1
6月14日、午後11時58分。
真壁仁は杉並区和泉4丁目の駐車場にレンタカーを停め、3階建てのマンションを見ていた。ラジオは切り、タバコも吸わない。手にした缶コーヒーの温もりだけが気を紛らわせてくれる。1時間ほど前、上岡英昭から相手が官舎を抜け出し、タクシーを拾ったという電話があった。こちらに向かったのなら、もう着いているはずだ。
直属の上司である新宿西署地域課課長代理の上岡から「ちょっと相談事があってな。今夜、合流せんか」と言われたのは昨日の夜だった。
歌舞伎町交番で午後4時までの「第一当直」を終え、真壁が居酒屋の暖簾を割ったのは、約束の時間を1時間も過ぎた頃だった。満席の店内を見回すうち、奥の小あがりで手が上がった。相談事というのはそれなりの内容らしい。
「駆けつけ3杯といくか」
上岡は、真壁が座るのを待たずにビール瓶を突き出した。真壁は会釈しながら、ジョッキにビールを注いでもらい、乾杯した。ジョッキをテーブルに置き、真壁は声を潜めた。
「で、相談事というのは?」
上岡は辺りを見回し、忍び声を出した。
「実はな、うちの署のキャリアの坊ちゃんに悪い虫がついたらしい」
真壁は瞬きを重ね、思考はすぐに行き当たった。「うちの署のキャリアの坊ちゃん」といえば、昨春に就いた刑事課知能犯係長のことだ。
キャリアの名前は、久元由夫。名前こそ思い出せたが、着任の際、眼にしただけのその顔は輪郭すらも浮かんでこなかった。
「悪い虫とは何です?女のことですか?」
真壁が嫌な予感を感じつつ言うと、上岡はふっと頼りなげな表情を見せた。
「まぁ、そんなことだろうとは思うが・・・」
「相手は分かってないんですか?」
「3日前に携帯電話でタレ込みがあった。久元が女のマンションに入り浸ってるってな。方南町の弁天橋東緑地近くのマンションだそうだ」
「女を追っ払えってことですか?」
「いや・・・女の身元、どんな奴か分かればいい」
鈍い表情ばかりを浮かべる真壁に、上岡はテーブルに身を乗り出した。
「いいか、真壁。お前が一番苦手な話だというのはよく分かってるが、よく聞け。久元の親父は、第二方面本部の本部長。今のウチの署長と同期なんだ。刑事任用試験の推薦の件だが、お前の成績なら申し分ない。署長への最後のダメ押しだと思って、やってくれ」
真壁はひとつうなづいてみせた。
「タレ込んできた人間は分かってるんですか」
「非通知で、聞き覚えのない声だった」
「で、係長の久元はどんな人物なんです?」
「とびっきりの上玉」
上岡は身分証明書サイズの顔写真をテーブルに這わせた。
可愛らしいといった形容が当たる。眼も鼻も口も小づくりで、いかにも育ちのよさそうな顔立ちだ。オールバックの髪に金縁眼鏡を掛けているあたりは、なめられまいとする内面が現れている。
「気張って乗り込んできたんだが、最初にコケちまってな」上岡は続けた。
着任早々、選挙違反事件の打ち上げがあった。本部5階の道場で知能犯担当係の面々が茶碗酒を酌み交わしているところに、一升瓶をぶら下げた久元が現れた。部下たちの間に積極的に飛び込んで意思の疎通を図ろうと、顔を紅潮させた久元は宴席の真ん中に胡坐をかき、一升瓶の首を握って勇ましく酒を注ごうとした。しかし、華奢な腕は酒瓶の重みに耐えられず、二の腕まで無様に震え、祝いの酒は久元の真新しいズボンに注がれた。
「それで、女に逃げたってわけですか」
「皆がお前ほどクールなわけじゃないさ」
そう言って笑う上岡の顔と自分の顔、久元の童顔を相互に脳裏で見比べて、こういう男たちが警察という一枚看板を掲げているのが、真壁には異様に思えてきた。
2
6月15日、午前1時33分。
気晴らしに、真壁はドアの数を数える。入居は15戸。どの部屋もワンルームか、せいぜい二間の造りだろう。建って間もないらしく、クリーム色の外観は美しい。悪い虫。当たっていそうな気がする。歓楽街に働く女たちが好んで入居しそうなマンションだ。
そのとき、タクシーが徐行しながら、真壁の車の前を通過した。後部座席に頭がひとつ。前方に身を乗り出している。運転手に道を指示しているようだ。
《本当に来やがった・・・》
真壁は身体を強張らせた。心臓が自然と高鳴った。
タクシーはマンションの前を通り過ぎ、20メートルほど先の路上でブレーキランプを真っ赤に染めた。小柄な男が降りてきた。その顔が道端に置かれた自動販売機の明かりに浮かび上がった。20歳と言っても通りそうなその童顔は、紛れも無く久元だった。眼鏡は違う。金縁ではなく、鼈甲だかプラスチックだかの茶色っぽい縁取りだ。変装でもしたつもりなのだろうか。
久元はマンションの前で辺りをうかがい、足早に外階段を上がった。2階の外廊下を歩き、右から3番目のドアを鍵で開け、中に消えた。すぐにキッチン窓の電気が点いた。他の窓はマンションの反対側で見えないから、既に女が部屋にいるのか、それともこれから帰ってくるのか、真壁は判断しかねた。
1時間ほど経つと、他の部屋には動きがあった。ひと目で水商売と分かる身形の女たちが1人、2人と帰宅してきた。3人目は男連れだった。2人ともかなり酔っていて、ドアを開けようとする女の体を男がまさぐり嬌声が上がるのを聞き、真壁は暗澹とした。
久元が入った部屋はどうだろうか。最初から女がいたとすれば、互いの体を確かめ合う時間はとうに過ぎている。
真壁は車を降りた。梅雨の湿気が体にまとわりつき、苛立ちはさらに増した。マンションの外階段を静かに上がり、久元が入った部屋のドアの前に立った。プラスチック製の表札が貼ってあった。ローマ字で書かれている。
サユリと読めた。
ドアに耳を寄せた。静かだ。中の音は聞こえない。
階段にヒールの音がした。真壁は慌てて体を翻し、外廊下を音の方に向かった。階段を上がってきた太めの女とすれ違った。足を止めずに振りむく。女は「サユリ」の部屋を通り過ぎて、奥の部屋のドアに鍵を差し入れた。
真壁は車に戻った。喉が干からびたようにかさついている。
サユリの部屋を見つめる。その眼にも水分が不足しているように感じた。眠気も襲ってきた。間もなく午前3時だ。
部屋のドアが開いた。真壁は息を呑んだ。数秒後に出て来たのは、サユリだった。久元は姿を現さない。
真壁は目を凝らした。
背がすらりと高い。肩までの髪は、茶髪というより金色に近かった。ラメの入ったピンク色のTシャツを着ている。外階段を降り、川にかかる橋を渡った。左へ曲がり、方南小学校交差点横のコンビニに向かうらしい。
左に角を曲がったのを見届けて、真壁はエンジンを始動させた。ヘッドライトは点けず静かに車を進め、サユリが入ったコンビニの前の路地に停める。
胸は豊かだが、腰の線は細い。ぴったりの黒いミニスカートを身につけ、蛇柄らしき複雑な模様が入った紫色のパンストを穿き、踵の高いサンダルをつっかけている。
サユリは雑誌を立ち読みしていた。顔が見える。真っ赤な口紅。前髪は長く、マスカラのきいた眼元に届きそうだ。年齢は20歳半ば。若いわりに化粧が濃い気がするが、美形であることは遠目からも分かる。
風俗関係とすれば厄介だ。そうした女には十中八九、ヤクザの知り合いがいる。
サユリが動いた。雑誌とカップ麺、ジュースのペットボトルをレジに差し出した。雑誌を手にした若い男がサユリを盗み見ている。胸の膨らみから露わな太腿へと視線が舐める。サユリは気づいている。男の絡みつく視線を愉しんでいる風に、真壁には見えた。
サユリは来た道を戻って部屋へ帰った。
結局、久元がアパートから出て来たのは午前4時半。部屋から呼んだタクシーに何食わぬ顔で乗り込み、キャリアの坊ちゃんの火遊びの時間はようやく終わった。
3
レンタカーを返却して新宿西署の宿直室で2時間ほど眠り、真壁は午前8時半からの日勤についた。真壁が「風俗関係かもしれない」と伝えると、上岡は渋い顔をして「サユリの身元をなるべく詳しく調べてほしい」と言った。
その日は業務が早めに終わり、真壁は何日かぶりに大井町の住まいに帰った。今年の春、北新宿にある警視庁の独身寮を出る時に、第3係の同僚だった高城一範から紹介してもらった物件だった。
都立高校の近くに立つ6階建てのマンションに入る。最上階にある自分の部屋まで階段を上がり、明かりを点ける。キッチンに立つと、とりあえずグラスを取ってバランタインを注いだ。大学時代の友人から薦められた洋酒だった。ストレートで1杯に口をつけたところへ、固定電話が鳴った。受話器を取ると、いきなり興奮した声が耳を打った。
「息子の涼太が昔、お世話になった。親子丼を奢ってもらったと、名前の入ったメモをくれたものでしたから・・・」
「どちらの涼太さんですか?」
「池内です。池内涼太です」
相手は、歌舞伎町のナイトクラブで経理をしている池内絵美と名乗った。
「息子さんは、おいくつですか?」
「15才になったばかりです。中2・・・4月に中3になりました」
真壁は突然、思い出した。去年の夏、深夜に歌舞伎町交番に詰めていたとき、近くの路上で喧嘩を起こして逮捕された中高生が数人、交番に引っ張られてきたことがあった。その中にいた中学生が1人、泣いていたので訳を聞くと、「腹が減ってる」と答えた。しょうがないなと舌打ちしながら、ポケットマネーで店屋物を取ってやった。親子丼かどうかは覚えていなかった。
母親の声は困惑しきっているような響きがあった。
「息子の涼太がちょっと前に電話を掛けて来て、ヤバいことになった、大変なことになったと言うんです。興奮していて意味がよく分からなかったんですが、アキラが死んでいて、自分が犯人されるかも知れないと言うんですよ。だから、当分は家には戻らないけど心配するなって・・・それだけで電話が切れてしまったんです」
「アキラというのは、誰です?」
「たぶん、涼太の遊び仲間だと思います。あの子の口からときどき出てくる名前です」
「男か女か、それぐらい分かりませんか?」
「いえ・・・」母親の声は自信をなくしたように小さくなった。「涼太の話は、あの子が不良になるのを認めてしまうようで、ほとんど耳を貸さないようにしていたので」
「ご主人には?」
「主人は5年前に交通事故で死にました。息子と私の2人暮らしなんです」
「息子さんが普段、行くような場所は?」
「それも分かりません。涼太は学校から不良のように言われていますが、外泊だけはほとんどしませんでしたから」
「親しい遊び仲間はどうです?」
池内絵美は黙り込んでしまった。要するに、息子のことは何も知らないようだった。思い出したように大きな声を出した。
「少年補導員に訊ねれば、あの子の友達とか行きつけの場所とかも分かるはずですわ」
真壁は池内絵美の吉祥寺駅近くの住所と、少年補導員の名前や連絡先を訊き返した。
「あの子は本当に悪いことをした時は、私には黙ってます。さっきみたいに、私に電話を掛けてくるときは誰かがやったことを自分のせいにされたり、間違いで責められたりする時なのです。どうかよろしくお願いします」
もう腹を立てる気さえ起らず、真壁は受話器を置いた。念のため、武蔵野東署と近隣の署の宿直に今夜補導された人物を確認したが、池内涼太はいなかった。テーブルに足をあげて腰を据え、バランタインをすすった。ついに中学生の人捜しまでやらされるのかと呆れながら、気がつけばぼんやりとしていた。
4
翌朝から真壁は非番の時間を潰して、吉祥寺駅前で文房具屋を営む少年補導員に話を聞いた。池内涼太が電話で言った「アキラ」に関して、少年補導員は2人の名前を挙げた。
佐竹晶と古閑明良。
佐竹晶は光専寺の近くに住んでいた。休日で家にはいたが、池内について大した話は聞けなかった。彼女は涼太と1週間前から会っておらず、よく行く場所も知らないと答えた。
鈍色の空の下、真壁は八幡宮前の交差点で右に曲がり、国道を道なりに歩いた。古閑は吉祥寺南町の「メゾン南町」に住んでいた。
高架をくぐり、レストラン近くの路地を曲がったところで、淡いベージュ色の3階建てアパートの前にパトカーが数台止まっているのが見えた。嫌な予感を覚えつつ、真壁は野次馬と新聞記者を押し退けて、立入禁止のロープをくぐった。
アパートから近づいてくる制服警官に、真壁は手帳を見せた。ジャケットにジーパンの私服姿に真壁を刑事だと勘違いしたのか、警官がさっと敬礼する。
「何があったんです?」
「は、302号室で変死体が発見されまして」
「現場、見させてもらいます」
302号室のドアに入ったネームプレートを確認すると、予想通り「古閑明良」とあった。靴が散乱した玄関に入り、ダイニング・キッチンを覗いた。誰かが家捜しをしたようだった。真壁はとっさに、床に転がった黒い帽子を掴んでいた。黒地に白で「21st Century Schizoid Man」と刺繍が入り、サイズ番号の入ったタグに「R・I」と書かれている。ひさしを中に折り畳んでジャケットのポケットに押し込むと、半開きになったトイレのドアが眼に入った。
真壁はドアの中を覗いた。死体は電灯に照らされて、汚れた洋式のトイレに腰かけていた。後ろ手にロープで縛られ、背後の壁を走る太い配管につながれていた。トランクス一枚の恰好で、その他はタオルが緩んだように首の周りに巻かれていた。
死体は不健康に痩せ細っていた。頬のそげた顔は両目が虚空を睨んだままだが、間違いなく古閑だった。開いた口の周りは吐血で汚れ、その血はタオルに染み込み、胸まで流れて固まっていた。顔面、胸部、とくに腹部に集中しているどす黒い痣は内臓破裂を推測させた。左腕の上膊部には無数の注射痕がある。ヤクの常習者であったのか。洗面所のドアのそばに、Tシャツとジーンズが丸められていたが、その上にプラスチックの破片のようなものが落ちていた。
真壁が破片を拾おうと屈もうとしたとき、背後から声をかけられた。
「おい、アンタ。誰だ?ウチのモンじゃないな」
振り向くと、年配の刑事が立っていた。真壁は手帳を見せた。
「近くを通りかかったものですから」
「ふぅん・・・」刑事はトイレの死体に顎をしゃくった。「こいつは、山手連合の三下だ。こんな風だが、いっぱしに世田谷の名門校を出てるんだぜ。世の中、歪んでるよな」
山手連合とは東京西部を縄張りとするいわゆる半グレ集団で、中流以上の家庭に育った子弟が中心となって結成されたという。
「犯歴は?」
「振り込め詐欺やら、バイクでひったくりをやるぐらいのケチ臭いチンピラだ」
「ただのチンピラにしちゃ、ひどい殺られようですが」
「ちょっと痛めつけるつもりが、死なせちまったってとこだろ」
真壁は死体に眼を走らせながら言った。
「死後、どれくらい経ってるんですか?」
「解剖してみなきゃ分からんが、おそらく丸1日ってとこだろ。昨日の夜、男が目撃されてる。この部屋から出ていくところをな」
真壁は礼を言って現場から車を出した。
その後、補導員から聞き出した池内涼太の友人や行きつけの場所を何か所か訪ねたが、池内涼太の姿は見当たらなかった。古閑の部屋で拾った黒い帽子を被りながら、真壁は「お前はいったい何をしたんだ?」と脳裏に問いかけた。
5
夜空には真っ黒な雲が広がり、遠雷の音とともに雲の切れ目に光が走った。時刻は午後8時を回った頃だった。
タクシーが真壁の車の前に停車した。後部座席に誰もいないのを確認していると、マンションからサユリが出て来た。白いワンピースに赤いヒール。ブランド物の革バッグを提げて、タクシーに乗り込んだ。出勤だろうか。
真壁はタクシーと距離を十分に取ってから、ゆっくりと車を発進させた。昼間、不動産屋にあたって意外な事実をつかんだ。203号室の借り主は久元本人だった。女のもとに通っているのではなく、女を囲っている疑いすら出て来た。
タクシーは国道14号に出ると、西永福の交差点から井の頭通りを北上した。真壁は運転しながら、脳裏の隅に池内涼太を浮かべた。古閑のマンションで昨夜目撃された男は、涼太で間違いないだろう。だが、衣類の上に落ちていたプラスチックの破片は。タクシーの後部座席にいるサユリの手元を真壁は思い出した。ネイルチップ。だとしたら、あの部屋に女もいたのか。
吉祥寺駅の北口で、サユリはタクシーから降りた。吉祥寺通りへ歩き出すサユリを見ながら、真壁も車を降りて歩き出した。サユリが交差点を右へ曲がった時、真壁はジャケットの携帯電話が震え出すのを感じた。
真壁は前方を歩くサユリの背に眼を離さず、電話を取った。相手は上岡だった。
「北新宿の独身寮で、中学生のガキが捕まったんだが・・・」
「中学生?名前は?」
「池内、涼太って名前だ。それで、お前に話があるって」
「今は手が離せません。どんな話です?」
電話の奥で誰かと少し話すような音がしたかと思うと、真壁の脇を黒いフルフェイスのヘルメットを被った男が乗ったミニバイクがすり抜けた。
「自分はアキラを殺してない。殺したのはサユリって女で、写真もあると」
上岡の言葉に、真壁は思わず耳を疑った。その瞬間、バイクはサユリの背後で速度を緩めた。そして狙いを定めるや一気に加速し、突き出した左手でサユリのバックを奪い去った。すぐ右の角を折れ、排気音を残して視界から消えた。
「ひったくりだ!」
誰かが叫んだ。酔っ払いの集団の向こう、眼を見開いたサユリが放心したように立っている。「警察を呼べ!」
「何だ?どうした?ひったくり?」
上岡に答えようとして、真壁は刹那、サユリから眼を離した。また、誰かが叫んだ。
「彼女はどこへ行った?」
真壁は路地を見回した。前方にいたはずのサオリの姿が無い。
サユリには何か警察と接触できない事情があるのか。自分が尾行していた「サユリ」が古閑を殺したのか。脳裏のバラバラな思考をまとめようとして、真壁はその場に呆然と立ち尽くした。
突然、ある考えが浮かんだ。眼元まで伸びたサユリの前髪が脳裏によみがえり、両眼の奥がかっと熱くなった。
真壁は震えた声を出した。
「久元は今どこにいますか?」
「今日は休み。千葉の実家に戻るという話だ」
真壁は路地を駆け戻り、車に乗り込んだ。荒々しくハンドルを取り回して車を出した。想像が当たっているなら、サユリは何をおいても方南町のマンションへ戻る。
数十分後、マンションが見えてきた。路地の奥にタクシーのランプが消えていった。白いワンピースが転がるように飛び出して来た。サユリだ。ブレーキでは間に合わない。脳がとっさに判断し、ハンドルで避けた。
センチの単位でかわした。急ブレーキをかけ、真壁は車から降りた。サユリは道路に倒れていた。
「おい」
呼びかけた途端、サユリは慌てて立ち上がり、両手にヒールを握って裸足で走り出した。
「待て!」
サユリが逃げる。
「待つんだ、久元!」
足音が止まった。振り向いた拍子に前髪が乱れ、太い眉毛が露わになった。
6
女装趣味。童顔が美形の女に化けた。男としては小柄で華奢な体格の久元。女にしては背が高く、腰の線の細い「サユリ」。
久元は武蔵野東署の取調室で、全てを告白した。
大学の寮での宴会。余興でやった女装が病みつきになった。幼稚園の時から3つの塾に通わされた。厳格な父。溺愛する母。名門中学での執拗ないじめ。キャリアになった。警視にもなった。だが、勇躍赴任した知能犯係の部屋は針のむしろだった。無視か、好奇の視線。猛獣の檻の中に放り込まれた小動物のように日々脅えていた。仲間は1人もいない。誰も助けてくれない。それでもキャリアは威厳を保ち、常に優秀でありつづけなければならない。息抜きだった。唯一のストレス解消法だった。久元はうなだれ、何度も同じ話をくり返した。
古閑の殺害現場にいた年配の刑事が言った。
「古閑をどうして殺した?」
久元は嗚咽を漏らしながら話した。
「あいつはどこかで女装した自分を見て、脅してきた。金を出さなければ、上司にバラすと言ってきたんだ。殺すしかなかった」
取調室の隣の小部屋で、真壁は上岡と一緒に久元の聴取を見ていた。
「調べたんだが、久元と古閑は世田谷の私立中学の同級生だ」上岡が言った。「4年くらい前に、新宿の組対が古閑をヤクの所持で引っ張ったことがあってな」
「その時、古閑はあなたの携帯番号を知ったんですね。タレ込んだのは、古閑」
取調の最後に、真壁は少し時間をもらい、「なぜ警察庁に入ったのか」と聞いた。国家公務員試験のⅠ種合格者。どこでも行きたい省庁を選べたはずだ。久元はすっかり考え込んでしまった。しばらくして、「権力というものを手にしてみたかった」と答え、またしばらくして、「ただ強くなりたかった」と言い直した。
新宿西署へ帰る車中、上岡は真壁に言った。
「サユリのマンションは見たか?」
「ええ」
マンションの部屋には、壁という壁に女物の服が吊るされていた。フローリングの床には鏡と女性雑誌と夥しい数の化粧品。組織の中でどれほどの地位を得たとしても、久元の心象はずっとこの部屋のまま変わらないのではないかと真壁は思った。
新宿西署では、地域課のオフィスで池内涼太と母親の絵美が待っていた。絵美はひたすら頭を下げていたが、涼太はけろっとした様子だった。母親から依頼があって、安否に気を揉んだ割には、あっけない感じがした。
北新宿にある警視庁の独身寮に涼太が忍び込んだのは、以前に真壁からもらったメモに独身寮の住所が書いてあったことと、半グレ集団の山手連合でも警察の寮には入って来られないだろうと踏んだからであった。
「『サユリ』はどこで見たんだ?」真壁は言った。
涼太はジーンズの上に薄地のTシャツを着ていたが、風呂に入っていないせいか、首のあたりをボリボリと掻いていた。
「何回か、アキラのマンションの近くで。2人で話してるところを見たんだ。あんまりいい雰囲気じゃなかったけど」
「どうして、『サユリ』が古閑を殺したと分かった?」
「洗面所に『サユリ』のネイルが落ちてた。ぼくは帽子落としちゃったけど」
涼太の携帯に入っていた「サユリ」の写真は、女装した久元に間違いなく、写真をプリントアウトした上でデータを消去した。
ひとしきり説教を喰らわせた後、真壁は机の上に置いてあった「21st Century Schizoid Man」の黒い帽子を投げ渡した。涼太はそれを頭に乗せてオフィスを出て行った。
真壁が「帽子を被るならきちんと被れ!また落とすぞ!」と怒鳴ると、階段の方から涼太の笑い声が返って来た。
7
その学生が刑事課のオフィスに入って来たとき、真壁は一昨日の深夜、京成上野駅正面口付近で起こった酔っ払い同士の喧嘩に関する現行犯逮捕手続書を記していた。書類の最後の欄を埋める。
『本職は、平成××年9月20日 午前10時30分、被疑者を釈放した。警視庁上野南署刑事課 司法巡査 真壁仁巡査。』
最後に判子を押す。ちょっと朱肉の付きが悪かったが、真壁は腰を浮かせ、強行犯係の係長デスクにいる平阪善明に差し出す。
「ああ、ごくろうさん」
平阪は書類に眼を通し、卓上の書類棚に収めると、真壁に言った。
「お前に客じゃないか」
真壁は背後を振り返った。黒い制服を着た学生が、落ち着かない様子で立っていた。
「ぼくのこと、憶えてますか?」
そう言われた瞬間、この学生をどこかで見たことがあると脳裏で探っていたが、ついに名前が出て来なかった。
「池内涼太ですけど・・・」
涼太は自分を見忘れた相手への不服そうで哀しげな表情を浮かべていた。真壁はその名前を聞いた瞬間に全てを思い出し、涼太を1階のロビーに連れ出した。
「だいぶ変わったんじゃないか」
数か月前は髪を薄茶色に染め、伸ばし放題だった。涼太は黒髪を清潔に短く刈った頭を撫でた。
「あの事件で悪い奴らとは切れたんです。あれからは真面目に学校に通いだして、今は受験勉強中です。真壁さんも、今は刑事ですか?」
真壁はうなづいた。
「新宿を出たのは、事件のすぐ後だった。今は講習中だ。お母さんは元気か?」
「ええ、何とか。夜の勤めなどで無理をしたせいか、ときどき身体の不調を訴えることもあるんですが、大したことは無さそうです」
「なら、早く楽をさせてあげられるようにな」
「・・・そうですね」涼太は大事な約束を思い出したように、腕時計を見てドアの方を向いた。「お昼、食べませんか?真壁さんが刑事になったのを祝って」
真壁は盛大にため息をついた。
「そう言って、俺にまた奢らさせるつもりだろ?親子丼がいいか?」
涼太の顔に笑みが広がった。
署の外に出ると、秋の風が薫っていた。真壁には、存外に心地よく感じられた。