〇戦意高揚
スターリンは11月7日の革命記念日をどう祝うべきか考えていた。平時ならば、ソ連の軍事力を誇示するパレードを行う慣習になっていたが、非常時の今こそ「記念碑的なイベント」を行う意義をスターリンは鋭く感じ取っていた。モロトフとベリヤは、スターリンから次のような提案を受けて、思わず仰天した。
「恒例の軍事パレードを手順はどうするのかね?2、3時間ほど前倒しして実施すべきではないか」
ドイツ軍の先頭部隊がすでに首都から60キロ近くにまで迫っており、しかも周期的に空襲を受けているこの非常時に、軍事的に何の意味の無いパレードを行うというスターリンの考えに、モスクワ軍管区司令官アルテミエフ中将も驚いて、一斉に異議を唱えた。しかし、スターリンは「君たちはこの苛酷な時期にパレードを敢行することの絶大な政治的意義を分かっていない」と叱り飛ばした上、自分の考えを披露した。
「モスクワ周辺の対空防御を強化しろ。主要な指揮官たちは前線にいるから、ブジョンヌイ将軍がパレードの先頭に立ち、アルテミエフ将軍が指揮を執れ。パレードの最中に爆撃され、死者や負傷者が出たらただちに搬送してパレードを続行しろ。パレードのニュース映画を作製し、大量に国中に配布しろ。この機会に演説を行うから、新聞にはでかでかと記事を載せろ」
モロトフは真っ向から反対した。
「あまりにも危険ではないですか。パレードを強行すれば、それはそれで国内外の政治的な反応は計り知れないでしょう。しかし、危険が大きすぎます」
「もう決まったことだ。しっかり手筈を整えておけ」
11月7日、夜が明けて雲が空を覆い、雪がちらつき始めた。クレムリンに面した赤の広場に出たスターリンは曇った空を指差し、「ボリシェヴィキは幸運だ。神はわれらに味方した」と豪語した。ますます降雪が激しくなり、事実上ドイツ空軍の空襲は不可能となり、空は軍服の外套と同じような灰色を帯びた。
クレムリンの大時計が時刻を告げるとともに、クレムリンのスパスキー門から白馬に騎乗したブジョンヌイが悠然と登場し、広場で待機していたアルテミエフが慣れない乗馬姿でこれを迎えた。
開会の閲兵が終わると、広場の端に位置するレーニン廟の壇上に立つスターリンは短く簡潔ではあったが、国民向けの演説を行った。
「同志赤軍兵士と赤色水兵諸君!指揮官と政治指導員諸君!男女のパルチザン諸君!
全世界は、諸君のことをドイツ侵略者の強盗的軍勢を滅ぼすことができる力として見ている。ドイツ侵略者の桎梏の下に陥ったヨーロッパの奴隷化された諸国民は、諸君のことを自分たちの解放者として見ている。
偉大な解放の使命は、諸君が担うこととなったのだ!この使命に相応しくあれ!
諸君が遂行しつつある戦争は解放戦争であり、正義の戦争である。我々の偉大な先人たち、アレクサンドル・ネフスキー、ドミトリ・ドンスコイ、アレクサンドル・スヴォーロフ、ミハイル・クトゥーゾフの勇姿をして、この戦争における諸君らを鼓舞せしめよ!」
降り続く大雪のため、スターリンの声は拡声器を使っても参列者には聞き取りづらかったが、結びの言葉―「ドイツ軍に死を!」に応えて、「万歳(ウラー)!」の大歓声が広場の隅から隅まで鳴り響き、拍手の嵐が巻き起こった。
祝砲がとどろき、軍楽隊が「インターナショナル」を吹奏し始め、ドラムの連打が行進曲に変わり、パレードが始まった。士官候補生と歩兵、革命時からの古参兵、騎兵、砲兵連隊と戦車大隊をそれぞれ2個隊、合計で2万8000人の将兵に200両近い各種戦車が歴史博物館から聖ヴァシリー寺院に向けて隊列を組んで、威風堂々とスターリンの閲兵を受けた。これらの部隊はただちに前線へ増援として送られるのである。
ある意味では、博打に等しかったスターリンの軍事パレードは大成功を収めた。スターリンの信念と勇気に、市民も兵士も大いに士気を高揚させた。このパレードは抗戦の決意を力強く示したシンボルとなり、多くの市民にとって精神的な転換点となった。参加した人々は、生涯このパレードを忘れなかった。
〇命の道
11月8日、北部の戦区ではドイツ北方軍集団にティフヴィンを占領されたことにより、レニングラードへの物資補給は危機的な状況に置かれていた。この情勢を受けて、共産党政治局のメンバーの1人であるカリーニンが、スターリンに宛てて私信を書いた。
「レニングラードにおける情勢の困難と危機は明らかに増大してきました。レニングラードへの信頼できる補給手段を講じることが重要と考えます」
11月16日、スターリンはカリーニンの提案に同意を示し、特別空輸命令を下した。レニングラードに1日最低200トンの食糧を運ぶために空軍は大型輸送機24機、重爆撃機10機を用意したが、これは市を救うためには程遠いものだった。
ドイツ北方軍集団ではティフヴィン周辺の気温がまもなく摂氏マイナス40度までに低下したことで、人家も疎らな荒野で吹雪にさらされた多くの兵士が防寒装備の欠如により凍傷にかかり、凍死する者が続出していた。このため第39装甲軍団はティフヴィンで停止し、楔形の防御陣地を築いて防勢へ転じざるを得なくなっていた。
この状況を見たモスクワの「最高司令部」は11月9日、第4軍司令官メレツコフ上級大将にティフヴィンに対する新たな反撃計画の準備を命じた。この反撃は、第4軍・第52軍・第54軍によって段階的に実施されることとなり、さらにスペイン義勇兵の「青師団」と対峙するノヴゴロド機動集団(ほぼ軍団規模)も支援兵力として投じられた。
11月10日、まず最南部のノヴゴロド機動集団が攻撃を開始し、12日には第52軍がマラヤ・ヴィシェラの南北からドイツ第39装甲軍団に襲いかかった。そして、11月19日に第4軍がティフヴィンの突出部に対して猛攻撃を仕掛けた。
このときソ連軍は総兵力でドイツ軍に優位に立っていたが、なかなか華々しい戦果を挙げることはできなかった。ブドゴシュチ南方のマラヤ・ヴィシェラは、11月20日に第52軍の第267狙撃師団(ゼレンコフ准将)によって奪回できたものの、ティフヴィンは11月末になってもまだ、ドイツ軍が前線の陣地を保持することに成功していた。
参謀総長ハルダー上級大将は、11月16日の日誌に次のように書き記した。
「陸軍総司令部の意向は、いかなる代償を払ってもティフヴィンは保持しなくてはならないということである」
だが、この時には第39装甲軍団がティフヴィンの保持に固執する戦略的な意義は既に失われていたのである。
レニングラード正面軍司令部ではティフヴィンの陥落を受けて新たな輸送路を構築するため、冬季のラドガ湖に着目していた。南北200キロ、東西150キロに及ぶヨーロッパ最大のこの湖は完全に氷結すると、氷の厚さは約1.5メートルにもなり車両が通行できる強度として充分だった。
11月3日、レニングラード正面軍の兵站担当ラグノフ中将はラドガ湖の湖面が氷結したら直ちに氷上道路を啓開するよう命令を下した。この輸送路を整備するため、大勢の市民が土木作業員として動員され、ラドガ湖畔のオシノベツから市街地まで鉄道の支線を敷設するための新たな道路の建設が、白樺の森を切り開いて進められた。
11月20日、物資を積んだ最初のトラック輸送隊がラドガ湖の氷上を通ってレニングラードに到着した。「命の道」と呼ばれることになるこの氷上道路は、レニングラードが包囲されてから83日目にして開通したのである。
氷上道路が開通したとはいえ、それは即座にレニングラードを飢餓から救うものではなかった。トラック部隊が一度に輸送できた物資の量は、市全体の需要から見れば「焼け石の水」といったもので、氷上道路は常にドイツ軍の砲撃と空襲にさらされていたのである。
〇オルシャ
中央軍集団にとっても情勢は不安定だった。稼動可能な車両は全体の3分の1にまで落ち込み、各師団の戦闘能力も半分から3分の1にまで減退した。これ以上の東方への進撃は可能かもしれないが、もともと劣悪な兵站機能にさらなる負担を強いることは間違いなかった。どれほど攻勢が成功しようと関係なく、次の攻勢のための燃料と弾薬を輸送することで精一杯の鉄道では、越冬に必要な防寒装備の運送は無理であろうとの、危機感が指揮官たちの間で高まっていた。
11月7日、モスクワとその周辺地域の気温は急激に低下し、大地に降り積もった雪が凍りついてアイスバーンとなった。これにより、東部戦線のドイツ軍は新たな機動作戦を実施できる条件のひとつが満たされた。
11月12日、スモレンスク西方のオルシャで陸軍総司令部の首脳と3つの軍集団の参謀長が1941年度で最後となる戦略会議を開いた。議題は、地表の凍結という好機をとらえて新たな攻勢を実施するか否かだった。
北方軍集団参謀長ブレネッケ中将と南方軍集団参謀長ゾーテンシュテルン中将は、冬季用の装備が致命的なまでに不足した現状では、新たな大規模攻勢は行うべきではないとする意見具申を行った。
この会議で、陸軍参謀総長ハルダー上級大将は自分が恐れていたよりもドイツ軍が衰弱していることにショックを受けて、「年内に達成できる最大限の成果はレニングラードの包囲とモスクワに対して脅威を与えるのがやっと」ということを確信した。ヒトラーでさえも戦闘の長期化を納得するようになり、もはやソ連政府打倒とか主要都市の即時奪取などということを口にしなくなった。
一方、中央軍集団参謀長グライフェンベルク中将は中央軍集団司令官ボック元帥の強い意向として、モスクワへの攻勢は断固として実施すべきであるとの主張を展開した。ボックは、前年の西方攻勢で首都パリを失ったフランス軍が「頭部を切り落とされた動物」のように弱体化した事実を持ち出し、モスクワ陥落によるソ連体制の崩壊に可能性を賭ける方がまだましだと考えていた。
北方では第18軍がレニングラード南方で停止、南方では第1装甲軍がロストフに接近しつつある中で、中央軍集団が西部正面軍とモスクワを二重包囲することに、ドイツ軍の最後の努力の余地は残されているかのように思われた。第3装甲軍と第4装甲軍がクリンとモスクワの北を流れるヴォルガ=モスクワ運河への進撃を続け、その間に第2装甲軍がモスクワ東方の装甲部隊と連結するため、南西からトゥーラとカシーラへ向かいつつあった。
両者の意見を聞いたハルダーは最終的な決裁を下し、中央軍集団は司令官ボック元帥の意向に従い、モスクワ攻略を目指す「1941年度秋季攻勢」を実施することが決定された。「モスクワの陥落によるソ連体制の崩壊」という不確かな要素に賭ける以外に、中央軍集団が進むべく道は残されていなかった。
モスクワの「最高司令部」は11月に入ると、次のような可能性におびえていた。すなわち、ドイツ軍が冬の路面凍結によって一気に機動性を回復させ、レニングラード、モスクワ、ロストフを包囲するという憶測だった。もしこのような打撃を被れば、ソヴィエト体制は半身不随となり、人口や交通の中枢、生産力の喪失が赤軍の致命傷になることは明らかであった。
11月14日、スターリンは西部正面軍司令官ジューコフ上級大将に、ヴォロコラムスクとモスクワ南方で反撃を行うよう命じた。そのような反撃では大した成果は期待できず貴重な兵力をすり減らすだけだとジューコフは抗議したが、この決定が覆ることは無かった。
ジューコフはヴォロコラムスク周辺の戦区を管轄する第16軍司令官ロコソフスキー少将にしぶしぶスターリンの反撃命令を下達した。ロコソフスキーもまた、現在の自軍にはそんな反撃を行える兵力はないと抗議したが、ジューコフの強い調子に押し切られた。
〇絶望的な反攻
11月15日、冬が猛烈な勢いでロシアの大地に到来し、地面は固く凍結した。ドイツ中央軍集団はこの日、モスクワ攻略を目指す「1941年度秋季攻勢」を開始した。まず第3装甲軍が攻撃を始め、翌16日に第4装甲軍、18日に第2装甲軍が最後の力を振り絞って攻勢に転じた。
これに対してスターリンに反撃を命じられた第16軍では第3騎兵軍団(ドヴァトール少将)に所属する3個騎兵師団(第17・第24・第44)と第58戦車師団(コトリャロフ少将)がヴォロコラムスクの防御陣地から出撃し、ドイツ第3装甲軍への反撃を開始した。
11月16日、第58戦車師団はドイツ第6装甲師団(ランドグラフ少将)との間で戦車戦を繰り広げたが、T26やT70などの軽戦車198両のうち139両を撃破されるという壊滅的な損害を受けて後退した。
11月17日、第3騎兵軍団の第44騎兵師団(ククリン大佐)がムシノ北東でドイツ第106歩兵師団(デーナー少将)に対して反撃を仕掛けた。だが、ナポレオン軍に対して有効だった騎兵2000騎は、ドイツ軍の機関銃、50ミリ対戦車砲、105ミリ榴弾砲の前にこともなくなぎ倒された。無論、ドイツ軍に損害はなかった。ドイツ軍のある兵士がその模様を記述している。
「眼前に練兵場のように開けているこの広い土地を突っ切って敵が攻撃をしかけてこようとは、誰にも信じられなかった。しかし、まもなく三列横隊の騎兵が我が方めざして動き出した。太陽に照らされた大地を通って、馬の首の上に身をかがめた騎乗兵がサーベルをきらめかせながら襲撃してきた。最初の掃射の砲弾が隊列の真ん中で炸裂し、まもなく濃い黒雲が頭上にたなびいた。人間と馬の肉片が空中に四散し、どちらが人でどちらが馬なのか見分けがつかなかった。この地獄絵図の中を狂乱した馬が荒々しく走りまわった。ひとにぎりの生存者は砲と機銃で片付けられた。すると、森の中から第二派の騎乗兵が襲撃してきた。第一派全滅の悪夢の後に、同じ光景が再現されようとは想像できなかった。だが、味方の砲は今度、ゼロ距離照準を定めていたので、第二派の襲撃は第一派よりも短時間で終わった」
ジューコフとロコスフスキーが共に危惧した通り、第16軍の反撃は手痛い敗北を喫して失敗に終わってしまった。少しずつ後退を強いられた第16軍はついに司令部を置いていたクリュコヴォを放棄せざるを得なくなった。
11月17日、モスクワの南方では第2騎兵軍団(ベロフ少将)、第112戦車師団(ゲットマン大佐)を中核とした機動集団が、トゥーラに迫るドイツ第2装甲軍に対して攻撃を仕掛けた。反撃の矢面に立たされた第53軍団の第112歩兵師団にはT34に対抗する手立てがなく恐慌を来たし、この日の内に師団の大半が退却を始め、これはドイツ軍にとって前例のない出来事だった。
11月18日、カリーニン正面軍司令部は第29軍(マスレンニコフ中将)と第30軍(ホメンコ少将)に対して、カリーニンの奪回を目指す反撃を即座に開始せよと命じた。
T34を装備する2個戦車旅団(第8・第21)は、ドイツ第3装甲軍とカリーニンからモスクワ北西70キロに位置するクリンに至る道路を巡って果敢な反撃を繰り返したが、部隊間の連携不足によりドイツ軍に有効な打撃を与えることが出来ず、数日の内に頓挫させられた。
カリーニン正面軍が反撃に失敗したことにより、第16軍と第30軍の境界面に間隙が生じてしまった。ジューコフは第16軍代理ザハロフ少将に、機動集団を編成してクリン付近の間隙を埋めるように命じた。応急に編成されたザハロフ機動集団は頑強に抵抗したが、ドイツ軍の装甲部隊は激しい抵抗を排しつつゆっくりと進撃した。
11月24日、第3装甲軍の第56装甲軍団はクリンを奪取した。第56装甲軍団の第7装甲師団は28日、最後の障害物であるヴォルガ=モスクワ運河に面したヤフロマの対岸に橋頭堡を確保し、これでクレムリンまで35キロに迫った。ここで望遠鏡を通して市内の尖塔が見えるとの報告がなされた。
11月25日、第4装甲軍に所属する第40装甲軍団のSS自動車化歩兵師団「帝国」はルジェフとモスクワを結ぶ鉄道の要衝イストラに突入し、同地を護る「シベリア部隊」のソ連第78狙撃師団(ベロボロードフ大佐)と2日間に渡る攻防戦の末に攻略した。
11月30日、第4装甲軍の先鋒をゆく第46装甲軍団の第2装甲師団(ファイエル中将)はオートバイ部隊による偵察を行い、モスクワ市の外縁から6キロの位置にあるヒムキに到達し、モスクワの市街地を遠望した。ドイツ軍がモスクワ市内へと足を踏み入れるのは、もはや時間の問題と思われた。