6
リュトヴィッツがチェス嫌いになったのは、父親とミハイル伯父のせいだった。父親とミハイル伯父はウクライナのキエフに住んでいた頃からの幼なじみで、あの都市にあった「レーニン青少年チェス・クラブ」の会員だった。リュトヴィッツは2人がはじめて対戦した1938年夏のことをよく話していたのを覚えていた。
「全然たのしいゲームじゃなかったよ」
父親の思い出話の中では、ゲームに勝ったはずのミハイル伯父が椅子から腰を上げながらそうぼやいたことになっていた。人の弱り目に目ざといミハイル・フェデュニンスキーは、キャスリングをする父親の手が震えていたのを見逃していなかった。
それから2年足らずの後、ミハイル・フェデュニンスキーは自分の母親と妹のガリーナと一緒にレニングラード、当時のペテルに引越しした。大学で法律を修めたフェデュニンスキーは弁護士となり、大学の先輩と一緒に法律事務所を開いた。
スターリンが死んでから間もない9月のある日の暖かい午後、レストラン・チェーホフで昼食をとった後にネフスキー大通りをぶらぶらと歩いていたフェデュニンスキーは、キエフ時代の旧友グレゴリー・リュトヴィッツとばったり出会った。
グレゴリーは25歳の若さで頭は禿げ、歯のほとんどを失っていた。異臭を放ち、気が触れたかのような話し方をした。街の騒々しい活気にも、若い娘たちにも、とくに何かを感じている様子はなかった。うなだれ、背中を丸めて、まるで暗いトンネルの中をいつまでも歩いているような風情だった。
それでもグレゴリーは、髪を油でてからせ、身なりのいい背広に身を包んだキザっぽい男が、「レーニン青少年チェス・クラブ」の仲間だった幼なじみのミハイル・フェデュニンスキーだと気付くと、うなだれていた頭を上げた。グレゴリーは慢性の肩こりが消えたように感じた。口を開けたが、ショックと喜びと驚きで言葉が出ず、また閉じてしまった。それから、わっと泣き出した。
ミハイルはグレゴリーを連れてレストラン・チェーホフに引き返し、昼食を食べさせ、それからイズマイロフスキー通りに新しくできたホテル・ユスポフに案内した。ホテル・ユスポフのカフェはチェスを愛好するスラヴ人のたまり場で、情け容赦ない戦いが毎日繰り広げられていた。
この日のグレゴリーは久しぶりにとったまともな食事と、チフスの長引く後遺症のせいで精神状態が尋常ではなく、店の客全員を負かしてしまった。挑まれれば拒まず、片っ端から完膚なきまでやっつける。そのやり方があまりにも憎たらしいので、この男は絶対に許さんと怒り狂ってカフェを出ていく者もいた。
その頃からすでにグレゴリーは、後に息子のアレクサンドルをチェス嫌いにしてしまう陰々滅々として苦悩に満ちた指し方をしていた。「君の親父さんのは、歯痛と腹痛と痔を我慢しながらやってるようなチェスだった」と、ミハイル伯父があるときリュトヴィッツに言ったが、まさにそのとおりだった。
ため息をつく。うなる。残り少ない茶色い髪の毛を発作のようにつかんで引っぱる。頭皮をこする。対戦相手がまずい手を指すと、そのたびに腹に激痛が走ったかのような反応を示す。それに対してグレゴリーの自身の指し手は、どれほど大胆で独創的であっても、口に手を当てたまま眼をみはって眺めるばかりだった。
ミハイル伯父の指し方は、父とは全く違った。淡々と興味なさそうに指し、まるでもうすぐ食事が出るかという風情で、盤に対して体をやや斜めに構えた。だが、伯父はすべてを見ていた。形勢を逆転されても慌てず、チャンスが到来してもかすかに面白がるような表情を覗かせるだけだった。タバコをぎりぎりまで吸いながら、幼なじみがホテル・ユスポフのカフェに集う腕自慢たちを相手に呻吟し、身悶えるのを見つめていた。カフェの楽しい雰囲気がぶち壊れる頃、ミハイルはグレゴリーを自宅へ招待したのである。
当時、フェデュニンスキーは一家で狭いアパートに2部屋の住居を借りていた。母親は寝室のベッドに、妹はソファに、ミハイルは床に寝床を作って寝ていた。落ち着いた性格の兄とは異なり、喧嘩っぱやいガリーナは戸口でためらっているグレゴリーをひと目見るなり、身体に電流が走るのを感じた。それは、一目ぼれだった。
のちにリュトヴィッツは父親に、ガリーナ・フェデュニンスカヤと会ったとき何かを感じたのかと聞いたことがあったが、たいした答えは引き出せなかった。ガリーナはグレゴリーの境遇に深く同情したという。グレゴリーは戦後アメリカに移住した友人とハガキで通信チェスを興じていたが、KGBはチェスの譜面を使った暗号でひそかに資本主義者と通じているというでっちあげの容疑で、グレゴリーとその両親を逮捕した。シベリアの強制収容所に送られたグレゴリーは両親を失い、スターリンの死亡により特赦で解放され、1人でレニングラードまでたどり着いたのだった。
最初の夜、グレゴリーはミハイルと一緒に床の上に寝た。翌日には、ガリーナが服を買いに連れて行き、同じアパートで最近未亡人になった人から部屋を間借りできるよう交渉した。髪がまた生えるようにと頭皮をタマネギでマッサージしてやり、チフスに効くからということで牛のレバーを食べさせた。
そうして5年間、ガリーナがこまめに世話を焼いたおかげで、グレゴリーは背筋を伸ばし、話をするときは相手の眼を見て、部分入れ歯を使うようになった。ガリーナは22歳でグレゴリーと結婚した。新聞社に就職して、事務員として週5日はたらいた。リュトヴィッツが大学生のとき、癌で亡くなった。
ミハイル・フェデュニンスキーは、法律事務所で才能を開花させた。その才能に裁判で相手の検事も感嘆としたほどで、この検事の働きかけでミハイルはモスクワでさらなる研鑽を積んだ後、国家検事局の検事となった。
グレゴリー・リュトヴィッツはチェスに明け暮れていた。
晴れの日も雨の日も、毎朝歩いてホテル・ユスポフのカフェに出かけた。奥のテーブルに入口のほうを向いて座り、義兄からの贈り物であるチェス盤を置く。夜にはウシャコフスカヤ河岸通りにある、リュトヴィッツが育った小さな家の裏庭でベンチに座り、チェスの専門誌に投稿したり、回想録を書いたりしていた。そして義兄の助けを借りて、息子に自分が愛してやまないゲームを憎むことを教えたのである。
「それはやめたほうがいい」
リュトヴィッツは父の言葉を無視して、ポーンやナイトをあるマスへ持っていく。すると、そこに待ち受けている運命にリュトヴィッツはいつも驚くことになる。どれほど前もって熟考しても、どれほど1人で練習したとしてもだった。
「その駒を取るのか」
「取るよ」
「やめたほうがいい」
だが、リュトヴィッツには父親よりも頑固なところがあった。そして予想できなかった運命が眼の前で現実となっていくのを、羞恥心に身悶えながらも見守った。父親は容赦なく息子を叩きのめした。
そんなことを何年も続いた後で、リュトヴィッツは母親のタイプライターの前に座り、自分はチェスが嫌でたまらないからもうこれ以上やらせないでほしいと懇願する手紙を父親に宛てて書いた。それから3回ほど無残な敗北に耐えた後、1週間ほどして市の中心部にある郵便局からその手紙を送った。
その2日後、グレゴリー・リュトヴィッツはホテル・プーシキンの505号室で、睡眠薬の過剰摂取で自殺した。父親の死から23年経ったとき、リュトヴィッツはあの手紙を発見した。手紙はホテル・ユスポフの忘れ物を保管する箱に入れられていた。
7
相棒を迎えに行くためにサンクトペテルブルク東部のオクチンスキー通りを歩いている間、リュトヴィッツはホテル・ユスポフのカフェでかつて背中を丸めてチェスに没頭していた父親を思い返していた。通りには人影がなく、真っ暗な空にぽつりぽつりと街灯がまたたいていた。腕時計によれば、時刻は午前6時15分。
前方に、無造作にばらまかれたようなコンクリートの建造物の一群が見えていた。1つの棟が12の階に仕切られ、500ほどの世帯を収容していた。スヴェトラーノフ一家はスレイドニイ・オクチンスキー7号棟の8階に住んでいた。
6時30分まで何分かある。運転音のうるさいエレベーターを使わず、階段で上がることにした。7号棟の階段の吹き抜けは、小便と冷たいセメントの匂いが充満していた。8階に着くと、ご褒美にタバコを1本くわえて火をつけた。
戸口のマットの上に、マリアが立っていた。そのエプロンの下の方を掴んで、ホッキョクグマの柄のパジャマを着たドミトリが立っていた。部屋のドアの中からは、狭いゲージの中で象かゴリラが大暴れしているような音が響いていた。
「おでぶさんはまだパジャマ姿かい?」リュトヴィッツは言った。
「私、妊娠したの」
マリアがもつれた髪の隙間から言った。その言葉の響きに、どこか気後れしたものが含まれていた。エレーナが死んだときに妊娠していたことを知っているのだ。マリアの腕には幼いイワンが抱かれており、つやのいい黒髪を立たせて、はにかんだ微笑をリュトヴィッツに向けていた。
「分かってるよ」
そう言うなり、リュトヴィッツはしゃがんでドミトリと同じ視線になった。
「今でも大きくなったら警官になりたいかい、ミーチャ」リュトヴィッツは聞いた。「お父さんやサーシャおじさんみたいに」
「うん」ドミトリは気の無い声で返事をした。「思ってるよ」
「よし偉いぞ」
リュトヴィッツはその頭をなでると立ち上がり、ドアを開けた。狭い廊下を歩くと、飛行機の調理室のような狭いキッチンに入った。レンジ台と流しがあり、その隣に冷蔵庫があった。リュトヴィッツはなに食わぬ顔で冷蔵庫を開けると、バルチカの瓶をひとつ取り出し、栓を抜いた。
「おい、サーシャ!何やってる?」
リュトヴィッツは振り向いた。
狭い居間に、熊が立っていた。その実、スヴェトラーノフは生まれも育ちもペテルだったが、ぎょろりとした大きな眼と高い鼻で少数民族のタジク人と勘違いされるような顔立ちをしていた。ネクタイは締めておらず、白いシャツは袖をまくり、だぶだぶのズボンはしわくちゃで、濃紺のサスペンダーが太鼓腹の重荷を持ち上げていた。
「それはこっちの台詞だ、スヴェン」
怒りに任せて物を投げるのは、スヴェトラーノフの常套手段だった。普段は大人しい男だが、やるとなったらやる。今回の被害は皿が4、5枚にコップが10個ほど。テレビはひっくり返され、うんざりするほど画一的な眺めしか見渡せない窓にひびが入っていたのは、居間にあった椅子を投げつけたからであろう。
スヴェトラーノフは、自分たちが暮している狭いアパートをぶち壊そうとするかのように大声で怒鳴りだした。
「なぁ教えてくれよ、サーシャ。このくそアパートには、まだ赤ん坊が入る場所があるんだとよ!すごいよ、まったくすごいことだ!」
リュトヴィッツはそれには答えず、バルチカを不眠の頭の上にかかげ、ぐびぐびと飲みはじめた。
「人の家のビールを勝手に飲むやつがあるか、このクソッタレめ!」
そう言うなり、スヴェトラーノフは瓶を取り上げ、残りを一気に飲み干した。そして盛大なげっぷを吐いた後、息を切らしながらその場に座り込んだ。
「なにやってるんだろな、おれは・・・」
「片付け、手伝おうか?」
スヴェトラーノフは呆然とした様子で、首を横に振った。
「いや、いい。さきに行っててくれ」
リュトヴィッツは部屋を出ると、マリアの頬に唇をぐっと押し付けて言った。イワンがマリアの腕の中で寝息を立てていた。
「サーシャおじさんがバイバイと言ってたと、ワーニャに伝えてくれ」
ドミトリと握手すると、エレベーター・ホールへ出て行った。駐車場に入ると、大型ゴミ収容器の脇に立ち、降りはじめた弱い雨の中でタバコに火をつけた。十数分後、スヴェトラーノフが建物から出てきた。並んで立つと、案の定、息からビールの匂いがただよっていた。
「とんでもないやつだと思ったろう」スヴェトラーノフは言った。
「たいしたことじゃないさ」
「もっと広い家を見つけないと」
「そうだな」
「これは神の祝福だ」
「そのとおり。おめでとう、スヴェン」
スヴェトラーノフは深いため息をついた。
「マリアは今すごく疲れてて、ちょうど計算の合う時期にセックスしたかどうか思い出せないと言ってる」
「相手が俺じゃないのはたしかだな」
スヴェトラーノフがじろりと睨みつけた。
「冗談だよ」リュトヴィッツは慌てて言った。「もしかしたら、してなかったりして」
「だとしたら、奇跡ってことだな」
「今のロシアじゃ、何が起きたっておかしくはないさ」
2人はスヴェトラーノフの青いジグリに乗った。バルチカの摂取量の違いから当然、ハンドルはリュトヴィッツが持つことになった。こんな朝方に真面目にパトロールする民警がいる確率は、ゴルバチョフが再び大統領になる確率よりも低いと思われた。
スヴェトラーノフのジグリは2つあるヘッドライトのうち今は1つが切れていた。リュトヴィッツは手探り状態で暗い道路を、ネヴァ河の南岸近くにある大屋敷まで走るはめになった。
「そんな眼で見るのはやめてくれ」リュトヴィッツは相棒に言った。見られているというのはただの勘だった。「なんだが嫌な感じだ」
スヴェトラーノフは事実、リュトヴィッツの手を見つめていた。
「手が震えているぞ」
「あまり寝てないんだ」
「ホテルで殺された男について、何か分かったのか?」
「趣味はチェスぐらいしか分からん」
リュトヴィッツは事件の概要を説明した。ボリジョイ・オフチンスキー橋でネヴァ河を越え、リュトヴィッツは車をスヴォロフスキー大通りに入れた。
「カスパロフか、どっかで聞いたことのある名前だ」スヴェトラーノフは言った。
「今のチェス世界チャンプとは似ても似つかない顔をしてた」
「偽名か」
「間違いないだろうな・・・って、ヤバイ」
新人警官のペトロフは、モイセンコ通りとの交差点でこちらに向かってよたよたと走ってくる車を見つけ、車を止めるよう指示を出した。停車した車は青いジグリで、ヘッドライトが1つ壊れていた。運転席の窓ガラスをノックし、中の男が窓を下げて顔を見せたときに初めて、相手が数時間前にホテル・プーシキンで顔を合わせた刑事だと気付いた。
誰も何も言わなかった。ペトロフの懐中電灯は、リュトヴィッツとスヴェトラーノフの赤い顔と血走った眼を照らし出した。
「なにか異状はないか?」リュトヴィッツが言った。
ペトロフの声は震えていた。
「はい、異状ありません。同志大尉」
「それはよかった」
リュトヴィッツが窓を上げ始めようとした時、ペトロフは一歩踏み出した。
「2人とも車から降りてください。いますぐに!」
8
サンクトペテルブルクの大屋敷は、リテイヌイ大通りのほぼ突き当たりに位置する。ヴィオノヴァ通りとカラエヴァ通りにはさまれた一区画の全部を占める6階建ての大きな建物に入っている。
ジグリを駐車場に入れ、リュトヴィッツとスヴェトラーノフは砂利の敷地を横切った。路面電車ほどの大きさと重さを誇る正面扉の内側に立つ民警に身分証を提示し、公営プールの玄関ホールを思わせるロビーを突っ切った。
階段をのぼった最初の踊り場に、「鉄のフェリクス」と呼ばれたフェリクス・ジェルジンスキーの頭像を乗せた四角い台座がある。リュトヴィッツはその隣にもう1つ新しい彫像が置かれていることに気付いた。スヴェトラーノフがリュトヴィッツを小突いた。
「こうなることを分かってなかったというんじゃないだろうな」
「同志ペトロフの勤勉さに、乾杯」
新しく刑事部長に就任したイワン・コンドラシンは冷たい化石のような眼とブロンズ像を思わせる無表情な顔付きをしていた。リュトヴィッツには、どう見てもエジョフやベリヤと同じ鋳型から出てきたとしか思えなかった。
「おはよう、同志リュトヴィッツに同志スヴェトラーノフ。今朝方、君たちが飲酒運転をしていたという素晴らしい報告があったのだが・・・さっそく私の部屋に来てもらおうか?」
コンドラシンは激昂しているときでも、それを態度や声に表わす人物ではなかった。しかし、コンドラシンが人の名前を苗字でしかも同志を付けて呼ぶときは、かなり険悪な事態の前ぶれを告げていた。2人の刑事は大人しくコンドラシンの後を従った。
内務省サンクトペテルブルク支部の実質的な責任者となったコンドラシンの執務室は、2階の広く薄暗い廊下の突き当たりにあった。刑事部の少将だけあって、とてつもなく広い空間を与えられていた。
コンドラシンが大きな革張りの机に座ると、デスクランプを付けた。墓場の中を人魂がさまよっているような感じになり、陰気さが否応なしに増した。その机とT字の形にもう1つの机が置かれ、リュトヴィッツとスヴェトラーノフはそこに座った。
「私はいまここで君たちの飲酒運転についてとやかく言うつもりは無い。この支部はそれよりも重要な案件をいくつも抱えている。同志スヴェトラーノフ、現在捜査中の事件はいくつある?」
「13件ぐらいでしょうか」
「どれから手を引けというつもりは毛頭ない。できるかぎり速やかに解決できれば、われわれの面目も立つというわけだ」
リュトヴィッツが言った。
「お言葉を返すようで恐縮ですが、14件なんです。13件じゃなくて。スヴェトラーノフ=リュトヴィッツ組の未解決事件は14件」
「まったく・・・血が血を呼ぶというわけだな」
コンドラシンはタバコに火を付けた。リュトヴィッツが吸い慣れているものとは色も香りも違う煙が、その指先にまとわりついた。その爪は、燻製された魚を思わせるほど黒ずんでいた。コンドラシンは自分の指をいぶしているのかと、リュトヴィッツは思った。
「モスクワでパヴロフのことは聞かなかったかね、同志リュトヴィッツ」
「いえ」
「彼が公金横領に関わってたと噂になっとるようだが、それは事実だ。モスクワの本部は、この支部の検挙件数の少なさをありがたくも問題視しとってな。われわれは早急に結果を出さなくてはならん」
スヴェトラーノフが口を開こうとすると、コンドラシンは片手を挙げてさえぎった。
「3日間だ。3日かかってもまとまらない事件は、見切りをつけて後ろのキャビネットに放り込む」
コンドラシンの背後にある人の背丈ほどのキャビネットは、迷宮入り事件の記録を保管する場所だ。ここに記録をしまいこんでも、事件がなくなるわけではない。実質的には火をつけて燃やし、その灰をネヴァ河に投げ捨てることと一緒だった。
「結果がほしいのだ、同志リュトヴィッツ。君の不幸にはたしかに同情するが、今はもうその時期ではない。反論があるか?」
「いいえ、ありません」
コンドラシンはタバコを灰皿に押し付けると、万年筆を手に取った。黄ばんだ手が動き始め、顔を上げずに言った。
「以上だ」
数十分後、リュトヴィッツとスヴェトラーノフはもっとも簡単と思われる案件から取り組むことにした。フォンタンカ運河沿いに建つ、協同組合(コーペラチブ)形式のレストラン・トルストイで発生した放火未遂事件。2日前の夜、窓から数本の火炎瓶が投げ込まれ、従業員ひとりが火傷を負い、テーブル2脚が焼失した。
経営者兼支配人のモロゾフは、あたかも事故の被害が無かったようにふるまった。
「なにも、内務局の方々に来てもらうほどのことではございません。ちょっとした事故ですよ。たぶん、子どもたちのイタズラです。忘れてしまうわけにはまいりませんか?」
「いいか、民警に通報したのは、怪我をしたあんたの従業員なんだ」
頑迷な調子で、スヴェトラーノフは言葉を返した。
「それに、やった連中はどうする?向こうも、都合よく忘れてくれると思うか?」
「申し上げましたように、子どものイタズラと考えるのが一番妥当でしょうから」
「ガキどもを見たのか?」
「そういうことではなくて・・・そう、聞こえたんですよ。笑い声が」
「なるほど、近頃じゃ大人が笑うようなこともめっきり少なくなってきたからな。だがな、モロゾフ、笑い声だけで子どもと分かったというのはどうにも解せんなぁ」
リュトヴィッツはスヴェトラーノフに聴取をまかせ、プーシキン市にあるエカテリーナ宮の「緑の間」を模したらしい内装をめでるように店内を歩き回った。
淡い緑色の壁には、ギリシャ神話から題を取ったいくつかの場面が白の浅い浮き彫りで描かれている。ヒスイの壷を乗せた大理石の台座がふたつ、白い石膏の暖炉の両側に置かれていた。炉棚には、大きな金の時計。アーチ形の窓にはすべて緑のつややかなサテンのカーテンが掛けられていた。
火炎瓶が投げ込まれた窓枠や焦げ跡の残ったテーブルに鼻を近づけ、リュトヴィッツは言った。
「やりかたを心得た連中のようだ。灯油を使ってる。素人はガソリンしか入れない。こいつは上出来だ。火が長持ちする」
「たしかに、犯罪者の年齢層はどんどん低くなってきてる。まぁこっちがだんだん老けてきてるだけなのかもしれんが」スヴェトラーノフが言った。「いずれにしろ、やつらは凶悪で、人を傷つけることなんざ屁にも思っちゃない。あんたはどう思う、モロゾフ?」
モロゾフは近くにあった椅子にどっかりと腰を沈め、両手に顔を埋めた。薄くなった茶色の髪を汗ばんだ額からかきあげ、無精ひげの生えた顎をごしごしとこする。
「私の口からは何も言えません」
「俺たちは何度でも来るし、お前を何度でも呼びつけるからな。覚悟しとけ、モロゾフ」
リュトヴィッツはそう言って、スヴェトラーノフと店を出て行った。
9
リュトヴィッツとスヴェトラーノフは寒さで背中を丸めながら通りを急いだ。今日は北からやってきた低気圧のおかげで、サンクトペテルブルクは6月に入ったにも関わらず、朝から肌寒い日だった。大男と小男の身体が軽くぶつかり合う。スヴェトラーノフの背丈は、リュトヴィッツの肩ぐらいしかなかった。
「いいのか、サーシャ。モロゾフの野郎を放っておいて」スヴェトラーノフが言った。
「お前だって、この街にあるコーペラチヴのレストランのほとんどがマフィアに上納金を払ってることを知ってるだろ」
リュトヴィッツは続けた。
「連中が信じてるのは、自分たちと自分たちの能力だけ。他人に痛みと苦難と施す能力さ」
「近頃ほど、金が雄弁にものを言う時代はそうざらにないからな」
「だから抜き打ちで、大屋敷に出頭させるか、店に押しかけた方が利口だ。せいぜいじっくりと悩んでもらって、自らの罪を告白するかどうか」
リュトヴィッツは不意に立ち止まった。眼の前に、10階まであるレンガ造りの建物が見えていた。その建物は去年までホテルだったが、経営に行き詰まって廃業した。相棒の視線の先を見て、スヴェトラーノフが言った。
「ユスポフ・チェスクラブか」
1980年にこの街で開催された世界チェス選手権で、エミール・リヒテルがドイツのヤン・ティルマンを破って優勝した。リヒテルは根暗な性格の持ち主で人に好かれるような人物ではなかったが、ホテル・ユスポフのカフェの常連客ということもあって、ホテルの経営者から舞踏室の無償使用がカフェの常連客、すなわちユスポフ・チェスクラブに与えられた。
「チェス好きのヤク中もいたかもしれない」リュトヴィッツは呟くように言った。
「お前の推理が当たってたら、マリアお手製のサリャンカをおごってやるよ」
舞踏室の正面入口は封鎖されていた。裏通りに面した出入口から2人の刑事は入って行った。床の上質な寄せ木は剥がされ、かわりに市松模様のリノリウムが敷かれた。モダンなシャンデリアは、高いコンクリートの天井にボルトで留められた蛍光灯に変わられた。優勝から2か月後、リヒテルはかつてリュトヴィッツの父親も通ったカフェにふらりと立ち寄った。奥のボックス席に座ったリヒテルは、コルトの38口径を口に突っ込んで引き金をひいた。ポケットには遺書が入っていた。遺書にはただ、「昔のほうがよかった」とだけ書かれていた。
「カスパロフね」
骸骨のように痩せた男がチェス盤から顔を上げて、2人の刑事にそう言った。
「彼がここに来ることを願うね。そしたら、こてんぱんに負かしてやる」
「カスパロフの対戦を見たことがあんの?」
骸骨の対戦相手が聞いた。頬のふっくらした若い男。リュトヴィッツに眼を向けた時、縁なし眼鏡のレンズが白く光った。
「ねぇ対戦は見たことがあんの、刑事さん」
「念のために言っておくと」リュトヴィッツは言った。「いま聞いてるのは、あのカスパロフのことじゃないんだ」
「問題の男は、カスパロフって名前を偽名に使ってた」スヴェトラーノフが言い添える。
「カスパロフの指し方を雑誌かなんかで見たけど」若い男が続ける。「なんか、こう・・・複雑すぎるんだよね」
「お前にとって複雑に見えるだけさ、ロージャ」骸骨が言った。「お前が単純なせいで」
2人の刑事が中断させたゲームは中盤戦で、骸骨とロージャはゲームに熱中していた。だから当然の反応として、対戦を脇から見てあれこれ言う人間に対する態度と同じく、冷ややかな軽蔑を持って2人の刑事を遇した。
リュトヴィッツは対戦が終わるのを待ってから事情聴取をやり直したほうがいいだろうかと考えた。だが、他にも対戦中のプレーヤーは何組もいて、彼らにも話を聞かなくてはならない。
古い舞踏室のあちこちで、靴で床をこする音が黒板に爪で引っかくような響きを立てる。駒が置かれるカチリ、カチリという音は自殺したリヒテルが使ったコルトのシリンダーが回転する音のようだ。男たちは呟き、冷笑、口笛、わざとらしい咳払いなどで、たえず相手の思考を邪魔しようとする。
リュトヴィッツはチェス盤が置かれたテーブルに手をついて身を乗りだした。
「はっきり言っておくが、俺たちがカスパロフと呼んでる男は、世界チャンプになったガルリ・ヴァインシュテインのことじゃない。ある男が殺されて、俺たちが捜査してる。俺たちは殺人課の刑事だ。そのことはさっき言ったはずだが、あんたらには印象が薄かったようだな」
「そのカスパロフは赤褐色の髪をしてる」骸骨が言った。
「そばかすがある」ロージャが付け加える。
「ほら、俺たちはちゃんと話を聞いてるだろ」
骸骨は自分のルークをつまみ上げ、前方にすっと運んで、相手のビショップを追い詰める。ロージャが悪態をつき、それから椅子の背にもたれた。腕組みをして、手を腋の下にはさむ。禁煙の場所でタバコを我慢するときの姿勢だ。
リュトヴィッツは、存命中にホテル・ユスポフのカフェが禁煙になっていたら父親はどうしただろうと思った。父親は1回の対戦でタバコをひと箱吸っていたものだ。
「赤褐色の髪に、そばかす」骸骨が言った。「ほかに特徴は?」
リュトヴィッツは頭の中で、貧弱な手札をざっと調べた。
「チェスの研究をやってたんだろうと思う」
206号室に3冊ある本のうち1冊は、ペーパーバックのチェスの教本だった。裏表紙の内側にマニラ紙のポケットが貼りつけてあり、オストロフスコヴォ広場にある市立図書館の貸出カードが入っていた。残りの2冊は下らないスリラー小説だった。
「ああいう偽名を使ってたし・・・それに、ヤク中だった」
ロージャが腋の下から手を出した。背を起こして椅子に浅く座りなおす。眼鏡の奥で氷結していた眼が一気に溶けたように見えた。
「ヤク中だったのか」
リュトヴィッツに否定する気配がないと見ると、ロージャは続けた。
「ニコライか」
「ニコライだな」骸骨も同意する。
「あの男は・・・」ロージャは急に肩を落とし、両手を腋に垂らした。「刑事さん、ひとつ言っていいかな。その・・・こういう言い訳をするのはほんとに嫌なんだが」
「ニコライのことを話せよ」スヴェトラーノフが言った。「お前、ニコライが好きだったんだろ」
ロージャは肩を怒らし、また眼に氷をはった。
「好きじゃなかった。ただ、ニコライは面白い男だった。顔はよくないが、渋い声をしてたな。ラジオのナレーションができるような、立派な声だった。いつもこう・・・誰かをバカにするようなことを言うんだ。髪形がどうだとか、ズボンが野暮ったいとか、こいつは自分の女房のことを言われるといつもびくっとするとか」
「たしかに」骸骨は言った。「それはほんとだな」
「いつも人をからかうんだ。でも、なぜかは知らないが、腹は立たないんだよ」
「なんか、こう・・・自分にはもっと厳しいみたいな感じがあったな」
「あの男と対戦すると、いつも負かされるんだが・・・それでもこいつとやるときより、自分がいいゲームをしたような気がするんだ」ロージャが言った。「ニコライは間抜けじゃなかった」
10
「サーシャ」
スヴェトラーノフが小声で言い、眉の動きで隣のテーブルを示した。聞き耳を立てている男たちがいた。
リュトヴィッツもそちらを見た。2人の男が対座して、序盤を戦っていた。1人は浅黒い肌をしており、口ひげを生やしていた。眼の下には隈ができている。対戦相手は跳ねるような硬い髪に、色白の肌。背広の胸ポケットにサングラスを差していた。
刑事の眼を持たない者ならば、2人は他のメンバーと同じように、チェス盤に引き込まれているように見えるだろう。だが、リュトヴィッツは2人とも次が誰の番か分からないほど気もそぞろだと踏んだ。さっきの会話をひとことも漏らさないように聞き耳を立てており、今も耳は立ちっぱなしだ。
スヴェトラーノフは空いているテーブルへ行き、籐編みの座面が破れた曲げ木の椅子ひとつをひょいと持ち上げ、骸骨とロージャのテーブルをはさんだ反対側の席へ運んでいった。どさりと音を立てて座り、股を開いた。
「やぁ!」
スヴェトラーノフは男たちに声をかけた。両手をこすり合わせてから、指を広げて膝に置いた。《さあお前らをみんな喰ってやるぞ》という姿勢だ。曲げ木の椅子がスヴェトラーノフの尻の重さに呻きを漏らした。
「調子はどうだ?」
大根役者も顔負けの演技に、2人はびっくりして顔を上げた。
「面倒は嫌ですよ」色白の肌をした男が言った。
「面倒か。そいつは俺が一番好きな言葉だ」スヴェトラーノフはまじめな調子で答えた。「さぁ、今こっちでやってる話に参加しようじゃないか。ニコライのことを話してくれ」
「そんな人、知らないな」白い肌の男が言った。「ニコライなんて」
口ひげを生やした男は黙っている。
「そこのスターリン風の御仁」リュトヴィッツは穏やかに声をかけた。「あんたの名前は?」
「ラムザン・チャンジバッゼ」男は低い声で答えた。「何にも知りませんよ」
スヴェトラーノフが白い肌の男に眼を向けた。
「あんたは?」
「カジミール・ババジャニヤンです」
「ニコライと手合わせしたことはないのか。知り合いじゃなかったのか?」リュトヴィッツが言った。
「ええ、たしかにここで会ったことがありますよ」
ババジャニヤンがそう言うと、チャンジバッゼが対戦相手を睨みつけた。怖がらなくてもいいという風に手を上げ、ババジャニヤンは続けた。
「そのニコライという男にね。2回か3回、対戦したこともあったかと思います。僕の意見では、ものすごく才能のあるプレーヤーでしたよ」
骸骨が嘲るように言った。
「お前に比べれば、猿だってスパスキー級の天才だろうよ」
「あんたも」リュトヴィッツは言った。「ニコライというヤク中を知ってたんだな。どういう知り合いだったんだ?」
「刑事さん」骸骨は半ば咎めるような口調で言った。「俺のことは覚えてないんですか?」
なんとなく知っている男のような気はしていたが、いま初めて思い出した。
「ヴァシリー・セルギエンコか」
リュトヴィッツが刑事部に入りたての頃、この名前の若いウクライナ人をヘロイン密売の共謀者として逮捕したことがあった。ホテル・プーシキンの夜勤支配人フィリポフは、セルギエンコから薬を買っていた。
「それじゃ、最初から俺だと分かってたわけだ」
「あんたは男前だ。忘れはしないさ」セルギエンコは言った。「それに、医者をやってたあんたの奥さんも美人だったしな」
「この男は薬の売人で、モスクワで長いお勤めをしたんだ」リュトヴィッツはスヴェトラーノフに説明した。「色男がまたずいぶんと痩せたもんだな」
「ニコライにヘロインを売ってたのか?」スヴェトラーノフがセルギエンコに聞いた。
「いや、もう引退したんだ」セルギエンコはかぶりを振った。「この国の刑務所はほんとにひどいことでね。ドストエフスキーの時代から大して変わってない。もう二度、入りたくないね。だからもう、ヤクからは足を洗ったんだ」
「人はそんなに簡単に変われるもんなのか?」リュトヴィッツはセルギエンコを睨んだ。
「信じてくれよ、刑事さん。それにもし仮にまだ売人をやってたとしても、ニコライには売らなかったよ。俺はイカれているが、頭はおかしくないからね」
「どうしてニコライに薬を売ると、犯罪者であるだけでなく、頭もおかしいことになるのかな」スヴェトラーノフが穏やかで慎重な口調で聞いた。
カチリという小さな音が、はっきりと聞こえた。入れ歯が噛み合わさるような、少しこもった音。ロージャが自分のキングを横に倒していた。セルギエンコが腹をナイフで刺されたような表情を浮かべた。
「悪運がついてたんだよ」
リュトヴィッツは疑いと失望をあらわにした。
「悪運ね」
「コートを着ているみたいに身についてた。頭に悪運っていう帽子を被ってたと言ってもいい。そいつはものすごい悪運で、あの男には触りたくないし、近くの空気を吸うのも嫌だった」
「一度、ニコライが同時に5つの対戦をやるのを見たよ」ロージャが打ち明けた。「それぞれ100ルーブルずつ賭けて。それに全部勝ったんだ」
「刑事さん、もう勘弁してくださいよ」ババジャニヤンが弱音を吐いた。「僕ら無関係なんだから。あの男のことは何も知らないですよ」
「うんざりだね」チャンジバッゼが付け加えた。
「お気の毒だとは思います」ババジャニヤンが結論づけるように言った。「でも、お話することは何にもない。だから、もう行っていいでしょ」
「もちろんだ」スヴェトラーノフが答えた。「ただし、その前に名前と連絡先を書いていってくれ」
スヴェトラーノフは本人が手帳と呼ぶものを出した。小さな紙片を厚く重ねて特大のクリップで留めたものだ。その束をめくり、白紙を1枚見つけると、それをババジャニヤンに渡した。次いで鉛筆も差し出したが、ババジャニヤンは辞退した。ババジャニヤンが書き終わって紙をチャンジバッゼに渡すと、チャンジバッゼもそれにならった。
「でも、電話は困りますよ」ババジャニヤンが言った。「うちにも来ないでくださいね。お願いします。話すことは何もないですから。あの男のことで僕らが話せることは何ひとつないんです」
スヴェトラーノフは相棒をちらりと見ると、リュトヴィッツはごく小さく首を振った。
「行けよ」スヴェトラーノフは言った。
ババジャニヤンはそろそろと立ち上がり、チャンジバッゼが対局を中止させられた駒を蝶番つきの木箱に納めるのを見つめた。2人は左右に並んでテーブルの間を歩き、入口にたどり着く少し前、リュトヴィッツはチャンジバッゼが左脚を少し引きずるように歩いていることに気づいた。
その後は手分けして、チェス・クラブにいた数十名の会員から聴取を行った。ところが、ニコライが何時いたか正確に供述できる者はおらず、「あの日、いたんじゃない?」と言う者がいれば、「いなかった」と言う者もいる。
2人はマリアお手製のサリャンカにありつけなかった。
11
この日の夜、リュトヴィッツは公用車でサンクトペテルブルクから東に67キロのところにある、ミハイル・フェデュニンスキーの家を訪れた。自家用車の青いジグリは2か月前に、爆弾でエレーナと一緒に吹き飛ばされ、廃車になってしまった。
名もない湿地の岸辺に、リュトヴィッツは車を停めた。廃物の木板とこけら板で作られたロッジ風の家が、メタンガスの泡を吹く沼の上に二十数本の杭で支えられている。壊れかけの階段を登り、玄関のドアを二度ノックした。
「こりゃ、驚いた。いつ帰ってきた?」
フェデュニンスキーが風雨に傷んだヒラヤマ杉材のドアを開けた時、驚いたのはリュトヴィッツの方だった。夜中にも関わらず、伯父は黒のフランネルのスーツに白いシャツ、芥子の花の色をしたネクタイという格好だった。
「夜中にすみません。仕事中でしたか?」リュトヴィッツが言った。
「いや、酒を飲んでただけだ。入りたまえ」
リュトヴィッツが伯父のあとに従うと、この家にひとつしかない広い部屋に入った。三方にロフトがあり、奥の壁にロフトへ上がる急な階段が続いていた。玄関の脇に、高層ビル群のミニチュアのように林立する酒瓶が置かれていた。
「ウォッカだ」フェデュニンスキーは酒瓶のひとつを手に取る。「そうだろう?」
「コーヒーをください」リュトヴィッツがそう言うと、伯父が眉を吊り上げた。「車を運転してきたんです」
伯父がコーヒーを入れている間、リュトヴィッツは部屋の中を観察した。隅のベッドの脇に小卓があり、チェス盤が置いてあった。白のナイトのひとつは左耳が欠けている。長いあいだ放置されているらしく、駒の配置が乱れていた。風邪薬の錠剤が入ったビンが駒の代わりに、敵のキングを脅かしていた。
「新しい戦略ですね、風邪薬で攻めるというのは」リュトヴィッツは盤を持ち上げた。「通信チェスですか?」
伯父がそばに来た。息はウォッカ臭いが、燻製ニシンの匂いがした。あまりに油っこい匂いなので、口の中に小骨があるような感触がするほどだった。リュトヴィッツは伯父に押されて盤が傾けてしまい、駒を全部床に落としてしまった。
「お前はいつもこういう妙手を見せてくれる」
「すみません、伯父さん」リュトヴィッツはしゃがんで駒を拾い集めた。
フェデュニンスキーはコーヒーをテーブルに置き、風邪薬は戸棚の抽斗に入れた。
「気にするな。別にいいんだ。ゲームをやってたわけじゃない。適当に遊んでただけだ。もう通信チェスもやらないんだよ。私は突拍子もない、そして美しいコンビネーションで相手の度肝を抜きたいんだが、ハガキのやりとりでそれをやるのは難しい。ときに、このチェス盤に見覚えはないかな?」
リュトヴィッツは駒を箱にしまった。箱は楓材で、緑色のベッチンを内張りしてある。
「ないですね」と言ったが、実はミハイル伯父が父にプレゼントしたチェス盤だと分かっていた。ずっと昔、リュトヴィッツが癇癪を起こして盤をひっくり返してしまい、白のナイトの耳を欠いてしまった。
「やはり親子だな」フェデュニンスキーは笑った。「私もお前の父さんには時々、手を焼いたものだが、私を置き去りにして先に逝った後は、少しさみしくてね」
伯父は軽い感じを心掛けていたが、部屋の雰囲気は重苦しくなっていた。リュトヴィッツは父親が死んだ後の日々のことを思い出した。伯父はネフスキー通りの家のキッチンの隅でうなだれていた。シャツのボタンはかけ違え、食卓に置いたウォッカの減っていく様子が、伯父の落ち込み方の激しさを表していた。
フェデュニンスキーはソファに腰かけ、リュトヴィッツは大きな革張りの安楽椅子に陣取り、コーヒーをひと口含んでから切り出した。
「実は謎を抱え込んでいましてね」
「謎か。私は謎が嫌いなんだが」
フェデュニンスキーはウォッカをグラスに注いだ。
「俺が住んでるホテルで麻薬中毒者が殺されまして」
「ははあ」
「事件のことは知ってるんですか?」
「ラジオで何かを言ってたようだ。新聞記事も少し読んだのかもしれない」
夕刊には『市内のホテルで遺体発見』という見出しが掲げられていた。記事はセンナヤ広場にあるホテル・プーシキンでの殺人事件について、いい加減な記述が連ねてあった。検視したコルサコフに代わって、法医学検査所が出した暫定的な検視結果として、死因は『薬物関連の事故』とされ、『詳細は不明』と書かれていた。
「犯人はホテルや現場に一切、痕跡を残してません。プロの仕業を思わせる手口です」
リュトヴィッツはカスパロフの鑑識報告書を思い返した。凶器は38口径のリボルバーだと考えられる。麻薬中毒者なら、被害者の指紋に前科者と一致するものがあると思われたが、その憶測は外れた。
「そのヤク中はチェスが趣味だったようです。ホテルではカスパロフと名乗り、現場にはチェス盤。そういえば、最近はユスポフのチェスクラブに行ってるんですか?」
伯父が首を振る。
「ここ数年は行ってない」
「そのヤク中はユスポフでは、ニコライと名乗ってたようです。知ってますか?」
「いや」
「そのカスパロフことニコライが、現場にこんな棋譜を残していたんです」
リュトヴィッツは206号室に残されたチェス盤の写真を伯父に手渡した。フェデュニンスキーはテーブルに対して体をやや斜めに構え、まるで長考に入るかのように棋譜の写真を見ていた。1分ほど経った頃、伯父は低い声を出した。
「1927年の公式世界チャンピオン戦。アレクサンドル・アレヒン対カパブランカ。二戦目の途中まで、再現されている」
伯父の記憶力に驚きながら、リュトヴィッツは震えた声を出した。
「何を意味してると思います?」
「ただの棋譜にしか見えんが・・・ダイニングメッセージとは思えんな。そんなものは私が生まれてこのかた、とんと見たことが無い」
「俺もです」
フェデュニンスキーはグラスにウォッカをたっぷりと注ぎ、ユーモラスな悪党面でグラスを掲げる。
「おかしな時代に乾杯」