〇捲土重来
1941年11月の天候と降雪は、ロシアの基準では比較的、穏やかなものだった。だが12月に入ると、一段と降雪と寒気が激しさを増した。この年の冬の平均気温は例年よりも低く、満足な防寒装備を持たないドイツ軍はより致命的な状況に置かれることになっていた。
ドイツ軍の各部隊は道路上に鈴なりになり、敵の爆撃や厳しい寒さを避けるために、疲れ果てた歩兵たちが掩蔽壕を掘ろうとする。しかし地面が固く凍りついているので、はじめに焚き火をしてから掘りはじめなければならない。司令部の幕僚と後方の支援部隊は、ロシアの住民を容赦なく雪の中に放り出して、かろうじてスターリンの「焦土命令」を免れた農家を接収した。
中央軍集団司令官ボック元帥は12月に入ると、もはやこれ以上の「戦術的成功」を収める望みはないと認めざるを得なかった。麾下の部隊は疲弊の極みにあり、凍傷にかかった兵士はクリスマスを迎える頃には10万人を超え、急速に戦傷者の数を上回った。どの部隊も燃料、弾薬、車両を使い果たしていき、ドイツ軍の進撃は寒さに震えながら停止に追い込まれた。
もはやドイツ国防軍は何もすることが出来ず、主導権はソ連軍に移ろうとしていた。だが、ソ連軍にも反攻のための十分な兵力があったわけではない。シベリアと極東地方から急きょ呼び寄せられた増援部隊、すなわち「シベリア部隊」はほぼすべてが、戦局の焦点となっているモスクワとレニングラードの防御作戦に投入されており、攻撃に転用できる後方の予備兵力は皆無に等しかった。
だが、11月下旬に入ると、赤軍の首脳部ではドイツ軍が酷寒による部隊の消耗と補給物資の不足により攻勢の限界点を迎えつつあり、自軍に反撃の好機が巡ってきたのではないかとの認識が生まれ始めた。
そのきっかけとなったのが、11月27日にモスクワ南方のカシーラ付近で、第1親衛騎兵軍団が敵の前線を約20キロも押し返すという思わぬ戦果を上げたことだった。この情勢を受けて、西部正面軍司令官ジューコフ上級大将はもはや敵の攻撃継続能力は失われたと判断し、ただちに正面軍規模での反攻計画の作成を、参謀長ソコロフスキー中将に命じた。
11月30日、スターリンはジューコフが提出した西部正面軍の反攻計画を承認するとともに、攻撃の規模を南北翼に少し拡大し、カリーニン正面軍および南西部正面軍をも加える形にするよう命じた。
1941年12月5日に開始を予定していたソ連軍の冬季反攻計画は、その第一に達成すべき目標として、モスクワを南北から脅かしているドイツ軍装甲部隊の「鋏」を撃退して、これを鈍磨させることであった。
まず、西部正面軍の北翼に展開する4個軍(第1打撃軍・第16軍・第20軍・第30軍)が、カリーニン正面軍の2個軍(第29軍・第31軍)と連携して、中央軍集団の北部に全面的な攻撃をしかけ、クリン、ソリネチノゴルスク、イストラを中心とする第3装甲軍および第4装甲軍の突出部を撃滅する。
これとほぼ同時に、西部正面軍の南翼を担う2個軍(第10軍・第50軍)と第1親衛騎兵軍団が、南西部正面軍の2個軍(第3軍・第13軍)および1個機動集団と協同して中央軍集団南翼の第2装甲軍を襲い、トゥーラ南方に広がる突出部を粉砕する。
この間、西部正面軍の中央部に位置する3個軍(第5軍・第33軍・第43軍)には第4軍の主力部隊を釘付けにする任務が与えられ、最終的には南北翼でドイツ軍の前線を突破したソ連軍が中央軍集団の主力を包囲することが目標とされた。
この時、冬季反攻作戦に参加するソ連軍の総兵力は、カリーニン正面軍が約10万人(戦車67両、火砲980門、航空機83機)、西部正面軍が約55万9000人(戦車624両、火砲4348門、航空機199機)、南西部正面軍が6万人(戦車30両、火砲388門、航空機79機)の合計71万9000人(戦車721両、火砲5716門、航空機361機)であったが、対するドイツ中央軍集団の総兵力は約80万1000人、配備されていた戦車台数は約1000両(修理中を含む)、火砲は1万4000門、航空機は615機と兵力的な優勢は全く確保できていなかった。
中央軍集団の諜報はソ連軍の多くの部隊が「骸骨」のようにやせ衰え、もはやスターリンには満足な予備兵力もなく、ソ連軍が新たな兵力を立ち上げるには少なくとも三か月は要するという見解を示していた。そのため実際にソ連軍の反攻が開始されたとき、ドイツ軍が被ったショックはことさら大きかったのである。
〇総攻撃
12月5日午前3時、その日の気温は摂氏マイナス15度まで下がり、積雪は1メートルにまで達していた。
カリーニン正面軍(コーネフ大将)に所属する第29軍(マスレンニコフ中将)と第31軍(ユーシュケヴィチ少将)が、カリーニン市とその周辺に展開する第9軍の第6軍団(フェルスター大将)および第27軍団(ヴェーガー大将)に攻撃をしかけた。
カリーニン正面軍司令官コーネフ大将は2個軍の攻撃開始時刻をずらす手法を取り、第31軍は午前3時に、第29軍は午前11時にそれぞれ攻勢に転じた。そのため、中央軍集団司令官ボック元帥はこの攻撃を従来と同じ「局地的反撃」に過ぎないと判断し、第3装甲軍司令官ラインハルト大将に、同軍に所属する歩兵師団のほとんどを、第9軍を救援するためにカリーニンへ差し向けるよう命じた。
ボックはこの日の日記に、中央軍集団の北翼で生じたこの出来事について、次のような記述を書き記した。
「第9軍東翼のカリーニン南東でソ連軍がヴォルガ河を越えて前進し、我が第162歩兵師団の戦区で約10キロ前進した。詳細はまだ不明」
12月6日午前6時、西部正面軍(ジューコフ上級大将)の第30軍(レリュウシェンコ少将)が、ドイツ第3装甲軍の北翼で60キロ近い前線を守る2個自動車化歩兵師団(第14・第36)に襲いかかった。この反撃も奇襲効果を高めるために支援砲撃や空爆は行われず、あたかも「局地的反撃」であるかのように、わずかな兵力のみで開始させた。
さらに南翼に展開する第1打撃軍(クズネツォーフ中将)、第20軍(ヴラソフ中将)、第16軍(ロコソフスキー少将)も同6日、ヴォルガ=モスクワ運河上のドミトロフから大量の戦車部隊を投入して、モスクワ北西の突出部に対して東と南から攻撃を仕掛けた。
これと連動して、トゥーラ東方のミハイロフ付近で第10軍(ゴリコフ中将)が同6日、ドイツ第47装甲軍団に所属する第10自動車化歩兵師団(レーパー中将)への攻撃を開始した。第10軍には戦車部隊が配属されていなかったが、圧倒的な兵力差を確保しており、ミハイロフから南方に延びる約60キロの前線をドイツ軍がわずか1個師団のみで守りきることは不可能だった。
そして中央軍集団の南翼に位置する第2軍の正面では、南西部正面軍(ティモシェンコ元帥)の第3軍(クレイゼル少将)、第13軍(ゴロドニャンスキー少将)および臨時編成の機動集団(コステンコ中将)が、エレッツの南北に展開する第34軍団(メッツ大将)と第35軍団(ケンプフェー大将)の陣地を突破してオリョールに迫った。
初日から目ざましい進撃を遂げた第13軍とコステンコ機動集団は第34軍団の2個歩兵師団(第45・第134)をエレッツの西方で完全に包囲して、戦死者と捕虜を合わせて約1万6000人という大損害を与えることに成功した。
冬季用装備の不足に悩むドイツ軍とは対照的に、最終的には「冬季戦」になることを想定していたソ連軍はフィンランドとの「冬戦争」で苦戦した教訓から、前線部隊に毛皮や綿入りキルティングの上着や白色迷彩服、防寒用の手袋にフェルト製ブーツ、耳あての付いた毛皮帽を支給しており、酷寒による攻撃力の低下を最低限に抑えていた。
通常部隊による反攻は、NKVD国境警備隊によって敵の後方地域に送り込まれたパルチザンの襲撃に大いに助けられた。凍てついた沼地や白樺、松林から防寒服に身を包んだスキー大隊や騎兵が突如として現われ、戦線の後方に控えるドイツ軍の砲兵隊や物資の補給所を急襲して混乱に陥れた。
開戦以来はじめて制空権を確保した空軍に支援されながら、ソ連軍の前線部隊は風向きが変わったことに対して、残酷に思うほどの満足感を味わっていた。吹雪と凍てついた大雪原の中では、退却せざるをえないドイツ軍の各部隊は満足な冬季用装備を持っていないがゆえに、その退却が悲惨極まりないものになることをソ連軍の将兵たちは認識していたのである。
こうして、ドイツ軍は第二次世界大戦を開始してから初めて、ソ連の「赤い首都」モスクワの前面において、戦略レベルで防勢に転じざるを得なくなったのである。
〇終わりの始まり
12月6日、中央軍集団司令部では麾下の各軍司令部から絶え間なく報告が送られてきていた。
第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将は「即座にモスクワへの攻勢の中止と、移動の足手まといとなる重装備の破壊、そして西への撤退を許可する命令をだしていただきたい」と要請し、第2軍司令官ヴァイクス上級大将からは「敵が重要地点を何か所も突破しており、部隊は重大な危機に瀕している」との悲痛な報告を行った。
第3装甲軍司令官ラインハルト大将は「麾下の装甲部隊は既に敵の圧力に晒されながら、ヴォルガ=モスクワ運河から西へ撤退中」と報告し、第4軍司令官クルーゲ元帥は「敵の圧力は自軍が対処可能な範囲を超えており、全正面で防勢に転じます」と伝えた。
第4装甲軍司令部とは連絡がつかない状態となっていたが、各種の報告を総合すると、同軍の部隊も第3装甲軍と同じようにモスクワ北西の突出部から全力で撤退していることは確実と思われた。あらゆる前線で、低温のためエンジンが作動しなくなった戦車やトラック、凍結して作動不良に陥った火砲が放棄され始めた。
これらの報告を受けた中央軍集団司令官ボック元帥はようやく尋常でない出来事が起こりつつあることを理解し、モスクワ北西の突出部を放棄して部隊を西へ撤退させるべきか否かについて、第4軍司令官クルーゲ元帥と第3装甲軍司令官ラインハルト大将と協議を開始した。
一方、モスクワ南北の広い範囲でソ連軍が総反攻に転じ、自軍の前線部隊が次々と退却していることを知ったヒトラーは、12月8日付けで「総統指令第39号」を発令し、攻撃態勢から防御態勢への速やかな転換を正式に中央軍集団に指示した。
「東部戦線には驚くほど早く厳しい冬が到来し、それに伴う補給の困難もあり、我々は止むを得ず全ての攻勢作戦を中止し、防勢作戦に転じる。この防勢作戦の実施要領は、次の3つの目的に沿って決定される。
(a)敵にとって作戦上または経済上きわめて重要な地域を確保する。
(b)東部戦線の将兵を休息させて、出来る限り体力の回復を図る。
(c)1942年の大規模攻勢作戦の再興に備え、有利な条件の形成に努める。
東部正面の主力部隊(中央軍集団)は、陸軍総司令官(ブラウヒッチュ元帥)の指示する防御に適した前線沿いに布陣し、部隊の戦力回復に努めること。その際、装甲師団と自動車化歩兵師団を優先的に後方へ下げること。防御線は雪解けの時期における宿舎、防御および補給に関する利点を特に考慮して設定すること。個々の正面における退却のタイミングは、全般的な情勢を踏まえて決定されなくてはならない。
南方軍集団は冬季であっても天候が許す限り、ドン河およびドネツ河下流まで攻撃し、同地を占領する。第11軍はセヴァストポリを可能な限り早期に占領すること。
北方軍集団は敵によるティフヴィン方面の鉄道と道路の使用を阻止しつつ、イリメニ湖周辺の戦線を縮小する。これにより、増援到着後にラドガ湖南部地域の掃討作戦が可能となる。この方法によってのみ、レニングラードの包囲環は完成し、フィンランド軍との連結も確立できる」
この命令が示す通り、ヒトラーは1941年度内にソ連を打倒する方針を棚上げにして、翌42年度の春以降に可能な限り有利な状況下で、新たな大攻勢を実施するという方針に切り替えていた。しかし中央軍集団には「防御に適した線」への退却を認めた一方で、南方ではセヴァストポリ要塞の占領を命じ、北方ではラドガ湖畔の封鎖によるレニングラードの完全包囲を諦めてはいなかった。
しかし、この「総統指令第39号」はまもなく中央軍集団の主要な司令官の顔ぶれを一変させる端緒となってしまう。ヒトラーが下した「陸軍総司令官(ブラウヒッチュ元帥)の指示する防御に適した前線」という曖昧な命令が原因で、各軍司令官の間にまたしても認識の齟齬が生まれ、やがて司令官同士の感情的な衝突にまで発展したのである。
〇奪回
中央軍集団がモスクワ前面で危機的状況に陥っていた頃、東部戦線の最南端に当たるクリミア半島では、第11軍によるセヴァストポリ要塞への総攻撃が12月17日に開始されていた。
第11軍司令官マンシュタイン大将は、この総攻撃における第1目標を「要塞(防御地点)の攻略」ではなく「港湾機能の奪取」と定め、市北東部のドゥヴァンコイからベリベク渓谷を通過してセヴェルナヤ湾に突入するという最短距離の攻撃軸に、主力の第54軍団を配置した。セヴェルナヤ湾を占領して外部から要塞への敵の補給路を断ち切りさえすれば、後は孤立した陣地を各個撃破すれば済むはずだった。
一方、モスクワの「最高司令部」は要塞の守備隊を統轄する総司令部として「セヴァストポリ防衛地域」を11月4日に設立し、司令官にはオクチャブリスキー中将が任命された。その指揮下には、沿海軍に所属する5個狙撃師団と2個騎兵師団を中心とする約4万1000人の兵力が展開していた。
12月17日、凍えるような寒風が吹き抜けるベリベク峡谷で、第54軍団は北東から要塞へ強襲を仕掛けたが、ソ連軍は依然として峡谷の入り組んだ地形やセヴァストポリ港の東に形成された要塞に布陣しており、両軍の砲弾が雨のように降り注ぐ松林の斜面でドイツ軍の歩兵師団は来る日も来る日もメートル単位でしか前進することが出来なかった。
12月22日、第54軍団の2個歩兵師団(第22・第132)はついに出撃地点から約5キロの地点に到達し、最前線の部隊はセヴェルナヤ湾まで4キロに迫った。あと一押しすればソ連軍の海上輸送路を遮断できると考えたマンシュタインは、攻勢を引き続けるよう第54軍団に命じた。
この戦況に対し、「最高司令部」はセヴァストポリ要塞に対する敵の圧力軽減と失われた領土の奪回を目指し、クリミア東部の細長いケルチ半島に大規模な上陸作戦を敢行してドイツ第11軍とルーマニア第3軍に反撃しようと準備を進めていた。
この反撃作戦に投じられたのは、8月23日に創設されたザカフカス正面軍(コズロフ中将)に所属する2個軍(第44軍・第51軍)であり、第51軍(リヴォフ少将)はケルチ半島に上陸して港を奪還し、タマーニ半島とクリミアの海上輸送路を回復するよう命じられた。第44軍(ペルブーシン少将)はケルチ半島の付け根に当たるフェードシャに上陸して橋頭堡を築き、ケルチ半島に展開する敵の退路を断ち、セヴァストポリ要塞に迫る第11軍を背後から脅かして攻撃の中止に追い込むことを目標とされた。
12月26日、第51軍は零下30度近い極寒の中、第1陣の約3000人の将兵がアゾフ小艦隊に所属する大小の輸送船に分乗して、ケルチ港の南北から上陸した。このときケルチ半島に展開していたドイツ軍は、第42軍団司令部とその所属部隊である第46歩兵師団(ヒマー中将)だけだった。
12月29日、今度はフェードシャ周辺のクリミア南岸に、第44軍の主力部隊が上陸作戦を敢行し、2日間で4万人近い将兵を陸揚げすることに成功して頑強な橋頭堡を構築した。これにより、ドイツ第46歩兵師団は東西から完全に挟み撃ちされた状況に陥ってしまった。
このままでは、第46歩兵師団が孤立して壊滅することを恐れた第42軍団司令官シュポネック中将は一刻を争うとの理由から、第11軍司令部に指示を仰ぐことなく、独断でフェードシャの西まで撤退する許可をヒマーに与え、自らも軍団司令部を畳んで西へと撤退させてしまった。
シュポネックから「事後報告」として、第42軍団がケルチ半島を放棄したことを知ったマンシュタインは慌てて「撤退中止」の厳命をシュポネックに打電し、応援部隊を要塞攻囲から抽出してフェードシャに派遣した。このときマンシュタインはあと数日あれば、第54軍団がセヴェルナヤ湾に到達できると予想しており、ケルチ半島の危機は要塞を占領した後でも十分対応できると考えていたのである。
だが、マンシュタインのこの命令が第42軍団に届いた頃には、もう既にケルチ半島からの脱出は完了していた。事態を重く見たマンシュタインはケルチ半島を奪回したソ連軍がクリミアの中心部に向けた新たな攻勢を開始する可能性を考慮し、12月31日にセヴァストポリ要塞への攻撃を一時中止にする決断を下し、ヒトラーと陸軍総司令部もこれを了承した。
〇放棄
いまや戦況はドイツ軍に対して、東部戦線全域で攻勢から退却戦へと転じることを要求していた。レニングラード一帯の北部戦域でも、11月の攻勢で生じたティフヴィン突出部に対するソ連軍の反攻が、12月に入ってさらに激しさを増したため、ドイツ北方軍集団司令部はティフヴィンの放棄と西への撤退を視野に入れなくてはならない情勢に追い込まれていた。
12月1日、北方軍集団司令官レープ元帥は第16軍司令官ブッシュ上級大将に対し、「貴軍の北翼であるティフヴィン突出部は可能な限り保持すべきだが、兵力や補給物資の不足によりそれが不可能となった場合に備えて、突出部を放棄する準備にも着手せよ」と命じた。レープは2日後、陸軍総司令部に対してティフヴィン突出部を放棄すべき時期に来ていることを警告したが、何の反応も返ってこなかった。
ソ連軍は突出部の先端に位置するティフヴィンを北西、北東、南東の三方向から挟撃しており、この小さな街を護る第39装甲軍団の人的損害は増加の一途を辿っていた。さらにこの一帯の気温は12月6日に摂氏マイナス35度を記録し、冬季用装備を持たないドイツ軍の将兵たちは絶望的な状況下で防戦を続けていた。
12月7日、ソ連第4軍(メレツコフ上級大将)はティフヴィンの外縁に到達し、レープはただちに陸軍総司令部に連絡して、ティフヴィンの放棄と第39装甲軍団のヴォルホフ河への退却を許可してくれるよう、繰り返し要請していた。
これに対し、陸軍参謀総長ハルダー上級大将は同日の深夜、次のような返電をレープに送った。
「総統は、当初の計画(ティフヴィンの保持と同地からの北への進撃)を完遂することを望んでおられる。よって、ティフヴィンの放棄と退却は許可できない」
12月8日、レープは「第39装甲軍団は2倍の敵と戦っており、このまま退却を許可しなければ間違いなく全滅します」とヒトラーに直訴した。ここに至ってヒトラーはようやくティフヴィンの放棄を許可したが、第39装甲軍団をヴォルホフ河まで一気に退却させるというレープの提案には難色を示し、ヴォルホフ河の東に広がる凍結した湿地帯で新たな防御陣地を形成するよう命じた。
この命令により、第39装甲軍団の第12装甲師団と第18自動車化歩兵師団はちょうど1か月前に占領したティフヴィンを放棄して、酷寒の吹雪のなか南西への長い退却を開始した。
12月9日、モスクワではスターリンが第4軍司令官メレツコフ上級大将と参謀長ステリマフ少将らをクレムリンに呼び出し、ティフヴィン方面での今後の作戦計画について協議を行った。その結果、ヴォルホフ河方面での作戦を担当する「ヴォルホフ正面軍」司令部が12月17日付けで創設され、麾下には第4軍・第52軍に加えて、戦略予備から第2打撃軍(ソコロフ中将)と第59軍(ガラーニン少将)が配属されることになり、正面軍司令官にはメレツコフが昇進した。
スターリンの決定に基づき、「最高司令部」はこの日、メレツコフに対して以下のような命令を伝えた。
「ヴォルホフ河西岸の敵防衛線に攻撃を仕掛け、戦線を突破した日に北西へと進撃してレニングラード正面軍と連携し、同市を包囲している敵軍を撃滅せよ」
12月16日、戦局悪化の報告を受けたヒトラーは、退却中の第39装甲軍団をヴォルホフ河の西岸に収容することを許可した。第12装甲師団と第18自動車化歩兵師団は同月22日前後にヴォルホフ河に到達したが、退却作戦中の消耗により稼動戦車台数がそれぞれ約30両にまで落ち込んでいた。
ヴォルホフ正面軍は12月30日までに、ヴォルホフ河より東方に置かれたドイツ軍の拠点をすべて粉砕し、キリシからノヴゴロドに至るヴォルホフ河の東岸に沿った線まで前進することに成功した。しかし、物資の枯渇と将兵の消耗により同正面軍に所属する各軍はいずれも弱体化し、西岸に築かれたドイツ軍の陣地帯を攻撃する余力はもはや残されていなかった。