〇攻撃再開
北方軍集団は6月28日、第4装甲集団が西ドヴィナ河のドヴィンスクとヤコブシュタットに橋頭堡を確保したことにより、レニングラード攻略の第1段階を達成していた。
6月29日、第4装甲集団司令官ヘープナー上級大将は麾下の装甲部隊に対し、進撃の一時停止と現状維持を命じた。援護のための歩兵部隊と燃料補給のトラックを待つためであった。
ドヴィンスクを占領されたことにより、北西部正面軍司令官クズネツォーフ大将は参謀長クレノフ中将と共に6月30日付けで解任された。後任の北西部正面軍司令官には第8軍司令官ソベンニコフ中将が昇格する形で就任し、参謀長にはモスクワから参謀総長第一代理ヴァトゥーティン中将が転任された。
7月2日、第4装甲集団の南翼を進む第16軍の第121歩兵師団(ランケーレ少将)が西ドヴィナ河に到達したことを受け、ヘープナーはレニングラードへの攻撃を再開するよう麾下の装甲部隊に命令した。
このとき、ヘープナーは第41装甲軍団をドヴィンスクからレニングラードを最短距離で通じる街道上に直進するよう命じた。当然、待ち構えていると予想されるソ連軍の大兵力を牽制しながら、ペイプス湖に流れるヴェリカヤ河をプスコフとオストロフで渡河することが目標とされた。56装甲軍団は第41装甲軍団の南翼に当たる敵の防備が脆弱と思われる側面を援護しつつ、敵の背後に突進させる。最初の目標は、セベジとオポチカの占領であった。
7月4日、第41装甲軍団の第1装甲師団(キルヒナー中将)は南部からオストロフの市街地に突入し、ヴェリカヤ河に橋頭堡を確保することに成功した。その南東30キロの地点からは、第6装甲師団(ランドグラフ少将)が旧国境線に設けられた「スターリン・ライン」の背後に進出した。
7月5日、第3戦車師団(アンドレーエフ大佐)が1日遅れで、KV1とKV2を先頭に北部から交通の要衝オストロフの奪還に乗り出した。この反撃は航空偵察で事前に把握されていた。第41装甲軍団はソ連軍の強力な重戦車による反撃を対戦車砲によって辛くも凌ぐ結果となった。
7月7日、第6装甲師団はオストロフ北方のプスコフへの進撃を開始した。第36自動車化歩兵師団(オッテンバッヒャー中将)は激しい市街戦の末、同月9日にプスコフを占領した。
この事態を受けて、北西部正面軍は各地で突破されたヴェリカヤ河の防衛線を放棄して、ルガ河流域の新たな防衛線へ撤退した。ルガ河はレニングラードへの敵の進撃を食い止める最後の天然障害だった。この防衛線の構築には、約3万人のレニングラード市民が北部正面軍(レニングラード軍管区より改組)によって動員され、地雷の敷設、塹壕や対戦車壕造りに従事していた。
ピョートル大帝が1703年に築いた壮麗な都市レニングラードは国境を接するフィンランドからも、まるで万力で締めるように南北から包囲されようとしていた。
フィンランドは去年の「冬戦争」における講和を仮のものとし、失った領土を取り戻すために「冬戦争」を継続する思惑を抱いていたが、6月22日に開始した独ソ戦に対しては「中立」の立場を表明していた。ところが、ヒトラーは開戦当日、「ドイツとフィンランド両国は共同して北極圏内のフィンランド領の防衛態勢を完了している」との声明を発表した。このヒトラーの声明に対し、クレムリンはフィンランドが枢軸陣営に入ったとの印象を抱いた。
6月25日、ソ連空軍は首都ヘルシンキやトゥルクなどの諸都市を爆撃した。この事態にフィンランド政府は翌26日、ソ連に宣戦布告を行った。フィンランド軍(マンネルハイム大将)は「継続戦争」の準備に着手し、ラドガ湖の西と北で失地回復作戦を行うためにカレリア軍(ハインリクス大将)を新設した。
7月10日、カレリア軍の2個軍団(第6・第7)がラドガ湖の北方から進撃を始め、第7軍(ゴレレンコ中将)の戦線を大きく押し返した。
7月14日、フィンランド第2猟兵旅団は国境から60キロの地点に進出した。
7月31日、ラドガ湖の西方からフィンランド軍の2個軍団(第2・第4)がレニングラード北方の地峡に向かって進撃を開始し、国境地帯を守る第23軍(プシェンニコフ中将)の防衛線を果敢に突破していった。
〇ルガ攻防戦
順調な進撃を続けていた第41装甲軍団に対し、第56装甲軍団の進撃は想定に反してあまり芳しいものではなかった。その先の進路には密林と湿地が広がり、車両が通行できる満足な道路は存在しなかった。
7月4日の夜、第56装甲軍団長マンシュタイン中将は第4装甲集団司令官ヘープナー上級大将に対し、「第41装甲軍団から一部の部隊を支援のために割けないだろうか」と訴えた。しかし、このとき第41装甲軍団はソ連軍のKV1とkV2の反撃を受け、燃料・弾薬ともに不足していた。
戦況を総合的に判断したヘープナーはマンシュタインに対し、新たな命令を下した。その内容は、セベシ付近で防衛線を突破した第8装甲師団(ブランデンブルガー少将)を当初の目標であったオポチカではなく、オストロフの東方に突進させ、チュードヴォ付近でレニングラード=モスクワ街道を切断するというものだった。
一方、「最高司令部」は7月10日付けで北西部正面軍と北部正面軍を統括する「北西戦域司令部」を設立し、その司令官にヴォロシーロフ元帥が就任した。ヴォロシーロフは防衛の重点をルガ河上流に置き、第11軍にソリツィ付近で反撃に出るよう命じた。
7月14日の早朝、第21戦車師団(ブーニン大佐)の支援を受けた第11軍は、交通の要衝チュードヴォに迫ろうとする第56装甲軍団に襲いかかった。不意の反撃によるパニックと兵力差を活かして、ソ連軍は第8装甲師団を包囲することに成功した。その西方では第3自動車化歩兵師団の背後を遮断しようとしていた。
この危機的状況に、マンシュタインは第8装甲師団にソリツィを放棄して南へ脱出するよう命じ、空軍に補給物資の空中投下を要請した。包囲戦は4日間に渡って続き、SS師団「髑髏」(クラインハイスターカンプ大将)が救援に到着したことで、第56装甲軍団は壊滅の危機を脱した。
7月10日から進撃を始めた第41装甲軍団は、当初の計画通りレニングラード街道を直進してルガを突破しようとしていた。ソ連軍の反撃は微々たるもので、第41装甲軍団長ラインハルト中将はソ連軍の背後から装甲部隊を進出させようとすると、先鋒から部隊が湿地帯に突入してしまい、走行が不可能であると報告がなされた。
ルガとその南方には、ソ連北西部正面軍副司令官ピャドィシェフ中将が機動集団を配置しており、ドイツ軍を湿地に囲まれた見通しの悪い森林へと誘い込んでいた。そして、この作戦を破壊工作の訓練を受けた共産党員のゲリラ部隊(4個大隊)が支援していた。ソ連軍の頑強な抵抗に遭遇した第41装甲軍団は7月12日、サポリエ~プリューサの線で停止に追い込まれてしまった。
この戦況に、ヘープナーは時間の浪費を避けるべく、作戦の見直しを始めた。航空偵察によって、ソ連軍はルガ河に沿ってルガの市街地を要塞化していたことが判明した。しかし、同様に北翼のルガ河下流には敵の兵力が少なく、防御陣地の構築もまだ進んでいないことを確認できた。
ヘープナーはラインハルトに大規模な北への転進を行い、ルガ河下流のサブスクとポレチエを占領するよう命じた。攻勢の最中だった装甲部隊は約180キロの強行軍をただちに開始し、沼沢地に造られた粗末な「丸太道」を突進した。
7月14日、第41装甲軍団の2個装甲師団(第1・第6)はルガ河下流に到達し、サブスクとポレチエにそれぞれ無防備な対岸に橋頭堡を築くことに成功した。この地域へのドイツ軍の襲来はまだ先だと考えていたヴォロシーロフはショックを受け、ただちに投入可能な予備兵力をドイツ軍の橋頭堡に差し向けた。
このとき、ソ連軍の反撃の中核を担ったのは第2人民義勇兵師団(ウグリューモフ大佐)とレニングラード士官学校の学生で編成された2個中隊(ムーヒン中佐)であり、当然ながらその反撃はお粗末なものだった。ヴォロシーロフ自ら前線に立って指揮を執るも、ドイツ軍はルガ河の橋頭堡を守りきることに成功する。
レニングラードへの最後の障害を攻略した第4装甲集団は士気も高まり、さらなる進撃命令を意気揚々と待っていた。しかし、ヒトラーが7月19日付で下した「総統指令第33号」は、第4装甲集団に対し第16軍と第18軍の歩兵部隊が追いつくまで「停止」するよう求めていた。ヘープナーは上官である北方軍集団司令官レープ元帥に猛烈に講義したが、ヒトラーの決定が覆ることは無かった。
〇突破口の拡大
南西部正面軍は6月末にルーツク=ドゥブノ一帯で、ドイツ第1装甲集団に対する大規模な反撃を実施したが、失敗に終わってしまった。この結果を受けて、全部隊に対し撤退と再編を命じた南西部正面軍司令官キルポノス上級大将は6月30日、クレムリンから指令を受け取った。その内容は、旧国境線に設けられた「スターリン・ライン」まで撤退せよというものだった。
「スターリン・ライン」とは、1928年から段階的に構築されていたソ連西部の国境陣地帯のことであった。正面幅50~150キロ、縦深30~50キロからなる「設堡地帯」に、機関銃座や対戦車砲、回転砲塔などを地形に応じて組み合わせた複合陣地が、フィンランドから黒海に至る後方地帯に設置されていた。
キルポノスはこの命令に従い、プリピャチ沼沢地のコロステニからノヴォグラド・ヴォルインスキー、シュペトフカに至る線で新防衛戦を形成しようと試みた。しかし、ルーツク=ドゥブノから敗走した機械化軍団群は未だ混乱状態にあり、十分な防衛線を構築できるような余裕は無かった。そこで、キルポノスは後方から人員をかき集めて機動集団を編成し、応急処置のような形で防衛線を作り上げた。
一方、ドイツ第1装甲集団の両翼では、第6軍と第17軍に所属する歩兵師団がそれぞれ掩護しながら、湿地と山岳が広がる地形を東方へと突進していた。北翼では、第6軍の第17軍団(キーニッツ大将)がソ連第5軍を掃討しながら、7月7日にはロブノ北方のサルヌィを占領して第1装甲集団の側面をほぼ確保した。
南翼では、第17軍が6月末にようやくソ連国境線を突破し、退却するソ連第6軍(ムズィチェンコ中将)の第6狙撃軍団(アレクセーエフ少将)と第26軍(コステンコ中将)の第8狙撃軍団(スネゴフ少将)をドニエストル河下流に向かって追撃していた。
6月29日、第17軍の第1山岳師団(ランツ少将)と第71歩兵師団(ハルトマン少将)が、ソ連第6軍に所属する第4機械化軍団(ヴラソフ少将)が守る旧ポーランドの都市リヴォフに攻撃を開始した。弱体化していた第4機械化軍団にはなす術もなく、翌30日には同市を捨てて、第26軍とともに退却に転じた。
この最中、カルパチア山脈で国境に面していた「中立国」ハンガリーが6月27日、ソ連に対して宣戦布告を行った。バルドシ首相はその前日、ハンガリー北東部の街カッシャウを「ソ連軍の爆撃機3機が空襲した」ことに対する報復処置を行うという内容の演説を行った。
ハンガリーは当初から1940年に日独伊三国同盟に加盟するなど、ドイツ寄りの姿勢を示していたものの、国家元首のホルティはヒトラーにあまり好意を抱いていなかった。
しかし、ドイツ軍が緒戦の数日間で大きな戦果を上げたことにより、隣国のルーマニアが対ソ戦に参入すると表明した。この状況を受けて、バルドシ首相をはじめとする右派は「ドイツがルーマニアに対して好意的な感情を持つことは、ハンガリーにとって不利になるではないか」との懸念を示した。
ハンガリーとルーマニアは歴史的に何度も領土問題で対立してきた背景もあり、ホルティは対ソ宣戦布告を行うとする国会の決議を追認せざるを得なくなった。
そして、ソンバテルイ中将を指揮官とするハンガリー軍は7月9日、ドイツ南方軍集団の指揮下に置かれ、ソ連軍に対する軍事行動を開始した。
〇ジトミール攻防戦
ドイツ第1装甲集団の3個装甲軍団(北から第3・第48・第14)は6月末、ウクライナの首都キエフを最短距離で狙える地点としてジトミールを選び、シュペトフカから「スターリン・ライン」を突破してジトミールに迫ろうと進撃を再開していた。
7月4日、第48装甲軍団の第11装甲師団はシュペトフカの防御陣地に攻撃をしかけた。同地を守るのはソ連第16軍(ルーキン中将)の司令部を基幹とする機動集団(2個狙撃師団・1個機械化軍団の残存兵)のみで、瞬く間に防衛線を破られてしまった。後方から第7狙撃軍団(ドブロセルドフ少将)の第196狙撃師団(クリコフ少将)が応援に駆けつけたが、翌5日にはシュペトフカの市街地を占領されて東へと退却した。
7月7日、シュペトフカ東方で「スターリン・ライン」に到達した第11装甲師団は、第7狙撃軍団の残存部隊と凄まじい戦闘を繰り広げたが、ドイツ軍は高射砲連隊を前線に増派してソ連軍の薄い防衛線をようやく突破した。同日の夜には、要衝ベルディチェフを占領した。
7月8日、第48装甲軍団と連動して、第3装甲軍団も攻勢に乗り出した。麾下の2個装甲師団(第13・第14)は「スターリン・ライン」の北部にあるノヴォグラド・ヴォルインスキーを攻撃し、同地を守るソ連軍の機動集団(ルーキン集団と同規模)を壊滅させた。市街地の南で防衛線を突破した第13装甲師団は翌9日、ベルディチェフの北方35キロに位置するジトミールを占領した。
このようにして、「スターリン・ライン」を二ヵ所で突破されたソ連南西部正面軍司令部は再び防衛計画の見直しを迫られる結果となった。しかし、「最高司令部」が7月10日付けで「南西戦域司令部」を設置したことにより、キルポノスの裁量権は狭められることになる。さらに、南西戦域司令官に就任したブジョンヌイは「騎兵派」の長老で、キルポノスとは相性が合うはずもなかったが、そのような感情的な対立を吹き飛ばすような事態が出来していた。
7月10日、ジトミールを占領したドイツ第13装甲師団は東進を続け、ジトミールから100キロ東方を流れるイルペニ河の西岸に到達した。この進撃により、第5軍と第6軍の間に楔が打ち込まれ、イルペニ河の東岸は6月29日にキエフ外周陣地の第一期工事が完了していたものの、不完全な陣地がまばらに構築されているだけだった。
キエフからわずか16キロの地点にドイツ軍の戦車が現われたことに大きな衝撃を受けたブジョンヌイと「評議員」フルシチョフは、直ちに大規模な反撃を行うようキルポノスに厳命した。南西部正面軍司令部では前日から準備を進めていた、ドイツ第1装甲集団に対する南北からの挟撃を第5軍・第6軍に命じた。
7月10日午前4時、第5軍に所属する3個機械化軍団(第9・第19・第22)が、ジトミールとノヴォグラド・ヴォルインスキーの中間からドイツ第3装甲軍団の背後に対して反撃を開始した。
ソ連軍の戦車部隊はどれも先のルーツク=ドゥブノ戦で弱体化していたが、第3装甲軍団があまりにも進撃を急ぎすきたため、隣接する第29軍団(オブストフェルダー大将)との間に大きな間隙が生まれていた。第5軍の戦車部隊は、この間隙に向かって突進した。
7月14日、第5軍の2個機械化軍団(第9・第22)はジトミールとノヴォグラド・ヴォルインスキーを結ぶ街道に進出し、第三装甲軍団の2個装甲師団(第13・第14)が包囲される危機に直面した。
この事態を受けて、第3装甲軍団長マッケンゼン大将は第25自動車化歩兵師団(クレースナー中将)を即座にソ連軍が抉じ開けた間隙に急派した。第25自動車化歩兵師団は空軍と砲兵の支援を受けながら、ジトミールの北西部でソ連軍の波状攻撃を何度も撃退させることに成功した。さらに、SS自動車化歩兵師団「アドルフ・ヒトラー親衛隊旗(LAH)」(ディートリヒ大将)が後方から増援に駆けつけると、戦局はドイツ軍に有利に転じた。ソ連第5軍の反撃はまもなく頓挫させられた。
一方、第6軍では2個機械化軍団(第4・第15)に加えて、南部正面軍の第18軍(スミルノフ中将)から派遣された第16機械化軍団が7月11日からドイツ第48装甲軍団に対する反撃を開始していた。 ジトミール南方から出撃したソ連軍の戦車部隊は弱体化していたにも関わらず、第11装甲師団をベルディチェフで包囲することに成功する。この包囲戦は5日間に渡って続けられたが、第16装甲師団(フーベ少将)がソ連軍に反撃しつつ、第16自動車化歩兵師団(ヘンリーキ少将)と第75歩兵師団(ハンメル中将)が孤立した第11装甲師団との連絡を回復することに成功した。 結局、ソ連南西部正面軍によるジトミール周辺での反撃作戦は、2週間前のルーツク=ドゥブノでの反撃と同様に、自軍の大きな損害を伴って失敗に終わってしまった。しかし、この反撃もまた北西部正面軍の場合と同じく、ヒトラーには重大な脅威だと感じ取らせることに成功する。
7月19日付の「総統指令第33号」において、ヒトラーは第1装甲集団をキエフではなく、ドニエプル河の下流へと進撃させるよう南方軍集団司令部に命じたのである。