11
ジョージは夢を見た。
かなり大きい虫が顔の周りを飛び回り、くり返し鼻の頭に当たってくる。ジョージは何度もその虫を叩き落とそうとするのだが、狙いを外してしまう。そして打ち損じる度に、虫が忍び笑いをする。
不意にジョージは、転覆したトラックの影から伸びる人影のありありとしたイメージを抱いた。同時に、喜びいさんだ叫び声を耳にした。
ジョージは複雑な吊り装具に横たえられた自分の身体が揺れるほど勢いよく目覚めた。おかげで、ジョージの頭の横に立ち、木のスプーンでジョージの鼻を軽く叩いていたヘクセは素早く後ずさり、もう一方の手で持っていた碗を指の間から滑らせてしまった。
ジョージの両手が素早く動き、中身を数滴こぼしただけで落ちそうになった碗をつかんだ。シスター・クリスタが両眼を丸くしてジョージを見つめた。
急に動いたために背中じゅうに痛みが走ったが、以前ほど酷くはなかったし、皮膚が小波立つような感覚も無かった。おそらく医師たちは眠っているだけなのかもしれないが、ジョージは虫たちがもう立ち去ってしまったのだと思った。
ジョージはシスター・クリスタがイタズラしていたスプーンに片手を差し出した。クリスタは両眼を大きく見開いたまま、スプーンを手渡した。
「まるでマジックみたい!」クリスタが言った。「また完全に目覚めてないというのに」
ジョージはスプーンで碗の中身をすくい、味見した。鶏肉がほんの少しだけ浮いた白いスープだった。他の状況であれば、味気ないスープだと思っただろうが、今はとてつもなく美味に思えた。スプーンを放し、碗を唇に当ててスープを直に飲んだ。そのようにして4回大きく喉を鳴らして中身を空けた。
「あなたたちは親切にしてくれた」
「そうですとも」
「ぼくはその親切心の裏に何もないことを願っている」
「どういう意味かしら?」シスター・クリスタはたずねた。
いまや明かりは薄暗く、石壁が夕陽を思わせる桃色がかった橙色に染まっている。この明かりのもとでは、クリスタがとても若くて可愛らしく見える。それは妖術だと、ジョージは確信していた。
「シスター・ヴェロニカはどこに?」
「私たち、彼女が好きよ」クリスタが眉を上げながら言った。「あの娘を見ると、胸がときめいちゃう・・・」片手を胸の刺繍に当てると、せわしなくパタパタと動かした。
「シスター・ヴェロニカならスプーンでぼくをからかったりはしまい。誰かのように」
クリスタの笑みが消えた。
「シスター・ベルタには何も言わないで。私、困ったことになるから」
「ぼくの知ったことか?」
「シスター・ヴェロニカを困ったことにすることで、私を困った状態にした人に仕返しするかもしれないわよ」クリスタは言った。「彼女は修道女長のブラックリストに載ってるのよ、今のところね。シスター・ベルタはあなたに対するヴェロニカの態度をよく思ってないし・・・」
クリスタは喋り過ぎたとでもいうのかのうように、軽薄になりがちな口を片手で押さえて黙り込んだ。
ジョージはクリスタが言ったことに好奇心をそそられたが、こう答えた。
「あなたのことは黙っていよう、あなたがヴェロニカのことをベルタに言わなければ」
クリスタは安堵したようだった。「取り引きしましょ」と言い、身体を前に乗り出した。「ヴェロニカは《内省の館》にいるわ。山腹にある小さな洞窟で、悪い行いをしたと修道女長に見なされた人は、そこに行って瞑想しなければならないの。ヴェロニカはベルタに許されるまで、そこに留まって自分の非礼を悔いなければならないのよ。あなたの横の寝台にいる人は誰?知ってる?」
ジョージは首をめぐらすと、その若者は目覚めており、自分たちの会話を聞いていたことに気づいた。若者の瞳はヴェロニカと同じく漆黒に輝いていた。
「知ってるかだって?」ジョージは馬鹿にしたような口調になっていることを願いながら言った。「自分の弟を知らないとでも?」
「そうかしら?彼とあなたとでは、だいぶ顔つきが違うようだけど?」
闇の中から新たな修道女の声が聞こえた。シスター・マティルデだった。ジョージの寝台に到着する直前、マティルデの顔は80か90歳の老婆のように見えた。それがチラチラと揺らめいて、一瞬のうちに30歳のふっくらした婦人の顔になった。ただし、両眼の角膜は黄色く濁り、隅の方に目脂がたまっていた。
12
「あいつは義母の連れ子なんだ」ジョージは言った。「ぼくが16歳のとき、親父は再婚した。ぼくの母親は小さい頃に死んだんだ」
「あら!もし、彼があなたの弟なら、名前は知ってるはずよね?」
ジョージがしどろもどろにならぬ内に、若者が答えた。「看護婦さんたち、兄貴がエミール・ペドリッチっていう単純な名前を忘れちまったと思ってるみたいだよ。なんて、アホな奴らなんだろうね。兄貴?」
クリスタとマティルデはジョージの隣の寝台にいる青ざめた少年を見つめた。明らかに出し抜かれたという表情をして、怒りの色も露わにしていた。
「あんたら、その肥しのような食い物を兄貴に与えたんだから」少年は言った。「もう行けよ、お喋りさせてくれよ」
「あら!」クリスタはむっとして言った。「けっこうな感謝のお言葉だこと!」
「与えてくれるものには感謝するさ」エミールはクリスタを見すえたまま言った。
クリスタは鼻息も荒く、ゆったりとした衣服を乱暴に翻し、ジョージの顔に風を吹きつけて去って行った。マティルデはしばらくとどまっていた。
「いい子にしてなさい。そうすれば、あなたが私よりも好きな誰かさんが、今晩から一週間後ではなく明日の朝には、その寝台から連れ出してくれるでしょうよ」
相手の返事を待たずに、マティルデは踵を返して、クリスタの後を追った。
ジョージとエミールは修道女の2人が出て行ってしまうまで待った。やがてエミールがジョージに向き、低い声で言った。「俺の兄貴、死んだ?」
ジョージはうなづいた。「彼の縁者に会った時のために、メダルは取っておいた。これは君の物だ。君の貴兄は神の御許にいることを祈ろう」
「神父さんに看取ってもらって、兄貴も喜んでるはずだ」エミールの下唇は震えたが、やがて固く引き締められた。「灰色の奴らが兄貴に何をしたかは知ってる。あいつら老婆は確かなことを言おうとしないけど」
「確かなことを知らないんだろう」
「知ってるさ。間違いない。あいつらは多くを語らないけど、いろんなことを知ってるんだ。ただ1人、ヴェロニカは違うけど。お喋り婆が『あんたのお友達』って言ったのは、それってヴェロニカのことなんだろ?」
「彼女について何か知ってることがあれば、話してほしい。彼女には何か、こう・・・」
「こんな場所にいる感じじゃない」
ジョージはうなづいた。
「彼女は特別なんだ。ヴェロニカはね。修道女というより、お姫様って感じ。血筋で生まれつき高位の身分が定められていて、その運命を否定しようがないって人だね。俺はここに横たわって、寝たふりをしてる。その方が安全だと思うから。けど、あの婆たちが言ってることは全て聞いてる。ヴェロニカは婆どもの仲間に最近なったばかりなんだ。兄貴のメダルを神父さんの首にかけてくれたのは、彼女なんだろ?」
「ああ」
「それだけは外しちゃダメだよ、神父さん。何があっても」エミールの顔はぞっとするほど真面目になった。「神か黄金のせいか分からないけど、彼女たちはそれに近づきたくはないんだ。まだ俺がここにこうしていられるのも、それだけのためだと思う」そして、声を落として囁いた。「あいつら、人間じゃない」
「おそらく、妖術か魔術を心得てるんだろうが・・・」
「違う!」エミールは片肘を立てて起き上がり、ジョージを思いつめた表情で見つめた。「神父さん、あいつらは妖婆や魔女みたいなものじゃない。人間じゃないんだ!」
「ならば、何だ?」
「それは分かんない」
「じゃあ、どうしてここに来たんだ?エミール?」
13
エミールは声を低めて、自分に起こったことをジョージに語った。
エミールとその兄、そして他の4人の若者たちは馬に乗って、7台の荷馬車からなる輸送隊を率いていた。荷馬車に積んでいたのは、シビウ山脈で訓練中の陸軍部隊への補給物資だった。
「部隊への補給物資?」ジョージは言った。「神隠しの件は知らなかったのか?」
「噂は流れてたし、俺たちの村に置いていった無線機も黙ったままだった。でも、しばらく経ってから、無線が急に回復して・・・『自分たちは生存してる。だが、物資が無いから届けてほしい』と言ってきた」
そこで、6人の若者はマラムレシュの西部から200キロ離れたシビウ山中のファジャンという小村に向かった。若者たちは荷馬車の列の前後を交代で挟むようにして進んだ。兄弟は前後それぞれの組に分かれた。
エミールが加わっていた3人の一行は、ルゴシで《灰色の民》から奇襲をくらった時、荷馬車の列の約2キロ後方を警備していた。
「神父さん、あの場所で何台の荷馬車を見た?」
「1台だけ。引っくり返っていた」
「死体は?」
「君の兄だけだ」
エミールは厳めしい顔つきでうなづいた。
「あいつら、メダルのせいで運び去らなかったんだと思う」
「《灰色の民》か?」
「修道女たちさ。灰色の奴らには神も黄金も知ったこっちゃない。だけど、あいつら雌犬たちは・・・」
エミールは今や真っ暗になった闇を見つめた。ジョージは再び気だるさが身体中を這いずりまわるのを感じていた。
「他の荷馬車は?」ジョージは聞いた。「他に転覆しなかったやつは?」
「《灰色の民》が奪っていったんだろうね。もろもろの品物と一緒に。修道女たちは品物には関心が無い。たぶん、雌犬たちには彼女たちなりの食い物があるんだ。考えたくもないようなものがね。何かおぞましいもの・・・あの虫みたいに」
エミールと他の仲間はルゴシに到着したが、その時には戦闘は終わっていた。男たちが倒れており、ある者はこと切れていたが、多くの者はまだ息があった。歩くことの出来る者は集められて、《灰色の民》に連れていかれた。エミールは山高帽を被った男、ボロボロの赤いベストを着た女を覚えていた。
エミールと他の2人の若者は闘おうとした。だが、エミールは仲間の1人が腹を矢で射抜かれたのを眼にした後、背後から何者かに後頭部を殴られ、視界が闇に沈んだ。
「意識を取り戻すと、ここにいたのさ。他の何人か、ほとんどの人だけど、あのおぞましい虫に這い回られていたのを見たよ」
「他の?」ジョージは無人の寝台を見た。深まりゆく闇の中で、それらは白い島のようにかすかに光っている。「ここに何人くらい運び込まれたのだ?」
「少なくとも20人。彼らは治ると・・・虫が治療したんだ・・・1人また1人と、消えて行った。神父さん、眠ってごらん。次に眼が覚めた時には、また1つ誰もいない寝台が増えてるよ。ついには俺と、あの向こうにいる人だけになった」
エミールはジョージを深刻な表情で見つめた。
「今は神父さんもいるけど」
「エミール」ジョージの頭がふらついた。「ぼくは・・・」
「具合が妙なんだろ」エミールは言った。その声はまるで、はるか遠くから聞こえてくるようだった。「スープのせいさ。でも、男は食べなくちゃならない。女もね。とにかく、シスター・ヴェロニカだってまともじゃない。結局は、彼女だってあいつらと同じさ。俺の言ったことを良く覚えておきな」
「動けないんだ」口を開くことさえ、もどかしい感じがする。
「そうさ」エミールは不意にけたたましく笑った。そのぞっとするような響きは、ジョージの頭に広がった闇の中をさらに深くした。「あいつらがスープに入れたのは、ただの睡眠薬じゃない。動きを封じるんだ。俺はもう具合が悪くないのに・・・どうしてまだここにいるんだと思う?」
エミールの声は、いまやこの世の果てから届くようだった。
「俺たちのどちらも、もう一度、大地を踏みしめてお天道様を拝めるようになるとは思えないな」
そいつは違うと、ジョージは答えようとしたが、その予感は大いにあるにも関わらず、口からは出て来なかった。
たぶん、シスター・クリスタはスープに混入する薬の投与量を間違えたのか、あるいはおそらくあの連中はこれまで退魔師に罠を仕掛けたことがなく、また今その退魔師を相手にしていることに気づいていないのだろう。
ただし、シスター・ヴェロニカは別だ。彼女は知っている。
14
真夜中に、囁き、忍び笑う声がジョージを眠りから引き戻した。寝台の周囲には、鳴き声を上げている虫たちがいた。
ジョージは両眼を開けた。漆黒の闇の中にぼんやりとした気まぐれな光が踊っているのが見えた。忍び笑いと囁き声が近づいてくる。ジョージは頭をめぐらせようとしたが、うまくいかなかった。少し休み、意識をおぼろな光の玉に集中して、再び首を動かした。
5人の修道女‐ベルタ、クリスタ、ギーゼラ、ゼルマ、マティルデだった。悪戯に出かける子どものように声を合わせて笑い、手には細長い蝋燭を立てた銀の燭台を持ち、闇に包まれた教会の長い廊下をやって来た。修道女たちは髭を生やした男の寝台のまわりに集まった。蝋燭の照り輝きがちらちらと揺らめく円柱となって、立ちのぼっている。
ベルタが簡潔に喋った。ジョージは声こそ分かったが、言葉は聞き取れなかった。古代語のようだった。ひとつのフレーズが次のように聞こえた。
「キャン・デ・ラチ、ミ・ヒム・アン・タウ」
ジョージは虫たちが鳴きやんでいることに気づいた。
「ラス・ミ!オン、オン!」ベルタはしゃがれた力強い声で叫んだ。蝋燭が消えた。
ジョージは次に何が起こるのかと待ち受けた。皮膚が冷たくなっていた。両手と脚を曲げようとしたが、出来なかった。身体が麻痺しているようだった。
闇の中で、かすかに何かを啜る音が聞こえた。その音を耳にした時、ジョージはまさにそれを待っていたということに気づいた。脳裏のある部分では、あの修道女たちの正体をどこかで気づいていたのだ。
もし両手を上げることができるのなら、ジョージはその音を聴かないように両耳を塞いだことだろう。だが実際には、身動きもままならず、ジョージは音を耳にしながら、それが止むのをただひたすら静かに横たわって待つしかなかった。
しばらく経つと、修道女たちは啜るのを止めた。そして、鼻を鳴らしながらかいば桶から半ば液状化した餌を漁る豚のように、フガフガ、ペチャペチャと下品な音を立てた。忍び笑いに続いて、おくびをした。一度、低い呻き声が起きた。髭を生やした男だと、ジョージは確信した。臨終の一声のようだった。
修道女たちの食事の音が先細りになるにつれて、虫の鳴き声が始まった。初めはためらいがちに、やがて音が大きくなった。囁きと忍び笑いが聞こえた。同時に、蝋燭が再び灯された。ジョージは頭をそむけた。自分が目撃していたことを気取られたくなかったからだが、もうそれ以上見ないと誓ったからであった。
今や忍び笑いと囁きは、ジョージに近づいていた。ジョージは自分の胸の上にあるメダルに意識を集中させながら、両眼を閉じた。「神か黄金のせいか分からないけど、あの婆どもはそれに近づきたくはないんだ」とエミールは言っていた。修道女たちが聞き覚えのない他国の言語でペチャクチャお喋りしながら、闇の中を徘徊していた。闇の中では、メダルだけでは心細い感じがした。
かすかに、かなり遠方で、ジョージは犬が吠えているのを聞いた。
修道女たちに囲まれた時、ジョージはかすかに修道女たちの臭いを嗅いだ。下品で不快な臭いだった。まるで腐った肉のようだった。
「美男子だね」ベルタが低い声で言った。
「でも、醜い徴を身に着けてるよ」クリスタが続ける。
「取り除いてしまえ!」ギーゼラが叫ぶ。
「そうすれば、私たち、接吻できる!」ゼルマが言う。
「身体中にね!」マティルデが熱狂的な叫び声を上げたので、全員が高らかに笑い声を上げた。
ジョージは薄目を開けて、蝋燭の灯りの中で自分を見下ろしている年老いた顔を見上げた。ギラついている眼、黄色い頬、下唇に覆いかぶさるように突き出た歯。マティルデとゼルマは山羊髭を生やしているように見えたが、それは髭を生やした男の血だった。
ベルタは両手を碗の形にしており、それを修道女たちに回した。蝋燭の灯りの中で、修道女たちはベルタの掌にすくいあげられたものを嘗めた。
ジョージは両眼を固く閉じ、修道女たちが立ち去るのを待った。二度と眠るものかと、思った。しかし、5分後には自身と世界の境目を見失っていた。
15
ジョージが眼を覚ますと、辺りには陽の光が満ち、頭上の屋根が白く輝いていた。虫が競い合うように鳴いている。左横ではエミールが熟睡しており、無精髭のある頬が肩につくほど頭を一方に傾げていた。
そこにいるのは、ジョージとエミールだけだった。髭を生やした男があてがわれていた寝台はもぬけの殻で、上掛けシーツは伸ばされてキチンと端を寝台にたくし込まれ、枕は真新しくこぎれいなカバーに覆われている。患者がくるまれていた複雑に入り組んだ吊り帯は消えていた。
ジョージは蝋燭を思い出した。修道女たちが髭を生やした男の周りに集まった時、その炎の輝きが修道女たちを照らしながら、円柱となって立ちのぼっていた。そして、いまいましい忍び笑いと囁きを漏らしていた。
そして今、ジョージの思いに引き寄せられたかのように、シスター・ベルタがゼルマを引き連れて滑るようにやって来た。ゼルマはお盆を運んでおり、おどおどしているように見える。ベルタは顔を曇らせていて、見るからに不機嫌そうだった。
ベルタは寝台に近づき、ジョージを見下ろした。
「お前には少しも感謝してないよ」
「ぼくはあなたに礼を乞いたか?」
「お前はヴェロニカを生意気で腰の定まらぬ反抗的な修道女にしてしまった。手を上げなさい、この恩知らず」
「上がらないんだ」
「あら、間抜けだね!お前は聞いたことないの?『母親を馬鹿にしてはいけない。彼女が眼をそらすまでは』という諺を?私には、お前に何が出来て何が出来ないか、よく分かってるのよ。さあ、手をお上げ」
ジョージは実際よりも力が要るように見せかけながら、右手を上げた。そして、今朝は吊り帯の束縛から自由になれるほど力があるように思った。しかし、今ベルタの後ろではシスター・ゼルマがスープの入った椀の覆いを取っている。それを見て、ジョージの胃がゴロゴロと鳴った。
ベルタはその音を聞いて、わずかに微笑んだ。
「寝台に横たわっているだけでも、時が経てば、壮健な殿方は食欲を覚えるもの。そうではないか?エミールの兄弟?」
「ぼくの名はジョージ。分かってるはず、修道女」
「私が?」ベルタは怒ったように笑った。「あら!もし、私がお前のお気に入りの娘をたっぷりと時間をかけてこっぴどく痛めつけたら、彼女の背中から血が汗のように飛び散るまでに違う名前を聞き出せるのでは?」
「彼女に何かあったら、神の怒りに触れると思え」
ベルタは再び微笑んだ。その顔がきらめき揺れた。きりりと引き締められた唇が死んだクラゲに似たなにかに変化した。「神の怒りに触れるなどと口走るのではない。この間抜けめ!同じ言葉を我らに言われることのないように」
「修道女、お前とヴェロニカが意見の一致を見ないのであれば、彼女を破門し、好きにさせればよかったのではないか?」
「ヴェロニカの誓約を解いたり、自由の身にしたりするのはもってのほか。彼女の母親が死んだ後、ヴェロニカを世話したのは私たちなんだよ。なのに、ヴェロニカときたら、少しも感謝の念が無い!さぁ、食べるのだ!お前の腹は正直者。腹をすかしてると告げてる」
ゼルマが椀を差し出したが、その視線はジョージの寝巻の胸に浮き出しているメダルの形に彷徨っていた。これが嫌いなんだなと、ジョージは思った。そして、蝋燭の灯りに照らし出されたゼルマを思い出した。ゼルマは輸送隊の男の血を顎に滴らせながら、ベルタの掌に身を屈め、年老いた貪欲な眼つきでそれを嘗めていた。
ジョージは頭を横に向けた。
「何も食べたくないんだ」
「でも、お腹はすいてる!」ゼルマは言い募った。「食べなければ、どうやって回復するの?」
「ヴェロニカに食べさせてもらう」
ベルタは難色を示した。
「お前は、もはや彼女に会うことはない。ヴェロニカは瞑想の時間を倍にするという約束で、『内省の館』から解放され、この教会に近寄らぬということも誓った。食べなさい、本当は何と呼ばれてるか知らぬが。スープを飲みなさい。さもなくば、我らはそなたを刃物で切り裂いてしまおう。どのみち、我らにとっては同じこと。そうだね、ゼルマ?」
「ですね」
スープから湯気が立ち、鶏肉の良い匂いがしている。
「でも、お前には事情が違うかもしれない」ベルタは不自然なほど大きな歯を剥き出しながら、笑みを浮かべた。「この辺りでは、出血は危険。医者たちはそれが嫌いでね、血を見ると興奮するんだよ」
血を見て興奮するのは虫たちばかりではない。そのことをジョージは知っていた。スープについても選択の余地が無いことも分かっていた。ジョージはゼルマから椀を受け取り、ゆっくりと中身を口にした。