クレンペラーによるマーラーとR.シュトラウス
この作品はマーラーが作曲した最後の交響曲であり、彼の最後の作品であるだけでなく、彼の最大の功績であると私は考えています。
オットー・クレンペラー
マーラーが交響曲第9番を作曲したのは1909年の夏、49歳の時であった。1912年6月にこの作品の死後初演を指揮することになるブルーノ・ワルターに宛てた手紙の中で、作曲者は次のように書いている。「この作品は長い間、私が思い出せなかったものについて言っている」それが何であるかというと、それは素晴らしい総括に他ならない。マーラーの交響曲の中で最も密接に議論されている音楽的、精神的価値の肯定である。
1907年の夏、マーラーは治療不可能な心臓病と診断された。同年に長女が猩紅熱で亡くなり、ウィーン国立歌劇場の音楽監督としての栄光と苦難の時代は突然、強制的に終わりを迎えた。最も暗い時期のイングマール・ベルイマンでさえも、その年にマーラーが直面した事態よりも悲惨なシナリオを考え出すのに苦労するだろう。
それにも関わらず、これらの出来事をきっかけに登場したこの交響曲は決して陰鬱な作品ではない。マーラーの交響曲の中で大惨事で終わるのは第6番の1曲だけである。交響曲第9番において、マーラーはしばしば怒りを感じているが、それは現代世界の偽りの神々に対する怒りである。レナード・バーンスタインはかつて第3楽章のロンド=ブルレスケを「現世や経済、世俗的成功の欺瞞に対する別離」と表現したことがある。それと第2楽章の狡猾な素朴な喜劇はより大きなドラマの間奏曲であり、「大地の歌」の「告別」のような素晴らしい別れの歌となっている。アルバン・ベルクは有名な分析の中で、交響曲の第1楽章を正に次のような言葉で表現している。
この楽章はマーラーがこれまでに書いた中で最も輝かしいものです。この楽章は地球や自然に対する並々ならぬ愛を表現しています。平和に暮らしたい、自分の心の奥底まで自然を満喫したいという切望が死が来る前に、抵抗できないほどにつのってくるのです。
1967年に書かれたプログラムノートの中で、クレンペラーは次のように述べている。
交響曲全体の解決は最後の楽章―アダージョでもたらされる。そこにはもう皮肉も嫌味も憤りも何もない。死の荘厳さ-シューベルト/クラウディウスの言葉にある「私はお前の友。罰を与えに来たのではない」(「死と乙女」から)のような死だけである。
アダージョは肯定するような大いなる讃歌(ロンド・ブルレスケの変容した断片から構築された)から始まり、禅のように内省する雰囲気を与えている。楽章の最後の大きなクライマックスでは、ヴァイオリンが虚空に炎の橋をかけるように奏でるが、クレンペラーが指摘したように、ゆっくりと徐々に消えていくように離脱する。 長大で激しく静かな作品の最後のページで、有名な要求がなされている。マーラーは自身の「亡き子どもをしのぶ歌」から「太陽の輝くあの高みでの美しい日」の旋律を引用している。マーラーは自己中心的な人だと言われているが、 彼自身は死に直面しても何の不安も示してはいない。 この消え去るような終結は自己陶酔や自己憐憫ではなく、むしろ自然な生物学的移行の感覚、創造された全物質と一体になるような衰退を示唆している。
クレンペラーがマーラーと出会ったのは1906年。21歳のカペルマイスター志望だった彼がマーラーの交響曲第2番「復活」の演奏で舞台袖の別働隊の指揮を任されたのがきっかけだった。後に彼はこの交響曲のピアノ編曲版を制作し、それを聞いたマーラーはこの若者に向けて輝かしい推薦状を書いた。クレンペラーは1925年にベルリンで交響曲第9番を初めて指揮した。その解釈は技術的にも、音楽的にも、知的にも未熟なものであった。40年後、キャリアの絶頂期にあったクレンペラーはEMIにこの作品の録音を希望した。彼のマーラーの録音-交響曲第2番「復活」と「大地の歌」は絶賛されていたが、EMIやドイツの子会社であるエレクトローラ社は熱心ではなかった。「ご存知のように、ドイツではマーラーへの関心はほとんどない」。クレンペラーはこのプロジェクトをライバル社に持ち込む可能性を仄めかした。彼の名声とEMIではクラシックレコードが売上高の10%(アメリカでは15%)を占めていたこともあり、EMI側は譲歩した。
もし81歳の大家が1967年2月のセッションで元気がなかったり、調子が悪かったりしていたら、この録音は高額なミスになっていたかもしれない。実際はその逆だった。オーケストラのメンバーはこう振り返った。「彼はユーモアと焦りとエネルギーに満ちていて、誰もが何年も前から覚えていたものとは比べものにならないほどだった」