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呼吸を落ち着け、あらためてレベッカの顔を思い出そうとした。だが、それもあまりうまくはいかなかった。浮かんでくるのは昔、小さな妹の顔ばかりだ。
経験を積んだ者として、私には恐怖が眼に見える。街を闊歩する平和な顔つきの人々のすぐ後ろで、そうして作り出される恐怖の耐えがたさを、私は今回ほど理不尽に感じたことはなかった。
〈ラグーン〉における亡命の翌日、大使館に私と島村宛てに電報が届いた。いつの間にか東京に戻っていた結城からだった。
《万事休ス。作戦ガ発覚シタ。ホトボリガ冷メルマデ帰国ヲ禁ズ》
「景姫は亡命を拒否したってことだ」岸部は言った。「お前にはこれ」
差し出された書類は、海外勤務の辞令だった。在ギリシャ大使館への異動。
今の私には、時間があることは好都合だった。霞ヶ関へ電報をひとつ打ち、電話を何本か掛け、裏口から大使館を出た。
ブルグガルデンの中へずんすん入っていって道に迷った。楽器ケースを持った女学生ふたりがモーツァルトの墓を見ている。園内掲示板を見つけてとくと眺めた。思い切ってブルクリングを渡って、美術史美術館に入った。
1階は古代エジプトやギリシャの彫刻類や出土品が展示されていた。私はとぼとぼと観覧コースを逆に回って、監視者がいないかと観察した。美術館を出ると、今度は確信に満ちた足取りでマリア=テレジエン=プラッツまで歩いた。
「ミステル・コバヤシ」
懐かしい訛の英語で囁いた者がいた。
ぱりっとしたスーツに身を包み、アタッシェケースを下げた若い男が3メートルほどの距離を空けて並んで立っている。
私はあえて、何の反応も示さず道路を横切って森の中へ歩き、ベンチに腰かけた。若い男は木々の香りを楽しむようにゆっくりと後を追い、私が座っているベンチに少し離れて座った。
「テヘランには帰ってるのか、カリミ」私は言った。
「あれ以来、一度も」
「何年になる?」
「もうすぐ10年です。寂しくはなりますよね」
私がイランの総領事館に赴任した時、カリミは12歳だった。まだほんの子どもだったが、巧みな英語とすばしっこい頭で闇市場のビジネスマンを気取っていたカリミは「もうすぐ革命が起こる」と、私に漏らした。翌78年明けの1月、両親がデモで殺害され、カリミは孤児になった。
両親がスンニ派だったこともあり、カリミは反ホメイニの地下組織の支援でヨルダンを経由してオーストリアに脱出し、彼の地で学業に就いた。
「準備はできそうか」私は言った。
「あとすこし、まかせてください」
「経費を請求してくれ。それにもちろん規定の報酬も。予算に余裕がなくて、すまない」
「大丈夫、気にしないで。あなたが《部品》を持つことに、職人が神経過敏になってる節があって・・・納得はさせました。ミステル・コバヤシは惚れた女のために体を張るんだという話をしましたから」
カリミが片目をつぶって、ニヤッと笑った。
逃亡が、レベッカのためかどうかは分からない。私自身の中に、レベッカの件で触発されるだけの土壌が育っていたのも事実だろう。
カリミから《部品》が届いたのは、それから3日後だった。私とレベッカは中国人夫婦として脱出するための偽装パスポートだった。
紫のスーツを着た女を見ながら、黒い髪のことを思ったとき、私は崔景姫のことを無意識に考えていた。その面影を消し去りながら、胸に軽い痛みを覚えた。苦痛というほどではない。なぜ亡命を土壇場になって拒否したのか。今となっては、それを知る術もないだろうに。
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ガラス窓に映った店の壁掛け時計が、午後7時を指そうとしていた時だった。喫茶店に入ってきた角刈りの男がひとり、数歩店内に歩を進めてぐるりと周囲を見渡した。その顔はすぐに怪訝そうな表情になり、右を向いて左を向き、また右を向いて、片手を顎にやった。足はいらいらしたように足踏みしている。
2秒後、突然その男は私の方へ向かってきて「エーリヒか?」と低く尋ねた。
「違う」私は内心驚きながら、タブロイド紙の陰で応えた。
男はすぐに背を向けながら、今度は四つほど離れたテーブルのマフィアの方へ顔を向けた。すると、マフィアはタブロイド紙の向こうから、慌てたようにわずかに顎を出口の方へ動かした。
角刈りの男は出口の方へ向き、密かに舌打ちを洩らした。出口には、たった今現れた新たな男が2人立っている。一方、マフィアはその時、新聞の陰で懐から掴み出したブツを素早く自分の足元に落とし、それを靴先で蹴った。薄い茶色の封筒のようなものだった。厚みのある封筒は、コンクリートの床をするりと滑って、ポルノ雑誌のビジネスマンの座っている椅子の下へ消えた。
角刈りはマフィアだな、とやっとピンと来た。店の戸口に立った2人の新顔は、たぶん警察の人間だ。私服警官の1人が角刈りの腕を掴んだ。
「何もしてねぇて」角刈りが言う。
「手間は取らせない。ちょっと来い」
2人は先に出て行った。座っていたマフィアも、タブロイド紙を折り畳んで席を立った。鼻でせせら笑ったのは、ブツをこっそり手放してしまったからだろう。もう一人の刑事に引き立てられて、マフィアもすぐに姿を消した。
よそ見をしているか、誰かと話していたら気付かないほど、あっという間の些細な出来事だった。全部で1分とかからなかっただろう。自分の顔をむけて一部始終を眼で追っていたのは、紫のスーツの女と、私の後ろの老人ぐらいだ。奥にいる不倫の男女は、睨み合ったままだし、中年男はメモ帳片手に難しい顔をしていたし、得体の知れない紙袋の男はタブロイド紙をぴくりとも動かさなかった。
もちろん私も顔は向けなかった。ガラスに映った店内の様子を見ていただけだ。ガラスの中で、後ろの老人がひそかに肩を揺すって笑っている。
2人のマフィアと刑事が消えてしまった後、ふいに後ろからその老人の声が聞こえた。
「あなた、新聞もう読まないのだったら、交換してくれませんか」
老人は椅子の背ごしに、別の新聞を突き出してきた。私は自分の新聞を老人に渡しながら、ふと考えた。さっきの角刈りの男が店に入ってきた時、一瞬戸惑ったような顔をして右を見て左を見た理由はこれだ。このタブロイド紙だ。
そう言えば、あの角刈りが入ってきたとき、この喫茶店で同じタブロイド紙を3人の男が開いていた。私と、マフィアの兄さんと、あの紙袋の男。そのうち、私とマフィアはダスターコートとスーツの姿だった。角刈りが私に『エーリヒか』と尋ねたところから察するに、男は自分が会うべき人間の顔貌を知らなかったのだろう。事前の打合せで、《ダスターコートを着てタブロイド紙を開いている男》がエーリヒだと教えられ、それを目当てに来たに違いない。
そんなことを考えていると気が紛れて、私はこっそり腹の中で笑った。とっさにどっちが接触相手か分からなかったにしても、もう少し落ち着いて顔を見れば、ブツを持っていそうなのがどっちか分かっただろうに。まあ、たまたま角刈りが立っていた位置から、私の方が近かったというだけのことかも知れない。
ともかく、あのマフィアの兄さんの名前はエーリヒで、角刈りとエーリヒは何かの取引をしようとしていたようだ。事前に張り込んでいた刑事に見つかりそうになって、エーリヒは自分の持っていたブツを素早く手放したのだ。
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私は新聞の陰で眼を動かして、ブツが滑り込んだ椅子の方を眺めた。その上には、あの中年ビジネスマンの尻が載ったままだ。
そのビジネスマンが、ふいと手にしていたポルノ雑誌を下ろした。片腕の時計を覗きながら、出口の方へ眼を動かしたかと思うと、身を前へかがめて素早く雑誌を自分の座席の下へ突っ込む。ときどき、サラリーマンがこうして新聞や雑誌を電車のシートやベンチの下へ突っ込むのを見るが、それと同じ仕種だった。そうして雑誌は、丸まったまま、あのブツの封筒と同じ場所に消えてしまった。
ビジネスマンがそういうことをしたのは、待っていた客が現れたからだった。新しく店に入ってきたのは、似たような感じの中年男で、同じように上等のスーツとよく磨かれた靴を履いていた。外回りの営業マンなら、この季節に一日街を歩いてあんなにきれいな靴は履いていられない。2人は最低限営業マンではなく、また、コートを持っていないところから見て、街のビルのどこかの住人か、あるいはタクシーか自家用車でやって来たのだと私は推測した。とはいえ、仮にビジネスマンだとしても、どういう業界なのか、全く想像がつかなかったのだが。
2人の男の方からは「やあ」とか「まあまあ」とかいう適当な挨拶の声しか聞こえてこなかった。初めに軽い握手をしたのだが、アタッシェケースから書類を取り出すわけでなし、商談なのか何なのかも定かではない。
実際、2人の会談は10秒ほどで終わってしまった。先の男はいきなり懐から茶封筒を取り出して、テーブルに置き、新たに現れた客の方は、それをさっさと自分の方の懐に収めて、すぐに腰を上げた。マフィアの兄さんが座席の下に滑り込ませたのと同じような封筒だが、今度は破れるぐらいに膨らんでいた。多分、中身は金だろう。
そう思ったら、私の背後の老人が「あれ、金ですよ」と囁いた。
私に話しかけたつもりもないのだろうが、その辺にいる誰かなしに独り言を呟くように声を出す老人はいるものだ。
そして、2人のビジネスマンの方からは、また「やあ」とか「どうも」とか聞こえ、封筒を受け取った男の方はさっさと店を出て行った。ウェイトレスが水を持って注文を取りに来るのも間に合わなかったぐらい、素早い退散だった。そして、1分ほど遅れて、残った1人もアタッシェケースを手にぶらりと姿を消した。
「私は毎日、来てるんですが、あの2人、前にもああやって金のやり取りをしてました。あとから来た方は議会議員の秘書ですよ。この間、テレビに映ってました」
老人の呟く声が背中から聞こえた。私は相槌も返さなかったが、別に驚きもしなかった。政治家が腐敗しているのはどの国も同じだ。それよりも私の眼を引いたのは、主のいなくなった空っぽの椅子の方だった。狭い場所にきっちり詰めて椅子が並べてあるために、床にかがんで覗かなかったら、その下に何が落ちていることはまず分からない。私の座っている位置からも、椅子は見えるがその下は見えない。あの茶封筒は結局、誰が見つけるんだろう。中身はおおかた覚醒剤かヘロインだろうし、あれだけで数十万か数百万になるだろうに。
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金のことを考え始めると、今度は気が滅入り始めた。私の懐には、ボストンへ飛ぶ格安航空券を2枚買うだけの現金が入っているだけだ。レベッカの偽造旅券を買うのに、随分金を使ってしまったからだ。
気がつくと、ついついあの椅子の下に眼が流れた。頂戴しようかな、などと冗談半分に思いながら、店に残っているほかの客たちの眼をこっそり窺った。
その時だった。ふいとあの紙袋の男が自分の席から腰を浮かしたかと思うと、通路をはさんで斜め向かいにあるその椅子の方へ手を伸ばしたのだ。
その姿が、私の見ているガラス窓に映った。男はあっという間に椅子の下から丸めた雑誌を掴み出した。いや、その手には雑誌と一緒に封筒も掴んでいた。一緒に掴んでいたから目立たなかったが、間違いなかった。
私は唖然として、ガラス窓に向かって眼を見開いた。先を越されたと一瞬唸り、あの男も見ていたのかとあらためて驚いた。タブロイド紙をぴくりとも動かさなかったはずなのに。新聞紙に覗き穴でも開けていたんだろうか。
男は掴み出した雑誌と封筒を手に、すぐに再び自分の席に腰を下ろした。そして封筒を足元の紙袋にすとんと落としながら、その手はもうポルノ雑誌をおぱらぱらとめくり始めた。その素早い手付きときたら。あれはプロの泥棒だ。
私は失望したり諦めたりしながら、自分の新聞に眼を戻した。気を紛らすために、確かめる必要のない時間を腕時計で確かめる。午後7時10分になっている。レベッカはまだ店だろうか。勤め先から大きな荷物を持ち出して、大丈夫だろうか。
スーツケースなど持たずに、手ぶらで出て来いと言ったのに、レベッカは荷物なしで飛行機に乗ったら余計に怪しまれると言い張った。外国で放り出されて文無しの恐怖を味わったレベッカの執着を誰が否定することが出来るだろう。
後悔したり、希望をつないだりしながら、私は椅子の下から掠め取られた封筒のことをつとめて忘れようとした。
だが、実際に忘れることが出来たのは束の間だった。
1分後には、さっき刑事に連れられて姿を消したマフィアの兄さんが、いかつい顔を喫茶店の戸口に現した。ブツを持っていなかったから、簡単な事情聴取で放免されたのだろうが、その足で戻ってきたのは間違いない。男は大股でさっき自分が座っていた座席に向かい、足で封筒を滑らせて隠したはずの椅子に近づいた。腰をかがめ、手を突っ込む。
男の顔色が変わるのが、ガラス窓に映った像の中でもはっきり見えた。男は床に膝と手をついている。椅子をいくつか乱暴に手で押し退け、さらに覗く。そうして男はやおら立ち上がると、「おい!」と大声を上げた。
「この椅子、触ったの誰だ!」
喫茶店に残っている客はみな、怒鳴る男の方を見ている。奥のテーブルを動かない不倫の男女。正体不明の中年男。紙袋持参の泥棒。クラブの女。私。私の後ろの爺さん。ウェイトレスが2人。
「この椅子、誰か触っただろ!俺が落としたもんがないぞ!」
マフィアは大声を張り上げ、「おい、そこの兄ちゃん、知らんか!」と紙袋の男に向き直った。男が、通路を隔てた隣の席だったからだろう。
紙袋の男は、見事な能面で首を横に振った。マフィアはすぐにまたほかへ眼を移して「誰か、知らんか!」と怒鳴った。
その時、あのクラブの女が突然「兄さん」と言った。「その椅子」女は空っぽの椅子を顎で示した。「さっき、そこに座ってたおじさんがいたでしょ。椅子の下から何か拾って持っていったわよ」
「なにぃ!いつ出ていった!」
「10分ほど前よ」
マフィアの兄さんは眼をむき、「あの野郎」とひとりごち、次の瞬間には踵を返して店を飛び出していった。店に残された客はみな、それを唖然と見送っていた。
私はひどく驚きながら、あらためてガラスの中に映っているクラブの女の顔を眺めた。
女の位置は、10分ほど前に中年ビジネスマンが座っていた座席の斜め向かいだった。そこに斜めに腰をかけて、タバコを吸っている。なるほど、紙袋の泥棒よりもっと正確に、正面から中年男の挙動を見ていたことになる。しかし、それならば女は、中年男が椅子の下に手を入れたのは丸めた雑誌を突っ込むためであったのを見たはずだ。そこから何かを拾って持っていったなどというのは嘘だ。
女は本当に見間違えたのか。それとも知っていて嘘をついたのか。
またひとつ、気晴らしのネタが出来たようなものだった。ただの水商売の女だと思っていたが、ひょっとしたら違うのかも知れない。それに、誰かを待っている顔だと初めに思ったが、私が店に入ってからすでの40分。誰も現れる様子がない。
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「変な女ですな」
後ろの老人が囁き、十何本目かのタバコに火をつけた。老人も目敏く一部始終を見ていたのだから、女の発言を変だと思うのは当然だった。
私の方は思わず「そうだね」と言いかけて、口をつぐんだ。知らない人間と口をきくような心の隙が、自分に生まれかけていたのだと思うとぞっとした。老人は私の気持ちなど構わず、ひとりで勝手に喋りかけてきた。しかし、今度は全く違う話題だった。
「私は路面電車でここから3つ目の駅の近くに住んでます。家はあるんですが、息子夫婦と一緒というのも、居づらいものです。ですから毎日、ここで時間を潰してるんです。まだ新聞の字もやっと読めますから・・・」
何を言うか。この薄暗い喫茶店の中で、5メートルほど離れた座席の周辺で起こった事柄の一部始終をしっかり見る目があるなら、百科事典の字でも読めるだろう。
そんなことを思いながら再び私も新聞に眼を戻そうとしたとき、当の女がふいに立ち上がった。
店を出るのかと思ったら、女は中腰になったまますべらかに2メートル移動して、あの紙袋の泥棒の隣に座った。男はポルノ雑誌からちらりと目を動かして、隣に寄り添ってきた女を見たようだが、やはり能面だった。
いったい何が起こるのか、私はそのとき無意識に眼をガラス窓から逸らせ、自分の頭を振り向け、自分の眼でその男と女の方を見た。
男は雑誌を下ろそうとはせずに、横目で女を見ていた。女はテーブルに片肘をついて、同じく横目で男を見、その赤い唇に笑みを浮かべた。秋波といってもいい笑みだ。そういえば、男もなかなかのハンサムだし、女も若いとあれば、こういう場面はあっても不思議ではなかった。女はこれまで、男の席のひとつ前の席に斜めに座っていたのだし、互いに顔は見えていたのだから。
2人は以前から知り合いかグルだったのかと思ったが、その想像はすぐに消えた。男はそのような下心のある表情はいっさい見せず、あくまで隣に座った女をじっと見ているだけだった。
女は半ばテーブルに眼を落としながら、何か小声で囁いた。声は聞こえなかったが、唇が動いている。男の唇は固く閉じたままだ。次いで、男の左手がすっと動いたかと思うと、その手は足元に置いた紙袋の中に消え、すぐに再び現れたときにはあの茶封筒を摘まんでいた。いや、あの茶封筒より、少し色が薄いようにも見えた。しかし、厚みや大きさなどはほぼ同じだ。あの封筒に間違いないだろう。
女は男が例の椅子の下から封筒を掠めたのを見ていて、それをネタに男をゆすったのだろうか。ゆするにしても、どんな理由と口実をつけたのだろう。ともかく、男の手はテーブルの下でその封筒を女の膝に置き、女はやはりテーブルの下でそれをハンドバッグに忍ばせた。そして女はまた音もなく席を離れ、もとの自分のテーブルから伝票をつまんで店の出入り口にあるレジで勘定をすませ、出て行った。
私が呆然と見送っていると、後ろで「あれ、違う封筒ですよ」と老人の声がした。
「そうかな・・・」私は無意識に尋ね返していた。
「色が違います。マフィアの落としたものはもっと色が濃かった・・・」
やはりそうか。私もそう思ったのだ。
新しいタバコに火をつけながら「怪しいですな」と老人は呟き、私は「ああ」と応えた。
一方、面識のないらしい女にいきなり近づかれても顔色ひとつ変えず、平然と違う封筒を渡した男は、またポルノ雑誌を開いている。私はその男から眼が離せなくなった。いったい何者だろうという思いが、際限なく湧いてきた。後ろの老人がただ「怪しい」というのとは次元が違う、予感のようなものだった。あの男には何かある。
あれこれ、理由のあることないことを私は考え続けた。あの男とクラブの女は、やはり知り合いだった可能性もある。2人は以前から、あのマフィアとは関係ない事情で、何かの受渡しをすることになっていたのだろうか。あのマフィアのハプニングのおかげで、この私や爺さんなどの他の客の眼を引いたこともあって、女は接触のタイミングを失い、私たちの眼を不審に思わせないような芝居を逆にしたのだろうか。男が女に渡した封筒は、予め渡すべきだった別物だったのだろうか。
しかし、もし自分が2人の立場だったらどうするだろうかと考え、私はこの推理に現実味がないことを思い至った。接触するためなら、2人は別々に店を出て、外であらためて機会を窺えばいい。人目を引くようなあの女のやり方は、非常識の何ものでもない。
それでは、最初に考えたように、女は男が封筒を盗んだのを見ていて、それをネタに強請ったということだろうか。しかし、男が女に渡したのは、ごくごく似たつくりの別の封筒だったのだ。そんなものを都合よく男が持っていたというのは、いったいどうしたわけか。これは偶然にしても話が出来すぎている。男が店に現れてしばらく、紙袋の中からいろいろなものを取り出したが、そこにはあの封筒がなかった。
変な男。変な紙袋。それだけではすまない不気味なものを感じながら、私はそろそろ腰を上げることにした。時刻は午後7時20分。まだレベッカは現れないが、こんな騒々しい喫茶店に座っているより、駅に出て待つ方がマシだ。
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そうして新聞を畳んだとき、ふいに喫茶店の床がズンと揺れた。遠い地鳴りのような物音が聞こえた。何の音なのか、とっさには分からなかった。数十メートル離れた距離で聞く、自動車同士の衝突音のようだ。
駅の周辺には幹線道路があるし、どこかで車がぶつかったのだと一瞬思ったが、すぐに違うと気付いた。強烈な硝煙の臭いがした。
私は反射的に窓の外を見た。路地に散らばった人たちの頭が、いっせいに音の聞こえた方向へ向いている。この喫茶店の右の方向らしい。悲鳴や怒号が走っている。
「爆弾ですか」後ろの老人が囁いた。
「え?」私はわざととぼけて尋ね返した。
老人は、今は私の椅子の背から首を突き出してきた。私と頭を並べてガラス窓の下の路地を見下ろしながら、「ほら、この臭いは爆弾ですよ」と続けた。
「へぇ・・・よく知ってるな」
「黒色火薬の臭いにしたら、だいぶ匂いますが・・・」
老人は独り言を呟く。確かに、黒色火薬から出るガス臭ではなかった。酸素バランスの極端に低い爆薬が爆発したのだ。たとえばTNT。私はイランの総領事館で防衛駐在官から聞いた話を思い出していた。
それにしてもこの爺さんめ。爆発物のガスの臭いを嗅ぎ分けることなど、普通の人間には出来ない。ただの老人ではないなと思いながら、私は後ろから身を乗り出している皺深い横顔をそっと窺った。あらたな不安がちらりと走った。
パトカーや救急車のサイレンも聞こえる。ざわめきは広がり、メガホンを持った制服警官たちが走り回っている。
「私、ちょっと見てきます。あ、バッグ見といてください」
老人はいきなりひょいと座席を立つと、合成皮革の安っぽいバッグを私の膝に落とし、伝票や新聞をそのままにさっさと姿を消してしまった。歳に似合わず身軽な足取りだった。その辺にレジの女の姿も見えず、老人は金も払わずに出ていったのだが、今は誰も気付くものもいなかった。あの紙袋の男以外は、不倫の男女もウェイトレス2人も、みな窓辺に寄ってひそひそ囁きあっている。中年男も首を長くして窓の外を仰いでいる。そして、それらの傍らで紙袋の男はひとり、ポルノ雑誌を手元に置き、冷めたコーヒーを啜りながら虚空を仰いでいた。
突然の爆弾騒ぎも迷惑だが、私の眼には不気味に静かなその男の姿の方が、はるかに異様に見えた。そうして私がその男に眼をやっていた数秒の間に、男はふいに虚空から眼を戻し、私の方を見た。眼を合った。私はすぐに眼を逸らしたが、突然心臓を射られたような感じを覚えた。
ひょっとして、あれはどこかで会った人物ではないか。私を個人的に知っている人物ではないか。
根拠のない想像をして不快な悪寒に見舞われながら、私は騒然とした路地へ眼を戻した。ガラス窓に映る店の時計は、午後7時22分を指している。レベッカはどうしているだろう。爆弾騒ぎは店に伝えられているだろうし、レベッカは脅えて来ないかも知れない。自分が店まで迎えに行くべきだろうか。見張りはどうだろう・・・。
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午後7時25分ごろだった。もう、爺さんのバッグの番などしているヒマはない。
私は店を出てレベッカを迎えに行く決心をし、席を立った。その時だった。通路の奥から、あの中年男がすたすたとやってくる。今は私をまっすぐに見つめ、捕まえずにおくものかといった表情で口をしっかり結んで近づいてくる。
「私、こういう者ですが」
男は、いきなり私に名刺を突き出しそう言った。声は低く、辺りをはばかった素早い物言いだった。名刺には『某興信所調査員』とある。
「これ、何ですか・・・」
「ちょっとお話が」と言って、男はさっさと先に椅子に腰を下ろした。私は上げた腰を再び下ろした。
男は私の名前を告げ、本人に間違いないかと尋ねた。私は答えなかった。答えなかったということは、つまり肯定したことになるのだろうが、ともかく呆気にとられた表情で押し通すことにした。
「コウさんという女性をご存じですね?」男はさらに低くした声で囁いた。
私は答えなかった。男は続けた。
「私はコウさんから依頼を受けて、あなたを探していました。ホテルを急に引き払われたようなので、コウさんが心配して探しておられたのです。あなたにご迷惑がかかるといけないから、内密に、というご依頼でした・・・で、単刀直入に申し上げますと、コウさんはもしあなたさえよければ、もう一度会っていただけないかというご意向なのですが、いかがでしょうか」
私は無言を通した。考えなければならないことが山のように噴き出して、絶句していたのだ。ただでさえ急な事情が迫っている時に、崔景姫が興信所の調査員を雇ってまで、私を探していたとは。
《会いたい、だと?》
私は無理に、眉根に皺を寄せて見せた。
「あんた、さっきから何をぺらぺら喋ってる。人違いだろ、あっちへ行け」
私がそう言うと、男は眼をむき、私をじろりと睨み、「それがご返事ですか。そのようにコウさんにお伝えしてよろしいのですね?」と念を押した。
「あっちへ行けと言っただろう!」
私はテーブルを叩き、男は侮蔑の眼を残して席を立った。興信所の男が喫茶店を出ていくのと入れ違いに、私は席を立った。ウェイトレスに「電話を貸してくれ」と言うと、「トイレの通路に」と答えた。
不倫の男女が座るテーブルの脇を通り、公衆電話が通路の奥にあった。受話器を取り、背を丸め、意識して低い声を出した。交換手に「ヤコーバーガッゼの〈ラグーン〉につないでほしい」と告げる。
つながった電話に今度は、「《ヘレン》の件だ」と吹き込む。〈ラグーン〉の店主は「おつなぎします」と答え、接続音が耳奥に響いた。島村がセッティングした非常用の連絡手段だったが、今も生きているかどうかはイチかバチの判断だった。
「はい、日本大使館。岸部」
「天羽だ。コウが興信所の調査員を使って接触してきた。何があった?」
「あれはもう、全て終わった」
「なら、なんで《ヘレン》は私に接触してきた?」
「おれは知らん。知ってるとすれば、結城か島村だ」
「島村はどこにいる?」
「行方不明だ」
「行方不明?」
「お前と一緒で、赴任先に姿を現してない。お前こそ、今どこにいるんだ?コッチは結城から言われてるんだ」
「何で?」
「お前、松岡聡一郎のファイルを人事課から・・・」
私は電話を叩きつけるようにして切った。やはり松岡聡一郎が黒幕なのか。崔景姫の偽装パスポートの一件に疑問を感じ、人事課から松岡聡一郎のファイルを取り寄せたが、分かったことは少なかった。
どこかで聞いた名前だと思っていたら、松岡は外務省で数代前のアジア課長に名を連ねていた。元は関東軍の情報参謀で、ドイツ語とロシア語に堪能。「ハンス・シュミット」と名乗る貿易商という偽装身分を持っていた。
ハンス・シュミット。〈ロゼ〉のレベッカを命綱にし、ホテルで私の隣の部屋に宿泊していた男。
そこまで考えを進めていた時、あの爺さんが喫茶店の入口から戻ってきた。
17
「あなた」
老人は囁き、私の腕を引く。いきなり他人に腕を掴まれたために、私の神経はそれだけで凍ってしまった。普段なら突き飛ばすところだが、とっさに動くのも忘れた。少し息を切らせている老人は、人の顔色など構う様子もなく私の隣に座って私の水をひと口啜った。その手が傍目にも分かるぐらい震えていた。
「あなた・・・」老人は身をかがめるようにして声を低くした。「大変なことです。あの女性です」
「何が」
「公園のトイレで、爆弾で吹き飛ばされた女性・・・さっき、そこに座ってた女性です。紫色のスーツを着て、マフィアに声をかけてた・・・」
「はあ・・・」
「はあ、じゃないですよ。偶然、事故に遇ったんじゃありません。トイレに入ったら、たまたま爆弾が仕掛けられてたんじゃない。女性が手に持ってた何かが爆発したんです。分かりますか?そういう死体でした・・・」
「見たんですか・・・」
「現場を見た警官に聞いたんです。ダイナマイト級の威力のある爆発物を手に持ってたと言いました。死体の様子からみて、それしか考えられないということです。あなた、何か思い当たらりませんか?」
「なんで私に聞くんです」
「あなたも見てたじゃないですか。あれを見てたのは、私たち二人だけです」
「何を・・・」
「ほら」老人はさらに声を低くして「あの女性が貰った封筒・・・」と言った。
「封筒は爆発しません」
私は半ば自分に腹を立てながら、無愛想に応えた。封筒が爆発しないというのは嘘だ。そういう仕掛けを作ることなど簡単に出来る。自分たちが見た一連の出来事から察するに、あの封筒は細工された手紙爆弾だった可能性はある。そんなことはこの年寄りに言われるまでもなく初めに閃いていたが、今はそんなことに関わっているヒマはなかった。爆弾がどうした。クラブの女がどうした。コウがどうした。私はレベッカを迎えに行かなければならないのだ。
「そういう話は警察にしろ。私は急いでるんだ」
私は通路側の椅子をふさいでいる老人を押し退けようとした。すると、すかさず老人がまた私の手首を掴んだ。大した力ではなかったが、それをはねのける前に、私はもう一度だけ相手の顔を睨み、声を殺した。
「何者だ、あんたは・・・」
「あなたこそ」
老人はそんなことを言い、他の客の目線を窺うように素早く頭を動かした。しかし、他の客といっても、もう奥に居すわっている不倫の男女と紙袋の男しかいない。
「あなた、あの人たちが誰か知ってますか」老人は言った。
「誰の話だ」
「奥に座ってるでしょう、男女が」
「知らない」
「本当に知らないんですか」
「ああ」
「なら、手前に座ってるあのおかしな男性はどうです?」
「・・・知らない」
「あの男はラングレーの殺し屋です。死んだ女性は北京のスパイです」
畜生。この爺さんは何者だ。
熱くなった血が額の裏で濁流になったが、いくつもの疑問とレベッカの顔が同時に浮かんだおかげで、私はやっと冷静を保つことが出来た。
「それがどうした。私は急いでるんだ。どいてくれ」
私は老人の肩をわし掴みにしていた。突き飛ばして通路へ飛び出そうと思ったのだ。だが、相手はさらに声を低くした。
「静かに。見られてます・・・あの奥の男女、公安ですよ」
「あんたこそ、何者だ・・・!」
「私はただの・・・」
老人はふいに言いかけた言葉を呑み込み、私も掴んでいた手を離した。同じ方向へ頭を振り向けた。座席のすぐ傍らに、あの紙袋の男が立っていた。
すぐそばで見ると、男は店に入ってきた1時間前よりもはるかに長身に見えた。不動明王のように、立ちはだかっていたせいかも知れない。40分このかた変わらない無表情で、片手にあの紙袋をぶら下げ、顎だけわずかに動かして『おい』という身振りをした。
私は直観で、男の全身から漂ってくる殺気を察した。危険だと体中の神経がざわめいたが、筋肉が動かなかった。逃亡を計ろうと決めた時、すでに私のすべてが腑抜けになっていたのだろうか、何も声を出せず、数秒ばかり男を見ていただけだった。
「なにか用ですか。相手になりますよ」
そう怒鳴る老人の声で、私は我にかえった。相手を押さえ、「何の用だ」とやっと自分の口を開いた。
男は無言だった。もう一度、私に向かって顎だけしゃくった。『来い』と言った。
『話がある』と。