33
砂嵐で辺りは夕暮れのように暗くなり、外に出れば砂が容赦なく襲いかかった。発掘現場の端には、砂よけに鼻と口をハンカチで覆ったエメリア軍の兵士たちが待機している。岩の陰に隠れてはいるが、視界は砂に閉ざされ、敵の姿も見えないかわりに、こちらも相手からはかなり見えにくいはずだ。
砂塵のなかで影が動いた。エメリア軍兵士の中に、気がついた者はいなかった。次の瞬間、暗がりからトゥルカナの戦士たちが一斉に飛び出した。吹きすさぶ風に雄叫びが混じる。兵士たちは即座に応戦しようしたが、敵はもう眼前に迫って来ていた。銃弾に先頭を走る数人が倒れたが、後ろから重い槍を投げ、半月刀を抜いて突進してくる。槍がエメリア兵の首を貫く。トゥルカナの戦士が1人、胸に銃弾を食らって唐突に立ち止まり、胸から噴き出る血を見下ろし、地面に崩れた。別の戦士は刀を振り回し、敵を切り倒したが、直後に銃剣に背中から突かれた。
両軍はともに飢えた狂犬のように相手に飛びかかり、果てもない殺戮が延々と続いた。風が獣のように吠えたて、細かい砂塵が薄いベールとなって、血と骨が飛び散る肉を覆い尽くした。
ジョージは病院のドアから飛び出した。偶像を手に抱えている。ショットガンを持ったムティカが後に続いた。砂嵐は荒ぶる獣のように襲いかかり、顔を突き刺し、皮膚に噛みついてくる。2人は通りに止まっているトラックへと走った。巻き上がる砂で、眼が見えない。ようやく運転席のドアにたどり着いたとき、砂の靄からトゥルカナの戦士が1人、槍を振りかざして飛び出した。ムティカのすぐ後ろだ。
「危ない!ムティカ!」
振り向いたムティカがショットガンを構えた瞬間、戦士の槍がムティカの胸を貫いた。グサッと恐ろしい音がして、ムティカは小さくあえぎ、ショットガンの引き金をひいた。戦士は吹っ飛び、トラックに血しぶきが降りかかる。2人はそのまま倒れた。
ジョージは胸に偶像を抱え、足元に転がる2人の死体を見つめた。ムティカは死んだ。だが、ジョセフは生きている。ジョセフなら、まだ救えるかもしれない。
ムティカのショットガンを拾い上げ、偶像と一緒に助手席に放り投げて、ジョージはトラックに乗り込んだ。震える手でエンジンをかけ、アクセルを踏む。ヘッドライトをつけたが、薄暮の中、かすかに道が浮かび上がるのみだ。風と砂がトラックにからみつき、ざらざらとした空気が汗まみれの顔と背に叩きつける。
前方で砂嵐が分かれ、路上にハイエナの群れが現れた。慌ててブレーキを踏み、急停止する。トラックは何メートルか滑って停止した。ショットガンと偶像が床に転がった。ハイエナは全部で6頭。3頭が地面に横たわる何かを喰っている。残りの3頭が牙を剥き、じっとジョージを見つめている。
ジョージは生唾を飲み込んだ。掌がじっとりと汗ばんでいる。ハイエナたちはあえぎ、吹き荒れる風の中で、嘲るように舌をだらりと垂らしている。まず1頭が、続いて5頭も一緒に笑い出した。身の毛のよだつような冷たい笑い声だ。
ジョージは一気にアクセルを踏み込んだ。群れの中を突っ切ろうとしたが、突然、ガラスの砕ける音がした。破片が頭に降り注ぎ、1頭のハイエナが右の助手席の窓から飛び込んできたのだ。ジョージは思わず悲鳴を上げ、ハンドルを左に切った。その瞬間、遠心力でハイエナは吹っ飛んだが、トラックは地面に横転した。
運転席でシートベルトに宙づりになっていると、2頭目が飛び込んできた。唇がめくり上がり、剥き出しになった長い牙から唾液が垂れてくる。ジョージはとっさに腰に差した黄金のリボルバーを掴むや、引き金をひいた。
轟音の後、青白い炎を上げて、ハイエナが消滅した。床に転がっていた偶像をシャツの胸ポケットにつっこむと、おそるおそるドアから顔を出した。途端に、3頭目が正面から飛びかかってきた。
「なめるな!」
即座に、引き金をひく。轟音!青白い炎を上げるやいなや、ハイエナの塵が砂嵐にのみ込まれた。注意深く眼をこらすと、砂の靄に、何体ものハイエナの姿が黒く映えた。ジョージはポケットに手を入れ、ピジクスがくれたシリンダーの個数を確かめる。
《敵が見えたら撃つ。当たらなくていい。1発撃ったら、頭を引っこめる・・・》
逡巡していると、4頭目が襲いかかってきた。引き金をひく。撃ち始めると時間は止まり、撃っては引っこむ反射運動のようになった。久方ぶりに銃を握るジョージに反動がこたえ、数発で手首がしびれ、轟音で耳が遠くなってくる。
「5!4!3!2!1!」
最後のシリンダーが空になった。慎重に周囲の様子をうかがうと、ハイエナの姿はもうなかった。ショットガンを抱えてトラックから飛び出すと、ハイエナが喰っていたものが眼に入った。それはカマラだった。首がほとんど身体から離れかけている。全身に走る怖気をどうにか抑え、ジョージはカマラの両手を胸の上で組ませると、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
ようやくジョージが発掘現場に到着した頃、砂嵐はいよいよ勢いを増し、まさに解き放たれた獣のように猛り狂っていた。服の中に砂が入り込んでチクチクと肌を刺してくる。吹き荒れる砂の薄い靄を通して、教会は暗い影となって前方に立ちはだかっている。風に逆らい、倒れ込むように歩く。
周囲には死体がごろごろと転がっていた。槍が死体の胸から突き出し、刀や銃剣に切り裂かれた死体に腸がロープのように巻きついている。切断された首が、ぼんやりと虚空を見つめている。砂のカーテンの向こう側から、銃声と悲鳴が聞こえてくる。戦闘は今なお続いているのだ。
1頭のハイエナが現れた。兵士の足を引きずっている。兵士は恐怖と苦痛で泣き叫んでいる。ジョージはショットガンを構えた。弾が外れても、追い払うことは出来るはずだ。引き金をひくと、カチリとこもった音がした。銃身に砂が詰まってしまったらしい。ハイエナは兵士を引きずりながら、砂の向こうに姿を消した。ほっと息をつき、ショットガンを投げ捨てると、またしてもハイエナの群れが現れた。
ジョージは教会へ逃げ込んだ。
34
扉を背後で閉じると、嵐が不意に遮断され、ジョージはよろめいた。入口に立ち、髪や服から砂を払い落とす。丸天井から差し込む薄暗い光に眼を慣らしながら、天使像の立つ祭壇へ向かい、中央通路をゆっくりと歩いていく。だが、何だか様子がおかしい。辺りには血腥い臭いが深々とたちこめている。
「アン?ジョセフ?」
丸天井の下にやってくると、石像と周りの床にカラスの死体が散らばっていた。一目では数えきれない程ある。口がやけに乾く。勇気をふりしぼって前へ進む。
巨大な十字架の位置が変わっていた。相変わらず逆さ吊りだが、今は祭壇の真上にぶら下がっている。
「ヘレーネ?」
天使像の周りを回る。祭壇は開いていて、石段が地下へ続いていた。ふと見ると、カンテラが床の上で光っていた。手に取り、翼廊を照らしてみる。明かりの中に、洗礼盤が浮かび上がった。血がべったりと付着している。さらに近寄ってみると、鎖の付いた小さな十字架が床に落ちていた。アンのものだ。その傍には、悪魔祓いの儀典書と聖水の瓶が置かれている。瓶は傾き、聖水が少しこぼれている。ジョージはこぼれた聖水に指先をひたし、震える手で額に十字を描いた。それから瓶を拾い、蓋をしてポケットにしまった。
床に膝をつき、ジョージは久方ぶりに祈りの姿勢を取った。両手を組み、頭を垂れる。何と言うべきか。背を向け続けた相手に、どう語りかければいいのか。言葉はなかなか出てこなかったが、やがて使徒伝の一節が脳裏に浮かんだ。
「主よ、どうかこの不信心者を赦し給え。どうか主よ、御力を与え給え」
言葉は正確でなかったかもしれない。大切なのは、気持ちだ。
「我が祈りを聞き給え。主の御力が必要です。この大地には、主の御力が必要です。我が叫びを聞き給え。どうか、我々をお見捨てになりませんよう。この務めのため、我が罪を赦し、浄め給え。主よ、どうかこの不信心者を赦し給え」
ジョージは三度、同じ祈りを唱えた。
「主よ、この不信心者を赦し給え!」
最後の祈りを唱え終わり、ジョージはしばらくそのままの姿勢でいた。もちろん、何も起こらない。立ち上がると、膝の痛みに思わず顔が歪む。アンの十字架に口づけし、首にかける。儀典書を手に取り、振り返った。
ジョージは眼をみはった。カラスの死体がひとつ残らず消えている。羽根1枚、落ちていない。これは祈りが届いたというお告げなのか。ジョージは心の中で感謝を捧げた。
眼に血の跡が飛び込んできた。祭壇の方へ続いている。傍らには、小さな足跡がついている。子どもの足跡のようだ。思わず背筋に戦慄が走る。
血の跡をたどって天使像へ戻ると、喉の詰まるようなすすり泣きが聞こえてきた。祭壇の方を向くと、その端に、ジョセフが恐怖に眼を見開いて座っていた。
ジョージはジョセフに歩み寄った。
「ジョセフ・・・」
ジョセフの体には赤い水滴が雨のように降り注いでいる。ジョージはゆっくりとカンテラを頭上にかかげた。水滴は十字架の主の顔を横切って流れてくるようだ。
さらにカンテラを高くかかげると、はたしてヘレーネがいた。まるでソファにでも座るかのように、十字架の横木に快適そうにもたれている。皮膚はまだらで灰色になり、口は鰐のように大きく裂けている。
「ここへ来て、ジョージ。噛みつきやしないから」
ヘレーネの声はすでに濁っていた。悪魔の声だ。ジョージは思わず歯を食いしばった。恐怖が口から唸りとなって漏れ出す。
「ジョセフ、逃げろ!」
ジョセフはビクリとしてジョージの言葉に従おうとしたが、悪魔はくるりと身を回転させ、蝙蝠のように逆さにぶら下がり、ジョセフと面で向かい合った。そして、警告するように指を振ると、ジョセフはその場に凍りついた。
「その子は放っておけ・・・」
悪魔は骨をきしませ、上体を持ち上げた。頭が脚をかけた十字架の横木に触れそうだ。
「いやだね」
ジョージはカンテラを床に置き、両手を組んだ。
「主よ、憐れみを。主よ、我らの祈りを聞き給え。神よ、天にめします父よ、我らにご慈悲を。神よ、神の御子よ、救世主よ、我らに御恵を」
「無駄だ!」
悪魔が吠える。
「神よ、聖霊よ、我らに憐れみを。三位一体なる唯一の神よ、我らにご慈悲を。聖母よ、我らのために祈り給え」
悪魔は軽い身のこなしで、十字架から飛び降りた。なまめかしい身振りで、ジョージに近づいてくる。ジョージは背筋を伸ばした。自分は神とともにある。
悪魔は灰色の舌を出して唇をなめた。眼がぎらりと黒光りしている。
「どうしたの、ジョージ?あたしとヤリたくないの?」
悪魔が手を伸ばし、ジョージの顔に触れようとする。ジョージはさっとその手首をつかんだ。悪魔の口からハイエナと同じ高笑いが洩れ、冷たい息が吐き出される。腐った肉の臭いが鼻を突いた。
ヘレーネの腕にあった入れ墨があらわになった。数字が毛虫のようにのたうつと、ある文字に変わった。
《助けて》
「族長たち、預言者たちよ!我らのために祈り給え!聖ゲオルギーよ、我らのために祈り給え!聖ゾフィよ、我らのために祈り給え!聖ヨセフよ、我らのために祈り給え!」
「あんたは弱き器だ、ジョージ。神があんたのような男に力を与えると思う?この呪われた地を浄める力を?あんたはあの連中を見殺しにした。あんたは神に背を向けた。どうして、神があんたの言葉に耳を貸すと思う?何も信じないあんたに」
悪魔の言葉はジョージを打ちのめした。ヘルンデールでの暗い記憶が恥辱と罪の黒い海となってジョージをのみこむ。これほど弱く汚れた人間に、神が御力を託すわけがない。そのとき、ジョセフの姿が眼に入った。眼を見開き、血にまみれ、震えながら祭壇に座っている。過ちは繰り返さない。ヘレーネとジョセフを見捨てはしない。
「神がぼくに力を貸さぬというのなら、悪魔よ、なぜぼくを恐れる?」
ジョージはすばやく両手で悪魔の頭をつかみ、その額を自分の額に押し当てた。さっき額に描いた聖水の十字架が、悪魔の額を焦がし、悲鳴を上げる。
「全能の主よ!神にして、万物の造り主よ!」
ジョージは声を張り上げた。
「我に力を与え給え。我がすべての罪を赦し、この忌まわしき悪霊と闘う力を授け給え」
悪魔が嘔吐し、ジョージの顔に緑色のヘドをぶちまけた。
「生ける者と死せる者の名において、この神の僕から追放することを命じる!主の御力が汝を追放する!」
すると、眼の前につかんでいる悪魔の頭が、ヘンケに変わった。ヘンケはニヤりと笑い、腐った黒い歯があらわになった。
「今日、ここに神はいないよ。神父」
思わずひるんだ隙に、悪魔は身を振りほどき、ジョージを突き飛ばした。ジョージは石像に頭を打ち付けた。後頭部に激痛が走り、網膜に星が飛び散る。ようやく意識が戻り、身を起こすと、悪魔は消えていた。打ちつけたところが心臓の鼓動に合わせ、ズキズキと疼く。
ジョージはカンテラを拾い上げ、辺りを照らした。悪魔はいない。ジョセフはまだ祭壇の上に座っていた。ジョージは手を伸ばした。
「ジョセフ、こっちへおいで」
ジョセフは首を振った。十字架から滴る血が、涙に混じって頬を伝わっていく。ジョージはそっと傍に寄った。
「ここを出よう。帰りたくないのかい?」
ジョセフは怯えたように周囲を見回し、ようやくうなづいた。祭壇から滑り降りようとした瞬間、背後から灰色の手が伸び、ジョセフが悲鳴を上げる間もなく、石段の奥へ引きずり込んだ。
35
「待て!」
ジョージは祭壇に飛びついたが、すでに遅かった。悪魔の嘲笑が石段から響き、次第に遠ざかっていく。ジョージは儀典書をポケットにつっこみ、全速力で石段を駆け降りる。底に着くと、丸い岩戸はすでに開いていた。ジョージは寺院に踏み入れた。
「たとえ死の影の谷間を歩くとも、悪を恐れまい。主よ、御心とともにある限り」
深い闇の中、何かが駆けていく音がし、ジョージはさっとカンテラを振り回した。カンテラの光に浮かび上がるのは、悪魔のレリーフと古い祭壇だけだ。祭壇の表面に掘られた溝には、新しい血が滴り落ちている。
何かが床に光った。ジョセフにあげたロックハンマーだ。ちょうど肉食獣の頭を持った彫像の真下に落ちている。ジョージはようやくこの彫像の名前を思い出した。病と苦悩を司るアッカドの神、シュコドラ。
ロックハンマーを拾い上げ、それからシュコドラを見た。その後ろの壁をカンテラで照らしてみると、岩の間にやっと人が通り抜けられるほどの狭い割れ目がある。ジョージは大きく息を吸い込み、中に踏み込んだ。
左右から岩が迫ってくる。自分の呼吸だけが、激しく耳に響いてくる。
「ジョセフ?」
声はしわがれた囁き声になった。心臓の鼓動が雷鳴のように轟き、体を走るすべての神経がざわめいている。
「ああ、主よ。どうか我が道を守り給え・・・」
背後から息づかいが聞こえた。ほとんど自分の耳元だ。カンテラを後ろへ回し、危うく岩壁にぶつけそうになる。ほんの一瞬、悪魔の顔が視界に浮かんだ。ジョージは恐怖のあまり、しばしその場に立ちすくんだ。
「悪魔を仇の許に追い払いたまえ。その信念により、彼らを滅ぼしたまえ。あらゆる苦悩から我を救い給いし主よ、ゆえに我は今、敵を見下す」
意を決し、ジョージは歩を進めた。しばらくすると、足元になじみのある感触がよみがえる。床をカンテラで照らしてみる。でこぼこした石畳に、うっすらと積もった雪が光っている。
胸が苦しい。前方から歌声が聞こえてきた。甘く、軽やかな少女の声。やや赤みがかったブロンドの髪をお下げにして、質素なブルーのワンピースを着ている。
ゾフィ・モーデル。ヘンケに射殺された娘だ。そのゾフィが、ジョージの歩くトンネルの出口らしきところに立っていた。
ジョージは駆け出した。カンテラが揺れる。追いつけば、今度はゾフィを救うことができるかもしれない。
「ゾフィ!」
ゾフィはニッコリと笑い、手を振った。もう少し。あとわずかで手が届く。突然、何か大きな塊がぶつかり、ジョージは地面に叩きつけられた。塊に押さえつけられ、息が苦しい。血の匂いがし、顔には濡れた布地が押しつけられている。塊を振り払おうと、必死に身をもがく。ようやく重い塊を押しのけ、カンテラの光を当ててみた。
大きな黒い縁の眼鏡が眼に入った。レンズが割れている。アンだ。ひと目見て、すでに息絶えているのが分かった。左胸にはぽっかりと穴が開いている。
「シスター・アン・・・」
打ちのめされ、ジョージは懸命に吐き気を抑えながら、後ずさりした。自分を怒らせたこともあったが、アンは善人であり、よきシスターだった。少なくとも、自分よりはマシな人間だった。胸の内に怒りがこみ上げてくる。
「神よ、我らが主の父よ。その聖なる御名に、いやしくもお願い申し上げます。どうか、ご慈悲を。今、あなたの創造物を苦しめているあらゆる不浄の悪霊と闘う力を、どうぞこの僕に、主を通じてお与え下さい」
ジョージは身を屈め、そっと祈りをつぶやき、死者の魂のために最期の秘跡を行った。そして、アンの首にかかっていた紫のストーラを手に取った。ストーラには全く血が付いていない。まさしく、神のしるしだ。ジョージは恭しくストーラに口づけし、そっと自分の首にかけた。
さらにトンネルを進むと、眼の前に広い空間が開けた。天井は高く、カンテラの光は全く届かない。そこからさらにトンネルは三つに分かれ、いずれも漆黒の闇へつながっている。悪魔とジョセフの姿はどこにも見えない。ジョージはカンテラをそれぞれのトンネルの入口にかざしてみた。
「ジョージ・・・!」
ジョセフの声がした。心臓が飛び上がる。声の出所を確かめようとするが、こだまが洞窟じゅうに反響している。
「ジョージ・・・!」
もう一度、声がした。今度は遠くなっている。
「ジョセフ!今いくぞ!」
必死の思いで3つの入口にカンテラを振り向ける。足跡か、何かヒントになるものはないかと眼をこらす。
真ん中のトンネルで、ほんの少し何かが動いた。ジョージは飛び込んだ。トンネルの天井が急に低くなり、すぐに四つん這いにならなければならなかった。
「ジョセフ!」
「ジョージ、助けて!」
はるか彼方からジョセフの声がした。
「こわいよ!助けて!」
這いつくばって進むジョージの耳に、自分の呼吸が荒々しく響いてくる。天井はさらに低くなり、もはや匍匐前進するしかない。周囲に堅い岩盤が迫ってくる。立つことはもちろん、振り向くこともできない。それでもひたすら進んでいくと、背後からうめくような唸り声がした。思わず飛び上がり、頭を天井にぶつけた。身体をひねろうとするが、トンネルが狭すぎる。両脚は完全に無防備だ。兵士の足を引きずっていったハイエナの姿が脳裏をよぎる。
「ああ、神よ。我が祈りを聞き給え。我が前に立ちはだかり、非情の者が我が命を狙う。神を神と思わぬ者どもが」
また、踵のあたりで唸り声がした。後ろに向かって懸命に足を蹴ってみるが、何にも当たらない。叫び出したかった。いっそ気が狂ってしまえば、この恐怖と焦燥から解放されるのではないだろうか。なんとか身をよじって、さきに進む。
「神よ、我らが主の父よ。その聖なる御名に、いやしくもお願い申し上げます。どうか、ご慈悲を。今、あなたの創造物を苦しめているあらゆる不浄の悪霊と闘う力を、どうぞこの僕に、主を通じてお与え下さい」
カンテラの光がかげった。恐怖がパニックに変わっていく。地中深く、堅い岩壁に挟まれた完全な闇の中で、悪魔とともに閉じ込められる。なんとか落ち着きを取り戻そうと、カンテラの火にそっと息を吹きかける。
明かりが消えた。呼吸が次第に速くなる。祈るように、カンテラを叩いてみる。
36
突然、カンテラの火が勢いよく燃え上がった。眼の前に、悪魔の顔があった。思わず後ろへ退こうとしたが、途端に体が岩壁にひっかかる。悪魔の爪がジョージの顔を引き裂いた。焼けつくような痛みが肌に走り、生温かい液体が頬に伝わっていく。悪魔が歓喜の叫びを上げ、何度も何度も爪を立ててくる。
必死にポケットの中の聖水に手を伸ばすが、届かない。
「聖なる主よ、全能の父よ、永遠の神にして我が主の父よ。かつての暴君を天より追い落とし、永劫の業火に引き渡したもうた主よ・・・!」
聖水の瓶が手に届いた。ジョージはすかさず蓋を開け、聖水を悪魔の双眸に振りかけた。ジュッと音を立てて、悪魔の肉が溶けていく。眼から真っ黒な液体を流し、悪魔は金切り声を上げ、怯えたように洞窟の奥に身を引っこめた。
「・・・主よ、主の葡萄畑を荒らす獣を恐れさせ給え!」
ジョージはさらに聖水を振りかけようとしたが、今度は悪魔の手がさっと伸び、ジョージの手首をつかんだ。刹那、ジョージの体はトンネルから引きずり出され、宙を舞った。途端に背中が岩壁に衝突し、堅い岩の床に投げ出された。息が詰まる。体勢を立て直す間もなく、背後から凄まじい力で持ち上げられ、横の岩壁に投げ飛ばされた。全身に激しい痛みが貫き、力を失くしたジョージはそのまま床に沈んだ。聖水の瓶はどこかに飛んでしまったが、カンテラはジョージのすぐそばに落ちていた。光は弱く、周囲はほとんど見えない。
「あたしの方がずっと近くにいるのに、なんであいつの名前なんか呼ぶのさ?」
悪魔が囁いた。ジョージはなんとか立ち上がろうとしたが、今度は首をつかまれ、ギリギリと締めつけてくる。悪魔は苦もなくジョージの上体を持ち上げた。ジョージは悪魔の手首をつかみ、睨み返す。両脚が地面から浮き始める。
「あらゆる悪から・・・おお、主よ・・・我らを救い給え」
声をなんとか絞り出す。
「主の怒りから・・・我らを救い給え。すべての罪から・・・我らを救い給え。悪魔の誘惑から・・・」
「誘惑だって?」
悪魔が顔をジョージの目の前に突き出してきた。眼から黒い膿が溢れ出している。
「あたしは誘惑なんかしてないよ、ジョージ。あんたが自分から近づいてきたんじゃないか。万死に値するね」
「救い給え・・・怒りと憎しみ・・・すべての邪なる意思から、我らを救い給え。あらゆる色欲から、我らを・・・救い給え」
「戻りたくないの?」
突然、首の圧迫が緩められた。悪魔が口を寄せ、ジョージの耳にささやく。
「戻る・・・?」
「そうさ。戻るんだ、ジョージ。あの日からもう一度、やり直したらいい。自分の罪も帳消しにできる」
「・・・嘘だ」
「戻りたいくせに」
「神の御力によって・・・我らを・・・」
口がもつれた。突然、ジョージはヘンケの傍らに立って銃を奪い取り、ヘンケの顔面に銃をぶっ放す幻覚を見た。いけない。復讐は神が行うもの。しかし、幻覚はなかなか去ってはくれない。手を伸ばせば届きそうだ。
《戻り・・・たい・・・》
気が付くと、ジョージは灰色のこぬか雨の中に立っていた。足元は石畳で、空気は冷たく湿っている。村人たちが身を寄せ合い、兵士たちに囲まれて震えている。広場に兵士の死体が眼を開けたまま横たわっている。雨に濡れた黒い制服に身を包んだヘンケが、ニヤりと顔を歪めて笑った。
「おい、神父。名は何という?」
「ロトフェルス神父だ」
「こいつらは・・・貴様の信徒か?」
ジョージはうなづいた。
「それなら、告白を聞いたはずだ。さぁ、犯人の名を言え」
「この中にはいません。誰にも、こんなことは出来ない」
「私の言ったことを聞いてないのか?」
「今日、神はここにいないと?ええ、分かってます」
ジョージは平静に答えた。ヘンケは困惑した表情を浮かべ、沈黙した。瞬時に、ジョージは次に何が起こるのか知った。
ヘンケは怯えている村民たちに向き直った。
「お前らのうち、10人を銃殺刑に処する。犯人に、犯した罪の重さを思い知らせるためだ」
ヘンケは50代の男に近づいた。エリク・リヒターだ。銃を抜き、リヒターを村民の中から引きずり出すと、石畳の上にひざまずかせた。兵士たちはサブマシンガンを群衆に向けている。
「でかい手をしてるな」
銃口をリヒターのこめかみに当て、ヘンケは言った。リヒターの喉がごくりと鳴った。
「農家か。子どもはいるのか?」
「はい、娘が2人」
「よし、まずはお前からだ」
「待て!」
ジョージは叫んだ。ヘンケは銃を動かさず、振り向いた。
「何か異論があるのかね、神父?」
「あんたの部下を殺したのはぼくだ。ぼくを撃て」
「そうか」
ヘンケは蛇のような笑みを浮かべた。
「気持ちは分かる。羊たちを救うために、我が身を投げ出す羊飼いってとこか。だが、そうはいかん。あんたに選んでもらおう。さぁ、5秒やる」
「ぼくには・・・出来ない」
絞り出すように、ジョージは言った。全て同じことの繰り返しだ。もう何千回、この場面を頭の中で再現したことだろう。
ヘンケは一番近くにいた娘を引きずり出した。ゾフィ・モーデル。ヘンケが銃を持ち上げる。
ジョージは飛びかかった。驚いた兵士たちが茫然と見守るなか、ヘンケの手をつかみ、ねじり上げた。ヘンケが悲鳴を上げ、気が付くとジョージは銃を手にしていた。勝ち誇った笑みを浮かべ、ジョージはヘンケに銃口を突きつけた。村民たちは不安そうに顔を見合わせている。
「部下に武器を置いて立ち去れと言え!さもないと、貴様を撃つ!」
ジョージは声を荒げた。ヘンケの眼はまず銃口に、それからジョージに向けられた。
「好きにするがいい、神父。ただし、私の部下は武器を置かないよ」
兵士たちはサブマシンガンを上げ、群衆に狙いを定めた。ジョージはすかさず引き金をひいた。ヘンケの頭が吹っ飛び、血と脳漿が飛び散った。ヘンケは壊れた人形のように、しぶきを上げて水溜まりの中に倒れた。
「撃て!」
兵士の1人が叫んだ。
「皆殺しにしろ!」
「やめろ!」
ジョージが振り向いた瞬間、サブマシンガンが一斉に火を噴いた。まずゾフィが、衝撃と苦痛を顔に浮かべて倒れた。そして、リヒターも撃たれた。兵士の1人がジョージに銃口を向ける。逃げる間もなく、引き金をひかれ、ジョージは衝撃で吹き飛んだ。地面に叩きつけられたが、不思議と痛みは感じない。機銃掃討を食らった村民たちが倒れていくのが見える。やがてジョージの眼は重くなり、瞼を閉じた。
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ジョージは堅い石の上に横たわっていた。じっと死ぬのを待っていたが、何も起こらない。ゆっくりと眼を開け、体を起こした。洞窟の中だ。胸に手を当てると、銃創がぽっかりと口を開けている。ところが、手の下で皮膚がもぞもぞと動き、傷が塞がっていく。手を離すと、掌についた血も消えていた。そばにはカンテラが落ち、明かりが灯っている。
「気分はどう?」
猫なで声で悪魔が言った。
「あんたは出来るだけのことをした。自分の命も投げ出した。それなのに結局、神様はみんな殺してしまった。あんたが選んだ十人だけじゃない。みんなだ。分かった?あんたの罪は消えたよ。もう自由なんだ」
「何の自由だ・・・?」
「胸を張って歩く自由さ。借りも罪もないんだから」
確かにそうだ。自分がどうしようと、あの村民たちは死ぬ運命にあった。ここで自分が何をしようと、結局、惨劇は起きた。関わる必要はない。気にすることはない。簡単なことだ。
「安心しな、ジョージ。思い煩うことはない。どっちにしろ、神様は気にしてないんだ。神には神の計画があるのさ」
「ぼくも・・・その計画のなかに入ってたとしたら?」
「入ってないよ。なんで神は、あんたをこんな試練を与える?なぜ、これ程の苦痛をお与えになるんだ?気にしてないか、単に残酷なのかのどっちかだね」
「今ここに、ぼくがいることを神はお望みなのかもしれない・・・!」
ジョージは声に力を込めた。
「神の名において、お前と闘うために。悪魔よ、地上にお前の居場所はない!人間こそ、神に選ばれた聖域なのだ!」
すばやく立ち上がると、ジョージは悪魔にひと差し指を突き出す。
「我らが主に代わり、その御力によって、汝を地獄へ追放する!」
悪魔は唸りを上げて、飛びかかった。馬乗りになって、太腿で上半身を押さえつけ、首をギリギリと締め付ける。必死に振り落そうとするが、相手は驚くほど重い。悪魔はジョージの頭をつかみ、堅い岩に叩きつけた。一瞬、息がつまり、眼に星が飛び散る。
悪魔はジョージの首を締め上げ、顔を突きだした。
「お前の神様はどこにいるんだ、ジョージ?教えてやろう。あいつはお前が祈ってる間、天の玉座で一人息子とヤッるんだよ」
「正体を見せろ・・・!この化け物!」
ジョージはポケットから聖水の瓶を掴みだすや、瓶を悪魔の顔に叩きつけた。衝撃でガラスが粉々に砕け、聖水が悪魔の顔を焼き焦がす。悪魔は激痛に叫び、後ろへよろめいた。硫黄の煙を上げる顔を両手で押さえつける。
やっと自由になったジョージは、すかさず立ち上がる。
「神が自らの似姿に造りたまい、聖なる子羊の尊き血によって贖われし魂から、汝を追放する!」
悪魔はしわがれた声で笑い始める。
「そうだ、これでいい・・・この顔の方が楽だ」
悪魔が顔から両手を離す。現れたのは、シュコドラの顔だった。
「あんたは人殺しなんだ、ジョージ。あいつらの眼を見て、指さし、殺したんだ。あの連中はあんたのせいで死んだんだ。今日、神はここにいないよ。神父」
ジョージは腰にさした銃をつかむと、グリップを悪魔の顔に叩きつけた。痛みに悪魔は喘ぎ、口角から黒い筋が流れる。
「どうした・・・?撃たないのか、ジョージ?あんたの得意とすることじゃないか?」
「撃たない」ジョージはきっぱりと言った。「第一、弾はないし・・・貴様をこの地から追放するには、この銃は惜しすぎる。神の御言に、お前をひれ伏してみせる!」
ジョージは首にかけたストーラをはぎ取ると、悪魔に飛びかかった。悪魔は身を翻して飛びのき、大きな岩のそばに着地した。
「大天使ミカエルの名により、主と諸聖人たちの名により、汝を追放する!」
悪魔は洞窟の壁に背を押しつけ、激しく身を震わせた。喉からは獣のような唸り声が絞り出される。
「天の高みから地獄の底へ、汝を叩き落とした主の名において!立ち去れ、この・・・」
悪魔の手がさっと岩の後ろへ伸び、陰からジョセフを引きずり出した。指はしっかりとジョセフの首に絡みつき、鋭い爪が肉に食い込んでいる。ジョセフは喉を詰まらせて嗚咽し、すがるようにジョージを見た。
「やめろ・・・」
踏み出しながら、ジョージは言った。悪魔はかまわずジョセフの顔を横にひねった。首の骨がギシギシと軋む音がする。
「こいつが死ぬところを見せてやる。あんたはこの子を見捨てるんだ。あの連中と同じように」
「いや、見捨てない・・・」
ジョージは歩を緩めなかった。
「神よ、この子を救い給え。穢れなく、御心の祝福にふさわしいが故に」
悪魔が指に力をこめる。
「大天使ミカエルの名により、主と諸聖人たちの名により、汝を追放する!」
悪魔が一瞬、たじろいだ。ジョージはすかさず悪魔からジョセフの体を引き離すと、悪魔の首にストーラを巻きつける。たちどころに、悪魔が荒々しく吠え、ジョージの背に爪を立てる。
「主の名において、この神の僕から去ることを命じる!神に代わって、汝を追放する!」
悪魔はわめきちらし、凶暴に暴れ回る。ジョージは全力で踏み止まった。
「どうして・・・ジョセフ?」
闇の中から声がした。振り返ると、ルイスが暗がりに立っている。顔も体も引き裂かれ、見るも無残な姿だ。胸がぱっくりと口を開け、肋骨と脈打つ心臓がむき出しになっている。ルイスはカンテラのそばに立っている弟に手を伸ばした。
「なんで・・・助けてくれなかったの?」
ルイスは途切れがちな声で言った。
「ジョセフ、見るな!そいつは絶望を食い物にするんだ!」
ジョセフは背を向けると、両手で顔を覆った。悪魔はジョージの腕の中でもがいたが、ジョージは締め付けるストーラの手を緩めなかった。
「神が汝に命じる!偉大なる主が汝に命じる!諸聖人たちが汝に命じる!」
悪魔は全身を痙攣させ、ふたたび嘔吐した。唸り声も次第に弱くなっていく。ルイスは弟に語りかけようとするが、声が出てこない。
「聖霊が汝に命じる!十字架の神秘が汝に命じる!殉教者の血が汝に命じる!穢れし悪霊よ、汝を追放する!」
ルイスの姿は消え、悪魔はジョージの腕の中でぐったりとなった。その姿はヘレーネに変わり、激しくすすり泣いている。
39
全身に疲労感がどっと押しよせ、ジョージはストーラから手を離し、ヘレーネを床に横たえた。ヘレーネの涙が岩の上に滴る。ジョセフも転がるようにやってきた。ジョージは右手でジョセフを抱き寄せ、左手でヘレーネの頭をしっかりと抱えた。ヘレーネの髪を撫でながら、自分の眼にも涙がこみ上げてくるのを感じた。
「もう、大丈夫・・・」
ジョージは2人に声をかけ、ジョセフを見た。
「終わったんだ」
そのとき、ジョセフの眼が恐怖に見開かれた。ジョージは当惑しつつ、「どうした?」と声をかける。ふと気づくと、左手にぬるぬるとした生温かい感覚があった。ヘレーネに顔を向けると、そこにいたのは撃ち抜かれたゾフィ・モーデルの頭だった。
あっと叫んだ瞬間、ゾフィはヘレーネに取り憑いた悪魔の顔になり、ジョージの左肩に噛みついた。激痛にジョージは叫び、悪魔は肩の肉を引きちぎると、洞窟の壁に叩きつけた。ジョセフがジョージのそばに駆けつけ、背後に身を隠す。
洞窟の中を無数の唸り声と囁きが混じり合い、渦巻き、錯綜している。悪魔の姿は見えないが、存在は感じることができる。
ジョージは左肩に手を当てる。咬傷がズキズキと疼き、指の間から血が滲む。
「ジョセフ・・・力を貸してくれ」
震える声でジョージは言った。
「文字は読めるな?」
ジョセフはこくんとうなづいた。
「一緒に朗読してほしい。耳に聞こえたり、眼に見えたりするものは全てあいつの嘘だ。集中するんだ。あいつに負けないように。いいかい?」
ジョセフとジョージの眼が合った。ジョセフの眼には厳しさがあった。本来、こんな子どもには無縁であるべき厳しさだ。怒りがこみあげる。
ジョージは立ち上がり、足元に落ちていた儀典書を拾い上げ、ジョセフに持たせた。地獄の深淵まで続いているように思える狭い洞窟の奥へ歩き出す。悪魔のざわめきが強く感じる。左肩の疼痛がより激しくなってきた。カンテラの光が当たるように儀典書を開き、ジョージは読み始めた。
「おお、神よ。その御名によって、我を救い給え。その御力によって、我が大義を守り給え。始まりと、今と、未来に等しく、終わりなき世に・・・」
「アーメン」ジョセフが読む。
「この僕を救い給え・・・」
「神よ、この忠実なる僕を」
洞窟の中を冷たい風が通り、2人の顔を撫でる。
「ヘレーネのもとに来たれ。おお、主よ。堅牢なる砦となり・・・」
「悪に相対するとき」
「悪しき力がヘレーネの身に及ばぬことを。主の十字架を見よ」
ジョージの声は朗々と高まり、辺りにこだまする悪魔の声を圧倒し始めた。風が次第に強くなり、二人の体を鞭打ち、ジョセフの手から儀典書を吹き飛ばそうとする。
「しりぞけ、邪なる力よ!おお、主よ!我が祈りを聞き届けたまえ!」
「我が叫びの御前に至らんことを!」ジョセフが叫ぶ。
「大天使ミカエルの名により、主と諸聖人たちの名により、汝を追放する!」
ジョージは今ここに神の使いとして立ち、もはや何ものも止めることは出来ない。
「主の御名において、汝を追放する!汝に命じる!天の高みより地獄の深みへ、汝を追放せし主に代わって!この神の創造物より、退散せよ!」
「ジョージ!」
ジョセフが金切り声で叫んだ。
洞窟の奥から地獄の光景が押し寄せてくる。悪魔はねじ曲がった足で突進し、長い脂じみた髪が後ろへたなびいている。大きく裂けた口が開き、黒く濁った眼がギラギラと輝いている。2つに割れた灰色の舌が、尖った歯の間から飛び出している。長く鋭い爪は、ナイフのようだ。
ジョージはジョセフを背後へ押しやり、前へ進み出た。死を告げるバンシーの鳴き声が頭上で渦巻き、背筋を凍らせる。悪魔は爪でジョージを引き裂こうと向かってくる。
「しりぞけ!父と御子と聖霊の名において!」
神の言葉が悪魔に衝撃を与える。だが、悪魔は地獄の番犬が繋がれた鎖を振りほどくように身を震わせ、ふたたび飛びかかった。
「父と聖霊とともに生き、君臨する我が主の聖なる十字架のしるしによって!」
悪魔の顔にビシッと亀裂が入った。悪魔は雄叫びを上げたが、まだ止まらない。ジョージは首にかけた鎖からアンの小さな十字架をもぎ取り、悪魔に向かって突き出した。
「神と聖霊が汝に命じる!」
《ヘレーネ、闘うんだ!》
悪魔の脚がよろめき、顔の亀裂がさらに広がる。苦痛が咆哮となって飛び出したが、体勢を立て直してなおも迫ってくる。ジョージの背後では、ジョセフがすすり泣いている。
ジョージは十字架を振りかざした。
「十字架の神秘が汝に命じる!」
悪魔の灰色の額に十字架がビシリと刻印された。ますます深くなった亀裂が顔じゅうを覆い尽くし、口からヘドロのような液体を吐き出した。よろめいてついに止まるかと思った瞬間、悪魔は怒号を上げ、猛然とした勢いで襲いかかった。ジョセフが悲鳴を上げる。
《闘うんだ、ヘレーネ!》
ジョージは心の内に叫び、十字架を握る手に力をこめた。
「殉教者の血が汝に命じる!」
悪魔の首が後ろに捻じ曲げられ、ボキッと大木が折れたような音が響く。途端に悪魔の顔が前に向き直り、ジョージを睨み付けた。恐怖に胸が締め付けられ、呼吸が苦しい。だが、ジョージはその場に踏みとどまった。
悪魔が迫る。あと八歩。五歩。
「神が自らの似姿に造りたまい、聖なる子羊の尊き血によって贖われし魂から、汝を追放する!」
ジョージが叫んだ瞬間、悪魔が砕けた。地獄の底から響くような悲鳴を上げ、顔に手をやる。亀裂がきしみを上げて広がり、グシャリと音を立てて顔が潰れた。衝撃で地面に叩きつけられた瞬間、悪魔は奈落へと突き落とされた。両腕、両足がめちゃくちゃに折れ曲がり、洞窟の壁に黒い液体が飛び散る。
その後、完全な静寂が訪れた。
39
ジョージはその場に、岩のように立ちはだかっていた。聞こえてくるのは、自分自身の心臓の鼓動と、ジョセフの荒い息づかいだけだった。ヘレーネはジョージに背を向けて横たわっている。
血がヘレーネの薄いワンピースから滲み出ている。それでも、身体が動かない。ジョセフの小さな手が、ジョージのシャツを引っ張った。
「ジョージ?」
ジョージの身体から力が抜けた。口から低い唸り声を漏らすと、脚がよろめき、ガックリと膝をついた。
ジョージは震える声で呼びかけた。
「ヘレーネ・・・!」
泣くようなうめき声が聞こえた。そばに這い寄ると、ジョージはゆっくりとヘレーネの体を仰向けにする。ヘレーネがジョージを見上げた。喉が詰まり、熱いものが眼にこみ上げる。悪魔の痕跡はすっかり消えている。しかし、顔にはアザが残り、切れた唇から血が垂れている。
ヘレーネは激痛に耐えながら、ジョージをじっと見た。
「ジョージ・・・」
絞り出すような囁き声だ。
「ここだ。ヘレーネ、ここにいる」
ジョージはヘレーネの手を握る。ヘレーネの眼に光が戻り、輝きが増してくる。
「あなたが・・・救ってくれた」
ジョージはヘレーネをしっかりと抱き寄せた。怒りと悲しみが胸の内にせめぎ合う。何かが動く気配がし、かすかにため息をつくような風が吹き、か細い余韻を残して消えた。
「ヘレーネ?」
ヘレーネは眉をひそめたかと思うと眼を閉じ、また開いた。光は消えていた。
「ジョージ・・・苦しいの」
ジョージの両手に生温かい感触があった。ヘレーネの後頭部から、血が広がっていく。折れた四肢や砕けた内臓から血が溢れ出し、洞窟の床に血だまりをつくった。何とか血を止め、傷を癒したい。だが、いまのジョージにはどうすることもできない。
「すまない・・・」
そっとささやく
「本当にすまない」
ヘレーネはジョージの顔に手を伸ばした。
「いいの・・・これで、やっと・・・自由に・・」
ヘレーネの手が頬に触れたかと思った瞬間、ヘレーネは静かに眼を閉じた。正体をなくした手ががっくりと垂れる。
ジョージは深く息を吸い込み、ヘレーネを横たえ、胸の上で両手を組ませた。近寄ってきたジョセフが涙で頬を濡らしながら膝をつき、ヘレーネの胸に手を添える。
「主よ、死せる信徒の霊魂を罪のほだしより解かせ給え。主の聖なる恩寵により、刑罰の宣告をまぬがれ、永遠の光明の幸福を楽しむに至らんことを」
ジョージはつぶやいた。
「天使たちよ、憐れなるこの者をいと高き場所まで導き給え。父と子と聖霊の名により、かくあれかしと・・・」
ヘレーネの額に十字を切る。ヘレーネは最後の息を吐き出した。ジョージの頬を滂沱たる涙が覆う。こんな熱いものが自分の中にまだ残っていたとは、思ってもいなかった。
「ジョージ?」ジョセフが言った。
ジョージは立ち上がった。
「ヘレーネは神の御許へ召された」
言葉を噛みしめる。自分とジョセフの心に刻み込む。
「ヘレーネは神とともにいる」
出口を見つけてくれたのは、ジョセフだった。別のトンネルから、甘い新鮮な風が吹き込んできたのだ。狭いトンネルの中を這って戻らずに済むことを感謝しつつ、ジョージは光に向かってジョセフの手を引いていった。やがて2人は岩に覆われた丘の麓から、痛いほどまぶしい太陽の下に出た。
発掘現場はほんの数メートル先だが、もはや教会は影も形も無かった。砂嵐が、遺跡をすっかり地中へ葬ってしまったのだ。辺りには、時おり血まみれの手や折れた足が砂の中から突き出しているのが見えた。
遺跡から離れた場所に来ると、ジョージは立ち止まり、死者のために最期の秘跡を行った。両手を差しのべ、聖句を唱える。アンの小さな十字架を両手に握り、弔いの祈りひとつ捧げられることなくここに葬り去れた者たちに対し、今の自分にできる精一杯の慈悲をこめた。それが終わると、ジョセフがジョージを見上げて言った。
「ぼくもジョージのような神父さんになるよ」
ジョージは返事の代わりに、ジョセフの頭をくしゃくしゃと撫でた。神の恩寵に溢れたどんな言葉よりも、今のジョージにはジョセフの言葉に勝るものは無かった。
厚い雲が割れ、陽光がさし込み、広がった。ジョージはその光の中に何かが見えた気がした。
修道服を身にまとった姉のゾフィが、穏やかな笑みを浮かべてジョージに両手を差し伸べていた。
エピローグ
エメリア首都エリアスバーグ
ジョージは朝の6時に眼を覚ました。本棚で埋め尽くされた寝室は、焼き立てパンの甘い香りが微かにただよっていた。ジョージのアパートは聖コンスタンティン神学大学校と、パン屋に挟まれたところにあって、パン屋が開店の準備を始める頃が6時だった。
ジョージはゆっくりとベッドから起き上がり、タンスを開けて聖職服を取り出す。寝間着を脱ぎ、不自由な左腕に手間取りながら、久方ぶりに袖を通すと洗面所に入り、鏡で服装を点検する。詰襟に縫い付けられた赤い十字架は、退魔師の証。髪に少し寝癖がついていたので、少量のポマードをつけて櫛を通し、丁寧に整えた。
それからドアに鍵を掛けて、外へと出た。アパートから教皇府までは3キロの道のりがあったが、バスを利用せず歩いて行くのが、学生の頃からの日課だった。
車の交通量は少ないが、歩道には大勢の人が行き来している。その中に聖職者が混じり、ジョージの姿を見るなり思わず立ち止まったり、振り返ったりする者がいる。初冬の空気は冷たく肌を刺してきて、コートを着てくれば良かったかなと少し後悔した。
聖エリザヴェータ大通りに出ると、指定されたカフェテリアが見えた。通りに出されたテーブルのひとつに、ピジクスが座っていた。あの日、白い麻のスーツを着ていたピジクスも、今日は茶のツイードに身を包み、あのときと同じステッキの柄に両手を重ねている。テーブルの上では、コーヒーが湯気を立てていた。
「冷えますね。中のテーブルにすればよかったのに」
ジョージはピジクスの向かいに腰を下ろした。
「君はアファルに長くいすぎたんだよ。今日はテラスでコーヒーを飲むにはもってこいの日だ」
ピジクスは笑い、コーヒーをゆっくりと啜った。
「ああ、君は紅茶だったね。いま、用意させよう」
ピジクスが手を上げると、ウェイターが寄って来て、ジョージの前に紅茶を入れたカップを置いた。ソーサーを左手に持つと、カップが微かに震えた。熱い紅茶をひと口、ゆっくりとすする。
「左手が不自由そうだが」
「悪魔のせいですよ」
そう言うと、ジョージは聖職服のポケットから分厚い茶封筒を取り出し、テーブルに置く。ピジクスはいぶかしそうに眉をつり上げた。
「このお金はお返しします。あの人形はまだお持ちですか?きっと、お手のものでしょうね。裏で糸を操るのは。エドガー・ピジクス枢機卿」
「おやおや、いったい何のお話やら・・・」
ジョージは声を厳しくした。
「冗談は止めていただきたいですね。発端は、クーベリックが悪魔に取り憑かれて狂ってしまったことだ。エヴァソにいる聖職者が教皇府に報告し、あなたがやって来た。そこで、あなたはぼくをあの遺跡に送りたいと考えた。教会の依頼と言えば、ぼくが首を縦に振らないと知っていたから、骨董品のディーラーを装ったのでしょう」
ピジクスは無表情だった。
「シスター・アンの話では、教皇府は遺跡の歴史を知っていたし、エヴァソには枢機卿もいる。いくらでも、他の有力者を派遣できたはずです。なぜ、わざわざぼくを騙すような手間をかけたんです?」
「あちらに訊いたら、いいでしょう?」
ピジクスははるかに見える教皇府のドームを指し示した。
「ぼくはあなたに聞いてるんだ」
ピジクスはため息をついた。
「聖ヴィッサリオン、君はあれだけの経験をした後で、まだ人間を利用するのは悪の力だけだと思ってるのか?教皇は、善と悪の戦いは今日も続いているとおっしゃられた。デラチで必要とされていたのは、たった一人の神の代理人だった」
ピジクスはコーヒーをひと口ふくみ、続けた。
「もし私が君を騙したことについて怒ってるのなら、その非礼はこの場で詫びよう。いかにも、私は枢機卿だ。このたび、教皇の勅令を受けた身でもある」
「勅令?」
「教皇はこれから、善と悪の対立がますます激化すると憂慮しておられる。悪の手から信徒たちを守る退魔師を集結させ・・・“部隊”を立ち上げる。教皇は特に、君の参加を望んでおられた」
「ぼくを試したわけだ」
「そんなことはない」
ピジクスは苦笑を浮かべた。
「君自身も感じてるのではないのか?ヘルンデールで起こったことは、自分があの遺跡へ導かれるための布石だったのではないかと」
「・・・」
「逆に、質問させてほしい。なぜ、君はデラチにとどまったのか?」
ジョージは意表をつかれた。
「・・・ぼくには、他に選択肢がなかった」
「その気になれば、いつだってデラチからさっさと立ち去ることができたはずだ。他の人間なら、誰だってそうしただろう。君はなぜ、そうしなかった?」
「ジョセフを、悪の手に残しておくことはできなかった」
「では、もうひとつ聞かせてくれ。もし時間が元に戻せるとしたら、またデラチに行くと思うか?」
「ええ」
ジョージは躊躇せず答えた。悲しげな微笑みがその顔をよぎる。
「ええ、行きます。愛する者を守るためだったら、ぼくはなんだってする」
ピジクスはうなづいた。
「ジョセフのことは心配しなくていい。エヴァソのポリトウスキ神父のところで、元気にやってる。君に依頼した彫像だが、あれを積んだ飛行機がどういうわけか墜落してね。彫像はその後、行方不明になってる」
ピジクスはスーツの懐から一冊のファイルを取り出し、ジョージに手渡した。
「君には、早速これをやってもらう」
そう言って立ち上がると、ピジクスは通行人の波に紛れて行った。独りカフェに残り、ジョージはファイルを開いた。文書が数枚、帝国警察の紋章が押されている。ある連続殺人に関する捜査資料だった。殺害された4人の解剖所見を読むと、ある文章が眼に留まった。刑事と解剖医のメモ書きのようだ。
《人間の手で、このような殺害は可能なりや?》
《可能ではあるが、異常な力を必要とする》
被害者の頭部はどれも完全に一回転して。後ろ向きになっていた。
やがてカフェを出て、ジョージは聖エリザヴェータ大通りを歩き始めた。陽射しに手をかざし、教皇府の聖ヴィクトリア大聖堂に向かって、確固たる足取りで歩いて行った。