1
アレクサンドル・リュトヴィッツは刑事だ。警察学校を出て以来、ずっと故郷のレニングラード―現在はサンクトペテルブルクで、警察官として働いてきた。内務省サンクトペテルブルク支部で、表彰された回数が最も多い警察官だった。
リュトヴィッツは35歳だった。ウシャコフスカヤ河岸通りの小さな実家で、妻のエレーナと2人で暮らしていたが、2か月前にエレーナをある事件で亡くした。周囲からは向こう見ず、ろくでなし、イカれた野郎などとさまざまに言われていたリュトヴィッツだったが、心労がたたってアルコール中毒になり、身体を壊した。
刑事部長から休暇を言い渡されたリュトヴィッツは1993年6月1日、モスクワへの傷心旅行から帰って来た。
その日の夜、リュトヴィッツはセンナヤ広場の近くにたつホテル・プーシキンに宿泊した。夜勤支配人のフィリポフから渡された部屋の鍵は、505号室。窓から、通りをはさんだ向かいにその昔、金貸しの老婆を斧で殴り殺したラスコーリニコフが住んでいた下宿が見えた。
ラジオから流れてくるジャズを肴にウォッカを呑みながら、リュトヴィッツは下着姿で椅子に座ったまま、うとうとしていた。部屋に入ってから1時間もしない内に、フィリポフがリュトヴィッツを起こしに来た。
「電話には出ないし、ドアも開かない」フィリポフが言った。「しょうがないから、中に入ってみたんです」
206室の宿泊客が撃ち殺されているという。被害者は、若いロシア人の男でカスパロフと名乗っていた。リュトヴィッツが覚えている限り、これまで一度もこの安ホテルで宿泊客が殺されたことはなかった。
リュトヴィッツはズボンと革靴を履き直した。ラジオを止め、フィリポフの方を見た。ドアノブにかけたネクタイを手に取り、手早く結ぶ。ジャケットを羽織り、内ポケットに手を入れて身分証があることを確かめる。制式拳銃のマカロフPMを収めた腋の下のホルスターを軽く叩いた。
「起こすのは悪いと思っていたんですが、刑事さん」フィリポフは言った。「眠ってなかったようなので」
フィリポフはアフガニスタンからの帰還兵で、ヘロインの乱用癖があった。リュトヴィッツが麻薬対策課にいたころ、この夜間支配人を5回逮捕したことがあった。
「眠っていたよ」
リュトヴィッツは眠気覚ましに、ショットグラスにウォッカを注いだ。1980年に開かれたモスクワ・オリンピックの記念グラス。はじめて妻のエレーナに出会った季節に乾杯した。
「俺は下着とシャツを着たまま、寝るんだ。椅子に座って、銃を身に付けたままな」
「あんたのお仕事を増やしたくはないんですけどね、刑事さん」
「これは仕事じゃないんだ、フィリポフ。好きでやってる」
リュトヴィッツはグラスを置いた。主治医から、自分の飲酒は動きの鈍い中古車のエンジンをハンマーでがんがんと叩いて調節しているようだと言われていた。
「私も同じですよ。こんなホテルの夜勤支配人をやってるのはね」
リュトヴィッツはフィリポフの肩を軽く叩いた。それから2人は殺された若者の部屋を調べるべく、ホテルで唯一の窮屈なエレベーターに乗り込んだ。
2
206号室のドアやドア枠にむりやり押し入った形跡はなかった。リュトヴィッツはハンカチを被せてドアノブを回し、革靴のつま先でドアを押し開けた。
「なんだか妙な感じはしていたんですよ」
フィリポフが後から入ってきながら言った。
「あの客を最初に見た時のことなんですが。そのぉ、壊れた人間っていうか」
リュトヴィッツはなんとなく身につまされる言い方だと思った。フィリポフは続けた。
「そう言われる人間は大抵、その表現に値しないんですが。私の意見では、ほとんどの人間はもともと壊れるものを持っていませんからね。でも、このカスパロフときたら。とにかく、妙な感じがしたんです」
「近頃は誰でも妙な感じを味わっているよ」
リュトヴィッツはそう言いながら、室内の様子を黒い手帳に書きとめた。本当はメモを取る必要はなかった。人や物の外形は細部に至るまで、たとえどんなに酔っていてもまず忘れたことはなかった。
「モスクワじゃ、そういう連中のために専用の電話回線を1本、設けたぐらいだ」
フィリポフがリュトヴィッツに同調して言った。
「今じゃロシア人にとっておかしな時代だ。それは間違いないですね」
ベニヤ合板のタンスの上には、ペーパーバックの本が何冊か積んであった。ベッドの枕元の小卓に、チェス盤。安物のセットで、盤は2つ折りにできるボール紙だった。
「チェスをやると知ってたら、手合わせを願うんだった」
リュトヴィッツはハンカチで包んで、駒を1つ手に取った。プラスチック製で中が空洞。表面にはバリが付いたままだった。
「あんたがチェスをやるとは知らなかった」
「弱いけどな」
どうやらゲームの途中らしい。盤の中央で黒のキングが攻められている混戦ぎみの中盤戦で、駒は白のほうが2つ多かった。リュトヴィッツは駒をチェス盤に戻した。
「中盤に入ると、勘をなくすんだ」
「刑事さん、私の経験から言わせると、ゲームは中盤が全てですけどね」
「知ってるよ」
テレビのそばの笠が3つあるフロアランプは、1つだけ灯っていた。バスルームの蛍光灯をのぞいて、室内の電球の半分は緩められているか、切られていた。窓の敷居には、よく知られた商品名の下剤がひと箱置かれていた。クランクで開閉する窓は限度いっぱいに開かれ、フィンランド湾から吹き込む強い風が金属製のブラインドを数秒おきに揺らしていた。
リュトヴィッツは遺体を見下ろした。
まるで小鳥のような男だった。明るいハシバミ色の瞳。小さな嘴のような鼻。頬と喉に軽く赤味が差し、赤褐色のそばかすが浮いていた。この客をどこかで見かけたことがあると思った。
カスパロフはベッドにうつ伏せに寝て、顔を壁に向けていた。着衣はごく普通の白いパンツのみ。頬には3日分くらいの金色の無精髭。赤黒い血に縁取られた眼窩から、膨れ上がった眼球が飛び出していた。赤褐色の髪をかきわけると、後頭部に焦げ跡のついた小さな穴が開き、そこから血が一筋たれていた。
リュトヴィッツはベッドに枕がないことに気付いた。
「部屋の中のものには手を触れてないだろうな」
「現金と宝石以外はね」
リュトヴィッツはクローゼットの傍で、黄緑色をした毛足の長いカーペットの上に、小さな白い羽根を1つ見つけた。クローゼットの扉を開けると、その床に枕があった。この枕ごしに銃を撃ったようだった。弾薬がガスを膨張させる音を抑えるためだ。
リュトヴィッツは部屋に備え付けの電話を取った。相棒の刑事、パーヴェル・スヴェトラーノフを起こした。
「スヴェン中尉」
リュトヴィッツは、北欧風のあだ名で相棒を呼び出した。
「懐かしい声がしたと思ったら、サーシャ。あんた、帰って来たのか」
「もしかしたら、まだ起きていると思ってな」
「起きてたよ」
受話器の中から、もぞもぞと布が擦れる音がした。
「あんたの頭上に呪いが降りかかるといい。くそったれめ」
この何週間か、リュトヴィッツは夜の非常識な時間に相棒に電話をかけたことが何度もある。その時はたいがい酔っ払っていた。口調は騒々しく、同じ話をくどくどと何回も繰り返していた。
「俺が泊まってるホテルで殺しがあった。被害者もホテルに泊まってて、後頭部に鉛を一発ぶちこまれている。枕で音を消してる。えらくきれいな手口だ」
「プロか?」
「だから、お前を煩わす気になったんだ。普通の殺しじゃないようだから」
スヴェトラーノフは重い息をひとつ吐いた。
「あんたは休暇中で、おれはいま非番なんだ。大屋敷に連絡しろよ、サーシャ。他の連中にまかせておけばいいさ」
大屋敷とは、独立国家共同体(CIS)のすべての都市にある民警とKGBの地区本部のことだ。
「そうしてもいいんだが、ここはおれが泊まっている場所なんでね」
「被害者とは知り合いだったのか?」スヴェトラーノフの口調が和らいだ。
「いや、そうじゃないが」
リュトヴィッツはベッドに横たわる遺体から眼を逸らした。時には、事件の被害者が哀れでならなくなることがあるが、そうした感情は持ち合わせないことを習慣にしていた。
「じゃあ、もうベッドに戻ってくれ」リュトヴィッツは言った。「このことは明日話そう。じゃまして悪かったな。奥さんに謝っておいてくれ」
「なんだが声が変だぞ、サーシャ。大丈夫か」
「被害者はチェスをやる男だったんだ、スヴェン。おれはそれを知らなかった。それだけのことだ」
「なぁお願いだ、サーシャ。頼むから泣き出さないでくれよな」
「大丈夫だ。おやすみ」
リュトヴィッツは大屋敷の指令室に電話で事件の報告を行い、自分を担当にしてくれるよう頼んだ。
3
この地区の警邏を担当する民警の巡査たちが来るのを待つ間、リュトヴィッツはホテル中のドアをノックして回った。大半の宿泊客は、夜の街に遊びに出ていた。部屋にいながら精神をどこかに置いてきてしまった者もいた。それ以外の場合でも、深夜の小学校の教室をノックして回ったほうがましだった。
ホテル・プーシキンの宿泊客は皆そわそわし、いやな匂いを漂わせていた。いかにも変人としか思えないスラヴ人ばかりだったが、人の後頭部に拳銃を押し付けて引き金をひきそうな者は1人もいなかった。
「こんなとぼけた連中を相手にするのは、時間の無駄だ」
リュトヴィッツはフィリポフに言った。
「お前、ほんとに見覚えのない人間や普段と違うことを見ていないんだろうな」
「ええ、申し訳ないですけど」
「だとしたら、お前もおとぼけ野郎だ」
「それは否定しませんけどね」
「通用口はどうだ?」
「前によくヤクの売人どもが使ってましたから、警報機を付けてます。誰か入ってきたら、警報が聞こえたはずですよ」
リュトヴィッツはフィリポフに、昼間と週末担当の支配人に電話をかけさせた。自宅のベッドに居心地よく収まっていた2人の支配人によると、カスパロフがホテルに泊まりに来たのは、2か月前。その間に自分の知る限りカスパロフを訪ねてきたり、カスパロフのことを尋ねたりした者はいないと証言した。
「ちょっと屋上を見てくる」リュトヴィッツは言った。「誰もホテルから出すなよ。巡査たちが来たら、呼びにきてくれ」
リュトヴィッツはエレベーターで6階まで上がり、そこから階段を駆けのぼって屋上に出た。へりに沿って歩き、欄干によりかかって「世界中で最も抽象的かつ人工的な街」の全景を眺め渡した。
ピョートル大帝が首都に選んだネヴァ河の河口は、ただの沼沢地だった。冬は長く、寒さは厳しい。都市を築くために全国から大勢の農民が徴用され、泥濘の中の土木工事に酷使され、命を落とした。
6月とはいえ、フィンランド湾から吹きこむ風は少し肌寒かった。リュトヴィッツはタバコに火をつけた。煙草は10年近くやめていた。また吸うようになったきっかけは、エレーナの死だった。
「涙と屍の上に建てられた」と言われたこのサンクトペテルブルクには、人間の心を憂うつにさせる何かがある。後頭部に鉛をぶち込まれたカスパロフには、殺されたなりに何か理由があるのではないかという考えは、この都市の刑事には特に似つかわしくない。
いまリュトヴィッツの脳裏に浮かんだのは、このホテルの薄汚れたロビーに置かれたソファに座って、本名は分からないがカスパロフと自称する若者とチェスをする自分の姿だった。その実、リュトヴィッツはチェスが大嫌いだったが、それでもその想像の情景になぜか感動でき、しばし打ちのめされた。
「屋上は気持ちいいな」
リュトヴィッツはロビーに戻ってそう言った。バーのボックス席のような一角があり、黄ばんだソファ、傷んだ椅子とテーブルが置かれていた。もしカスパロフを見かけたとしたら、こんな空間か部屋だったかもしれないと、リュトヴィッツは思った。その時のカスパロフは背広を着て、ちゃんとネクタイも締めていたようにも思える。
「もっとちょくちょく上がることにしよう」
「地下室は?」フィリポフが言った。「あそこも見てきますか?」
「地下室ね」リュトヴィッツは胸の内で、心臓がびくりと震えたのを感じた。「見てきたほうがいいだろうな」
両親のほかは誰も知らないことだが、リュトヴィッツは闇を恐れる男だった。
「一緒に行きますか?」フィリポフが言った。
「いいから、懐中電灯を持って来い」
地下室につづく階段の上に立つと、ひんやりとした埃と黴の匂いがした。リュトヴィッツは紐を引いて裸電球を付け、息を止めてから階段を下りた。
最初にあったのは、忘れ物を保管するスペースだった。木製の棚やキャビネットに、千点ぐらいの品物が置いてあった。
片方だけの靴、毛皮の帽子、ゼンマイ仕掛けのおもちゃ、斧、二台の自転車、部分入れ歯、カツラ、ステッキ、ガラスの義眼。木箱の1つには鍵がいっぱいに詰まり、別の箱にはありとあらゆる理容用具が入っていた。
リュトヴィッツは鍵の箱を鉛筆でかきまわした。帽子を1つずつ手にとり、棚に並んだペーパーバックの本の向こうを手で探った。自分の心臓が打つ音と、息が発するウォッカの匂いを意識する。沈黙が何分か続いた頃から、耳の中で心拍音が人の話し声のように聞こえ始めた。
隣は洗濯室だったが、ホテル・プーシキンはずいぶん前にランドリー・サービスを止めていた。電灯は付かず部屋は真っ暗だったが、見るものはあまりなかった。リュトヴィッツは床に開いた排水孔を覗いた。腹の中でミミズがうごめくような感覚が襲った。手の指を曲げ伸ばしし、首を回してコキコキと鳴らした。
部屋の奥の壁には、丈の低い木製のドアがあった。そのドアノブには、輪にしたロープで札が垂れ下がっていた。「這ってしか入れない空間」。その言葉だけで、リュトヴィッツはぞっとした。
こんな狭苦しい場所に、殺人者が潜んでいる可能性はどのくらいあるのか考えてみた。ありえなくはない。リュトヴィッツはそこを探さずに済む理由を考えてみたが、結局は思いつかず、懐中電灯を点灯して口にくわえた。ホルスターからマカロフを抜き、あいたほうの手でドアをぱっと開けた。
「出て来い」
リュトヴィッツは怯えた老人のようなかすれた声を出し、上体を狭い空間に突き入れた。空気は冷たく、下水を流れるドブの匂いがした。小ぶりな懐中電灯の光はしたたり落ちるという感じで、ものを露わにすると同時に影も作る。
壁はブロック材、床はコンクリート、天井は配線や断熱材で覆いつくされていた。床に丸い金属の枠があり、そこにベニヤ板がはめてあった。
リュトヴィッツは息をとめ、押し寄せるパニックの波をかきわけながら、ベニヤ板のほうにゆっくりと歩み寄った。懐中電灯をさっと床の上で回した。枠とベニヤ板には埃が薄く均等に積もり、何かが触れたり擦れたりした痕跡はないように思えた。指を隙間にこじ入れ、ベニヤ板を枠から外した。
懐中電灯で照らすと、アルミ製の管がコンクリートに埋め込んであった。管の内側には突起が上下に並び、それを足がかりに下へ降りられるようになっている。ベニヤ板を囲んでいた金属の枠は、この管の上縁だった。管の直径はちょうど大人が1人入れる程度。もちろんロシア人の刑事も、暗闇恐怖症でなければ、入ることが出来る。
リュトヴィッツはマカロフを握り締めながら、その暗い穴の中に銃弾を撃ち込みたくなる衝動とたたかった。それから、ベニヤ板を穴の上へ乱暴に戻した。誰が降りるものか。
闇は階段を上がってロビーに引き返す途中もしつこくつきまとい、背広の後ろ襟や袖を引っ張りそうだった。
「何も無い」
リュトヴィッツは気持ちを立て直しながら、フィリポフにそう言った。
「異常は何も無かったよ」
「でもほら、ボロディンが言ってるでしょ。このホテルには幽霊が出るって」
フィリポフが言った。ボロディンとは、昼間担当の支配人のことだ。
「声を出したり、歩き回ったり。プーシキンの幽霊だってボロディンは言ってますけどね」
「こんなホテルに名前を使われたら、俺だって化けて出る」
「何が起きても不思議じゃないですよ。特に最近はね」
4
リュトヴィッツは気分転換に、通りに出た。ドアを開けた途端、雨まじりの風が吹きつけた。リュトヴィッツはすぐにホテルの玄関口に引っこんだ。しばしウォッカとオリンピック記念グラスが待っている505室に戻りたい欲求と戦っていたが、その場でタバコに火を付けた。
1人の老人が左右にふらつきながら、ホテルの玄関に向かって歩いてきた。背が150センチもない老人で、大きなスーツケースを引きずっている。スーツケースの重みのせいで、身体が右に五度ほど傾いていた。
リュトヴィッツは老人に眼を向けた。丈の長いコートは前が開き、背広とベストが見えている。つばの広い帽子は深く引きおろして耳を隠していた。白いあごひげともみあげは、密生しているのにしょぼしょぼして見えた。
老人は足を止め、リュトヴィッツに質問しようとするように人差し指を立てた。猫背で痩せこけているが、顔は目尻を別にすれば若々しくつるりとしていた。風が、老人の髭と帽子のつばを揺らしていた。
リュトヴィッツはフィリポフを時どき軽い窃盗や麻薬所持で逮捕していた頃、この頭のおかしげな老人をよく見かけたことを思い出した。皆が《預言者》と呼んでいたのは、意外な場所にしょちゅう現れること、いつも喜捨箱を持ち歩いていること、何か重大なことを話したそうな様子をしていることが理由だった。
「ちょっとお尋ねするが」老人はリュトヴィッツに話しかけた「ここはホテル・プーシキンだね?」
老人のロシア語には聞き慣れない響きを含んでいた。
「そうだよ」
リュトヴィッツがタバコの箱を差し出した。老人は2本抜き取り、1本をシャツの胸ポケットに入れた。風に乗って、老人の服や身体から浮浪者特有のむっとする匂いが鼻をついた。
「洗面所はお湯が出るし、おまわりだって泊まっている」
「あんたは支配人かね、親切なお兄さん」
リュトヴィッツは思わず苦笑した。一歩わきへ寄り、玄関のドアを顎で示した。
「支配人は中だ」
老人は、通りの薄暗い灯りで灰色に浮かびあがっているホテル・プーシキンの飾り気のない正面壁を見あげた。その青い眼に炎のような生気が浮かんでいるのが、リュトヴィッツには不思議だった。このホテルに一晩泊めてもらえると期待しても、普通はこんなに眼を輝かせたりはしないだろう。
ようやく民警の制服警官がやってきた。ペトロフという新人だった。制帽を片手で押さえながら駆けてきた。
「同志大尉」
ペトロフは息を切らしながら言い、老人を横目で見て軽く会釈をした。
「こんばんは、じいさん。大尉、すいません。いま連絡を受けたところです。ちょっと休憩してたもので」ペトロフの息は代用コーヒーの匂いがした。「被害者はどこですか?」
「206号室だ」リュトヴィッツは玄関のドアを開けてペトロフを入れ、老人に振り返った。「じいさんも入るかい?」
「いや」
老人の口調には、ある種の感情が軽く込められていた。その眼に浮かんでいた生気は消え、薄く涙の膜ができていた。
「何かなと思って見にきただけなんだ。ありがとう、リュトヴィッツ巡査」
「今はもう刑事だよ」リュトヴィッツは老人が自分の名前を知っていることに驚いた。「俺を覚えているのか、じいさん」
「わしはなんでも知っている」
老人はコートのポケットから喜捨箱を取り出した。蓋には硬貨や折りたたんだ紙幣を入れられるように細長い穴が開いていた。
「少しでいいんだが、ご喜捨を願えないかな?」
リュトヴィッツは財布を出し、折りたたんだ10ルーブル札を喜捨箱に入れた。
「まぁ頑張って」
老人は重そうなスーツケースを持ち上げ、引きずるような足取りで歩き出した。リュトヴィッツは老人の袖をつかんで引きとめた。ひとつ聞いてみたいことがあった。
「そのスーツケースには何が入っているんだ、じいさん」
「本が1冊。とても長い大きな本でな」
「どういう話?」
「救世主の話だ。さぁ、手を離してもらえんかな」
リュトヴィッツは手を離した。老人は背筋を伸ばして頭をあげた。
「救世主はもうすぐやってくる」
帽子のへなへなした広いつばを引きおろして、老人は雨の中を歩き出した。
リュトヴィッツはタバコを靴で踏みにじり、ホテルのロビーに戻った。
「あのイカれたじいさんは何者ですか?」ペトロフが言った。
「《預言者》と名乗っていますが、別に害はないですよ」
フロントの受付窓の金網の向こうから、フィリポフが答えた。
「以前はときどきこの辺でもよく見かけました。いつも救世主のポン引きをやってます」
リュトヴィッツは静かな口調で言った。
「亡霊だよ。ペテルは亡霊であふれている」
検視官のコルサコフと助手のポポフが、雨音とともにロビーに飛びこんできた。2人ともしずくが垂れている傘を片手に、ポポフは青い文字で「科学技術部」と書かれたアタッシェケースを持っていた。黒いビニール製のカメラケースと、プラスチック製の容器がゴムのロープでアタッシェケースに留めてあった。
「君はここを出ていくのか?」
コルサコフが聞いてきた。これは最近、珍しくない挨拶の言葉だ。この2、3年の間に多くの市民が、ロシアを出た。リュトヴィッツはどこへも行くつもりはないと、かねてから公言していた。
「娘がどうしてもアメリカに移住する気らしい。ボルティモアだとか」
「ボストンあたりかな?」リュトヴィッツは当て推量を言った。
「なんでどいつもこいつもアメリカに住みたがるんだ?わしにはさっぱり分からん」そう言った後、コルサコフはリュトヴィッツに目配せした。「少なくとも、この国にいれば何かがうまくいかなかったとき、いつでも誰かのせいにできるじゃないか」
リュトヴィッツはペトロフに玄関の張り番を命じた。
「やじ馬には何も話すな。それと邪険に扱うなよ。挑発されてもな」
コルサコフは薄ら笑みを浮かべた。
「それで、死人のお部屋にはどう行くのかな?」
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コルサコフはまず、カスパロフが緩めておいた206号室の電球を全てねじこみ直した。額にかけていた老眼鏡を下ろし、遺体の検視に取りかかった。ペンライトで照らした口の中を覗き、指を子細に調べる。
「ふむ、爪と肉の間はきれいだな」
ポポフが部屋中を歩き回った。粉と刷毛で壁やドア、調度品などに付着した指紋を浮かび上がらせ、写真を撮る。チェス盤の写真も1枚撮った。リュトヴィッツは自分用にもう1枚撮るよう言った。
「そいつは貴重な手がかりだ」
その後、ポポフは駒を1つずつ取って、カスパロフが試そうとしていた棋譜を解体し、ファスナーつきのビニール袋に収めた。
「君はなぜそんなに汚れているんだ?」
コルサコフはリュトヴィッツに眼を向けずに聞いた。リュトヴィッツは自分の靴やシャツの袖、ズボンの膝についた薄茶色の埃に気がついた。
「地下室を見てきたんだ。太い管がたくさんある。よく分からないが、水道やガスの配管だろう。一応、調べてみたんだ」
「ワルシャワのトンネルみたいのがあるんだよ。ペテルの地下に張り巡らされてるんだ」
「まさか」
「900日のことだ。ついに市街地をドイツ軍に占領されるんじゃないかとびびったスターリンが、徹底抗戦のためにNKVDに造らせたのさ。パルチザンが街じゅうでゲリラできるように」
リュトヴィッツのような年代のロシア人にとって、100万人以上の市民が死んだというレニングラードの900日包囲戦は、ロシアの悲惨な歴史の中のぞっとするような数字の1つでしかなかった。
「ただの噂だろ。都市伝説だよ。あれはガスか水道の配管さ」
コルサコフはそれには答えず、バスタオルやすりへった石けんを個別のビニール袋に入れた。トイレの便座に貼りついた赤褐色の陰毛を一本つまんで、やはり袋に収めた。
「噂と言えば」コルサコフが言った。「パヴロフから何か連絡はあったかね?」
パヴロフというのは、内務省サンクトペテルブルク支部の刑事部長のことだ。
「だいたい部長とはこの10年で二言、三言しかしゃべってない。噂って、あの親父に何かしたのか?」
「公金横領に関わった廉で、モスクワに呼び出されて事情聴取を受けているらしい」
リュトヴィッツは、パヴロフの顔を思い出そうとしていた。いかにも生真面目そうな小役人といった感じで、話し声は小さく存在感がまったくと言っていい程なかった。
「それじゃ、後任は?」
「副部長が昇格したよ」
コルサコフはゴム手袋をはめた手で、カスパロフのそばかすの散った左腕をなでていた。腕には注射の痕と、血管を浮き立たせるために縛った痕があった。
「どうだ、何か分かるか?」リュトヴィッツは言った。
コルサコフは、カスパロフの肘の上を見て眉をひそめた。圧迫した痕が幾重にもなっていた。
「何か、紐のようなものを使ったみたいだ。ベルトだと幅が広すぎて痕跡が合わない」
この時はじめて、ポポフが口を開いた。
「検視官、注射道具のようです」
ベッド脇の小卓の抽斗を開け、ポポフは黒いポーチを取り出した。ファスナーを開け、幅1センチくらいの黒い革紐を2本指でつまんで引っぱり出した。
「それに間違いないな」コルサコフは言った。
廊下で人の声がした。金属や帯革がこすれあう音がして、法医学検査所から来た2人の作業員が折りたたみ式の車輪つき担架を押して入って来た。ポポフが作業員に証拠物の容器や衣類を詰めた紙袋やらビニール袋を持っていくように指示し、アタッシェケースに鑑識用具をしまい、部屋を出て行った。
リュトヴィッツは手袋をはめて、カスパロフの顎をつまんだ。膨れあがって血まみれの顔を左右に傾け、コルサコフに言った。
「見た感じが・・・どう言うんだろう、ひげを剃り落としたあとみたいな顔をしてる」
「ひげを生やしていたとしてもかなり前のことだな。肌の色は均質だ」
「銃弾は?」
「ベッドや枕元の周辺にはなかった。おそらくリボルバーだろう。口径は開いてみないと、分からん」
リュトヴィッツは奇異な思いを抱いて、遺体から離れた。安いホテルに泊まり、靴下も履いていないようなヤク中の様には見えない。上の階層に属していたんではないかと思わせる、カスパロフの顔立ちだった。
「まったく、クソッタレだ」
リュトヴィッツは作業員たちに言った。被害者のことではなく、事件のことだった。その判定が、2人に何かしらの驚きを与えた様子はなかった。コルサコフは作業員と一緒に部屋を出て行った。
リュトヴィッツは505号室に戻って、ウォッカと思い出深いオリンピック記念グラスと再会した。ベニヤ合板の机のそばの椅子に座った。汚れ物のシャツをクッションの代わりにした。カスパロフの棋譜を思い出そうとするが、開いた脳の抽斗から次々と想念が吹き出してきて、そのうちうとうとしかけた。だが、眠るわけにいかない。眠れば、また死んだ妻と再会しなくてはならなくなる。
リュトヴィッツは服を脱ぎ、シャワーの湯に打たれた。そのあと30分だけ横になり、眼を開けたまま、チェス盤に向かう父親と1986年夏に結婚したときのエレーナの面影を思い出した。30分後、無駄なことをしたなという自嘲とともに、リュトヴィッツはホテル・プーシキンを出た。