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正直なところ、十係たちの頭には、よほど運が悪くない限り、早晩ストーカーも見つかるだろうという思い込みがあったのだ。ところが、現実には2日経った26日になってもまだ発見に至らず、三橋英理も行方不明のままだった。
横浜から呼ばれた三橋英理の老母は24日の午前8時過ぎに八王子東署に到着し、署員に促されて捜索願を提出した。その後の聴取で、老母は娘の異性関係については全く把握しておらず、捜査本部は暗澹とした雰囲気に陥った。挙句の果ては、娘がストーカー被害に遭っていたようだと耳にすると、老婆は聞き終わる前に顔色を失い、その場で卒倒してしまった。
押収した住所録などを元に、三橋英理の捜索を開始したが、集められた情報の中に梁瀬陽彦、ストーカーの影どちらともつながるものはやはりなかった。
302号室の捜索では、目敏い磯野が「あったぞ」と言い、ベッドの下にあるコンセントから怪しげなタップを見つけ出した。科捜研の鑑定結果から、盗聴器の発信装置だと判明した。三橋が訴えていた「盗聴」が行われていたことを裏付けるものだった。
三橋英理をつけ狙っていたストーカーが今回の事件に何らかの関わりがあると踏んだ馬場は、302号室に鑑識を入れた。
まず指紋の採取をしたところ、部屋から検出した三橋英理の指紋の一部が、梁瀬陽彦の冷蔵庫にあったタッパーウェアの指紋と一致した。同時に、部屋の数か所で採取された同一指紋が、梁瀬陽彦のものと一致した。報告では、さらにもう一種類の指紋と掌紋が部屋から採取されたが、盗聴器からは指紋が見つからなかった。
捜査本部にさらなる展開をもたらしたのは、4月14日の交通事故の件だった。
第九方面本部から各署へ伝えられた情報をもとに、都内各所の交番から近くの自動車整備工場や修理工場へ警らが走った。25日の昼前になって、福生の交番が、近くの自動車整備工場に4月15日、フロントバンパーの右角を凹ませたバイクが1台持ち込まれたことを確認した。車庫入れに失敗したという持主は、福生の会社員。早速、連絡を受けて八王子東署から巡査2人が福生に向かい、本人に会った。
男は富岡といい、車庫入れ云々は嘘だったと供述した。4月14日の午後7時ごろ、会社帰りに八王子市内で接触事故を起こしたことを認めた。事故は、富岡が一時停止せずに脇道から本道へ左折しようとして、本道を走ってきた車とぶつかったものだった。違反点数の関係で警察沙汰にしたくなかったので、相手側と示談し、車の修理費を現金で支払ったという。
「相手方の運転手の氏名は新條博巳。和解は済み、費用を支払った後の問題は起こっていないとのことです」
夜の捜査会議で、八王子東署員がそう報告した時、真壁はまず心臓に楔をひとつ打ち込まれたような衝撃で体が強張った。そろりと眼を動かすと、馬場をはじめ杉田、渡辺も似たような固い顔をしていた。
「新條博巳の自宅・勤務先の住所を」杉田が言った。
「えー・・・」署員が手帳をぱらぱらと捲る。「自宅は杉並区久我山4丁目45、勤務先は渋谷区神宮前6丁目17‐8、ローヤルファーム法律事務所」
高瀬が武蔵野東署から送られてきた告発状を手にしながら言った。
「新條っていうのは、この新條・・・?」
「告発状の住所が三橋英理と勤め先が同じ」いち早く頭を整理したらしい磯野は「面白いことになってきたぜ」と余裕たっぷりの舌なめずりをしていた。
実際、あらためて振り返るまでもなく、梁瀬陽彦と三橋英理を結ぶ一点が、ついに現れたということではあった。論理的に、弁護士新條博巳は三橋英理を包含し、梁瀬陽彦を包含し、それによって一見かけ離れた三橋英理の失踪と梁瀬陽彦の殺害事件は、新條という共通項でつながったのだった。もちろん、全ての事象が単なる偶然である可能性はあったが、行き詰まりの捜査に風穴がひとつ開いたのは確かだった。
やっとざわざわし始めた会議室で、幹部席に座る開渡係長の「報告の続きを!」という一声が響いた。署員が続ける。
新條博巳は外出中で連絡が取れず、福生から引き続き巡査2人が神宮前6丁目の法律事務所に出向いたが、その日は事務所に帰って来なかったという。
「黙って帰ってくるバカがいるか」馬場が報告者に噛みついた。「吉村さん、翌朝すぐに新條の自宅へ行ってください!女房、子どもを捕まえて事情聴取を」
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翌朝、八王子東署の管内では強盗傷害事件が発生して捜査員が足らなくなり、急きょ捜査本部から4名が抜けて行った。
少し人数が減ってすかすかになった朝の会議では、十係の面々は普段通りの白々しい顔だったが、副署長からストーカーの案件を聞かされたらしい刑事課長は血走った眼をしきりに十係の方に向けてきた。
新條の家を見て来た吉村の報告によると、表から見える窓は全てカーテンが閉ざされており、郵便受けに指を突っ込んでみると新聞はなかった。ガレージには、黒い乗用車が残されていた。玄関のドアには、新装開店を知らせる吉祥寺駅前のパチンコ店のチラシが挟まれたままだった。
「新聞は16日から止められてます。パチンコ店のチラシ配布は16日の午前中。ですから、新條が自宅を空けたのは15日、もしくは16日早朝」
「奥さんと子どもは?」杉田が言った。
「母親は勤め先の高校近くのホテルに下宿。紀子っていう一人娘は板橋の親戚のところへ身を寄せてます。母親の妹だそうで」
「いつから?」
「17日から」
そこまで来たところで馬場が素早く頭のメモを整理するやいなや、ぐるりと捜査員を見回して「さあ、要点を言うぞ」とまくしたてる。
「まず、新條の指紋を採取。それと・・・」
開渡係長が横から口をはさむ。存外に弱気な声だった。
「まて、指紋はマズイ」
しかし、そこは馬場。捜査一課の主任らしい剛直で押し切った。
「新條博巳は梁瀬陽彦、三橋英理の両名に関わる重要参考人として早急に聴取する必要があります。私らがいつでも親切に話を聞いてやるのに、自宅・事務所は不在。本来なら正式に身体検査令状を取ってやるものを、勝手に逃げ回ってるのは事実です。吉村さん、新條の車のナンバーは確認してますね?」
吉村がうなづく。
「Nシステムにかけて、11日から14日における新條の車の行動確認。新條の写真を持って、現場周辺での聞き込み。自宅と神宮前の事務所での張り込み。三橋英理の通話記録、友人・知人への再度の聞き込み。以上、これらの点を早急に確認すること」
そうして、その日は弁護士名鑑からコピーした新條博巳の顔写真を手に、真壁は八王子東署の署員と子安町4丁目の周辺を歩き回ったが、大した成果は上げられなかった。
渋谷駅で電車を降り、すでに午後4時を過ぎている時刻を気にしながら、真壁は明治通りを神宮前6丁目まで急ぎ足で歩いた。ローヤルファーム法律事務所の前の路傍では、高瀬良徳が缶コーヒーを啜りながらスポーツ紙の立ち読みだった。
高瀬は入口を顎でしゃくってみせた。
「先生のご尊顔を拝するに至らず。事務員曰く、クライアントを何軒か回っていて、事務所に戻る時間がないとか」
「連絡も付かず、ですか?」
「先生は携帯電話をお持ちじゃないそうで」
そんなバカなことがあるかと、真壁は呆れた表情を浮かべた。
「土産は2つ。まずはこれ」
高瀬はポケットからチラシを1枚出して見せた。A4判のチラシには『ガンビアの子どもたちへノートと鉛筆を送ろう』とあり、援助団体や協賛団体が並んだ下には、難民キャンプを視察している日本人数人の写真が載っていた。
「ほら、この日焼けした御仁が新條博巳。弁護士名鑑の写真とはえらい違い」
写真の中で、難民の子どもを抱いてにこやかに笑っている開襟シャツの男は、逞しく日焼けした腕の筋肉が印象的だった。弁護士名鑑で見た平板な四〇男の顔とは対照的に、存外にスポーツマンタイプのようだった。
「それから、杉田主任と一緒に事務所に入ったとき・・・」
「何か言われなかったんですか?」
「平静なもんよ。主任が男のイソ弁つかまえて『先生に至急教えていただきたいことがあるんですが。いやぁ、お出かけですか』とか何とか言って粘ってたら、後ろから女の事務員が受話器持って『京王プラザからお電話です』ときた。今度は間違いないぞ」
そう言って、高瀬は引き揚げて行った。一足先に杉田が行った京王プラザに脚を運ぶつもりなのだろう。
真壁は近くのコンビニでA4判のチラシを捜査本部にファックスで送り、電話で再度の地取りを行うよう開渡係長に言った。そして、新條が現れるのを待って、ビルを眺める。三橋英理の勤め先は3階の会計事務所。新條との接点は考えられなくはない。
そこまで考えを進めていた時、眼の前の路地にヴァンが停まった。車体の横に書かれた清掃会社のロゴに、どこかで見覚えがあった。突然、真壁は眼の裏にじりじりと焼け付くような焦燥を覚えた。夢中で手帳をめくる。ページを見つけ、しばし呆然とした。
宮藤研作の勤めていたビル清掃会社だった。
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「では、各班。報告はじめ」
開渡係長が夜の捜査会議の開始を告げた。捜査員のどの顔もそれぞれに疲労だけを残した無表情に戻り、単調な報告を耳に刻み込むだけの時間になった。
十係からは「新條は終日事務所に姿を見せず、自宅も留守」「新條は16日の昼から、新宿の京王プラザホテル20階のスイートルームに宿泊」「新條の自家用車から採取した指紋が、三橋英理の部屋から検出された指紋と一致」の三点が報告され、八王子東署の署員が息を呑むのが分かった。
刑事課長が聞き込みの報告に入ろうとした時、珍しく本部に姿を見せた管理官の秦野警視が幹部席から「おい」と顎をしゃくった。「三橋英理の部屋から出た指紋が、なぜ新條のものと分かった?」
「新條の自家用車の指紋と一致しました」杉田が繰り返した。
「車の指紋の採取は、令状なしでやったな?そんな証拠は提示できないぞ!弁護士にそんないい加減な証拠を突きつけて、恥を晒す気か!」
「現段階で証拠として本人に提示する気はありません」馬場が言った。「会って話をすることをできれば、新條には聞きたいことが沢山あります」
「新條にいったい何の容疑がある?」
「殺人です」
「おい、開渡!」秦野の上ずった声が飛んだ。「今、こいつらが言ったことについて、君は係長として承知しているのか!君の監督責任だぞ!」
「してます」開渡係長が覚悟を決めたらしい、無表情で答えた。「16日早朝から行方をくらました時点で、新條弁護士は本件の重要参考人です」
高瀬が自席からパチパチと短い拍手を飛ばし、秦野は低い苦笑いを浮かべた。中断させられていた刑事課長に、開渡係長が「続けてください」と言った。
聞き込みの方では、1つ成果か出た。目撃者が1人出てきたのだ。事件当日の11日午後8時前、JR八王子駅前の喫茶店の主人が、店の前の自動販売機のタバコを補充しようとしていた時、新條によく似た男が「ちょっと待って」と駆け寄って、機械に小銭を放り込み、タバコ1個を買っていった。
「確認に使った写真は?」真壁は言った。
「弁護士名鑑のものです。翌朝、チラシの写真で再度確認をとります」
「所轄が知恵つけやがって」と磯野が悪態をつき、「お前もつけろよ」と高瀬が茶化す。
新條がその後、どこかの飲み屋やスナックに立ち寄った形跡はない。とすれば、梁瀬陽彦とほぼ同じ時刻に駅前にいて、そこからレジデンス子安町を目指して同じ方向へ歩いたのだとしたら、どういうことになるか。
三橋英理が住んでいた302号室に入ったのは、新條か梁瀬か。
「この当たりはデカイぞ!京王プラザの張り込みは2人ひと組。今からアミダ籤!」
馬場の本音は新條を精神的に追い込むことにあるのは見え見えだったが、それが吉と出るのか凶と出るのか、真壁には分からなかった。しかし、所轄にしても、より目標の見える張り込みは気分転換になる。すぐに捜査員たちにアミダ籤が回され、会議室はまた少し沸き立った。
最後に、秦野が「馬場と杉田」と名指しした。「捜査方針に対する君らの認識は、非常に問題がある。自重しろ」と付け加えた。
翌日、真壁は朝から三橋英理の友人・知人関係の聞き込みに回った。対象者は、大学・高校時代の同級生に絞っていた。新宿の京王プラザホテルには、正午ごろ入った。1階ロビーの喫茶店で、八王子東署員が粘っていた。
20階のエレベーターホールで、真壁は吉村と張り番を交替した。ホテルは出入り口が多く、確実に宿泊者の出入りを見張るには、宿泊階のエレベーター前しかなかった。
静まり返ったホールで早朝から六時間、新條の部屋を見張っていた吉村は膏薬の臭いをぷんぷんさせて、「全然動かないなぁ」とため息を吐いた。
「午前7時半に朝刊を回収。8時にルームサービスの朝食1人分。九時にクリーニングの受け取り。テレビの音はなし。話し声もなし。フロント経由の伝言や郵便もなし。訪問者なし。仕事関係の連絡は外線電話を使ってるな」
報告を終えた吉村は引き返し、真壁はエレベーターホールの片隅に立って、午後6時までの張り込みに入った。静まり返ったホテルの客室階は空調設備のかすかな唸りしかなくなり、真壁は通路に向けた耳だけを働かせながら、手帳を開いた。
聞き込みでは、三橋の高校時代の友人から話が聞けた。半年前、その友人は亡くなった担任の葬儀で、三橋と再会。その時、三橋は左手の薬指に指輪をしており、結婚を考えている男がいると話したという。ストーカーとは違う男の影の出現だった。
頭を痛める問題は、まだあった。科捜研から非公式にあった報告だった。宮藤研作のアパートにあった装置は盗聴器で、三橋英理の部屋にあった物と同一。
事件のつながりは今ひとつはっきりしない。
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5時ごろ、真壁は胸の携帯電話が震えだしたことに気づいた。三鷹南署の段田が連絡を入れてきた。聞こえてくる物音がざわざわしていると思ったら、山カケ(所轄署間の交信が可能な無線方式)の車載無線の声だった。「久我山3丁目の火事場からだ」という。
「宮藤研作が住んでた部屋が燃えてる。3丁目の31番地。石油臭い」
真壁は脳裏にピンと来るものがあり、即座に「おり返し連絡します。車は?」と言っていた。
「三鷹2号」
真壁は電話を切った。手帳をめくり、新條紀子が通う予備校の番号を探し出し、再び電話をかけた。出来るだけ性急な声を作る。
「そちらの高3コースに、〇〇高等部の新條紀子という生徒がいると思いますが」
「失礼ですが、どちらさまですか」
「親です。紀子がいたら呼んで下さい。実は火事で・・・呼んで下さい!」
「火事・・・?ちょっとお待ちを」
1分待たされた後、「今夜は欠席しておられますが」という返事があった。
真壁は続けて、懐の手帳で電話番号を確認した。電話先は、板橋区前野町にある新條紀子の叔母の家だった。
「こちらは、〇〇ゼミ新宿校ですが。そちらに、新條紀子さんはおられますか?」
主婦らしい女の声が「予備校ですか?」と聞き返す。
「〇〇ゼミの教務担当です。さっそくですが、本日のクラスに紀子さんが欠席しておられるのですが・・・」
「え・・・」と小さな声が返ってくる。
「風邪でも引かれましたか」
「いえ、そういうことは・・・」
「当校としましては、紀子さんのためにも、なるべく欠席しないでいただきたいので、お電話させていただきました。よろしくお願いいたします」
「はあ、こちらこそ」
真壁は携帯電話を切った。戸惑い、うろたえた女の声が耳に痛かった。
続いて《三鷹2号》を呼び出し、段田に目撃者の有無を尋ねたが、無いという返事だった。仮に、カバンを下げた女子高生の姿を見た者がいても、誰も不審には思わないだろう。現状では、紀子の写真を持って、現場付近の聞き込みをするわけにもいかない。
「そういえば、女子高生のタレ込みの件はどうなったんだ?」段田が言った。
「実は、犯人は老人をタオルで首を絞めてから部屋の鍵をかけて出たというんですが」
「ええ?」
「話を裏付ける証拠はありませんが」
「ちょっと聞くが・・・」段田は声を潜めた。「そんな話、まさか本庁の全員に通ってるわけじゃないだろう?」
「ええ、知ってるのは私と他3名だけです」
「君が個人的に俺に相談している、ということだな?」
「そうです」
「よし。それなら、話ぐらい聞いてやる」
真壁はこれまで新條紀子を観察した成果、家族構成などを話した。段田は警察と消防の調書を調べ直し、新條の家族の周辺をそれとなく見てみることを約束した。
最後に段田はうたぐるように呟いた。
「俺なら、見て見ぬふりをするけどな。子どもの話だぞ・・・」
「私らが見て見ぬふりをしても、破滅する子は破滅する。せめて誰か見ている者がいた方がいい。刑事なんか、本人には孤独な腹の足しにもならんでしょうが」
午後6時10分前、交替の磯野が颯爽とした風情で20階のエレベーターホールに姿を見せた。
「ホテル側から要請があってな。お勤めは致し方ないが、宿泊客に威圧感を与えない服装でお願いしたいってさ。せめてネクタイ着用は常識ってことよ」
磯野はニヤニヤ笑ってから、やっと「事務所は動きなし」と最新の状況を報告する有り様だった。こんな時にネクタイがどうしたと戸惑いながら、真壁は新條にも動きがないことを伝えて、上がってきたエレベーターに飛び乗った。着けていたはずのネクタイは、いつ外したのか覚えていなかった。ポケットの中で丸まっていた自分のネクタイを取り出し、エレベーターが1階に着く前にそれを締め直して、フロントに向かった。
新條の氏名と部屋番号を告げ、内線をつないでもらいたいと申し出ると、フロントの係員はこう答えた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「警察です」と名乗ると、係員は困った表情を見せた。指定した者しか取り次がないよう客から指示されている顔だった。その眼前に、真壁はさっと手帳を突き出した。
「急用です。内線で、部屋に上がるからと本人に言ってください」
「ご用件は、何とお伝えすればよろしいでしょうか・・・」
「娘の紀子さんに放火の容疑がかかってると」
本人は電話に出たようだった。係員は言われた通りに伝え、受話器を置いて「お引取り願いたいとのことです」とだけ言った。
真壁は「お手数かけました」とだけ言って、その場を離れた。
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そもそも、女子高生のタレ込みに、結果的に必要以上に関わったという点では、自分も渡辺と同じだった。自分自身を動かしたものが何なのかと反芻しながら、真壁はその夜、久方ぶりに大井町のマンションへの帰途をたどっていた。
下からマンションのベランダ側を見上げると、たしかに6階の自分の部屋に明かりがついていた。朝、干していったはずの洗濯物もなかった。
「お帰り」
玄関のドアを開けると、空いている六畳間の方から声が聞こえた。奈緒子が洗濯した真壁のワイシャツにアイロンをかけているところだった。
真壁の口からはとっさに「余計なことをするな」という一言が出た。
「アタシがアイロンがけを止めると、文句と説教しかないけど、それでもいい?」
「説教って何だ?」
「洗濯物が干しっぱなし。お風呂場がカビだらけ。台所にゴキブリの死骸。押入れからネズミが・・・」
「わかった、わかった。もういい。俺が悪うござんした」
合鍵を管理人から勝手に受け取り、部屋の中の掃除や洗濯をしたりして世話を焼こうとする幼馴染は事件以上の難物だった。真壁は考える忍耐を失い、その場に腰を下ろした。
「お風呂沸いてるから、入ったら?」奈緒子は自分の顎をつついて言った。「髭、剃ってあげる」
熱いお湯をはった湯船に、真壁は身体を横たえた。疲れきった心身が、少しずつほどけていくのが分かった。両手で湯をすくって顔をざぶりと洗うと、真壁は吐息をもらした。シェービングクリームを泡立てている奈緒子を見ながら、《どうしてこんなことになったんだろう》と思ってみた。
湯船のへりに腰かけた奈緒子が髭の見える辺りを掌に出した白い細かな泡を塗りつけていく。それが終わると、奈緒子は真壁が使っているカミソリを取り出した。
「こんな古いの、使ってるの?」
「それが一番よく剃れるんだよ」
「ふぅん。さぁ、やるわよ。動かないでね」
奈緒子は右の頬に左手を当て、耳の下からそっと右手のカミソリを滑らせる。シェービングクリームが削り取られ、そこから覗いた皮膚が、なめらかに光って見えた。明るさを増した皮膚のその色は、体の中を流れる血の色そのままに見える。
ほとんど真壁の上に覆いかぶさるようにして、奈緒子はそっと伸びた髭を剃り落としてゆく。顎の向きを変えさせ、反らした喉に手を添え、濡らしたタオルで何度も使い捨てカミソリの刃先を拭いながら、少しずつあらわになって来るつるりとした皮膚に、奈緒子は眼を細めている。
眼を閉じながら、脳裏で靄になっているものがあった。老人を殺したかも知れない特定の子どもの顔ではなく、トゲと不安と脅えと沈黙に満ちたどこかの暗い家庭の姿だ。
それは大部分、根拠も必然もない想像ではあったが、家族1人ひとりの苦悩の息づかいが聞こえてくる。問題がいろいろと露わになってきて、危機に瀕している家庭が1つあると、真壁は思った。
真壁はふと、今はない自分の家のことを考えた。中学生の頃には、薄々勘づいていた。ニキビを気にして鏡をよく見るようになったからだった。両親のどちらにも似ていない自分に。両親を問い詰めるようなことはしなかった。本当のことを知るのが恐かったのかもしれないし、もし知ってしまったら、家を出て行かなくてはならないと考えたりもした。
出生にまつわる話を告知されたのは、高校を卒業した春だった。お前が一歳になるかならないとの時に、教会の乳児院から引き取った。隠していたわけじゃない。ただ今まで言い出せず、今日までずるずるとなってしまったんだ。里父は呟くように言った。
里父の水谷義平は新潟県警の外勤警官として30年近く、地域課と交通課を行ったり来たりしていた。職務に対しては忠実だったが、家の中では毎晩酒に酔い、食卓をひっくり返すこともあった。そんな父親がいて、複雑な家族関係だったのに、あの家庭が崩壊しなかったのは里母がいたからだ。高い教養はなくとも気丈夫で快活だった母親の佐代は、清々とした顔でよく笑い、家庭の皆が救われていたのだった。そういえば、紀子の母親というのは、どういう人なのだろう。
おそらく会う機会もないだろう見知らぬ女性を当てもなくあれこれ思い描きながら、真壁は湯船の中で少しウトウトした。
「マーちゃん、マーちゃん」
「うう、う?」
「終わったよ」
「ありがとう」
「それとさ、押入れの中に入ってたアルバム、大学の山岳部の写真。その中に俳優さんみたいな、すっごくカッコいい人がいたんだけど!」
「冨樫だな。気のいいやつだ。いつか会わせてやるよ」