〇「城塞(ツィタデレ)」作戦
ウクライナ南部での絶え間ない消耗によって、ドイツ軍はもはや広い正面での攻勢を実施することが難しくなりつつあった。そのため、1943年度の夏季戦では限定された目標を設定せざるを得なくなった。
陸軍の指揮官たちは冬季戦の結果として生じたクルスクの突出部がまさしく「限定された目標」にふさわしいと判断していた。突出部の南北から攻撃をかけて切断し、ソ連軍の防衛線に穴を開ける。そして、クルスクで合流して多くの敵部隊を包囲し、過度に拡張した戦線を短縮するという構想である。
3月10日、南方軍集団司令官マンシュタイン元帥は作戦会議において「戦局の主導権を、我が軍が常に握るべき」と前置きした上で、ヒトラーにクルスク突出部を南北から挟撃して戦線を短縮させる攻勢案を示した。
戦線縮小とそれに伴う予備兵力の抽出という利点も示されたが、ヒトラーはマンシュタインの構想に何の反応も示さなかった。この時点のヒトラーは第3次ハリコフ攻防戦の勝利で、辛うじて保持に成功したミウス河とドニエプル河に挟まれたドネツ地方の防衛を重視していた。ドネツ地方は石炭をはじめ豊富な鉱物資源を産出する資源地帯であり、この地方の確保はドイツの戦争経済に大きな影響を及ぼすと考えられたが、今後の戦略方針についての明確な答えは出されなかった。
3月18日、マンシュタインは陸軍参謀総長ツァイツラー大将に対して、次のような意見を述べた。
「我が軍集団左翼と中央軍集団右翼に対峙するソ連軍は非常に弱体化しています。私は中央軍集団がただちにクルスクを攻撃すれば、占領はさほど難しいことではないと信じます」
ツァイツラーは次のように返答した。
「総統は、次なる作戦はチュグエフからイジュムの方向へ行う考えをお持ちです」
チュグエフからイジュムの方向とは、ヒトラーが関心を抱くドネツ地方を北から脅かすドネツ河の湾曲部一帯を示していた。
しかし、ツァイツラーもまた漠然とではあったが、マンシュタインの構想と同じくしてクルスク突出部に対する攻勢を考えていた。ツァイツラーは3月中旬から4月上旬にかけて、中央軍集団司令部が作成した攻勢案も勘案しながら、クルスク突出部に対する挟撃作戦の立案を進めていた。
4月15日、ヒトラーはツァイツラーから提出されたクルスク攻勢案を一読すると、この攻勢が軍事・政治の両面で重要な意味を持つことに気づき、「開戦指令第6号」として承認を与えた。作戦名は「城塞(ツィタデレ)」とされた。
「開戦指令第6号」の概要は次のようなものであった。
「私は本年度における最初の攻勢として、天候の許す限り早急に『城塞』作戦を発動することを決定した。この攻勢は、きわめて重要な作戦である。各階級の指揮官と、全ての将兵に、この攻勢が持つ決定的な意義を認識させなくてはならない。クルスクにおける我が軍の勝利は、全世界に対する狼煙となるだろう。
この目的を達成するため、私は以下のごとく命令する。
1.本攻勢の目標は、我が軍の攻撃部隊をビエルゴロドおよびオリョール南部から出撃させ、両翼からの迅速かつ徹底した集中攻撃によって、クルスク突出部に展開する敵の大部隊を包囲し、全周からの挟撃作戦でこれを撃滅することである。
2.奇襲的要素を重視し、総攻撃実行の時期を敵に悟られてはならない。局地的な戦力的優位を作り出すため、攻撃部隊の戦車や突撃砲、火砲、ロケット発射器などは狭い正面に集中しなくてはならない。
3.南方軍集団は強化した攻撃兵力を集中して、ビエルゴロド=トマロフカの前線から発進し、プリレプイとオボヤンを結ぶ線を突破後、クルスク東方で中央軍集団の先頭部隊と合流する。
4.中央軍集団は主力部隊をトロスナ=マロアルハンゲリスクを結ぶ線の北で攻勢を開始させ、ファテージとヴェレヴテノヴォを結ぶ線の突破を目指す。攻撃軸の重点はやや西側に置き、南方軍集団の先頭部隊とクルスクないしその東方で合流すること
5.北方と南方の両軍集団の兵力集結は、最大限の欺瞞を施した上で攻撃発起点から離れた場所で行われなくてはならない。総攻撃の開始日は、最も早い場合で5月3日とする」
〇ソ連軍の作戦計画
ソ連軍はこれまでの冬季戦で、規模の大きな攻勢をしかけ、全てのことを一気に終わらそうとしてきた。その結果、部隊の集結や兵站に支障をきたし、目標を完遂することができなかった。
この事実を踏まえた上で、最高司令官代理ジューコフ元帥と参謀総長ヴァシレフスキー元帥の出した結論は1943年度の夏季戦を「防御戦」に転じて、ドイツ軍の兵力を吸収・減衰させることを優先させるというものだった。
4月8日、前線を視察したジューコフがスターリンへ提出した情勢評価の報告は、次のような内容だった。
「この春から夏までの期間に、ドイツ軍が実行する攻勢は、次の3段階にわたるものと予想される。
第1段階は、13ないし15個装甲師団を投入する形で、クルスク突出部を全方向から挟撃すること。第2段階は、この突出部の東側に位置する、ドネツ河とオスコル河に挟まれた領域への支配地域の拡大。そして第3段階は、そこからドン河へ進出して、ヴォロネジを再び占領すること。
もし、この第3段階が首尾良く成功すれば、ヴォロネジとその北西のエフレモフから、モスクワの背後を脅かすような北東への第4段階の攻勢を実施することも可能な状況となります。とはいえ、我が軍が先手を取って、敵に先んじて攻勢を行うのは得策とは思えません。敵は依然として強力な戦力を保持しているからです。
よって、我が軍は防備を固めて敵に先手を取らせ、無理な攻勢で敵の戦車を消耗させ、敵が疲弊して限界に達した段階で、温存していた予備兵力を投入して逆襲に転じ、敵主力を一気に撃滅するのが得策であろうと考えます」
4月12日、クレムリンで1943年度の夏季戦に関する戦略会議が開かれた。
ジューコフは情勢評価の通り夏季戦の焦点はクルスクでほぼ間違いなく、敵の攻撃開始時期は5月下旬であると述べた。戦車部隊の再建や軍の再配置を考慮に入れて、敵の攻勢を迎撃する形式で行うべきだと提言した。
スターリンは未だ第6軍の壊滅の興奮が収まっておらず、ジューコフの提案に不満を示して、「泥濘期」が終わり次第すぐに攻勢に出るべきだと反論した。これに対し、ヴァシレフスキーは最初こそ守勢に立つが、それは予定された攻勢のための下準備に過ぎないと答えた。この言葉にスターリンは納得して、彼らの提案を受け入れた。
指揮官らの裁量を奪うヒトラーと対照的なスターリンのこの態度は、2年間の戦争を通じて多数の有能な指揮官と参謀将校が生まれたことで、「天王星」作戦の成功以来、部下の将軍たちを徐々に信頼するようになっていたからであった。
しかし、クルスクにおける防御準備は単に「最高司令部」が立案した攻勢計画の一部でしかなかった。つまり、ソ連軍は最初から複数の「作戦」を連動させて一連の「戦役」を構築し、戦略的な勝利を目指すことを考えていたのである。
ドイツ軍の攻撃を阻止したならば、直ちに西部正面軍・ブリャンスク正面軍・中央正面軍はクルスク北方のオリョール突出部を攻撃する「クトゥーゾフ」作戦、ヴォロネジ正面軍と新設のステップ正面軍はクルスク南方のハリコフを再び奪回する「ルミャンツォフ」作戦を実施することになっていた。
また、この2つの攻勢の間には、南西部正面軍・南部正面軍による北ドネツ河とミウス河への牽制攻撃が含まれていた。この牽制はドイツ軍の予備を、「クトゥーゾフ」作戦・「ルミャンツォフ」作戦の主な攻撃目標から逸らす目的があった。さらに、2つの攻勢が完了した時点で、ソ連軍はさらなる攻勢に乗り出すことになっていた。
夏季戦の最終目標は、ドニエプル河であった。
○ソ連軍の防御体勢
ドイツ軍の大攻勢がクルスク突出部に向かうであろうという赤軍参謀本部の分析は、海外の諜報員から次々と寄せられる情報によって確実に裏付けられていった。
欧州における赤軍参謀本部情報局(GPU)の諜報活動の拠点であったスイスでは、《ルーシー》ことルドルフ・レスラーや《ドーラ》ことアレクサンドル・ラドーなどの諜報員たちが活発にドイツ軍の情報を収集していた。ドイツ陸軍参謀本部が3月初旬からクルスクへの攻撃計画の検討を開始すると、その内容はドイツ軍内部の協力者を通じて逐一、スイスの赤軍諜報員を経てモスクワへと届けられた。
《ルーシー》や《ドーラ》に情報を提供していたドイツ軍の協力者の中には、陸軍総司令部通信部長フェルギーベル大将や、国防軍総司令部通信部長ティーレ少将などの大物が含まれていたが、これらの情報は《ヴェルテル》という秘匿名を付された上で、スイスへと転送された。
こうして、ドイツ軍が秘密裏に進められていたクルスク攻勢計画の詳細は、彼らの知らぬ間にソ連側へと筒抜けになっており、赤軍参謀本部はその攻勢計画に合わせて、強力な陣地を幾重にも張り巡らせた。
総延長5000キロ以上、深さ160キロという縦深を備えた巨大なクモの巣のような防御線が、60万個を超える地雷を伴って構築された。また、中央正面軍とヴォロネジ正面軍の後方に戦略予備として、ステップ軍管区が4月15日に設立され、必要な場合は前方に展開してステップ正面軍となることになっていた。
ソ連軍の陣地構築は、ドイツ軍の航空偵察でも十分に察知されていた。
4月19日、ドイツ第9軍司令官モーデル上級大将は第9軍司令部における会議で、クルスク突出部への北翼からの挟撃という任務を達成するためには、現有兵力では不十分との認識を示した。
4月22日、陸軍参謀総長ツァイツラー大将は第9軍司令部を訪問し、モーデルに対してクルスク攻勢の必要性を改めて説明した。しかし、攻撃兵力の不足というモーデルの不安は解消しなかった。
モーデルの態度に苛立った中央軍集団司令官クルーゲ元帥は「第9軍は戦車227両と突撃砲120両を持っているのだから、前より強力になっているはずではないか」と指摘したが、モーデルは「さらに100両の戦車が必要です」と反論した。
ソ連軍の前線突破には「3日必要」とモーデルが評価していることを知ったヒトラーは、「城塞」作戦の前途に不安を感じ、モーデルをベルヒデスガーデンの山荘に呼び出して、詳しい話を聞くことにした。
4月27日、ヒトラーと面会したモーデルは持参した航空偵察の写真を見せた。その写真は「第9軍がクルスクまで進撃するには、きわめて強力な対戦車砲を備えた縦深約20キロのソ連軍陣地帯を突破しなくてはなりません」という、モーデルの言葉を裏付けるものだった。
また、モーデルは当時の装甲師団の主力であるⅣ号戦車では、ソ連軍の新型対戦車砲に対抗するのは難しいとの見通しを述べ、攻撃部隊はおそらく突破の途中で身動きが取れなくなるという予想を伝えた。
ヒトラーはモーデルの考えに同調する態度を見せ、「城塞」作戦の開始を5月5日に延期すると決定した。その2日後には、戦車と火砲を攻撃部隊に蓄える数日の余裕を軍に与えるためとして、5月9日までの延期を下命した。
〇意思決定
5月3日、ヒトラーは「城塞」作戦について具体的に話し合うため、ミュンヘンに東部戦線の最高幹部を招集した。この会議に出席したのは、中央軍集団司令官クルーゲ元帥、南方軍集団司令官マンシュタイン元帥、第九軍司令官モーデル上級大将、参謀総長ツァイツラー大将、装甲兵総監グデーリアン上級大将、軍需大臣シュペーアであった。
この会議の冒頭、ヒトラーは「城塞」作戦の開始日を6月中旬以降まで遅らせる意向を示した。6月中旬になれば、十分な数のⅥ号重戦車「ティーガー」や突撃砲、現在生産中のⅤ号中戦車「パンター」と重駆逐戦車「フェルディナント」を装甲部隊に編入させることができ、台数における劣勢を戦車の質によって補えるという考えを示した。
ヒトラーの意見に対し、ドイツ軍の将軍たちの意見は2つに分かれていた。
マンシュタインは東部戦線における攻勢の実施が不可避であるならば、実行の延期はむしろ我が軍の不利に働き、5月中旬に仕掛けるべきだと主張した。
「敵の戦車生産数は、少なくとも月産1500両に達していると考えられます。時間の経過を無為に眺めるほどに、ソ連軍の防御態勢は強化され、突破の成功は困難になります」
クルーゲも攻勢は早い時期に行うべきとの認識を持っており、マンシュタインの意見に賛成した。
モーデル、グデーリアン、シュペーアはクルスクに対する攻勢そのものを実行すべきではないと主張した。モーデルは先日の説明と同様、航空偵察で得られた情報に基づき、敵が堅固な防御陣地を作り上げており、「このような『罠』に自分から突撃していくことは、自殺行為に等しいものです」と述べた。
一方、グデーリアンとシュペーアは異なった見地から反対意見を主張した。莫大な戦車の損失が予想されるクルスクへの攻勢は戦略的にも意味がなく、行うべきではないとした上で、「それよりは、西部戦線で近い将来に実施されるであろう米英連合軍の大反攻作戦に備えて、戦車兵力の温存を図るべきです」と述べた。
この時、ヒトラーはこれまでにもしばしば見られたように決断を下しかねていたが、結局のところ新型兵器の実戦配備を待つという自説を捨てることが出来なかった。この数日後、ヒトラーは先に5月9日に延期していたクルスクへの攻勢開始日を、さらに6月10日まで延期するという決定を下した。
5月10日、グデーリアンは「パンター」の生産状況について、ベルリンを訪れた。その席で再び、ヒトラーにクルスクへの攻撃計画を破棄するよう説得しようとした。
「総統はなぜ、これ程までに東部戦線での新たな攻勢に執着なさるのですか?」
ヒトラーが答える代わりに、国防軍総司令部総長カイテル元帥が怒鳴り返した。
「我々は政治的な理由から、攻撃を実行しなくてはならないのだ!」
ヒトラーはクルスク攻勢に異議を唱えるグデーリアンに対して攻勢実施の理由を答える代わりに、こう言い放った。
「君の言うことは、全くもって正しい。この攻撃のことを考えると、私自身も胃がひっくり返りそうになるのだ!」