9
エメリア領東アファル・遺跡発掘現場
3日後の夕方のことだった。現地スタッフが教会の壁をぐるりと取り囲み、熱心に発掘作業を進めていた。ジョージはこれまでモーガンが作業員に支払っていた賃金の低さに呆れ果て、すぐに賃金アップを命じたので、モーガンの落胆をよそに、現場は活気に満ちていた。
ジョージはまだ暗いうちにホテルのベッドを出て、夜明け前から現場に入り、作業に取り組んでいた。仕事のリズムはすぐに取り戻し、経験によって培われた自信を持って、ムティカやスタッフを楽々と仕切っている。アンはアシスタントとして使い、あれこれと細かい仕事を担当させた。
教会の発掘は、思ったほど容易だった。砂まじりの土は柔らかく、シャベルやこてを当てるだけであっけなく崩れていく。これほど長い間、遺跡が埋まっていたこと自体、奇跡だった。壕はすでに教会の周りをぐるりと取り巻き、場所によっては2メートルほどの深さと幅に掘られている。
カテドラルの常として、建物は東向きに、十字架の形に建っていた。十字架の縦軸に当たる身廊は、幅がちょうど22・5メートル、長さは33メートルあった。南北に伸びている翼廊、すなわち十字架の横軸は、ドームの下で十字が交差する部分を除いて、幅10メートルだった。
ドームを見ると、ジョージの心は騒いだ。これほど謎に満ちた教会は他になく、その答えはすべて教会の内部にある。今の段階で教会の中に入ることは、考古学的な常識から言ってあまりに性急だったが、ジョージはそれがどうしたと言う気になっていた。
壕の中で外壁の写真を撮っていたジョージは、壕のふちに手をかけ、よじ登って外へ出ようとした。そのとき、ムティカの大きな手がジョージの手首をがっちりと掴み、引き揚げてくれた。
「ハシゴがいりますね。スロープをつけてもいいかもしれない」ムティカが言った。
ジョージが服についた埃をはたきながら答えた。
「それがいいな。モーガンはどこです?教会の中へ入る準備を・・・」
突然、けたたましい笑い声が空気を切り裂いた。ジョージは飛び上がり、慌てて周囲を見回したが、岩の覆われた丘があるだけだ。再び笑い声がこだました。今度はもっと近い。血の凍りつくような声だ。
「ハイエナかな?」ジョージが不安そうに尋ねた。
ムティカが静かにうなづく。
「発掘を始めて以来、しょっちゅう脅しに来るんです」
「昼間でも?」
「はい、狩りが得意な従弟によると、ここ2か月ぐらいでハイエナの数が急に増えてるらしくて。その従弟はいつも話が大げさなんですが、この話は本当らしいです」
そのとき、2人からさほど離れていないところで、土を運んでいた作業員が突然、身をよじりながら地面に倒れた。ジョージとムティカが急いで駆けつけると、男は白目を剥き、体中を痙攣させていた。何やら意味不明の言葉をわめている。
ジョージの影が体をよぎると、恐ろしい悲鳴を上げ、後ずさりしようとした。
「ワイ・エキベ・ニキアル!エキベ・ワイ・キミエキナエ!」
「あなたが悪魔に見えるらしい」
そう言って、ムティカが男のそばに膝をついた。
「助けてくれと言ってます」
ジョージは身をかがめ、男の額に手をやった。かなり、熱があるようだ。
「ぼくは悪魔じゃない。心配するな」
ジョージはやさしく言った。ムティカが通訳したが、男はさらに身もだえした。立ち上がろうとするが、足がもつれ、苦しげにうめいて地面に倒れ込んでしまう。ムティカがその体を支え、頭を腕に抱いてやさしく揺すってやった。
周囲にはすでに野次馬が集まり始めている。ムティカがトゥルカナ語で穏やかな口調で何か言った。おそらくみんなを安心させようとしているのだろう。アンが不安そうな顔でやって来た。
「医者を呼んできて下さい。幻覚症状みたいだ」ジョージが言った。
「もう呼びました。今朝、足を捻挫した作業員がいたので、ちょうどノイマン医師が来ていたんです」
2人の作業員が倒れた男を抱え上げ、ジョージとムティカの後について壕のそばに張られたテントへと運んだ。ジョージはそのひとつをくぐり、コップと水入れ袋を手に取った。
2人の作業員はテーブルのそばに男を降ろした。ジョージはコップに水を注ぎ、ムティカに手渡した。ムティカが男の口にコップを持っていくと、男は最初、抵抗していたが、やがてゴクゴクと水を飲み始めた。
「あまり一度にたくさん飲ませないほうがいい」
「ええ、前にも同じことがありました」
ジョージは帽子を取り、周囲を見渡した。照りつける太陽の下で、男たちがシャベルやこてをふるっている。熱い砂埃と乾いた土の匂いに満ち、砂があらゆる隙間から入り込み、肌をチクチクと刺してくる。気候が異常なのか、これほどの暑さはジョージも経験したことがなかった。
「午後はしばらく休みにしよう。夕方、再開する」
「あるいは、作業時間を短くするかです」
ムティカの声には、非難の響きがあった。
そこへ、ヘレーネが別のテントから茶色のカバンを持って現れた。
「どうしました?」
そう言って男のそばにかがみこみ、カバンから聴診器を取り出した。ムティカが状況を説明する。ジョージはふと、少し離れた場所で働いている作業員たちに眼をやった。
現地人たちは怒りのこもった、硬い表情でこちらを見ている。今にも、ジョージを八つ裂きにしかねないような険悪さだ。ジョージは眼をそらそうとしたが、できなかった。野生の獣はこちらが眼をそらすまで襲ってこないという。奴らは襲ってくるのか。
背中に冷たい汗が流れた。ジョージは無意識に後ずさりし、その拍子にムティカの足の甲を踏んでしまった。よろめいて眼をそらした瞬間、ふっと何かが解けた。なんだ、雑談しているだけじゃないか。襲ってくるだなんて、どうかしてる。
「みんな、エメリア人のせいだと言ってます」ムティカが言った。
「というと?」
「教会を掘り起こしたせいだ。教会は呪われているって」
ジョージは遺跡に眼をやると、ドームの上に何かが立っている。まぶしい日差しに眼を凝らす。ハイエナか。瞬きすると、その何かは消えていた。ジョージは指で眉間を軽く揉んだ。どうやら自分にも幻覚症状が起こっているようだ。
「ぼくはちょっとその辺をひと回りしてくる。みんなには・・・休憩させてやってくれ」
10
ジョージは男たちの視線から逃れるように大股で歩き出した。現場からやや離れた小さな峡谷へと降りていく。今回の発掘について、少し頭を整理しなければならない。峡谷の岩壁はきつい日差しを遮り、ジョージはほんの少し心が安らぐのを感じた。
ベルトにつけた水筒から、生温かくなった水を飲む。ジョージは未だに、カーヘラで出会ったピジクスという男が何者なのかを知らない。そのピジクスがなぜ、東アファルの地中に埋まったニカイア教会の中に、アッカドの偶像があると考えているのも知らない。なぜ教会が建てられ、埋められたのか。そして、この場所がなぜ、現地の人々を不安させるのかも分からずじまいだった。
ジョージは近くにあった大きな石に腰かけ、上着の懐に手を入れる。手に金属の冷たい感覚があり、それを握りしめる。眼を閉じ、讃美歌を静かに口づさむ。
乱れに乱れし、底なき淵をも覆いて、治めし御霊よ。路行く友を、守り給え。
そのとき頭上で砂利を踏む音がし、岩壁の上からバラバラと小石が落ちてきた。一瞬、心臓が凍りつく。さっきのハイエナか。見上げると、岩陰に隠れた子どもの姿がちらりと見えた。見覚えのある顔だ。
「ジョセフ?」
ジョージは呼びかけ、腰を上げた。さらに、小石がバラバラと降ってくる。
「ジョセフ!」
背後の地面に人影が落ち、ゆっくりとこちらに近づいた。その影を視界の隅にとらえ、ジョージはぱっと振り向いた。誰もいない。見上げてみた。峡谷の岩壁の中程から突き出た岩に、ジョセフがちょこんと乗り、陽気に手を振っている。
「ジョージ!」
ジョセフは猿のような敏捷さで岩から飛び降りた。
「こんなところに1人で来たのかい?」
ジョセフはうなづいた。
「石を集めてるんだ」
指したズボンのポケットがでこぼこにふくらんでいた。
「すごい宝物だね。ズボンから落ちないように気をつけないと」
「サスペンダーがあるから大丈夫だよ、ほら」
ジョセフは得意そうにサスペンダーをパチンと指で弾いてみせた。
ジョージは微笑むと、ベルトにつけた道具袋を開き、小さな金槌を取り出した。
「本物のロックハンマーだよ。そろそろこれを使ってみたらいいだろう」
そう言って金槌をジョセフに渡してやった。ジョセフはぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう、ジョージ!これ、毎日使います」
「どういたしまして」
ジョージが立ち去ろうとすると、ジョセフが言った。
「ぼく、秘密を知ってるよ」
その声がやけに甲高く響いたので、ジョージは思わず立ち止まった。
「ほんとかい?どんな秘密?」
ジョセフは身を乗り出し、囁いた。
「なぜシスター・アンがここにいるのかってこと」
「なぜアンはここにいるんだい、ジョセフ?」
「ぼくらの魂を救うためさ」
ジョセフはそう言うとニコリと笑い、発掘現場に向かって走り去った。ジョージは肩をすくめ、その後を追った。別に秘密でもなんでもない。アンは発掘の仕事に加えて、エメクウィのホテルの空き部屋を使い、学校を開くことになっている。シスターが教える以上、当然、読み書きだけが勉強の目的ではないはずだ。
現場に戻ると、状況はだいぶ落ち着きを取り戻していた。作業員たちはムティカとモーガンの指示の下、ややペースをおとし、再び作業を進めている。ヘレーネは現場の診察所として建てられたテントの外に立ち、倒れた男が二人の仲間に運ばれていくのを見守っている。ジョージは男の容体を聞くため、そちらに向かった。
目的はそれだけかい。心の声がした。もう、誓願なんて守らなくてもいいんだ。
「・・・うるさい」
「え?」
ヘレーネが顔を向けた。思ったより近くにいたのだ。
「いえ、別に。ちょっと独り言で。さっきのスタッフは?」
「発作は治まったの。しばらく入院させて様子を見たかったんだけど、それはいやだって。どうも、ここの人たちは私の治療を信用してないみたい」
ヘレーネはテントの中に入り、ジョージも後に続いた。中に入っても、暑さはほとんど変わらない。カンバス地を通して陽光が薄く差し、消毒剤の匂いがした。ヘレーネは水の入ったバケツのところへ行き、白衣の袖をまくり、手を洗った。腕の内側に、一列の青い番号が見える。
ジョージは思わず眼をそむけた。ヘレーネがそれに気づき、背を向けて手を拭き、急いで白衣の袖を下ろした。
「お水、飲む?」
「いただきます」
ヘレーネは大きなタンクからコップに水を注ぎ、ジョージに手渡した。水はやっぱり生温かった。
「で、あなたはここで何を探しているの?」
ヘレーネは自分のコップにも水を注ぎ、折りたたみ式の椅子に品よく腰を下ろした。
「どうして、この地にあるはずのない教会が建てられたのかという謎に対する答えです」
ヘレーネに見つめられると、ジョージは自分が裸にされたような気がした。
「あなたは以前、神父だったのでしょう?」
「・・・ええ」
「何があったの?」
唐突にテントの入口の幕が開き、モーガンがずかずかと入ってきた。顔はかすかに日焼けし、腫れ物も多少はマシに見える。
「まったく野蛮人どもめ!教えてやらなきゃ、てめぇのケツも拭けねぇときやがる!」
モーガンのおかげで、会話は完全に途切れてしまった。
「町へ帰らなくちゃ」
ヘレーネは椅子から立ち上がって、出口へ向かった。ジョージは何か言おうとしたが、モーガンの方が早かった。
「ちょっと待ってくれよ、先生!」
ヘレーネは幕に手をかけたまま立ち止まり、しぶしぶ振り返った。モーガンは足をもじもじと動かし、恥ずかしそうな表情をした。ジョージは顔をしかめた。これがジョセフなら可愛いが、モーガンの出来物だらけの顔ではグロテスクとしか言いようがない。
「これ、見つけたんだ」
モーガンは鎖につながれた古いメダルを持ち上げた。幼児を抱いた髭の男が刻まれ、2人はともに光輪をつけている。
「聖ヨセフだ。幸運のお守りさ」
モーガンはメダルをヘレーネの首にかけようと近づいたが、ヘレーネは後ずさりした。
「頼むよ。いい子にしてただろ」
一瞬おいて、ヘレーネはうなづき、モーガンが鎖を首にかけられるよう後ろを向いた。しかし、その眼はジョージに注がれている。
「何してるんだ?」
モーガンが怒鳴った。刹那、ジョージは自分に向けられた言葉かと思ったが、ふと見るとテントの入口にジョセフが立っている。
「さっさと消えろ、このガキ!」
モーガンは消毒用アルコールのビンを振り上げ、投げつけようとした。ジョージは慌てて飛び出し、モーガンの手首を掴んだ。
「やめろ!」
その間にヘレーネはジョセフをうながし、テントの外へ出て行った。ジョージは腕をつかんだまま、モーガンと睨みあった。しばらくして、モーガンが力を抜いた。ジョージも手を離し、ビンを取り上げた。
「わかったよ。あんたがクロンボ好きだとは思わなかったぜ、ジョージ。あいつらときたら、何にでも・・・」
「あと、どれくらいかかるんだ?」ジョージは相手の言葉を遮った。「教会のドアを掘り起こすまで」
モーガンは眉根を寄せた。腫れ物がひとつにかたまって瘤のように隆起する。
「4、5日ってとこかな」
「その前に、中に入る方法はないか?」
「俺は入らねぇよ。ムティカが屋根から降ろしてくれるさ」
11
教会の屋根に取り付けられた滑車装置につながれたロープにしがみつき、ジョージは闇の中を滑り降りていった。頭上には丸天井がぽっかりと口を開け、青空がのぞいている。眼下には小さな光の点があり、それを大きな明かりの輪が取り巻いている。光の点はせわしなく揺れ動いた。
ジョージは手袋をはめた手に力をこめ、速度を調節しながら底へ近づいていき、頃合いを見計らってロープから飛び降りた。着地したところは、堅い石の床だった。
床には天井から埃っぽい白い光が落ち、ちょうどその真ん中に、見るからに落ち着かない様子のムティカがカンテラを手にして立っていた。ジョージは暗がりに眼を凝らしたが、闇の奥は見えない。
教会の中はひんやりとして、埃の匂いがする。空気は乾燥していた。周囲には、広々とした空間がひろがっているのが感じられる。
頭上に影がよぎり、ムティカが飛び退いた。ジョージも身をすくめたが、影の主は後からロープを降りてくるアンだった。アンは、軽やかな身のこなしで床に降り立った。黒いワンピースの上から、カーキシャツを羽織っている。
「ついてきたんですか?教会を代表して」
ジョージの声は周囲にわんわんと反響した。アンはジョージの問いに応えず、闇の奥にじっと眼を向けている。
「歩き回って大丈夫なんでしょうか?」
「本来なら、ダメでしょう」
闇の中にはどんな危険が潜んでいるか分からない。瓦礫、崩壊した床、どこかの隙間から入り込んだケモノ。身の回りの安全を十分に確保した上で、もっと強力な照明設備を運び入れ、建物がしっかりしているかどうか技術的な調査をすべきだった。
アンは一瞬、子どもの頃に聞いた迷信を思い出した。元日に、いちばん最初に家に入る人間は金髪でなければならないという話だ。ジョージの髪はダークブラウンで、これは不運を意味する。実際に、最初に教会に入ったムティカの癖毛は黒。アンも黒。そんな考えをジョージの言葉が打ち消した。
「まぁ、とにかく見てみましょう」
ジョージはムティカが床に置いたもう一つのカンテラを手に取り、火をともした。少なくとも過去千年間、この教会に足を踏み入れた者はいない。自分がその最初の人間になるのだと思い、大きく息を吸った。
用心のため、まず床をチェックする。石の表面は滑らかで、外壁と全く同じものだ。空間には奥行きがあり、はるか頭上に天井の高みが感じられる。カンテラの明かりで眼の前の闇を払いながら、ジョージは踏み出した。
「信徒席がないようね」アンが言った。
「ニカイアの教会は礼拝の間、信者はずっと立っていたんですよ」
カンテラの明かりの中で、アンの顔が赤らんだ。
「それにしても、この地でどんな礼拝が行われたのかしら?」
「それを調べるのが、ぼくらの仕事です」
前方に身廊が伸び、暗闇がカンテラの光を飲み込んでいる。身廊には二列の柱が平行して並び、空間を三等分している。左右の柱の両側にそれぞれ回廊を造りだしている。
ジョージは独りうなづいた。ここまではごく普通のカテドラルだ。教皇府の聖ヴィクトリア大聖堂ほどではないが、天井も高い。唯一、気になるのは窓がないことだ。やはり、最初から埋めるつもりで建てたということなのか。ジョージは畏敬の念を持って周囲を見つめた。ここで学ぶべきことは多い。
床には分厚く塵が積もり、歩くと舞い上がった埃がカンテラの光の中で躍った。聞こえてくるのは、後から黙ってついてくるアンとムティカの息づかいだけだ。
一行が正面玄関にたどり着くと、ジョージは巨大な柱に近づいてみた。埃っぽい白い円柱が大木のように林立している。
「妙だな・・・」と、ジョージは考えながらつぶやいた。
「アファルの砂漠にニカイア教会があること以外に?どういうこと?」
アンが聞いた。
「ここには窓がないし、正面の扉もどうやら簡単には開きそうにない。つまり、ここは人が出入りするようには出来てないんだ」
「我々も含めてね」
ムティカがむっつりと言った。
そのとき、3人の足元でシューッと不気味な摩擦音が響いた。アンがすっとんきょうな声を出して飛び退き、水筒が床に転がった。何かが床を這っていく。ムティカがカンテラをかざすと、砂の色をした太い蛇が浮かび上がった。
「パフアダーだ。猛毒です。甥っ子の友だちがこいつに咬まれて、たった2日で死んでしまった。シスター、踏まなくてよかった」
「助かったわ・・・どうやって、ここへ入って来たの?」
アンが荒く息をついた。
「どこかに隙間があいてるのかも」
ジョージはそう言いながら、カンテラで壁を照らした。壁は一面、モザイクで覆われている。何千、何万もの輝く色タイルの欠片を貼りつけ、絵を描いたものだ。ジョージの眼は自然と、入口にもっとも近いモザイクに引き寄せられた。ドア付近まで戻り、間近に観察してみる。
最初の柱の間から見える絵は、神のものらしき空っぽの玉座が描かれ、その周りを天使たちが取り囲んでいる。中に1人、金髪で他の天使よりもひときわ背の高い、美しい天使がいる。2番目のアーチの向こうは、自らの軍を集めているルシフェルが見える。3番目の絵はルシフェルの軍勢が大天使ミカエルに闘いを挑んでいるところだ。その先の3つのモザイクは、天使たちの戦争が続いている。その次の絵で、ミカエルの陣営がルシフェルとその軍勢を天国から追い落としている。ルシフェルたちは果てもなく墜落し、次第に美しい顔と均整のとれた体が醜く歪み、ついに地獄に堕ちるころには、天使たちは騒々しい悪魔に姿を変えている。最後のモザイクには、堕天使ルシフェルが地獄を支配し、大天使ミカエルが天上に君臨する様子が描かれている。
「ルシフェルだわ・・・」
ジョージの耳元で、アンが囁いた。
「もっとも神に愛された天使。戦いに敗れ、天国から追放された。驚くべき作品ね」
「悪くないですが・・・」
ジョージは言った。アンが驚嘆しているのを見て、素直に同意できなくなってしまったのだが、それでもこれが非常に珍しいモザイクであることは事実だった。
「天国の戦いよりも、主が受けた十四の受難の場面を描くのが普通なんですが」
12
3人はふたたびドームの下に戻った。左右には、十字架の横軸に当たる2つの翼廊がある。一行は暗がりに慣れた眼で左右の翼廊を見つめたが、闇は深く、威圧的だった。モザイクに描かれた悪魔たちが、壁からねじれた腕を伸ばし、鋭い爪と牙を剥きだして獲物を貪ろうと待ち構えているようだった。
そのとき、何かがバタバタとはためきながらジョージの頭を掠めていった。ジョージは思わず身を伏せる。心臓が口から飛び出しそうになる。アンが悲鳴を上げ、「カラスだ!」とムティカが大声を上げて、帽子を振り回した。
カラスの群れは次第に遠のいていったが、不吉な鳴き声はまだ闇の奥から響いてくる。ムティカがカンテラを声の方へ向けると、低く口笛を吹いた。
教会の奥に、台座に乗った4つの白い石像が立っていた。四体とも翼をつけ、長いローブに身を包んでいる。天使たちだ。互いに向き合い、長方形の祭壇をのせた巨大な石のブロックを囲むようにして立ち、それぞれ手にした武器を祭壇に突きつけている。カラスの群れは一体の天使像の頭上に集まり、かしましく喋り立てている。祭壇と台座にも、モザイクが光っていた。
「誰の像です?」
ムティカが聞いた。
「槍を持っているのが、ガブリエルよ」アンが言った。「炎の剣を持っているのがウリエル。4番目はラファエルだけど、普通は棍棒じゃなくて杖を持っている。カラスがとまっているのが、大天使ミカエル」
「ところが、あれは全員、大天使ミカエルなんです」ジョージが言った。
「何ですって?どうしてですか?」
「それぞれの台座に、ミカエルと刻まれている」
アンがカンテラで下の方を照らすと、みるみる落胆の表情になった。
「ほんとうだわ。大天使ミカエル」
ジョージは慎重に前へ進み出て、カンテラで祭壇の周囲を照らした。小さな階段を上がり、台座の上に立ってみる。背筋がすっと寒くなった。4人の天使の持つ武器が、まっすぐ自分に突きつけられた格好になっている。少しでも身動きすれば、武器の先端にぶつかってしまいそうだ。この教会が礼拝のために建てられたのではないことは、これではっきりした。こんなところでミサを行えば、神父が串刺しになってしまう。
「カラスは天井から入ってきたんでしょう」ムティカが言った。
「こんな教会、見たことがありますか?」
アンが台座に上がって、ジョージのそばに立った。
「はじめてになるかな」
「どうして何人もミカエルがいるんでしょう?」
「さぁ。この教会には、神の軍隊が必要だったのかも」
「実に奇妙ですよね。教会は天を讃えるために建てられるものなのに、天使の武器が全部、下を向いている。まるで・・・」
アンの言葉が途切れた。ジョージは祭壇の反対側へ回り、カンテラをかざしてみた。祭壇の後ろから、砕かれた木の柱が突き出している。石の棍棒の下をくぐって、近づいてみる。何かの土台のようだ。柱はごく最近折られたようで、ギザギザした断面が真新しく見える。ジョージは思わず顔をしかめた。
「シスター、これを」
アンがそばへよってくる。
「何よ、これ・・・」
そのとき、暗闇から巨大な顔が浮かび上がり、ジョージは慄いた。
「アン!後ろ!」
アンがぱっと振り向き、カンテラを突き出した。顔が逆さまに宙に浮かんでいる。口は声にならぬ叫びを上げ、双眸は茨の冠の下でうつろに光を閉ざし、沈黙のなか苦悩に泣いている。アンがぎょっとして飛び退いた。
ジョージがカンテラを上方へ持ち上げてみると、巨大な十字架が現れた。足に鎖が巻きつけられ、磔刑に処された主の木像が逆さまに天井から吊るされているのだ。逆さに吊るされた十字架は、砕かれた柱からもぎ取られたものだった。
「主よ、お赦しよ。一体なぜ、こんなことを?」
アンがつぶやいた。
「なぜというより、誰がどうやってやったのかってことが問題です。ここには千年以上、誰も足を踏み入れていないはずなのに」
ジョージは手を伸ばし、主の顔に触れた。その瞬間、天使像の上からカラスが一斉に飛び立った。けたたましい鳴き声と羽根の音があたりに交錯する。黒い影が3人の頭や肩に襲いかかり、ジョージは両手で頭を覆った。激しい痛みが耳にいきなり走り、ジョージは悲鳴を上げ、拳を突き出すと何かに当たり、ぐしゃっと潰れる音が続いた。
だいぶ時間が経って、カラスはようやく飛び去った。見上げると、最後の一群が天井の外へ消えていくところだった。ジョージはおそるおそる耳に手をやった。耳たぶが食いちぎられ、血がどくどくと流れている。耳が半分なくなったような感覚だ。
「あんたら、大丈夫かい?」天井からモーガンの声が降ってきた。「カラスどもがずいぶん騒がしく出て行ったが」
「もう戻りましょう。はやく傷の手当てをしないと」アンが言った。
「上げてくれ!ジョージがちょっと怪我している」ムティカが叫んだ。
「よしきた!」
13
モーガンは3人を次々と引き揚げた。教会の外に出ると、強烈な日差しに眼がくらむ。
「こりゃあ、ずいぶんこっぴどくやられたもんだ!」
モーガンがジョージの耳を見て言った。
「首から上の傷は出血しやすいんだ」
ジョージはハンカチを取り出して耳を押さえた。シャツの肩のあたりがぐっしょりと赤黒く染まっている。
「で、何か見つかったのか?」
ジョージはモーガンをじっと見据えた。
「あんた、隠し事をしてるな」
「へ?何のことで?」
「誰かがすでに教会の中に入ったような痕跡があった。それもごく最近だ」
「何の話か、さっぱり分からねぇな」
モーガンはシラを切ったが、指が無意識に顔の腫れ物をさわっている。
「十字架がここ2か月の間に折られてる。誰かが中に入ったとしか思えない。何を隠してるんだ?」
モーガンはジョージを睨み返していたが、やがて指を腫れ物に当てたまま、眼をそらした。「俺はただ、クーベリックの言った通りにしただけだぜ」
「クーベリック?」
「あんたが来る前にここにいた考古学者だよ。このドームを掘り起こしたヤツさ。で、あいつはこの屋根が開くのを知って、ちょいと中をのぞいてみたくなったわけだ。ただし、誰にも内緒でね」
「それで?」
「ある晩、やっこさんは俺とここへ来たわけだ。薄気味悪い晩だったぜ。屋根を開けると、中から風が吹き付けてきやがってな。クーベリックは2、3時間なかに入ってたよ。引き揚げてやったら、俺にも入りたいかって聞きやがるから、こんなとこいくら金を貰っても御免だって言ったのさ。クーベリックはあと2回、入ったよ。どっちも夜だった。とにかく誰にも言うなって、口止めされたんだ」
「中で見つけた物について、クーベリックは目録か何かつけたのか?」
「知らないね」
「ムティカは?」
ムティカはすかさず首を横に振った。
「そのクーベリックは今、どこにいる?会って話がしたい」
「それは無理です」ムティカが言った。
ジョージは眉をつり上げた。
「なぜ?」
「狂ってしまったからです」
ジョージは次第に苛立ちを募らせながら言った。
「じゃあ、クーベリックの持ち物はどこにあるんだ?」
「テントにあります。あっちです」
ムティカが指さした。
クーベリックのテントはボロボロになって、風にはためいていた。両側は広がってつぶれていたが、トラックほどの広さがある大きなテントだ。
ジョージはテントの結び目に手を伸ばした。耳の出血はようやく落ち着いてきた。アンとモーガンには他の仕事を命じてある。アンは仏頂面を浮かべたが、モーガンはいそいそと従った。
「クーベリックが倒れてから、誰も入ってないのか?」
「みんな、迷信深いんです」
「君は?」
「私は違う。賢いだけ」
ムティカは頭を軽くたたいてみせた。
最後の結び目を解き、ジョージは垂れ幕を上げて中に入った。テントの中はすさまじい散らかりようで、書類棚はまるで爆発した後のようだ。折りたたみ式のテーブルと椅子が乱雑に置かれ、そこら中に書類が散乱している。隅には丸まった毛布がのった簡易ベッドと机があった。
机に歩み寄ったジョージは、はっと息を呑んだ。机の上に散らばった紙に、悪魔の絵が描かれていた。何十もの悪魔がいる。山羊の角が生えた者。触手を持った者。毛穴からドロドロの粘液を垂れ流している者。女を犯している者。男色にふける者。子どもを食っている者。そして、その真ん中に、ピジクスの拓本に描かれた悪魔がいた。
傷ついた耳がズキズキと疼き始めた。悪魔の絵に手を伸ばす。紙に触れた途端、指先に鋭い痛みが走り、ジョージは思わず手を引っ込めた。ひと差し指の腹が切れている。血が滴って、悪魔の上に落ちた。ジョージは顔をしかめた。注意深く、紙を持ち上げる。紙の下は、ガラスの破片が散らばっていた。
「ムティカ、そのクーベリックはどこに・・・」
急に、ジョージはそばに誰もいないことに気づいた。
「ムティカ!」
垂れ幕からムティカの顔がのぞく。
「はい?」
「クーベリックは今、どこにいるんだ?」
ムティカは部屋の惨状に顔をしかめた。
「エヴァソのサナトリウムです」
「会って話がしたいんだ。いろいろ・・・」
ジョージの眼が何かに引きつけられ、言葉が途切れた。おそるおそるテントの天井を見上げてみる。首を伸ばし、ジョージの視線の先を追ったムティカは次の瞬間、ショックで眼を見開いた。
天井は端から端まで赤茶色の奇怪な記号で埋め尽くされていた。風がカンバス地を揺らし、記号が蛇の巣のようにのたくった。ジョージの背中に冷たいものが流れた。
「クーベリックが去って、どのくらいになる?」
「数週間です」ムティカの声は震えている。「私がエヴァソへ連れて行ったんです。そこでグレインジャー少佐から、あなたが後任で来ると聞きました」
「クーベリックは古代語の専門家だったのか?」
「さぁ。なぜです?」
「あそこに書かれてるのは、ウルガタ語だ。儀典書の原本に使われてる古代語だ」
「何て・・・書かれてるんですか?」
ムティカの顔に恐怖がよぎる。
「『堕ちし者、やがて血の河に甦る』」
14
日没の最後の光が消えると、まばゆい宝石のような星を散りばめた夜空になった。村にひと気がなく、窓にもほとんど明かりがない。通りを寒風が吹き抜け、木立が暗闇の中で揺れ、ざわざわと音を立てた。
病院の裏手にある小さな住居で、ヘレーネは狭い簡素なキッチンにいた。小さなテーブルの前に坐り、一束のタロットカードの中から3枚抜きだし、並べてみる。最初は、雷に打たれた塔の絵。2枚目は鎧を身に着けた白馬に乗った骸骨。3枚目は、山羊の角と蝙蝠の翼を持った悪魔が、裸で鎖につながれた男女の前で立ちふさがっている絵柄だ。
塔。死。悪魔。
ヘレーネは顔をしかめると、3枚のカードを束に戻した。よく切って、再び3枚をテーブルに並べた。並んだカードはさっきと全く同じで、順番まで一緒だった。妙だと思い、カードをじっと見つめていると、突然、ドアをコンコンと叩く音がした。
上体をびくりとさせ、ヘレーネが顔を上げると、戸口にジョージが立っていた。
「こんばんは。ちょっとお時間ありますか」
ヘレーネの顔に安堵が広がり、笑顔がこぼれた。
「ええ。どうぞ」
ジョージが部屋の中に入ってくると、ヘレーネは叫んだ。
「まぁ、どうしたの!その耳?シャツも・・・血まみれじゃない!」
「ちょっと事故があって・・・」
「はやく手当しなきゃ!さぁ坐って、すぐ戻るから」
ヘレーネは急いで診察室へ姿を消した。
ジョージは今までヘレーネが座っていた椅子に腰を下ろした。椅子にはヘレーネの温もりがまだ残っていて、そこに座ると妙に親密な感じがした。テーブルにはタロットカードの束と、めくられた3枚のカードがのっている。塔。死。悪魔。ジョージは並んだカードを束に戻してよく切った後、3枚抜き出して並べてみた。
塔。死。悪魔。
ジョージが眉をひそめ、カードを元に戻そうとしたとき、ヘレーネが診察室から治療具のトレーを手に戻ってくる。
「まず、シャツを脱いで・・・手も切れてるじゃない?いったい何があったの?」
「今日はいろいろと、奇妙なことがあって・・・」
ジョージはシャツのボタンを外しながら言った。ヘレーネが治療を施している間、ジョージは黙って座っていた。ヘレーネの手は柔らかく、体からいい香りがする。包帯を巻くときに身を屈めたとき、シャツの襟元がかすかに開き、胸のふくらみがちらりと見えた。ジョージは頭にかっと血が上るのを感じ、思わず椅子の上で身動ぎした。
「痛かった?」
ヘレーネは掌の包帯を止めながら言った。
「いや、大丈夫です」
「あとが残ってしまうわ。すぐ来れば良かったのに」
「ちょっと忙しくて・・・」
シャツの袖に腕を通しながらジョージは言い、話題を変えようとテーブルの上を指し示した。
「タロットカードですね?オカルトが趣味だとは思わなかった」
ヘレーネは照れたように笑い、トレーを脇に押しやってジョージの向かいに腰を下ろした。
「ここで見つけたの。結構、いいヒマつぶしになるのよ。カードの意味、知ってる?」
「神学校では、教わらなかった」ジョージは首を横に振った。
「カードは左から右へ順に過去、現在、未来を表してるの。塔は破壊。すなわち、完全な破滅という意味よ。後には何も続かない。それが過去ね。死は変容。つまり、ひとつの場所や形から別の場所、形への変化。それが今、起こってること。悪魔は誘惑。特に肉体の誘惑で、それが未来」
「ところで、あなたはクーベリックも治療したんですか?」
ジョージの声は思ったより大きく響いた。
「治療したかったけど、何もできなかったわ」ヘレーネは言った。「体には、何の異状も無かったの。病気や感染症の兆候は全く見られなかったし。あれは、完全な精神疾患。それもかなり重度の」
「かなりって?」
「ここで2日ほど入院してたんだけど、2日目の終わりには口から泡ふいて、ムティカとカマラに押さえつけもらわなきゃならなかったくらい暴れたのよ」
「それで、ここの人たちは教会が呪われてると思ってるのかな?」
「それと行方不明者のせいね」
ジョージは思わず顔を上げた。
「行方不明者?」
「聞いてないの?」
「どうやら誰も、ぼくには何にも教えてくれないらしい」
ヘレーネが微笑むと、片えくぼができた。
「発掘が始まってからこの数週間に、10人あまりの人間が消えてるのよ。カマラの奥さんもそう」
「消えたって、どこかへ失踪したとか?」
「それとも悪魔にさらわれた?」
そう言って、ヘレーネは小さく笑い声を上げた。ジョージの耳には、どこかわざとしらく響いた。それでも、ジョージには不愉快ではなかった。ヘレーネと一緒にいるだけで、いい気分になれる。ヘレーネの裸の腕はテーブルの上に置かれ、ジョージの眼は入れ墨をとらえた。ヘレーネがそれに気づき、ジョージは顔を赤らめた。
「すいません、失礼を・・・」
「興味を持って当然よ」
ヘレーネは指を腕の入れ墨に滑らせた。
「私の父は強い人でした。アメンドラの連中が反対派の一斉検挙を始めたとき、父は躊躇せず反対派の人たちを屋根裏にかくまったの。でも誰かの密告で私たちは捕まり、強制収容所へ送られたの。後は知っての通り」
「誰にも理解できないでしょう。つまり、実際に経験した人でなければ」
「そうね、私の夫はその1人だった。私たちは心から愛し合ってた。それである晩、私は夫に真実を伝えなければと思ったの。アメンドラのこと・・・連中が私に何をしたかを」
ヘレーネは言葉に詰まり、咳払いした。
「大間違いだった・・・夫はその後、私に指1本ふれなくなったわ」
ヘレーネの顔が苦痛に歪んだ。ジョージは思い切って手を伸ばし、ヘレーネの手の甲に触れた。冷たい手だった。ヘレーネはジョージの眼を見つめ、声をひそめて言った。
「人は命がかかってると、何でも出来るものね。苦痛に耐えたり・・・」
ジョージはうなづいた。
「それで、アファルへ?」
「たぶん、ここに引き寄せられたのね。ここの人たちを助けるために。トラブルがあるからと言って、諦めないわ」
ヘレーネは椅子の上で姿勢を正し、すばやく瞬きした。その手が、ジョージの手から離れた。
「で、神父さんはどうして、考古学者になったのかしら?」
「最初は考古学者だったんだ」
ヘレーネが微笑む。
「答えになってないわ」
その率直さにもたじろいだが、ジョージはヘレーネの好奇心を全て満たしてあげたいという衝動にかられ、我ながら驚いた。ヘレーネが自分の話に耳を傾け、自分という存在に注目してくれることが嬉しかった。
「実体のある仕事がしたかったんです。自分の手で直接、触れることのできるものを相手にしたかった」
「戻りたいと思う?神父に」
またしても、ヘレーネの単刀直入な問いにジョージは驚いた。そして、苦痛を見せまいとして顔をそむけた。
「戻りたいと思っても・・・意味のないことです」
「ときどき神の姿がいちばんよく見える場所は、地獄だと思うことがあるの」
ジョージはその言葉を反芻しつつ、じっと自分の膝を見つめた。しばらくして、椅子から立ち上がった。
「もう休まなくては」
帰りかけて、ふと振り返った。
「明日の朝、クーベリックに会いにエヴァソへ行きます」
ヘレーネは驚いた様子だった。
「何のために?」
「現場のことで。教えてもらうべきことがありそうなので」
「あまり期待しない方がいいわ。ムティカがトラックに乗せたときには、よだれを垂らしてたわ」
「とにかく会うだけ会ってみます」
「それなら、まずポリトウスキ神父を訪ねるといいわ。サナトリウムの院長よ」
「分かりました。それから、手当てをありがとう」
「治療代、忘れないでね」
ヘレーネが笑い、また頬にえくぼが出来た。ジョージは思わず笑い返した。
「おやすみ、ドクター」
「おやすみなさい」
15
アンはホテルの堅い木の床にひざまずき、低い声で夜の祈りを唱えた。子どもの頃からずっと続けている、1日の終わりの静かな儀式だ。心がほっと安らぎ、さまざまなストレスやプレッシャーから解放されていく。たとえひと晩の間だけでも、自分の悩みを神の前にさらけだし、安らかに眠れるのは有り難いことだ。
明日はいよいよミッションスクールを始めなければならない。教科書や資料はひと揃い持ってきたし、教室はカマラがホテルの空いたスペースを提供してくれる。今までは発掘現場に行かねばならず、また学校を開く前にデラチをよく知る必要があるからと言い訳して、開校を1日延ばしにしてきたのだ。しかし、たしかに遺跡の発見は教会の注目に値するものだが、出土品の扱いについては、ジョージの方が自分よりもはるかにふさわしいことも事実だ。正直に言って、あの遺跡には心身ともにすくんでしまった。
自分は学校を言い訳にして、発掘現場を避けようとしているのか。
アンは唇を噛んだ。そうかもしれない。しかし、学校を立ち上げるのは自分の仕事だし、それに早いことに越したことはないのだ。
それにしても・・・と、アンはジョージのことについて考えた。ヘレーネと初めて会った時、ジョージは何か衝撃を受けたような表情を浮かべていた。例えはよくないが、まるで死んだはずの人間に再び会ったような感じだった。戦争がきっかけでジョージは神への信仰を失ったと人伝に訊いたことがあったが、そのことと関係があるのだろうか。また、不思議だったのはヘレーネとジョージの顔つきだ。世界には自分と似ている人が三人はいるという話だが、ヘレーネとジョージは本当によく似ていた。まるで血のつながった姉と弟のように。
いつの間にか祈りを中断していることに気づき、アンはため息をついた。今は明日の朝まで悩みを忘れるべきで、いつまでもくよくよと考えるのはよくない。アンは眼を開けた。ふと見ると、壁にかけた十字架が逆さまになっている。
「誰が、こんな・・・」
刹那、地中の教会で逆さ吊りにされた巨大な十字架のことが頭によぎり、身震いする。あのような冒涜を、誰がどうやって、やってのけたのだろう。謎が増えれば、悩みも増える。アンは震える手で十字架を元に戻し、ランプを吹き消すと、部屋を出た。
闇に閉ざされた部屋の壁にかけた十字架がふたたび、逆さまになっているのには気づかなかった。
ジョージは自室のベッドに腰掛けていた。隣からドアを開け閉めする音がする。アンが礼拝室から戻ってきたのだろう。部屋はまた、時計の音だけになった。
意識をベッドの周りに並べたクーベリックが描いた悪魔のデッサンに戻す。その中心には、ピジクスから渡された拓本がある。デッサンを見つめ、その中に隠された意味を見出そうとしていた。しかし、何も見つからない。あきらめ、紙をまとめて寝ようとしたときだった。開いた寝室の入口に、女性の影が立っていた。ジョージは顔を上げた。
「ヘレーネ?」
そっと呼びかけるが、返事はない。女性が掌を開くと、切り裂かれたような傷口があらわになり、鮮血が滴った。ジョージはベッドから立ち上がろうとしたが、デッサンと寝具が体にまとわりつき、身動きが出来ない。
《なんとかしてやらないのか、神父?》
耳元で湿った声がした。ジョージが振り向くと、すぐそばに黒い制服を着たアメンドラ党親衛隊の将官が立っている。襟には、特尉の記章が見える。
「ヘンケ?」
部屋の壁にかけられた時計の音が、行進する軍靴になった。八歳くらいの少女が歌いながら、石畳をスキップしていく。逃げろと言いたいのだが、声がでない。冷たい雨が降りしきる中、広場には村民がひとかたまりに身を寄せ合っている。その周りにサブマシンガンを手にした兵士たちが立ち、村民を見張っている。
《おい、神父。名は何という?》ヘンケが言った。
「ロトフェルス神父だ」
ジョージは必死に立ち上がろうとしながら言った。
ヘンケは村民の中から10代の娘を引きずりだし、頭に銃を突きつけた。
《今日、神はここにいないよ。神父》
「やめろ!」
ジョージが叫んだ瞬間、ヘンケは少女の頭を吹き飛ばした。
眼を見開き、ジョージはベッドから跳ね起きた。デッサンが床に落ちる。ランプの灯が消えかかり、薄暗がりが部屋を包んでいる。辺りを見回したが、何も変わったことはない。
呼吸は荒く乱れ、心臓は早鐘のように鳴っている。耳の傷がズキズキと脈打つ。ジョージはデッサンの中に横たわり、長い間じっとしていた。いつもと同じ、ただの夢だ。紙をまとめ始め、ピジクスから渡された拓本に眼を止めた。悪魔がじっと自分を見つめているような感じがする。拓本に手を伸ばし、ふと時計の音が止まっていることに気づいた。
16
ルイスは柄杓からゴクゴクと水を飲み、柄杓をバケツの中に戻した。そこへ、ペットのアカゲザルがホテルから飛び出してきて、バケツに走り寄った。名前はボボだ。柄杓で水を飲ませ、柔らかい頭を指でなでてやる。
突然、ボボが金切り声を上げた。思わず手を引っ込める。ボボはシューッと唸り声を発し、ルイスの背後に向かって牙を剥きだした。はっと振り向くと、薄明りのついた戸口にジョセフが立っている。
「こわい夢を見たんだ」
ジョセフがそっと言った。ボボがまた唸り声を上げたので、ルイスはたしなめた。パパはあまり猿が好きじゃない。ちょっとでも何かあると、ボボをよそへやられるかもしれない。
「もう遅い。寝よう」
ルイスは精一杯、兄らしく言った。だが、ジョセフは激しくかぶりを振る。
「パパに怒られるぞ」
ジョセフは肩をすくめ、ホテルの裏庭に造られた簡素なベランダへ眼をやった。ジョージからもらった小さなロックハンマーが床に転がっている。ジョセフが手を伸ばすより早く、ルイスはさっとそれを拾い上げ、からかうように頭上へ持ち上げた。ボボがまた金切り声を上げる。ジョセフは爪先立ちになって、懸命にロックハンマーを取り返そうとする。
「返せ!ぼくのだ!」
ジェームズは庭へ後ずさりした。後を追うジョセフに向かって、ボボがシャーッと威嚇する。ジョセフはとうとうと泣き出した。
「わかった、わかった」
ルイスは慌てた。パパを起こしちゃまずい。
「部屋へ戻れば、返してやるから」
ジョセフは泣き止んで、激しくすすり上げた。ボボが二人の間に立ち、シューッと鋭い声を上げて、ルイスの肩に飛び乗った。次の瞬間、腐った肉のような湿った息の匂いが鼻をかすめ、暗がりから黒い獰猛な影が躍り出た。ボボの体が宙にさらわれ、悲鳴がグシャッというこもった音とともに止んだ。
ルイスの体は震えた。すぐ眼の前から、黄色く光るハイエナの双眸が睨んでいた。口からボボの体がぶらさがり、地面に血をボタボタと垂らしている。ボボの血と内臓の匂いが鼻につく。ハイエナの向こう側で、ジョセフが引きつったような声を上げた。不気味な笑い声がして、物陰から2頭目のハイエナが現れた。堅い地面の上で爪をカチカチと鳴らしながら、ジョセフに近づいていく。
「ジョセフ!」
ルイスは囁いた。
「ジョセフ、気をつけろ!」
ルイスは2頭目のハイエナを見た。ジョセフは呼吸が浅くとぎれ、足がすくんでしまったようだ。弟の体もボボのように、グシャッと音を立てて砕けるのだろうかと、思った。ところが、ハイエナはジョセフのそばを通り過ぎ、ルイスに向かってくる。
ぎょっとして後ずさりすると、すぐ後ろに3頭目が現れた。耳元でせせら笑いがし、ベトベトした唾液と腐った肉の匂いが降りかかる。ルイスは失禁した。生温かい液体が足を伝わっていく。3頭のハイエナはじっとルイスを睨んだまま、ゆっくりと円を描くように周りを歩き始めた。
「パパを呼べ、ジョセフ」
ルイスは喉をつまらせた。
「早く!」
ジョセフはその場に凍りついていた。1頭のハイエナがルイスの脇腹めがけて稲妻のように前脚を振った。焼けつくような痛みが全身を貫き、ルイスは絶叫した。けたたましい笑い声を上げ、2頭目が飛びかかり、ルイスは悲鳴を上げた。
アンはベッドから飛び起き、ホテルの廊下を駆けた。今しがた耳にしたものが、何なのか分からないまま、キッチンを突っ切り、裏口から飛び出す。
裏庭では、惨劇が繰り広げられていた。ジョセフは眼を見開き、3頭のハイエナからわずかに離れた場所に立ち尽くしている。ハイエナはルイスの体を貪っていた。1頭が左腕、2頭目が肩、3頭目が脇腹に食らいついている。血が噴水のように迸り、ルイスの悲鳴が闇を切り裂く。
なす術もなく立ち尽くしていると、すぐ後ろにジョージがやって来たのに、ほとんど気づかなかった。
「どけ!」
アンを押し退けるやいなや、ジョージは両手で銃を構えた。くすんだ黄金色をした回転式拳銃だ。轟音が耳をつんざき、1頭のハイエナの頭が吹き飛んだ瞬間、ハイエナの体が青白い炎を上げ、塵となって消えた。
残った2頭の内、体格の大きい方がルイスの頭に噛みついた。ジョージは即座に2頭目に向かって発砲した。だが銃弾は上方をかすめ、2頭のハイエナはルイスの体を引きずりながら、走り去った。その後ろから、カマラが大声をわめき散らし、ライフル銃を振り回しながら、ハイエナを追っていく。
アンが茫然としていると、ジョセフが白目を剥き、地面に崩れ落ちた。すかさずジョセフを抱え上げ、病院へと走った。
病院に着くと同時に、ヘレーネが勢いよくドアを開けた。
「悲鳴と銃声が聞こえたけど、いったい・・・?」
「ジョセフよ。ショックで失神したの」
アンは中に飛び込んだ。すでに、ランプに火がともっている。ベッドにジョセフを横たえると、ヘレーネが瞳孔と脈をチェックした。唇と歯茎が真っ青になっている。
「脈拍も呼吸も浅くて速いわ。チアノーゼを起こしかけてる。ショック状態だわ。そこの毛布を取って、早く!」
アンが隣のベッドから毛布を引きはがし、ジョセフの体に巻きつけた。ヘレーネはジョセフの腕を持ち上げて、点滴の用意をしている。
「脱水症状を緩和する以外、たいしたことはできないわ。一体、何があったの?」
「ハイエナよ。眼の前で、ルイスがハイエナに襲われたの」
ヘレーネは息を呑んだ。ドアがばたんと開いて、ジョージが飛び込んできた。
「見ましたか、ジョージ?ジョセフは眼の前にいたのに、ハイエナは無視したのよ!」
「奴らはルイスに集中していた。それだけのことです」
しかし、自分の耳にもその言葉は白々しく響いた。普通ならハイエナは当然、2人に襲いかかるはずだ。獲物が多いほど、分け前も多い。
「まるで奴らには、ジョセフが見えてないようだったわ」
アンが断固として言った。
「何が言いたいんです?」
「この地に悪魔がいる・・・」
ジョージは呆れたような仕草をし、アンから眼をそらした。
「あなたはたしか、悪魔祓いに関する論文も書かれてましたね」
「なんですか、急に?」
「それに、あの銃は退魔師しか持ってないものよ。撃たれたハイエナは青白い炎を上げて、塵に変わった・・・」
ジョージはアンの言葉を遮った。
「ヘレーネ、今夜なにか異常はなかったですか?」
「いえ。特に、何もないわ」
そう言いながら、ヘレーネはジョセフの肘の内側を消毒し、点滴の針を刺した。ジョセフはまったく反応しない。
「あなたは何か気づいたんですか、シスター?」
「あたしは・・・その・・・」
アンはジョージの強い視線で、躊躇した。
「いや。何も」
「明日はやっぱりエヴァソへ行くの?」ヘレーネは聞いた。
ジョージはうなづいた。
「クーベリックに聞きたいことがある。何か必要なものがあれば、リストを作ってください。貰ってきますから」