〇粛清
1935年9月、赤軍参謀本部でドイツを仮想敵国とした本格的な戦争計画の研究が始められた。この研究において中心的な役割を果たしたのが、当時の国防次官兼戦備局長トゥハチェフスキー元帥であった。トゥハチェフスキーは共産主義を批判するヒトラーに警戒感を持ち、将来ドイツとの戦争は避けられないとの認識を持っていた。
トゥハチェフスキーはソ連内戦の英雄であり、ソ連軍の作戦概念である「縦深作戦」の提唱者であった。この「縦深作戦」とは、「敵側の前線から後方までを空爆と砲撃で同時に制圧し、その援護の下、機械化され機動力の向上した地上部隊が敵陣深くまで突破する」というものであった。この概念に基づいて、トゥハチェフスキーは空挺部隊、機械化部隊の創設を強くスターリンに進言していた。
スターリンはトゥハチェフスキーの提案を気前よく受け入れる一方、職業軍人らに対して深い猜疑心を募らせていた。ロシア内戦時、トゥハチェフスキーら旧帝政軍はヴィスワ河において敗北を喫したというのがその理由だった。だが、実際はスターリンもまた多くの独裁者と同様に、自分への忠誠と自己の権威への服従を部下たちに求め、トゥハチェフスキーのような自立した思考を持つ者に対しては不安を抱いていたのである。
そして、スターリンの内戦時代からの盟友である国防相ヴォロシーロフ元帥が、独裁者の疑心暗鬼をさらに煽ったのである。ヴォロシーロフはトゥハチェフスキーがトロツキーの下で働いていたことやドイツに長く滞在していたことを理由に、トロツキストまたはドイツのスパイであると周囲に言い触らしていた。
ブジョンヌイもまた、トゥハチェフスキーの活動を苦々しく思っていた。ヴォロシーロフと共に騎兵軍の司令官として名を上げたブジョンヌイは、もしこのまま赤軍の機械化が進めば、自分たちの権限が縮小され、地位を失いかねないと危機感を抱いていた。
粛清は、段階的に行われた。まず、スターリンはそれまで秘密警察(NKVD)長官を務めていたヤゴダを解任し、後任にエジョフを起用した。
1934年12月1日、レニングラード市共産党議長キーロフが暗殺されると、スターリンはこれを「トロツキストの陰謀」を決め付け、エジョフに多くの共産党幹部の逮捕を命じた。彼らはモスクワで行われた見せしめ裁判の末、銃殺された。この時すでに被告の中には現役の赤軍軍人が含まれていたが、彼らは旧帝政時代の経歴が嫌疑の対象とされていた。
赤軍に対する本格的な粛清は、1937年に始められた。5月27日、トゥハチェフスキー元帥以下数名の同僚が逮捕された。この粛清が尋常でなかったのは、全ての審理が非公開かつ大急ぎで行われた点に現われている。
6月12日、ヴォロシーロフはトゥハチェフスキーと2人の軍管区司令官、その他6人の高級将校の処刑に関する布告を簡潔に公表した。
この粛清によって、元帥5人のうち3名、一等および二等軍司令官(上級大将・大将に相当)級15人のうち13人、軍団長(中将に相当)級85人のうち62人、師団長(少将に相当)級195人中110人、旅団長(准将に相当)級406人中220人、大佐級も4分の3が処刑され、中佐以下の下級将校の割合はずっと少なく全体の10%、政治将校の3分の2が独ソ開戦までの4年間に姿を消した。
逮捕された将校への容疑や証拠は、そのほとんどが検事総長ヴィシンスキーによって捏造されたものだった。ロコソフスキーに至ってはおそらくポーランド出身という彼の出生がスターリンの猜疑心に触れ、彼は20年も前に死んでいる男が提供したとされる証拠を突きつけられ、日本およびポーランド秘密警察のスパイ容疑で3年間投獄された。
粛清によって当然のことながら、軍隊の管理と訓練は損なわれ、これが緒戦時の壊滅的打撃の一因となった。その上、「縦深作戦」は依然としてソ連軍の公式の作戦概念ではあったが、トゥハチェフスキーの急死によってこの概念も機械化部隊の構想も水泡に帰し、彼の著作は公共の場から回収され廃棄された。
〇後遺症
1939年9月1日、ヒトラーはついに「第三帝国」の建設に取り掛かった。ドイツ軍は7個装甲師団を含む約150万人の兵力で、「白作戦」すなわちポーランドへの侵攻を開始した。
このとき、ドイツ軍は初めて実戦で装甲部隊を投入し、自動車化部隊と組み合わせて大規模な機動兵力を編成した。その機動部隊を敵の予想しない地点へ集中的に投入して敵の動揺と混乱を誘い、戦線の動きを加速させるという「電撃戦」を実践してみせた。
また、機動力の劣る砲兵の代わりに、急降下爆撃機を最前線の火力支援として活用するとことで、敵の抵抗拠点に遭遇した時に生じる部隊の進撃速度の低下を最小限に抑えるようにしていた。
この戦役で、グデーリアン大将率いる第19軍団は10日間で約360キロを走破するという驚異的な快進撃を成し遂げた。自ら「電撃戦」の有効性を証明して見せたグデーリアンは、国防軍の中で確乎たる地位を掴んだのである。「電撃戦」というドイツ軍の剣は、翌年の対フランス戦でさらに「磨き」がかけられることになる。
一方、クレムリンは9月14日、ヒトラーに対して指定されたポーランドの地域に赤軍が侵入するであろうと伝えた。その3日後、ソ連軍は東部から大量の戦車を投入してポーランド領内に侵攻した。
粛清の「後遺症」は、すでにこのとき現われていた。作戦初日こそソ連軍は目ざましい進撃を見せたものの、2日目には早くも燃料の不足が発生し、進撃の速度は急速に低下した。ビアトリスクでドイツ軍に接触したときには、前線の部隊は燃料を緊急に空輸してもらわなくてはならなくなっていた。
そして、この「後遺症」は11月30日に開始したフィンランドとの戦争(冬戦争)において、さらに深刻な状態で全世界に露呈された。この日、レニングラード軍管区司令官メレツコフ上級大将率いるソ連軍は約60万の兵力をもってして、フィンランドに侵攻した。切迫するドイツとの戦争に備えて、フィンランドとの国境線を戦略上の要地から遠ざけることが目的であった。
スターリンの忠実な部下であるヴォロシーロフは「4日で片が付くだろう」と予想していたが、マンネルハイム元帥率いるフィンランド軍に何度も裏をかかれ、開戦から1か月後には戦況は完全に膠着した。このときソ連軍はフィンランド軍に対し、兵員数で5倍、戦車と航空機では30倍もの兵力と膨大な砲兵隊を抱えていた。
失態を重ねたメレツコフは解任され、代わりにティモシェンコ上級大将が北西部正面軍司令官に就任するも、戦況は必ずしも好転しなかった。その結果、翌年2月になってようやく優勢に立つことが出来た。
1940年3月12日、ソ連はフィンランドと領土割譲要求を含む和平条約を締結した。しかし、そのための代償は戦果とはとてもつり合わないものだった。約5万人の戦死者に、15万人を超える負傷者。国際連盟からは脱退を命ぜられ、ソ連は外交上も孤立することになった。
予想以上の失態にスターリンは、クレムリンに赤軍の全首脳を招集して、冬戦争で露呈した戦術面・兵器面での弱点についての徹底的な検証と、それに基づく改善提案を行なわせた。だが、指揮系統を根幹から破壊された巨大な軍事組織を、机上の理論だけで立て直すことは不可能だった。
この嘆かわしいソ連軍の有様を見て、ヒトラーは大いに興奮してスターリンの粛清を「壮挙」と称え、「ソヴィエト連邦のような腐り切った体制はいずれ崩壊する」という確信を持つようになった。「バルバロッサ作戦」の発動に踏み切った背景に、この確信が潜んでいることは言うまでも無い。多くの外国人や情報機関もまた、ドイツの見解に同調した。しかし、ひとつだけ違う見解も持った国があった。
日本である。
〇瀉血
1930年代、中国への侵略を始めた日本―関東軍は満州一帯を占領し、傀儡政権を樹立した。このとき満州国政府は、モンゴルとの国境画定で紛争を抱えており、関東軍はこれを利用して「北の大国」ソ連の出方を見極めようと画策していた。
1939年5月、関東軍は満ソ国境のハルハ河付近で一連の軍事行動を取った。クレムリンはこの行為を「日本政府には侵略の意図を有している」とみなし、日本がさらなる攻撃を仕掛けてくるだろうと予想していた。そこで、満ソ国境を管轄する第1ソヴィエト・モンゴル軍の司令官に白ロシア軍管区司令官ジューコフ中将を任命した。
ブジョンヌイの部下であり、典型的な「騎兵閥」の一員であったジューコフはその実、トゥハチェフスキーの信奉者であった。ジューコフはグデーリアンと同様に、この機会にトゥハチェフスキーの理論である「縦深作戦」の有効性を証明してみせようと考えた。ノモンハン一帯の戦場を視察したジューコフはモスクワに部隊の増援を訴え、認められた。
8月20日、ジューコフは第57軍団に対し、総攻撃を命じた。約500両の戦車と装甲車は大量の重砲部隊による支援を受けながら、関東軍の陣地に襲いかかった。後方地域ではトラックの輸送部隊が縦横無尽に駆け巡り、兵員や弾薬の補充を滞りなく行っていた。
機動力に欠けた関東軍はバラバラに包囲されて2週間のうちに、大きな損害を被って撤退した。9月15日、日ソ間で停戦協定が締結された。このときの敗戦によって関東軍はソ連の国力を脅威と受け取り、その勢力圏を南方へと差し向けることになる。
ジューコフはノモンハンでの功績により、「ソ連邦英雄」の称号を与えられた。その後、スターリンに認められてキエフ軍管区司令官を歴任し、1941年1月には参謀総長に就任した。そして、同年6月22日の開戦から、ジューコフは精力的に前線の各地をめぐり、ある事実に気付いたのである。
緒戦に被ったソ連軍の敗北は、その大半が粛清で生き延びた将校たちの未熟さに端を発していた。司令官たちは急きょ繰上げで陸軍大学を卒業した者ばかりで、実戦経験のない肩書きだけの彼らは戦況に応じていく自信も無く、型にはまった解決法を当てはめようとした。その結果、ドイツ軍の前進が最も予想される道に沿って兵力を集中させることもなく、まったく教科書どおりの作戦や兵の運用を行なったので、経験豊富なドイツ軍は簡単にそれを見抜いてソ連軍の攻撃を避け、反撃することが出来たのである。
さらに、どのレベルの司令部でも協同作戦や支援砲撃、兵站のための訓練を受けた参謀将校が不足していた。このような参謀将校たちは配下の部隊を掌握するための必要な連絡も、上官への戦況報告すらしなかった。いったん電話線が切断されると、多くの司令部が完全に通信不能の状態に陥った。軍管区司令部さえ、動員後は「正面軍」という大規模な組織を運用するというのに、熟達した通信士が不足していた。
このことから、赤軍は司令部の数に対して、有能な参謀将校と通信機構が圧倒的に不足していた事実が浮き彫りとなった。さらに緒戦の敗北によって、軍・軍団・師団の兵力が壊滅的に激減したため、生き残った指揮官たちはもはや司令部とは言えない体制で指揮を執る状況に追いやられてしまった。
ジューコフは3週間に及ぶドイツとの戦争から、指揮系統上の問題、さらには戦車や火砲をはじめとする兵器の全般的な不足に対処する方法として、とりあえず戦前の概念を放棄し、赤軍の組織をより基本的かつ単純なものに立ち返らせるという結論に至った。
〇再編
赤軍指導部はドイツ軍の快進撃という危機に対し、絶え間なく対処せざるを得ない状況に置かれていたが、1941年7月15日に組織再編のための「回状第1号」を発令した。これを基にして兵力の蓄積を行い、これからの戦闘を通じて赤軍の再建を図ろうとしたのである。
この指令によって、軍はその中にあった「軍団司令部」をすべて廃止し、5~6個狙撃師団に2~3個戦車旅団、1~2個騎兵師団を直轄させる方式に変更された。まだ経験の浅い指揮官でも把握のしやすい状態へと、移行されたのである。
また、肥大化した狙撃師団も簡素化され、これまで師団の中に組み込まれていた車両隊・対戦車砲隊・高射砲隊などを切り離すことになった。これらも部隊の装備は供給が絶望的なまでに不足していたため、この改編によって軍司令官たちはこれらの装備を一手に集めて、最も危険にさらされている部隊を支援するために自由に配分することが可能となった。
さらに官僚主義的な要因により、熟練した指揮官やT34やKV1をはじめとする新型戦車の不足していたため、「張子のトラ」に近い状態にあった機械化軍団の解体が決定された。より定数を縮小した戦車師団と自動車化狙撃師団に再編成され、戦前に編成されていた師団も新しい編成に組み替えられた。
ただ現実には戦車部隊はすべて野戦軍に属しており、しかも1941年の夏から秋にかけては戦車の数が極めて不足したため、新編の戦車部隊の中では「戦車旅団」が最大の戦闘単位とされ、すべて歩兵支援用に配備することになったのである。
だが、ほとんどの師団の実戦力はこれにはるかに達せず、さらに少ない定員・定数の師団は「独立旅団」と呼ばれるようになった。これら旅団の定数は師団の約3分の1であり、1941年の秋から1942年始めに掛けて、約170個の「独立旅団」が新たに編成された。
7月15日の回状では、特に騎兵の大規模な拡張を指示しており、騎兵師団30個の新設を定めていた。これを受けて、年末までに騎兵師団の数は82個に達したが、高い損耗率のために順次、騎兵軍団へと吸収された
だが、赤軍の作戦・戦術概念の転換は軍の再編よりも難しく、いまだにトゥハチェフスキーの理論を踏襲していた。攻めるにせよ守るにせよ、ほとんどの赤軍将校は部隊を教科書どおりに動かそうとする傾向にあり、ドイツ軍が最も兵力を集中させている場所に対して直接、正面攻撃を仕掛けようとする場面が多かった。
1941年の時期に「最高司令部」から出された指令の多くが単純なものであり、それを受ける指揮官たちがどれほど未熟だったかを露呈するものだった。モスクワ防衛戦が繰り広げられていた1941年11月にドイツ第4装甲軍司令部が作成した報告書の中でも、当時のソ連軍の実情が裏付けられている。
「戦車自体は優秀である。それらは一部、装甲がドイツ製のものを凌駕しており、良質な近代兵器と特徴づけられるべきものである。ドイツの対戦車兵器はロシアの戦車に対して十分、効果的ではなかった。兵器・装備が優秀で数量も優勢であるにも関わらず、ロシア人はそれを有効に使用することができない。それは、部隊指揮訓練を受けた士官が不足していることに起因するようである」
新たに繰上げされた未熟な将官たちが、トゥハチェフスキーの理論を完璧に使いこなすには、独ソ戦以後の壮絶な戦いとそれに伴う大勢の下士官の犠牲が必要だったのである。