9
3月24日、午前11時47分。
上野南署、取調室。
鉄格子を嵌めた窓から、春の風が薫ってきた。パイプ椅子と机だけの取調室に満ちていた湿気と熱気が少し薄まったように感じた。
真壁仁はタバコを吸いながら、目の前に座る男を観察していた。
白瀬淳平は、朝から一言も話そうとしなかった。椅子にななめに腰かけ、顔を右の肩にうずめたまま、ぴくりともしない。眼鏡をかけた平凡な顔立ちからは、何を考えているのか判然としない。
白瀬は35歳。住宅リフォーム会社の営業部に勤めている。10年前に結婚し、妻である由貴との間にひとり娘の梓がいる。真壁が意外だと思ったのは、8歳の娘が通っている小学校は柏木祐也と同じだったことだ。
昨日の朝、松が谷2丁目の自宅にいた白瀬を殺人ではなく、詐欺容疑の「別件逮捕」で引っ張ってきた。白瀬への内偵を進めると、昨年の10月、会社の同僚から10万円を借り、未だ返済していない話をつかんだ。真壁は同僚から被害届を出させて、白瀬を上野南署へ任意同行させる手立てをとった。
真壁は机の上に置かれた灰皿に、タバコを押し潰した。
「もう一度、聞きます。今年の2月20日、あなたは御徒町のバー『ル・ボア』にいましたね?」
朝からずっと言い続けている問だった。
「・・・」
白瀬は昨夜の聴取で、詐欺に関してはあっさりと容疑を認めた。取調を担当した刑事の話では、白瀬は聴取に素直に応じたという。しかし今朝は打って変わって、沈黙を押し通している。あらゆる神経が鈍麻して外界の刺激に反応しない人間に対して、この期に及んでいまだどこに踏み込んだらいいか、真壁は手元の調書を手繰り、探り続けている。
「『ル・ボア』のオーナーの証言によると、あなたは20日の午後6時ごろ、1人で店に入りました。それから半時間、カウンター席の一番奥に座って飲んでいた」
「・・・」
「午後6時半ごろに男が2人、入ってきた。2人とも『柏木自動車工場』のネームが入った青いジャンパーを着ていました。覚えてませんか?」
「・・・」
「男2人が話し始めた。『オレの・・・』」
その瞬間、背後でドアが開く音が響いた。真壁が振り向くと、留置場の看守を務める中年の制服警官が立っていた。真壁が思わず睨みつけると、警官のそばから白髪頭が覗いた。刑事課長代理の韮崎だった。
「真壁、時間だ」
真壁は腕時計に眼を落とすと、12時を回っていた。
白瀬は看守と連れだって、取調室を出て行った。部屋を出て行く瞬間、真壁は白瀬の表情が緩むのを見逃さなかった。
「落ちたか?」韮崎が言った。
真壁は「いえ」とだけ答えた。
「うん・・・そうか、まぁあと少しだ」
韮崎はそう言って、真壁の肩をたたき、廊下へ消えた。
「あせらずゆっくりとな」
真壁は2本目のタバコを取り出し、ライターで火をつけた。奥歯をぎりりと噛むと、タバコの葉の苦味が口に広がった。韮崎の白々しさに怒りを覚えつつ、真壁は自分のふがいなさに苛立っていた。
10
午前12時8分。
真壁は取調室を出ると、腹立ち紛れに考えをめぐらせながら、廊下を歩いた。
昨日の朝、真壁は小野寺の取調が終わるのをいつか、いつかとじりじりして待っていた。
柏木裕也の保険金殺害事件に関する参考人として白瀬が浮上したが、はっきりとした物的証拠がある訳では無かった。
しかし、情況証拠として気になる情報はあった。須藤が白瀬の自宅周辺の聞き込みで、ふと小耳に挟んだことを話し始めた。
「近所のオバちゃんが、顔を合わせてひそひそと話してたんだ。内容はこうだ。『あの若さでご主人と力あわせて家買って、偉い子だったわねぇ。夫婦だけで買ったのよ、あの家。援助してもらわなかったんだって・・・』なぁ、白瀬の手取り、いくらか想像つくか?」
「いや・・・」
「リフォーム業の営業なんて、月30万超えればいいとこだ」
「あの上野の家、いくらだ?」
「6000万近く。仮に1000万を頭金で払ったとしても、残りは5000万。銀行に確認したら、白瀬は10年のローンを組んでる。そしたら、月々の返済はいくらになる?」
「俺に聞くなよ。そんなこと」真壁は渋い表情を浮かべた。「数学は苦手だ」
「まぁ、聞け。均等払いで月の返済が40数万だ」
「うそだろ。白瀬のリフォーム会社、一部上場だったか?」
「三流の中小。それに、奥さんはパート先のスーパーで週3日勤務が普通だったって話だ。自宅を購入してローンに金が掛かる時に、おかしいだろ」
「金の話か」
「返済がどうなってるのか?ウチの係長が白瀬家の懐具合を気にしてる」
刑事課長の嶋田によると、韮崎が来月に警視庁への異動するのは、ほぼ確定という話になっていた。その警察人生のほとんどを所轄ですごしてきた韮崎にとって、キャリアの最後を警視庁で終われるのは冥利に尽きる思いがこみ上げてきたであろう。
2月25日、パレス南上野の現場に臨場した理由もそこにある。本庁への「花道」を自分で飾ろうとして「事件」を「事故」と読み誤った―。そう報告した真壁だったが、署内からのタレ込みの線も無いため、すでに嶋田の関心は薄れていた。
トイレに入ると、癖毛の男が窓際の便器の前に立っていた。真壁に気づくと、癖毛は口角を緩めた。
「よう、真壁ちゃん。だいぶ苦戦しているみたいだな」
小野寺茂夫。刑事課知能犯係の係長を務めるベテラン刑事で、昨日の朝、自宅にいた白瀬を詐欺容疑の「別件逮捕」で引っ張ってきた。
真壁は小野寺の隣の便器の前に立った。
「面通しは?」
朝の取調の間に、2月25日、パレス南上野の7階で青いジャンパーを着た男を見た数名の男女と、近くの路地で同じ服装の男を見かけた主婦に、白瀬の顔をマジックミラー越しに確認させていた。
「まるっきりダメだね」小野寺は水を流して、ズボンのチャックを上げた。「そうそう、面白いことがわかったよ」
「何ですか?」
「白瀬についた鈴木ってゆう弁護士。あれ、韮崎の甥っ子」
真壁の脳裏に今朝、留置場の前ですれ違った、くたびれた背広を着た神経質そうな男が浮かんだ。
弁護士の声は、韮崎の声。何もしゃべるな。そうすれば、また家族に会えるとでも、吹き込んだのだろうか。どちらにしろ、白瀬は絶対に口を割らない。そう思うと、真壁は暗澹とした気持ちになった。小野寺は続けた。
「それと、白瀬は1か月前に会社をリストラされてる。普段の日は、国会図書館で時間を潰してたんだそうだ」
小野寺は鏡を見ながら、癖毛を櫛でといていた。
「昨日連行したとき、白瀬はどんな様子でした?」
「う~ん、普通だったね。でも、まてよ・・・」
真壁は小野寺に眼を向けた。
「現場のマンションの前を通ったとき、一瞬だったが、顔を背けた」
小野寺はドアを開け、出て行くかと思うと、口を開いた。
「覚悟しておいた方がいいよ、真壁ちゃん。経験から言うと、ああいうのが一番手ごわい。証拠があるとか、ないとかじゃないんだ。おそらく一生かかっても吐くまい」
そう言って、小野寺はトイレを出て行った。
11
午前12時11分。
上野南署の裏口から出ると、真壁は合羽橋の商店街に向かって歩き出した。
すると、急に背後から車のクラクションが鳴った。真壁が振り向くと、ピンクのビードルが近づいて停まった。
ウィンドゥが下がって、富樫の顔がのぞいた。
「お前ってヤツは、1キロ先からでも刑事だって丸分かりだぞ」富樫は助手席のドアを開けた。「乗れよ、一緒にメシ喰おう」
真壁は上体を入れ、次に脚を入れようとすると、あまりに車が小さく、膝を胸の前で抱えなければならなかった。
「なんで、こんな小さい車に乗ってんだ?」
「僕の子猫ちゃんのものさ」
「子猫ちゃん?奥さんのこと、そう呼んでいるのか?」
真壁は嘲るような口調で言った。
「どう呼ぼうが、僕の勝手だろう」
富樫は口を尖らせると、アクセルを踏んだ。2人が入ったのは、合羽橋の路地裏にある「かつ新」という小さなトンカツ屋だった。窓際のテーブルで、値段は安いが、けっこうボリュームのある定食をどうにか食べ終え、富樫がお茶をすすっていると、真壁はタバコの箱を振って1本くわえた。
「おまえは?」
「ああ、おれはもう禁煙したんだ。子どもができたのが、きっかけになったんだ」
「えらいな」
真壁は上着を探ったが、持っていたはずのライターが見つからない。
「おい、火、持ってるか?」
「持ってるはずがないだろ」
そう言いつつ、茶色のジャケットを探ると、富樫の手は胸に固い感触を得た。取り出してみると、油がほとんど切れかかっている使い捨てライターだった。
「これでガマンしろ」
「サンキュー」
真壁はタバコに火を付け、紫煙をくゆらせた。富樫はタバコの煙に咳き込み、真壁は「悪いな」と言って、右手の窓を開けた。
富樫はライターをいじりながら、呟いた。
「そう言えば、昨日、テレビでやっていたな」
「何が?」
真壁は灰皿にタバコをたたいた。
「使い捨てライターの火を付ける部分、5000ボルトくらいあるんだってさ」
「ふぅん」
「ところで、もうひとつの山の方は?」
「父親による殺人教唆。それに保険金がからんでいる」
真壁は事件の概要を話し始めた。富樫はときどき質問をはさみながら、メモ帳にペンを走らせた。
「父親の柏木達三に頼まれて、白瀬が実行したと・・・裕也君にはどのくらいの保険金がかかっていたんだ?」
「たしか8000万くらいだ。2人で山分けしたんだろうよ」
真壁は苛立たしげに呟いた。
「で、柏木は借金の帳消し・・・白瀬は家のローンの返済に使ったと。そういえば、白瀬は任意で引っ張ったんだよな?」
真壁はうなずいた。
「親父は?柏木達三は逮捕しなかったのか?」
「死んだよ」
「えっ?」
「心臓発作で亡くなってる」
「心臓発作って・・・」
「柏木の親父は身長が183センチで、体重は120キロを超えてた。それで心臓に大きく負担が掛かっていたらしく、狭心症の既往歴もあったんだ」
「いつ死んだんだ?」
「3月14日。工場で倒れてるのを民生委員が発見した」
「なるほど。となると・・・残されたのは、物言わぬ参考人のみか」
真壁はため息をつくと、脳裏に白瀬の暗い顔が浮かんだ。
「それで、どうなんだ?落ちそうなのか?」
真壁は黙ったまま1本目のタバコを灰皿に押し潰し、2本目を口にくわえ、テーブルの上に置かれた使い捨てライターを手に取った。
その時だった。真壁の脳裏を突然、焼け付くような焦燥が襲った。岩壁をよじ登っている時にも感じる、眼の奥がじりじりと焼けるような焦燥。脳の中が燃え、血液が沸騰するような感覚。
真壁は思わず額に手をやった。
「おい、大丈夫か?」
富樫が顔をのぞきこんだ。
「なぁ・・・ひとつ、頼まれてくれないか?」
どうにか、真壁はそれだけを口にした。
12
腕時計の針が眼に入る。午後2時を数分回ったところだ。向かいの席で、うなだれる白瀬の姿がある。午前中で寸分変わらぬ構図。
真壁は眼の端で壁のマジックミラーを見た。小野寺が隣の小部屋にいる。本来なら、午後は非番である小野寺は「付き合ってやる」と言い出し、取調を始める前、落ち着いてやれと肩を叩いた。
真壁はタバコに火を付けて吸い始め、しばらくしてから口を開いた。
「そうやって黙っていられるのは・・・柏木達三が死んだからではないですか?」
「・・・」
「完全犯罪ですよ。事件の当事者は、柏木とあなたしかいない」
真壁は灰皿にタバコを押しつぶした。
「柏木は心臓を患ってた。あの巨体ですし、薬は3種類も処方されていた。かなり悪かったんでしょうね」
真壁はファイルを開いた。ファイルに綴じられていた書類にひととおり眼を通すと、真壁は口を開いた。
「会社からは、1か月前にリストラを宣告されたそうですね?」
「・・・」
「家族が大事です。あなたのひとり娘はまだ小学生だし、家のローンはだいぶ残ってる。自分はどうやって家族を支えていけばいい?あなたはそうやって悩んだはずです」
その後も白瀬の口は固いままで、真壁は諭すような口調で取調を続けた。
「あなたがリストラを宣告されたのは2月19日、翌20日に御徒町の《ル・ボア》で柏木と会う。2月25日に事故。あなたの家を中心にして、パレス南上野、柏木の工場は半径700メートルの圏内に入る」
このとき、真壁は白瀬の上体が震えているのを目ざとく見つけた。白瀬はもはや観念しているのではないか。洗いざらい喋って楽になりたいと願っているし、刑に服する覚悟も決まっている。根っからの悪党ではないことは、昨日の聴取ですでに分かっている。しかし、自白をためらっている。なぜか。
脳裏に誰かの顔があるからだ。罪を認めることで深く悲しむ人間がいる。どうあってもその人にだけは、自分が「人殺し」に成り果てた現実を知られたくない―。
扉が2回ノックされる音が響き、真壁は思考を中断した。上体をひねると、扉の隙間から須藤が顔を覗かせ、手招きした。
真壁が廊下に出ると、須藤は「気になる話が・・・」と言い出し、手帳を開いた。
「住宅ローンの返済だが、2月の段階で残金が約4500万。その残金だが、今月の17日になって全額、キャッシュで支払われてる」
「柏木達三が死亡して2日目か」
「それと・・・娘の梓ちゃんは今日から学校を休むと、母親が担任に言ってたらしい」
「なんで?」
「家族旅行。大阪のテーマパークに行くという話をしたそうだ」
真壁は礼を言うと、取調室に戻った。新たなネタを持ったとして、いつ切り出すか見極めているうちに、時間は容赦なく過ぎていった。真壁は次第に暗澹とした気分になった。
裁判では、「任意の自供」のみが証拠として認められる。だが、すんなりと自供する人間は警察には来ない。自供すれば、社会的な死が待っている。それを意識して、口が重くなる参考人は多い。しかし、白瀬は「家族」の顔があるから、口をつぐんでいる。真壁は旅行の話を聞いた瞬間、そう直感した。
鉄格子ごしの空は、だいぶ薄暗くなってきていた。真壁は何本目かのタバコを灰皿に押しつぶした。
「明日、釈放されたら、どうするつもりです?」
「・・・」
「大阪へ家族旅行ですか?」
「・・・」
「会社からリストラにされたが、家族には『会社へ行く』と嘘をついて、国会図書館で時間を潰してたそうですね」
「・・・」
「奥さんには『有給を取った』と嘘をついたんですか?」
「・・・」
「テーマパークに行って家族サービスした後、どうするつもりでした?」
真壁は椅子から腰を上げ、机にかがみこんだ。
「・・・あなた、自殺する気だったんじゃないですか?」
白瀬は顔を逸らした。
廊下の奥から、革靴の硬質な響きが迫ってきていた。韮崎が扉を開いた。
「真壁、時間だ」
13
午後9時37分。
「少し休憩していいですよ」
真壁が疲れた声で言い、パイプ椅子から立ち上がった。廊下で待っていた看守が入って来て、扉のそばに立った。真壁は隣の小部屋に入り、小野寺に「休憩しましょう」と声をかけた。
廊下を歩きながら、たて続けに吸ったタバコのせいで、しくしくと痛みを発していた胃袋をさすった。真壁は階段を降りて、2階は刑事部屋と同じフロアにある、鑑識の部屋に入った。
奥の机で、長谷が文庫本から眼を上げた。真壁は詫びた。
「すみません。まだなんです」
「大丈夫。今夜はずっといるから」
真壁は今日の昼に富樫に頼んだことと関連して、長谷に待ってもらっていた。
「電話、借ります」
そう言って、真壁は机の上に置かれた電話の受話器を取って、富樫の携帯番号を押した。数分待ったが、呼び出し音のパルスが鳴るだけで、真壁は諦めて電話を切った。
時間はもう残されていなかった。6時ごろ、韮崎は白瀬を留置場に戻して夕食を取らせた。それから7時に取調を再開したが、白瀬が口を開くことはなかった。
真壁は気づいていた。
白瀬が口を割らないのは、柏木達三が死んだわけではない。家族を悲しませないためだ。事実、真壁がひとり娘について話すと白瀬は体を揺らしたり、両手をぐっと握りしめたりしていた。
真壁の脳裏に、ある考えが浮かんだ。それは、今朝に思いついたことだった。
白瀬を起訴する。
犯人が特定されていれば、逮捕を省いて、いきなり裁判所に起訴してもらう。相場なら、公判が約1週間後に開かれる。その間に、白瀬を再び聴取し、逮捕する。
本来の順序が逆になってしまうが、法的には可能。裁判所に犯人を起訴するのは検事の役目だが、真壁は上野南署の管内に、明真大法学部出身の検事が住んでいることは知っていた。もうだいぶ前の先輩に当たる人物だった。
だが、物証がない。
すでに、白瀬の指紋は採取していた。しかし、柏木が現金を保管していたと思われる工場の冷蔵庫に付着していた指紋とは、一致しなかった。
滞っていた住宅ローンを一度に返済したという状況証拠しかなく、しかもこれはかなり乱暴な手法だ。仮に検事が起訴を了承しても、こんな公判の請求を受け入れる裁判所がどこにあるだろうか。
真壁はダイヤルを押しかけ、受話器を叩きつけた。悔しさが口から唸りとなって漏れ出した。白瀬は絶対、自殺するつもりだ。それはなんとしても食い止めなければならない。
そのとき、夜闇を引き裂くような音が響いた。長谷が窓に振り向き、真壁もその後ろからのぞいた。
「車が止まったんですね。ピンク色のビードルですよ。珍しいなぁ」長谷が言った。
真壁は鑑識の部屋を飛び出した。
裏口に出ると、車のそばに富樫が立っていた。顔がホコリや油でにじんだ汗にまみれ、疲れた表情を浮かべていた。
「お前の言ったとおりだ。これだろ」
富樫はジャケットからハンカチに包まれたものを出した。
「・・・ありがとう。本当に・・・ありがとう」
真壁はようやくそれだけを口に出来た。
「いいって、子猫ちゃん」
真壁は手を放すと、背を向けて駆け出した。富樫はその背を呼び止めた。
「真壁!」
真壁は振り向いた。
「書くからな!」
「おう、なんとでも書け!」
真壁はそう言い放って、署の裏口に飛び込んでいった。
14
午後10時。
韮崎はひとり刑事部屋で、暗い窓の外をにらんでいた。振り返ると、机の上に小型のスピーカーが置かれていた。それは今まで白瀬の取調室の様子を中継していたが、すでにスイッチは切ってあった。聞く必要も無い。自分は勝ったのだ。
思えば日陰を歩んできたような、警官人生だった。そこに降って沸いたような本庁への異動。このミスが露見されれば、異動の取り消しだって起こりうる。しかし、選任の弁護士に自分の甥をつけるのが限度だった。
韮崎は廊下を歩きながら、苦笑を浮かべた。白瀬が本当に柏木祐也を殺したかどうかは分からないが、韮崎が驚くほどに白瀬は自分のアドバイスを受け入れ、何も話さなかった。
取調室の前まで来ると、椅子がひっくり返ったような大きな音が響いた。
韮崎は急いでドアを開けた。白瀬が床にくずれて静かに泣いていた。左の頬が少し赤くなっている。その傍に、真壁が立っていた。その背後から小野寺がおさえていた。
「何があった?」
「真壁が殴ったんですよ。全部、吐いちまったもんだから・・・」
韮崎は耳を疑った。
「なんだって?」
「だから、吐いたんですよ。柏木の親父も子どもも、自分が殺ったって・・・」
韮崎は真壁を一瞥した。真壁ははりつめた表情を浮かべたまま、立ち尽くしていた。取調室に入り、韮崎は白瀬のそばに膝をついた。
「白瀬さん、どういうことですか?」
「知らなかったんだ・・・!あの子が、あの子が、娘の同級生だったなんて・・・」
「子どもを殺したんですか?」
「間違いありません・・・私は、私は・・・」
白瀬は慟哭を上げた。
「仕方なかったんだ!課長は、課長は、まるでゴミみたいに、たった2、3秒で、私の何十年を否定したんだ!高いクラブに入ってツケまでして接待したのも、会社のためだった・・・!それなのに、なのに・・・!」
あとはもう言葉にならなかった。白瀬は崩壊してしまった。
韮崎は小野寺に白瀬をまかせ、真壁を廊下へ追い出した。
「物証はあるのか?」韮崎は低い声を出した。「子どもの殺害を認めたのはいいが、何の証拠も無いぞ」
「柏木達三の殺害については、物証があります」
「あれは心臓発作による自然死だ」
「いいえ、白瀬が感電死させたんです」
そのとき、階段を駆け上がる音がした。韮崎は顔を向けると、廊下を鑑識の長谷が歩いてきた。封筒を手にしている。
「結果が出ました」
「早かったですね」真壁が言った。
「冷蔵庫に付着していた指紋とは、まだ照合していませんが・・・ライターからはバッチリと採取できました」
「か、かせ!」
韮崎は長谷から封筒を奪い取った。指紋の鑑定書を取り出し、文面を追った。
「特徴点が12か所以上あります」長谷が言った。「同一人物で間違いないです」
韮崎は思わず声が震えた。
「ライターっていうのはなんだ!?」
真壁が封筒の中から、ビニール袋を取り出した。着火部品が欠けた使い捨てライターのプラスチックの容器が入っていた。
「白瀬は柏木に水をかけて、このライターから着火部品を取り外して、左胸に当てて感電死させたんですよ。5000ボルトもの電流なら、弱っていた心臓ならイチコロです」
韮崎は眼の前が暗くなるのを覚え、吐き気がこみ上げてきた。どうにか吐き気を抑え込むと、ふらふらと廊下を歩き出し、廊下の奥に姿を消した。
15
白瀬の柏木親子殺害に関する調取は結局、朝方までかかった。
柏木達三の殺人教唆を立証するような内容だった。
2月20日、柏木と白瀬は御徒町の《ル・ボア》で偶然、居合わせた。柏木の話を又聞きした白瀬は柏木を誘って別の居酒屋に彼岸をかえ、「契約」を交わした。2人は保険金を等分することとし、柏木は部屋の合鍵を渡した。
2月25日、白瀬は柏木の教唆の通りに裕也を殺害した。
「仕事を失えば、家族も何もかも、全て終わりになると思っていました・・・」
白瀬はやつれた表情を浮かべて、凶行の動機を述べた。しかし、柏木は白瀬が自分を殺害するとまでは思ってもいなかった。白瀬の供述をつぶさに聞いた真壁には、そう感じられた。
3月14日、裕也を殺害してから一向に分け前を払わない柏木に腹を立てた白瀬は午後9時ごろ、ジョギングに行くと言って家を出て、柏木の工場に向かった。
睡眠薬入りのカップ酒を飲ませ、柏木を眠らせた後、使い捨てライターで「感電死」させた。その後、金を探したが見つからず、あまり遅くなると怪しまれると思い、その日は帰った。そして、翌日の夜、白瀬は再び工場に忍び込んで冷蔵庫から保険金を見つけ、持ち去った。
自供に従い、上野南署による白瀬家の家宅捜索が行われた。屋根裏には、保険金と思われる現金が詰まった革製のカバン、洗面台の棚から睡眠薬が発見された。2月25日の犯行に使用したとされる青いジャンバーと黒革の手袋は回収され、後になって手袋から裕也の唾液が検出された。
白瀬の妻は呆然とした様子で、家の中を捜索する捜査員を見つめていた。娘の愛美は小学校に行っていたので、家にはいなかった。
真壁には、一番の被害者がひとり娘の梓ではなかろうかと思えてならなかった。いずれ、梓は真相を知ることになるだろう。金のために、父親が自分のクラスメートを殺害したという冷酷な事実だ。白瀬は家族を守るためだと思っていながら、その実は何も分かっていなかった。
3月25日、白瀬は検察に身柄を移送され、検察官の取調にも正直に答えたのか、翌日には早々に起訴が成立した。
この日の夜、真壁は御徒町の《ル・ボア》を訪れた。午後7時過ぎで時間が早かったためか、客はいなかった。ママの門田紗江子から「何がいい?」と言われ、真壁はバランタインを頼んだ。冬山を登った時、冨樫から「温まるぞ」と言われて薦められた洋酒だった。
真壁はストレートをちょっとずつ飲みながら、東都日報の夕刊をめくっていた。富樫は宣言どおり、この事件を記事にしていた。地方面の片隅に小さく取り上げられた記事を指差しながら、ママが言った。
「あなたがこの事件を捜査していたんでしょ。子どもの写真、ある?」
真壁は上着から写真を取り出した。野球のユニフォームを着た柏木裕也が映っている写真だった。
「眼のところ・・・顔のまん丸な感じも、似ているわ。妹の子なのね」
「妹?」
「柏木達三が結婚していたのは、私の妹なのよ」
ママは重い息を吐いた。
「11年くらい前よ。妹が店に来たの、柏木を連れて。川口で、妹は水商売していたの。柏木は妹の店の常連で・・・デキちゃったみたいなの。それで、結婚したの」
「妹さんは今どうしてるんですか?」
「3年前、荒川の河川敷で自殺したわ。男の人と車の中で七輪を焚いて、一酸化炭素中毒で心中。カバンの中に遺書があったの。『裕也、ゴメンね』って」
真壁は眼を見開いた。
「でも、一緒に心中した男の名前も裕也っていうの。その時、アタシは妹に子どもがいるなんて思ってもいなかったから・・・情死だと思ったの。皮肉なものね」
「どうして、裕也君が妹さんの子どもだって分かったんです?」
「保険会社から、お詫びの電話が入ったの。妹は柏木にお金を残したくなかったんでしょう。保険金の受け取り先を、アタシにしていたらしいの。でも、それを柏木が代わりに受け取っていた」
ママはまたひとつ、重い息を吐いた。
「アタシもこの子を見殺しにしたようなものだわ。そうは思わない、刑事さん?」
16
4月の午後、真壁は千駄木の東亜医科大学の屋上に立っていた。
先日、非番だった真壁は東京地裁で白瀬の初公判に立ち会った。その日、真壁の他にいたのは数人の傍聴人だけで、知った顔はひとつもなかった。唯一の例外が白瀬の弁護士で、円谷の甥から真壁の大学の先輩に代わっていて、少し驚いた。
ほぼひと月ぶりに見る白瀬の姿は、どこか悄然としていた。富樫によると、離婚した白瀬の妻は娘を連れて、福岡の実家に帰ったというから、白瀬の様子もうなずける話だった。
検察官が起訴状の読み上げを始めると、真壁は自然と体が強ばるのを感じた。白瀬を信用していなかったわけではないが、不安がなかったと言えば嘘になる。物証があるにしろ、今回の事件は白瀬の自供によるところが大きい。だが、白瀬は真壁の心配をよそに、裁判官に罪状認否を問われると、「間違いありません」と言い切った。判決は、来月にも決まるという話だった。
「こんなところにいましたか」
背中から声がして、真壁は振り向いた。岡島が缶コーヒーを2本手にして、真壁の横に立った。1本を差し出してくる。
「タバコが吸いたくて」
真壁はそう言ってタバコをくわえ、火を付けようとした。
「元内科医として、喫煙はあまりお勧めできないなぁ。狭心症の原因になるよ」
思わず苦笑を浮かべた真壁は、タバコをしまった。
「元内科医がどうして、法医学者になったんですか?」
「大学の恩師に騙されてね。法医学者なら、すぐに第一人者になれると言われたんだが」
岡島は缶コーヒーを開け、ひと口ふくむと、口を開いた。
「それで、話があるというのは?」
「だいぶ前の話になるんですが、3月14日の午後8時に、あなたはどこで何をしていましたか?」
「これは事件の捜査ですか?」
「個人的に知りたいことです」
「なら、プライバシーということで」
「上野5丁目26番の公衆電話にいたんじゃないですか?」
「・・・」
「柏木祐也の検死をした際、あなたはすでに他殺の可能性に気づいていた。しかし、韮崎からは何の反応もなかった。何回も連絡を取ったが、ついにはらちがあかなくなり、署にタレ込みの電話をかけた」
岡島は穏やかに微笑むだけで、缶コーヒーを飲み干すと、屋上から出て行った。
欄干に残された空き缶を眺めながら、真壁はタバコに火をつけた。
つたない経験からすれば、14日の通報は岡島がかけたのだろう。真壁は岡島の眼の色からほのかに感じ取っていた。動機は、岡島本人が話す時が来るまで分からないだろう。それでもいいと、真壁は思った。他人の行動に、理由をあれやこれとはっきりつけられるはずなど無い。
真壁は紫煙を燻らせながら、ふいに富樫の顔が脳裏に結ばれ、ある疑問が浮かんだ。
《そう言えば、なんでアイツはオレのこと、子猫ちゃんって言ったんだ・・・?》
真壁の視界は、初夏の強い日差しを受けて真っ白になった。