〇第1次ロストフ攻防戦
黒海に近いロシア南部の戦域では、北部や中央部に比べると冬の到来がやや遅く、地表の凍結はモスクワ街道の正面より約1週間後の11月13日ごろだった。だが、南方軍集団でも貧弱な兵站機能によって補給状況が悪化しており、南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は11月4日に進撃の停止を陸軍総司令部に要請していた。
この時点で独ソ両軍の戦線は、ドン河の河口に位置する要衝ロストフの北約30キロの辺りで東に大きく突出部を形成しており、第1装甲軍(クライスト上級大将)は南のロストフを防衛する第56軍と、東と北に位置する南部正面軍の3個軍(第9軍・第18軍・第37軍)に三方を囲まれた状態になっていた。
第1装甲軍と対峙する南西戦域軍司令部は、突出部の北翼を護る第14装甲軍団の担当正面が100キロ近くにまで伸びて脆弱になっていることを受け、11月9日に南西戦域軍司令官ティモシェンコ元帥がこの正面での反撃計画をスターリンに説明した。
ただし、11月中旬はモスクワに迫るドイツ軍に迎撃するのに手一杯で「最高司令部」には南部正面軍に増援を送る余裕がまったく無かった。そのため、ティモシェンコには現有兵力のみで行うとの条件付きで反撃の実施を許可された。
11月17日、第3装甲軍団(マッケンゼン大将)はロストフに向けて、再び攻勢を開始した。同市の防衛を担うソ連第56軍(レメゾフ中将)は第14装甲師団に対して戦車部隊を差し向けたが、第3装甲軍団長マッケンゼン大将は第60自動車化歩兵師団を東へ展開させて、この反撃を撃退した。
11月20日、第3装甲軍団は降りしきる雪の中、ロストフの外縁に到達した。敗走を続ける第56軍は市内での抵抗を諦めて、そのままドン河の南岸に撤退した。SS自動車化歩兵旅団「アドルフ・ヒトラー親衛旗(LAH)」(ディートリヒ大将)は翌21日に鉄道橋を渡り、それを無傷のまま確保した。これにより、ソ連の油田カフカスへの玄関口は完全に占領された。
一方、南部正面軍(チェレヴィチェンコ大将)に所属する第37軍(ロパティン少将)は第9軍(ハリトノフ少将)と第18軍(コルパクチ少将)の支援を受けながら、17日からドイツ第14装甲軍団(ヴィッテルスハイム大将)の前線に攻撃を仕掛けて、23日には攻撃発起点から約50キロの地点にあるボリシェクレピンスカヤに到達した。
これにより、攻勢開始前の時点では「北翼でドイツ軍が東に突出し、南翼でソ連軍が西に突出していた」戦線がそれぞれ逆転した形勢となり、さらにボリシェクレピンスカヤからアゾフ海まではわずか30キロほどしかなく、ドイツ軍がロストフの保持に固執すれば突出している第3装甲軍団は、第37軍に退路を断たれて包囲される可能性が生じた。
11月24日、この展開を自軍の優勢だと判断したモスクワの「最高司令部」は南部正面軍司令官チェレヴィチェンコ大将に対して第1装甲軍を撃滅して、タガンログからロストフに至るアゾフ海の沿岸一帯を奪回せよと命じた。
11月25日、第五六軍は氷結したドン河を越えて、ロストフの奪回を目指して反撃を開始した。同地を護るSS自動車化歩兵旅団「LAH」は、打ち寄せる波のように突撃を繰り返すソ連兵を機関銃でなぎ倒したが、南部正面軍は2日間に渡ってこの正面に新たな部隊を投入して、人的損害を無視した突撃を繰り返させた。
この一連のソ連軍による反撃で、第60自動車化歩兵師団とSS自動車化歩兵旅団「LAH」が甚大な損害を受けた。第1装甲軍司令官クライスト上級大将はこれらの前線部隊の状況を鑑み、11月28日から29日の夜に独断で第3装甲軍団に対し、ロストフから西約70キロを流れるミウス河の線まで撤退するよう命じた。
すでにモスクワもカフカスの油田も手に入れたという幻想に浸っていたヒトラーは、第1装甲軍のロストフからの撤退を南方軍集団司令官ルントシュテット元帥が追認し、独断で改めて全部隊に撤退を命じたことに烈火のごとく激怒した。この時まで、ヒトラーは部隊を替えることによって状況を変えることを考えていたが、第1装甲軍はすでにロストフを放棄していた。
11月30日、ヒトラーは南方軍集団司令官ルントシュテット元帥に詰め寄り、撤退命令の撤回とロストフの再占領を命じた。ルントシュテットは部隊の疲弊を理由に「この撤退は絶対必要です」と強く主張し、「もし、信用できないなら、司令官を解任してほしい」と言い切った。
12月1日、ヒトラーはルントシュテットを南方軍集団司令官から罷免し、後任には第6軍司令官ライヘナウ元帥を昇進させた。即座に退却を中止せよと厳命されたライヘナウであったが、ミウス河への即時撤退のほかに第1装甲軍を救う手立てはないと判断し、同日の午後3時30分にはヒトラーに撤退の許可を要請した。
陸軍随一の新ナチ派だったライヘナウの切羽詰った申し出に、ヒトラーはしぶしぶ退却の許可を与えたが、この時期になり軍人に対する不信感が頭をもたげてきていた。何よりこの出来事が国防軍の被った初めての撤退であったのである。
〇暗黙の総意
11月18日、モスクワの南方では第2装甲軍がベロフ機動集団の反撃による一時の恐慌を克服して攻撃を再び開始した。第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将は10月末に残った戦車の大半をまとめて第4装甲旅団に編入させて、弱体化した第24装甲軍団の先鋒に投入した。
11月24日、第24装甲軍団の第4装甲師団はトゥーラ東方のヴェネフとミハイロフを奪取し、北方を除くほぼ全周からトゥーラを包囲することに成功したが、すでにこの時にはドイツ軍の各部隊は攻勢の限界点に達していたのである。
第二装甲軍の前線では、11月12日ごろから気温は連日マイナス20度以下にまで低下し、雪がふりしきり身を切るような風が叩きつける中、ドイツ軍の兵士はいまだ夏服の軍服で戦っていた。一部の兵士は、捕虜や現地の住民から取り上げた外套や防寒具を身に付けており、記章類に眼を凝らさなければドイツ軍の兵士と判別できなかった。
ドイツ宣伝省のある幹部は11月18日、次のような指示書を部下に配布した。
「防寒具や防寒下着などの冬季用衣類が、輸送手段の問題で東部戦線の前線で戦う兵士に届いていないことはきわめて由々しき問題である。もし、このような事実がドイツ国民に知れ渡れば、昨今の決定的な時期における、我が報道機関に対する国民の信頼が大きく揺らぐことになりかねない。
よって、報道写真を選択する際は細心の注意を払い、決して我がドイツ軍の兵士が冬季用衣類を受領していないことを示すものを選んではならない。防寒服を着ている捕虜のソ連兵を、防寒服を着ていないドイツ軍の兵士が護送する写真などは論外である」
陸軍参謀本部作戦課は東部戦線における冬季用装備の問題について10月26日、「北方と南方軍集団の各部隊は10月30日までに必要数の半分を受領。他の軍集団より部隊数の多い中央軍集団の場合、受領の程度は3分の1に留まる」との見込みを示したが、300万人分の将兵に支給されるはずの冬季用装備の多くは、貧弱な鉄道網によって輸送能力を制限されたために12月に入ってもまだ前線に運ぶことが出来ず、ワルシャワなどの後方の駅や倉庫で山積みになっていた。
その結果、最低気温が零下20~40度という極寒の環境下で、満足な耐寒装備もなく戦闘を続ける兵士は凍傷で手足の指を失い、物資を輸送する機関車やトラックは水パイプの凍結破裂で使用できなくなり、小銃や機関銃は弾丸に付着した霜による動作不良が続出するようになっていた。
また、ドイツ軍戦車のキャタピラには凍結した路面対策の滑り止めが装着されておらず、斜面を登る際に滑落するなどの事故が頻発していた。低温に対する光学機器の曇り止めや油脂類の凍結を防ぐ薬剤なども前線に配給されず、酷寒の中で戦車や装甲車のエンジンを始動させるためには、車両の下で焚き火をして温めなくてはなくなっていた。
11月23日、前線部隊の悲惨極まりない状況を見かねた第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将は中央軍集団司令官ボック元帥に直談判し、冬季用衣類の不足、戦車や火砲の消耗、補給の途絶などを説明した上で、モスクワへの攻勢を即座に中止して前線の兵士を越冬用の陣地に収容するよう許可を求めた。
しかし、ボックから電話で報告を受けた陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥と参謀総長ハルダー上級大将は、この提案をにべもなく却下した。中央軍集団司令部で通話内容を分岐のイヤホンで聞いていたグデーリアンは、モスクワ攻勢の継続を望んでいるのはヒトラーただ1人ではなく、陸軍総司令部による「暗黙の総意」であるとの印象を受けた。
11月27日、東部戦線の国防軍全体の兵站業務を統轄する立場にある陸軍参謀本部作戦課の兵站総監ヴァグナーはようやく事態の深刻さを認識して、報告書の末尾にこう書き記した。
「我々はもはや東部戦線において、人的資源も物的資源も最後のどんづまりに到達してしまった」
〇転換点
1941年11月中旬の時点では、ジューコフをはじめとする赤軍の首脳部はモスクワへ肉薄する敵をいかにして迎撃するかという防御作戦の指導に忙殺されており、戦略規模での攻勢に転じる可能性を検討する余裕をほとんど持ち合わせていなかった。
スターリンは11月中にいくつかの場所で局地的反撃を命じ、ジューコフやロコソフスキーなどの指揮官はやむを得ず命令に従って貴重な兵力を攻撃に投入していた。しかし、その結果はいずれも失敗に終わり、前線の指揮官たちは「自軍の状況を考えると大規模な反撃は時期尚早」との認識でほぼ一致していた。
11月19日、情勢を悲観したスターリンはペルフシコヴォに置かれた前線司令所にいる西部正面軍司令官ジューコフ上級大将に電話をかけ、今後の対応を相談した。
「君は我々がモスクワを守りきれると本当に確信しているかね?こんなことを質問するのは、我ながら情けないと思うのだが」
ジューコフは敵の攻勢がすでに限界に近づきつつあることを察知しており、2個軍と200両の戦車の増援があれば、モスクワは絶対に守りきれると断言した。この時点で新たな戦車の増援は望めなかったが、最も危機が迫っているモスクワ北西の突出部に第1打撃軍(クズネツォーフ中将)と第20軍(ヴラソフ中将)が投入された。
11月26日、ドイツ第2装甲軍がトゥーラをほぼ包囲しつつ、ゆっくりと北へ進撃してカシーラ付近の発電所を脅かそうとしていた。ジューコフは再び第2騎兵軍団長ベロフ少将に対し、「いかなる代価を払ってでも敗勢を回復すべし」と命令した。
「最高司令部」はムチェンスクでの成功を再現しようとした。第2騎兵軍団にはきわめて貧弱な予備兵力の中から第112戦車師団の半分に加えて2個独立戦車大隊(第127・第135)、第173狙撃師団、カチューシャ・ロケット砲隊1個を与えられた。この混成部隊は「第1親衛騎兵軍団」と改称され、カシーラ付近にいたドイツ軍の先鋒である第17装甲師団を攻撃するように命じられた。
11月27日、第1親衛騎兵軍団は反撃に出て、ヴェネフ北方まで進出していた第17装甲師団を3日間に渡る激戦の末に前線を30キロも押し返して、トゥーラへの脅威を取り除いた。しかし、この機動集団は前線の奥深くまで進撃したため、逆にドイツ軍の背後で孤立してしまった。
11月30日、モスクワに近い前線司令所に出向き、前線の苛酷な状況を視察していた中央軍集団司令官ボック元帥に、陸軍総司令部から緊急連絡が入った。電話の主は陸軍参謀本部作戦課長ホイジンガー大佐で、「敵の包囲・殲滅は完了するのはいつ頃なのか、総統が知りたがっておられます」とボックに伝えた。
ボックはそれには答えず、「もし陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥がそばにいるなら代わってほしい」と頼んだ。まもなくブラウヒッチュと電話が繋がり、ボックは溜まりに溜まった憤懣を受話器に向けて吐き出した。
「我々が最大限の能力を出し尽くしてこの作戦を遂行していることを、ぜひ総統に伝えていただきたい。本当に危機的な状況なのだ。私は手持ちの兵力を最善の形で運用しているが、予備はもう底を尽きかけている。
グデーリアンの第47装甲軍団はリャザンの北でオカ河に到達しているが、敵の反撃が強力でオカ河を越えて進めるとは思えない。第7装甲師団はすでにヴォルガ=モスクワ運河の対岸にあった橋頭堡を捨てて西へ退却してしまった。我々はもう突進力を失ってしまったが、敵は新たな兵力をモスクワの南北に投入し続けている。我が軍集団の両翼は、これらの敵に脅かされているのだ。
私もできれば、モスクワへの攻撃は続けたい。しかし、この酷寒の状況下で、部下に25年前のヴェルダン戦のような肉弾戦はやらせたくない。我が中央軍集団はもう戦力を使い果たしてしまったのだ」
「総統は、ロシアの完全な崩壊はもう間近だと確信しておられる。ボック元帥、総統は貴官がそれを実現してくれるのを待っておられるのだぞ」
「陸軍総司令部は、戦況を完全に誤認している。私は数日前から何度も、我が軍集団にはもはや攻撃続行の能力がないことを繰り返し報告してきたはずだ。すぐに予備兵力を贈ってもらえないなら、そのような任務を全うすることはできん」
「与えられた任務を全うすることが、貴官の責務ではないのか?」
ボックは怒りを爆発させた。
「だから、状況がそれを許さないと言っているのだ!」
この後、ボックは冬季用装備や予備兵力の不足を理由に、もはや自軍には攻撃を継続する余力が残されていないことをヒトラーに伝えるよう辛抱強く訴えたが、ブラウヒッチュの態度もボックの訴えと同じように頑迷だった。
「総統が知りたがっておられるのは、モスクワがいつ陥落するかということだ」
「あなたはここで何が起きているのか、まだ分からないのか?このまま攻撃を継続することが何を意味するのか、あなたはまだ理解できていないのか?」
〇終焉
中央軍集団の第4軍と第2装甲軍は12月はじめの数日間、モスクワ正面で最後となる攻撃を実施していた。
第四軍司令官クルーゲ元帥は「台風作戦」の立案段階から、この攻勢に対して消極的な態度を取り続けており、11月中旬に開始された「1941年度秋季攻勢」の時期も、ナラ河の地形を利用した戦線の維持と兵力の温存を優先して、配下の部隊に積極的な攻勢を行わせようとはしなかった。
そのため、北翼に隣接する第4装甲軍司令官ヘープナー上級大将は第4軍司令部に繰り返し電話をかけ、「第4軍も一緒に前進してくれなくては第4装甲軍の南翼が延びて不利な状況になるので、ナラ河流域でモスクワへの本格的な攻勢を行ってもらいたい」と、重ねて要請していた。しかし、クルーゲはヘープナーの要請を11月末まで無視して兵力温存の姿勢を崩さなかったため、両者の関係は次第に険悪なものへとなっていた。
12月1日、クルーゲはようやくモスクワ街道の南に位置するナロ・フォミンスクの周辺で、第57装甲軍団と第20軍団を投入した攻撃を開始した。このときクルーゲは幹線道路に沿って真っ直ぐ進撃させるという方針を取った。
前日までは視界が良好だったこの戦域では、この日から天候が荒れて猛吹雪となり、気温も摂氏マイナス34度まで低下した。それでも第4軍の進撃は衰えることなく、同日中にナロ・フォミンスクを占領すると、ジューコフの前線司令所があるペルフシコヴォからわずか12キロのゴリツィノに到達した。
中央軍集団の南翼を担う第2装甲軍の第24装甲軍団は、第4軍の第43軍団と協同してトゥーラの占領を目指す総攻撃を12月2日に実施する計画を立案していた。しかし、クルーゲが攻撃の前日になって「準備にあと3日を要する」との理由で第43軍団の参加を延期するとグデーリアンに伝えたため、攻撃は12月2日の早朝から第24装甲軍団のみで実施された。
12月2日、気温が摂氏マイナス30度という酷寒の中、第24装甲軍団は最後の力を振り絞って進撃を続け、翌3日には第4装甲師団がトゥーラの北方に残された回廊を東から圧迫して、モスクワとトゥーラを結ぶ重要な鉄道と道路を封鎖することに成功した。
しかし、もはやドイツ軍には進撃する余力は残されていなかった。対するソ連軍の各部隊はそのほとんどがまだ戦闘経験を持ち合わせていなかったが、これまでの粗末な蛸壺陣地に代わって、堅固な塹壕帯に布陣していた。さらにヴィアジマ周辺の手薄な防衛線とは対照的に、今やほとんどの軍は後方に2~3個師団を配し、騎兵の予備も加えていた。
ナロ・フォミンスクからモスクワに迫ろうとした第4軍はまもなく、ソ連第1親衛自動車化狙撃師団の粘り強い抵抗に遭遇して、攻撃を停滞させられた。この抵抗と協同するように、第33軍(エフレモフ少将)が反攻を開始し、第4軍の南翼に危機が訪れた。
12月3日、クルーゲはついに攻撃中止の命令を下した。グデーリアンもまた、最も危機が迫っている部隊を撤退させる決意を固めた。ヤースナヤ・ポリャーナのトルストイの旧居に置かれた第2装甲軍司令部で、グデーリアンはこれから東部戦線全体で何が起こるのか、思案した。家の外には、雪で覆われたトルストイの墓があった。
苦しい戦況はソ連軍にも変わりはなかった。
12月1日、クレムリンにあるスターリンの執務室で電話が鳴った。スターリンが受話器を取ると、相手は西部正面軍司令部に派遣した特使のステパノフ少将だった。ステパノフの報告によると、ジューコフの参謀はドイツ軍がすぐ近くまで来ていることを心配し、指揮所をモスクワ東方に移転させようとしているという。
「ステパノフ同志」スターリンは言った。「シャベルを持っているかどうか、彼らに尋ねてくれたまえ」
「ちょっと行って見てまいります・・・スターリン同志、どういう種類のシャベルでしょうか?塹壕を掘る道具でしょうか、それとも何か別の種類の?」
「どんな種類であろうとかまわん」
「それでは見てまいります・・・はい、シャベルはあるようです。スターリン同志、それで何をせよとおっしゃるんです?」
「ステパノフ同志、君のお仲間たちにそのシャベルを手に取るように言いたまえ。そして、自分たちの墓穴をいくつか掘るようにと。最高司令部はモスクワを離れない。私もモスクワを離れない。彼らもペルフシコヴォから離れてはいかん」