〇「天王星(ウラノス)」作戦
スターリングラードにおける最も暗い時期を通して、モスクワの「最高司令部」と赤軍参謀本部は、戦略的な反撃計画の立案に取り組んでいた。
最高司令官代理ジューコフ上級大将と参謀総長ヴァシレフスキー大将が注目したのは、スターリングラードとその周辺を占領しているドイツ軍と同盟国軍の部隊配置だった。
ドイツB軍集団は総兵力が30万、19個師団を保有していたが、そのうち市中に投入されていたのは第6軍に所属する8個師団のみで、残りの11個師団はドン河とヴォルガ河に沿って約400キロまで伸びた側面を守っていた。それらの部隊の主力は、ドイツ軍より戦力の劣るルーマニア軍だった。
ジューコフとヴァシレフスキーは共に、脆弱なルーマニア軍の南北翼を突破して、ドン河のカラチで合流して包囲網を形成するという古典的な包囲戦を思い描いた。それが「天王星」作戦の土台となった。この包囲戦を成功させるためには、スターリングラードの防衛は必要最低限の部隊だけで消耗戦に出て、小規模な反撃を繰り返して新編成の部隊を無駄にするべきではないという結論に達した。
この包囲作戦のために、「最高司令部」は兵員約82万7300人、戦車733両、火砲9364門、航空機668機を準備したが、対峙するドイツB軍集団もほぼ同数の兵力を保持しており、全体の戦力比はほぼ互角と言えた。
「天王星」作戦の大筋としてはルーマニア第3軍(ドゥミトレスク上級大将)の北翼に南西部正面軍(ヴァトゥーティン中将)を新たに設置し、スターリングラード正面軍(エレメンコ大将)よりも1日早く攻撃を開始することが予定されていた。
南西部正面軍の第5戦車軍(ロマネンコ中将)、第21軍(チスチャコフ中将)の第4戦車軍団(クラヴチェンコ少将)と第3親衛騎兵軍団(プリエフ少将)がルーマニア軍の前線を突破して南東に回り、その間に第8騎兵軍団がドイツ軍の救援を遅らせるため、外周を薄く包囲することになっていた。
一方、スターリングラード正面軍はルーマニア第4軍(コンスタンチネスク大将)の正面に対して第51軍(トルファノフ少将)の第4機械化軍団(ヴォリスキー少将)と第57軍(トルブーヒン少将)の第13戦車軍団(タナシチシン大佐)を発進させ、ドン河のカラチで北から進撃する第5戦車軍と合流する予定となっていた。この戦線でも、第4騎兵軍団が外周を援護することとされた。
11月3日、ジューコフは南西部正面軍の将官を集めて、反攻計画に関する具体的な説明を行なった。2か月前の失敗を繰り返すまいと固く決意していたジューコフは、南西正面軍に所属する3個戦車軍団(第1・第4・第26)の司令官に対し、戦車の集中運用法を詳しく示した「指令第325号」を熟読せよと厳命した。この後、ジューコフはドン正面軍とスターリングラード正面軍の司令部でも同様の作戦会議を開き、各正面軍に成すべき目標を指示した。
モスクワの「最高司令部」は大規模な兵力の移動を偽装するため、情報工作を東部戦線全域で行なったが、前線付近では完全に隠し通せるはずもなく、一部の部隊はまもなくドイツ空軍の偵察によって探知されてしまった。攻撃開始日の1週間前に出撃予定地に到着した第4戦車軍団はドイツ空軍の空爆を受けて、250人の兵を失っていた。
さらに11月上旬に差しかかると、悪天候のために攻撃開始線の陣地を目指すソ連軍の移動は困難を極めた。3個正面軍に向けて1日1300両の貨車を動かすよう要求された鉄道システムにかかる負担は膨大で、混乱はさけられなかった。ある師団は後方の待避線で2か月半近く輸送用列車に詰め込まれたまま放置されていた。
11月9日、前線に視察を行ったジューコフは「天王星」作戦の開始日を10日間延期するよう、スターリンに進言した。主として、戦車・機械化部隊の多くが未だ全般的な兵站支援不足に悩まされているという問題のためだった。
敵がこの戦況をうまく利用して包囲から逃れるのではないかと恐れながらも、スターリンはジューコフの進言にしぶしぶ同意し、敵の配置に変化はないかと「最高司令部」にうるさく情報をせがむ他なかった。
〇ドイツ軍の認識
ヒトラーもB軍集団の指揮官たちも、スターリングラードの南北翼の弱さについては認識してはいたが、ソ連軍が計画したような大攻勢を予測することには失敗した。
当初、第4軍団長シュヴェドラー大将はヒトラーに対して、ドイツ軍の両翼を装備も士気も低いルーマニア軍に守らせることに懸念を示した。400キロ近い前線を担当していたルーマニア軍の師団はわずか7個大隊に過ぎず、火砲用砲弾の補給もドイツ軍に優先権があり、彼らの手元には弾薬の備蓄さえ無かったのである。ところが、ヒトラーは逆にシュヴェドラーを「悲観主義者」と罵倒して耳を貸さず、10月18日に彼を罷免した。
しかし、シュヴェドラーが示した懸念は解任からわずか10日ほどで表面化する。
10月29日、ルーマニア第3軍司令部がB軍集団司令部に対し、ソ連軍の兵力増強を報告した。ルーマニア軍総司令官アントネスク元帥はヒトラーに自軍が直面している危険な状況を話したが、彼はスターリングラードの陥落しか興味がなかった。
一方、第6軍情報部長ニーメイヤー中佐はルーマニア第3軍の警告を真剣に受け止め、第6軍司令官パウルス大将と参謀長シュミット少将に詳細な報告書を提出した。しかし、パウルスとシュミットはニーメイヤーの懸念を大げさなものと考え、ソ連軍が自分たちと同じような重点戦術によって、大攻勢を仕掛けてくるとは微塵にも思っていなかった。
11月6日、陸軍総司令部東方外国軍課は、ソ連軍は南部での大攻勢を行うには戦力が不足していると報告した。その約1週間後には、南部におけるソ連軍の動きはスターリングラードの鉄道線の遮断を狙った浅い攻勢を企図したものであると断定している。
対ソ諜報を担当する東方外国軍課がこうした判断を下したことは「最高司令部」の情報工作が、ドイツ陸軍内部で成功していたことを示している。晩夏から秋口にかけて、ソ連軍が北部や中央部で実際に攻撃作戦を行っていたことや、モスクワ付近に未だ多くの部隊を配置していたことが欺瞞を本当らしく見せかけていた。
ヒトラーの関心が南方へと引きつけられていた夏の時期、中央軍集団の戦区では奇妙な出来事があちこちで目撃されていた。
前線部隊からの報告によると、新規に編成されたと見られるソ連軍の部隊が、毎日のように戦線へと現れ、数日間に渡って活動した後、どこかへ移動していくという。中央軍集団司令官クルーゲ元帥は、姿を消した敵部隊は中央戦区での予備兵力に編入されたと思い込み、冬の到来と共にルジェフ付近で敵の攻勢があるだろうと予測した。しかし実際には、ジューコフの命令で前線活動の経験を積んだこれらの新編狙撃師団の大半は、鉄道でドン河南部の後方集積地へと送り込まれていたのである。
ルーマニア軍の背後にたくみに隠れていたソ連軍の戦車部隊は、3か月前の反撃で確保したセラフィモヴィチからクレツカヤに至るドン河北岸の攻撃開始線の陣地に向かって進んだ。煙幕がドン河を渡って橋頭堡に移動する部隊を包み隠す。宣伝中隊がラウドスピーカーを使って音楽やプロパガンダを流し、エンジン音をごまかした。
11月17日、前線を視察中だったヴァシレフスキー参謀総長は急きょクレムリンに呼び出された。そこで、スターリンから第4機械化軍団長ヴォリスキー少将が宛てた手紙を見せられた。その内容はヴォリスキーがこの大掛かりな反撃作戦が失敗する運命にあると考えており、攻撃を延期して作戦を根底から計画し直すよう示唆していた。
攻撃を中止する気は全く無かったスターリンはヴォリスキーに電話をかけるよう、ヴァシレフレフスキーに命じた。ヴァシレフスキーは攻撃命令が出た時、ヴォリスキーが命令通り攻撃を開始することを確認した。
11月18日の夜、第6軍司令部は翌日も戦局は変わりばえしないだろうと思っていた。第6軍の戦闘日誌はあっさりとしている。
「前線はすべて異状なし。ヴォルガ河の流氷は昨日よりも少ない」
休暇を待ち焦がれるドイツ軍のある兵士は故郷に手紙を書いた。手紙の中で「ドイツ国境から約3300キロも離れたところ」にいるという事実を思い起こしている。
〇崩壊
11月19日、ソ連軍の工兵隊は白い迷彩服に身を固め、夜を徹して雪原に埋められた対戦車地雷を撤去していた。攻撃の3時間前に、命令が伝達された。赤軍部隊は敵の後方深く襲撃を行うと伝えられた。包囲については一言もなかった。
午前7時30分、南西部正面軍の砲兵隊に「サイレン」という暗号が送られた。視界が悪いので、南西部正面軍司令部は攻撃時刻をさらに遅らせるか思案したが、ついに決断を下す。4348門の火砲とカチューシャ・ロケット砲が一斉に火を噴いた。深い霧の中から、砲の轟きが不気味に響き渡り、大地が小さく震えた。
スターリングラードにいる第62軍の守備隊にも、遠くうなる砲弾の音が聞こえた。兵士たちは上官に戦況をたずねるが、指揮官も「分からない」と答えるしかなかった。
砲撃がやむと同時に、白い迷彩服を着た歩兵が前進し、その横をT34が凄まじい勢いで後方に進撃した。どうにか砲撃をやり過ごしたルーマニア兵は必死に応戦したものの、手元にあるのは馬に曳かせた数門の37ミリ対戦車砲のみで、その砲弾はT34の装甲を撃ち抜くことが出来なかった。ルーマニア第3軍の防衛線はたちまち突破され、部隊はパニックに陥った。
午前9時45分頃、カラチの北に位置するゴルビンスキーのドイツ第6軍司令部に、ルーマニア第3軍の戦区でソ連軍の攻撃があったとの報告がなされた。しかし、この段階の情報では攻撃の規模が分からず、パウルスはさして重要なものとは捉えず、第6軍のスターリングラードへの攻撃を続行させた。
午前10時を過ぎると、雪原を覆っていた霧も晴れ、ソ連空軍の爆撃機が野戦飛行場から離陸し始めた。ルーマニア第3軍の戦線を崩壊させた第21軍の第4戦車軍団と第3親衛騎兵軍団は縦列を組み、南へ進撃した。
雪に覆われた荒野には目印がほとんどないので、ソ連軍の戦車部隊は地元住民を案内役として斥候部隊に編入させた。しかし、深い霧のため、指揮官たちはいちいち方位磁石を使って現在位置を調べる必要があった。
進撃は容易ではなかった。戦場一帯は小川が入り組んだ複雑な地形をしており、吹きだまりの雪で深い谷やくぼみが隠れてしまい、戦車乗員は激しく揺さぶられた。車体や砲塔のなかで手足や頭をぶつけて骨折する兵が続出したが、隊列は止まらなかった。
この日の午後、ペレラゾフスキーに布陣していた第48装甲軍団(ハイム中将)の第22装甲師団(ロト大佐)とルーマニア第1装甲師団(ラドゥ少将)は、ペスチャヌイで第5戦車軍の第1戦車軍団(ブトコフ少将)に襲いかかった。
しかし、第22装甲師団は装備する104両の戦車のうち約70両の戦車は、待機中に寒気を避ける目的で車体に被せていたワラの中がネズミの巣となり、車体内部の電線のゴム皮膜を噛み切られてショートするという事態で動かなかった。稼動車両が20両しかなく、装備も十分にない状態では、ソ連軍の進撃を食い止めることは絶望的だった。
ソ連軍の攻撃開始から17時間も経過した午後10時になって、第6軍司令部はようやくB軍集団司令部から、スターリングラードでの戦闘を打ち切るよう命令を受けた。
「ルーマニア第3軍地域における戦況の変化により、出来得るかぎり迅速に移動兵力の目標を抜本的に変更して第6軍の後方を援護し、後方連絡線確保の措置を取るほかない」
11月20日、第5戦車軍の第26戦車軍団(ローディン少将)は最初の目標に設定していたペレラゾフスキーの占領に成功し、ルーマニア第1装甲師団を撃破して、雪原を南東へ進んだ。ルーマニア第1装甲師団には100両近い38(t)戦車を所有していたが、これはドイツではすでに一線級の戦車ではなく、T34の敵でもなかった。
ルーマニア第1装甲師団と第22装甲師団の残兵は南西へ脱出路を開き、幸運にもソ連軍の戦車部隊と遭遇することなく、チル河流域まで逃げ延びることができた。しかし、指揮系統が分断された状態では、戦況の把握すら満足に出来ず、それから数日間、チル河西岸で彷徨うことになった。
一方、第5戦車軍の東翼を進撃する第21軍の第4戦車軍団はドイツ第11軍団(シュトレッカー大将)の後方で進路を南東に変えた。孤立したルーマニア兵は前線があった地区でなおも抵抗を続けたが、第5戦車軍と第21軍に挟まれて壊滅してしまった。
〇包囲
11月20日、スターリングラード正面軍による南翼からの攻勢が開始された。スターリングラード正面軍司令官エレメンコ大将は深い霧のために、モスクワの「最高司令部」からの神経質な電話を無視して砲撃を2時間延期させた。
午前10時に5016門の火砲とカチューシャ・ロケット砲による支援砲撃がようやく行なわれた。続いてベケトフカの南から、第57軍が第13戦車軍団を先頭に発進した。さらに南方のサルパ湖とツァーツァ湖の近くからは、第51軍の第4機械化軍団がルーマニア第4軍の防衛線を突破して、西へ第5戦車軍と合流しようとしていた。
攻撃部隊の熱狂ぶりは誰の眼にも明らかだった。スターリングラード正面軍の政治局が歓喜に満ちた部隊の様子を伝えている。「スターリングラードを守る人々が妻や子、そして将兵の流した血を敵の血で贖う、久しく待ち望んだその時が来た」
祖国を侵略されたソ連軍が復讐を果たそうと迫ってくるとともに、ルーマニア軍の崩壊は加速した。ルーマニア兵はすぐさま武器を放棄し、両手を挙げて「アントネスクはくたばった!」と叫んだ。多くのルーマニア兵が自ら左手を撃ち、パンを傷口にあてがう様子を、ソ連軍の兵士たちは目撃した。
ルーマニア第4軍の前線が突破されたことを知った第4装甲軍司令官ホト上級大将は、第29自動車化歩兵師団(レイザー少将)に反撃を命じた。第29自動車化歩兵師団は楔形の陣地を取りながら、ベケトフカの南約16キロの地点で第57軍の側面に襲いかかり、大きな損害を与えることに成功した。だが、反撃を実施している間に、ソ連の他の戦車部隊は西への進撃を続けており、レイザーはB軍集団司令部から中止命令を受け取り、西方へ撤退した。
11月21日午前7時40分、第6軍司令部はB軍集団司令部に宛てて「戦局は我が軍にとって、形勢不利とは思えない」と打電した。しかし、この直後からルーマニア軍の崩壊と自軍が赤軍の大兵力によって包囲されつつあることを示す情報が届き、パウルスは手痛いショックを立て続けに受けた。
パウルスとシュミットは北西と南東から前線を突破してきたからには、ソ連軍がカラチのドン河にかかる橋を狙っていることを察知したが、この脅威に立ち向かえる部隊は存在しなかった。また、敵戦車の大部隊が司令部から30キロと離れていない地点にいるという思いもよらない報告も入った。
この報告を受けて、パウルスは司令部を慌ててスターリングラードから12キロ地点のグムラクに移動させたが、交戦中の部隊との連絡をさらに混乱させる要因となった。司令部を移動させる間に、パウルスはシュミットとともにニジニ・チルスカヤを訪れ、同地の第4装甲軍司令部の通信網を使って戦況をより詳細に把握しようとしていた。
一方、ドン河西岸の第11軍団には陣地を守り抜ける望みはなかった。ルーマニア第1騎兵師団と第376歩兵師団がクレツカヤから南東に撤退したことにより、第11軍団の防衛線に穴が開いてしまった。第21軍の第4戦車軍団と第3親衛騎兵軍団は北と北東から陣地を圧迫して、第11軍団はドン河東岸へ撤退する他なかった。
第21軍の西翼を進む第5戦車軍の第26戦車軍団は、カラチの北西に位置するオストロフに到達していた。カラチのドン河にかかる橋は独ソ両軍の兵站に必要不可欠だったが、ドイツ軍には組織だった守りはなく、主として補給・整備部隊の小集団と野戦憲兵隊の分遣隊、空軍の高射砲隊というまとまりのない寄せ集めがいるだけだった。
第26戦車軍団長ローディン少将はドイツ軍に破壊される前に橋を奪取することにし、第19戦車旅団長フィリポフ中佐にその任務を与えた。真夜中に出発したフィリポフの小隊は11月22日の未明、カラチを目指して東へと進んだ。
午前6時、フィリポフと数名の部下たちは捕獲したドイツ戦車2両と偵察用車両1台に分乗して、ライトを付けたままドン河にかかる橋を渡った。ドイツ軍の歩哨はそのまま車両を通したが、車両の中にいたソ連兵は一斉に飛び出し、機銃掃射を加えた。橋を守っていた守備隊は蹴散らされ、後続のT34が橋を確保した。
ソ連軍がケルチになだれ込むと、市街地は部隊からはぐれたルーマニア兵であふれ、混沌たる有り様だった。まもなくして、持っているわずかな重火器は弾薬切れか使用不能になり、ドイツ軍の寄せ集め部隊は工場を爆破してから、トラックに分乗してスターリングラードにいる友軍へ合流しようと撤退した。
ニュースはたちまちドイツ第6軍司令部に届けられた。
「我が軍は包囲された!」