〇使命
9月11日、ツァリーツァ峡谷に置かれた南東部正面軍司令部は、ドイツ軍の猛烈な砲火にさらされていた。爆撃によって地上の通信線が絶え間なく切断されるので、エレメンコとフルシチョフはヴォルガ河東岸に司令部を移す許可をスターリンから取り付けるしかなかった。
これで市街地に残った軍司令部は、第62軍だけとなった。ドイツ第4装甲軍の第29自動車化歩兵師団がスターリングラードの南端でヴォルガ河に到達したため、第57軍と第64軍とはすでに切り離されていた。
9月12日、第64軍副司令官チュイコフ中将は、ヴォルガ河東岸のヤムイに置かれた南東部正面軍の新しい司令部に呼び出された。一昼夜かかってようやく司令部にたどり着いたチュイコフに、エレメンコとフルシチョフは戦況を説明する。チュイコフはスターリングラードの防衛を担う第62軍司令官に推薦されていた。前任のロパティンは撤退戦で心身ともに憔悴しきってしまい、戦局に対して悲観的になっていた。
「同志チュイコフ。君はこの任務をどう思うかね?」フルシチョフが言った。
「スターリングラードを守り抜くか、それで死ぬかでしょうね」
エレメンコとフルシチョフはチュイコフをじっと見つめ、「その通りだ」と言った。
この日の夕刻、チュイコフは2両のT34とともに、東岸の港クラスナヤ・スロボダからフェリーに乗り、ツァリーツァ峡谷のすぐ上の中央桟橋に向かった。船が西岸に近づくと、大勢の避難民が砲弾で抉られた地面の漏斗孔から音もなく現れ、船に乗り込もうとした。
さんざん道を迷った末、チュイコフはようやく「ママイの丘」に置かれた第62軍司令部に入った。この街のNKVDが全ての桟橋と突堤を統制しているのを確認すると、チュイコフは少しでも退却を考えているような指揮官たちに「強権」を発動した。階級の如何を問わず、脱走者は即決で処刑するよう、第10NKVD師団長サラエフ大佐に命じた。
この時点で、第62軍の兵力は6万人前後に減っており、書類上は2個軍団(第2・第23)が存在していたが、実質的にはそれぞれ連隊程度の戦力しか持っていなかったので、全ての部隊をチュイコフが一元的に指揮することになった。稼動可能な戦車は60両足らずで、多くは動かない砲台として使える程度だったが、700門余りの火砲があった。
チュイコフは持論を押し通して、砲兵隊をヴォルガ河東岸に配置させた。これは単に火砲を部隊と一緒に配置できるスペースが西岸になかったからである。その上、河を渡って十分な数の砲弾を運ぶのはますます困難になることが考えられた。また、チュイコフの狙いはドイツ軍の前線に砲弾を降らせるのではなく、その後方地域を叩いて攻撃の準備を進めている応援部隊を撃破することであった。この方策により、西岸に残っている火砲はトラックに搭載されたカチューシャ・ロケット砲だけとなった。
また、市内の労働者はすべて第10NKVD師団の民兵連隊に編入されていたが、時間的な制約から十分な軍事訓練を受けておらず、実戦における戦闘能力は正規軍の兵士よりも格段に劣っていた。即席の防御陣もバリケードに毛が生えたようなもので、チュイコフは自分の使命を全うできるか不安に陥った。
一方、ドイツ第6軍司令官パウルス大将はチュイコフが第62軍司令官に着任した時を同じくして9月12日、ウクライナのヴィンニッツァに構える「人狼(ヴェアヴォルフ)」野戦指揮部にいた。
もはやスターリングラードの陥落にしか興味がなかったヒトラーは、市の占領にどのくらいの日数がいるかと質問した。パウルスは「戦闘に10日、その後の部隊の再編に2週間ほど」と答えた。したがって、約1か月足らずでスターリングラードがドイツ軍の手中に納まる計算であった。攻略部隊として10個師団、後方支援部隊を含めて約12万人の兵力を展開している第6軍にとって、パウルスの言葉は誇張ではなかった。
しかし、パウルスは自軍の前に立ちふさがる最悪の障害を見抜くことは出来なかった。ドイツ空軍による大規模な空襲によって、スターリングラードはソ連軍がドイツ軍に牙を向く恰好の殺戮場に変貌していたのである。
〇死闘
9月13日午前6時45分、第6軍によるスターリングラードへの総攻撃が始まった。このときドイツ軍の攻勢の主軸が向けられたのは、市の南部地域だった。
第51軍団は第295歩兵師団が第62軍司令部の置かれた「ママイの丘」に向かい、第71・第76歩兵師団が第1停車場(鉄道駅)を攻撃した。市の郊外から、第48装甲軍団が長方形の大穀物サイロに向かって進撃した。
第259歩兵師団(コルフェス少将)は激しい抵抗に遭いながらも、じりじりと「ママイの丘」に迫っていた。ドイツ空軍の猛烈な爆撃によって通信線を切断されため、第62軍司令部は一時的に指揮下の部隊との連絡手段を失ってしまった。
この事態を受けて、チュイコフは夜間に幕僚らを引き連れて、「ママイの丘」にある司令部を引き払い、ツァリーツァ河の河畔に築かれた地下10メートルの古い地下壕に新たな司令部を移設した。
第71歩兵師団(ハルトマン中将)は第24装甲師団(レンスキー中将)の支援を受けながら、ソ連第244狙撃師団の守る薄い防衛線を瞬く間に粉砕して、第1停車場に肉薄した。この駅はソ連軍の増援や物資の運搬に不可欠な中央桟橋にも近く、独ソ両軍にとって戦略上の重要な拠点を目されていた。
この日の夕方、ラシュテンブルクの「総統大本営」は第71歩兵師団がツァリーツァ峡谷の北方で市の中心部に到達したとの報告に沸き立った。敵の司令部が置かれた地下壕までわずか800メートルの位置だという。
同じ情報はクレムリンにも伝えられた。スターリンがジューコフとヴァシレフスキーを相手に今後の戦略について論議しているところに、秘書が南東部正面軍司令部から電話が入っていると告げた。電話に出た後、スターリンは2人の将軍に言った。
「第13親衛狙撃師団にヴォルガを渡河するようただちに命令を出したまえ。それから出撃させられる部隊があるかどうか確かめてくれ」
9月14日の夜間、第13親衛狙撃師団(ロジムチェフ少将)の2個親衛狙撃連隊(第39・第42)が民間から徴用された船舶や漁船、手漕ぎボートなどに分乗してヴォルガ河を渡り始めた。
やがて、河岸の近くに置かれたドイツ軍の火砲から砲火を浴びせられる。水柱が流れの中程に林立し、兵士たちは水びだしにされた。気絶した魚が銀色の腹を見せて水面に浮かび上がる。炸裂する砲弾の音に肩を埋めて、兵士たちは西岸の壮絶な光景に眼をみはる。
岸に近づくと、黒く焦げた建物の匂いと瓦礫の下で朽ちかけている死体の悪臭が鼻を突いた。船の両側から浅瀬に飛び降り、第42親衛狙撃連隊は急勾配の河岸を駆けあがってNKVD部隊と合流し、第1停車場でドイツ軍を押し返した。
9月15日、第71歩兵師団は再び第1停車場の周辺に攻撃を開始してソ連第13親衛狙撃師団と衝突し、この日だけで駅は4度もその支配者を変えた。夕刻を迎える頃にはソ連軍の手に落ちたが、この24時間で兵員の死傷者は師団定員の3割にも達した。
9月16日、「ママイの丘」の戦闘はますます激しくなっていた。ドイツ軍は丘の上に火砲を据え置いて、ヴォルガ河の海運を断ち切ろうと考えていた。NKVD狙撃連隊の1つが辛うじて防衛しているところへ、第42親衛狙撃連隊の生き残りと第95狙撃師団(ゴリシュヌイ少将)の一部が応援に駆けつけ、ドイツ軍の兵士らが丘の頂上に立てたドイツ国旗を引き下ろした。
パウルスは丘の攻略に第100猟兵師団(ザンヌ中将)を増派し、数日に渡って幾度となく攻撃を仕掛けたが、第42親衛狙撃連隊とNKVD狙撃連隊の生き残りは何とか丘を守り通した。ドイツ軍の損害は日に日に増大し、次第に攻勢を立ち往生させられた。
わずか数週間前までは市民の憩いの場だった「ママイの丘」は砲撃で絶えず土が掘り返され、砲撃で出来た穴が繰り返される攻防の中で即席の塹壕となった。丘の斜面は打ち込まれた砲弾の熱によって、この年は雪が一度も積もらなかったといわれている。
〇旗が翻る
「ママイの丘」と第1停車場で戦闘が繰り広げられている間、同じような攻防戦が市南部のランドマークとも言える穀物サイロを中心とする狭い地域を巡って続いていた。
9月17日、第48装甲軍団の迅速な進撃に、ソ連第35親衛狙撃師団(ドゥビャンスキー大佐)の守備隊が穀物サイロの中に閉じ込められてしまった。
この事態を受けたチュイコフはこの日の夜、バルト海艦隊所属の第92海軍歩兵旅団(ホジャノフ中尉)を増派した。増援隊は2挺の機関銃と、2挺の長い対戦車ライフルを持って来ていた。ドイツ軍将校と通訳が休戦の白旗をもってソ連兵に降伏を求めると、返事の代わりに対戦車ライフルでドイツ軍の戦車に銃弾を撃ち込み、抵抗の意志を示した。
さらにチュイコフはツァリーツァ峡谷での戦闘があまりに激しくなったため、再び司令部を移動させることにした。参謀将校たちが選んだのは、「赤いバリケード」工場に近い河岸の地下壕だった。その真上には、巨大な石油貯蔵タンクが聳えていた。
一方、パウルスは第1停車場での戦闘に決着を付けるため、20両の戦車を第71歩兵師団の支援に派遣した。瓦礫に隠れて立てこもるソ連第13親衛狙撃師団は果敢な反撃を繰り返し、この日もまた4度にわたる争奪戦を繰り広げた。
9月18日、ドン正面軍による反攻が再び行なわれた。しかし、ここでも第14装甲軍団(フーベ中将)と空軍によって阻まれてしまう。ドン正面軍は翌日も攻勢に出るが、大きな損害を受けて敗退した。市街地では、5日間で15回もその支配者を変えた第1停車場が、ついにドイツ軍の手に落ちた。この時までに、ソ連第13親衛狙撃師団は戦闘で兵員の9割を失っていた。
9月20日、第6軍は穀物サイロの守備隊に対し、戦車部隊を差し向けた。ソ連軍の守備隊はその頃には、手榴弾も銃弾も全て使い果たしていた。サイロは煙と炎に包まれ、侵入したドイツ兵はソ連兵の掛け合う声に向かって発砲した。夜闇に紛れて、ソ連軍の残兵たちは負傷者を置いたまま、北方へと脱出した。サイロはドイツ軍の手に落ちたものの、圧倒的な勝利とはいえなかった。
その間にも、半ば要塞と化した都心の建物で同じような抵抗に遭遇して、多くのドイツ兵が命を落とした。赤の広場に面したウニヴェルマーク百貨店、「製釘工場」として知られる小さな倉庫でも激しい攻防戦が繰り広げられた。ソ連軍の「守備隊」に関する最も有名な逸話のひとつに、58日間続いた「パヴロフの家」防衛戦が挙げられる。
第62軍にとって最も深刻だったのは、市の中心部にある桟橋にドイツ軍の一部が進撃してきたことであった。ドイツ軍は増援部隊や補給物資が市街地に届くのを阻止しようとしていた。この危機に対し、チュイコフはシベリア兵から編成された第284狙撃師団(バチュク大佐)の出撃を命令した。
9月23日、第284狙撃師団はヴォルガ河を渡って、桟橋からツァリーツァ峡谷の南に孤立した部隊と合流するため、反撃を開始した。しかし、連日の激戦で甚大な損害を受けていたにも関わらず、ドイツ軍はこの反撃を追い返した。第284狙撃師団の反攻もむなしく、第62軍の南翼が孤立することになってしまった。この時点で、第62軍が保持していたのは、市北部の河沿い13キロにある重工業地帯だけとなった。
9月26日、第6軍司令部はラシュテンブルクの「総統大本営」に対し、「帝国の軍旗、スターリングラードの共産党ビルに翻る!」と打電した。
この報告を聞いたヒトラーは同月30日、ベルリンのスポーツ宮殿で演説を行なった。連合国がドン河からヴォルガ河へのドイツ軍の進撃を正しく評価していないと豪語した上で、ヒトラーはこのように断じた。
「何人もこの地点から我々を動かせぬであろう」
〇第二のヴェルダン
9月27日午前6時、急降下爆撃機による空襲とともに、ドイツ軍の総攻撃が再び開始された。第62軍司令部が置かれた地下壕に近い「赤いバリケード」工場の周辺は爆撃によって黒煙に覆われ、昼ごろには部隊との通信線が途切れ、参謀将校たちが前線に出て情勢を把握して回った。チュイコフは思わしげに呟いた。
「こんな戦闘がもう一度あれば、我々はヴォルガ河の中だ」
第8軍団(ハイツ大将)の第389歩兵師団(マグヌス少将)と第14装甲軍団の第60自動車化歩兵師団(コーラーマン少将)は、市街地の北西にあるオルロフカの突出部を挟撃していた。
第51軍団の第295歩兵師団と第100猟兵師団は「ママイの丘」の制圧をめざし、第24装甲師団は市北部の「赤い十月」金属加工工場と「赤いバリケード」製砲工場へと前進した。北部の工場は度重なる空襲と砲撃によって、高熱で捻じ曲がった機械や鉄片で覆われていたが、ソ連軍の守備隊はそれらを「カモフラージュ」として利用しながら、巧みな反撃をくり返していた。
9月28日、ドイツ空軍はヴォルガ河西岸と、河を渡ろうとする船舶を重点的に攻撃した。6隻あった補給船のうち5隻が重大な損害を被り、第62軍の生命線が断たれてしまった。おびただしい数の負傷兵が東岸に退避されず岸辺に放置され、前線の弾丸も食料もまもなく底が付きそうだった。
9月29日、オルロフカを防衛していたソ連第115狙撃旅団(アンドリューセンコ大佐)は第389歩兵師団により西から、第60自動車化歩兵師団により北東から攻撃された。数の上では敵わないソ連軍守備隊は死に物狂いで抵抗したが、戦況の不利を勘案したチュイコフは「ジェルジンスキー」トラクター工場のそばにある労働者団地まで後退するよう命じる。
9月30日、ドン正面軍は再び攻勢を開始し、オルロフカを攻めるドイツ軍の背後に危機が迫った。ドイツ軍は大きな損害を被り、攻撃のテンポを鈍らされ、攻撃開始から10日後、ようやくオルロフカを占領する。あるドイツ兵はこのように書き送っている。
「スターリングラードを守る敵ときたら・・・想像しがたいほどです。まるで怪物です」
9月31日、パウルスは工業地帯への進撃を速めるために、市の南部から第94歩兵師団(プファイファー中将)と第14装甲師団(ラットマン少将)の出撃を命じた。
これに呼応する形で、チュイコフは第193狙撃師団(スメホトヴォロフ少将)、第39親衛狙撃師団(グリエフ大佐)、第308狙撃師団(グルチエフ大佐)を9月27日から10月3日にかけて東岸から呼び寄せ、直ちに工場地帯の援護に向かわせた。
10月1日、「ママイの丘」を攻めたてていたドイツ第295歩兵師団が、ソ連第13親衛狙撃師団の北翼にある峡谷に侵入した。第13親衛狙撃師団の残存部隊はぎりぎりの距離まで敵を引き寄せ、短機関銃や小銃、手榴弾などで応戦した。だが、夜間にドイツ軍は放水路を通ってヴォルガ河畔に到達し、北からソ連軍の背後を襲った。ロジムチェフは投入できる全ての部隊を差し向け、何とか窮地を脱した。
10月2日、ドイツ軍は第62軍司令部の真上にある石油タンクを砲撃した。タンクに砲弾が直撃し、まだ底に残っていた石油に引火した。燃える石油は司令部の周囲に広がり、使えるのは無線送信機だけだった。安否を確認するため繰り返し打電してくるスターリングラード正面軍司令部(9月30日、南東部正面軍より改称)に対し、チュイコフはようやく応える。
「煙と炎の中にいる」
ヒトラーはスターリングラードでなかなか勝利を収められないことに苛立ち、9月24日にハルダーを参謀総長から解任した。ハルダーはパウルスの唯一の庇護者であったため、パウルスはヒトラーからの批判と圧力で極度の神経症にかかっていた。部下たちは疲れ切り、士気は上がりようもない状態だった。ある将校は、このように記している。
「スターリングラードは第二のヴェルダンとなるのか。ここでは、誰もが大いにそれを懸念している」
一方、チュイコフもまた、疑問を抱き始めていた。一体、急速に狭まる河岸を守れるのだろうか。稚拙な反撃をくり返して大きな損害を受けながらも、ドイツ軍を痛めつけているのは事実だった。もはや選択肢はないと悟ったチュイコフは市を守る決意を新たに、スローガンを発表する。
「スターリングラードを守る兵士に、ヴォルガ河の背後に土地は無い(ザ・ヴォルゴイ・ドリャ・ナス・ゼムリ・ニェット)!」
〇新たな戦争
スターリングラードにおける戦いは市民生活に集約される、新しい形の戦争だった。
従軍記者のグロスマンは「瓦礫が散乱する崩れかけた部屋や廊下で戦闘があった」と記した。「こちらの家はロシア兵が乗っ取り、あちらの家はドイツ軍に乗っ取られている」
ドイツ軍の歩兵は家から家への戦闘を嫌がった。通常の境界線や範囲を超えた接近戦が心理的な混乱を招くことが分かったからである。破壊された建物や掩蔽壕、地下室、下水道での接近戦を彼らは野蛮な親しみを込めて、「鼠たちの戦争」と命名した。指揮官たちは急速に戦況を把握できなくなっていると感じた。第11軍団長シュトレッカー大将は友人に対し、このように書き送った。
「敵は眼に見えない。地下室、崩れた壁の影、掩蔽壕、工場跡に待ち伏せて攻撃してくるので、我が方の損害は甚大だ」
優れた電撃戦の利点を生かせず、ドイツ軍の兵士たちは色々な面で第1次世界大戦の手法に逆戻りさせられた。それは10名の兵からなる急襲部隊による戦法で、機関銃や火炎放射器で武装した「突撃工兵(ピオニール)」を運用して掩蔽壕や地下室、下水道を掃討するというものだった。第14装甲軍団長ヴィッテルスハイム大将はこうした用兵に異論を唱えたが、ヒトラーの逆鱗に触れ、市街地突入翌日の9月14日に解任された。
チュイコフはドイツ軍の大規模襲撃を「防波堤」で分散、分断させる計画を立てた。補強した建物に対戦車ライフルと機関銃を持つ兵士を配置しておいて、攻撃してくる敵を通路に追い込む。そこでは、背後の瓦礫に半ば埋まってカモフラージュされているT34と火砲が待ち受けていた。
ドイツ軍の指揮官たちはソ連軍のカモフラージュ技術を率直に認めたが、ソ連軍の守備隊にとって理想的な条件を造り出していたのがドイツ空軍機だと認める者はほとんどいなかった。ある中尉が故郷に宛てた手紙の一節である。
「建っている家は一軒もありません。あるのは一面の焼け野原です。通り抜けられない瓦礫の荒野です」
より一般的な戦術は、ドイツ軍に予備兵力が足りないのを利用して発展した。チュイコフは夜襲を積極的に行うよう命じる。敵の空軍が反撃できないという現実的な理由からだが、ドイツ兵は昼より夜間の攻撃を恐れて疲れ果てるはずだと考えていた。
ドイツ軍の兵士たちはとりわけ第284狙撃師団に所属するシベリア兵を特に恐れるようになった。夜間に動くものを感じれば引き金をひかずにいられず、同じように緊張している歩哨たちが戦闘区域全体で一斉に発砲するという事態がたびたびあった。そのため、9月の1か月だけで2万5000発もの弾薬が消費された。
さらに、ソ連軍は緊張の度合いを高めるため、時おり夜空に照明弾を打ち上げ、あたかも即座に攻撃をするかの印象を前線のドイツ兵に与えた。こうした戦術が及ぼす心理的影響は、かなりのものだった。
機動作戦が身動きの取れない絶滅戦争に変わった途端、9月の心的要因による損耗率は急激に高まり始めた。ドイツの医学専門家はもっぱら婉曲な「極度の疲労」という表現を使った。ドイツ軍はストレス症状の存在を認めなかった。ヒトラーが政権を取る7年前の1926年、戦争ノイローゼは疾病ではないとされたからである。
この規定は奇妙なことに、赤軍の見解と見事に一致している。戦闘ショックによって生じたストレス性の疾病は病気ではないのだから、戦線を離れる理由にはならない。神経衰弱は臆病と分類され、死罪に値かねない。
危険な夢想家だったヒトラーは、スターリングラードがドイツの卓越した国力を証明する厳しい試練の場となるだろうという幻想を懐いていた。一方、ソ連軍の古参の将兵はこのような言葉を残している。
「我々ロシア人は、頭の中でスターリングラードの戦いに備えていた。何よりも我々はその代償に関して幻想を懐いていなかったし、代償を支払う覚悟があった」