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12月23日。
夜の捜査会議の後、真壁はちょっとした知識を仕入れることにした。西口の駅前に差しかかったとき、何気なしに「覗いてみるか」と駅前のデパートに入り、時計売り場に立ち寄った。
閉店間際の時間、真壁は何食わぬ顔で津田と2人、ガラスケースに収められた高級ブランド品を何点か眺めていると、被害者が身に着けていたのと似たような腕時計が眼に留まり、値札を見て驚いた。普通の乗用車が1台買える。2人は声も出さずに、こそこそと引き揚げた。
デパートを出てから、津田が「時計って高いものなんですね」と呟いた。先日、調書を取った妻の絵里によると、諸井の小遣いは月7万。腕時計は夏のボーナスをはたいて中古で買ったというが、あの桁ならバーゲンで半額になることはあっても、子どもが2人いる中年のサラリーマンには高すぎる。
犯行の様子からして行きずりの線が濃厚だが、ホシは諸井を殴っただけで、現金の入った財布も高価な腕時計も奪っていない。単にホシが気づかなかっただけなのか、被害者が身に着けていた腕時計の値段は、さすがにちょっと気になった。
終電前の時刻、まだ駅周辺にはいくらか人通りもあった。
真壁と津田が地下街から東口へ出たとき、歩道に7人ほどの男女が、信号待ちをしていた。信号が青に変わり、人の塊が崩れて歩きだし、散っていく。
その時、交差点へ歩き出した男が1人、ジャンパーのポケットに突っ込んでいた片手をひょいと出したかと思うと、その手から何かが落ちた。
2人が立っていた位置から10メートルほどの距離があったが、真壁はとっさに割箸だと気付いた。
真壁は駆け出し、落ちた割箸1本を拾い上げた。あとから走って来た津田も、交差点の半ばまで進んでいた男に追いついた。
「おい!この箸、ゴミか」
振り向いた男は、30代前半の顔だった。ひょろりとした柳腰で、髪を茶色く染めている。男は眼を開けたが、その焦点は定まっていない。ラリっているなと思う暇もなく、いきなりこちらへ突進してきた。一瞬のうちに、ナイフのような刃物が見えた。
「バカ野郎!」
真壁がとっさに男の腕をからめ取り、ねじ上げる。ナイフが音を立ててアスファルトの上に落ちた。わずかな通行人が何ごとかと見ている。信号が赤に変わり、通りの車からクラクションを鳴らされる。真壁と津田は急いで男を両脇から引きずり上げ、走り出した。
署に連れ帰った男は、当直の署員の手ですぐに身ぐるみを剥がされ、凶器のほか乾燥大麻を取り上げられた。指紋や写真を取った後、真壁は男に数発平手を見舞って眼を覚まさせ、取調室の椅子に座らせた。
きっかけは、拾った割箸の先端をたまたま鼻に近づけた津田が、急に顔面蒼白になってトイレで吐いたことだった。真壁は漠然とした直感を抱え、家に帰らず署の道場で寝泊まりしていた十係の古参、吉村を起こした。保安部にいたことのある吉村は割箸を鼻に近づけると、「コカインだな」と言った。
真壁の脳裏に、閃光がひとつ走った。事件当夜、路上で拾った新品の割箸一膳。しかも、片方だけ落とされた割箸1本の解答はこれかもしれない。
コカインを吸引するときは、少量の粉末を鼻孔に入れるために耳かきやスプーンの柄の先を使うのが普通だが、割箸はたしかに便利だ。どこでも手に入り、簡単に捨てられる。
コカインを割箸で吸引するグループが、この界隈にいる。事件当夜も、あの現場周辺にいたのだろう。いきなりナイフを突き出した今夜の男のような輩が、あの夜もラリってぶらついていたのだろう。
取調は、地元を知り尽くしている署の当直に任せ、真壁は聞き役に回った。割り出さなければならないのは、コカインを買う場所。吸う場所。吸っている仲間の名前。
「真っ赤な電球がぶらぶら揺れててよ、その電球から蛇みたいなのが何本も出てくるんだよ。その蛇が虹色に光ってだんだん膨らんで長くなって、そこら中で躍り始めるのさ・・・ああ、楽しいよ。ほんとにウキウキする。だのによ、誰かが声をかけられたりするとさ、頭が爆発するんだよな。気持ち悪いんだよ。邪魔するな、俺の回りに来るなって叫ぶんだ、俺は・・・」
そんな話が延々と続いた。あまりにひどいと面を張る。男は怒ったり笑ったりを繰り返し、またしばらく話を続ける。薬が切れ始めてくると、今度は冷汗を垂らしてガタガタ震え出し、とてもまともな話が出来るような状況ではなくなった。どうにか男の氏名が三谷透、下馬に住んでいることを確かめた頃には、外が薄明るくなっていた。
真壁は開渡係長と相談し、三谷をいったん放り出すことにした。そして、後を尾ける。中毒の程度からみて、半日もたたないうちに三谷は必ずどこかへ行く。薬を吸える場所に決まっている。
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真壁が取調室から本部に入ってみると、すでに十係の全員が集まっていて、三谷に顔を見られた真壁と吉村を除いて、即席のクジ引きが行われた。その結果、杉田と渡辺が三谷の後を尾けることになった。
尾行は思ったより時間がかかった。
三谷は下馬の都営団地へ帰ってしまい、夕刻に渋谷へ出ると、駅構内のトイレで1人の男と数秒の接触をした。薬の授受は確認できなかった。三谷はその足で代々木公園へ行き、半時間ほどぶらぶらした後、公衆トイレの端で、男3人と30秒の接触。三谷は片手で紙幣数枚を3人に渡し、別の手で代わりに何かを受け取ったのがたしかに確認された。
その後、三谷は原宿からJR山手線に乗り、池袋で下車。西口で、顔見知りらしい女と一緒になり、2人でしばらく歩いて自転車駐車場の脇の地下道をくぐり、保健所に隣接する広場へ向かう。
パーキングを北に向かい、細い路地で1軒の雑居ビルに入った。1階と2階は、個室ビデオ屋。3階は貸事務所になっていた。
三谷と連れの女は6時間ほどビルの中にいて、午前3時に出てくると、東口まで歩いてタクシーを拾った。その間に男3人、女2人が出入りしたが、いずれも入ったのはビデオ屋ではなく、隣の階段を上がり降りして、3階の貸事務所に入った。建物の3階は《デザイン工房ニューワールド企画》という名義で借りられている。
翌朝の捜査会議の後、会議室の片隅で十係だけのひそひそ話になると、「《ニューワールド企画》?」と馬場が大きな声を出した。
周りが慌てて「よせ、主任」と遮ったが、めずらしく今朝は会議に現れた管理官の秦野警視が幹部席から「そこ、何やってる!」と怒鳴りつけた。
つい最近まで池袋南署の組織犯罪対策課にいた馬場が続けて言った。
「あそこのビルのオーナー、誠龍会じゃなかったか」
西日本一の勢力を持つ誠龍会が関東進出を狙い、密かに東京でコカイン・ルートを開拓しているということか。
いつの間にかそばに来ていた秦野が、近くの机に拳を落とす。
「だったらなんだ、それが本件とどう関係してるっていうんだ!」
「いや、ですから・・・」開渡がとりなおそうとする。
「下手な鉄砲は外で撃ってこい!本ボシを探せ、本ボシ!」
その日のうちに、《ニューワールド企画》は誠龍会のコカイン・ルートを押さえたい組織犯罪対策部の手に移った。本庁の組織犯罪対策第五課から、コカイン摘発を担当する薬物捜査第三係がやって来て、池袋南署の講堂を拠点にした。
真壁は署の講堂に顔を出し、係長の阪本警部に頼み込んで、互いに邪魔しないことを条件に、張り込みの尻尾にくっついた。
「割箸?そんなものを使うのは知らんな」
阪本はそう言ったが、三谷ひとりが使っていたら、仲間も使っている可能性は高い。もし《ニューワールド企画》にコカインを割箸で吸う連中が集まっているなら、その中に、事件当夜あの近くにいた者がいる可能性はゼロではない。
そういう漠然とした可能性の他に、真壁の脳裏には、ぼんやりした事件の姿が浮かんでいた。
見知らぬ被害者を行きずりに殴った男女は、罪悪感どころか、自分たちが殴ったことすら分かっていないのではないか。それは、ナイフを突き出した三谷が、自分がナイフを振りかざしたことを全く覚えていない様子だったことから、ふと考えたことだった。
三谷のように『七色の蛇が爆発するのを見て気持ち悪く』なり、発作的に眼の前にいた誰かを爪でかきむしり、殴りつけ、またふらふらとどこかへ行ってしまった奴らがいるのだろう。そうでも考えなければ、地方から出てきたしがない中年サラリーマンが金目当て以外で、なぜ標的になることがあるのか。
麻薬摘発のプロたちは《ニューワールド企画》が入っている雑居ビルの斜向かいに建つビルの屋上を陣地にした。どちらも3階建てだ。屋上には広告の看板が立っていて、その下に赤外線カメラを置き、24時間態勢で出入りの人間を見張る。
真壁と津田は夜の捜査会議が終わったあとから加わり、午前2時か3時ぐらいまで、屋上で頑張る。
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12月26日。
真壁は午後8時過ぎに会議室の席に着き、タバコを吸おうとすると、灰皿が吸殻で溢れかえっていた。部屋中にたちこめる紫煙に、津田が隣で咳き込んでいる。
ゴミ箱はどこかと眼を巡らせると、いつも見えるはずの顔がひとつ欠けていた。夜の会議の前は集中力がすでに切れているのか、呆けたような顔で出涸らしのお茶をすすっている吉村の姿がない。
真壁は前の席で、新聞を読んでいた杉田の肩をつついた。
「吉村のオッサンがいない」
「いないだと?」紙面から顔を上げ、杉田も辺りを見回す。「おい、あのオッサン、どこへ行った?」
吉村と組んでいたはずの所轄の刑事を呼びつけると、1時間ほど前に署の前で別れたという頼りない返事だった。杉田が訝しげな眼をよこすうちに、遅れて到着した所轄の捜査員2名が入ってきて、着席したと同時にしばしひそひそ話の声が立った。
つい数分前、パトカーの無線で殺人、または傷害事件が発生したと伝えていたらしく、場所は世田谷区下馬の都営団地とのことだった。真壁は無意識のうちにひっかかるものを感じ、耳をそばだてていたが、幹部席の開渡係長が「報告、始め」と机を叩き始めて、思考は途切れてしまった。
地どりの報告は連日、『成果なし』が続いている。被害者の携帯電話からは、電話帳リスト、通話記録などからも怪しい線は出て来ない。現場を中心に半径300メートルの範囲にある全ての防犯カメラもチェックしたが、犯人の姿など影も形もつかめず、情報提供もゼロ。自分たちが無駄な線を追っていると感じ始めたとたん、苛立ちや諦めが蔓延し、精神衛生上よろしくない状態になってくる。
突然、幹部席の方から机を拳で叩く音が響いた。秦野だ。
「ホシが逃げてるんだぞ!事件発生から何日、経ってると思ってるんだ!くだらんヤク中の男のケツを追っかけてるヒマがあったら、ホシにつながる線を早く見つけ出せ!」
口さがない磯野が「現場と初回の会議すっぽかしたの、どこのどいつだ」とぼやく。杉田と馬場の主任ふたりは、知られたくもない内偵を大声でバラされ、仏頂面を浮かべている。高瀬は眼に涙を浮かべ、大欠伸。渡辺はペンで爪の垢をほじくっている。
そのとき、会議室に顔を出した誰かが「外線から電話です」と真壁を呼んだ。杉田をはじめ、十係の眼がぐるりと動いた。
刑事部屋で取った外線電話からは、ざわざわした喧騒と一緒に、行方不明だった吉村の渋い声が飛び込んできた。
「下馬で殺しだ。都営団地前」心なしか声の調子が高い。「ガイシャ、誰だと思う?」
「今、どこにいるんですか?」
「三宿病院の前・・・それより、ガイシャは三谷透だぞ。さっき、死亡が確認された」
真壁は一度にいくつもの質問をくり出した。
「どうやって殺されたんですか?ホシは?目撃者は?」
「銃弾を2発食らった。ホシは自首してきた。藤枝組のチンピラ2人」
真壁は反射的に「すぐ行きます」と電話を切って、刑事部屋を飛び出していた。
なぜヤク中の三谷が、藤枝組のチンピラ2人に殺されたのか。逮捕時に中野のセンターに総合照会をかけたとき、三谷はA号(前科・前歴)で3件、Y号(薬物使用歴)で5件ひっかかったが、いずれも軽微な案件ばかりで、ヤクザに睨まれるような筋は確認できなかった。
また、吉村が自分だけにこの件を通したのはなぜか。捜査に対する基本的なとらえ方が違うのは必然だが、十係の主任ふたりは、吉村にとって何かとやりにくい相手なのかも知れない。
さまざまな疑問が渦巻いたが、昼間見た組織犯罪対策部の資料で、藤枝組が誠龍会系だということを脳裏にちらりと思い出す。
会議を無断で抜け出し、署の外でタクシーを拾うと、すぐに携帯電話と受令機のイヤホンが鳴り出した。行方をくらました自分を捜査本部が呼んでいるのだったが、それを無視してタクシーの座席で座り続けること40分、午後10時前に真壁は世田谷中央署の前に降り立った。
ひっそりと明かりの灯った警察署の玄関前に、数人の報道関係者が立っていたが、その中から大学生の頃からなじみのある男の顔がこちらを向き、白い歯を覗かせて微笑んだ。
富樫誠幸。全国紙の東都日報に勤める記者で、今では警視庁捜査一課の「番記者」を務めていた。
真壁は指1本、自分の口に当てて『だめだ』と示し、玄関に入っていった。会議室前の廊下で、本庁の顔見知りと出くわし、「おい、君!」と怒鳴られた。
「コッチの応援に回るようにと指示されただけです」
無表情でそう言いのけると、真壁は捜査本部の置かれた会議室に身を滑り込ませた。
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「ウチはもう応援、要らんぞ!」
打ち合わせをしているかと思ったら、捜査員たちは会議室のテーブルで、コンビニの弁当やらおにぎりを食っていた。その中から、本庁から来た第五係長の水野警部が首をもたげて真壁の姿を捉えるやいなや、怒鳴りつけた。
「取調はどうしたんです?」真壁は言った。
「もう終わった。それより、よその事件に首つっこんでる暇なんぞ、あるんか」
「取調室の明かりは付いてた」
「しつけえ野郎だ。今は組対がやってる」水野が虫を払うように手を振る。「さっさと失せろ」
「調書、見せて下さい。ガイシャ、俺の知ってる奴なんです」
「おい、真壁。何様のつもりだ?」
水野は顔をひきつらせ、椅子から立ち上がると、明白な怒りの表情を浮かべて若輩を睨みつけてきた。刑事なら誰でも自分のヤマを荒らされたくないし、横取りされるようなことがあったら殺意のにじんだ言葉も出てくるが、水野はそれ以上の個人的な敵意を真壁に向けてくる男だった。
真壁は無表情で睨み返し、声を低くした。
「調書を見せてくれと言ってるだけです。何か疚しいことでもあるんですか?」
水野は「バカ野郎」と唾を飛ばし、「おい、調書を見せてやれ」と部下に顎をしゃくった。渡された薄い調書の束を手に、真壁は取調室へ向かった。
取調室前の廊下に、真壁の知っている顔が立っていて、少し驚いた。
落合諒介。以前、新宿西署で一緒に交番勤務したことがあり、今では本庁の組織犯罪対策部第四課の第八係に所属する警部補だった。
「どんな様子ですか?」真壁は言った。扉の中から低い話し声が漏れてくる。
落合は「テメエらの五係が言うほど簡単じゃないぞ、コレ」と吐き捨て、タバコに火を付けた。「お前こそ、どうした?池袋は片づいたのか?」
「ガイシャ、俺の知ってる奴なんです。それと・・・取調中にメシ食うような奴の言うことは聞かなくていいです」
「ちがいねえ」落合は気だるい笑い方をした。
真壁はその場で数枚の調書を立ち読みした。
2人いるホシのうち、兄貴分の土井佳彦という男の調書から見た。最初に本籍、住所、略歴、前歴などを述べた後、事件の顛末に移っている。
『・・・12月26日午後5時半、歌舞伎町1丁目の組事務所で佐崎良夫と一緒にテレビを見ていたとき、懇意にしているある人物から電話が入り、「吉河組の高田直哉が下馬の都営団地に住んでいる女のところに行く」と聞いたのです・・・』
「ある人物というのは?」真壁が言った。
「黙秘」
『高田には、以前から数回面を切られたことがあり、個人的に恨んでいました。また高田は3年前の藤枝組組長宅襲撃事件の主犯と目される男であり、機会があったら決着をつけようと心に決めていたので、同席していた佐崎と相談し、すぐに下馬の都営団地に向かいました。これは誰かに命令されたものではなく、私と佐崎が2人で決めたことで、手柄を立てたかったのです。
私と佐崎は午後6時過ぎに、都道420号のファミレスのそばに車を停めました。高田はいつも都道の方から団地に入るという話でした。高田の女については名前も部屋も知りませんでした。周囲に怪しまれると困るので、私と佐崎は高田が来るまで車からは一歩も外に出ませんでした』
「高田の女っていうのは?」
「元モデル。名前は秋山春奈」落合はタバコを携帯灰皿に押しつぶした。「43号棟の203に住んでる」
『・・・7時45分ごろ、都道を玉川通りの方から歩いて来る男がいました。男は小さい公園の前で左に曲がり、団地の方へ向かいました。曲がり角で一瞬、街灯の下を通り、細い体格と茶色く染めた髪から、男が高田直哉だと思いました。私と佐崎が車を停めた位置から曲がり角までの距離は、約15メートルでした。私は「あいつだ」と言い、佐崎もうなづきました。街灯は少なく通行人もあまりいなかったので、私は絶好の機会だと思い、「やろう」と決心しました。
私は車から出てトカレフ1丁を構えて、後ろから高田を尾けました。私と高田の間は、10メートルぐらいあったと思います。高田が三筋目で左に曲がると、急に足音が止みました。そのとき、高田がどこを向いていたかは、暗がりだったので分かりませんでした。私は高田に気づかれたと思い、前に飛び出してトカレフの引き金を2回引きました。高田が地面に倒れる音がした後、近くのアパートの窓からカーテンが開く音がして、慌ててその場を離れ、佐崎と2人で車に乗って逃げました・・・』
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「土井が撃ったとき、高田との距離は?」真壁は言った。
「7メートル。相手は暗がりの中に立っていて、面はよく分からなかったと言うんだがな」
真壁はそこまで読んだところで、共犯の佐崎良夫の供述調書にもざっと眼を通したが、内容は土井と大して変わらなかった。2人とも調書の最後をこう締めくくっている。
『・・・刑事さんから、私と佐崎が高田直哉と思っていた男が三谷透という名前の別人だと聞き、大変驚きました・・・』
「感想は?」落合が言った。
真壁は「うーん」と唸った。何か言葉を漏らそうにも、言葉が出てこない、そんな感じだった。高田の写真を見せてもらったが、三谷とは髪の色こそ同じだったが、顔立ちも体格も似ていない。
「現場は?」
「ついさっき見てみたが、たしかに暗かった。相手が暗がりの中に立っていて、土井が緊張していたとしたら、見間違いが絶対になかったとは言い切れんな」
「土井は高田に何回、面を切られたって言ってるんですか?」
「5回」
「人の顔って、そんなに変わるもんですか」
「そこだ」落合がうなづく。「土井は高田を恨んでた。恨んでた男の顔を見間違えるというのは、俺には理解できん。それは今、取調してるウチの係長も一緒だ」
「高田って男、今どうしてるんです?」
「夏に破門状が出てから、マニラに行ったきり」
「破門されたら、もう高田は吉河のモンじゃない。ホシの2人は高田の破門状、見てないんですか?」
「見たと言ってる。要するに、どこの組に所属してるかではなくて、高田という個人に恨みがあったという言い方をしてる」
「今、中で何を聞いてるんです?」
「2人が最初に自首してきたとき、人違いで撃ったとは言ったが、高田を狙ったことは言わなかった。係長は、それがひっかかってる。それと、拳銃を持ってたのが兄貴分の土井だけで、佐崎は持ってなかった。金魚の糞じゃあるまいし、佐崎の方は何しに行ったのか分からん」
真壁は佐崎の調書に眼を戻した。『私はチャカを持っていないので、持っていきませんでした』とある。
「とにかく、スッキリしないことばかりでな。そんな調書に、ハンコは押せないと係長は言ってる」
真壁の関心はそこまでだった。腕時計を見ると、もう午後11時近かった。受令機は鳴らない。携帯電話を見ると、津田から何の連絡が来ていない。事件も《ニューワールド企画》も動きなし。
落合に礼を言ってその場を離れると、1階の裏口から外へ出た。今度は夜陰の中から現れた吉村と鉢合わせになり、向こうが「何か分かったか?」と笑ってみせた。
真壁はタバコに火をつけた。
「ガイシャ、どんな風に弾くらったんですか?」
「写真しか見てないが、胸から食らってる。発見時は仰向けだった」
だとすると、ガイシャは犯人と向かい合っていたということになる。土井は相手が『どこを向いていたかは、暗がりだったので分かりませんでした』と供述していたが、三谷が土井の尾行に気づいたか、土井が三谷に声をかけて振り向かせたのか。
「銃声の他に、何か物音がしたという証言は?」
「ない。銃声さえも『花火だと思った』っていう有り様らしい」
都会の無関心さには、真壁も投げやりな気持ちを抱えるしかなかった。吸い終わったタバコを下水溝に捨て、所詮は無駄足という思いがちらりとよぎったが、下馬の都営団地に向かうことにした。吉村は今からサウナへ汗を流しに行くと言って姿を消した。
吉村から教えてもらった現場は、被害者が倒れていたという当の場所付近はすでに立ち番の警官の姿もなく、各戸の窓には点々と残っているばかりの静けさだった。すぐそばに43号棟が建ち、203号室のポストを覗くと、「秋山」の名札があった。
真壁はさらに半時間、執拗に現場の周囲を歩き回った。すると、32号棟のポストに「三谷透」の名前を見つけた。現場とは80メートル以上離れている。部屋は301。見上げると、部屋のベランダに洗濯物はなく、窓はカーテンがきちんと閉まっていて、明かりはない。
急に眠気がもたげてきて、欠伸が出た。時刻は0時5分すぎ。身体も冷えきり、ひと晩棒に振ったというみじめな思いになる。今夜はもう、自宅で寝るのに充分なだけ疲れきっている。
都道でタクシーを拾おうとして、いったん思い直した。電話してみると、「まだ起きてるからおいでよ」と相手は言う。改めてタクシーに乗り、自宅のある大井町ではなく、鷹番1丁目に行くよう伝えた。奈緒子のマンションが、そこにあった。