12
翌日、スヴェトラーノフの青いジグリはサンクトペテルブルクから北西に40キロほどの場所にあるゼレノゴルスキーを目指していた。刑事部長のコンドラシンから今朝、ある殺人事件の捜査に組織犯罪課と協力して当たるようにと命じられたからであった。
M10号線の周囲は見るべきものはあまりなく、村があると気づいた時には、もう通り過ぎていた。スヴェトラーノフの小ぶりでたくましい両手がせわしなくハンドルやレバーを操作するそばで、リュトヴィッツはホテル・プーシキンの206号室に残されたニコライのチェス盤を撮影した写真を眺めていた。
自称カスパロフが残した配置。あるいは、殺人者が残した配置。黒はポーンが3つ、ナイトが2つ、ビショップが1つ、ルークが1つ。白はポーン以外のすべての駒と、ポーンが2つ残っており、ポーンの1つはあと一手で好きな駒に昇格(プロモーション)できる位置にある。何か奇妙な印象を与えさせる盤面で、ここに至ったゲームのプロセスはかなり混沌としたものに思えた。
「これがほかのゲームだったら」リュトヴィッツは言った。「ポーカーとか、パズルとか、ビンゴだったら、別にどうってことはないんだが」
「わかるよ」
「これは途中で止めたチェスの対戦だ」
「それであんたは」スヴェトラーノフは幹線道路から少しはずれ、森の入口のような場所に車を入れた。「その駒の並びから何かを感じたんだ。カスパロフが死ぬ間際に、犯人の名前をチェスで示したってわけだ」
「でも、どうかな。チェスは意味がないかもしれない。とりあえず、俺はこの盤面から何も読み取れない。棋譜ってやつはどうも見るだけで頭痛がする。これは呪いだな」
森の中のでこぼこした道をだいぶ通って、ようやく何台かの警察車両が見えてきた。スヴェトラーノフが路面を蹴立てるようにジグリを停め、リュトヴィッツにどこか嗜虐的な笑みを向けてきた。
「さぁ、この事件はあんたの鋭い刑事眼が必要なるんだ。しっかりしてくれ」
リュトヴィッツとスヴェトラーノフはジグリを降りた。森の中にぽっかりと開いた小さな空き地へ、なだらかな斜面を下った。警察車両の輪の真ん中に、黒いヴォルガの車体とそれを調べる10人ぐらいの技官や警官の姿が見える。
その手前に、長身ではないが、均整のとれた体つきをした男が立っていた。灰色の長い前髪に櫛を入れている最中で、ネズミ色のジャケットの袖口から防虫剤の匂いがした。
「援軍というのは、君たちのことか?」
レオニード・ギレリス。ペテルで名前を知らない者はいない刑事だ。殺人課の勤務が長かったが、内務省の中で比較的新しく創設された部署である組織犯罪課を率いている。
「どうやらそのようですね」リュトヴィッツが言った。
ギレリスはやれやれといった調子でかぶりを振った。
「今の世の中じゃ、平和も友愛もへったくれもない。2人とも、ドミトリ・ヴィシネフスキーの名前は聞いたことがあるだろうな?」
2人とも、あると答えた。ヴィシネフスキーは旧ソ連最初のジャーナリストとして、二大人気雑誌の「アガニョーク」と「クロコディル」に常にセンセーショナルな記事を発表し、国民的英雄に近い存在になっていた。
「そのヴィシネフスキーが殺された。そして、私のところに白羽の矢が立てられた」
「殺しの現場は、ふつう俺たちに回されるはずなんですが」スヴェトラーノフが言った。
「どうやらマフィア絡みの事件であることを、状況がはっきりと示しているらしい」
「どんな状況です?」と、リュトヴィッツ。
「さぁインディアン諸君、それを確かめてみようじゃないか」
ギレリスの後に続いて、リュトヴィッツとスヴェトラーノフはヴォルガの助手席側のドアに回った。ブロンドの髪をした若い男で、ヴィクトル・ラザレフと名乗ったギレリスの部下が、ドアを開けて被害者を刑事たちに見やすくした。
車内には男が前のめりになって座り、血まみれのダッシュボードに額をあずけていた。後頭部にコペイカ硬貨ほどの穴が開き、ロウソクのように青白くなった顔から灰緑色の眼がこちらを睨んでいた。
ギレリスが手で十字を切り、それからため息をついた。
「ドミトリ・ミハイロヴィチ、なんとも痛ましい」
「知り合いだったのですか?」意外そうに、ラザレフが言った。
ギレリスはうなずき、一瞬泣き出しそうな表情を浮かべた。情動を抑えようとする努力が、上唇にあらわれていた。何度か咳ばらいした後、ようやく口を開いた。
「情報公開(グラスノスチ)のとき、ドミトリが最初にマフィアについて記事を書いて以来の付き合いだった。そのころはまだ、クレムリンはマフィアの存在を否定してた。うちの課が今あるのは、ドミトリのおかげと言っていい」
音を立てて鼻をすすり、ギレリスは震える手でタバコに火をつけた。
「いくつかの事件で、彼の手を借りた。彼が捜査のきっかけを作ってくれたことも、何度かある」
「わたくしにとっては長年、厄介の種というべき人物でした」
この切り返すような言葉に、刑事たちは全員、後ろを振り返った。大佐の制服ときっちりと着こなした赤毛のソーニャ・タルタコヴァが立っていた。科学技術部の主任を務めるタルタコヴァは持ち前のきつい性格から、《鉄のソーニャ》と呼ばれていた。
「まぁそれはそれとして、トランクの中で待ってるかわいそうな友だちのことを忘れないようにしましょうね」
リュトヴィッツの横をかすめるようにして、タルタコヴァは車の後部へ回った。懐かしい香りが鼻腔を通り過ぎ、リュトヴィッツはソーニャがエレーナと同じ香水をつけていることに気づき、意外に思った。タルタコヴァは写真係を肘で押しのけると、ゴム手袋をはめた手を無造作に振って、トランクの中身を指し示した。
トランクの乗客は手足を縛られ、古代の墓から発見されたミイラみたいに身体を2つ折りにされており、口をふさいだガムテープの上から何発か鉛をぶち込まれていた。ギレリスがタバコを強く吸い、遺体に顔を近づけて納得する響きのこもったうめき声をもらした。
「マフィアのサインです」タルタコヴァが言った。
「そのようだな」ギレリスが同意する。「文字通り、口をふさいだってわけか」
タルタコヴァは犯人が発砲の際にとったと思われる姿勢をとり、両腕を前に伸ばした。
「ことは単純。午前0時から2時の間に、犯人はここに立って撃ったのでしょう。この位置から弾を外せるのは、被害者の母親ぐらいのものです」
そう言うと、しゃがみこんで、地面に転がっている数個の薬莢を指した。1個ずつそばに小さな旗が立てられている。
「凶器はオートマチック。それもかなり大きめ。10ミリか、45口径でしょう。さらにこの薬莢の数からして、弾倉の容量もかなり大きいでしょう」
ギレリスは上体をかがめ、平らな小石を拾い、それでタバコを揉み消した。犯行現場に灰を落とさないように、吸殻を背広のポケットにしまう。小石をもとの場所に置いた。
「音がすごかっただろうな」
ギレリスはゆっくりと周囲を見渡した。小石だらけの浜に打ち寄せる波の音や、樅の木立を吹きぬける風の音の中で、誰かが銃声を聞きつける可能性を探っているように見えた。
13
ヴォルガから少し離れた場所に立てられた組立式のテーブルの前まで、タルタコヴァが刑事たちを先導した。テーブルの上には、いろいろな証拠品が並べられていた。リュトヴィッツはモスクワで見かけた骨董品を売る屋台を思い出した。
「薬莢の間に、吸殻がひとつ落ちていました」
タルタコヴァがビニール袋をひとつ、手に取った。
「アメリカ製のものを好む人物のようです」
「誰だってそうだよな」スヴェトラーノフがリュトヴィッツに眼を向けた。
「これは、後部座席で見つけました」
タルタコヴァからギレリスに手渡されたビニール袋には、空箱が入っていた。ギレリスがそれをテーブルに戻そうとしたとき、リュトヴィッツが横から手を出した。
「ちょっと見せてください」そう言って、証拠品の袋をギレリスの手から奪い取る。「底のほうから開けられてますね」
「そそっかしいやつだな」ギレリスは顔をしかめた。「それが何か役に立つのか?」
「犯人は軍隊にいたことがあるのかも」
「どっから、そういう推理が出てくる?」
「箱の下から開ければ、汚い手でフィルターを触らずにすむじゃないですか。その・・・口に入れる側を」
リュトヴィッツは、その知恵をアフガニスタン帰りのフィリポフから取調の際、学んでいた。
「そういうわけか。なんでわざわざ反対側から開けるのかと、20年前から不思議に思ってたんだ」
タルタコヴァが眉を吊り上げながら言った。
「兵隊がそんなにきれい好きだとは知りませんでした」
ギレリスはテーブルから1通のパスポートを取り上げた。入国管理官のようないかめしい表情を浮かべて、ページをめくる。
「トランクの男のものです」
ギレリスはタルタコヴァに上の空でうなずいてから、ヴォルガの向こうのそう遠くない地面をカメラで撮影しているタルタコヴァの部下へ眼を向けた。
「あっちでは何をやってるんだ?」
「タイヤの跡です。まぁ地面を見ればお分かりのように、はっきりとは残っていませんから、何かを割り出せることは期待できないでしょうね。それに、2台の車の間に、足跡が2組。ヴォルガがここに着いたとき、ヴィシネフスキーを撃った犯人はすでに後部座席に座っていたのではないかと推測されます。ヴィシネフスキーを殺した後、その男と運転手は車を降り、2人目を撃ってそれからもう1台の車のほうへ歩いていったのでしょう」
ギレリスはゆっくりとした足取りで、轍を見に行った。
「立ち去りかたも、悠々としたものだな。急発進した様子はない。手慣れている」
ラザレフが残りの情報を、民警の巡査から仕入れてきた。
「第一発見者は近くに住む釣り人で、今朝の7時ごろ・・・」
「この辺の海で、魚を釣ろうってやつの気が知れん」ギレリスは顔をしかめた。
リュトヴィッツも心の中で、ギレリスの意見にうなずいた。フィンランド湾の南岸に、ソスノヴィ原子力発電所がある。チェルノブイリの記憶がまだ鮮明なこの時期に、ソスノヴィの原発が今まで何を海に垂れ流してきたか分かったものじゃない。
ラザレフの報告は続いていた。
「地元の巡査の話では、この一帯はとても人気のある狩猟場だそうです。誰かが銃声を聞いたとしても、別に変わったことだと思わなかったんじゃないでしょうか」
「そうだな」ギレリスは相づちを打った。「たしか、ヘラジカがいるんだったな?」
ラザレフは首を振り、肩をすくめた。
「国家車両監査局(GAI)に問い合わせたところ、あのヴォルガの持ち主は、オレグ・サカシュヴィリです」
「サカシュヴィリ?」スヴェトラーノフが口をはさんだ。「たしか・・・グルジア・マフィアのボスじゃなかったか?」
「それは先代のほうだ」
ギレリスは、まだ手に持っているパスポートにちらりと眼をやった。
「オレグは先代の長男坊で、組織の若頭だ。1年ほど前にある密輸に関わって、やつを逮捕しようとしたことがあったな」
「サカシュヴィリは、ヴィシネフスキーにネタを提供していたんでしょうか?」ラザレフは言った。
「その線が強そうだな。アンドレイ、近親者への連絡はもう済んだのか?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、それが次の仕事だな」
サンクトペテルブルクの市街地に戻って、スヴェトラーノフとラザレフは、サカシュヴィリの近しい友人や親族を探す仕事に取りかかった。リュトヴィッツとギレリスは、ヴィシネフスキーのアパートがあるグリボイェードフ運河へと車を走らせた。
リュトヴィッツがギレリスのジグリを運転した。助手席に座るギレリスは窓を開け、タバコに火をつけた。
「いつ帰って来たんだ?」
「2日前の夜です」
「女房がひどく心配してた。君が自殺するんじゃないかとね。いまどこで暮してるんだ?エレーナと住んでいたアパートは引き払ったそうじゃないか」
「ホテル暮らしです」
「どこの?」
「プーシキンの505号室」
ギレリスはかぶりを振り、タバコを窓から投げ捨てた。
「いやはや、なんとも・・・君はいったい何を考えているのかね?」
リュトヴィッツは、ギレリスとは運命で出会うことが決まっていたとしか思えないと感じる時がたびたびあった。エレーナの父親であるギレリスはその実、25年前にホテル・プーシキンの505号室に入ってグレゴリー・リュトヴィッツが自殺したことを最初に確認した人物だった。
「親父がなぜ自殺したのか、いまだ分からないんです」
「エレーナから聞いたよ。手紙のことかね?いずれにせよ、君が責任を感じるようなことじゃないと思うが」
「それにあの日、プーシキンに部屋を取ってたことも不思議です。親父はいつも休憩にはユスポフを使ってました」
「あの部屋は、完全に自殺の現場だった。薬局は君の親父さんが睡眠薬を購入したことを認めたし、ホテルに不審な人物はいなかった。自殺の理由なんて、それこそ本人にしか分からんだろう」
「自殺したとき、親父はメモを残してました」
「内容はもう覚えてないが、たしか詩のたぐいだったな?」
「6行の詩で、ロシア語で書かれてました。女性に向けて詠ってました」
「ほう」
「気づいたことがあるんです」
「何だね?」
「6行ある詩の、それぞれの行の最初の文字をつなげると、名前になるんです。《カイーサ》という名前に」
「《カイーサ》?」
「《カイーサ》というのは、チェスの愛好家たちの女神の名前です」
ギレリスは「くそ・・・!」と独りごちると、殺されたジャーナリストの家に着くまで口をきかなかった。
14
ヴィシネフスキーのアパートは、少し北に立つ教会と運河をはさんで向かい合う革命前からある老朽化した建物の中にあった。その前の通りにリュトヴィッツはジグリを停めると、ギレリスは振り向いた。
「手をこっちへ出したまえ」
リュトヴィッツは黙って片手を差し出した。手相に造詣があるわけではないが、妙に迷信深いところがあるギレリスは一分近くかけて、リュトヴィッツの左手をつぶさに調べ、それから納得したようにうなずいた。
「エレーナがはじめて君を家に連れてきたときのことを覚えてるかね?」
「ええ」
「君の手相はそのころと全く変ってない。すさまじい悪運の持ち主ということだ」
ギレリスとリュトヴィッツが建物の裏庭に入ると、60歳ぐらいの小柄な老婆がすれ違いに出てきた。よれたレインコートを着て、小さな金庫を脇に抱えていた。老婆は鋭い目付きでギレリスのジグリを見据え、それからうさんくさそうに2人の刑事を睨んだ。リュトヴィッツには、ラスコーリニコフが殺害した金貸しの老婆その人ではないかと思った。
「そういえば、ラスコーリニコフの下宿はこの近くだったな」
リュトヴィッツの思いを知ってか知らずか、ギレリスはそんなことを呟き、ペンキも塗ってない安っぽい木の扉を開けた。差し込んだ陽光に驚いた大きなネズミがこそこそと暗がりへ逃げこんだ。古代の遺跡を思わせる汚れた茶色の壁を落書きが覆いつくしていた。
ひどいにおいのする狭い階段を四階まで上がり、ギレリスは手早くタバコを吹かして呼吸を整えてから、ドアのそばにある表札に眼をやった。
ドミトリ/カテリーナ・ヴィシネフスキー。
「カテリーナ?ドイツ系か?」と言うなり、ギレリスは引きひも式の呼び鈴を鳴らした。遠い教会の鐘のようなベルの音が響いて、1分ほど経ったころ、錠が回る音がした。
がっしりした鎖の長さの分だけ開いたドアのすきまに、30代半ばの金髪の女性が現れた。聡明な美しさをたたえたその顔に、隠しようのない不安の表情を浮かべていた。ギレリスがさっと身分証を開いて見せる。
「ヴィシネフスキー夫人ですか?」
「夫に何かあったんですね。そうでしょう?」
「中へ入れていただけますかな」
カテリーナはいったんドアを閉め、鎖を外してから、もう一度開いて、刑事ふたりを散らかった廊下へ通した。
その奥の居間には、折りたたまれたダブルサイズのソファがあり、一面の壁をユニット式の棚が占めて、ほかに小さなテーブルと二脚の肘掛け椅子、大きなワードロープが置かれていた。棚には大型のテレビとビデオデッキ、たくさんの本やビデオが収まり、テーブルには質素な食事の残りがのっている。
ロシアの平均的な住宅事情からすれば、さほど悪くない部屋だったが、棚のせいで昼間でも穴倉のように暗い。リュトヴィッツはすぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた。カテリーナは腕を組み、すでに予感している運命に備えて、固く身構えていた。
「悪い知らせをお持ちしました」ギレリスが抑揚のない声で言う。「ドミトリ・ヴィシネフスキー氏が亡くなりました」
未亡人になったことを宣告されたカテリーナはびくんと身を引きつらせ、まるで自分が死期を迎えたかのように、深いため息をついた。
リュトヴィッツは思うところがあって、反射的にカテリーナの顔から眼をそむけた。カーテンを開けて、窓の外に眼をやる。運河の向こうで、教会の丸屋根が日差しを受け、太陽のように金色に輝いて、直視しがたいほどだった。
「そうですか」ようやくカテリーナが言った。「分かりました」
「それだけではありません。申し上げにくいことだが、ご主人は殺されたのです。われわれもついさっき、現場を見てきました。いずれ正式に身元を確認していただくことになりますが、ご主人であることは間違いありません。そして、奥さん、われわれはあなたにいくつか質問をしなくてはなりません。無神経に思われるでしょう。こちらとしてもたいへん不本意なんですが、ご主人の生前の行動を早く明らかにできれば、それだけ早く犯人を逮捕することができます」
ギレリスは堅苦しい口調を用いることで、自分の感情と事件の間に距離を置こうとしているようだった。カテリーナはぎこちなくうなずき、アクリルのセーターの袖からハンカチを取り出した。
「ええ、そうですね」
カテリーナは目元をぬぐい、それから鼻をかむ。気持ちを落ち着かせようと、タバコに火をつけた。しばらく煙を吸った後、うなずいて心の準備が整ったことを知らせる。
「最後にご主人を見たのはいつですか?」
「夕べの・・・7時ごろだったと思います」遠い記憶をたどるような口調だった。「主人が出かけたんです。情報提供者に会うんだと言ってました。いま書いてる原稿のことで」
ギレリスはいっぺんにいくつもの質問をくり出した。
「その情報提供者の名前は、言いませんでしたか?どこで会うのかは?何時ごろ戻るというようなことは?」
「いいえ」カテリーナはタバコの灰を少し落とした。「夫は決して私に仕事の話をしませんでした。そのほうがいいと言うんです。聞いたら、心配するだろうって。たいていの場合、雑誌を読んだり、テレビを見たりしてはじめて夫が追いかけていたテーマを知るという有様でした。お2人とも、夫の仕事の内容はご存知ですよね?嫌がられるようなところへばっかり、首を突っ込むんです。ソ連が蛆虫の缶詰だとしたら、自分は缶切りになるんだというのが口癖でした。でも、ひとつだけ困ることが・・・」
「切った後にギザギザの角がたくさん残ることですな」ギレリスがカテリーナの言葉を引き取り、肩をすくめる。「我が国最初のジャーナリストともなれば、敵の数は2人や3人ではきかないでしょう」
カテリーナがとげの含んだ笑い声を上げた。
「2人や3人?」あざけるように言う。「ご自分たちの眼で確かめてみたらいいわ」
カテリーナはワードローブの前まで行き、扉を開けた。中に入って明かりのスイッチを入れると、執務室が現れた。天井から吊り下げられた裸電球が、小さな机と古い型のタイプライターを照らし出していた。
「ご覧のとおり、このアパートはとても手狭です」
カテリーナは説明しながら、奥に取り付けられた棚から箱入りのファイルをいくつか取り出した。
「これが、夫の仕事部屋でした」
15
カテリーナがファイルの箱を抱えて出てきたのと入れ替わりに、リュトヴィッツはヴィシネフスキーの書斎に足を踏み入れ、内部を詳しく調べた。
机上に置かれたメモ帳をのぞいて見ると、何も書かれていなかった。何ページかめくってみる。細長くてミミズのような筆跡。偉大なジャーナリストには、似つかわしくない文字に思えた。机の上方にはフェルト地のピンボートが懸かり、絵ハガキにサッチャーと笑顔で握手するヴィシネフスキーの写真がピンで留めてあった。
「これはみんな、クロコディルやアガニョーク宛に送られてきた手紙です」
カテリーナがギレリスに説明している。
「ほとんどが同じ内容。中傷の手紙だけは、検閲にもひっかからないのね。夫はこれを私に知られまいとしてましたけど、この狭いアパートで隠せるものなんて、そう多くはありません」
リュトヴィッツがメモ帳を持ってワードローブから出ると、ギレリスが今まで読んでいた手紙を渡して、絶望しきったように首を振った。リュトヴィッツも文面を読むと、そのあまりにこきおろした内容に顔をしかめた。
「ほかの手紙も、こんな調子ですか?」リュトヴィッツは聞いた。
「もっとひどい内容のものも、たくさんあります」
カテリーナはタバコを揉み消し、新たに1本出して、火をつけた。
「わたしたちがまだ、彼の仕事を日常の話題にしてたころ、ドミトリは・・・」
リュトヴィッツが驚いたことに、ギレリスがその後の言葉を継いだ。
「パステルナークの詩を引用していた」
「主人をご存知でしたの?」
「ええ」ギレリスは別の手紙に眼を通しながら答えた。「存じてました」
「主人の口から聞いたことがありませんけど、ギレリス大佐」
「奥さんに心配をかけたくなかったんでしょう。ドミトリ・ミハイロヴィチは、いくつかの事件で私たちを助けてくれました。マフィア絡みの事件です。あなたはご主人を誇りに思っていい。りっぱな人物でした」
カテリーナは悲しげに瞬きして、ギレリスの言葉に力なくうなずいた。はた目に分かるほど、頬が紅潮していた。
「りっぱな人です。本物の英雄です」
「こういう脅迫めいた手紙の中で、ご主人が特に深刻にとらえていたものはありますか?」
「全部です。これはわたしの推測ですが・・・こういう手紙を話題にすることを、夫は避けたがっていたので・・・」
「聞いたら心配するだろうから、ということですな」
「最近は、本当にまいってるように見えました。夢にうなされるようになりました。それに、お酒の量がずいぶんと増えました」
ギレリスは顔をしかめ、首を横に振った。
「なのに、そのわけを一言も話さなかったんですか?一度も、悩みを打ち明けるようなこともなかった?それは信じがたい。いや、あなたがウソをついてると言ってるんじゃありませんよ。私はただ、あなたとご主人との関係にとまどいを覚えるんです。こういうご質問をするのは失礼に当たるかもしれませんが、ご夫婦の仲はうまくいってたんですか?」
カテリーナはまたハンカチに手を伸ばした。
「とてもうまくいってました。問題は何もありません。少なくとも、人様にどうこう言われるような問題は・・・」
「そういう問題のことを言ってるんです」ギレリスが追い討ちをかける。「よくある夫婦間の問題です」
カテリーナは大きく首を振った。
「わたしたちは、とてもうまくいってました」落ち着いた声で繰り返し、しばらく黙り込んだ後、付け加えた。「ドミトリがたいへん古い考えの持ち主だったことは、分かっていただかなくはなりません。夫は、運の力をとても重んじてました」
「運はすべての人間につきまといます」
ギレリスは呟くように言い、手紙が入った箱のほうに手を振った。
「しばらくお預かりしなくてはなりません。日記やノート、住所録、ビデオテープなどと一緒にね。ご主人の死が、記事や発言となんらかのつながりを持っていることは間違いないでしょうから」
「どうぞ、要るものだけのものをお持ちになって」
そう言うと、カテリーナはソファの後へ手を伸ばし、アエロフロートのバックを取り出し、ギレリスに手渡した。
「運ぶのに使ってください」
肘掛け椅子に座り、今にも泣き崩れそうなカテリーナを残して、2人の刑事は部屋を出た。ギレリスがそっと後ろ手にドアを閉め、かなり老朽化が進んだ廊下を進んでいく。
「どうも気に食わん」ギレリスが吐き捨てるようにつぶやいた。
「何がですか?」
「夫人だよ。亭主の仕事について、なんであんなに知らないでいるんだ?電話で話しているのを、聞いたりはしないのか?書きかけの原稿を、ちらっと見たりはしないのか?」
「たいして不思議なことじゃないのかも。ヴィシネフスキーが妻を巻き込まれないようにしようとしていたのは、あながちウソのようには思えなかったですけど」
「ふん、どうだかね。あの女、きっと何かある」
アパートの1階には、住人が共同で使用する台所と浴室があった。水のしみ出した壁に、自転車が2台とスキーが何組か立てかけられ、その向こうに老齢の男女が立っていた。男が咳払いをして、ていねいな口調で話しかけてきた。
「ヴィシネフスキー氏のことはたいへんご愁傷さまでした、同志大佐」
長身で銀髪。眼鏡をかけ、鼻の下とあごにひげをたくわえた男はギレリスの訝しげな視線を受けて、弁解するように肩をすくめた。
「このアパートの壁は、ボール紙でできているのとほとんど変わりませんでな」
ギレリスは険しい表情のまま、うなずいた。
「お名前は?」
「コズロフです。これは、妻のアデリナ」
コズロフの隣に立つ、青い絹のスカーフを頭にかぶっていた女性が頭を下げた。ギレリスは軽く会釈し、コズロフに言った。
「最近、この建物の周りで不審な人物がうろついていることはありませんでしたか?」
「わたしどもはもうだいぶ前に、すべてに眼をつぶっておればずっと安全な生活を送れるということを学びました。いえ、時代が大きく変わったことは承知しておりますよ、同志大佐」
「最近、何か変わったことに気づきませんでしたか?」リュトヴィッツが辛抱強く言った。
夫が答えを考えつくより早く、アデリナが苦々しい声で口をはさんだ。
「あのジャーナリストはあたしらの冷蔵庫から肉を盗んだんです。それがあたしの気がついたことですよ」
ギレリスは両眉を吊り上げ、うんざりしたようなため息をついた。よくあるささいな出来事。共同アパートに住んでいて、食べ物のことで隣人といさかいを起こした経験のない人間はほとんどいないだろう。リュトヴィッツも大学生のころ、台所を共有する隣人とひと瓶のピクルスをめぐって、殴り合いのけんかをしたことがあった。
「やめなさい、アデリナ」コズロフがたしなめる。「そんなことが、いまさらどうだというんだ?亡くなったかたに、少しは敬意を払いなさい」
アデリナは夫の骨張った肩に顔を埋め、おいおいと泣き出した。コズロフはひげをつかんで、あごを胸のほうに引き寄せ、眼鏡の上縁ごしにギレリスを見た。
「妻のことはお許しください、大佐。あまり具合がよくないもので、何かお役に立てるようなことがありましたら・・・」
「ヴィシネフスキー夫人を気づかってあげてください」ギレリスは言った。
「ええ、それはもちろんですよ。同志大佐」
「何か思い出したら・・・」
そう言ってから、ギレリスはアデリナのほうへ含みのある視線を投げた。
「何か重要なことを思い出したら、リテイヌイ大通りの大屋敷に電話をください。たいていは、そこにいます」
16
午後4時10分前、ギレリスとリュトヴィッツが大屋敷に戻ると、2階の刑事課のオフィスでスヴェトラーノフとラザレフが報告書をまとめているところだった。ラザレフがタイプを打っているそばで、スヴェトラーノフが殺されたサカシュヴィリのアパートで起きたことを聞かせてくれた。
オレグ・サカシュヴィリが住んでいたのは、市街地の北西部にあるヴァシリエフスキー島に建つ超大型集合住宅の17階だった。フィンランド湾から見ると、この灰色の高層建造物は巨大な断崖を思わせる。
サカシュヴィリの部屋のベルを鳴らすと、黒い絹のガウンをまとった20歳前後の厚化粧をした女が、しかめっ面をして出てきた。靴底のゴムがきゅっと鳴るその音を聞いただけで、警察が来たことが分かる根っからの商売女のようだった。
「オレグはいないよ」
女はそう言うと、豊かな胸の前でガウンをかき合わせ、挑発するようにガムを噛んでみせた。
「それくらいは、こっちも分かってる」
スヴェトラーノフは女を押しのけて、ずんずんと部屋に入っていく。部屋の家具はかなり豪華で、新しい電化製品がそこらじゅうに置かれ、まだ箱に入ったままのものもあった。窓辺には、木の三脚に乗せた大型望遠鏡が海へ向けられていた。
「なんとまぁ」後から入ってきたラザレフが賞賛の声を上げる。「だいぶいい暮らしをしてるようですね」
女はタバコに火をつけると、真っ赤に塗った口から憤然と紫煙を吐き出した。
「捜索令状は持ってるの?」
「家宅捜索に来たんじゃない」スヴェトラーノフが言った。
「じゃ、これはいったい何の騒ぎ?」
女が腰を下ろすと、模造皮革のソファが大木の倒れるような音を立てた。ガウンの前がはだけて、すらりと伸びた白い太腿がのぞいた。尻の位置をずらし、ガウンをさらにすべらせて、薄い下着が相手に見えるようにした。
「おまえさん、オレグのガールフレンドか?」スヴェトラーノフがCDプレーヤーの前にしゃがみこみ、いじり始める。「それとも、ただの仕事仲間か?」
「おかかえの占い師かもしれないよ。でもそんなこと、あんたに関係ないでしょ」
スヴェトラーノフは女の股間にあからさまな侮蔑の視線を投げた。
「やつの運勢に、もっと注意を払っといてやるべきだったな。あいつの星座は、ブラックホールに飲み込まれちまったみたいだ」
女はけげんな顔付きになり、どうやら勝手が違うと感じたのか、ガウンの前をかき合わせ始めた。
「ねぇ、オレグが何か揉め事でも起こしたの?」
「警察とは揉めてない」そう言うなり、ラザレフは台所に入った。
「実は死んだんだよ、お嬢さん」
スヴェトラーノフがそう告げると、女はふうっと息を吐き、胸の前で十字を切った。スヴェトラーノフは酒の並んだワゴンからウォッカの瓶を取り、女の鼻先で振ってみせる。女はうなずいた。四角いグラスに酒を注いで、スヴェトラーノフはそれを渡した。
台所では、ラザレフが流しの上に渡された短い物干し綱を見つけた。洗ったコンドームが3個、不揃いの靴下みたいに干してあった。高価そうな皮のバッグが口を開けたまま、テーブルの上に置いてあった。中をかき回すと、女の身分証明書が出てきた。居間に戻って、ラザレフはそれをスヴェトラーノフに手渡した。
「ニーナ・ペトローヴナ・ソトニコヴァ」スヴェトラーノフは身分証から顔を上げた。「ニーナか、おれのおふくろの名前だ」
「そのおふくろさんにゃ、いっぱい名前があるんでしょ」
スヴェトラーノフは辛抱強い笑みで受け止めた。
「いくらでも憎まれ口を叩くといい。それで気が済むんならな」
またウォッカを少し飲んでから、ニーナは2人の刑事をにらみ返す。
「で、どんなふうに死んだの?」
「実を言うとな、おれたちにもよく分からないんだ。ゼレノゴルスキーの民警が今朝はやく、森の中でやつを発見した。どうやら質のよくない輩と一緒だったらしくてな。そいつらが、オレグに歯で鉛を受け止めさせようとした」
「オレグはどうやらタレコミ屋だと思われたらしい」ラザレフが言った。
ニーナは残りのウォッカをぐいっと干し、首を振った。
「それはないわ。そんなの、あいつのやりかたじゃない」
「だが、オレグをタレコミ屋だと思ったやつはいるんだ」スヴェトラーノフが言った。「犯人は歯医者を喜ばすために、オレグの歯を吹っ飛ばしたわけじゃない。それは確かだろう?」
「グルジア人の仲間うちで、オレグに敵はいなかったのかい?」ラザレフが聞いた。
ニーナは新しいタバコに火をつけた。眼をすぼめ、強く1回吸ってから、首を振る。
「もしかすると、オレグは仲間のかみさんか情婦に手をつけたかもしれない」スヴェトラーノフは別の可能性を示した。「グルジアの男どもは、どいつもこいつも色好みだからなぁ。それとも、血族間の古い揉め事か?グルジア人の執念深さというのも、並大抵のもんじゃない」
「違うわ」ガリーナはタバコの灰を少し落とした。
「オレグを最後に見たのはいつだ?」
「夕べよ。7時ごろ。それから、あたしは出かけたの」
「どこへ出かけたんだい?」ラザレフが言った。
「外よ。友だちに会いに」
ウォッカをまた少し飲み、ニーナは顔をしかめた。
「オレグに知り合いの男から電話がかかってきたの。そいつ、名前は言わなかった。日本人の観光客からまきあげた上等の腕時計があるけど、興味はないかって」
「で、オレグは興味を示したのか?」
「グルジアの男は、欲深な黄金虫よ。光るものに眼がないの。金、銀、ダイヤモンド、なんでもためこむの。オレグはその男と会う約束してた」
「時間や場所は?」
ニーナは首を横に振った。
「彼の口から、ドミトリ・ヴィシネフスキーの名前を聞いたことはないか?」ラザレフが聞いた。
「ジャーナリストの?どうして、ここでその人の名前が出てくんの?」
「彼とオレグは、一緒に殺害されていたんだ」スヴェトラーノフが言った。
「それ、ほんと?あら、やだ。あの人の書く記事、好きだったのに」
「オレグはどうだった?彼もファンだったのか?」
ニーナは哀れむような顔をした。
「オレグが?いい男だったけど、ちょっと頭は弱かったわ。あいつが読み書きできる言葉といえば、金と力と女だけ」
「ルスタヴェリ通りの他の連中は?」
グルジアの首都トビリシの中心街にある通りの名を、ラザレフはグルジア・マフィアを表わす符牒に使っていた。
「どこに行けば、会える?」
「たいていはそこの角を曲がったとこに、雁首そろってるよ」ニーナが窓のほうへあごをしゃくる。「ホテル・プリバルチスカヤにね。午後は、ジムでせっせと鍛えてる。夜になると、レストランで酒飲んで、ばか騒ぎしてるわ」
スヴェトラーノフは立ち上がった。
「観光客から腕時計を奪ったというその盗人野郎だが、もし名前を思い出したら・・・」
「分かってるって」ニーナも立ち上がる。頭がスヴェトラーノフの胸ぐらいまでしか届かなかった。「伝書鳩で知らせるよ」
3人並んで玄関まで行き、ニーナがドアを開けた。
「ねぇ、犯人を必ず捕まえるって約束してくれたら、すぐに役立つ情報を教えてあげる」
「もちろん、捕まえるつもりだよ」ラザレフが胸を張る。
ニーナはスヴェトラーノフに言った。
「約束する?」
「約束する」
「降りる時は階段を使いなさい、おでぶさん」
そう言うと、ニーナは刑事たちの顔の前で、ドアを蹴って閉めた。
17
刑事部長の執務室で、ギレリスとリュトヴィッツはコンドラシンにヴィシネフスキー殺害事件の捜査方針について報告を行った。机をはさんで向かい合うギレリスとコンドラシンを横目で見やったリュトヴィッツは、ついに来るべきものが来たなという感慨しかなかった。
まだこの街がレニングラードと呼ばれていたころ、ギレリスは支部の代表に選ばれて第22回共産党大会に出席し、演説の壇上で党からの離脱を宣言した。その後、コンドラシンをはじめ支部の刑事や職員の多くが、党を脱退した。モスクワは党の実行力を取り戻そうと、パヴロフを送り込んだが、そのパヴロフはいまエリツィン派から旧共産党派として処罰される身に置かれていた。
コンドラシンは、リュトヴィッツに向かって言った。
「サーシャ、君をギレリスと組ませた理由は分かっているな?君が現在かかえている事件はすべて棚上げにしても構わないが、このヴィシネフスキー事件は最優先にして取り組む。そういうことだ。なにしろ社会的な影響は大きいからな。それから・・・」と、ギレリスに視線を向けた。「ゲオルギー・ベルマンと話したのだが」
「あのハゲタカ野郎」ギレリスが小声で吐き捨てた。
「気持ちは分かるが、彼の番組に出演して、今回の事件についてしゃべってもらいたい。情報を募るのだ。やり方は分かってるだろう。やつに主導権を握らせないようにしろ」
むっつりした顔で、ギレリスはうなずいた。
「死んだグルジア人については、何が分かった?」
「親父で先代のワージャと一緒で、スヴァネティ地方の出身でした。山岳部のとても質素な場所ですが、住民は気性の激しいことで有名です。それは三か月前に死んだやつの親父さんを思い出せば分かることです」
「トビリシの内務局は何と言ってる?」
「向こうの刑事部長と電話で話したんですが、ご存知の通り、最近あちらの警察はあまり協力的じゃないものですから、オレグが故郷にいる間にどんな悪さをしていたかは、結局つかめませんでした」リュトヴィッツは言った。
首を振りながら、悪態をつくようにコンドラシンが言った。
「グルジアの連中は、互いを殺し合うので精一杯なのだろう」
「そのようですね。ペテルへ来てから、オレグは何度か捕まってますが、みみっちい事件ばかりで、いずれもだいぶ前の話です。その後、親父が作り上げた組織の若頭になったことはつかんでいたんですが、しょっ引くことはできませんでした。何人かの情報屋に当たってみたんですが、たいした話は聞けませんでした」
ギレリスはタバコに火をつけ、それを口にくわえたまましゃべり続けた。
「まぁマフィアの仲間が、オレグはヴィシネフスキーにネタを売りつけるつもりでいると考えたんでしょうね」
コンドラシンは眉間にしわをよせ、ギレリスの推理を検討する。
「少なくとも、誰かがそういう見方をさせようとしているのはたしかです」リュトヴィッツが付け加えた。
「そうでなければ、なぜ歯を撃つ必要があるのか?」ギレリスは言った。「もしかすると、これは単純な内部抗争で、ヴィシネフスキーはまずいときにまずい場所に居合わせただけかもしれない。どんな可能性でも、今のところ否定はできません」
「よくわかった、アレクセイ。だが、ここでいったんグルジア人の仕業ではないという仮定に立ってみろ。どういう線が考えられる?」
ギレリスは肩をすくめてから、新たな推理をはじめた。
「まず、アブハズ人じゃないでしょうかね、現時点では。しかし、組織がしっかりしているとは言いがたい。やつらの闇タクシーを摘発したときに、大々的に手入れをやりましたから・・・次に考えられるのが、チェチェン人。あのイスラム教徒たちほど、グルジア人を憎んでいる種族は他にありません。ことになると、新たなマフィア戦争が、これを期に始まるのかも・・・」
「そうならないことを祈ろう。しかし、チェチェン人がグルジア人を殺すのにたいした理由はいらないにしても、ドミトリ・ヴィシネフスキーの命まで奪う必要があったのか」
ギレリスは脇にはさんでいたファイルを開き、中から数枚の書類と写真を取り出した。
「ヴィシネフスキーに恨みを持つと思われる人物たちのファイルをざっと調べたところ、このチェチェン人が眼にとまりました」
そう言って、コンドラシンに写真を手渡す。
「スルタン・ドゥダロフという男です。5年ほど前、こいつはネヴァ河以北での売春をほとんど一手に取り仕切っていました」
ギレリスのドゥダロフに関する話は、当時まだ組織犯罪課が存在しなかったにも関わらず、ほとんど正確だった。
あるとき、ドゥダロフはマジシャンを自称して、女性アシスタント5人とハンガリーに渡航する許可を取った。この5人の女性はいずれも高級売春婦で、よく稼いだご褒美に、旅行に連れて行ってもらえると思っていた。ところが、ブタペストに到着すると、ドゥダロフはアパートを借りて、女たちを働きに出させた。
ハンガリーの男とは肌が合わないのか、女たちは思ったほど利益を上げられず、2か月が経ったころドゥダロフは女たちとアパートをハンガリー・マフィアに譲り渡して、ロシアに帰国した。ハンガリー・マフィアもやはり女たちの稼ぎに満足できず、全員をブカレストに連れて、今度はルーマニア・マフィアに売り渡した。
女たちはこつこつと旅費をためて、ペテルへ逃げ帰り、一部始終をヴィシネフスキーに話した。ヴィシネフスキーは「アガニョーク」に長い記事を書いた上で、警察へ訴えるよう女たちを説得した。この動きを知ったドゥダロフは女の1人を誘拐し、拷問にかけて口を封じようとしたが、ヴィシネフスキーは残る4人に証言させて、ドゥダロフを起訴に追い込んだ。
「けだものが勇気ある市民に屈したか」コンドラシンは写真を見ながら言った。
「やつに長い休暇を与えてやりましたよ。ペルミに10年」
「ラーゲリに入れられた恨みは、人を殺す動機としては充分だな。だが、刑期が10年とすると、その男はまだ・・・」
「チェチェン人たちは、非常に固い絆で結ばれてます。ドゥダロフの友人がヴィシネフスキーを殺したのかもしれません。ヴィシネフスキーにファンレターを書いたのも、仲間のチェチェン人かもしれません。私の見た限りでは、ヴィシネフスキーが受け取ったいやがらせの手紙の数は、ラスプーチンをもしのぎますよ」
「明るいほうに考えようではないか、アレクセイ。何もかも枯渇したこの国にあって、我々には少なくとも容疑者不足に悩まされる不安はない」
その日の夜、ギレリスとリュトヴィッツとスヴェトラーノフは大屋敷で、ヴィシネフスキーに送られたファンレターを読むことに費やした。手紙の山を3つに分け、ギレリスの机を囲んで、コーヒーとタバコ、保存食としておいてある乾燥させたパンの耳を口に入れながら、この気乗りしない仕事をこなしたのだった。
18
翌朝6時に電話のベルで眼が覚めたとき、リュトヴィッツは白いパンツをはいた姿で袖椅子に座り、マカロフの銃把をやさしく握っていた。
フィリポフは勤務からあがるところだった。「じゃ、かけましたからね」と声がかけられた次の瞬間、電話が切れた。
モーニングコールを頼んだ記憶はなかった。袖椅子のわきのテーブルに、ウォッカの空き瓶が立っていた。1本空けた覚えもなかった。床に色つきガラスの破片が散乱している。1980年に開催されたモスクワ・オリンピック記念ショットグラスをラジエーターに投げつけたのだろうと容易に想像はついた。誰かのために乾杯して、ラジエーターを暖炉に見立ててグラスを投げつけたのだろうか。記憶は何もない。
袖椅子の周囲とベッドの下にまで、書類や紙くずが散らばっていた。書類は懲役施設管理委員会から送られてきた照会結果だった。
ヴィシネフスキーが書いた記事のせいで刑に服することになったチェチェン人のドゥダロフについて、懲役施設管理委員会に照会したところ、委員会にいるリュトヴィッツの古い友人から電話が入った。
マナガロフという友人の話によると、ドゥダロフが西シベリアのカザフ国境に近いベレゴイ16/2に収容されていたが、4週間前に釈放されたのだという。服役態度良好という理由だった。電話と同時にファックスで送られてきた書類を見ながら、リュトヴィッツは言った。
「しかし、まだ刑期の半分も務めてないじゃないか?」
「ぼくにも、よくのみ込めないんだ」マナガロフは言った。「その収容所の刑務主任に聞いたら、確かにうちの委員会から正規の釈放命令が届いたということだった」
「ドゥダロフがどこに行ったか、収容所の方では掴んでいるのか?」
「何日間かを所内の診療所で過ごしていったらしい。塀の外での医療費の高騰ぶりを考えると、病気になるときは囚人の方が得だということだな。その後、75ルーブルの給付とオムスクからサンクトペテルブルクまでの鉄道乗車証を与えられている」
電話を切ると、リュトヴィッツはギレリスに報告した。ギレリスは顔をしかめ、忌々しげに呟いた。
「服役態度良好だと?ヤツが容疑者として逮捕された時に、話のタネに出来そうだな」
「居所を捜し出すべきでしょうか?」ラザレフは言った。
「刑事の本分を忘れてなければ、そうすることだな」
紙くずを1枚、手に取って見る。カスパロフの棋譜を手書きで再現したものだった。コマの動きをはじめから確かめようと、鉛筆でぐちゃぐちゃに線が書き込まれている。謎解きが進まないことに苛立ったことが窺われた。
リュトヴィッツは安全装置がかかっていることを確認してからマカロフをホルスターに戻し、椅子の背にかけた。パンツと靴下だけの格好でじっとしていると、殺されたヴィシネフスキーに送られた数々のファンレターの中から、特に印象に残った文面が脳裏に浮かんだ。
ドミトリ・ヴィシネフスキーへ
あなたはサンクトペテルブルクの《コーザ・ノストラ》のことを国営テレビでしゃべっていたけど、あんな馬鹿げた話、聞いたことがありません。それは誤解です。ロシアにマフィアは、存在しません。マフィアというのは、そもそも女子どもたちに怖い話を聞かせて金を稼ぐあなたみたいな人たちが、勝手にこしらえた幻です。この街にいるのは、人々が欲しがるものを人々に提供するまっとうなビジネスマンです。扱っているのは、国営商店では買えないもの、それもたいていは必需品。ビジネスのやり方が多少荒っぽくなる理由はただひとつ。この国に、需要とか供給とか、自由企業とかいう考えが全く根付いていないからです。例えば、契約が守られないときに、それを強制的に履行させたり、損失を償わせたりする法的な仕組みはありません。だから、われわれは相手の脚を折ったり、その子どもを脅したりするのです。そうすると、次回から相手は約束を守ります。利益をきちんとパートナーに配分しない輩がいれば、われわれはその輩の家を焼きます。これは、ビジネスなのです。あなたは知識人ですから、理解できないはずはありません。それなのに、マフィアなどという幻をテレビや雑誌で売り続けている。ビジネス仲間の何人かは、そのことにとても腹を立てています。そういうデタラメが広まることで、われわれが被る損害は、かなりの額にのぼるでしょう。だから、警告を発します。すぐにやめてください。われわれの商社、コーペラチブを今度、マフィアという名で呼んだら、そのことを後悔する前に、あなたに死が訪れるでしょう。
同志ヴィシネフスキー
モスクワのマヤコフスキー広場の近くにあるスーパーをご存知でしょうか。今朝、そこの肉売場に行くと、ソーセージをキロ160ルーブルで売っていました。私の主人は学校の教師で、月給は500ルーブルほどです。わたくしは結局、卵10個を18ルーブルで買ってまいりました。ほんの2、3か月前までは、2ルーブルでおつりがきたものです。あなたは世の中がだんだん良くなってきたとお書きになっておりますが、あなたのような空理偽善の徒こそが、国民の生活環境をいたずらに劣化せしめているのです。常々題材とされている娼婦たち(ご自身の豊かな経験をもとに執筆されているのでしょう)の1人が、あなたをエイズに感染させてくれることを願ってやみません。さらに、あなたがそれをご内儀へ、もしくは現在交際中のご愛人へと、速やかに感染させていかれますことを。篤志家より。
この手紙をヴィシネフスキーのアパートで最初に読んだとき、リュトヴィッツは「現在交際中の愛人」のくだりで、ワードロープのあの写真のことを思い出し、部屋に戻ってもう一度、見たいという誘惑に駆られた。
その写真は、サッチャーと笑顔で握手するヴィシネフスキーの写真に隠れるようにして貼りつけてあった。どこか別の場所で撮られたらしいカテリーナのヌード写真で、そのポーズは芸術的というより扇情的だった。ストッキングだけを身に着けた姿で、カメラに向かって立ち、両手を後ろで握り合わせて、顔はうつむいていた。
その写真をひと目見たとき、リュトヴィッツの脳裏に過去の彼方から、懐かしい声が響いた。
《あなたはミリツィアになるの?それとも、ポリツィアになるの?》
リュトヴィッツはフロントにバルチカを持ってきてもらおうかと考えたが、かわりに熱いシャワーを浴びることにした。頭から熱い水をかぶり、眼を閉じる。命じられもしないのに、頭の中でチェスの駒が盤上に並んだ。黒のキングが盤の中央で、まだ王手はかからないものの追い詰められていた。白のポーンがもっと強い駒に成ろうとしている。もう本物のチェス盤など必要ない。いまいましいことに覚えこんでしまっていた。
リュトヴィッツはシャワーから出ると、清潔なスーツをビニール袋から取り出し、髭を剃り、専用のブラシで上着の埃を払った。
やるべきことはたくさんあった。大屋敷に出て、ヴィシネフスキー事件についてどんな鑑識結果が出ているか確かめる。ギレリスと一緒にテレビ局に行き、ヴィシネフスキーの同僚から話を聞く。レストラン・トルストイの支配人モロゾフに再度の聴取。若いころの向こう意気がよみがえってきたらしいぞと、リュトヴィッツは淋しく微笑んだ。