〇偉大なる都市
中央軍集団がモスクワへの攻勢を準備していた頃、南方軍集団では全く方向の異なった2つの攻勢が並行して行われていた。1つはドネツ地方からドン河下流の制圧を目的とする第1装甲集団と第17軍の主攻勢であり、もう1つは第11軍による黒海に突き出たクリミア半島の占領であった。
ソ連南部から黒海に突き出たクリミア半島は、その昔から戦略目標として重要視され、幾度も戦乱の舞台となっていた。この時もヒトラーは、クリミア半島がルーマニアの油田地帯に対するソ連長距離爆撃機の出撃地点になると考え、8月12日付けの「第34号追加指令」において同地域を担当する第11軍に一刻も早く半島全域と要塞を占領するよう要求していた。
9月12日、第56装甲軍団司令官マンシュタイン大将は、上官である第16軍司令官ブッシュ上級大将から緊急連絡を受け取った。その内容は「南方軍集団に出頭して、第11軍の指揮権を継承せよ」というものだった。
9月17日、北方戦線から離れたマンシュタインは第11軍司令部が置かれたニコラーエフに到着し、正式に司令官に就任した。さっそく現場を視察したマンシュタインは、攻撃の困難さをひそかにかみ締めていた。
皇帝エカチェリーナⅡ世がロシア領に併合した1783年に「偉大なる都市」と命名されたセヴァストポリは帝政ロシア海軍の指定軍港に指定され、1825年には当時、「世界最強」と謳われた難攻不落の要塞が建造されていた。さらに半島と大陸を繋ぐのは、幅わずか7キロのペレコプ地峡と、東部にある「シュヴァシュ(砂州や沼地のような海岸)」に架けられた鉄道橋だけだった。
そこで、マンシュタインはロストフ正面のノガイ草原には第30軍団とルーマニア第3軍を配置し、残る2個軍団(第49・第54)でペレコプ地峡に突入させ、数少ない自動車化部隊の機動力を活かして、半島に潜むソ連軍を要塞に逃げ込む前に殲滅する作戦を、麾下の指揮官たちに示した。
9月24日、第54軍団はペレコプ地峡に向けて攻撃を開始した。しかし、タタール人が築いた壕を利用した奥行き数キロの陣地帯に立てこもるソ連第156狙撃師団(チェルニャーエフ少将)が必死の防戦を展開したことで、陣地の攻略は困難を極めた。3日間に渡る激戦の末、ついにソ連軍は約1万人の捕虜を出して南へ後退した。ところが、マンシュタインの計画を大きく狂わせる事態が出来した。
9月27日、ソ連南西部正面軍(リャブイシェフ中将)は第9軍(ハリトノフ少将)と第18軍(スミルノフ中将)に対して反撃を命じ、ルーマニア第3軍の薄い防衛線を迅速に突破していた。マンシュタインは急きょ第49軍団の2個師団を前線から割き、SS自動車化歩兵旅団「LAH」も支援につけてノガイ草原に派遣させた。
このマンシュタインの迎撃に呼応するように、10月4日にサポロジェからドニエプル河を押し渡った第1装甲軍(10月5日、第1装甲集団より昇格)は南東へと進撃し、10月7日にはアゾフ海沿岸のオシペンコに到達した。ソ連南部正面軍の反撃を撃退することに成功したが、南方軍集団司令部からノガイ草原に派遣した第11軍の一部を第1装甲軍に譲渡するよう命じられ、マンシュタインはセヴァストポリ要塞へ突進させる兵力を半減させられる形となってしまった。
一方、モスクワの「最高司令部」は9月29日、黒海艦隊司令官オクチャブリスキー中将の提案に同意を示し、10月1日からオデッサを防衛する独立沿海軍(ソフロノフ中将)の撤退作業を開始するよう命じた。
ペレコプ地峡に対するドイツ第11軍の総攻撃が9月24日に開始されたのを見て、オクチャブリスキーはもはや戦略的価値を失くしたオデッサの防衛に貴重な兵力を全滅させるより、黒海最大の要塞港セヴァストポリの防備に回した方が得策であると判断したのである。
黒海艦隊は10月1日から16日までの約半月間で、軍人および軍属8万6000人と民間人1万6000人をオデッサからセヴァストポリおよび黒海東部の諸港に運び出すことに成功した。そして、この内の3個狙撃師団(第25・第95・第421)と1個騎兵師団、火砲462門、戦車24両、航空機23機、弾薬1万9000トンがセヴァストポリ要塞へ海上輸送され、独立沿海軍司令部も移設された。
クリミア半島全域を防衛する第51軍(クズネツォーフ中将)は独立沿海軍の指揮下に入り、独立沿海軍司令官には第25狙撃師団長ペトロフ少将が昇格され、セヴァストポリ要塞の防御力は飛躍的に強化されたのである。
〇ドネツ地方の制圧
第1装甲軍と第17軍による主攻勢ではハンガリーおよびスロヴァキア両軍に加えて、重要な枢軸国であるイタリア軍も参加していた。イタリア第35軍団(ジンガレス中将)に所属する3個師団は1941年7月に「イタリア軍ロシア遠征軍団(CSIR)」と改名され、8月から南方軍集団の指揮下に入っていた。
一方、第1装甲軍の第14装甲軍団は9月末にキエフ包囲戦の任務を終え、南方軍集団司令部から下された「訓令第9号」に従い、カフカスへの玄関口であるロストフへの作戦を開始した。第14装甲軍団はすでに8月25日、工業都市サポロジェにおいてドニエプル河に橋頭堡を確保していた。
9月26日、第14装甲軍団はドニエプロペトロフスクの北東約20キロに位置するノヴォモスコフスクからドニエプル河を押し渡り、ドニエプロペトロフスクの橋頭堡から北に転じた第3装甲軍団と協同して29日に新編されたソ連第12軍(ガラーニン少将)の3個師団を包囲することに成功した。
10月4日、第3装甲軍団の第14装甲師団はアゾフ海に向けて南進し、ノガイ草原で第11軍の反撃を実施していたソ連第9軍と第18軍の背後を切断し、第11軍からの増援部隊と協同して包囲・殲滅することに成功した。6万5000人の捕虜を西方へ送り、212両の戦車と672門の火砲を破壊または鹵獲した。この時、第18軍司令官スミルノフ中将は戦死してしまった。
一方、この失策を重く見たモスクワの「最高司令部」は10月6日にリャブイシェフを南部正面軍司令官から罷免し、後任にはチェレヴィチェンコ大将が昇格された。しかし、司令官の首を挿げ替えたところで、再び防衛線に大穴が穿たれた南部正面軍に、それを塞ぐ手立ては何も残されていなかった。
10月14日、第1装甲軍の先鋒を担う第3装甲軍団はタガンログを占領し、要衝ロストフまで約70キロの地点に到達した。その北翼では、第14装甲軍団が第49軍団とイタリア軍ロシア遠征軍団(メッセ中将)に支援されて、ドネツ工業地帯の中心都市スターリノを20日に占領することに成功していた。
第1装甲軍の北翼では、第17軍の第4軍団が10月11日にハリコフ南方のロゾヴァヤを占領した。キエフ包囲戦の処理を終えた第6軍の所属部隊も10月上旬から前線に追随できるようになり、第6軍の第17軍団はソ連第38軍(ツィガノフ少将)が防衛する工業都市ハリコフを10月25日に占領することに成功した。
10月20日、戦況の推移を受けて、南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は「訓令第10号」を発令し、南方軍集団の進出予定戦をスターリングラードに近い位置まで東へ湾曲して流れるドン河西岸に設定した。これは「バルバロッサ作戦」の基本計画に表れていた「アストラハン=アルハンゲリスク」ラインを意識していたものだった。
クルスクからアゾフ海に至る約550キロの戦線を平押しで東へと突進した南方軍集団は10月28日までに、第1装甲軍の主力部隊がミウス河に到達していた。だが、この頃になると、南方軍集団の各部隊で物資や弾薬の補給が急速に悪化し始めていた。さらに「泥濘期(ラスプーティツァ)」が到来し、南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は全ての攻撃を停止するよう命じざるを得なくなった。
南西戦域司令官ティモシェンコ元帥と評議員フルシチョフは「泥濘期」に救われた形で防衛態勢の立て直しに必要な時間を稼ぐことが出来た。カフカスから援軍を呼び寄せ、崩壊した軍を再編して、ロストフの防衛を担う南部正面軍にぞくぞくと配置した。
〇包囲
ドイツ北方軍集団の進撃は8月中旬、ソ連北西部正面軍のスタライヤ・ルッサにおける反撃によってレニングラードへ突進させる装甲兵力を削らされる結果となった。この状況を危惧したヒトラーは北方軍集団の戦力を増強させるため、8月15日に中央軍集団の第3装甲集団に所属する第39装甲軍団を転属させるよう命令を下した。
この命令により、第3装甲集団は第39装甲軍団の他に第57装甲軍団の第19装甲師団(クノーベルスドルフ少将)も北方軍集団の第2軍団に分派されることになり、「総統指令第21号」および「総統指令第34号」に示された通り、レニングラード攻略の支援に振り向けられる形となった。
一方、レニングラードを防衛するソ連軍の内部では、8月末から9月初旬にかけて指揮系統の大幅な見直しが行われていた。まずレニングラード一帯の正面軍を統轄する上級司令部であった「北西戦域司令部」は8月27日で解消され、スターリンは北西戦域司令官ヴォロシーロフ元帥を9月5日付けでレニングラード正面軍司令官に格下げさせた。
また、モスクワの「最高司令部」は8月31日、レニングラード南方のクラスノグワルジェイスクとその周辺の陣地帯を守る兵力として、第42軍(イワノフ中将)と第55軍(ラザレフ少将)を創設するようレニングラード正面軍司令部に命じた。また、スタライヤ・ルッサで敗北を喫した第48軍司令部が再編され、レニングラード東方に位置する鉄道の要衝ムガに配置された。
これまでのソ連軍の度重なる退却は、レニングラード市民の士気を大いに失わせていたが、ドイツ軍もまた作戦方針の変更や秋雨による泥濘によって、2週間の周期で度重なる攻撃中止を被っていた。
モスクワから派遣された評議員ジダーノフはそのことによって出来た時間を利用して、市民に抵抗を呼び掛けていた。防衛施設の建設には老若男女を問わず、あらゆる民間人が総動員され、昼夜兼行で市の周辺に約2万8760キロの塹壕を掘り、約676キロの鉄条網を張り、トーチカは木造を含めて五千余りを構築した。
8月29日、中央軍集団から分派された第39装甲軍団は第16軍の第28軍団(ヴィクトリン大将)と共に機動集団を編成し、レニングラード南東のノヴゴロド付近で、ラドガ湖に向けた新たな攻勢を開始し、同日のうちにムガを攻略した。
9月8日の早朝、ムガを攻略した第二〇自動車化歩兵師団はソ連第四八軍(アトニューク中将)を壊滅させ、ラドガ湖とフィンランド湾を結ぶネヴァ河の商都シュリッセルブルグを占領した。これにより、レニングラードと内陸部を結ぶ鉄道と陸路を完全に封鎖され、形式上は包囲が達成された。
第3装甲集団の動きに応じて、北方軍集団の第4装甲集団はエストニアをから進撃する第18軍が追随するのを待った後、レニングラードの占領を見据えた最終攻勢の準備を進めていた。最終攻勢の開始日は9月9日と定められた。
9月4日、第4装甲集団の総攻撃に先立ち、レニングラード南東のトスノ地区に展開した砲兵陣地から市街地に対する長距離砲撃を開始した。当日は霧に覆われ視界が悪かったが、240ミリ重砲から放たれた砲弾がヴィテブスク貨物駅やダローニン工場、食料を備蓄するバターエフ倉庫、第五水力発電所などに直撃し、市民にも犠牲者が出た。
9月8日、第4装甲集団によるレニングラードへの最終攻勢が開始された。ラドガ湖西方に開いていた狭い回廊を、第41装甲軍団の第1装甲師団と第36自動車化歩兵師団は第18軍の第38軍団(チャップイス大将)に支援されながら突進した。さらに同日の夜には、第1航空艦隊によるレニングラード市街地への大規模な空襲が実施され、大型爆弾と焼夷弾によって市内の至る所が焼き尽くされた。
9月11日、第1装甲師団は3日間に及ぶ白兵戦の末、幾重もの塹壕が張り巡らされたドゥーデルゴフの丘とその周辺の高地を占領した。市街地の外縁から南西約15キロの地点だった。11時半、ある兵士が丘の頂上から師団司令部に無線で報告した。
「ペテルブルクと海が見えます」
レニングラード正面軍司令官ヴォロシーロフ元帥は独裁者の譴責を恐れて、シュリッセルブルクが占領された事実をモスクワへ報告しなかった。この重要な事実を別ルートから聞いたスターリンは指揮官としてのヴォロシーロフの能力に見切りをつけ、9月12日に予備正面軍司令官ジューコフ上級大将にレニングラードへ向かうよう命じた。
〇強権
9月13日の早朝、ジューコフは腹心の部下であるホジン少将とフェデュニンスキー少将を引き連れて、モスクワ・ヴヌコヴォ空港から輸送機で飛び立った。そしてレニングラード市共産党本部内に置かれた正面軍司令部を訪れ、前任者のヴォロシーロフにスターリンからの命令書を突きつけた。
「レニングラード正面軍の指揮権を新司令官ジューコフに譲渡した上で、貴官は即座にモスクワへ出頭せよ」
レニングラード正面軍司令官に着任したジューコフはさっそく、正面軍司令部の人事刷新と将兵の士気高揚を目的とした「強権」を発動した。まず参謀長にはホジンを任命し、副司令官にフェデュニンスキーを任命してドイツ軍に防衛線を破られた第42軍司令部に派遣した。
レニングラード正面軍に所属する指揮官たちの中にも市民と同じように、度重なる撤退から士気が低下し消極的な態度を取る将校が少なからず存在した。第42軍司令官イワノフ中将もその1人で、その事実をフェデュニンスキーから聞かされたジューコフは即座にイワノフを罷免し、後任の司令官にフェデュニンスキーを任命した。
さらにジューコフは9月17日付の命令で、断固とした方針に基づく防衛線の死守を全将兵に命じ、戦意に欠けると見なされた将兵は容赦なく銃殺刑に処された。そして漫然と防衛していただけでは敵のレニングラードへの突入は防げないと考えたジューコフは積極的な反撃を実施してドイツ軍を停止させるという方針を打ち出した。
ジューコフが立案した反撃計画の内容は、第42軍(フェデュニンスキー少将)がドイツ軍の主攻勢をひきつけている間に、第8軍(シチェルバコフ少将)がオラニエンバウム方面から敵の北翼を叩くというものだった。
この反撃は9月14日に実施される予定だったが、第8軍司令官シチェルバコフ少将は部隊の消耗と弾薬不足を理由に予定期日の反撃実施は不可能と報告した。この報告を聞いて激怒したジューコフはシェルバコフを罷免し、第8軍司令官をシェヴァルディン中将と交代させた。
9月15日、歴代ロシア皇帝の保養地であったクラスノエ・セロから出撃した第41装甲軍団の第1装甲師団と第36自動車化歩兵師団はプルコヴォの高地帯に到達し、市を守る最後の防衛線を突破することに成功した。
市街地までわずか5キロ地点に到達したことにより、第4装甲集団の将兵たちは占領を目前にして士気を高揚させたが、その一方で第3装甲集団を転進させてからわずか2週間あまりの間に、ヒトラーは再び北方での作戦方針の変更を行っていたのである。
ヒトラーは9月6日に「総統指令第35号」を発令したが、それは「バルバロッサ作戦」発令時にレニングラードを「早期の占領を前提とする重要戦略目標」としていた方針を明確な説明も無いまま、突如として捨て去るような内容だった。
「北方軍集団戦区では、フィンランド軍と連携してレニングラード包囲陣を完成させ、遅くとも9月15日までに、第4装甲集団と第1航空艦隊、とりわけ第8航空軍団の大部分を、中央(モスクワ攻勢)の正面で使用できるようにすること」
9月10日、陸軍総司令部は北方軍集団司令部に「第41装甲集団を良好な状態で中央軍集団に転属させよ」との命令を下達した。その2日後には第41装甲軍団の将兵に対して、攻勢を中止する旨の命令が下された。
「レニングラードは占領せず、単に包囲するに留める」
第41装甲軍団長ラインハルト大将は陸軍総司令部に対してレニングラードへの攻勢を継続させてくれるよう訴えたが、「赤い首都」モスクワへの攻勢を最優先すべきと考えるハルダーとブラウヒッチュはヒトラーの方針を支持していた。その結果、第4装甲集団に所属する各装甲師団は9月15日以降、段階的に戦線を離脱して後方で再編成を行い、モスクワ攻勢に向けた準備を開始した。
9月19日の夜、レニングラード正面軍情報部長エヴスティグネーエフ准将は、前線からの情報を総合するとドイツ軍の装甲部隊が前線を離脱して他の戦域に転出した模様と、ジューコフに対して報告した。
ジューコフはこの報告を敵の欺瞞情報ではないかと疑い、積極的な反撃を行うとする防衛の基本方針を変えなかった。この日、第8軍(シェヴァルディン中将)による反撃を予定通り実施させ、ドイツ第18軍の第38軍団は防御へと転じざるを得なくなった。
レニングラードはヒトラーの方針転換によって占領されぬまま、以後「900日」に及ぶ悲惨な包囲戦を繰り広げることになったのである。