〇雪中の包囲戦
モスクワ前面で始まった1941年度の冬季戦は、翌42年4月20日まで続いた。
全ての目標を一挙に達成しようとしたスターリンの大望は、すでに3月初めにはその機会を失っていた。ヴィアジマその他の場所では、6月までドイツ軍の背後にいくつものソ連軍部隊が踏みとどまっていたが、ソ連軍が奪回できたのは通行不能な湿地帯だったからであり、晩春に大地が乾燥するまでドイツ軍が機動力を回復できなかったからであった。
デミヤンスクとホルムの包囲網に閉じ込められたドイツ軍は、ソ連軍によって徹底的に叩かれ続けた。デミヤンスクでは第16軍の2個軍団(第2・第10)の一部が将兵9万人と補助部隊1万人、ホルムでは第281保安師団(シェーラー少将)をはじめとする約5500人が包囲されていた。
包囲された部隊に対して第1航空艦隊司令部により毎日270トンの補給物資を空輸することができるとの確証を得たヒトラーは、包囲された各師団に包囲が撃破されるまでその位置を維持するよう命令した。
2月中旬、積雪が多いにもかかわらず、この地域のソ連空軍が脆弱であったことからドイツ空軍による空輸作戦は大きな成功を収めた。しかし、この空輸作戦のために輸送能力の全てを使い果たし、爆撃能力の一部も犠牲となってしまった。
ソ連北西部正面軍は包囲内のドイツ軍を殲滅するようスターリンに迫られ、繰り返し攻撃を行ったが、悪天候と困難な地形のため徐々に攻撃のテンポが鈍くなり、ついに「最高司令部」が夏季の新作戦の準備に着手するに当たって停止してしまった。
包囲網が形成された2月初旬から5月の間に、デミヤンスクとホルムの包囲網にドイツ軍は陸上と航空あわせて、物資65000トンと増援31000名を送り込み、36000名の負傷者を後方へ輸送することに成功した。この成功に気を良くしたヒトラーとゲーリングは東部戦線において効果的な空輸作戦を行う戦術を発案したと考えた。
3月初め、ウクライナに春の雪解けと泥濘期が到来して、2週間後にはモスクワ周辺にまで及んだ。その間、デミヤンスクとホルムで包囲された部隊を救出するための長期化した戦闘は引き分けに終わり、ソ連軍が包囲網に突入しようとしたその時、ドイツ軍に救援部隊が到着して脱出してしまった。
デミヤンスクの包囲網に取り込まれていた将兵10万名のうち3335名が戦死、1万名以上が負傷した。ホルムでは残存兵力が1200余名になってなお持ち堪え、ついに42年5月までソ連軍との局地戦を戦い抜いた。この周辺の戦線はいびつな形をしたまま一応の安定を取り戻し、このあと2年間に渡って独ソ両軍の睨み合いが続いたのである。
デミヤンスクやホルムよりもさらに北に位置する包囲されたレニングラードに対するソ連軍の最初の救出作戦は無残な失敗に終わってしまっていた。
1月13日、ヴォルホフ正面軍の第2打撃軍がチュードヴォとノヴゴロドの中間部で攻撃を開始し、ドイツ第16軍と第18軍の間隙を突破した。南からレニングラードへと到達して、ヴォルホフ周辺のドイツ軍2個軍団を包囲するという作戦だった。
だが、ドイツ北方軍集団は予備兵力を投入して必死に戦線を繕い、ソ連軍の進撃を発起点から50キロほどの位置で停止させることに成功する。第2打撃軍はヴォルホフ河から西に突出した状態になり、ドイツ軍はこの突出部の根元を南北から切断して、ソ連軍の反撃を頓挫させる作戦に打って出た。
3月15日、ヴォルホフ河の流域で南から第58歩兵師団、北からSS警察師団が攻撃を開始した。春が近いにも関わらず、戦場となったヴォルホフ周辺はまだ冬が荒れ狂っていた。壮絶な白兵戦の末、ドイツ軍の2個師団は同月19日、エリカ林道で包囲を完成させることに成功した。
この戦況に受けて、モスクワの「最高司令部」は包囲された第2打撃軍に、第20軍司令官ヴラソフ中将を派遣させた。第2打撃軍司令部に到着したヴラソフはただちに反撃を実施し、早くも3月27日にはエリカ林道を解放させた。しかし、部隊の状況からレニングラードへの進撃はもはや不可能だと判断したヴラソフは「最高司令部」に突出部の放棄を提言したが、スターリンはヴラソフの提案を却下した。
包囲を突破することも救出されることも叶わぬまま、第2打撃軍はドイツ軍の攻撃にさらされ続け、6月初頭にヴォルホフ河の東へと撤退する過程で全滅してしまった。
〇国防軍の再建
1942年の春になると、「バルバロッサ」作戦はソ連軍だけでなく、ドイツ軍にとってもきわめて破滅的であったことが判明した。「モスクワの冬が人、馬、車両に与えた打撃は甚大であり、結局、我が軍は失ったスタミナを回復しきれなかった」とは、1942年6月27日に参謀総長ハルダー上級大将が日記に記したことである。
最も被害が大きかったのは、中央軍集団だった。1942年1月を迎える頃には、総兵力は定員より18万7000人も少なく、2月になるとこれに実質4万人の損失が加わった。モスクワ周辺から撤退したことは、大量の装備の放棄を意味していた。1942年2月の時点で、中央軍集団が失ったのは対戦車砲4262門、迫撃砲5890門、重砲3361門に上っていた。
ドイツの経済にはこれらの損失を埋め合わせる人力も生産力も無かった。1941年12月に、新たに28万2300人が召集されて陸軍に編入されたが、その全員が訓練を必要とし、しかもその大半は軍需工場から徴集されたのである。そのため、ドイツの軍需産業は欠けた人員の補充に大きな困難を経験することになる。
工場の労働力不足に資源の欠乏が結びつき、さらに陸海空の三軍間でずっと続いていた生産割り当てを巡る争いも手伝って、1941年12月から翌42年1月まで、ドイツの経済はほとんど停滞したままだった。ヒトラーはこの時になって、ドイツが長期戦に突入してしまったことをしぶしぶ認め、3月には正式に経済全体を軍需に従属させる命令を下した。
2月8日、軍需大臣フリッツ・トートが飛行機事故で死亡したことを受け、ヒトラーは後任に建築家のアルベルト・シュペーアを就任させる。この人事の背景はニュルンベルクの党大会会場を建設した際のシュペーアの手腕を買ったものだった。ヒトラーの個人的な後押しもあって、シュペーアは結果としてドイツ経済の軍需生産の効率性と生産性を驚くほど向上させた。
だが、ドイツ経済の改善には時間がかかり、現実にはモスクワにおける壊滅的な戦闘の後も、国防軍には完全な装備の補充はなされなかった。それでも装甲師団や自動車化歩兵師団、武装SSの各部隊は多くの機甲兵器を得て、戦力の大半を回復した。それに対して、歩兵師団は単に長く続いてきた苦しい戦力の喪失が、一時的に中断したに過ぎなかった。
兵站に関していえば、1941年11月から12月にかけて、陸軍総司令部はドイツ国内と西欧の占領地から何千台ものトラックを集めたが、これらの車両の4分の3が東部戦線に到着する前に故障してしまった。こうした車両や馬の損失により、ドイツ軍の装甲部隊がほとんど舗装されていない道路で作戦する場合、本来の機動性が失われるのは止むを得ないことであった。
しかし、ドイツ軍が失ったものは将兵や車両よりも重要なもので、それは深刻な戦意の喪失であった。
1942年1月の冬季戦の最中、薄い被服しかなく戦場神経症にかかり、方向を見失ったドイツ兵たちは近づいてくるソ連軍の戦車のわずかな響きにも恐慌を来すほどになっていた。生き残った古参兵たちは異国の地で過酷な際限のない戦いに晒されていることを認識していたが、脱走や降伏は不可能だった。なぜなら、お互いに人間以下とみなしている相手にかかったら、言葉に尽くしがたい壮絶な運命が待ち受けていることを分かっていたからだった。
前線の将兵たちは次第に、自分たちが異国の地で闘わねばならぬ大義名分の本質を追及するようになった。そのような追及に応えるため、ヒトラーが取り入れたのはソ連式の政治将校とイデオロギー教育だった。上級将校らが人種主義的、イデオロギー的なナチス公式のプロパガンダを用いて、下士官らを教育するようにしたのだ。
国防軍総司令部は1942年7月15日付けで、全ての情報将校に教育者の役割を与えるよう規則化した。こうしたイデオロギー教育に慣れてくると、ドイツ軍の兵士たちはスラブの「下等人種」に対する残虐行為にさらに力を入れるようになった。
〇「青(ブラウ)」作戦
ドイツ軍では「バルバロッサ」作戦の発動時から、後続の作戦として黒海東岸からカフカス山脈までの進撃を構想していた。本来、この後続作戦は1941年秋に開始されることになっており、イギリス軍が支配するスエズ運河とイラン・イラクの油田地帯を最終目標とするヒトラーの壮大な計画の第一歩になるはずだった。
ミンスク=ビアリストク包囲戦の勝利に沸き立つ1941年7月3日、陸軍参謀総長ハルダー上級大将はこの日の日記に、このように書き記していた。
「東方(ソ連)での作戦が、敵の壊滅と経済の混乱という事態に至ったなら、我々は速やかにイギリスとの戦争で新たな段階に入る準備をしなければならない。すなわち、キレナイカ(リビア東部)とアナトリア(トルコ南部)を発起点とする、ナイル河およびユーフラテス河(イラク)への陸上への攻勢である。さらに、カフカスからイランへの攻勢も考えられる」
しかし、1941年11月にはヒトラーも現状を鑑み、壮大な作戦の構想をいくらか譲歩せざるを得なくなった。ヒトラーはハルダーに対し、1942年度の春季・夏季攻勢はソ連領内の限定した作戦にせよと命令し、イランとトルコへの攻撃は断念した。だが、この限定的な作戦でさえ、カフカスの油田地域の制圧を目標としており、ドイツ軍の最も張り出した前線から800キロ以上も困難な地形を越えて進撃することを要求していた。
1942年3月28日、陸軍参謀総長ハルダー上級大将はヒトラーに上奏する新たな対ソ戦略計画案を抱えて、東プロイセンのラシュテンブルクに構える総統大本営「狼の巣(ヴォルフスシャンツェ)」へ向かった。
会議にはヒトラーの他、国防軍総司令部総長カイテル元帥をはじめとする出席者がいる中で、ハルダーは後に「青(ブラウ)」作戦と命名される1942年度夏季攻勢の計画案を説明した。陸軍参謀本部案としての「青」作戦は次の通りだった。
まず南方軍集団を構成する5個軍のうち第1装甲軍(クライスト上級大将)、第17軍(ルオフ上級大将)をA軍集団とし、第4装甲軍(ホト上級大将)、第2軍(ヴァイクス上級大将)、第6軍(パウルス大将)をB軍集団として新設する。
A軍集団はロストフからドン河を経て北東へ、B軍集団はヴォロネジからドン河を経て南東へと進撃して、スターリングラード付近のドン河とヴォルガ河の狭い回廊で包囲網を閉じる。この包囲作戦により、ドン河からカフカス山脈に至る広大な領土は、赤軍のいない無人の広野となる。
そしてクリミア半島からセヴァストポリ要塞の占領を完了させた第11軍(マンシュタイン大将)がA軍集団と合流してカフカス地方への全面的な攻勢を開始し、ヨーロッパ最大の油田地帯を占領する計画であった。B軍集団はドン河に沿って東方へ進撃し、長い北翼の防衛とスターリングラードの占領が目標とされた。
この作戦の最重要目標とされたカフカス地方にはバクーをはじめグロズヌイやマイコプなど、ソ連の軍需産業を支える石油産出地が集中していた。第2次世界大戦が勃発した翌年の1940年、ソ連はバクーを中心に年間2億1300万バレルの石油を産出していたが、これはドイツが主要な石油供給源として依存していたルーマニアのプロエシュチ油田の年間産出量4300万バレルの約5倍に当たる数字だった。
ドイツ軍がこの地方を占領すれば、自国の軍需産業が必要とする石油の一部を確保できると同時に、ソ連の軍需経済に対して致命的な打撃を与えることができると考えられたのである。また、カフカスの石油はそのほとんどがヴォルガ河を航行する輸送船によって運ばれていた。このヴォルガ河の輸送路を締め上げることのできる要衝こそ、赤い独裁者の名を冠した一大工業都市スターリングラードだったのである。さらに、カフカス地方を通過して送られてくる連合国のソ連に対する援助を全て封じることが可能だと思われた。
ハルダーの説明を聞き終えたヒトラーはその内容に満足し、ただちに正式な命令文書の作成に取りかかるよう、国防軍統帥部長ヨードル大将に命じた。
〇内実
4月4日、「青」作戦の命令文書を完成させたヨードルは、さっそくヒトラーに提出して承認を求めた。ところが、内容を一読したヒトラーは顔色を変えてヨードルに詰め寄った。
「これは一体、どういうことか?」
ヒトラーの機嫌を損ねたのは、攻勢の作戦指導に関する権限が南方軍集団司令官に大きく委ねられている点だった。作戦遂行上の重大な決定に、自ら関与できない状況を嫌ったヒトラーは、弁明するヨードルから「自分で調べるからよい」と言って文書を取り上げてしまう。
4月5日、ヒトラーは自らの手で若干の手直しを加えた、正式な「青(ブラウ)」作戦の命令文書である「総統指令第41号」を下達した。
「東部戦線におけるわが軍の将兵の卓越した勇気と、犠牲を厭わぬ尽力により、わが軍は大いなる防御戦の成果を獲得した。敵は甚大な人的・物的損失を被り、冬季戦の初期段階での部分的成功に乗じたにもかかわらず、保有していた予備兵力のほとんどをこの冬の戦いで消費してしまった。
よって、天候と地表の回復とともに、わが軍は主導権を奪取せねばならない。新たな攻勢におけるわが軍の目標は、いまだ残存するソ連軍の戦力を完膚なきまでに粉砕し、同時に敵の最も重要な戦争経済上の資源を、可能な限り失わせることである。
全般的な意図としては、東部戦線当初の原則(敵軍事力の粉砕)を維持しつつ、中央戦域では現状維持、北部戦域ではレニングラードを占領してフィンランド軍と陸路で連絡し、南部戦域ではカフカス地方へと突進すること。順序としては、まず全兵力を南部戦域の主要作戦に向け、ドン河前面の敵を掃討し、次いでカフカス地方への油田群およびカフカス山脈の南への通行路を奪取する」
この攻勢のために、陸軍参謀本部はドイツ軍20個師団と枢軸国軍の21個師団に対して北部・中央部から南部への移動を命じていた。そのため、南方軍集団の参加兵力はドイツ軍で約100万人、枢軸国軍で約30万人にのぼった。「バルバロッサ」作戦と同様、第4航空艦隊(レール上級大将)が空の支援を担当することとなった。
機甲戦力は約1900両で、T34対策として長砲身50ミリ砲を装備したⅢ号戦車が約600両、長砲身75ミリ砲を装備したⅣ号戦車が約300両配備されていた。しかし、それでも南方軍集団が麾下の部隊に供給できる装備機材は定数の85%に留まった。
また、ヒトラーは各枢軸国の首脳部に兵力増強の要請を行い、ハンガリーとイタリアはそれぞれ3個軍団から成る第2軍(ヤーニ大将)と第8軍(ガリボリディ大将)をドン河流域に派遣した。
枢軸国軍を構成するのはイタリア軍6個師団、ハンガリー軍10個師団、ルーマニア軍5個師団(実数は旅団程度)だったが、どの師団も人数、兵器ともに深刻な不足に陥っており、なおかつドイツ軍と訓練と教義の点で、相容れないことが多かった。このような頼りない同盟国軍を基礎にして参謀本部が作戦計画を立てた事実そのものが、ドイツ軍がロシアの広大な大地を制圧するための兵力がいかに不足していたかを示すものである。
しかし、悪夢のような冬季戦の後で、ドイツ軍は新たな増援を得て、自信を取り戻しつつあった。「青」作戦の総兵力は1941年6月の頃よりは低下していたとはいえ、指揮官たちは42年内にソ連軍を打倒できる自信があった。
この時期、ドイツ軍の諜報はソ連軍がウクライナの奪回を目指すべく、ハリコフ南東に部隊を集結させているとの情報を掴んでいた。これを受けて、南方軍集団司令官ボック元帥は「青」作戦の発動前に、ハリコフ南部の突出部を排除する限定的な攻撃案を計画した。
「フリードリヒ」と名付けられたハリコフ南部の攻撃案は第6軍が北翼から、第1装甲軍司令官クライスト上級大将の指揮下に第1装甲軍と第17軍の選抜部隊を集めた「クライスト集団軍」が南翼から突進し、突出部のソ連軍を包囲殲滅するものであった。攻撃開始日は5月18日とされた。
〇ソ連軍の春季計画
1942年3月28日から30日にかけて、ドイツ陸軍首脳部がラシュテンブルクで戦略会議を開いていた時と同じにして、ソ連軍首脳部は国家防衛委員会と「最高司令部」が春季から夏季にかけての戦略方針を検討する首脳会議をクレムリンで開いた。
この会議には参謀総長シャポーシニコフ元帥をはじめ、西部戦域軍司令官ジューコフ上級大将、参謀本部作戦部次長ヴァシレフスキー少将、南西部戦域軍司令官ティモシェンコ元帥、南西部戦域軍参謀長バグラミヤン少将をはじめとする赤軍幹部が終結し、最高司令官であるスターリンと対独戦の戦略について話し合った。
まず、最初にシャポーシニコフが参謀本部の構想を披露した。それによると、赤軍は当分の間、積極的防御に徹して戦力の回復を図り、戦略予備は基本的に温存する。ただし、1942年度に敵の重要な攻撃があると予想されるヴォロネジ地区には戦略予備の一部を投入して、これに対応する。
しかし、この提案はスターリンを満足させるものではなかった。
「防戦一方で何もせず、ドイツ軍が先に攻撃してくるのをただ待ってるだけだと言うのか?我々としては、広大な戦線で一連の攻撃をしかけ、敵状を探ってみることも重要だろう。ジューコフが提案した西部正面軍の戦区で攻勢を展開し、残りの戦線で防御に徹するという案は、半ば正しいように思える」
そして、南西戦域軍司令官ティモシェンコ元帥が自身の戦区での攻勢案を述べた。
「この地域の我が軍は現在、南西方面でドイツ軍に先制攻撃を行い、南西部および南部正面軍に対する敵の攻撃計画を台無しにできる状況にあるし、またそうすべきであります。さもなれければ、緒戦における戦いの繰り返しになることでしょう」
ブリャンスク正面軍(ゴリコフ中将)・南西部正面軍(コステンコ中将)・南部正面軍(マリノフスキー中将)を統轄する南西部戦域軍司令部はすでに3月22日に、ハリコフおよびドネツ河流域における独ソ両軍の分析とドイツ南方軍集団に対する反攻計画案を、「最高司令部」に提出していた。
この反攻計画は、ハリコフ周辺のドイツ軍に対する挟撃作戦であった。すなわち、バラクレヤからハリコフ近郊に伸びる突出部の北翼と、スラヴィヤンスクからドニエプル河に向かう南翼で同時に攻勢を開始するというものだった。
ティモシェンコは「両翼攻勢案」のために「最高司令部」の戦略予備を集中的に投入して、攻撃参加兵力を増強してほしいとスターリンに力説するも、スターリンは戦略予備兵力の不足を理由にティモシェンコの計画を却下した。その代わり、突出部の北翼のみで行なうハリコフ攻撃案を提案した。
スターリンはモスクワが未だドイツ軍の第1目標であり、春の雪解けと共に機動力を回復したドイツ軍がルジェフとヴィアジマに取り囲まれた陣地を基点として、再びモスクワを攻撃するという情報を掴んでいたが、これは暗号名「クレムリン」とされるドイツ軍が仕組んだ入念な欺瞞作戦に基づく偽情報だった。この偽情報を頭から信じ込んだスターリンは、モスクワの前面に戦略予備の大半を配置し、ハリコフ攻勢には南西部正面軍の兵力のみで行うよう命じた。
4月10日、南西戦域軍司令部は「最高司令部」に南西部正面軍の3個軍(第6軍・第21軍・第28軍)と1個機動集団を主力とする挟撃作戦で、ハリコフ市を奪回するという新たな計画案を提出した。スターリンはこの改訂された攻撃案を承認し、攻撃開始日は5月4日と定められた。
反攻の主力となるのは、ハリコフ北東に展開する第28軍(リャブイシェフ中将)と、第21軍(ゴルドフ少将)であった。突出部の北翼に第6軍(ゴロドニャンスキー中将)、そして第6騎兵軍団(ノスコフ少将)と第7戦車旅団(ユルチェンコ大佐)の混成部隊であるボブキン少将率いる機動集団が南東からハリコフに迫る。第6軍と第28軍の中間に展開する第38軍(モスカレンコ少将)が、牽制作戦を行なう予定になっていた。