19
1980年のモスクワ・オリンピックのときに開業したホテル・プリバルチスカヤは、フィンランド湾をのぞむヴァシリエフスキー島の西端に建っている。三連棟式の16階建て、1200を数える部屋のほかにプール、サウナ、ボウリング場、ジムを擁する市内最大のホテルで、地元の悪名高いマフィアの階層に人気を博していた。
ロシアのマフィアは、イタリア系アメリカ人の同業者とはだいぶ趣を異なっている。着ているスーツはあまり仕立てのいいものではなく、車もキャデラックどころか、たいていはジグリでごく少数がベンツを乗り回す程度。年齢層が低く、体力に恵まれた若い連中が多いが、それは国の援助を受けたスポーツをやっていたか、何年も強制労働収容所にぶちこまれていた結果だった。しかし、その非情さや残忍性は西側の同業者とまったくひけを取らない。
スヴェトラーノフとラザレフが身分証を見せてジムに入室したとき、5年前にこの一帯を支配下に治めたグルジア・マフィアの2代目のボス、メレブ・パルサダニヤンは腹心のヨシフと一緒にウェイトトレーニングに精を出していた。金のネックレスに高価なデザイナーブランドのトラックスーツというその勇姿は、同じ時間帯にジムを使用する一般人の中で、はっきりと異彩をはなっていた。
「通していいぜ」毛深い首をタオルで拭いながら、パルサダニヤンが言った。「その犬たちは、吠えに来たんだろうからな。咬みつきにじゃなくて」
スヴェトラーノフは、ジムの出入り口をふさいでいるボディガードを押しのけ、ヨシフに眼をやった。
「なんだ、こいつは?お前の秘書か?」
パルサダニヤンはひらけかすように歯をみせ、にやりと笑った。
「ああ。ときどき、口述筆記をしてもらんだ」
ヨシフは声を上げて笑いながら、二頭筋を使ってダンベルを持ち上げていた。
「なるほどな。速記の腕はどのぐらいだ?1分間に20発か?」
「達者じゃねぇか」パルサダニヤンが微笑みながら言う。「上のクラブで、漫才師に使ってもらえるぜ」
「おれは客を選ぶんだよ」スヴェトラーノフはやり返した。
パルサダニヤンは笑顔を崩さなかった。警察の圧力には慣れているという風情だ。ラザレフがひょいと頭をかがめて、パルサダニヤンの高価そうなトラックスーツのラベルを読んだ。
「セルジオ・タッキーニ。たいしたもんですね。一流の生活を営んでいる」
「ことわざを知らないのか?」ヨシフが横から言った。「鍋の近くに座ってるやつが、粥をいちばん多く食べられるってさ」
今日のパルサダニヤンとヨシフは、ここにいる部下の分全部をかき集めたものよりも、多くの金製品を身につけているように見えた。グルジアの男どもは《欲深な黄金虫》という、ニーナの証言がスヴェトラーノフの脳裏に浮かんだ。
「鍋に近いってのは、分かるな」スヴェトラーノフが言った。「金を運んでくれる乳牛が、ロビーにうようよしてた。商売繁盛のようじゃないか」
「好みの娘をひとり選んで、おれの名前を出しな」パルサダニヤンが何食わぬ口調で言った。「おごりにしとくよ。あんたの相棒の分もな。おれは、おまわりが楽しくヤッてるとこを見るのが大好きなんだ」
「おれも、お前らのそういうところが好きさ。母親や女の兄弟を、気前よく客に差し出すところがな」
パルサダニヤンは笑みをひっこめ、ダンベルをひとつ取る。たくましい肩に向かって、それをゆっくりと引き上げ、抑揚のない声を発した。
「用事はなんだ?」
「先代の息子のことだ。オレグ・サカシュヴィリは、正に“わが心のグルジア”っていうヤツだったらしいな。読み書きできた言葉が、金と力と女だけとは」
パルサダニヤンはうなづいた。
「先代にまけず劣らず、立派なグルジアの漢だった」
「その立派な漢が殺されたことは、お前らだって知ってるだろ?まず、お前ら全員がおとといの夜、どこにいたかってことから始めようか」
パルサダニヤンはダンベルをマットに置いて、立ち上がった。オリンピック選手もうらやむような屈強な身体をほこり、スヴェトラーノフと並ぶと頭ひとつ高い。
「普通なら、おれは知らない人間と話なんかしない。だが、あんたは優しそうな顔をしてるからな。おれはみんなと一晩中、上のレストランでいたよ。なぁ、みんな?」
いっせいに、同意のうめき声が上がった。
「疑うんなら、正面玄関にいるお仲間たちに聞いてみな。おれたちが8時に入ってきて、3時に出て行くのを見てるはずだぜ」
「あの連中には、あんたらの鼻薬がきいてるでしょう」ラザレフがふんと鼻を鳴らした。
ヨシフが声を上げて笑い、首を振る。
「そういえば、この街の民警についちゃ、おそろしい噂がいっぱいあるからな」
マフィアの残りの連中は、これをとても面白い冗談だと思ったようだった。
「じゃあ、オレグがたれ込み屋だったって噂は?」スヴェトラーノフが言った。「ヴィシネフスキーにネタを提供したために、殺されたって噂だ」
「世の中には、自分の小便を飲むやつだっている」パルサダニヤンが言った。「背中に重い十字架を背負うやつだってな。本人たちは、身体にいいと思ってやってるんだ。だからって、それが正しいとは限らないだろ。あんた、見当違いの穴を掘ってるぜ」
パルサダニヤンはタオルを取り、日焼けした顔を拭いた。
「こうしよう。明後日、オレグの葬式に招待してやるよ。グルジア流の立派な式さ。先代のときよりも盛大にやってやるよ。オレグのお袋だって、まだ生きてるんだからな。これでも、おれたちがやつを始末したと思うか?」
その提案を頭にめぐらしながら、スヴェトラーノフはタバコに火をつけた。
「オレグは腕時計が好きだったか?」
「時間を守ることの大切は、おれが言わずとも、先代からきちっと学んでいたよ。そういうことが聞きたいのか?」
「いや、オレグをおびき寄せるエサに、高価な腕時計が使われたんだ」
スヴェトラーノフは、バランスボールを拾い上げ、両手で転がし始めた。
「なかなかうまい手だ。命取りにもなりかねないが」パルサダニヤンがとがめるように舌を鳴らした。
「オレグを腕時計で誘ったヤツが誰だか、心当たりはないんだろうな」
「調べるのは、あんたらの仕事だろう。おれは、ただの市民だ」
「お前が市民か」スヴェトラーノフが言った。「だとしたら、おれはピョートル大帝だな」
ジムを出てエレベーターに乗り込むと、スヴェトラーノフはラザレフに言った。
「どう思う?自分たちの仲間を処刑しておいて、その仲間のためにマフィア式の盛大な葬式をやるなんてことがあるのか?」
「商売のためなら、やつらはローマ法王だってマフィア式に弔いますよ」ラザレフが断言する。「あの悪党どもは、自分たちをいっぱしの侠客だと思っていますが、実際には腹をすかした豚ほどの誇りも仁義も持ち合わせちゃいない」
「そういえば、奥の方でテレビがついていたな。やつら、何を観てるんだ?」
スヴェトラーノフが思い出したように言った。
「『ゴッドファーザー』ですよ」ラザレフは呆れたように首を振った。「あの連中は本当に何度も何度も、あのビデオを観ます。研修用の映画みたいなものですよ。自分をマイケル・コルレオーネだと思うマフィアから、ひとり10ルーブルずつ徴収したら、ひと財産できますよ」
20
スヴェトラーノフとラザレフがホテル・プリバルチスカヤでグルジア・マフィアとにらみ合っていた頃、リュトヴィッツとギレリスはサンクトペテルブルク・テレビジョンに向かっていた。
バルト海沿岸から遠くはシベリアまで、7000万の視聴者を擁するこの放送局は、国営テレビとはまったく異なる見解を発表する場として、長らく民主主義の土壌を形成する役を担っていた。スタジオはキーロフ大通りの突き当たりに近いペトログラードスキー島にあり、小型版エッフェル塔を思わせる電波塔がネヴァ河の上空に高くそびえていた。
髪の薄くなりかけた中年の男が、執務室で2人の刑事を待ち受けていた。ネクタイはゆがみ、シャツは袖をまくり上げていた。
「ユーリ・パルホメンコです。ニュース番組で、ドミトリのプロデューサーを務めておりました」
「ヴォシネフスキー氏と仕事をした人全員に、話をうかがっているのです」椅子に座りながら、リュトヴィッツは説明した。「殺される原因になりそうなテーマを追いかけていなかったかどうか、突き止めたいと思いまして」
パルホメンコはタバコに火をつけ、ふんふんとうなづく。
「すでに雑誌の担当編集者とは、モスクワへ電話をかけて話しました。ただ、ここへはついでの用事がありましたので、あなたと直接お話したいと思ったのです。ドミトリとは、かなり関係が深かったんですか?」ギレリスが言った。
「ええ、そうですね。彼は第一級のジャーナリストでした。《金の子牛》文学賞、イリフ・ペトロフ風刺大賞、2年連続で最優秀ジャーナリズム賞・・・彼に並ぶ人間はいません。少なくとも、この国にね。国営テレビに引き抜かれたのも、もっともな話です」
「この局を離れることになっていたんですか?」
「ええ。殺されるちょうど1週間前に、本人の口から聞きました。あちらは、かなりの額の報酬を提示したようですね。少なくとも、うちが支払えないほどのね」
「彼がよその局に行くことに、悪い感情を持つ人はいなかったんですか?」
「中にはいましたよ。しかし、彼を知る人間は誰も恨んでいません。ドミトリには蓄財の才がなく、仕事の質からしても、充分な報酬はもらっていなかったんでしょう。だから、経済的にはあまり恵まれていませんでした」
「国営テレビは、彼に何をさせようとしてたんでしょうか?」
「うちとほぼ同じ。年に5、6本のドキュメンタリー番組。つまり、真実を伝える役目ですね。私は彼に対していっさい、編集権を行使しませんでした。ドミトリはあくまでも自分のやり方を押し通す人で、そのためにあちこちで人の神経を逆撫でしました。だから、殺されたんじゃないでしょうか」
「ええ、彼に送られてきたファンレターを見せてもらいましたよ。ところで、移籍を打ち明けられた時が、ドミトリと話をした最後ですか?」
「そうですね。うちとの契約があと1本残っていたので、もう一度高級売春婦のことを取り上げようという彼のアイデアについて、2人で話し合いました」
机の上に置かれていた電話が鳴った。パルホメンコはタバコを灰皿に押し潰し、受話器を取る。そして、ひと言もしゃべらずに受話器を置くと、ギレリスに向かって言った。
「ベルマンからでした。10分後に、楽屋に下りてくるようにとのことです。時間になったら、私がご案内しますよ」
「その高級売春婦についてのドキュメンタリーですが、マフィアとのつながりは話に出ませんでしたか。特に、グルジア人との」リュトヴィッツが言った。
「話に出たとしても記憶には残らないでしょうね」パルホメンコが新しいタバコに火をつける。「マフィアとなると、ドミトリには人を呆れさせるところがありました。はっきり申し上げて、取りつかれてましたよ。どこへ行っても、何もしても、マフィアの影を感じると言うんですな」
「ヴィシネフスキー氏が特に何かに怯えていたということは、ありませんでしたか?」
「いいえ。というより、彼はすべてに怯えていたようでしたよ。それで移動の際には、必ずタクシーを使ってました」パルホメンコは乾いた笑い声を上げた。「この街のタクシー運転手たちの無作法ぶりに対しては、不思議と寛容でした。だから、いつもお金が無かったんです」
そしてタバコをくわえた口をすぼめると、眉間にしわを寄せた。
「いや・・・よく思い出してみると、ひどく動揺していた時がありました。怯えていたとは、ちょっと違うかもしれませんが」
ギレリスは椅子から身を乗り出した。
「ほう、何に対してです?」
「電話が盗聴されていることが分かった、と言ってました」
「盗聴?誰に?」
「KGBですよ、大佐。今は保安省になったんでしたっけ?呼び名はともかく、あの組織です。ほかに考えられますか?」
刑事なのにそれぐらいのことも知らないのかと言いたげに、パルホメンコはギレリスに向かってニヤりと笑ってみせた。
「意外そうなお顔ですね。私はまた、てっきり・・・」
ギレリスは憮然として首を振った。同じ建物の中に入っているためか、内務省が未だに国家機関の不正工作に荷担しているという世間の認識には、うんざりさせられることが多い。
「どうやって、盗聴されていることが分かったんでしょう?」リュトヴィッツが言った。
「空電音が入ったりとか、はっきりとした徴候があったんじゃないんですかね。当局のやり方は、非常に巧妙とは言いがたいですから」
「しかし、なぜ盗聴を?」
「保安省から共産主義は一掃されましたが、反ユダヤ主義は根強く残ってます。ロシアにいるユダヤ人を全員、イスラエルに飛ばしたいと考えてる職員は大勢いるんですよ」
「だから、ヴィシネフスキー氏は自分が監視の対象になっていると考えたわけですか?」
「ええ」
「ドミトリがユダヤ人だということさえ、知らなかったが」ギレリスが言った。
「ヴィシネフスキーは本名じゃありません。本名はリベルマン。10年ほど前にこの街へ移り住んだ際、差別を受けないために改姓したんです。当時は、ユダヤ人がものを書くのは大変なことでした。ですがロシアのマスコミは、いまだ反ユダヤ色が強いですから。あれから10年以上経っているのに」
「夫人とは、どの程度のお知り合いですか?」ギレリスが言った。
「ほとんど存じあげません。なぜです?」
「いや、彼女がなぜその話を私にしなかったのか、ちょっと疑問に思いまして」ギレリスは首を横に振った。「夕べ、いやがらせの手紙を読んだときは、故人に対するありとあらゆる敵意を見せつけられた気がしました。そして、いまは保安省という思いがけない敵役を発見したわけです」
パルホメンコは両眉を吊り上げた。
「ドミトリへの怨恨リストを作成するおつもりなら、陸軍のお名前もお忘れなく。アフガニスタン侵攻に、早くから反対の立場を取ったために、ドミトリは多くの敵を作りました」
腕時計を見て、パルホメンコは立ち上がった。「そろそろまいりましょうか」
ギレリスはパルホメンコの後について、執務室を出た。
リュトヴィッツは番組の収録に向かったギレリスと別れ、電話で新人警官のペトロフを呼び出し、フォンタンカ運河沿いに建つレストラン・トルストイに来るようにと告げた。
21
レストラン・トルストイの調理場で、リュトヴィッツとペトロフは支配人のモロゾフと向かい合っていた。汚れたソースパンや洗っていない皿がそこら中に転がり、油のこびりついたリノリウムの床に野菜の箱が重ねられ、その横に悪臭を放つゴミの袋が口を開いたまま置かれていた。
「わかってください」モロゾフはごくんとつばを飲んだ。「わたしの口からは、何も言えません」
「何か言ってくれと頼んだ覚えはないぞ、モロゾフ」リュトヴィッツは言った。「はっきりしていることは、おれもペトロフもこれだけの量の肉を初めて見たということだ。まず、この肉の出所からはっきりさせようじゃないか?」
リュトヴィッツは聖人の遺品でも拝むようにうやうやしく、冷凍庫の中に置かれた切りかけの冷凍牛肉の塊に触れる。大きな冷凍庫の中は、肉の入ったカートンが天井近くまで積み上がっていた。
「ねぇ刑事さん、私には家族がいるんですよ」モロゾフの声が震える。
「肉の供給元によっては、正式な捜査が行われることになりますよ」ペトロフが言った。
「・・・あれは正規の卸売業者から合法的に買ったものですけど、業者の名前は言えませんし、明かすつもりはありません」
リュトヴィッツは身を乗り出した。
「なぁモロゾフ、利口になろうじゃないか。あくまで白を切るつもりなら、あの肉が国営食肉市場から盗まれたものかどうか調べさせてもらう。もし盗品だったら、きさまはブタ箱行きだ」
リュトヴィッツの脅しに対し、モロゾフは肩をすくめただけだった。
実りのない聴取を終え、ペトロフとレストランを出ようとしたとき、リュトヴィッツはレジ近くのテーブルに眼が向いた。
1人の老人が拳のように丸い姿勢で、コーヒーを飲んでいた。香りからして、代用品のようだった。禿げ頭に糸くずのような白髪がしょぼしょぼとりまいている。リュトヴィッツには、その窪んだこめかみと骨ばった鼻梁、服に縫い付けてある勲章に、どこか見覚えがあった。
「アルヴィドさん」と、リュトヴィッツは声をかけた。耳が遠いようなので、もう少し大きな声で言った。「アルヴィドさん」
老人は怪訝そうに細めた眼をあげた。アルヴィド・ヤンソンスはその昔、レニングラード防衛戦でドイツ軍と闘った歴戦の兵士であり、グレゴリー・リュトヴィッツの通信チェスの好敵手だった。
アルヴィドはいら立ったように手を振り、手招きをした。胸のポケットから黒い表紙のはぎとり式メモ帳と太い万年筆を出す。大きな万年筆でメモ帳に何か書き込む間、大きな鼻からは苦しげな息がほとばしり出る。いまや万年筆のペン先が声のかわりなのだろう。老人はメモ帳を差し出した。字はしっかりとして明瞭だった。
『あんたはわしの知り合いか?』
アルヴィドの眼つきがにわかに鋭くなった。首を傾け、リュトヴィッツを上下に見た。知っているのだが、誰だがわからないといった表情を浮かべた。老人はメモ帳を取り戻し、先ほどの文章に一語加えた。
『あんたはわしの知り合いか、刑事さん』
「アレクサンドル・リュトヴィッツですよ」リュトヴィッツは老人に名刺を渡した。「父をご存じだったでしょう。私もときどき一緒にいました。ユスポフがまだホテルだった頃の話ですが」
縁の赤い眼が大きく見開かれた。驚きと嫌悪が混じる表情で、アルヴィドはリュトヴィッツの顔をまじまじと見て、そのありえないことが本当である証拠を探した。それからメモ帳の紙を一枚めくり、再び何かを書きつけた。
『まさか、あのサーシャがこんなくたびれた中年男であるはずがない』
「でも、残念ながらそうなんです」
『こんなところで何を?』
「ある事件の捜査で。ところで、アルヴィドさんは今でもユスポフのクラブには行かれるんですか?」
『もちろん。せがれと一緒に、1週間前も行ったよ』
「ご存じないですかね。ユスポフのクラブに出入りしていた男で、たぶんニコライと呼ばれていたんですが」
『知っているよ。何かやってのかね?』
「その男のことはどの程度、よく知っていますか?」
『ありがたいことに、よくは知らない』
「どこに住んでいるか知っていますか。最近、会ったことは?」
『何か月も前のことだ。まさか、君は殺人課の刑事では?』
「それも」リュトヴィッツは言った。「残念ながら、そのとおりです」
アルヴィドは瞬きをした。今の答えにショックを受けたり、気落ちしたりしたのだとしても、それは表情や態度のどこにも読み取れなかった。
『薬の過剰摂取か?』
「銃で撃たれていました」
そのとき、レストランのドアがきしりながら開き、1人の男が入ってきた。アルヴィドは口を開けたが、言葉を呑み込んでしまうような話し方で、喉の機能が不完全なために、その声は幽霊の囁きのようだった。その声が途切れてから少し間をおいて、リュトヴィッツはアルヴィドが「せがれだ」と言ったのに気付いた。
アルヴィドの息子が、2人のいるテーブルに近づいてきた。
「すいません、お父さん。また遅れちゃって・・・って、刑事さんがなんで、父さんと一緒にいるんですか」
「こっちこそ、奇遇だったな」リュトヴィッツは言った。
アルヴィドの息子は数日前、ユスポフ・チェスクラブでカスパロフの聞き込みを行った際、セルギエンコと対戦していたロージャだった。
アルヴィドはリュトヴィッツの名刺とメモ帳を、ロージャに手渡した。
『この人は、わしの古い友人の息子さんじゃ』
それでもロージャは納得しないようで、不快そうに顔をしかめた。
「父さんとどういう関係だが知らないが、もう帰ってもらえますか。父はあのヤク中のことは何も知らないし、家族に迷惑をかけるのはやめてほしいですね」
ロージャの気迫に、リュトヴィッツは思わず気圧されるかたちとなり、アルヴィドの骨と皮ばかりの手をほんの短いあいだ握る。
「それじゃこれで、アルヴィドさん。もう少しお話を伺いたいときの連絡方法を教えてもらえますか?」
アルヴィドはメモ帳に住所を書いて、その紙をはぎ取った。
「アルゼンチンですか」リュトヴィッツはアルゼンチンの首都にある、どんなところか想像もつかない通りの名を読んだ。「こういうのは初めて聞きましたよ」
「お父さん、もういいでしょう」ロージャがいら立った声を上げた。
「出発はいつですか?」リュトヴィッツは言った。
「来週ですよ。さぁ、父さん、もう行きましょう」
アルヴィドはまた幽霊のような声を出したが、誰にも理解できなかった。そこでメモ帳に書き込んで、それをリュトヴィッツの方へ滑らせた。
『人は計画を立てる。そして、神はお笑いになる』
ロージャから逃げるようにして表に出ると、リュトヴィッツは掌のメモをよく観察した。紙に強い筆圧で押しつけられたような痕が残っている。リュトヴィッツは背広から鉛筆を取り出し、その痕の周りを薄く汚してみた。黒地に押しつけられた痕が白く浮かび上がった。
『ニコライをユスポフに連れてきたのは、セミョーノフとかいう救世主のポン引き。スモリヌイ聖堂の近くに住んでいる』
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その日の夜、サンクトペテルブルク・テレビジョンからギレリスが出演するニュース番組が放送された。
リュトヴィッツは大屋敷の食堂で、その番組を見ていた。画面の左側に、アナウンサーのゲオルギー・ベルマンが座っていたが、端正な顔に無精ひげを生やしたマッチョな風貌に仕立ての良い革のジャケットとジーンズという出で立ちは、ホテル・プリバルチスカヤあたりにいそうなマフィアと大差なかった。
番組の前半は、ヴィシネフスキーの業績を駆け足で紹介する短いVTRが流された。密輸業者や売春婦、反体制分子にインタビューする場面。チェルノブイリ原発事故の場面。被曝した消防士の病床を訪ね、自らも涙する場面。国営食肉市場に列をなす市民から話を聞いている場面。
ドミトリ・ヴィシネフスキーは、傍目には愛想のかけらもなく、末端の官庁かどこかで書類だけを相手にしているだけの官吏のような印象をうける。しかし、そのさりげないユーモアと常に変わらぬ誠実さで、広く国民に愛されたのだった。VTRで見ていると、リュトヴィッツにはいつもの飾り気のないその語り口に、はっきりとしたペシミズムの影が差しているように思えた。殺されることをヴィシネフスキー自身が予知していたのではないかと、勘ぐりたくなるような風だった。
「外国資本の導入は、たしかに我が国にとって急務であろうと思われます」ヴィシネフスキーがしゃべっている。「しかし、投資する価値のあるものとして、何が存在するでしょうか?工場は絶望的なまでに老朽化しています。政治は安定を失いつつあります。われわれ国民は、普通の意味での労働倫理を欠いてます。『お上は払うふりして、おれたちは働くふりをする』というのが、支配的な風潮なのです。そして、最も基本的な本能であるはずの利益追求欲までが、ほんのひと握りの、必ずしも法を遵守してはない人々に独占されつつあるように見えます」
VTRの最後を締めくくったのは、森の中に乗り捨てられた黒塗りのヴォルガと、2つの死体の血なまぐさいクローズアップだった。
「ドミトリ・ヴィシネフスキー氏が殺されたこの事件は現在、内務省サンクトペテルブルク支部刑事部のレオニード・ギレリス大佐によって捜査が行われています」
ベルマンは、わざと顔に深刻ぶった表情をこしらえ、画面の右側にいるギレリスの方へ顔を向けた。
「ヴィシネフスキーと一緒に死体で発見されたオレグ・サカシュヴィリですが、彼はグルジア・マフィアの一員ということでしたね?」
「その通りです」ギレリスは、回転椅子に乗せた尻の位置をもぞもぞと動かした。
「そして、2人が撃たれたのはサカシュヴィリがドミトリに情報を提供しようとしたからだと推測されているわけですね?」
「それはまぁ、ひとつの可能性であって・・・現時点では、そう決めつけるだけの材料がそろっていません。だからこそ、2人のうちどちらかを最近見かけたとか、接触があったとかいう方がおられたら、できるだけ早く知らせていただきたいのです。また、この2人のつながりについて、何かご存知の方も、ぜひ情報をいただきたい」
ベルマンがうなづいた。高価な革のジャケットにしわを寄せて、膝に置いたメモに眼をやる。
「このむごたらしい事件の犯人に法の裁きを受けさせるためなら、市民はできる範囲でのどんな努力も惜しまないでしょう」ベルマンは穏やかな口調で言った。
「しかし、逆にお聞きしたいのですが」と、一転して攻撃的な口ぶりになる。「サンクトペテルブルクの民警のほうは、市民のためにどんな努力をしてくれているでしょうか?この街のマフィアを、いつになったら撲滅してくださるんです?」
ベルマンの番組に出演するにあたって、ある程度の覚悟はしてきたというものの、これは予測を超えていた。しかし、なんとかしのぎきろうと、ギレリスは最善を尽くした。
「マフィアを打ち負かせるとすれば、それは官民の協力の上に立ってのことでしょう。われわれがマフィアの構成員を有罪に追い込むためには、被害を受けた市民が積極的に名乗り出て、証拠を提供してくださることが不可欠で・・・」
「なんと、民警の力ではマフィアに太刀打ちできないとおっしゃるんですか?」ベルマンの顔にあざけりの笑みが浮かぶ。
「違う。そんなことを言ってるんじゃない」
「しかし、おたくの部内にもマフィアがここまで強大になると、どんな策を講じても効果はないと考える方々がいらっしゃるんじゃないですか?」
「それは事実だ。そういう人間もいる。しかし、わたしはそのひとりじゃない。わたしとしては、事態をもっと楽観的にとらえて・・・」
「ほう、あなたが楽観しておられると聞いて、われわれ市民も今夜から安心して眠れるというものですよ、ギレリス大佐。ですが、その楽観論は何に基づくものでしょうね?グルジア産のブランディですか?」
「ちょっと待て」ギレリスはがなった。
「いいえ、あなたこそ待ってください」ベルマンも負けじと声を張る。「警察は、マフィアがECからの援助食料を盗むのさえ、阻止できなかったじゃないですか」
「君が言っているその犯罪は、キエフで起こったものだ。ウクライナの未解決事件を、うちの責任にするつもりじゃないだろうな。サンクトペテルブルクに西側から届いた援助食料の行方を知りたければ、市会議員にでも聞いてみることだ。それに、その服だ」
ギレリスは上体を前に乗り出し、ベルマンのジャケットに触れた。
「誰だって、こういう上等の革のジャケットを買える身分になりたいさ。いくらした?1万5000ルーブル?2万か?うちの課員の2、3年分の給料だ。こんなものを着ている人間が、わたしに向かって偉そうな講義をするとは」
「そういう問題じゃなくて・・・」
「そういう問題だ」ギレリスの顔にどんどん赤みが増していく。「きさまや同類の連中が金にものを言わせて西側の服や品物を買いあさったりしなければ、マフィアはたちまち干上がってしまうんだからな。自分が犯罪組織の懐を肥やしておきながら、民警がマフィア相手に負け戦を強いられている状況を、とやかく言えるのか?」
「じゃあ、負け戦だということは認めるんですね?」
「認めんぞ、そんなことは!」
この調子で、さらに数分間言い争った挙句、ベルマンの侮辱に耐えかねて、ギレリスはネクタイからマイクを乱暴に外し、さっさとスタジオを後にした。自宅に帰ったギレリスを待っていたのは、刑事部長のコンドラシンから「明日の朝一番に、出頭せよ」という電話だった。
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レストラン・チェーホフは24時間営業の薄暗く、狭苦しく、表のサドーヴァヤ通りから見えない店だった。バーやカフェがはねた後、邪悪で脛に傷持つ連中がボロボロに欠けたフォーマイカ張りのカウンターに陣取り、犯罪者、警官、マフィア、売春婦の誰彼について噂話をする。料理人の圧力鍋がぐらぐらと煮えたぎり、換気扇が歓声をあげる中、大型CDラジカセが大音量でベートーヴェンを流す店内は、秘密を心おきなく打ち明けることができる。
「いつものやつをくれ、ボルホフ師」
当直夜勤明けのリュトヴィッツは路地から店に入り、オーナーのボルホフに言った。
店内にはヴァイオリンやチェロのケースの脇に置いた音楽家が、松脂でてかっているカウンターに寄りかかってボルシチを染み込ませた黒パンを食べながら、次にどんな演奏をしようかと考えるような顔をしていた。
シンフォニー・ホールは、サドーヴァヤ通りからだいぶ離れたところにあったが、レストラン・チェーホフが出すボルシチは絶品の味で、この店のボルシチに惚れた者は夜だろうが、店が遠かろうが、フィンランド湾から冷たい強風が吹いていようがめげずにやってくる。
「黒パンは1つでいいんかね」ボルホフが聞いた。「2つか3つ、食べたほうがよさそうな顔だが」
ボルホフはずんぐりした体格で、髪は黒々しているが、もう70歳を超えている。若いころはボクサーとして、オリンピックにも出場したことがある。刺青を入れた丸太のような前腕と、月面のようなあばた面でいかにも怒らせるとまずい相手に見えるが、琥珀色のつぶらな瞳は強面の印象を薄めるので、いつも瞼を半分おろして伏し目にしている。
「リュドミラの具合はどうだ?」リュトヴィッツが言った。
ボルホフは顔の鋳型に冷たい石膏を流し込んだ。
「ものが食べられない。もう、ボルシチも」
「それはいけないな」
リュドミラというボルホフの子は、本当は女性ではない。ある事件でそのことが周知の事実となり、絶望したリュドミラは旧海軍省の屋上から身を投げたが、首の骨を折っただけで済み、寝たきり状態になってしまった。
ボルホフがリュトヴィッツの情報提供者になった理由は、連続強姦魔からリュドミラを救った若き警官に対する感謝の念と羞恥心であって、金ではなかった。
リュトヴィッツの眼の前のカウンターに、ボルシチがなみなみ注がれた深皿と、小山のような黒パンが置かれた。ボルシチをスプーンでひと口含むと、リュトヴィッツは心底からじんわりとくるものがあり、思わず泣きそうになった。
「美味いよ」
「侮辱はやめてもらえるかな、刑事さん」
「すまない」
「美味いのは知ってるから」
「最高だ」
ボルホフがコーヒーをカップに注いで、リュトヴィッツに手渡した。香りを嗅いだだけで、本物の豆を使っていることが分かる。黙々と食事をするリュトヴィッツの様子を、ボルホフが冷ややかに値踏みする眼つきで見ていた。
そのうち、リュトヴィッツが腕時計に眼をやり、「テレビ、つけてくれ」と言った。ボルホフがスイッチを押すと、ギレリスが出演するニュース番組の再放送が始まった。それが終わると、やれやれといった感じで、ボルホフが「あれじゃあ、鬼刑事のギレリスが怒るのも納得だね」と言った。
リュトヴィッツが黒パンをもぐもぐさせながら、言った。
「ユスポフ・チェスクラブに出入りしていたカスパロフ、もしくはニコライという男について、何か聞いたことはないか?」
ボルホフは両手をうしろに組んだ。
「この辺でも何度か見かけたね。おかしな男で、フランス語を少し話したよ。ドイツ語の歌なんかも歌ったり・・・それで、何かあったんで?まさか死んだとか?」
リュトヴィッツは、タレこみ屋からの問いには答えないことにしていた。沈黙の気まずさをごまかすため、何個目かの黒パンをひとつ手に取ってひと口かじった。
「誰かが彼を探してたよ」ボルホフは訛りこそあるが滑らかなロシア語で言った。「2、3か月前から。2人組の誰かが」
リュトヴィッツは片眉を少し吊り上げた。
「あんたは自分でその2人を見たのか?」
ボルホフは肩をすくめた。情報収集の方法は以前から、リュトヴィッツには秘密にしていた。
「誰かが見たんだ。おれかもしれない誰かが」
「その2人の特徴は?」
ボルホフはその質問についてひとしきり考えた。何か哲学的な問題に頭を悩ませているような感じで、楽しそうにすら見えた。「どっちも若い男だよ」と、ボルホフは言った。「でも片方は、脚に怪我をしてるみたいだ」
「服装とか、言葉の訛りとかは?」
「その2人のことを他人から聞いたんだとしたら、おれにそのことを話したやつは服とか訛りについちゃあ、何も言わなかった。おれが自分で見かけたんだとしたら、悪いけど、何にも覚えてないよ。どうしたんだい、刑事さん。なんで手帳に書かない?」
最初の頃、リュトヴィッツはボルホフの情報をきわめて真面目に受けとめるふりをしていた。リュトヴィッツは手帳を取り出して、ボルホフの気の済むように適当なことを書き、線を何本か引いた。
「で、その2人は何を聞いて回っていたんだ?」
「彼の居所」
「目当ての情報は手に入れたのか?」
「この店では手に入れてない。おれからもね」
用件は済んだ。リュトヴィッツは腰をあげ、手帳を上着のポケットに戻して、会計を済ませた。入口のほうへ歩き出したが、ふとボルホフがリュトヴィッツの腕に手をかけた。
「なんでほかに何も聞かないんだ、刑事さん」
「何を聞けというんだ?」リュトヴィッツは眉をひそめた。不審に思いながら、問いを向けてみた。「今日、何か聞いたのか?ひょっとして、ヴィシネフスキー事件のことか?」
「いや、それとは違う話。サカシュヴィリの親父さんの事件はまだ捜査中なの?」
先代のグルジア・マフィアのボス、ヴィクトル・サカシュヴィリは2か月前、自動車爆弾で殺害された。爆発の巻き添えを食らって、リュトヴィッツの妻-エレーナが亡くなった。
「ボリスを見かけたやつがいるんだ」ボルホフは言った。
「どこで見かけたんだ?」
「アブヴォードヌィ運河に近い鉄道の操車場。あそこにこっそり出入りしてるのを誰かが見たんだ。物を運んで。プロパンの缶とか。空いた倉庫の中で暮らしてるのかもね」
「ありがとう、ボルホフ。調べてみるよ」
25
翌朝、サンクトペテルブルクの空は高く、明るい灰色の地に暗い灰色の縞模様が走っている。リュトヴィッツはベルトに予備弾倉のポーチを取り付けると、街の南端へ車を走らせてアレクサンドル・ネフスキー大修道院を過ぎた。そこで街並みはとだえ、アブヴォードヌィ運河が陸地を横切っていた。
操車場に通じる鉄扉は錠前と鎖で封じられていたが、リュトヴィッツは錠前を拳銃で吹き飛ばし、伯父から借りた黒塗りのジグリを中に入れた。銃声を聞かれただろうが、今のリュトヴィッツには別にかまわなかった。いくつか立ち並ぶ倉庫の側面の壁は、原因不明の穴とサイコロの目のようなくぼみに覆われていた。
広々とした空地に車をとめ、リュトヴィッツは荒い鼻息をつきながら、倉庫の入り口に向かって歩き出した。身分証を高く掲げ、旺盛な気迫を示してドアを蹴破れば、ボリスはおとなしく出てくるだろうとも、考えた。
そのとき、1発目の弾丸がリュトヴィッツの右耳のわきをかすめた。太ったハエがブンと飛び過ぎたようだった。それが弾丸だと気付いたのは、こもった発射音と何かが割れる音を聞いてから、あるいは聞いたのを思い出してからだった。
リュトヴィッツはさっと伏せ、泥の上にぺたりと腹這いになった。2発目が頭のすぐうしろを飛び、細く垂らしたガソリンにマッチの火を触れさせたように皮膚を焼いた。リュトヴィッツはマカロフを抜いた。だが、後悔がマヒをもたらし、体が思うように動かなくなっていた。ここへは無謀という名の計画のもとにやってきた。援護者はいない。自分は世界のはずれのような殺風景の中で死ぬことになる。リュトヴィッツは思わず眼を閉じ、また開いた。
泥を踏む足音が聞こえた。1人ではなかった。リュトヴィッツは体を持ち上げ、一番近い倉庫の窓にさっと近づいた。倉庫の中は暗闇だった。びくりと震える心臓を抑え、マカロフを水平に持ち上げると、暗がりに動いた影に狙いをつけ、発射した。
悲鳴があがった。男の声だった。白い息が見えた。次いで男が罵声を放って、泥の上を這いずる湿った音が続いた。息を殺して窓のふちからのぞこうとしたとき、闇の中から太い腕が伸びて、リュトヴィッツのマカロフをつかんだ。不意をつかれたリュトヴィッツは身体を持ち上げられ、よろよろと立ちあがった。
口ひげと鼻のあたりが見えた。息が酒臭かった。倉庫の中にひきずりこまれ、片脚で地面に押さえつけられると、チャンジバッゼのマカロフが頭を狙っていた。
「この嘘つき野郎め」リュトヴィッツが言った。「ニコライを知ってたんだな」
「何のことかな?」
「誰に頼まれた?」
「あんたに言うはずないだろ」
チャンジバッゼのマカロフがはねる光が脳裏によぎり、リュトヴィッツの後悔と自責の念が消えた。リュトヴィッツは肩をすくめ、チャンジバッゼの脚を払おうとした。
ちょうどそのとき勢いよく銃をひったくったチャンジバッゼは、後ろ向きに泥の上へ倒れた。リュトヴィッツはその上に飛びかかった。今はなんの考えもなく、身体だけで動いていた。チャンジバッゼの手から銃を奪い取り、その向きを変えた。轟音が響き、チャンジバッゼは頭頂部から血の角を生やした。
つかのま、奇妙な安らぎがリュトヴィッツを襲った。聞こえるのは喉の奥の息遣いと、自分の血の脈動音だけだった。いま殺したばかりの男にまたがり、泥にまみれた膝頭が燃えるのを感じていた。やがて、自分がつくりだしてしまった厄介な結果に疑念がわきはじめた。リュトヴィッツはよろよろと立ちあがった。背広に血のりがべっとりついていた。
腸を吐き出しそうな嘔吐にかまけていると、別の男が出てきた。手には何も持っておらず、踊るような足取りだった。リュトヴィッツが血を流し、四つん這いでへどを吐いているのを見ると、チャンジバッゼの死体のそばに落ちているマカロフを拾い上げた。
リュトヴィッツは身体を傾けながら、立ち上がろうとした。頭のうしろに炎の筋がひらめいた。足元がぐらつき、次いで轟音とともに暗闇がやってきた。