21
クリスタはくるりと振り向いた。ヴェロニカがこちらに向かって通路を歩いてくる。修道服は着ていない。格子模様のシャツにジーンズ。足元は履き古したブーツ。そして、両手に何か持っている。
「あんた」クリスタが憎しみをこめて囁いた。「このことを修道女長に言いつければ―」
「大天使ミカエル、霊魂を損なわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、天なる主の御力により地獄に封じ込めたまえ!」
一瞬にして、ジョージは吊り帯から四肢を外し、ベッドから立ち上がった。しかし、右脚の踝に吊り帯が絡まり、ジョージはベッドに落ちた。
クリスタがシューッと鋭く息を吐き出し、ジョージに振り向いた。反吐の臭いが漂い、唇が内側に丸め込まれて、針のような歯を覆っている。ジョージ目がけて突進した。
ジョージはメダルをわしづかみにすると、クリスタに向かって突き出した。
「我らが主に代わり、その御力によって、汝を地獄へ追放する!」
あいかわらず威嚇するようにシューッと言いながら、クリスタはメダルから後ずさった。くるりと身体を半転させると、白いスタートを翻してヴェロニカと向き合い、低い嗄れ声で叫んだ。
「やっつけてやる、このおせっかいな淫売め!」
ヴェロニカが両手を上げた。右手には、ジョージが身につけていた黄金のリボルバー。
「撃て、ヴェロニカ!」ジョージは叫んだ。
だが、ヴェロニカはホルスターに収まったまま銃を掲げたまま、左手に持った鐘を鋭く振った。その鐘の響きに、ジョージは思わず両手を耳に当てた。頭に杭が突き刺さるかと思われるような響きだった。
虫の鳴き声がさらに甲高くなり、ヴェロニカが振った鐘の響きに似て、耳をつんざくまでになった。その音色に軽やかさは微塵もない。クリスタの両手がヴェロニカの喉元にためらいがちに迫っていく。ヴェロニカはたじろぐようでもなく、瞬きひとつしない。
「うそ」クリスタは驚愕の表情を浮かべた。「あなたに出来るわけがない!」
「もう、やったわ」
すると、ジョージは虫を見た。かつて髭を生やした男の脚から降りてくる大群を観察したことがあったが、いま影から這い出てきたのは前代未聞の軍勢だった。
通路を進んできた虫は床を闇と化し、ベッドを漆黒で覆い、クリスタに襲いかかった。
ヴェロニカは悲鳴をあげているクリスタの横をすばやく通りすぎると、銃をジョージの胸元に押し付け、ねじれた吊り帯を一度強く引っ張った。その結果、ようやくジョージの右脚が自由になった。
「急いで」ヴェロニカは言った。「私は虫を駆り出したけど、彼らを押しとどめるとなると話は別なの」
クリスタの悲鳴は恐怖ではなく、苦痛から発せられていた。ジョージはクリスタが床に倒れ、黒い山に飲み込まれていく光景を見た。
ヴェロニカはジョージが立ち上がるのに手を貸しながら言った。
「急がないと、他の魔女が来るわ。具合はどう?力はある?」
「ありがとう」
ジョージはふらつく脚で立ち上がり、ヴェロニカと通路を急ぎ、虫の群れとクリスタから遠ざかった。クリスタの絶叫が小さくなっていた。
2人が病棟の出入り口を出ると、そこは聖堂だった。ヴェロニカは出入り口の横に置かれたドラム缶を病棟の中に倒した。灯油の臭いが鼻腔を突き、ジョージは言った。
「何をするんだ?」
「燃やすのよ」
ヴェロニカはジーンズのポケットから手榴弾を取り出した。ピンを引き抜き、部屋に投げ込んだと思うと、「ふせて!」と叫び、ジョージを床に押し倒した。
次の瞬間、爆轟が聖堂に響いた。火薬の匂いと燃えさかる炎の熱を感じ、急に悔恨の痛々しい思いが一陣の風のようにジョージの身内を通過した。
「拾っておいたの」
ジョージに覆いかぶさりながら、ヴェロニカがポケットから取り出したものが、月光にきらめいた。エミールのメダルだった。
「忘れてしまったかと・・・」
メダルを受け取った時、ジョージはヴェロニカの指が黒く焦げていることに気付き、焼けた指に口づけした。ヴェロニカが顔を赤らめた。
22
寝間着から黒衣の聖職服に着替える間、ジョージの意識は朦朧としていた。血で描かれた卑猥な言葉で埋め尽くされた石造りの壁や暗闇の間から、さまざまな魔物が顔を出しているように見え、地獄の声が耳を突いた。
ジョージの足元でブーツの紐を結んでいたヴェロニカが立ち上がりながら言った。
「スープに入ってる薬のせいよ。万が一、逃げ出そうとしても、薬で引き起こされる幻覚や幻聴のおかげで、診察所から出たくなくなるの」
ジョージは「つッ!」と唸り、右手の指先が爆発するのを感じた。親指から、ぷくりと赤い血が盛り上がった。ヴェロニカが手にしていたスティレットで傷をつけたのだ。
「それと、これはあなたが持ってて」
ヴェロニカがジョージの手に押し付けたのは、小さな聖水のアンプルだった。
突然、教会の内部を照らし出ていたロウソクがふっと消えた。ジョージはヴェロニカの視線が動くのを見て、その後を追った。教会の最奥はほとんど壁一面に嵌め殺しの大きな窓が開いていた。全て割られたガラスに差し込んでくる月光を背景に、何かが浮かんでいるのをジョージは見た。
「おおーっ、神父殿ではないか!」とゼルマ。
「物騒なお人だこと!」とマティルデ。
「自分の拳銃のみならず愛しの貴婦人を見つけたというわけね!」とギーゼラ。
「生意気な売春婦をね!」とゼルマ。
怒気を含んだ笑い声が上がった。魔女たちは教会の天蓋から、まるでコウモリのようにぶら下がっている。修道女が3人しかいないことに気付いた。ベルタがいない。
ジョージは銃を抜いた。
「銃をしまって」と言って、ヴェロニカはジョージを見たが、ジョージは銃を向けたままだった。
「おや、ごらんよ、ヴェロニカが泣いてる!」とマティルデ。
「修道服を脱いじまったよ!」ギーゼラが言った。「戒律を破ったんで泣いてるんだ」
「どうしたんだい、その涙は?可愛い子ちゃん」とゼルマ。
「私の火傷した指に口づけをしてくれたからよ」ヴェロニカは言った。「生まれて初めて口づけされたわ。それで泣いてるの」
「おおーっ!」
「すっばらしーい!」
「お次は、ナニを身体の中に突っ込まれるよ!」
ジョージが持っている回転式拳銃は、エメリカ帝国陸軍制式拳銃E.E.AⅣとほとんど外見が変わらない。魔女たちも、そう認識したに違いない。だが、外形こそ同じだが、ジョージの拳銃は連射で狙撃できるダブル・アクションだった。
掃射して3人の額に命中させることは可能。しかし、ジョージの拳銃は撃鉄を起こすために、トリガーを重くしてあり、命中精度が悪くなることは確実。
《ばらまいて祈るしかない・・・!》
そういったことを瞬時に考えて、ジョージは今からそれをやろうとしていた。深く息を吸い、吐き出してから、ヴェロニカを見た。魔女たちの双眸が爛々と輝いた瞬間、ジョージは叫んだ。
「祈れ、ヴェロニカ、謳え!讃えよ、謳え、聖母の愛を!」
暗闇の中で、ジョージはぼやけて見えるほど速く拳銃を動かし、その場に立ったまま引き金を絞った。ゼルマの鼻に狙いが定めた刹那、煙と炎を上げ、1発が銃身を離れた。その一撃の結果も確かめず、ためらうことなく、ジョージは右から左へ掃射した。
「神よ、天地の万物の主よ」ヴェロニカが唱える。「これらが用いられるところより、あらゆる不幸の力、あらゆる悪の迷妄と手管の追い払われんことを。我らが救い主の為に」
青い炎を上げて、硬い床に墜落したのはマティルデだった。頭上で魔女の屍衣が風に煽られてはばたく音を聞きながら、ジョージはすばやく次弾を装填し、闇を疾駆する残りの魔女に狙いを定め、引き金を絞った。
ギーゼラは右脚を吹き飛ばされ、木製の長椅子を押し潰しながら床に転がった。ゼルマは左の脇腹を貫かれ、祭壇の上に落下した。
「涙の日、罪人が裁きのために灰より蘇りし日なり」ヴェロニカは言った。「主よ、赦したまえ。慈悲深き主よ、彼らに安息を与えたまえ」
ジョージはまずギーゼラの頭部を撃ち抜き、祭壇に近づいた。ギーゼラの亡骸から上がる青白い火を背景に、ゼルマの顔に怯えの色が走るのが見えるように伝わってきた。
「撃てるものか・・・」ゼルマが掠れた声で言った。「弾はすでに・・・」
「残りの弾は全てお前の胸に」
ジョージは弾が切れるまで、引き金を絞り続けた。ヴェロニカが押し黙った。修道女たちの呻き声が枯れ木を通過する冷たい風のように聞こえた。
23
「お前は神の使徒なんかじゃない。姉の復讐をしてるだけだ。ジョージ・ロトフェルス」
ベルタが影の中から現れた。皺だらけで肉の弛んだ顔を包んで覆っている汚らしい頭布の中で、黒い双眸が凝視している。眼は腐った木の実のようだった。その下で、笑みらしきものによって、4本の大きな門歯がきらりとあらわにされていた。
屍女は、大地に漂うように2人に接近した。ジョージに鋭い視線を投げ、「それをしまいな」と言った。
「祝福を受けていなかったり、ある種の聖水に浸されてなければ、私のような眷属に何ら害を及ぼすにはいたらん。というのも、私は実体というよりも影に等しく・・・にも関わらず、あらゆる点で、そなた自身と等しい生身の力を持っているのだ」
ベルタはどのみち、ジョージは撃とうとするだろうと思った。そのことをジョージは相手の眼の中に読み取った。その銃がお前の全て。ベルタの眼はそう語っていた。
「安心しろ。弾はもう無いんだ」ジョージはリボルバーをホルスターに落とした。「神の銃弾が無くとも、お前を地獄の淵に追放してやる・・・!」
ジョージは首に巻いていたエミールのメダルを掌に握り込み、十字を切る。ベルタは驚愕の悲鳴を発しかけたが、すぐにそれは途切れた。ジョージが精神エネルギーのフィールドから放射した《触手》がベルタの喉を締めつけ、悲鳴を途中で押し殺したからだ。
《触手》を通して感じるベルタの肉の感触はおぞましかった。這って逃げ出そうとするかのように、下で多様に蠢いた。ジョージはさらに精神力を集中させ、喉をさらに強く締めた。
突然、青い閃光がジョージの脳裏に起こった。衝撃を受け、《触手》がベルタの首から離れた。一瞬、眼が眩んだ状態で、相手の灰色の肉に刻まれた大きな溝を見た。続いて、背後に投げ飛ばされた。背中を硬い床に打ち付け、後頭部を長椅子の手すりに強打し、2度目の閃光を見た。
「だめだよ」ベルタはしかめ面をし、濁ったおぞましい眼で笑いながら言った。「私の喉の渇きを癒すために身体中を切り刻んでやるよ。その前に、この修道女の誓願を破った娘をいただこう・・・」
「やれるものなら、やってみなさい」ヴェロニカが震える声で叫んだ。
ベルタの歪んだ笑いが失せた。「できるとも」息を吸い、口を大きく開いた。月光の下、歯肉から出た牙がきらめく。「できるとも。そして―」
その時、天蓋で唸り声が起こった。やがてそれは、唸るような吠え声に変わった。ベルタは頭上を向いた。吠える何かが、嵌め殺しの大きな窓から跳び上がった。ジョージはベルタの顔に当惑の色が現れるのをはっきりと見た。
それはまっすぐにベルタに襲いかかった。月光を背景に、四肢を広げた黒い影はまるで不気味なコウモリを思わせた。それがベルタの胸に激突し、しっかりと相手の喉に歯を食いつかせた。ジョージは黒い影の正体と見た。町の広場で見かけた濃い灰色の大きなオオカミだった。
ジョージは喘ぎ、ふらつきながら、どうにか立ち上がった。
「スティレットを」ヴェロニカに言う。「一緒に唱和してほしい・・・!」
ベルタはとぎれとぎれの絶叫を上げていた。オオカミは前脚でベルタの頭を挟み、後ろ脚を屍衣に包まれた胸に植え付けて、ベルタの頭を引き裂こうとした。
「大天使ミカエル、霊魂を損なわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、天なる主の御力により地獄に封じ込めたまえ!」
ジョージはアンプルを開け、聖水をスティレットに振りかける。祈りは光となって刃に宿り、不浄を断つ力が短剣に与えられたことを示した。
「おお、主よ。堅牢なる砦となり、悪に相対するとき」ジョージが言った。
「我が叫びの御前に至らんことを!」
ヴェロニカが叫んだ瞬間、ジョージは渾身の力を振り絞って、スティレットをベルタの胸元に投げた。スティレットがベルタの心臓を貫き通した瞬間、この世のものとも思えぬようなすさまじい悲鳴が響き渡り、立ち尽くすジョージたちの前でベルタは青白い炎を上げて燃え上がった。
ベルタは一片の欠片も、灰も残さずに燃え尽きた。黒く煤けて床に転がるスティレットだけが残された。
オオカミは祭壇の上にいた。ヴェロニカが驚いたことに、ジョージはその場に両膝を突いた。両手を組み、主への祈りと犠牲者たちへの慈悲を請いた。
「主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ。主よ、我が祈りを聞き届けたまえ。すべての肉体は汝がもとに還らん。主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光で導きたまえ」
オオカミは吠えた。その吠え声は高らかに天蓋を響き渡った。ジョージには主の福音のように聞こえた。
ジョージは顔を上げた。オオカミはすでに姿を消していた。
エピローグ
「シスター・ゲンスブール」
祭壇に祈りを捧げていたヴェロニカは声を掛けられて、背後を振り向いた。修道女長の隣に、聖職服を着た長身の男が立っている。ジョージ・ロトフェルスだった。
ジョージとヴェロニカは、修道院の裏手にある小道を歩いた。シビウ山脈のルゴシ村で起こった「神隠し」から、数週間が経った初夏の日だった。事件後、ヴェロニカはエリアスバーグ郊外の修道院に身を寄せていた。
「《6人目の花嫁》が、ようやく分かったよ」
ヴェロニカが頭を上げてジョージにきいた。
「《6人目の花嫁》?」
「地獄の侯爵イブリスを崇拝していた『串刺し王』ラヨーシュⅢ世は一夫多妻制を採ってた人物で、肖像画にも5人の花嫁と一緒に書かれてる物が有名だ。花嫁の名前はそれぞれベルタ、クリスタ、ギーゼラ、ゼルマ、マティルデ。ところが、ラヨーシュⅢ世の宰相バルグライが残した回想録によると、《6人目の花嫁》がいたことになってる」
「それで?」
「なぜ、《6人目の花嫁》の存在が消されたのか?それは《6人目の花嫁》が隣国のスパイだったからだ。《6人目の花嫁》は国防や経済だけでなく、ベッドの中でのラヨーシュの振る舞いさえ漏らした。裏切りに気付いたラヨーシュは彼女を処刑したが、時すでに遅し。《花嫁》から情報を得た隣国は、ラヨーシュが統治する国の最も弱い国境線に侵攻。それに合わせ、宰相バルグライがクーデタを起こした。ラヨーシュと花嫁たちは逮捕。即決裁判で処刑が確定され、王と5人の花嫁の遺体は居城の中庭に3日間吊るされた」
ジョージはヴェロニカに顔を向けた。
「君も誰かに操られたスパイというわけだ。さしずめ、ピジクス枢機卿じゃないのかな?シスター・ヴェロニカ」
ヴェロニカは苦笑を浮かべた。
「やっぱり、あなたは何でもお見通しだったのね。聖ヴィッサリオン」
「ぼくを助けることが任務?」
「いいえ。青薔薇救世会がイブリスを崇拝し、黒ミサをした廉で教皇府が異端と見なした時に、ピジクス枢機卿から『救世会に入って、《モグラ》になってほしい』と頼まれたの。あわよくば、青薔薇救世会の解体」
ジョージはうなづいた。
「いかにも、あの人らしい」
「私にも教えて欲しいことがあるわ」ヴェロニカが振り向いた。「あのオオカミは何だったの?あなたは知ってる―そう顔に書いてあったもの。オオカミはどうしてベルタを襲うことが出来たの?とりわけ、あの魔女たちには動物を支配できる力があるのよ。特に、ベルタは強大な力を持ってた」
「あいつには効かなかったんだ。ぼくはあいつを広場で見かけた。《灰色の民》に気絶させられ、修道女に囚われる前に。あのオオカミはルゴシの魔女たちを恐れなかったし、どういうわけか、自分でも恐るに足りずと分かってたんだ。あいつは胸に主の徴をつけている。白地に黒の十字架だ。想像するに、それは生まれついての偶然にすぎない」
「わからないわ」ヴェロニカは囁いた。「どうして、あいつはやって来たの?どうして、ベルタを襲ったの?」
「主の気まぐれだ」
「ジョージ、私には分からないわ」
ジョージは昨夜、オオカミの夢を見た。そいつは広大な風景を吠えながら横切っていた。夢の中で、ジョージは跡をつけた。オオカミが何に対して興奮しているのかを見た。開けた平原の遥か果てに、神殿が聳え立っていた。沈んでいく夕日の鈍い橙色に縁どられた煤けた石塔を無数の不気味な窓が螺旋状に取り囲んでいる。オオカミは立ち止まり、遠吠えを始めた。
気がつけば、ジョージは都会の喧騒の中にいた。ヴェロニカは別れ際、こう言った。
「また会えるかしら?」
街を闊歩する平穏な顔をした人々のすぐ背後に、闇の手先がそこかしこに潜んでいる。ジョージは心の中で銃を構え、ある聖女の助力を請いた。
「聖ヴェロニカ、あなたが望むならば」