[5]
マリアは《女帝》の砲塔から上体を出して双眼鏡を覗いていた。
戦車道全国高校生大会。今日は準決勝。プラウダは予選から順当に勝ち進んで黒森峰と対戦することになった。マリアたちの小隊―4両のT34は川に面した高台の陣地に身を潜めていた。マリアはハッとして顔を空に向けた。
《何か来る》
1秒後、ヒューという風切り音が聞こえた。砲弾は《女帝》の20メートル後ろに着弾して競技場を揺らした。土砂が巻き上がり、黒い雨を周囲に降らした。
「今のは何⁉」サーシャが車内から叫んだ。
「戦車よ」
「戦車?そんな!」
88ミリ砲だ。マリアはそう思った。黒森峰に《ティーガー》がいる。間違いない。
マリアは車長席に飛び降りてハッチを閉める。ブーツが操縦手のサーシャの肩にかかる。両方の爪先がすばやく同時に肩を叩く。《エンジン始動》。
サーシャがスターターを押す。《女帝》は身震いした。マリアはインターコムで徹甲弾の装填をアーリャに命じる。爆発がT34の周囲で起きる。地面が震える。《女帝》の左右に車体を埋めた小隊の他の戦車は川越しに黒森峰の大口径砲と撃ち合いを始める。何発かひときわ騒がしい砲弾がごく近くに着弾した。マリアはやっと命令を下した。サーシャの肩の上で2つのブーツが躍った。
「後退するわ。急いで。向こうはコッチの距離を掴みかけてる」
サーシャがギアレバーを後進に押し込んでアクセルを踏み込む。キャタピラが回転し、車内の全員は《女帝》がバックで勢いよく陽射しの中に出ようとしたため、身体が前につんのめった。すぐに一条の陽光がマリアの展視孔に差し込んだ。
《女帝》が平らな地面に出る。眼の前に河が流れている。川のこちら側―南岸に広がるトウモロコシ畑は踏みにじられている。この距離では、草原地帯にいる黒森峰は小さな点のようしか見えない。しかし小隊の周囲に着弾する砲弾は凄まじい力で大地を揺るがしている。しかもこの弾は何マイルも先から飛んできている。マリアはサーシャの首筋を押す。
サーシャは戦車を一速に入れた。マリアは川を見下ろす高台の突端を横切り、《女帝》を西に向かわせた。すでにこちらは戦車のうち5両が撃破されている。2両は炎に包まれている。擱座した車両はどれも白旗を上げ、装甲に大穴が開いている。黒森峰の《ティーガー》に粉々に吹き飛ばされていた。
《女帝》は稜線にそって突進した。すでに小隊の他の戦車4両とそれ以外の5、6両も塹壕から出ている。このまま右往左往していると、各個撃破の目標になるしかない。
《さてどうする?》マリアは思案する。
T34の76ミリ砲では対岸にいる黒森峰の《ティーガー》を傷つけることさえ出来ない。戦車砲の砲身長が短いために敵の重戦車を貫徹するのに必要な初速を得ることが出来ないからだ。射距離2マイルか1マイルでさえも。しかし《ティーガー》は姿が見えないこの距離からでも、ゆったりと腰をおちつけてT34を撃破できる力を持っている。
砲弾が《女帝》の行く手前方の20メートルに着弾した。土が宙に吹き上げられる。
「距離を掴みかけてる」アーリャがインターコムで言った。「夾叉されてるっぺ」
ナージャが隊長から通信が入ったと告げる。マリアはインターコムを切り替えた。
《ポーラーベアよりクイーン。マリア、聞こえるか》
《クイーンよりポーラーベア、どうぞ》マリアは答える。
《このままだと何一つできやしない。せめてフラッグ車だけでも後退させたい》
《丘の陣地を出て川に向かって突撃しろって命令しなさい》
《・・・よろしく頼む》
マリアは小隊に向けて通信を切り替える。
《クイーンより小隊各車。アタシたちは最大速度で川まで降りて一撃離脱する。1発お見舞いしたら、さっさと逃げ出す》
小隊から「了解」が返答される。マリアはインターコムで車内に告げる。
「いいわね?聞いた通りよ」
「突撃です!」アーリャが吠えた。「突撃あるのみです!」
「まるで知波単みたいね」ナージャが笑う。
「サーシャ、全速前進!」
マリアのブーツが首筋の真ん中を押す。サーシャはまずシフトダウンしてから左手の操縦レバーを引き、右手のレバーを前に倒す。《女帝》が左旋回に入った。サーシャはギヤを三速に上げる。速度を上げて真っ直ぐに丘を下りていった。
[6]
マリア率いるT34の小隊は長い斜面を蛇行しながら猛スピードで降りていった。
マリアはサーシャに対して、相手の測遠機に捕まらないように右に左へ旋回するよう命じた。マリアの開いたハッチ越しに見る世界は二分されていた。上半分は青く澄み切り、下半分はどこもかしこも戦いの帳と飛び散る作物の破片ばかりだった。サーシャが車体を目いっぱい左右に振った。こんな乱暴な操縦では何かを見つけて標的にすることなど不可能。丘の一番下に着いた時が狙い目。差し当たって今は速度を落とさないこと。マリアはそれだけを命じた。
サーシャはギアを四速に入れる。《女帝》を出来る限り速く走らせながら、丘をまっすぐ下りていった。川の向こう岸では四両の戦車が密集隊形を取っている。
全てⅣ号戦車だ。黄褐色の迷彩。75ミリ砲。補助装甲板(シュルツェン)付のG型。どの砲も突進する《女帝》を狙っているように思える。
「アイツらが見える?」サーシャがインターコムでマリアに呼びかけた。
「ええ」
「奴らのでかい兄貴はどこにいるの?貴方が怖いのよ、マリア。間違いない。プラウダ最高の砲手なんだから」
マリアは声を上げて笑った。黒森峰のワークホースは死の物狂いで疾走するプラウダ戦車の縦列が止まるのをじりじりしながら待っている。
「距離は?アーリャ」
「1000メートル!」アーリャが声を上げた。
「もっと接近する?」サーシャが尋ねた。
「もち」
《女帝》はさらに丘を下った。詰め物入りの戦車帽を被った頭が狭い車内でぐらぐらと揺れる。サーシャは川岸に建つ納屋に向かって《女帝》を走らせた。マリアは納屋の陰に陣取って相手から身を隠すつもりだった。小隊はそこで集結して攻撃を決断する。Ⅳ号戦車は500メートルも離れていない。この距離なら撃破できる。
サーシャは左に急旋回を行った。Ⅳ号戦車はまだ1発も撃っていない。サーシャは《女帝》を納屋の裏にすばやく入れた。マリアのブーツが停止を命じた。マリアはハッチを開けて立ち上がった。小隊の残る3両の戦車が《女帝》の後ろに止まった。
マリアが車外に飛び降り、30秒ほど姿を消した。やがてまたハッチに転がり込んでくると、戦車帽をインターコムに接続して低く屈んだ。アイドリングする《女帝》がガラガラと音を立てるエンジンに負けない声で、マリアは乗員たちに命令を伝えた。
「アタシたちが最初に突撃する。コーリャの戦車がすぐ後についてくる。アタシたちが納屋の陰から出たらすぐに、アーニャとターニャが反対方向に姿を現す。敵の注意を左右に逸らす。サーシャ、スピードが必要になるわ。これだけ敵に近いから、もし奴らに対して真横に進むなら、こっちを捉えにくくする必要がある。コッチが十分に離れたら、ブレーキを踏んで。アタシは出来るだけたくさん撃つ。それからまたあの丘に戻る」
危険な戦術だった。相手に対して横に進めば、T34のキャタピラの一番弱い装甲を敵にさらすことになる。戦争はどれも正面装甲が一番厚く設計されている。しかし同時に、マリアは斜めからⅣ号戦車の脆弱な側面を攻撃できるようになる。
マリアがハッチを閉じる。サーシャは手を伸ばしてアーリャのブーツを拳で叩いた。
「アーリャ、ワタシのために最初の砲弾に幸恵(サチエ)と名付けて」
「いいっぺよ、サーシャ」
マリアは自分の座席に着いた。アーリャはサーシャを見下ろしてにっこり笑った。「この頃は」《同志》が言った。「乗員たちが弾に自分の名前を名付ける文化があった。お呪いみたいなものだが」
砲塔が唸りを上げて旋回する。マリアとアーリャは旋回する戦車砲の後ろから離れないように、ゴムマットの上を歩き回った。マリアは戦車砲を右に90度以上旋回させた。納屋の物陰から《女帝》が飛び出したら、この角度で1発お見舞いするつもりだった。
「徹甲弾」マリアは命じた。アーリャは徹甲弾を持ち上げた。サーシャはインターコムでアーリャが砲弾にキスする音を聞いた。
「必ずⅣ号に命中するっぺよ、幸恵」アーリャはそう言って砲尾に装填した。
「ナージャ?」マリアが呼びかけた。
機関銃手が前席から振り向いて車長を見上げた。
「何だっぺ?」
「アナタ、本名は?」
「奈良岡咲」
「苗字からとったのね。では、2発目はそれよ。準備はいい?」
「準備よし」サーシャが答える。
村の武術大会で人馬が解き放たれる前の一瞬のように、マリアはひと呼吸置いた。刀が振り上げられ、メロンが木に揺れている―。
[7]
「突撃!」
サーシャはクラッチを離してアクセルを踏んだ。エンジンに燃料を一気に注ぎ込まれた戦車は埃を巻き上げて走り出した。続けて《女帝》が納屋から出てもいない内にギアを二速に入れた。飛び跳ねる鉄がガタガタと立てる音を突き破って、マリアは砲声が響くのを聞いた。小隊が納屋を回って現れた時、Ⅳ号戦車の1両が狙いすました1発を放ったのだ。黒森峰は的を外した。サーシャが《女帝》を急加速させたからだ。しかしこれは1発目に過ぎない。連中は間違いなく2発目を装填している。相手の戦車はまだ三両いる。
今度はマリアが発射ペダルを踏んだ。
《女帝》が衝撃で車体が傾き、右のキャタピラが浮き上がる。主砲が車体に対して完全に右を向き、キャタピラが畑の上で飛び跳ねる。サーシャは発射の反動にも手を離さず、さらに速度を出した。《女帝》が再び両方のキャタピラを地面に着けるよりも先に、ギアを三速にシフトする。アーリャは2発目の徹甲弾を取り落とした。砲弾が床にぶつかる音が響いた。アーリャは砲弾を拾い上げてそれを砲尾に押し込む。マリアが呟いている。
「いけ、いけ、いくんだ・・・」
サーシャは変速機を出来るだけ酷使して《女帝》を駆り立てた。回転数がギアチェンジすべきポイントを越えて上がるのを見つめる。言うことを聞いてちょうだい。もう少し加速に耐えてくれ。《女帝》にそう頼んだ。サーシャの祈りはエンジン音の高まりにかき消された。少し待ってからクラッチを踏み、ギアレバーを四速に入れた。《女帝》が前のめりになり、ほっとして力いっぱい走り出した。その時、マリアが叫んだ。
「今よ、サーシャ!」
サーシャの脚がブレーキを力いっぱい踏んだ。生まれてこのかたしたことがないほど素早くシフトダウンした。
マリアの脳裏で1頭の馬が突然、轡を引かれて頭をのけぞらせる光景が浮かんだ。だが馬は乗り手を気遣って地面に足を踏ん張った。マリアは鞍の上でのけぞり、手綱をいっそう強く引いた。馬は大人しくなり、回転する《女帝》のキャタピラがぴたりと止まる。乗員は埃に包まれた。《女帝》が広い場所にじっと動かずにいる。600メートル先の4両のⅣ号戦車に横腹を向けていた。
心臓がドクと脈を打った。マリアは動いた。発射ペダルには左脚を載せている。砲塔がもう数度右に滑る。マリアはもう片方のブーツで飛びながら、回転する戦車砲を追いかけた。眼は潜望鏡に釘付けになっている。アーリャは装填を終えた砲尾の横に立ち、次弾を抱えている。まるで装甲に一撃を食らったかのように、さらに1秒が戦車の中でドキンと脈を打った。マリアの手が俯仰ハンドルを回した。
「よし」マリアはつぶやいた。「さあ、きなさい・・・」
マリアは発射ペダルを爪先で押した。戦車砲が火を噴いた。砲声が雷鳴の様に轟き、砲尾が下がる。煙る薬莢が押し出された。それが二度跳ねる前にアーリャが次弾を戦車砲に押し込み、マリアは俯仰角に小さな修正を加えた。それから再びペダルを踏み、戦車は揺れた。強烈な爆発が戦車を揺さぶった。砲尾が再び薬莢を吐き出した。車内に発射ガスの悪臭が立ち込めた。マリアのブーツがサーシャの首筋を蹴った。
「進め、進め!」
サーシャが操縦レバーとギアを動かした。マリアは上下に跳ねながら砲塔を旋回させてまた正面に向ける。車体のバランスを良くして速度を上げるためだ。
「首尾は?」ナージャは叫んだ。「どうなったの?」
マリアはしばらく答えなかった。潜望鏡をⅣ号戦車の方に向け直している。急いで離脱しながら損害を調べる。
「この××××!×××てやる!」
「2両のⅣ号が炎上」アーリャが代わりに答える。「1両が煙を上げてる。最後の1両は外した」
「こっちは?」
「ターニャが動けなくなった」マリアは言った。「乗員は脱出してる」
「次はどうするんだっぺよ、マリアしゃん」ナージャが聞いてくる。
《女帝》は蛇行しながら丘を登っている。自分の判断は小隊を危険に晒すことになるかもしれない。一族のために生命(いのち)を投げ出すのがコサックである。一族とは今この場で戦っている仲間である。そしてそれが自分の戦車道もある。マリアはインターコムで答えた。
「引き返しなさい、サーシャ。ターニャの下に向かうわよ」
[8]
サーシャはぐるりと回って丘を降りるために《女帝》を右に旋回させた。戦車が急に揺れる間、マリアはしっかりと両脚を踏ん張った。ナージャはいいぞとばかりに拳をサーシャに向かって振りかざした。サーシャはT34を丘の下に向け、ギアレバーを掴んで三速に入れた。《女帝》が突進した。
戦車は砲弾の穴の縁で弾んで宙に飛び上がった。それから激しく落下して走り続ける。全員が身体をぶつけた。マリアは詰め物入りの戦車帽を被った頭を打ち付ける。「おつむをこんなに毎日ぶつけてたら歳を取った時にバカになるんじゃないか」後日、マリアは《同志》にそう語った。マリアは「もっと速く!」と叫んだ。
「他の3両は?」アーリャが言った。
「忘れてたわ」マリアは回転式の潜望鏡で背後を確認した。「3両ともついて来てる」
200メートル先では煙が川の両岸から渦を巻いて立ち上がった。撃破されたⅣ号戦車は炎に包まれている。燃料と弾薬に火が付いたのだ。3両目の戦車はエンジンから灰色の煙を吐き出していたが、まだ動いている。4両目は川岸に沿って行ったり来たりしている。納屋の右ではターニャのT34が撃破されていた。左側のキャタピラが吹き飛ばされて、戦車の後方にバラバラに散っている。戦車は開いたハッチから黒い煙を噴き出しながらくすぶっている。生き残ったⅣ号戦車の1両が戦車にもう1発お見舞いしていた。回収して修理できないようにするためだ。《女帝》は接近した。黒森峰の戦車が狙いを定められないように《女帝》を左右に振りながら100メートルまで近づいた。ターニャの乗員たちが見える。燃えるT34の陰にうずくまっている。しゃがんでいる2人が近づいてくる《女帝》に手を振った。他の2人は地面に横たわっている。
「けが人がいる」サーシャがインターコムで報告した。
マリアは《女帝》の向きを変えるよう指示を出す。《女帝》が川岸に沿って走り出した。全速力でT34を脱出した乗員たちと川の間に持って行くと、まだ動いている2両のⅣ号戦車に横腹を向けてピタリと止めた。砲塔ではマリアがすでに目標を捕捉しつつあり、旋回する戦車砲の後ろについてステップを踏んだ。アーリャが跪いて弾薬箱に手を伸ばし、砲弾を探している。サーシャはナージャをちらりと見た。
「行って!」
ナージャはためらわなかった。脚の間に手を伸ばすと、脱出ハッチのハンドルを引いた。扉が持ち上がり、ナージャはキャタピラの間を滑り降りてハッチを閉じた。
《女帝》の近くで砲声が響いた。小隊のT34の1両が弾を放ったのだ。崩れた納屋、畑と川岸の小さな一画。2両のⅣ号戦車と3両のT34がほとんど自分たちだけで戦争を繰り広げている。
T34の1両が《女帝》の前に出た。コーリャが川向こうを動き回るⅣ号戦車に有効射を食らわそうと方向転換した。マリアはハッチから頭を突き出した。《女帝》によじ登る乗員たちに「早くつかまって!」と怒鳴った。砲塔が再び旋回する。アーリャがまた砲弾を込めた。マリアが発射ペダルを踏む。戦車が反動でかしいだ。
「みんな乗ったわ」マリアが叫んだ。「サーシャ、ここから逃げ出しましょう」
サーシャはアクセルを一杯に踏んだ。前方にいるコーリャのT34が道を開ける。その時、耳をつんざくガンという音がした。コーリャの戦車が強烈な一撃を食らい、その勢いで車体が浮き上がってあやうく横倒しになりかけた。白旗が挙がる。サーシャは「まずい」と小声で呟いた。
「《ティーガー》よ!」マリアは叫んだ。
サーシャは我に返った。ブレーキを踏みつけ、《女帝》のギアをバックに入れる。車体後部を素早く振ると、今度は隆起する丘を背にして戦車を目いっぱいの速度で後退させる。
マリアは初めて対岸のⅥ号重戦車《ティーガー》と向き合った。戦車は巨大だった。四角に張った車体はT34と対照的に、装甲が傾斜していない。
サーシャは分厚い正面装甲を《ティーガー》に向ける。T34の姿を標的としては一番狙いにくいように平たい三角形に見せながら、丘を後進する。マリアがアーリャに叫んだ。
「徹甲弾、装填!」
アーリャはすでに徹甲弾を持っていた。すぐに砲弾が砲尾に押し込まれた。サーシャはアクセルを踏み続けた。マリアの眼は《ティーガー》にひたと据えられていた。巨大な88ミリ砲の動きを読むつもりだった。
[9]
マリアは《女帝》の砲塔をどうにか旋回させて《ティーガー》に向き合った。小隊の残り2両の戦車は川岸と黒焦げになったコーリャの戦車から離れつつある。《ティーガー》は3両の中で最も楽な目標を選ぼうとしている。アーニャは回避するより先に速度を上げて、大きく円を描いて旋回している。
《ティーガー》が一弾を放った。アーニャの後方に土柱が立ち上がった。巨大な戦車砲から煙の輪が吐き出される。《ティーガー》は逃げるアーニャに対して照準を修正した。マリアにはアーニャは十分に敵の狙いを逸らしていないことが分かった。
その時、《ティーガー》の戦車砲が再び吠えた。大きな車体はほとんど揺れなかった。徹甲弾が転輪上の車体右側を直撃した。アーニャの戦車は20メートルほど走ってから停止した。撃破されたT34から白旗が揚がる。《ティーガー》からもう一度、砲煙の輪が吐き出される。
《ティーガー》の砲塔はまだ《女帝》から離れた方向を狙っている。すでに《女帝》は川岸から800メートルほど離れている。一撃を加える頃合いだ。マリアがサーシャの首筋を押す。サーシャがブレーキを踏んだ。
T34の砲塔が左に旋回する。戦車砲が眼下の川岸に向かって数度下がった。生き残ったⅣ号戦車が図体の大きな女王に付き従う侍女のように《ティーガー》の後ろで動いている。
マリアは発射ペダルを踏んだ。《女帝》が砲弾の後ろで身震いした。爆風が埃の雲を舞い上げる。かき乱された土が落ち着くのを待たずにアクセルを踏んだ。バックで遠ざかりながら《ティーガー》をちらりと見た。敵は微動だにしていない。徹甲弾が命中した面から薄い煙をたなびかせている。傷ひとつない砲塔を《女帝》にまっすぐ向けている。
「くそ、まずい」マリアは思わずロシア語で呟いた。
速度が必要だった。サーシャなら実に素早く《女帝》を旋回させることもできるが間に合うだろうか。マリアは賭けた。とっさにサーシャの右肩を足で叩いた。戦車の向きを変えた途端、《ティーガー》の戦車砲が吠えた。変速機に徹甲弾が命中し、ギアボックスと燃料タンクがやられた。不意に戦車が燃え上がった。「あの頃の競技用車両は今の特殊カーボンなんて使って無かったから」《同志》は言った。「弾を食らえば平気で燃えてたな。ホントに命がけだったよ」
「脱出!」
マリアはハッチから飛び出しながら叫んだ。エンジン室に載っていたはずのナージャはけが人を抱えて、すでに丘の上に向かって走り出している。地面に着地したマリアはその後に続いて丘を駆け上がり、陣地に飛び込んだ。息を整えてからマリアは口を開いた。
「みんな、無事?」
左手にサーシャが飛び込んだ。息も切らさずに「どうにか」と答えた。ナージャが掠れた声で「やられちゃいましたね」と言った。アーリャがふうふうと喘ぎながらマリアの右手に転がり込んだ。
マリアは柔らかい灰色の戦車帽を脱いだ。肩まで切り揃えた黒髪がパッと広がる。濡れた犬が水を飛ばすように首を振る。青い軍服の襟元を少し開けてその場で地団駄を踏む。
「クソッ、クソッ、どうなってるの!」
「どうしたんだっぺか?マリアさん」アーリャが言った。
「アイツら、《ティーガー》を使ったのよ」
「それが怒る理由?」サーシャが訳知り顔でニヤニヤしながら言った。
「アナタまでそんなこと言わないで」
「どういうことだっぺよ?」今度はナージャ。
「相手は88ミリ砲よ。コッチの戦車が敵う訳がないわ。レギュレーション違反で連盟に訴えてやる!」
《女帝》の名に肖ったマリアのT34は無残な鉄塊に姿を変えていた。
[10] 幕間
「《ティーガー》にT34がやられる。よくある話じゃないですか」
私はげんなりとした調子で言った。《同志》が私の肩を小突いた。
「バカ、話はしまいまで聞け」
マリアの時間稼ぎは成功した。フラッグ車を後退させはしたが、プラウダは準決勝で敗退した。黒森峰と決勝を争うことになったサンダース大付属高は慌てて《ティーガー》対策に90ミリ砲を備えたM26パーシングを投入したが、大した活躍は出来なかった。黒森峰が結局、この年の大会で優勝を納めた。
私もおぼろげに記憶している。その年、戦車道関連の雑誌はほとんど黒森峰優勝の立役者が《ティーガー》であるという記事を載せていた。何しろ戦車道の全国大会で初めて重戦車が登場したのだ。それまでの戦車は最大でも75ミリか76ミリ砲を搭載したT34やⅣ号戦車G型ぐらいだった。
「そこで、ちょっとした面白い一幕があってね」《同志》は言った。
大会後にプラウダが宿泊していたホテルに黒森峰の女子生徒が独りで来た。その女子生徒はホテルのフロントに自分が《ティーガー》の戦車長であり、プラウダでT34に載っていた戦車兵に会わせてほしいと頼んだ。
「そういえば、黒森峰で初めて《ティーガー》に乗ってたのは・・・」
《同志》が苦笑を浮かべる。
「黒森峰番の君が覚えてないのは問題だろう」
「さすがに覚えてますよ。西住しほ、ですよ。へえ、マリアが西住流の家元とねえ」
「がぜん興味が湧いてきただろう」
私はうなづいた。コニャックをひと口含む。
西住は撃破したT34の砲塔に書かれていた文字を告げる。
「エリザベートⅠ世と書かれた戦車の持ち主は?」
フロントが電話を繋げる。ロビーに降りてきたマリアを眼の前にして西住は一瞬、棒立ちになった。西住は「留学生だったのね」と言って手を差し出す。
「だから?」
マリアは腰に手を当てたまま斜に構える。西住についてきた黒森峰の他の生徒が「その態度は何だ?」という風にがなり出した。言葉は少なくとも手を差し出してきたことから、西住が自分の健闘をほめようしていることは分かっていた。だがマリアは素直に喜ぶ気持ちになれなかった。
「大会に黒森峰が重戦車を出したことについては連盟に批判もあった」《同志》は言った。「学校の経済力に左右されたり、戦車の性能差だけで勝敗が決まるパワーゲームにしかならないとか」
今もその状況に対して違いはない。私はそう思った。破壊力が高い長砲身の重戦車を持つプラウダと黒森峰が長い間、戦車道大会の優勝旗を交換していた時期があった。コニャックをひと口含んでから《同志》は続けた。
「腹を立ててたマリアは西住の手を握ろうとしなかった。挙句に『今日の勝利はアナタの実力ではないわ。ただ戦車の性能がT34よりも良かっただけよ』と言い返した」
「手厳しいですね」
「それで余計に激昂した黒森峰の生徒と乱闘騒ぎになった。後日にプラウダは黒森峰に謝罪したが、戦車道の隊長はマリアに『よくやったと』とウィンクしたそうだが」
「そこまでがオチですか」
《同志》はうなづいた。
「ですが・・・そんなことでマリアがひと際目立った留学生だとは思えませんが」
「そう焦るな」
《同志》の話には続きがあった。
後日、プラウダに新たに補充された戦車はT34/85だった。「ラオス人民軍で埃を被ってた車両を何台か譲り受けて競技用に改造したんだ」とは《同志》の言葉だ。従来の76ミリ砲に代わり、十分に《ティーガー》に対抗できる85ミリ砲を装備したT34。砲塔の側面にマリアは白いペンキで再び女帝の名前を記した。
「今度は誰の名前を?」私は言った。
「エカチェリーナⅡ世」《同志》は言った。「マリアはロマノフ王朝最強と謳われた女帝に《ティーガー》を撃破することを誓ったんだ。プラウダは翌年も戦車道大会に出場した。もちろん黒森峰も。二校は再び準決勝で対戦することになった」