〇死守命令
11月22日、第4装甲軍司令部でカラチの橋を占領されたことを知った第6軍司令官パウルス大将はようやく、自軍が一刻の猶予も許されない危機的状況にあると悟った。参謀長のシュミットと第4装甲軍司令官ホト上級大将と話し合った後、パウルスは再びB軍集団司令部に電文を送付した。
「第6軍はとりあえず現状の展開地を保持するつもりだが、軍の南翼での防衛線構築がうまく行かなかった場合に備えて、行動の自由を保障されたし。その場合、軍は全力で現在地を放棄して南西への脱出作戦を行なう」
ヒトラーはこの時、バイエルン州ベルヒテスガーデンのベルクホーフ山荘にいた。参謀総長ツァイツラー大将がソ連軍の大突破作戦を伝えると、ヒトラーは苛立ちと怒りを爆発させた。さらに、B軍集団司令部から第6軍の「脱出計画」に関する報告を聞き、数時間と経たぬ内に次のような返電を送らせ、パウルスにグムラクの司令部に戻るよう命じた。
「第6軍は現在位置を固守し、次なる命令に備えて待機せよ。次は全力を挙げて貴軍の現有兵力を支援し、交替部隊を用意するであろう。行動の自由は認められない」
11月23日午後4時、南西部正面軍の第4戦車軍団とスターリングラード正面軍の第4機械化軍団は互いに打ち上げた緑の照明弾を頼りに、カラチ南方のソヴィエツキーに広がる大草原で合流を果たし、ついにドイツ第6軍の背後は遮断されてしまった。
グムラクの第6軍司令部に戻ったパウルスは麾下の第14装甲軍団長フーベ中将、第8軍団長ハイツ大将、第51軍団長ザイドリッツ=クルツバッハ大将、第4軍団長イエネッケ大将たちと対応策を協議した後、悲痛な内容の電文をヒトラー宛で送付した。
「総統閣下。22日の夜に御命令を拝受した後、情勢は大きく変化しました。弾薬および燃料の不足は深刻で、手持ちの砲弾を撃ち尽くした砲兵も少なくありません。陸路での補給が不可能となった今、スターリングラードの全師団を引き上げて、南西方向の敵と差し向かわない限り、軍が生き延びる道は存在しえないでしょう。その場合、おそらく装備の大半は失われるでしょうが、貴重な人命を救うことはできるはずです。本報告の責任は私にありますが、指揮下の軍団長も私の見解に賛同しております。どうか、状況をご理解いただいた上、行動の自由を軍に与えてくださるよう、改めてお願い致します」
同刻、ヒトラーはカイテルとヨードルを伴ってラシュテンブルクの「総統大本営」に向かっていた。北へ向かう旅の途中、ツァイツラー参謀総長に対して、ヒトラーは「ヴォルガ戦線は、いかなる犠牲を払っても確保しなければならない」と言った。
ヒトラーは直感的に、空路補給によって第6軍の陣地を保持させるという考えに飛びついた。この考えは、前年度の冬にデミヤンスク包囲戦で空路補給によって陣地を確保できたという実績にあった。
空軍総司令官ゲーリング元帥はヒトラーの意向に基づき、輸送担当将校たちを招集して会合を開いた。悪天候、航空機の運用、敵の迎撃などを考えれば、輸送量を確保できる見込みがないにも関わらず、ゲーリングは無責任にもヒトラーに対して1日300トンの空路補給が可能であると確約した。この確約により、ヒトラーの決心は固まった。
11月24日午前8時30分、夜を徹して待ったヒトラーの返電が第6軍司令部に届けられた。
「総統指令:第6軍はドン河西岸に残る部隊を収容しつつ、現在位置にて戦線を構築し、死力を尽くしてそれを固守せよ。必要な物資は空輸によって補給されるであろう」
ヒトラーからの新たな命令を受けて、パウルスは再び軍団長を招集して、今後の方針について会議を開いた。総統命令の内容を知った軍団長たちは、ヒトラーの現実離れした認識に唖然とし、異口同音に「包囲網を南西へ脱出する」よう進言した。
だが、パウルスの結論は麾下の軍団長たちの期待を大きく裏切るものだった。パウルスは断固とした口調で言った。
「軍人の本分は、命令への絶対服従である。違うかね?」
「我々は上からの命令に服従しなくてはなりません」シュミットが言った。
パウルスは改めて自らの主張を口にした。
「打てる手は全て打った。私は、総統指令に従うつもりだ。それ以外に道はない」
〇救援軍の創設
ヒトラーはロシア南部全域のドイツ軍が危険にさらされていることは知っていたが、その事実を認めようとはしなかった。スターリングラードに対するソ連軍の脅威に対処するため、11月21日、ドン軍集団の創設を決定した。ヒトラーは同軍集団司令官に第11軍司令官マンシュタイン元帥を任命した。陸軍総司令部とB軍集団は他の戦域から可能な限り部隊を引き抜いて、ドン軍集団に配置させた。
ドン軍集団司令官に任命されたマンシュタインはただちに参謀たちを引き連れ、第11軍司令部が置かれたデミヤンスクから列車で南方に向かった。途中、スモレンスクの南で中央軍集団司令官クルーゲ元帥と列車内で会談し、ロシア南部の戦況について非公式に説明を受けた。クルーゲはマンシュタインにひとつ忠告した。
「ぜひ注意してほしい。前年の冬の危機を乗り越えたのは、ひとえに自分個人の手腕で、我が軍兵士の士気と全軍の懸命な働きのおかげではないと、総統は考えている」
11月24日、マンシュタインはようやくB軍集団司令部に到着した。B軍集団司令官ヴァイクス上級大将から戦況の説明を受けた後、マンシュタインはドン軍集団司令部をロストフ近郊のノヴォチェルカスクに設置した。マンシュタインの最初の仕事は、ルーマニア軍の崩壊によって失われたドン河の防衛線を再構築することだった。
マンシュタインにとって幸いなことに、ルーマニア第3軍参謀長ヴェンク大佐がすでに、第6軍の背後に開いた大穴を埋めようと精力的な活動を行っていた。ルーマニア第3軍司令部に派遣されたヴェンクは戦線後方にいた鉄道作業員や休暇からの帰還兵、空軍基地の地上要員などをかき集め、「警戒大隊」をいくつも作り上げた。この応急編成の部隊はチル河の南岸へと送り込まれ、チル河流域に薄い防衛線を形成した。
さらにマンシュタインは、12月4日に着任した第48装甲軍団長クノーベルスドルフ中将に数少ない増援部隊を与え、チル河流域の戦線確保を優先させる決定を下した。チル河の前線を破られることは、第6軍に対する救出作戦そのものを断念せざるを得なくなることは意味していた。
第48装甲軍団は第11装甲師団(バルク中将)と第336歩兵師団(ルフト少将)などを駆使して、ソ連第1戦車軍団と第79国営農場の一帯で激しい戦闘を繰り広げ、12月12日までにはソ連軍の攻撃を排除することに成功した。このことを受けて、マンシュタインは救出作戦の主力となる装甲兵力の編成に専念できるようになった。
一方、孤立地帯上空を活発に飛び回っていたにも関わらず、ソ連軍は自分たちが包囲した敵兵力の大きさを未だ認識していなかった。ドン正面軍司令部の情報部は「天王星」作戦により包囲した兵員数を8万6000人と見積もっていた。実際には、同盟国軍を含めると包囲された総兵力はほぼ3・5倍の約29万人だったのである。
「天王星」作戦が順調に進展していることを確認したスターリンは、第6軍包囲後ただちに次の決定的打撃を与えるのを心待ちにしていた。南西部正面軍とヴォロネジ正面軍の司令部と協議したヴァシレフスキー参謀総長は11月26日、スターリンに「土星(サトゥルン)」作戦の計画書を提出した。
冬季戦の第2段階となる「土星」作戦は、ヴォロネジ正面軍と南西部正面軍がルーマニア第3軍の北西に展開するイタリア第8軍(ガリボリディ大将)の戦線を突破し、戦車部隊をロストフまで進撃させ、カフカス地方にA軍集団(クライスト上級大将)を閉じ込めるという野心的な内容だった。作戦開始日は12月10日とされた。
しかし、ドン河西岸に残っていた兵力を収容した第6軍が、スターリングラードの西で南北約40キロ、東西約60キロの全周防御陣地を構築したことが判明すると、ソ連軍はこの防御陣の殲滅にさらなる時間と兵力を割かなければならなくなった。
11月28日、スターリンは敵の意図を判断するようジューコフに求める。ジューコフはドイツ軍が包囲された第6軍の救出作戦を仕掛けてくるのは間違いなく、ニジニ・チルスカヤおよびコテリニコヴォ方面から包囲突破を試みるであろうという判断を示した。
スターリンに報告した後、ジューコフとヴァシレフスキーはドイツ軍が救援作戦に乗り出した際は、おそらく「土星」作戦に変更を行わねばならないだろうという点で意見の一致を見た。
〇「火星(マルス)」作戦
スターリングラードで「天王星」作戦が大きな成功を収めていた時、「最高司令部」は同じような成功を中央軍集団や北方軍集団の戦区でも成し遂げようとしていた。
ドイツ中央軍集団(クルーゲ元帥)の戦区では、昨年末のモスクワ攻略が失敗した後でも、第9軍(モーデル上級大将)と第3装甲軍(ラインハルト上級大将)が、ルジェフからヴィヤジマに至る巨大な突出部を保持していた。
ルジェフ突出部の最東端に位置するグジャツクからモスクワまで約150キロの距離があったが、「最高司令部」はこの突出部を挟撃してモスクワへの脅威を完全に取り除くのと同時に、敵の2個軍を包囲殲滅するという野心的な計画立案を、「天王星」作戦の立案と並行して進めていた。
最高司令官代理ジューコフ上級大将が立案した「火星(マルス)」作戦は、ルジェフ突出部を東西翼からカリーニン正面軍(プルカーエフ大将)と西部正面軍(コーネフ大将)によって突破して、ドイツ第9軍を殲滅してヴィアジマに迫るというものだった。この攻勢には、ヴェリキエ・ルーキに対する第3打撃軍(ガリツキー大将)の攻撃が含まれていた。
そして「火星」作戦が成功した段階で、西部正面軍が第2次攻勢(作戦名は「木星」または「海王星」)を開始し、戦略予備の第3戦車軍(ルイバルコ中将)も加えてスモレンスクで合流して新たな包囲網を形成する作戦も計画されていた。そのため、「火星」作戦に対する「最高司令部」の期待は大きく、作戦の立案に大きく関わったジューコフが作戦の調整を行なった。
11月25日、「火星」作戦が開始された。カリーニン正面軍の第22軍と第41軍がベールィ南北のドイツ軍陣地を圧迫し、西部正面軍の第21軍と第31軍がシチェフカの北東から攻勢に出た。
第41軍(タラソフ少将)は、第1機械化軍団(ソロマーティン少将)と第3機械化軍団(カトゥコフ少将)が、ベールィ東方でドイツ第41装甲軍団(ハルぺ大将)を50キロ近く押し返し、カリーニン正面軍と合流するためルチェサ河に沿って突進した。
だが、「天王星」作戦の場合と異なり、ドイツ第9軍は厳冬の中でも崩壊することなく、頑強な抵抗拠点をいくつも構築していた。さらにルジェフの突出部にはスターリングラード周辺の戦場と異なり、多数の装甲部隊を含んだ戦略予備が配置されていた。
西部正面軍の第22軍と第31軍は、ルジェフ南方のドイツ第39装甲軍団に繰り返し攻撃を仕掛けたが、3個装甲師団(第1・第9・第14)の反撃によって、5キロほど進出できただけでソ連軍の損害は増すばかりだった。
カリーニン正面軍の戦区ではドイツ第41装甲軍団が3個装甲師団(第12・第19・第20)を投じた反撃によって、第3機械化軍団がベールィ北方のルチェサ渓谷に閉じ込められてしまった。ベールィの南方では第6狙撃軍団と第1機械化軍団が包囲され、ほとんど壊滅してしまった。
12月半ばには、「火星」作戦の失敗が明らかになり、スモレンスクへの第2次攻勢は頓挫してしまった。この戦区に投入されるはずだった第3戦車軍は、ただちにドン河上流のヴォロネジ正面軍へ配属された。
一方、ヴェリキエ・ルーキに進撃した第3打撃軍は、市内で立てこもった北方軍集団に所属する第16軍(ブッシュ元帥)の第83歩兵師団との市街戦に発展していた。ドイツ軍は街の建造物を堅固な要塞に造り替えて、頑強な抵抗を見せた。同市からヴィテブスクまで進出しようというソ連軍の計画は頓挫し、市を奪回できたのは1943年1月19日のことであり、当初の目標のひとつであったレニングラード=ヴィテブスク鉄道の遮断には失敗した。
「火星」作戦は失敗に終わってしまったが、それから数か月後、ルジェフのドイツ軍に予想もしなかった事態が生じた。
1943年2月6日、ヒトラーはルジェフ突出部の放棄を命じた。苦渋の決断ではあったが、南方での大量の部隊損失を埋めるためには、前線を短縮するしかなかった。この撤退は「水牛(ビュッフェル)」作戦と名付けられ、ルジェフ突出部に展開する第9軍は3月1日から撤退を始め、同月22日までに無事に完了した。
この撤退作戦により、ドイツ軍は22個師団の兵力を戦略予備として抽出することができたが、モスクワへの新たなる攻勢の希望は完全に潰えてしまった。しかし、ドイツ陸軍総司令部には他に選ぶ道がなかった。南部での危機的状況を脱する為には、1個でも多くの部隊が必要だったからである。
〇「閃光(イスクラ)」作戦
東部戦線の最北端ではレニングラードの包囲を突破するため、ソ連軍のドイツ北方軍集団(キュヒラー元帥)に対する攻勢は1942年の間に幾度も行われたが、全て失敗に終わっていた。
1942年6月に一連の反撃の失敗により、レニングラード正面軍司令官ホジン中将は更迭された。その後任にはモスクワ前面の反攻で第5軍司令官を務めたゴーヴォロフ中将が就任した。
レニングラード市に対する包囲の解放は常に高い優先順位であり、1942年11月にモスクワの「最高司令部」はレニングラード正面軍司令部に対して新しい反攻作戦の準備を行うよう命じた。作戦の原案は12月に「最高司令部」によって承認され、秘匿名称は「閃光(イスクラ)」とされた。
「閃光」作戦の概要はヴォルホフ正面軍(メレツコフ上級大将)とレニングラード正面軍(ゴーヴォロフ中将)が、ラドガ湖の南にある2個正面軍の間に空いた16キロの回廊を東西翼から突破して交通の要衝シュリッセルブルクを奪回し、レニングラードの包囲を解放することだった。作戦開始日は1943年1月1日を予定していたが、ネヴァ湖の凍結が遅れて兵站機能に支障をきたしたため、同月12日まで延期とされた。
「最高司令部」は次のような訓示を行い、作戦の調整のために最高司令官代理ジューコフ上級大将をレニングラード正面軍司令部に派遣した。
「ヴォルホフ正面軍とレニングラード正面軍は協同してリプカ、ガイトロヴォ、ドブロフカ、シュリッセルブルクの戦区でドイツ軍を撃退し、レニングラードの封鎖を解放させよ。1943年1月の終わりまでに当作戦を終了させよ」
1月12日、「火花」作戦は開始された。ドイツ第18軍(リンデマン上級大将)の陣地の東西から、4500門以上の火砲とカチューシャ・ロケット砲によって2時間以上に渡る支援砲撃が行われた。砲撃の矢面に立たされた第26軍団(ライザー中将)の2個歩兵師団(第170・第227)は、これまでのソ連軍の攻撃と違うものを感じ取っていた。
西翼のレニングラード正面軍は、第67軍(ドゥハーノフ少将)がネヴァ河畔のマリノ橋頭保から進出し、東翼のヴォルホフ正面軍からは第2打撃軍(ロマノフスキー中将)がラドガ湖畔リプカからガイトロヴォまでの幅13キロの狭い戦区から押し寄せた。
ソ連軍の目標がレニングラードへの陸上連絡地であるシュリッセルブルクを奪回し、その南端を走るキーロフ鉄道まで進出することと見抜いた第18軍司令官リンデマン上級大将は、第96歩兵師団(ネーデルヒェン少将)と新型のⅥ号重戦車「ティーガー」を増援として送ったが、湿地帯に行動を制限され、思うような協同作戦が行えぬまま撤退を余儀なくされた。
1月18日、第67軍の第123狙撃師団と第2打撃軍の第372狙撃師団は労働者住宅1号の付近で合流することに成功した。この合流により、ドイツ第26軍団は南北に分断されてしまった。第61歩兵師団(ヒューナー中将)がラドガ湖畔に閉じ込められた第227歩兵師団(スコッティ中将)の脱出を支援することになり、2個歩兵師団を統合した支隊として運用されることになった。
しかし、ソ連軍が労働者住宅5号を占領したことによって、ヒューナー支隊も包囲される危機が生じた。このためヒューナーは火砲と重装備の放棄を命じ、1月19日から20日にかけて、森林地帯を抜けてシニャビノへ支隊を脱出させた。
ソ連軍は1月19日から21日の間に、シニャビノに向かって南下して攻勢を拡大しようとしたが、ドイツ第18軍はすぐに4個歩兵師団(第61・第96・第132・SS警察)を投入して、陣地を強化した。ソ連軍は労働者住宅6号を占領したが、それ以上を進撃することができなかった。
1月30日、「火花」作戦は正式に終了し、レニングラードの封鎖はついに打破されたのである。レニングラード市内に住むある詩人は「私たちは長い間、この日を待ち望んでいた」と書き記した。
その間に国家防衛委員会は1月18日付けで、捕獲した回廊を通じて国の残りの部分とレニングラードを結ぶ全長約30キロの鉄道と道路の建設計画を発令した。3週間足らずの間に工事は前倒しで完了し、最初の食糧列車は2月6日に物資を提供し始めた。しかしこのルートもまたラドガ湖上の「命の道」と同様、敵の前線からわずか8キロしか離れていなかったので、非常に攻撃を受けやすかった。