〇突破
6月22日午前3時ごろ、ドイツ空軍の3個爆撃航空団(第2・第3・第53)が高高度でソ連国境を越えた。その後、3つの集団に分かれた爆撃機隊は、午前3時15分に10か所のソ連空軍基地を正確に破壊した。
日の出とともに、ドイツ空軍はさらに爆撃機500機、急降下爆撃機270機、戦闘機480機を持って、ソ連の飛行場66か所の攻撃に移った。国境地域に展開していたソ連空軍は5973機を所有していたが、この日の朝だけで1811機を喪失した。それからわずか数日間にドイツ空軍は完全に制空権を確保し、ソ連の全ての部隊と鉄道網に対して容赦ない空爆を行なった。
ドイツ軍地上部隊でも、午前3時15分に最初の砲撃が始まった。河川にかかるいくつもの橋はNKVD国境警備隊が反撃するまもなく占領された。場合によっては、隠密襲撃班が橋に仕掛けられた爆発物を前もって処理しておいた。
いくつかの国境哨所はNKVD国境警備隊が集合する前に突破され、どこにおいても軽微な抵抗しか受けなかった。
この頃になると、中央軍集団と対峙する西部正面軍(西部特別軍管区より改組)司令部には、麾下の各軍司令部(北から第3軍・第10軍・第4軍)から緊急の無線連絡が絶え間なく押し寄せてきた。
「ドイツ軍が広範囲に渡って我が国への攻撃を開始しました!」
「グロドノをはじめ、我が国の都市がドイツ空軍によって空爆されています!」
「部隊と司令部を結ぶ電話線は、敵空軍の爆撃で寸断されました!」
相次ぐ断片的な情報に、西部正面軍司令官パヴロフ上級大将は困惑してしまい、副司令官ボルディン中将を呼び出した。ドイツとの戦争はまだ先だと信じていたパヴロフは不可解きわまるといった表情を浮かべ、ボルディンに状況を説明した。
「はっきりしたことは不明だが、何か悪いことが起きつつあるようだ。少し前にクズネツォーフがグロドノから連絡してきたが、ドイツ軍が空と陸から攻撃を開始したと言っている。電話回線は各地で寸断されており、無線通信所も2か所がすでに使用不能らしい。第4軍と第10軍の司令部からも同じような不愉快な報告が入っておるんだ。ドイツ空軍機が各地を爆撃していて・・・」
午後3時ごろ、ボルディンは自ら前線の状況を確認すべく、爆撃機を駆ってミンスクから一群のドイツ空軍機の中を突破して、最も危機が迫っている国境付近のビアリストク突出部に置かれた第10軍司令部へと飛んだ。
第10軍司令部はすでに爆撃で破壊されたビアリストクの市街地から避難し、郊外の森林に移転していた。そこでボルディンは、第10軍司令官ゴルベフ少将から、司令部の状況を聞いて愕然とした。
電話線は切断されて使用できず、上級・下級いずれの司令部とも連絡がつかない。無線機は敵の妨害電波により、断続的にしか通じなくなっていた。軍司令部はほとんど名ばかりで、何の機能も果たしていなかったのである。
ソ連軍には知る由もなかったが、ドイツ軍は最初の空爆が始まる前に、第800特殊任務教導連隊「ブランデンブルク」を、ソ連国内の後方地域に潜入させていた。ロシア語に堪能な特殊部隊の兵士たちは赤軍の制服を着て、後方地域に落下傘で降下し、電話線の切断、重要な道路や橋の確保などといった不安と混乱を拡大させる工作活動に従事していた。
この日の夕刻、モスクワのクレムリンは「指令第3号」を発令した。その内容の趣旨は「手持ちの全兵力を用いてドイツ軍に全面的な反攻を実施し、敵部隊を包囲殲滅せよ」というものだった。
6月23日、クレムリンに最初の戦争指導部として「総司令部(スタフカGK)」が設立されたが、ドイツ軍に占領された場所で紙上だけに存在する部隊に対して作戦を命じるような有様だった。時々刻々と変わる戦況に対して、「総司令部」が破局の規模を把握していなかったことを示していた。
〇快進撃
中央軍集団はスヴァウキとブレストの突出部から、独ソ国境である「モロトフ」線を突破した。第3装甲集団が北翼から、第2装甲集団が南翼から東方に進撃していた。
6月22日、第2装甲集団は第4軍(コロブコフ少将)の陣地を突破して、ミンスクに向かう街道を東方へ進撃していた。ブレストの東方で第14機械化軍団(オボーリン少将)が反撃したが、定員割れの旧式戦車しかない部隊は、ドイツ軍の強力な装甲部隊の敵ではなかった。
第3装甲集団は第57装甲軍団(クンツェン大将)が第3軍(クズネツォーフ中将)の防衛線を突破して、西ドヴィナ河の上流に向かって進撃した。後方の2個軍団(第5・第6)が背後に残る敵部隊の掃討に従事していた。
この2個装甲集団の間隙部には、第9軍の2個軍団(第20・第42)と第9軍の3個軍団(第7・第9・第43)が南北から襲いかかった。装甲部隊が抉じ開けた突破口に前進し、ビアリストク周辺の敵部隊が東方へ脱出することを防ぐのが任務だった。
パヴロフは切迫する事態にひどく取り乱していた。西部正面軍司令部では、激昂したパヴロフが電話に向かって怒鳴る声が響いた。国境におけるドイツ軍攻撃の報告を、別の前線指揮官から受けたところだった。
「分かっている!報告はもう受けた!上層部は我々よりよく知っているんだ!」
前線ではボルディンが反撃の指揮を執ることになった。この日の夕方、ボルディンとゴルベフはパヴロフから命令を受けた。パヴロフの命令は「指令第3号」をそのまま履行するものだった。その内容に愕然としたボルディンはパヴロフに抗弁した。
「現状の兵力では、そのような反撃に出ることは自殺行為です!」
パヴロフは断固とした口調で言い放った。
「これは命令なのだ!君らは黙ってそれを遂行すればよろしい!」
6月23日、ボルディンは第10軍の第6機械化軍団(ハツキレヴィチ少将)と第6騎兵軍団(ニキティン少将)、第3軍の第11機械化軍団(モストヴェンコ少将)に対し、反撃を命じた。ビアリストク周辺で包囲の危険にさらされている部隊を救援することが目的だった。
しかし、この反撃はドイツ軍の圧倒的な進撃に影響を与えることもなく、第10軍は燃料と弾薬を消費して大きな損害を被った。第6騎兵軍団は移動中にドイツ空軍の空襲を受けたことにより、兵力の半分以上を喪失した。
もはや反撃は無意味だと判断したボルディンは、パヴロフの許可を得ずに独断で、残存兵をいくつかのグループに分け、ビアリストクから東方のミンスクへの撤退を命じた。
6月24日の早朝、第3装甲集団は第39装甲軍団(シュミット大将)がヴィルニュスに到達した。ヴィルニュスの陥落を受けて、陸軍総司令部は第3装甲集団をモロデチノからミンスクに至る東南東に差し向けるよう、中央軍集団司令官ボック元帥に命じた。
陸軍総司令部の意図はブレストから北東へと進撃中の第2装甲集団とミンスク近郊で連結し、ミンスク以西に展開するソ連軍の大部隊を包囲するというものだった。
ミンスク市内では、主要施設の疎開が始められていた。銀行の資産や工場設備などが貨車に積み込まれたが、疎開作業はドイツ空軍の爆撃によって中断され、遅々として進まなかった。
〇ミンスク包囲戦
6月25日、第2装甲集団はバラノヴィチを占領した。第47装甲軍団(レメルセン大将)はモスクワ街道沿いに南西からミンスクに迫り、第24装甲軍団(シュヴェッペンブルク大将)は進路を東に取ってスルーツクへ向かった。
この状況を受けたパヴロフは撤退せざるを得なくなり、夜間にスロニムからシュハラ河の東岸への総退却を第3軍・第10軍に命じた。絶え間ないドイツ空軍の空襲を受け、各部隊は燃料と輸送手段を失ってしまったため、徒歩で撤退した。しかし、命令伝達の大半を伝令と有線電話に頼る西部正面軍の指揮系統は依然として寸断されたままだった。ドイツ軍と交戦を続けた部隊も数多くあった。
6月26日、戦況を悲観したパヴロフはモスクワに、「1000両以上の敵戦車が北西方面よりミンスクを包囲しつつあり。これに適する手段なし」との電文を送った。さらに包囲されつつあるミンスクから、西部正面軍司令部を慌てて東方のボブルイスクに移転させたことにより、所属の各部隊との連絡は絶望的にまで悪化した。
このような状況下で、西部正面軍の戦略予備としてミンスク周辺に配置されていた7個軍団は第13軍(フィラトフ中将)として編成され、第2装甲集団の進撃を食い止めるべくスルーツクの東で反撃に乗り出した。
第13軍の第20機械化軍団(ニキティン少将)と第4空挺軍団(ジャドフ少将)による反撃は第46装甲軍団(フィーティングホフ中将)によって壊滅されてしまった。
敗残した第13軍司令官フィラトフ中将は、西部正面軍司令部に全面的な東への撤退を進言した。パヴロフがこの提案を拒絶すると、フィラトフは独断で第2狙撃軍団(エルマコフ少将)を引き連れて、第13軍はベレジナ河へと退却した。
6月27日、第47装甲軍団の第17装甲師団が、ミンスク近郊で第39装甲軍団の第20装甲師団と連結した。ミンスクは翌28日、第20装甲師団によってほぼ全域が占領された。
ミンスク西方にて巨大な包囲網に閉じ込められた第3軍と第10軍の残存兵は、東と南東に向けて必死の脱出を図り、戦車や火砲などの重装備はほとんど放棄した。指揮系統から完全に外れ、小グループに分かれたソ連兵たちは東方の湿地と森林の混合地帯(ポレーシェ)へと逃げ込んだ。
6月28日、第24装甲軍団はボブルイスクと、そこから北北西に約50キロの位置にあるスヴィスロチでベレジナ河に達していた。ボブルイスクでは撤退した西部正面軍の第4軍によって橋が爆破されていたが、スヴィスロチでは第4装甲師団がベレジナ河にかかる橋を無傷のまま奪取した。
開戦時、62万5000人の兵員を有していた西部正面軍は事実上消滅し、28万7000人が捕虜となった。2585両の戦車、1494門の火砲が捕獲・破壊された。配備されていた1909機の航空機も、その4分の3が破壊された。
ミンスク包囲戦の勝利により、中央軍集団は侵攻開始から約1週間で「バルバロッサ」作戦の第1段階である「ドニエプル河以西でのソ連軍の殲滅」を、ほぼ完全に達成したのである。
〇攻城
6月30日、第2装甲集団と第3装甲集団はミンスク西方で、巨大な包囲網を完全に封鎖することを完了した。ドイツ軍はこの最初の包囲戦によって、41万を超えるソ連兵を死傷または捕虜にするという大きな勝利を得た。しかし、この勝利にはいくつかの不安材料が残されていた。
このとき、ドイツ軍はすでに包囲したソ連軍を完全に密封するのに十分な兵力を持っていないことが判明した。ミンスク包囲戦でも、約20万のソ連兵が重装備を放棄して、東方への脱出に成功していた。
ヒトラーは装甲部隊に対し、包囲が完了するまでは東進を停止するよう命じた。このヒトラーの命令に対して、第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将は異議を唱えた。
わずかでも装甲部隊が停止すれば、その間に赤軍に再集結の余裕を与えてしまう。「早期のモスクワ攻略」こそが独ソ戦の勝利につながると考えていたグデーリアンは、ハルダー参謀総長に対して「自分の責任でさらに東進を続けたい」という要望を繰り返し訴えた。
最終的には、ハルダーはグデーリアンの要望を受け入れた。この決断の背景には「イワン」、すなわち一般のソ連兵士たちの最後まで戦い抜く姿勢があった。
ドイツ軍の将兵たちはソ連軍の兵士をスターリンに痛めつけられたロボットだと考えていた。しかし、ソ連軍の兵士は西側の兵士なら降伏したであろうと思われる状況に陥っても、異常な勇気と自己犠牲の精神を発揮して立ち向かった。このことは、すでに中央軍集団の最初の障壁であるブレスト=リトフスク要塞を巡る攻防戦で示されていた。
6月22日、第2装甲集団の装甲部隊が要塞を迂回する中、第12軍団(シュロート大将)の第45歩兵師団(シュリーパー少将)は、水路と城壁で囲まれたブレスト=リトフスク要塞に襲いかかった。
水路と城塞で囲まれた前時代的な構造の要塞そのものは特に戦略的な価値を持っていなかったが、要塞内に据えられていたソ連軍の大砲は、中央軍集団の兵站に重要な鉄道や道路を射程圏内に捉えていた。後方地域の安全を確保するために、この要塞をいち早く手中に収める必要があったのである。
ドイツ軍の歩兵部隊は事前の準備砲撃で要塞の大部分はすでに崩壊していると見込んでいたが、煉瓦とコンクリートで造られた要塞は思いのほか堅牢だった。ソ連第28狙撃軍団(ポポフ少将)は必死の抵抗を繰り広げ、ドイツ軍の兵士は要塞のわずかな部分しかに突入することが出来ず、大きな損害を被った。
翌日以降、ドイツ軍は重砲と空爆でソ連軍の防御地点を粉砕しようと試みたが、要塞に立てこもったソ連兵は手持ちの武器と弾薬がある限り、抵抗を続けた。最終的には、市街戦を彷彿させるような接近戦に突入し、ドイツ軍の損害は日に日に増大していった。
6月28日、中央軍集団司令部がミンスクの陥落に沸く頃、要塞はまだ占領されていなかった。焦りを募らせた第12軍団司令部は第3航空爆撃団に対し、航空支援を要請した。夕刻、Ju88爆撃機7機は500キロ爆弾や1800キロ爆弾を雨のように投下して、コンクリートで固められた防護施設を徹底的に破壊した。
6月30日、第45歩兵師団はようやく要塞の大部分を占領したとの報告を行った。わずか4平方キロの要塞を占領するために、第45歩兵師団は戦死者と負傷者を合わせて1500人以上の損害を被っていた。
要塞の一部の拠点では七月下旬まで、ソ連軍の残兵が散発的な抵抗を続けた。ある守備兵が要塞の壁を彫って、次のような決意を遺していた。
「死んでも降伏はしない。さらば、祖国よ。1941年7月20日」