〇終わりなき侵攻
ドイツ国防軍は7月30日までの対ソ戦で、79万9910人という膨大なソ連兵を捕虜として捕らえ、さらには1万2025両の戦車と8394門の火砲を鹵獲していた。しかし、ソ連軍は新手の将兵を次々と前線に送り込み、損害を度外視した「場当たり」的な反撃を各地で実施していた。
陸軍総司令部は8月初旬の時点で、当初の方針である「バルバロッサ作戦」の行き詰まりに焦りを感じていた。どうすれば戦争に早急な決着を付けられるか、ということへの明確な方針を求めていた者は何人もいた。国防軍に不足していたものがひとつあるとすれば、それは目標だった。ハルダーは戦時日誌にこのように書き記している。
「我が軍の指揮系統は、末端まで疲れ果てている。この状況を改善するためには、対ソ戦全体に関する明確な最優先目標の設定が必要である」
8月4日、ノヴィ・ボリソフに置かれていた中央軍集団司令部で、今後の戦略に関する作戦会議が開かれた。会議には、ヒトラーと中央軍集団司令官ボック元帥、第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将、第3装甲集団司令官ホト上級大将の他に陸軍総司令部作戦課長ホイジンガー大佐が参加していた。
会議の冒頭、ヒトラーはグデーリアンとホトから個別に戦況の報告を受けたが、装甲部隊を率いる2人の将軍は「今後取るべき方策はモスクワへの攻撃の継続の他ありません」とし、グデーリアンは攻撃開始日を「8月15日」、ホトは「8月20日」にすべきであると進言した。グデーリアンとホトの上官であるボックも「モスクワへの進撃」こそが対ソ戦の早期終結につながると考えており、その旨をヒトラーに伝えた。
ヒトラーは「第1に向かうべき目標」としてレニングラードを挙げ、「第2目標」についてはモスクワすべきか、ウクライナすべきかまだ最終的な結論は出していないと答えた。この回答にボックは、ヒトラーが「今後向かうべき目標」としてモスクワを挙げたことに安心し、ヒトラーの考えに同意を示した。
一方、このヒトラーの考えにグデーリアンは強い不安感を抱いていた。6月22日の開戦当初から、「モスクワの早期占領」こそが短期決戦の要であることを信じて疑わないグデーリアンは、「まだ最終的な結論を出していない」というヒトラーの態度を「あまりにも悠長」だと感じていた。
わずかな余裕でも、ソ連軍は再び新たな部隊を前線に派遣し、我々の前に立ちふさがってくる。そのような焦りから、グデーリアンは7月30日付けの「総統指令第34号」で示された「中央軍集団は、地形を巧みに利用して攻勢に出る。限定した目的を有する攻撃は、ソ連第21軍に対する攻撃の有力な跳躍台を確保する必要がある場合とする」という指示を拡大解釈して、第2装甲集団に「南進」を下命していた。
8月1日、グデーリアンは第24装甲軍団にロスラヴリを占領するよう命じた。ドイツ軍の装甲部隊は8日までに、ロスラヴリを防衛していたソ連第28軍(カチャロフ中将)を壊滅させ、3万8000人の捕虜と200門の火砲を鹵獲していた。
長期に渡る戦闘で弱体化していたにも関わらず、第24装甲軍団は順調な「南進」を続け、ロスラヴリ~ゴメリ間の鉄道を切断することに成功した。これを機に、グデーリアンは第47装甲軍団にも「南進」を指示し、麾下の装甲部隊にスタロドゥプとポチェフを占領するよう命じた。これらの街はどちらも「赤い首都」モスクワへ進撃するための重要な拠点であった。
8月12日、ヒトラーはようやく新しい指針を発表したが、「第34号追加指令」を読んだ中央軍集団首脳部の顔色は曇った。その内容が、モスクワの持つ戦略的重要性をまったく無視したものに他ならなかったからである。
「中央軍集団の戦区で最も重要な任務は、南北翼に存在する、多数の歩兵部隊を拘束している敵部隊の排除である。その際、中央・南方の両軍集団の間で、時間と攻撃軸に関する緊密な調整と協力が重要な意味を持つ。両翼に対する脅威を完全に排除し、装甲部隊の戦力が回復された時に初めて、モスクワへの攻撃続行が可能になる。
このモスクワへの攻勢を開始する前に、レニングラード作戦(総統指令第34号に示されたもの)を完了しなくてはならない」
〇ヒトラーの秋季戦計画
8月12日付けのヒトラーが下した判断に失望したのは、中央軍集団首脳部だけではなかった。この時になって初めて、陸軍参謀総長ハルダー上級大将は「赤い首都」モスクワの占領を最優先にすべきであるとの方針に加わる姿勢を見せたのである。
ハルダーに説得された陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥は8月18日、ヒトラーに対して「モスクワ方面への攻撃を優先すべき」とする「陸軍の総意」に基づいた意見書を提出した。陸軍上層部と軍司令官たちは6月22日の開戦以来はじめて、戦略方針についての意見の一致を見せたのである。
しかし、この時のヒトラーにとってウクライナは経済的な理由とともに、作戦上も魅力的な目標だった。7月から8月にかけて、自ら下した判断(総統指令第33号)によってソ連南西部正面軍・南部正面軍を追い詰め、ウマーニ付近で3個軍(第6軍・第12軍・第18軍)の大半を包囲することに成功していた。
8月21日、ヒトラーはブラウヒッチュの意見書に対する答えとして、「総統指令第34号」の「追加指令」を発令した。その内容は「モスクワは地図の上の印でしかない」とするヒトラーの考えを裏付けるものであった。
「東方に向けて攻勢を継続するという陸軍からの8月18日付の上奏は、私の考えに沿うものではない。よって、私は次のように命令する。
冬の到来より前に我が軍が目指すべき優先的目標は、モスクワの占領ではない。それよりも、クリミア半島とドネツ地方の工業と炭鉱地域の占領およびカフカスの油田地帯の孤立を達成しなくてはならない。北方では、レニングラードの包囲とフィンランド軍との連絡を優先目標とする」
8月23日、ハルダーがノヴィ・ボリソフの中央軍集団司令部を訪れ、「第34号追加指令」を示した。軍司令官たちの失望と憤りは、いよいよ諦念に近いものになっていたが、グデーリアンは執拗だった。戦力の回復がままならない第2装甲集団の各装甲師団は、22日までには「赤い首都」モスクワへの跳躍台―スタロドゥプとポチェフに到達していたのである。長い思慮の末、ボックはグデーリアンがハルダーと一緒に総統大本営に行って報告し、ヒトラーを翻意させることを決定した。
この日の夕刻、グデーリアンとハルダーは東プロイセンのレンツェン近郊にある飛行場に到着し、ラシュテンブルクに構える総統大本営「狼の巣(ヴォルフシャンツェ)」に向かった。会議に入る前、グデーリアンと面会したブラウヒッチュは「総統の前でモスクワのことを話してはならない」と忠告したが、ハルダーは内心ではグデーリアンの説得に期待していた。
カイテル、ヨードル、総統の副官シュムントら高給将校たちが見守る中、ヒトラーの執務室でグデーリアンは自分の意見を述べるきっかけを窺っていた。それはすぐにきた。ヒトラーが口を開いた。
「貴官の部隊は再び大きな努力をする用意があるのか?」
「重要性がすべての兵士に明白であるような目的を与えられれば、その用意はあります」
「貴官はモスクワのことを言っているのだね?」ヒトラーが言った。
「そうであります」
ヒトラーの承認を得ると、グデーリアンはなぜ「赤い首都」モスクワを最優先目標とするべきなのかを滔々と述べ、総統が気にかけていたウクライナの重要性を差し挟むことも忘れていなかった。その間じゅう、ヒトラーは一言も口を挟まなかったが、グデーリアンが話し終えると鋭い声を発した。
「将軍諸君はクラウセヴィッツを知っている。だが、戦時経済はご存知でない。私もクラウセヴィッツは知っている。だが、いま問題はそこではない。我々にはウクライナの穀物が必要なのだ。ドネツの工業地帯はスターリンではなく、我々に奉仕すべきである。カフカスからの石油輸送路を断てば、敵の軍事力は飢える。なによりも我々はクリミアを奪取し、ルーマニアの油田を脅かすこの危険な空母を除去しなくてはならない」
会議は深夜に終わった。グデーリアンはプルートキに置かれた第2装甲集団司令部に電話を掛け、疲れた声で待機していた参謀に命じた。
「別の計画になった。南だ、分かったな?」
〇固執
独裁者の思惑に軍の方針を振り回されることは、ヒトラーとその国防軍に限ったことではなかった。精神面でヒトラーと重なる部分が多かったスターリンもまた、赤軍幹部との間で生じた意見の対立から、しばしば感情的な態度を取った。
7月29日、スモレンスク攻防戦のさなか、クレムリンでキエフ方面の防衛方針に関する戦略会議が開かれた。西部正面軍と南西部正面軍の境界線に構える第5軍が、議論の焦点となった。
中央軍集団の急速な前進と、南方軍集団がドニエプル河下流に転進したことにより、南西部正面軍はキエフを防衛しつつ長い三角形状の陣地を形成していた。この陣地を、プリピャチ沼沢地帯南方に構える第5軍が頑強かつ巧妙な防御によって固定していた。
ジューコフ参謀総長はスターリンに対し、ドイツ中央・南方軍集団の間で西方に突出している第5軍をドニエプル河東岸に撤退させることが最善であると主張した。そして、参謀総長の意見として次のような危険性を指摘しておくことも忘れてはいなかった。
もし第2装甲集団がスモレンスクから南方に転進すれば、南西部正面軍の北翼を圧迫することが可能となる。さらに、ドニエプル河下流に進撃中の第1装甲集団と連携することで、キエフ方面での巨大な包囲網が完成される可能性があった。
「ドニエプル河西岸に位置するキエフはどうするのか?」スターリンが言った。
ジューコフはモスクワの防衛を最優先とする考えを述べた。
「もう護りきれないので、放棄することになるでしょう。それよりも、エリニャのドイツ軍に対する反撃を準備すべきです」
このジューコフの進言に、スターリンは激昂した。激しい口論の末、キエフの保持を重視するスターリンの考えを見抜けなかったジューコフは7月30日、シャポーシニコフ元帥に参謀総長を交代させられた。そして、同日付で新設された「予備正面軍」の司令官に「左遷」された。再び参謀総長に就任したシャポーシニコフだったが、やはり健康状態は芳しくなく、参謀本部作戦部次長ヴァシレフスキー少将がしばしば代理で実務を担うことになった。
一方、スモレンスクを占領したドイツ中央軍集団ではジューコフの憶測どおり、第2装甲集団が8月初旬から「南進」を開始していた。そして、8月10日にはスターリンの許にスイスに潜伏する赤軍参謀本部情報局(GPU)の諜報員アレキサンダー・ラドから、「ドイツ国防軍総司令部は、中央軍集団にブリャンスク経由でモスクワを攻撃せよという命令を下した」とする報告が届けられた。
8月12日、西部正面軍副司令官エレメンコ中将は、上官のティモシェンコからただちにモスクワへ向かうよう命じられた。夜分、モスクワに到着したエレメンコは、クレムリンでスターリンと参謀総長シャポーシニコフ元帥に迎えられた。
シャポーシニコフは手短に戦況を説明し、偵察した敵情とその他の情報に基づいた参謀総長の意見として、中央戦線でモギリョフ=ゴメリ地区からブリャンスク経由でモスクワへの進撃が迫って来ているという。
その後、スターリンが地図上で敵の主攻勢方向を示し、モスクワを防衛するためにブリャンスク地区にすみやかに強力な防衛線を築かねばならないと言った。だが、ウクライナを守るためにも新たな正面軍を編成しなくてはならない。
「私はご希望のところに赴く用意があります」エレメンコは答えた。
「貴官はどこの戦区を希望するのかね?」
スターリンはエレメンコの顔を見つめ、不満そうに言った。
「最も困難な場所へ」
「どこも混沌として困難なのだ。クリミアにしろブリャンスクにしろ」
「同志スターリン、敵の戦車部隊が現われそうなところへ派遣していただきたいのです。そこでなら、一番お役に立てると思います。彼らの戦術は承知しておりますから」
「よろしい」スターリンは満足気に答えた。「同志エレメンコ、貴官をブリャンスク正面軍司令官に任命する。この戦域で作戦を進めている敵は、グデーリアンの装甲集団である。西部正面軍で遭遇した戦いの経験を活かして、君は旧友のグデーリアンを迎え撃たなくて名ならない」
8月16日、第13軍(ゴルベフ少将)と第50軍(ペトロフ少将)を統轄する上級司令部として、ブリャンスク正面軍が設立された。
スターリンはこの間、北方の作戦に関しては何の関心も寄せていなかったが、「最高司令部」の命令によって北西部正面軍が行った反撃が思わぬ波状効果を生み出しており、レニングラードの防衛が大きく揺さぶられることとなる。
〇崩壊
ドイツ北方軍集団は7月中旬に第4装甲集団が巧みな転進によって、レニングラードへの最後の天然障害であるルガ河に到達していたが、7月19日付けの「総統指令第33号」によって、約2週間ものあいだ攻勢を一時休止させられていた。そして、7月30日に発令された「総統指令第34号」に基づき、再びレニングラードへの攻勢を開始するにあたって、軍集団の内部で部隊の配置換えを行った。
ソ連北西部正面軍司令部では「最高司令部」から反撃の実施を命じられ、正面軍参謀長ヴァトゥーティン中将が計画の立案を進めていた。8月12日に開始される予定の反撃はイリメニ湖の西方・南方を出撃点とし、第11軍、第27軍(ベルザーリン少将)、第34軍(カチャノフ少将)と新編成の第48軍(アキモフ中将)によってドイツ第16軍麾下の第10軍団(ハンゼン大将)の背後を襲い、重要な鉄道が通るソリツィとドノを奪回してドイツ軍の後方連絡線を崩壊させるという内容だった。
8月8日、ドイツ第41装甲軍団は降りしきる雨の中、ルガ河下流のキンギゼップおよびイワノフスコエ周辺から進撃した。だが、ソ連軍はドイツ軍が停止していた時期にルガ河沿岸の防御陣地を強化しており、第90狙撃師団とレニングラード士官学校の学生連隊による必死の防戦もあって、ドイツ軍の攻撃は初日から頓挫させられてしまう。
8月12日、戦略予備として後置されていた第八装甲師団がキンギゼップ方面に増援として派遣され、ルガ河の防衛線を突破するとクラスノグワルジェイスクへ向かって一気に突進した。この事態を受けた北西戦域司令官ヴォロシーロフ元帥は、第1戦車師団(バラノフ少将)と第1親衛人民義勇兵師団(フロロフ大佐)を送り込んだが、この反撃は失敗に終わってしまった。
ドイツ北方軍集団の南翼を担う第16軍では、8月10日から第10軍団がイリメニ湖の西方と南方から、ロシアの古都ノヴゴロドに向けて攻撃を開始していた。この攻撃により、反撃の準備を進めていた第48軍と第11軍の一部が混乱状態に陥り、分散した形での退却を余儀なくされ、ヴァトゥーティンは予定していた反撃計画を頓挫させられる形となったが、彼はまだ諦めていなかった。
8月12日、ヴァトゥーティンはイリメニ湖の南で、第11軍の残存部隊と第34軍と第27軍に対して反撃を命じた。第27軍はホルムで食い止められたものの、第34軍は順調な進撃を続け、14日にはスタライヤ・ルッサとドノを結ぶ鉄道を脅かす位置に到達していた。
このソ連軍の反撃により、第10軍団とその南に隣接する第2軍団(ブロックドルフ=アーレフェルト大将)の間に大きな亀裂が生じた。この戦況に第4装甲集団司令官ヘープナー上級大将は、第56装甲軍団長マンシュタイン大将を無線で呼び出した。マンシュタインは麾下の各部隊に対し、8月10日からルガの攻略を命じていた。
「悪い知らせだ、マンシュタイン。イリメニ湖畔のスタライヤ・ルッサにいる第16軍が危ない。貴官に火消しをやってもらえねば」
この指令によって、第56装甲軍団に所属する第3自動車化歩兵師団と第269歩兵師団、SS自動車化歩兵師団「髑髏」がただちにルガ前面からドノへ差し向けられた。
8月19日、260キロもの悪路を半日以上掛けて移動した第56装甲軍団はソ連第34軍の南翼から奇襲をかけ、パニックに陥ったソ連軍は東方へ敗走を開始した。その後も進撃を続けた第56装甲軍団は25日までに、1万8000人の捕虜と戦車200両、火砲300門を鹵獲することに成功した。その中には、まだ戦場に出てまだ間もない「カチューシャ」ロケット砲も含まれていた。
ドイツ北方軍集団は第56装甲軍団をイリメニ湖の南方へ派遣したことにより、レニングラードへ突進させる装甲兵力を削られるという事態を被ったが、ソ連北西部正面軍がロヴァチ河の東方へと退却したことにより、ノヴゴロドから北に通じる「回廊」が一時的に開けた状態になっていた。第16軍司令官ブッシュ上級大将は、この「回廊」に第1軍団(ボート大将)を派遣し、レニングラードへの進撃を命じた。
8月20日、第1軍団の第21歩兵師団(シュポンハイマー中将)はレニングラードとモスクワを最短距離で結ぶ鉄道が通る交通の要衝チュードヴォの占領に成功する。翌21日には、第41装甲軍団がクラスノグワルジェイスクに到達し、レニングラードまでの距離はわずか30キロになった。
8月23日、「最高司令部」は北部正面軍を「レニングラード正面軍」と「カレリア正面軍」の2つの正面軍司令部に分割・改組し、指揮権はラドガ湖を境に分担された。前者の司令官には引き続きポポフ中将が務め、後者に司令官には第14軍司令官フロロフ中将が昇格した。
ソ連軍のルガ河防衛線は東西の両翼で打ち砕かれ、レニングラードの占領はもはや時間の問題かと思われたが、8月末から本格的に降り始めた秋雨がすべての道路を泥濘へと変えた。ドイツ軍の装甲部隊は再び攻撃を停止せざるを得なくなり、ソ連軍は「ゴングに救われた」形で防衛態勢を立て直す時間を得ることになった。
〇強行渡河
プリピャチ沼沢地より南方では、ドイツ南方軍集団が8月初旬に実施したウマーニ包囲戦により、ソ連南西部正面軍・南部正面軍の境界線が完全に空白地帯となっていた。南方軍集団の先鋒を担う第1装甲集団は退却するソ連南部正面軍を追撃しつつ、ドニエプル河下流の湾曲部に向かって進撃していた。
8月5日、第1装甲集団司令官クライスト上級大将は麾下の3個装甲軍団(第3・第14・第48)に対し、それぞれドニエプル河の重要な渡河点であるクレメンチュグ、鉄鉱石の産出地クリヴォイ・ローグ、造船業が盛んなニコラーエフという到達目標を指示していた。
8月13日、第14装甲軍団は第9装甲師団と第25自動車化歩兵師団でクリヴォイ・ローグを占領し、その3日後にはドニエプロペトロフスク南方のサポロジェを対岸に望むドニエプル河の河畔に到達した。
8月16日にはウマーニ包囲戦を終了した第48装甲軍団の第16装甲師団がニコラーエフに突入して、市内の造船上で建造中だった戦艦「ソヴィエツキー・ウクライナ」をはじめとする巡洋艦1隻、駆逐艦4隻、潜水艦2隻を鹵獲することに成功していた。
着実に戦果を上げていた2個装甲軍団(第14・第48)に対して、第3装甲軍団は8月6日にクレメンチュグに到達したものの、東岸へ渡る重要な橋脚はすべてソ連軍によっては解されていた後だった。ドニエプル河東岸に足がかりを得たい第3装甲軍団長マッケンゼン大将は、攻撃の矛先をドニエプル河がその流れを南へと変える工業都市ドニエプロペトロフスクへと差し向けた。
8月22日、第3装甲軍団の第13装甲師団とSS自動車化歩兵師団「ヴィーキンク」(シュタイナー大将)はドニエプロペトロフスクに対する総攻撃を開始し、3日間にわたる市街戦を繰り広げてようやく同市のドニエプル河西岸地域を制圧することに成功する。しかし、東岸へと渡る2本の橋梁はソ連軍によってすでに破壊されており、急ごしらえの筏橋で対岸に小規模な橋頭堡を築くのが精一杯の状態だった。
一方、ソ連南部正面軍は8月13日から19日にかけて、ウマーニの包囲を離脱した第18軍とベッサラビアから退却を続ける第9軍の残存部隊をドニエプル河東岸に収容することに成功していた。また、ウマーニ包囲戦で消滅した第6軍司令部を新たに再編し、同軍司令官には第48狙撃軍団長マリノフスキー少将が昇格し、ドニエプロペトロフスク西方に配置された。
ドニエプル河西岸一帯を占領することに成功したドイツ南方軍集団であったが、敵情と航空偵察から得られた情報を子細に検討した同軍集団司令官ルントシュテット元帥は、ソ連軍の防衛態勢に致命的な「死角」が存在することに気付いた。
ソ連南西部正面軍・南部正面軍の境界線に位置するクレメンチュグ周辺は、南西部正面軍の第38軍(リャブイシェフ中将)と南部正面軍の第6軍(マリノフスキー少将)が隣り合っていたが、第38軍には2個狙撃師団しか配属されておらず、第六軍はいまだ所属部隊の集結が完了していなかった。
このとき、ルントシュテットの脳裏にある大胆不敵な作戦が浮かんでいた。もしこの手薄なクレメンチュグの橋頭堡から第1装甲集団を突進させ、いま南下中の第2装甲集団と手を結べば、ソ連南西部正面軍の大兵力を一網打尽に出来るのはないか。停滞しつつある自軍の戦況を劇的に変えるやも知れぬ包囲殲滅戦の考えに興奮しつつ、ルントシュテットは第1装甲集団に後続する第17軍に、クレメンチュグに橋頭堡の構築を厳命した。
8月20日、第17軍の第52軍団(ブリーゼン少将)は、クレメンチュグを対岸に望むドニエプル河の西岸に到達した。ブリーゼンはその西翼を進む第11軍団長コルツフライシュ大将と連携して、ドニエプル河の強行渡河作戦の立案を進めつつ、突撃舟艇や架橋資材をかき集めた。
8月31日、第52軍団に所属する第97軽歩兵師団(フレッター=ピコ少将)と第100軽歩兵師団(ザンネ少将)が砲兵の支援を受けながら、防備の手薄なクレメンチュグの東方において橋頭堡を確保することに成功した。第52軍団と第11軍団の残りの部隊もぞくぞくとドニエプル河を押し渡り、9月8日にはクレメンチュグの市街地がドイツ軍によって制圧された。
クレメンチュグ東方で天然の障壁ドニエプル河が破られたという報告は、ただちにソ連南西部正面軍司令部にも届けられた。防衛計画を根本から揺るがすこの事態に、南西部正面軍司令官キルポノス上級大将とその上官である南西戦域司令官ブジョンヌイ元帥は大きなショックを受け、約70万人に達するソ連軍の将官たちは、今まさに「地獄の大釜」に閉じ込められようとしていたのである。