塔に立ち、腕を高く挙げて部隊に合図を送る。道筋から舞いあがる土埃が煙霧のようにあたりに広がった。
一方、スターリンにとってカフカス地方を敵に奪われることは、重要な石油産出地を失うという経済的打撃だけでなく、連合国からのイラン経由での貸与物資輸送やトルコ参戦の可能性など、計り知れないほどの政治的打撃をソ連邦に与えることを意味していた。
国防人民委員部は7月28日、「指令第227号」を発令して徹底した軍紀の粛正と退却の厳禁を命じてはいたものの、独ソ両軍の兵力差と戦闘能力の差は歴然としており、この命令が前線で厳守されることは極めて少なかった。
8月12日、カフカスの要衝クラスノダールを陥落させた第17軍は黒海の制海権を奪取すべく、第5軍団をノヴォロシースクに、第44軍団をツァプセに向けて進撃させた。
また、その東翼では、第49山岳軍団(コンラート大将)に所属する2個山岳師団(第1・第4)の選抜隊が8月21日、カフカス山脈の最高峰であるエリブルス山(標高5624メートル)の登頂に成功していた。
〇指令第227号
7月23日、B軍集団の第6軍はA軍集団がカフカスへの進撃を開始したことに合わせて、スターリングラードへの攻勢を開始させた。
第6軍の第14装甲軍団(ヴィッテルスハイム大将)は、チル河付近から第62軍(コルパクチ少将)の北翼に対して攻撃を開始した。3日に渡る戦闘の後、第14装甲軍団の第16装甲師団(フーベ中将)は第62軍の防御線を突破して、ドン河湾曲部の渡河点であるカラチの北方に到達した。
7月25日、第62軍の後方に配置されていた第1戦車軍(モスカレンコ少将)と第4戦車軍(クリュウチェンキン少将)はドイツ軍の突出部を切断するため、ドイツ第14装甲軍団の南北から反撃を仕掛けた。しかし、ソ連軍の戦車部隊は装備が不十分で、指揮官たちも未熟であったため、この反撃は失敗に終わった。
さらなる進撃を計画していたB軍集団だったが、陸軍参謀本部から補給物資の分配がカフカスを侵攻するA軍集団を優先させると定められたため、第6軍は割り当てられるはずだった燃料を奪われ、あと数日でカラチに到達できる距離まで進撃した後、そこで停止を余儀なくされた。
7月28日、スターリンはクレムリンの執務室でヴァシレフスキー参謀総長から前線の報告を聞き、これ以上の撤退が軍全体の戦意喪失につながると思い立ち、ヴァシレフスキーにこう叫んだ。
「兵卒どもは私の命令を忘れておる!」
スターリンが持ち出したのは、前年の8月16日に口述した「指令第270号」のことだった。
「同じ文意で新しい命令を作成したまえ」
「いつまでにお持ちしますか」ヴィシネフスキーが言った。
「今日中にだ。でき次第、すぐ戻ってくるように」
その日の夕方、ヴァシレフスキーが持ってきた「指令第227号」の草稿は、「一歩も退くな(ニ・シャグー・ナザード)!」と題されていた。
「正面軍司令部の許可を得ることなく、勝手な判断で指揮下の部隊に退却を許可した軍・軍団・師団の司令官は即座に罷免して、軍事裁判に処する。臆病な者や逃亡の扇動者は見つけ次第、即刻銃殺する。各軍に3~5個中隊程度の規模で、優秀な兵士から成る『退却阻止分遣隊』を配置し、パニックに陥って逃亡しようとする将校や下士官を、武器を用いてでも鎮圧する。これ以上の退却は、祖国を破滅に導くことになるだろう。我々は今、退却を終わらせる時を迎えたのだ。一歩も退くな!」
ドイツ軍が迅速に進撃している間、スターリンは緒戦の頃と同様、将軍たちに自身の責任をなすりつけようとしていた。まずロストフ陥落の責任を取らせるために、7月23日にティモシェンコをスターリングラード正面軍司令官から罷免し、後任に第21軍司令官ゴルドフ中将を任命させた。
スターリンはヒトラーとは対照的に、スターリングラードを巡る戦いの情勢に大きな関心を寄せていたが、それは内戦の功績から自らの名が付与された都市を防衛するという単純な理由によるものではなかった。
ヴォルガ河の湾曲部にあるスターリングラードは河を利用した海運上の要衝であり、ロシア南部からモスクワ方面、ウラル山脈方面を結ぶ鉄道線上の結節点でもあった。ヴォルガ河の船舶輸送路は鉄道の10倍に匹敵する輸送能力を保持しており、1942年春から夏の時期にかけて、ソ連経済のほぼ1年分の備蓄量に相当する石油が同河を通じてモスクワと、ドイツ軍に占領された地域から疎開した工場が集中する中央アジアに運ばれていた。したがって、この都市を占領されると、カスピ海や黒海沿岸の港からロシア中央部へ向かう物資輸送や増援として送られる部隊の移動にも支障をきたすことになる。
そのため「最高司令部」はスターリングラード正面軍司令官ゴルドフ中将に対し、ドン河のロゴフスキーからヴォルガ河のライゴロドに至る線で防衛を強化するよう命じた。しかし、この時点ですでに同正面軍の担当地区が700キロに達していた。
そこで、ヴォルガ河の下流地域を担当する南東部正面軍が新たに設置された。モスクワ前面で受けた戦傷から癒えたばかりのエレメンコ大将が、司令官に就任した。