27
太陽が地平線に沈もうとしている。白い石の十字架が立ち並ぶ墓地で、ジョージはシャベルを振るっていた。汗が背を、腕を、首筋を伝わっていく。皮膚が焼けるようだ。実は村民に応援を頼もうとしたが、どんなに金を積んでも、墓地に近づきたいという者はいなかった。結局、独りで墓を掘るしかない。
ひと呼吸おいて汗を拭ったとき、赤い夕日を背に、何かの影が動くのが眼にとまった。額に手をかざし、眼を細めて見たが、影は消えてしまった。掘り始めた穴に眼を移す。バカだったかもしれない。疫病の話を勘ぐりすぎているのかもしれない。きっと村は全滅したわけではなく、何人か生き残った人間がいたのだ。
ジョージは水筒から水をひと口飲み、シャツの袖をまくり、作業を続けた。次第にリズムが出てきた。シャベルを土に突き立て、足をかけて押し込み、土を掘り起こす。墓を掘り起こす許可など、得ていない。第一、誰から許可をもらえばいいのか分からない。
太陽が沈み、暗い影が周囲を覆い始めた。ジョージは作業を中断し、カンテラに火を入れると、ふたたび作業に戻る。突き、押し、起こす。闇が迫る中、カンテラの灯を頼りに墓を掘り返す。それがどれほど気味の悪い行為かは、なんとか考えまいとする。突き、押し、起こす。
突然、冷たい笑い声がして、ジョージは震えあがった。腰までの深さの穴の中で、ハッと振り向く。3頭のハイエナが立っていた。吐く息が腕にかかり、口臭が鼻に突くほどの近い距離だった。眼はカンテラの光に反射して赤く光り、じっとジョージを見つめている。
1頭のハイエナが強く息を吐いた。腐った肉の臭いがただよう。ジョージは勇気をふるい、腰にさした銃を掴み、顔の前で振って見せた。
次の瞬間、ハイエナはふっと闇に姿を消してしまった。気が付くと、両手が痛みでしびれている。シャベルと銃の柄に指の跡が残るほど、強く握りしめていたのだ。なんとか両手の力を抜き、穴の壁に背をもたれた。呼吸は乱れている。周囲はハイエナが残した足跡だらけだった。やはり、村に帰るべきだ。
ジョージは眉をひそめ、決意を新たにし、作業に戻った。突き、押し、起こす。動作は行進する足音のようにリズミカルになった。突き、押し、起こす。ヘルンデールでジョージが聞いた、石畳を行く軍靴の響きに似ていた。必死に振り払おうとしても、イメージは強くなるばかりだ。
《おい、神父。名は何という?》
「黙れ」
ジョージは唸った。
《それなら、告白を聞いたはずだ。さぁ、犯人の名を言え》
「黙れって言ってるんだ!」
シャベルは動き続けるが、記憶は頭から去ろうとはしない。
「お前らの中の10人を銃殺刑に処する。犯人におかした罪の重さを思い知らせるためだ」
村民の間に衝撃が走った。互いに顔を見合わせ、恐怖に愕然とした。ジョージは心臓が止まりそうになった。冷たい雨は降り続け、群衆と兵士の死体を濡らしている。
ヘンケは50代の男に近づいた。エリク・リヒターだ。銃を抜き、リヒターを村民の中から引きずり出すと、石畳の上にひざまずかせた。ほかの兵士たちはサブマシンガンを群衆に向けている。
《神よ、お導きを》
ジョージは聖職服の中で両手を合わせた。どうか、この忠実なる僕をお救い下さい。
「でかい手をしてるな」
銃口をリヒターのこめかみに当て、ヘンケは言った。リヒターの喉がごくりと鳴った。
「農家か。子どもはいるのか?」
「はい、娘が2人」
「よし、まずはお前からだ」
ヘンケが銃の安全装置を外した。
「待て!」ジョージが叫んだ。
銃をリヒターに当てたまま、ヘンケは振り向いた。
「何か異論があるのかね、神父?」
「神に代わって頼む。止めてくれ!」
「誰に頼まれようと、私には関係ない。そうだな・・・」
ヘンケは銃をホルスターに戻し、リヒターを村民たちの中に蹴り戻した。
「では、あんたに10人、選んでもらうことにしよう」
「何だって?」
「死ぬべき人間を選んでくれ、神父。あんたが神に代わって」
「そんなことは・・・」
ジョージは唾をのみ込んだ。
「10人選べ。さもなければ、皆殺しだ」
恐怖に慄きつつ、ジョージは全身全霊で神に祈り、冷たい雨の中、村民とヘンケの間に進み出た。
「犯人はぼくだ。あの兵士に犯された娘の告白を聞いて、ついカッとなり・・・ナイフを手にしてしまった。村で兵士に出くわしたときに、背後から刺して逃げた。やったのは、ぼくだ。ぼくを撃ってくれ」
長い沈黙が流れた。ジョージはじっと立ち尽くしていたが、膀胱が重く、両手は震えていた。ヘンケの冷酷な視線と眼が合う。臨終のとき、誰かぼくに最期の秘跡を行ってくれる者がいるだろうか。
やがて、ヘンケがようやく口を開いた。
「ホラ吹きめ。まぁ、気持ちは分かる。羊たちを救うために、我が身を投げ出す羊飼いといったところか。そうはいかん。10人を処刑すると言ったはずだ。さぁ、選べ」
ヘンケはゾフィ・モーデルをひきずり出した。まだ5つの女の子だ。ヘンケが銃を取り出す。ジョージが抗議する間もなく、ヘンケは銃口をゾフィのこめかみに当てた。
「今日、ここに神はいないよ。神父」
轟音が響き渡った。恐怖にひきつった村民たちに血しぶきが飛び散り、ゾフィの小さな体はどさりと地面に転がった。頭が石畳を打ち、グシャッと嫌な音がした。
「さぁ、選べ!あと10人だ!いやなら全員、撃ち殺す!」
ジョージは声を失っていた。ゾフィの頭から溢れ出した血が石畳を赤く染めていく。ゾフィの両親は半狂乱になり、娘のそばに行こうともがき、周りに止められている。村民たちは何とかこの場を救ってくれと、すがるような眼でジョージを見ている。ジョージの頭は混乱していた。何の考えもまとまらず、アイデアひとつ浮かんでこない。空っぽだ。最後にできることは、たったひとつ。ジョージは深々と頭を垂れ、両手を合わせた。
《主よ、お願いです。ぼくはどうしたらいいのです。この人々を助けてください。あなたの忠実なる僕を、見殺しにしないでください》
「何だ、祈っているのか?」
ヘンケがにじり寄り、ふたたび熱い息が降りかかった。
「祈るがいい、神父。なぜなら、私は知っているんだ」
ヘンケはまた1人、マルティン・クーロンをひきずり出した。昨日、9歳になったばかりだ。マルティンのこめかみに銃口を押しつける。ジョージは眼を見開いた。
「お願いです!神様!」
マルティンの母親が絶叫する。ヘンケが冷然と言い放った。
「今日、ここに神はいないってね」
《お願いです、主よ・・・》
ヘンケの指が引き金にかかる。ジョージは依然として、声を失くしていた。突然、ヘンケは眉をひそめ、マルティンを群衆の中に押し戻した。母親が慌てて、すすり泣く息子を腕に抱きかかえる。ヘンケはジョージを見た。
「あんたの勝ちだ、神父」
そして、部下に命令を発した。
「全員、撃て!」
兵士たちが一斉にサブマシンガンを上げる。村民たちは悲鳴を上げ、壁に向かって後ずさりした。
「待て!」
ジョージは叫んだ。兵士たちの動きが止まる。ヘンケが眼をジョージに向ける。静寂が広場を包んだ。
《主よ、この願いをお聞きください・・・》
もう道は残されていなかった。体を震わせながら、ジョージはゆっくりと腕を上げ、村民の1人を指した。
「ハンス・ユルゲンス」
ユルゲンスが愕然としてジョージを見た。喉が詰まる。兵士の1人が進み出てユルゲンスをひきずり出そうとしたが、ヘンケは片手を挙げてそれを制した。
「手遅れだよ、神父。皆殺しにしろ!」
ジョージの中で何かが切れた。雨に濡れた聖職服を翻し、ジョージはヘンケの前に飛び出した。
「それと、クラウス・ミュラー!エリカ・ショーベルトもだ!」
ヘンケがニヤりと笑った。
「いいぞ、神父。その調子だ」
兵士たちがジョージの指した村民を次々とひっぱり出し、広場の上に一列にひざまずかせる。3発の銃声がこだまし、3人は石畳に崩れ落ちた。
「あと7人だ。お次は、どいつかな?」
ジョージは人さし指を持ち上げた。
28
ヘレーネはベッドから身を起こした。病室から、足音と低い話し声が聞こえてくる。慌てて服をひっかけ、廊下を走り、病室の前でギョッとして立ち止まった。男たちがぼんやりと浮かび上がり、ジョセフのベッドを囲んでいる。そばにカマラが立っている。
病室にいるのは、4人のトゥルカナの戦士たちだ。裸体に腰布をまき、全身に白い土を塗っている。シャーマンらしき5人目の男はやや年配で、布をかぶせたバスケットと杖を持っている。杖の端にはアンテロープの蹄がいくつか緩く結ばれ、ガラガラと音を立てている。戦士たちはジョセフの手首と足首をベッドに縛りつけていた。年配の男は、ジョセフの上で杖を振っている。ジョセフはぼんやりと濁った眼で天井を見つめ、その顔と首はジクジクした湿疹に覆われている。
「すまない」
カマラがそっと言った。泣いている。
「何をしてるんですか?私の患者に!」
ヘレーネが大声を出した。それにかまわず、シャーマンは杖を置き、バスケットの中から禍々しい形をしたナイフを取り出す。
「やめて!」
ヘレーネは叫び、突進した。途端に2人の男につかまり、体を持ち上げられ、その場から引き離された。激しく身をよじり、罵る。ヘレーネの脳裏には、収容所での悪夢がまざまざと蘇る。守衛たちに襲われ、壊れた人形のように弄ばれた恐怖が、現実に重なる。半狂乱になって抵抗したが、戦士たちの力には敵わない。シャーマンはナイフをジョセフの胸の上にかざした。ジョセフの体がガタガタと震え始める。頭上のランプが翳り、ほやがカタカタと鳴った。
「やめて!」
ヘレーネはふたたび叫んだ。シャーマンはナイフを振り下ろし、ジョセフのパジャマを切った。胸に長く浅い切り傷ができ、うっすらと血がにじんでくる。シャーマンはナイフを置き、バスケットから素焼きの壺を取り出した。そして、木製のトングを使って、何やら小さな黒い物体を壺からつまみ出し、ジョセフの胸にそっと並べ始めた。
黒いものは、ヒルだった。たちまちショセフの皮膚にしっかりと食いつき、血を吸い始めた。ヘレーネの中にわずかに残っていた理性が吹き飛んだ。怒りと恐怖に金切り声を上げて、自分を押さえつけている男たちの手を振りほどこうと暴れた。すると、首筋に冷たい金属が触れた。1人が喉元にナイフを突きつけた。言葉はないが、殺意のこもった威嚇だ。ヘレーネはぴたりと動きを止めた。シャーマンは再びナイフと杖を手に取った。
突然、カマラがドアに突進した。顔は苦悩に歪んでいる。嗚咽をこらえながら、そのまま夜の通りに飛び出して行った。首にナイフを当てられたまま、ヘレーネにはなす術がない。恐怖におののき見守る中、シャーマンは低い声で呪文を唱え始め、ナイフをかかげた。ジョセフの心臓に突き立てようとしている。
ジョセフが激しく痙攣し、ベッドが揺れる。ランプの明かりがストロボのように明滅し、影が部屋の中で躍っている。戦士の1人がジョセフを抑えようと、腕をつかんだ。
ボキッ!
戦士が当惑して見下ろす。その顔がみるみるショックと激痛に青ざめた。ジョセフを抑えつけたひと差し指が反り返り、骨が折れている。呆然と見守るうち、今度は中指が反り返り始めた。戦士は激しくあえぎながら、必死に抵抗しようとする。薬指、小指も反り始めた。ヘレーネが恐怖に魅入られたように見つめる中、指は容赦なく折れ曲がっていく。ついに戦士は悲鳴を上げた。
ボキッ!ベキッ!ゴキッ!
シャーマンが何ごとか叫び、ナイフを振り下ろす。途端に、その手首と腕の骨が砕け、腕がねじ曲がった。ナイフが落ち、床を転がった。別の戦士も左足が恐ろしい破裂音とともに砕けた。
部屋は大混乱に陥った。アンが病室に飛び込んできたのを、ヘレーネはぼんやりと感じた。
ボキッ!バキッ!ベキッ!
もはや、誰の骨が曲がり、折れているか分からなかった。戦士とシャーマンは激痛にのたうちながら、ベッドから転がるように逃げ回り、深手を負った仲間を助け起こそうとしている。ヘレーネは床に投げ出された。男たちの手足から血が溢れ出し、皮膚を砕けた骨が突き破っているのが見える。ベッドは揺れ、床を激しく鳴らしている。アンがベッドに近づこうとしたが、眼に見えない力で吹き飛ばされ、壁に激突してしまった。戦士たちはシャーマンとともに、玄関から逃げ出して行った。
その途端に、病室に静寂が戻った。ベッドは動きを止め、ランプの揺れも収まった。しんとして、物音ひとつない。ヘレーネは身を起こし、よろよろと立ち上がった。アンも壁から起き上がった。頬に青あざができている。ヘレーネはベッドに駆け寄り、ジョセフを縛りつけていた縄を解いた。湿疹からはドロドロとした滲出液が出ている。アンが駆け寄り、ヘレーネの手首をつかんだ。
「離して!」
ヘレーネはアンを押し退けようとしたが、アンも負けていない。
「ヘレーネ、いけないわ!その子は危険よ。見たでしょう?」
「何を見たのか分からないわ・・・」
ヘレーネは頑なに言い張った。
「いや、分かってるはずよ。今の連中をこんな目に遭わせたのは、この子よ。子どもに出来ると思う?人間にあんな真似が?あれは悪魔の仕業よ、ヘレーネ。ジョセフには悪魔が取り憑いてるのよ」
ヘレーネは急に笑い出した。妙に甲高く、ヒステリックに響いた。
「悪魔?そんな・・・もっと別の、別の原因が・・・」
「この子には悪魔祓いが必要よ、ヘレーネ。神の力で、悪霊を押し出さなくては」
「じゃあ、あなたがやったら?」
言葉にトゲが混じるのを抑えることができない。科学者としてのヘレーネが、何とかアンの言葉を否定しようとしている。
「1人じゃ出来ないの」
「ジョージがいるじゃないの」
「ジョージは神から遠ざかり過ぎているわ。どうせ聞いてくれない」
「誰が聞いてくれないの?ジョージ?それとも、神様?」
アンは口をつぐんだ。
「何なの、シスター・アン?戦時中、ジョージには一体、何があったの?」
29
ドアが大きな音を立てて開いた。ヘレーネは飛びあがった。また戦士たちがやって来たのかと見ると、入ってきたのはジョージだった。汗と泥にまみれた格好で、すさまじい形相を顔に浮かべている。背後では、空がすでに明るくなり始めている。
「空っぽだ!」ジョージが怒鳴った。
「何が?」
ヘレーネの問いには答えず、ジョージはつかつかと部屋を横切り、アンの腕をつかんで、手荒に玄関の外へ押し出した。びっくりして唸りながら、アンは転がるように外へ出た。続いて出てきたジョージはアンの襟首をつかんで、壁に激しく押しつけた。
「墓を3つ、掘り返した!棺は全部、空だったぞ!」
ヘレーネは顔面蒼白になって飛び出してきた。
「ジョージ、やめて!何をするの?」
アンの体を引き寄せ、ジョージは食いしばった歯の間から、絞り出すように言った。
「ここで、いったい何があった?」
「知らないわ・・・」
ジョージがまたアンを壁に押しつける。アンは頭を打ち、痛みに唸る。
「嘘をつけ!最初から、ずっと知ってたんだろ!」
「離して・・・」
「芝居はやめろ!全部、茶番なんだろう!ここの部族は死体を火葬する。ところが、墓地には十字架がある。棺もだ!教会が連中を埋めたんだ。そうだろう?違うのか?」
ジョージはアンの体を揺さぶった。
「ジョージ・・・」
ヘレーネが口を挟もうとする。
「そうよ」
アンがようやく口を開いた。
「何が?」ジョージは言った。
「その通りよ。教会が空の棺を偽の墓場に埋めさせたのよ」
「なぜだ?教会は何を隠している?」
「この地は呪われているのよ」
「また、そういうデタラメを・・・」
「待って!質問したなら、ちゃんと答えを聞いてちょうだい!ここで昔、大量殺戮があったの。1500年前の話よ。強大な悪の起源を探すため、2人の神父がニカイアの軍隊とともに派遣された。そして、この地でそれを見つけたの。ニカイア軍は悪と闘い、悪を封じ込めようとしたが、逆に餌食になり、悪に取り憑かれてしまった。そして原住民を奴隷にし、生贄やむごい宗教裁判を行った。ニカイア政府は悪を退治したつもりでいたけど、軍隊は逆に悪の手先になってしまったのよ。最後には神父、兵士、原住民たちが互いに殺戮し合い、神父が一人だけ生き残った。この大虐殺について報告を受けたゲオルギウス帝は悪魔を封じ込めるため、その場所に新たに教会を建て、さらに地中に埋めることを命じたの。そして、この話はいっさい歴史から抹消されることになったのよ」
「だが、抹消されなかった」
「50年前、教会史の編纂者が、教皇府の資料庫から1通の古い書簡を発見したの。そこで4人の神父がこの地に派遣され、谷の住民たちの協力も得て調査したの。ところが、調査に関わった全員が消えてしまったの」
「消えたって、どこへ?」
ヘレーネは恐怖にかられて尋ねた。
「誰にも分からないわ。教皇府は事件のもみ消しを命じ、偽の墓場を作った。そして、人を近づけないよう、疫病の話をでっち上げたの」
「しかし、その後の植民地政策で人がやって来た。そして、エメリアが教会を発見してしまった」
「それで、あたしが送られたの・・・伝説が正しいかどうか、調べるために」
「伝説だと?」
ジョージはまた歯ぎしりした。
「天国での戦争の後・・・」
アンの声はほとんど囁きになっていた。
「この地に、ルシフェルが堕ちたという伝説よ」
沈黙が流れ、ジョージは唐突にアンの襟首から手を放した。アンはバランスを失い、よろめいた。顔をそむけたジョージの口から、喉が引きつったような声がもれた。笑っているのか、泣いているのか、ヘレーネには分からなかった。
アンがジョージの肩に手を置いた。
「神があなたをここに呼んだのよ、ジョージ」
「ほっといてくれ」
ジョージはアンの手を払った。
「悪魔はいるのよ。ジョセフの中に。ここの人たちもそれを知ってる。連中は悪魔を祓おうとしてここへやって来て、逆に全員が殺されかけた。あなたも逃げるわけにはいかないわ。力を貸してちょうだい」
「無理だ」
ジョージは苦しそうに言った。
「でも、あなただって、神を・・・」
「ぼくは何も信じてない」
2人は長い間、じっと睨み合った。やがて、アンは悲しげにため息をついた。
「それなら、あなたにはもう用はないわ」
アンはそう言って、病院の中へ戻って行った。
ヘレーネはジョージを見たが、相手は眼を合わせようとはせず、背を向けてしまった。重苦しい沈黙を破ったのは、エンジン音だった。ムティカが2人の前にジープを停めた。
「モーガンが見つかりました」
30
ジョージとムティカが発掘現場に着いたのは、もっとも日差しが強い時刻だった。どうやら徹夜で作業を続けたらしく、教会の正面玄関の周りがきれいに掘り起こされていた。考古学者のジョージとしては、まさに許しがたい行為だった。連中のシャベルやつるはしで、どれだけの情報が破壊されてしまったことだろう。
ムティカがブレーキを踏むと同時に、ジョージは車から飛び降り、教会に向かって走った。誰かが入口のちょうづかいに液体をかけたらしい。折しも、グレインジャー少佐自身が大きな扉の間にバールを差し込んでいるところだった。周囲には、兵士たちが警戒心をあらわにして立っている。
「少佐!待って下さい!」ジョージは叫んだ。
「バカ言うな」
グレインジャーはそう言い放ち、バールを押し上げた。かすかに抵抗があり、唸りを上げて扉が開いた。
教会の中からは、雲のような蠅の大群があふれ出た。慌てて顔を隠すジョージや兵士たちの間を怒ったように飛び回ると、蠅はやがて微風の中に散っていった。
グレインジャーがさっそく中に入ろうとすると、ジョージはその腕をつかんだ。
「何をするつもりです、少佐?」
「夕べ、縄梯子を使って、部下を中に入らせたんだがね。そうしたら、何が見つかったと思う?」
「なぜぼくに知らせてくれなかったんですか?」
「探したが、君はどこにもいなかった」
グレインジャーはジョージの腕を振り払い、教会の中へずかずかと入って行った。
真昼の日差しが開いた扉から、どっと内部に入り込む。さらに大量の蠅がぶんぶんと唸りながら集まってきた。すさまじい悪臭に、喉がつまる。グレインジャーは教会の奥へと進んでいった。ジョージが続き、後から兵士たちがついてくる。通路の中程まで進むと、グレインジャーは大きく息を呑んだ。ジョージも立ち止まり、前方を見つめた。
開いた天井から差し込む日差しに、モーガンの死体が浮かび上がった。大天使ミカエル像の間に、血まみれの体が吊るされている。一瞬、モーガンが翼を広げているように見えたが、背中から剥がされた皮膚が外側に広げられていたのだ。折れた背骨が両脚の間からぶらさがっている。胴体から折れた肋骨が飛び出し、あばた面は無残に砕かれていた。
グレインジャーはよろよろと後ずさりした。ジョージは喉から胃液がこみあげてくるのを懸命に抑えた。
「なんてことを・・・」
ジョージは呆然とつぶやいた。
「降ろしてやれ!」
グレインジャーが命じたが、全員がその場に固まっている。
「降ろせと言ってるんだ!」
ようやく兵士たちは動き出したが、作業は難航した。ミカエル像の間にモーガンを吊るしている紐は、モーガン自身の腸だった。やがて皮膚の翼が切り離され、くしゃくしゃに垂れ下がった。
グレインジャーがハッと振り返った。
「何だ、今のは?」
「何ですか?」ジョージが問い返した。
「物音がしただろう・・・ほら、まただ」
ジョージは耳を澄ました。聞こえるのは、兵士たちの押し殺した話し声と、モーガンの死体を動かす重い摩擦音だけだ。
グレインジャーはまたビクッとして振り向いた。呼吸が次第に荒くなり、何かに触れようとするかのように、影に向かって震える手を伸ばしている。
「あの・・・野蛮人ども」
「は?」
ジョージは聞き返したが、グレインジャーは教会の外へ出て、強烈な日差しの中へ戻っていった。ジョージは教会を見回し、ここで何が起こったのか理解しようとした。いったい誰がモーガンをここに連れてきて、こんなことをしたのか。モーガンはたしかに上等な人間でなかったかも知れないが、これほどの仕打ちを受ける謂れはないはずだ。
突然、ジョージはハッと気づき、慌てて教会の外へ出た。グレインジャーは急きたてられるように現場から離れ、不安定な足取りでトゥルカナの部族へ向かっていくところだった。それを見て、槍を手にしたセビトゥアナが前に進み出た。
「この・・・畜生ども!」グレインジャーは忌々しげにつぶやいた。
「やめろ!」
走りながら、ジョージは叫んだ。だが、止める間もなく、グレインジャーはホルスターから銃を引き抜き、眼の前のセビトゥアナの顔を撃ち抜いた。額を吹っ飛ばした弾丸は後頭部を突き抜け、背後の男たちに血しぶきを浴びせた。セビトゥアナはどうとその場に転がった。
ジョージは叫びながら走った。後から兵士の一団がついてくる。グレインジャーは銃を振り回しながら、その場を遠ざかっていく。
トゥルカナの戦士たちは天に向かって怒りの雄叫びを上げ、こちらに向かってくる。驚いた兵士たちがライフルを構え、下がれと叫ぶ。戦士たちは慌てて立ち止まった。辺りに重い緊張が張りつめた。セビトゥアナの死体に近づこうとするジョージを、ムティカが押さえた。
「早く帰ってくれ!みんな、悪魔が来ると言ってる。ジョセフに取り憑いた悪魔が。みんなでジョセフを殺す気だ!」
1人の戦士が槍を空に突き上げ、鬨の声を上げた。周りの戦士たちが一斉に唱和する。正義を求め、復讐を誓う声だ。生きようが死のうが、全ての者を巻き込んで、どこまでも突き進む決死の声だ。ジョージは血が凍るような気がした。
「早く!」
ムティカがジョージを手荒に押した。ジョージは走った。背後で銃声が響いた。振り返ると、トゥルカナの戦士たちが一斉に突進し、1人が倒れるのが見えた。ムティカの姿はすでにない。戦士の投げた槍が、エメリア兵の首を貫いた。兵士は喉に刺さった槍を引き抜こうとして、そのまま砂に伏した。激しい銃声を聞きながら、ジョージはジープに飛び乗り、現場から脱出した。
31
でこぼこした道を猛スピードで飛ばし、村に戻ると、エメリア軍の兵士がライフルや機関銃を持ってトラックに乗り込んで走り去った。遠くでドラムの音がし、ライフルの発砲音と交錯した。
ジョージが病院に飛び込むと、ジョセフのベッドのそばでアンが床にひざまずき、祈りを上げている。ジョセフの体は激しく震えていた。喉からは獣のような唸り声が聞こえてくる。
「ヘレーネは?」
アンは祈りの姿勢を崩さずに言った。
「知らないわ」
「逃げろ、今すぐに!」
「どうして?」
ジョージは相手の質問を無視し、すばやくジョセフを抱え上げ、病院から飛び出した。ジープの後部座席にジョセフを乗せていると、アンが慌てて後を追ってきた。
「この子をエヴァソのポリトウスキ神父のところへ連れて行け。あの人なら・・・」
ジョージはそう言いかけて、遠い地平をじっと見た。
「あの人なら?」
アンは不可解そうに、ジョージの視線を追った。村のはるか彼方で、空が黒い靄に閉ざされ、吹きすさぶ風の音が聞こえてくる。
「砂嵐だ・・・」
「これじゃどこにも行けないわ」
アンが恐ろしげに言った。ドラムの音は次第に激しくなり、骨にまで響いてくる。銃声が空を切り裂き、悲鳴がそれに続いた。
「ジョセフを隠さなくては。トゥルカナの連中がやってくる」
ジョセフは虚ろな眼でじっと宙を見つめている。
「教会は?」
「だめだ。モーガンがあそこで殺され、切り刻まれた。グレインジャーはトゥルカナ人の仕業だと思って、セビトゥアナを撃ってしまった。あそこはもう戦場だ。危険すぎる」
「現地人は決して教会の中には入らないわ。ジョセフを隠すなら、あそこしかない。道は悪いけど、裏道はムティカから聞いたの。連中はまさかあたしたちがそこを通るとは思わないはずよ」
アンはジープに飛び乗り、エンジンをかけた。ジョージは止めようとしたが、他に打つ手がない。アンがギアを入れた。その眼には恐れと決意が宿っている。
「来ないの?」
ジョージは首を振った。
「ヘレーネを探さないと。あっちで会おう。これを持ってけ」
そう言うと、ポケットから悪魔祓いの儀典書を取り出した。エヴァソでポリトウスキ神父に渡されてから、どういうわけかずっと持ち歩いていたのだ。2人は長い間、じっと眼を見合わせた。やがてアンはうなづき、儀典書を受け取った。
「じゃあ、これを」
アンは聖水の入った小瓶をジョージの手に押しつけた。
「いつか必要になるかもしれないわ。あたしはスペアを持ってるから」
瓶を受け取り、ポケットに押し込むと、聖ヨセフのメダルと当たってカチリと鳴った。ジョージの言葉を待たず、アンは走り去った。
風は次第に強まり、テントがパタパタとはためいている。闘いを告げるドラムの音が、風の動きにつれて近づいたり遠のいたりした。ライフルの掃射音は止んでいる。
グレインジャーはキャンプの机に向かい、ガラス瓶の中でもがく1匹の蝶を見つめていた。すでに4人の部下がトゥルカナ族に殺され、敵が何人死んだかはどうでもよかった。事務処理は曹長にまかせてあるから、自分はしばし蝶のコレクションの手入れに没頭できるというわけだ。
ガラス瓶の蝶が動きを止めた。グレインジャーは蓋を開け、瓶の底に入っていたエーテルのコットンを外に出し、蝶を台紙の上につまみだした。ピンの入った箱に手を伸ばそうとすると、テントの入口の垂れ幕が開いた。曹長が入ってきて、敬礼する。
「少佐、トゥルカナ側が戦闘準備に入っております」
「下がれ」
グレインジャーは苛々して言った。
「しかし、少佐・・・」
「下がれ!」
大声で怒鳴った。息が吹きかかり、蝶の羽根をふるわせる。曹長はさっとテントの外に姿を消した。グレインジャーはピンをしっかりと手に持ち、蝶の胸部の上、中心からほんのわずか右にかざした。耳元でパタパタと何か羽ばたく音がする。振り向いて見たが、何もない。妙だ。もう一度ピンの位置をたしかめ、今度は蝶の体に深々と突き刺し、台紙に固定した。遠くで銃声がしたが、放っておいた。この標本がきちんと完成する頃には、部下たちがあの野蛮人どもを始末していることだろう。
またパタパタという音がした。振り返るが、やはり何もない。ストレスだろうか。グレインジャーはさっと額をなで、机の上の蝶を満足そうに眺めた。いい出来だ。ふと指先が濡れていることに気づいた。
指先を見ると、血がべっとりと絡んでいる。ハッと息を飲み、眼を見開く。血が台紙の上に点々と滴り落ちた。机の上には、蝶の代わりに翼を広げたカラスが、血まみれになってピンで留められている。カラスは苦しげに身をよじり、嘴からかすかな喘ぎ声がもれ、グレインジャーをじっと見上げている。
パタパタという羽ばたきが大きくなった。もう一度振り向くと、ようやく音の出所が分かった。テントの床に並べられたガラスケースの中で、蝶たちが一斉に羽根を震わせているのだ。かすかにきしむような摩擦音が絶え間なく、さわさわと続いている。その音は次第に強まり、非難がましく響き始めた。
グレインジャーは幻覚が自らに降りかかり、いままでの出来事が一気によみがえってくるのを感じた。モーガンの凄惨な死体。トゥルカナ族との対立。自分が撃ち殺した戦士の砕け散った頭。
蝶たちは羽ばたき、もがいた。ガラスケースがぶつかり合う。カラスは硬直し、動かなくなった。排泄物があふれて机の上に広がった。グレインジャーはホルスターからリボルバーを抜いた。ずしりとした重みが心地良い。試しに、こめかみに銃口を当ててみる。
蝶たちの羽ばたきが止んだ。息を止めてみたが、蝶たちはピクリとも動かない。ゆっくりと、グレインジャーは銃を下ろした。
口の中で何かが動いている。
黒い脚が1本、続いてもう1本、唇の間から突き出した。グレインジャーはむせかえった。すると、黄色と黒の縞模様をもった紫色の蝶が舌の上から這い出した。蝶はグレインジャーの頬を這い、濡れた羽根を広げた。肌をくすぐる小さな脚の感触を感じつつ、グレインジャーは果てもなく暗い闇の中に落ちていくような気がした。
リボルバーをすばやく口の中に押し込み、グレインジャーは引き金をひいた。
32
族長のセビトゥアナを弔う歌声は炎の周りを渦巻き、次第に高まっていく。長老たちが戦いの狂気を駆り立てていく。トゥルカナの戦士たちは叫び、踊り、沸き立つような怒りの中で一体化していく。炎に半月刃がきらめき、戦士たちは戦意の高揚に声を上げる。族長の死を越え、その息子の呪いを越えて、白人への憎悪をたぎらせる。時をさかのぼり、自分たちの大地を奪われ、抵抗の度に失った命への怒りがわき起こる。
「やつらは我が大地を汚した!」
長老の1人が叫ぶ。
「大地を汚した!」
「虐殺を思い出せ!」
「虐殺を!」
「いまこそ、復讐の時!」
「復讐の時!」
その頭上では、荒れ狂った空が黒い靄に渦巻いている。
砂が噛みつかんばかりに窓に叩きつける。ジョージは病院のドアを押し開け、廊下の全身鏡の前を通り過ぎ、奥へと走った。ヘレーネの名を呼びながら、ジョージはキッチンへ飛び込んだ。ヘレーネの姿はない。氷のような恐怖が胸を貫く。トゥルカナ族がすでに来てしまったのか。
いや、そんなはずはない。ヘレーネはきっとどこかにいる。廊下に戻り、鏡の前を通り過ぎると、ふと立ち止まった。誰かが自分を見ている。首の後ろに冷たい視線を感じる。ハッと振り向くと、鏡が粉々に砕け散った。外では暴風が吹き荒れ、窓を揺らし、ドアをガタガタと鳴らしている。
割れた鏡を後に、ジョージは居間と浴室に入った。
「ヘレーネ!」
姿はない。寝室へ走る。ドアの下から、かすかに光がもれている。ドアノブに手を伸ばした瞬間、背筋が凍りついた。光の前を、影がよぎったのだ。ドアの向こうで床板のきしむ音がする。それがヘレーネなら、なぜ返事をしないのか。室内では、明らかに何かが動き回っている気配がある。ジョージは身構え、勢いよく中に入った。
風はさらに激しさを増し、たたきつける砂が容赦なくアンを襲った。しかし、砂嵐が隠れ蓑となって、アンはトゥルカナとエメリアのどちらの兵士に気づかれることなく、教会のそばにたどり着くことができた。そっと感謝の祈りを捧げ、ジープのエンジンを切り、ジョセフを腕に抱える。ジョセフの体は熱く、発疹はかなり悪化していた。
アンの胸は、傍目にもシャツが震え、カラーが浮き上がるほど激しく高鳴っている。だが、アンには自信と信念があった。自分は神とともにある。神が、この仕事を最後まで見届けてくださる。神は、この忠実なる僕を、決して見捨てはしない。
教会に入ると、空気はぴたりと静まり、血と腐った内臓の臭いが鼻をついた。床にはカラスの死骸が散乱し、足の踏み場もない。ブーツの下で死骸がグシャリと音を立て、アンは思わず息を呑んだ。祭壇の周りは、血と汚物でぬめっている。
ジョセフが震え始めた。喉から獣めいた呻き声がもれ、暗がりの中で白い歯がぎらりと光った。ふと、ジョセフが自分の首に噛みつき、頸動脈を食いちぎるのではないかという不安に駆られ、アンは歩を進めた。
祭壇に近づいたアンは、上の石が傾いているのに気づいた。これでは役に立たない。蠅が頭や首にまとわりつく。アンは洗礼盤を探した。一般にニカイア教会の場合、洗礼盤は翼廊に設置されているはずだ。まず北側をチェックするが、何もない。南側を見ると、目的のものがあった。子ども一人なら楽に入ることができる。ジョセフの痙攣は次第に激しくなり、抱いているのも難しくなった。
アンはジョセフを大きな石の洗礼盤の中に横たえた。その途端、ジョセフが嘔吐し、緑色の生温かい吐瀉物がべっとりと降りかかった。あっと叫んでとびのく。ポケットからハンカチを取り出し、服についた汚れを出来るだけ拭き取って捨てた。ジョセフが洗礼盤の中で唸り始め、低いしわがれ声が不気味にこだまする。
別のポケットから、紫色のストーラにくるんだ聖水の瓶を取り出す。ストーラに口づけし、首にかける。なんとか頭を空っぽにし、祈りに集中しようとする。自分ひとりで出来るだろうか。これまで悪魔祓いの儀式はしたことがないし、ジョセフは単に病気なのかもしれない。ハイエナは常に集団で1人を襲い、他の人間は無視するのかもしれない。
しかし、アンの脳裏にこれまでの不可解な事件がまざまざと浮かび上がる。やはり、悪魔の手が、この地に、この人々に触れているのは間違いない。自分には闘う義務がある。
闘えるのか。心の中で声が囁いた。お前はただの修道女で、神学校を卒業したばかりだ。司教でも、枢機卿でもない。堕天使ルシフェルが天国から追放され、翼を焼かれて地上に落ちて以来、数千年もの間、究極の悪がこの地に浸透してきたのだ。お前に一体、何ができる。
「しりぞけ、サタン」
アンはつぶやいた。手が震えている。
「お前にあたしを惑わすことはできぬ」
そいつはどうかな。心の隅で邪悪な声が笑った。アンはそれを無視し、悪魔祓いの儀典書を開いた。
「大天使聖ミカエルよ。天の軍勢の輝ける指導者よ。高き所における、権天使と能天使、闇と邪なる霊界の支配者との戦いにおいて、我らを守り給え。神が自らの似姿として造りたまい、サタンの支配よりあがないたまいし我ら人間を救い給え」
そのとき、アンは背後に冷たい気配を感じ、ハッと振り向いた。何もない。気を取り直して、儀典書の続きを読み始める。
「主はあなたに、あがなわれし魂を天の祝福に導くよう託された。平和の神にこいねがい給え、かのサタンが我が足下に追い落とされんことを。我らはその罠から解き放たれ、教会がその毒から守られんことを。我が祈りを、神の玉座に運び給え。主のご慈悲が、ただちにかの獣、かの年を経た蛇、かのサタンと悪霊どもを捕え、鎖によって地獄の闇に追い払い給わんことを」
アンは聖水の瓶を開けた。ジョセフがうめいた。これから起こる闘争に身構え、聖水をジョセフの顔に振りかける。
何も起こらない。アンは眉をひそめ、もう一度ジョセフに聖水をかけた。水滴はジョセフの顔から吐瀉物をわずかに洗い流しただけだ。おかしい。儀典書によれば、悪魔は聖水に触れると激しくのたうちまわるはずなのだ。
背後で衣擦れの音がした。ハッと振り向いたアンの眼は一瞬で漆黒の闇に覆われた。
ヘレーネの部屋はめちゃめちゃに荒らされていた。衣類、本、タロットカードなどがそこら中に散乱している。窓ガラスは割れ、吹き込む強風が破れた蚊帳を巻き上げている。蠅の一群が飛び回り、ベッドのマットレスはズタズタに引き裂かれていた。あたりには下水のような悪臭がたちこめている。
壁には、ジョージが教会の地下で見た彫像が描かれていた。しかも描かれた彫像の胸の中心に何かがくっついている。蠅が彫像の周りに群がっている。ジョージは壁に近づき、絵が排泄物と血で描かれていることに気づいて、息を呑んだ。
《ヘレーネはどこに?これは、ヘレーネの血なのか?》
ジョージは勇気を出して、彫像の胸に手を伸ばした。腕にびっしりとたかる蠅を無視して、漆喰の壁に埋め込むようにしてねじ込まれていたものを手に取った。それは、まさしくピジクスの拓本の彫像だった。偶像は、ずしりと重かった。よく観察するために、破れたマットレスの上に置く。壊れたスプリングがギシギシと鳴る。
ベッドの上にはタロットカードと一緒に写真立てが倒れていた。手に取ってみると、銀のフレームに入った結婚式の写真だった。半分ひび割れたガラスの奥で、レース模様の白いドレスをまとったヘレーネがにっこりと笑っている。残り半分はガラスの破片に隠れていた。ジョージはガラスをフレームから取り除き、新郎を見ようとしたが、指を切ってしまった。カッとなり、フレームをベッドの柱に叩きつける。ガラスが粉々に割れて床に落ち、ようやく新郎の顔が見えた。
その瞬間、ジョージはその場に凍りついた。眩暈に襲われ、額に手をやる。心臓が激しく波打っている。
誰かの手がジョージの肩に触れた。あっと叫んで振り向くと、脇にショットガンを抱えたムティカが立っている。
「一体、ここで何があったんです?」ムティカが言った。
「教会が掘り起こされたとき、ヘレーネは中に入ったんだな?夫の・・・」
ジョージは写真をひっくり返し、ムティカの前に突き出した。
「アントン・クーベリックと一緒に」
ムティカはやや意外そうな顔つきをした。
「2人が夫婦だって知らなかったんですか?」
刹那、稲妻を浴びたようなショックがジョージの全身を貫いた。写真とフレームが床に落ちる。
「悪魔が取り憑いているのは、ジョセフじゃない!ヘレーネだ!」