1
《3年後》
ミスル公国・首都カーヘラ
物乞いの子どもが入口の隙間から体をこじ入れ、鋭くバールを一瞥した。窓からは、ワラを編んだ簾をすかして強い日差しが差し込み、埃っぽい床を照らしている。安っぽい作りのテーブルとぐらついた椅子が乱雑に置かれた店内はこの時間、ほとんど空だった。じっとりとよどんだ空気の中を、蠅が飛びまわっている。
物乞いの子の眼は、隅で幼児をあやしている若い母親を通り過ぎ、独りの男にとまった。頭を垂れているので、顔はほとんど帽子に隠れている。その子はニヤりと笑い、肩から下げたボロボロの鞄を背負いなおした。中で木片がカラカラと、音を立てる。足を忍ばせて近づいて見ると、男のテーブルの上には紅茶が半分ほど入ったグラスひとつと、その脇に硬貨が適当に積み上げられている。物乞いの子はテーブルににじり寄り、そっと片手を伸ばした。
突然、男の手が硬貨の上にばたんと落ちた。顔はまだ伏せたままだ。物乞いは仕方なく曲がった歯をむき出しにして笑い、鞄を持ち上げた。木片が鳴る。
「ねぇ人形、買ってくれない?たったの10ピアストルだよ」
男が顔を上げると、物乞いはがっかりした。その顔立ちは思っていたよりも若く、年のころは10代後半といった感じだ。肌は白く、瞳は緑。
「ぼくが人形遊びするように見えるかい?」青年は言った。
物乞いはかまわず、鞄から木製の人形を取り出し、テーブルの上に置いた。ジャッカルの頭を持つ、30センチくらいの人形だ。派手な原色に塗られている。
「アビヌスだね?なんで、ぼくが死に神の人形を買わなくちゃならないんだ?」
アビヌスはミスル公国に古から伝わる神で、死者の魂を審判の場へ運ぶという。
「5ピアストルにまけておくよ。手作りなんだ。お願い、姉さんがひどい病気なんだ」
「隣のバールで元気に働いているんじゃないか」
青年は眼の前のグラスを持ち上げ、ぬるくなった紅茶をひと口ふくんだ。物乞いは動こうとしない。
「なぁ、ほっといてくれないか?」
「いやだ。じゃあ、姉さんに会ってよ。20ピアストルで」
青年は物乞いの子に眼をやった。みすぼらしい鞄にボロボロの服。ま、いいか。10ピアストルあれば、こいつの家族も少しはまっとうな食事にありつけるというものだ。青年はため息をつき、テーブルの上の硬貨を1枚、相手の方へはじいてやった。物乞いは硬貨をひっつかむと、何も言わず、逃げるように立ち去った。アビヌスだけが残った。
「聖ヴィッサリオン?」
別の声がして、青年は思わず顔を上げた。眼の前に、年配の白人男性が立っている。上等な仕立ての麻のスーツに白い帽子。銀の持ち手のついたステッキを脇にはさんでいる。
「あまり賢明とは言えませんな。鳩に餌をやるようなものだ」
「・・・」
青年はグラスに口を当て、黙っていた。
「1羽にエサをやると、100羽寄ってくる。挙げ句、頭にフンを落とされる」
「失礼ですが?」
青年は面倒くさそうに言った。人と話すのが、億劫なようだ。
男は向かいに腰を落とした。ぐらついた椅子がギシギシといやな音を立てる。
「ピジクスという者です、聖ヴィッサリオン・・・」
「その名で呼ぶのはやめてもらえますか」
「そうですか・・・なら、ジョージ・ロトフェルスさん。私はある骨董収集家に雇われてまして、先週、お手紙を差し上げたんだが」
「ああ、そう言えば」
ジョージはぬるい紅茶を飲み干し、バーテンダーに向かってグラスを持ち上げた。
「返事もしませんで」
「実はアファル大陸の東で、ある遺跡が発見されましてね。おそらく2000年前に建てられた教会なんですが・・・」
ピジクスの言葉には、聞きなれぬ訛りがあった。バーテンダーがグラスを持って来た。
店内は暑く、空気は乾いている。ジョージは2杯目の紅茶を口にふくんだ。紅茶の清涼な香りが、この街が持つすえた残飯と動物の糞尿、土埃、人々の体臭などが入り交じった臭いを、ちょうどうまくかき消してくれる。
「・・・いいですか?2000年前のニカイア帝国時代の教会なんですよ」
ピジクスがまだしゃべっていることに気づき、ジョージは眼を相手に向けた。よせばいいのにと思いつつ、考古学者としての自分がふと頭をもたげ、かろうじて答えを掘り起こした。
「それは、有り得ないでしょう。ニカイア帝国は、そんな南までは進出していない」
「それが、実際にあるのです」
ピジクスの両手がステッキの上にのっている。
「エメリア政府が発掘の資金を出しています。内部はおそらく、政府には想像もつかない、珍しい秘宝が眠っているはずだ。それを探して、持ってきてほしいのです」
ピジクスは分厚い封筒を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「ぼくに盗賊のマネをしろと?」
「いや。あなたは自分以外、何も信じられなくなった人間にすぎない。なかなか面白いお立場だと思いますがね」
「勝手なことを言わないでください。何も知らないくせに」
「そうでもありませんよ。あなたは6歳で初等教育を終え、9歳でギムナジウムを卒業。飛び級で聖コンスタンティン神学大学校に入り、考古学を専攻。12歳で、イコンに関する博士論文を発表し、教皇から表彰される。その後は教会の派遣で、宗教関係の遺跡発掘に携わった。あなたの発掘した出土品のいくつかは教皇府に展示されていて、少なくともその1点は教皇の個人資料館へ移されている。15歳のとき、教皇から侍従長になるよう要請されたが、それを拒否して司祭への道を選んだ。あなたは聖職と科学の両方に、情熱を捧げてきた」
ピジクスはやれやれといった感じで、首を横に振った。
「ま・・・それも今は昔、ですかな?」
2
ジョージは立ち上がった。背後で椅子がぐらぐらと揺れる。
「失礼・・・」
立ち去ろうとしたとき、革製の筒がテーブルの上でコトンと音を立てた。傷みがひどく、ひび割れていて、かなり古い。おそらく1800年ぐらい前のものだろう。それでも、日ごろ自分が研究している資料に比べれば、かなり新しい部類に入る。ジョージはピジクスを見やり、そして革筒を見た。中には当然、ピジクスが欲しがっている品物に関する資料が入っているのだろう。見たくない、と言えば嘘になる。
ピジクスのすました表情には眼もくれず、ジョージはゆっくりと筒を手に取り、黄ばんで端が破れかけた羊皮紙をそっと取り出した。グラスを脇によせ、慣れた手つきで羊皮紙をテーブルに広げる。埃と古い革の匂いが立ちのぼった。
木炭らしきもので描かれた黒い絵だった。正方形の彫刻か、正面が平らになった偶像の拓本のようだ。身体は人間だが、背中には翼があり、足には鉤爪がついている。獰猛な肉食獣を模した顔が牙を剥き、舌を突き出し、こちらに向かって唸りを上げている。
「アッカドの偶像ですね」
ピジクスがうなづいた。
「拓本が取られたのは1600年ほど前だが、彫像自体はかなり古い」
1匹の蠅が拓本の上を這いまわり、やがて2匹、3匹と集まってきた。バールの隅で赤ん坊が泣きだした。ジョージは手を振って蠅を払った。なんとか泣き止んでくれないものか。頭の動きは依然として鈍く、ジョージはそれをうらめしく思った。
ニカイア帝国は過去、この世界の3分の1を支配下に置いた一大国家だったが、その進出はアファル大陸の北端、ミスル公国で終わっている。だから、アファル大陸の東にニカイアの教会が見つかったというピジクスの話は、単に嘘としか思えない。一方で、拓本の彫像は明らかにアッカドのものだ。アッカドは世界最古の文明のひとつであり、それこそ何千年も昔のことだ。ニカイアとは地理的、歴史的にもつながりはない。
ジョージは拓本から眼を離し、ピジクスを見た。相手はまだ坐っている。
「アファルのニカイア教会に、なぜこの彫像があると?」
「発掘の統括者は、エヴァソにいるパーシー・グレインジャー少佐です」
エヴァソと言えば、アファル大陸の東に位置するモンヴァサ共和国の首都だ。現在、モンヴァサはエメリアの植民地になっている。
「あなたの参加は、すでに先方には伝えてある」
「ぼくが引き受けるとでも?」ジョージは声を低くした。
「もう引き受けたじゃありませんか」
ピジクスの口元には、謎めいた笑みが浮かんでいる。それがジョージの癇にさわり、むっとして両腕を組む。こいつは、教皇府の差し金に違いない。そう簡単に言いなりになってたまるか。視線が合い、ジョージはピジクスの眼の奥を探ろうとした。
「あなたは一体、何様のつもりですか?」
「恩人って、とこかな」
ピジクスは床にステッキをトンと鳴らした。
「早く行った方がいいですよ。エヴァソでは、グレインジャー少佐が首を長くして発掘現場で待ってますよ」
「引き受けるつもりは・・・」
そう言いかけて、ジョージはハッとした。
「ちょっと待ってくれ。あなたは今、発掘現場と言いましたね?すると、教会は・・・」
「そう、地中に埋まっている。言わなかったかな?ただし、もうかなりの部分が掘り起こされていると思うが。グレインジャー少佐から、大量のシャベルやつるはしが発注されていたから」
「シャベル?つるはし?」
ジョージは目を丸くした。
「とんでもない!蒸気シャベルを使わないと。ふるいやブラシは?せめて、それくらいは発注したんでしょうね?」
「それはどうかな」
「なんですって?いったい誰が現場を監督してるんです?」
「よく知らないが、担当の考古学者が降りてしまって、現地の人間だけで発掘を続けるよう指示されてるらしい。作業は順調なようです。専門家はいないが、現場監督と主任で、なんとかやってると」
ジョージは体内の血が逆流するような気がした。遺跡の発掘現場では、シャベルやつるはしは、極力ひかえめに使うのが原則だ。ろくに訓練を受けていない現地の作業員が、貴重な遺跡の周りでつるはしを振るっていると想像しただけで、嫌気がさしてくる。
ジョージはすばやく羊皮紙を巻き、革筒に戻した。
「モンヴァサへはどうやって行ったらいいですか?」
ピジクスは指示を伝え、ジョージはそれを手帳に書きつけ、革筒と封筒を手に取った。ふとテーブルを見ると、アビヌスの人形に眼がいった。口の周りに、1匹の蠅がたかっている。蠅を払い、ピジクスのほうへ押しやると、何も言わず立ち上がった。
「あなたはまだ銃を持っているでしょう?退魔師の証として」
ジョージは思わず立ち止まった。
「これを持って行きたまえ。現場は何かと物騒だからね」
「あなたは一体・・・」
ジョージが振り返ると、ピジクスの姿はすでに消えていた。テーブルの上に、回転式弾倉(シリンダー)が2、3個置いてあった。ジョージは手に取らなくても、それが何なのかは分かっていた。
神の銃弾。
3
エメリア領東アファル モンヴァサ共和国・首都エヴァソ
アン・マコーミックがカーテンを開けると、眼の前にラクダの顔があった。もぐもぐと口を動かしながら室内をのぞきこみ、口元からは緑がかった褐色の唾液がドロリと垂れている。アンはあっと息をのみ、飛びのいた。ラクダは鼻面を部屋の中にこじ入れた。唾液が床にポタリと落ちる。
アンの背後では、パーシー・グレインジャー少佐が笑っていた。
「洗礼してくれとさ、シスター・アン」
「どうやら、私を洗礼するつもりらしいわ」
アンは後ずさりし、どうしたらいいか分からず、「シッ!シッ!」と手を振った。
グレインジャーがもう一度、笑い声を上げた。
「シスター。甘い、甘い」
窓の外で叫び声がし、太い木の棒がラクダの分厚い毛をバシッと打った。ラクダは窓から顔を引っ込め、悠然と立ち去っていく。黒い肌と眼をした若者がラクダの後を追い、肩越しに叫んだ。
「すみません、シスター・アン!」
さすがは、暗黒大陸だ。アファルはエメリア語で、暗黒を意味する。
アンは首を振り、ラクダの唾液をよけながら窓に近づき、外を眺めた。道の反対側から、黒い背広に、白いシャツを着た青年がやってくるのが見えた。胸元は赤いリボンタイ。革製の旅行カバンを持っている。黒い帽子を目深にかぶっているため、表情は読み取れない。長身の体つきは、いくぶん細いように思えた。
「来ましたよ」
グレインジャーが窓に歩み寄った。
「まだ、若造じゃないか。大丈夫なのか」
「大丈夫に決まってます」
アンはむっとして言った。
「教皇からじきじきに表彰されたことある考古学者ですよ。少なくとも、以前はね。戦争前は」
アンも皆と同じように、あの“戦争”について言及するときは、何故かことさら力んだような言い方になってしまう。独裁者アメンドラ率いるグロースシュタイン帝国とエメリアとの6年に渡る世界大戦。終結してからすでに1年半が経過していたが、口にするのもおぞましい悲惨な闘いだった。
「戦時中は、ずいぶん辛い目にあったらしいです」
「あの時代は、誰だって辛い目にあったんですよ。みんな傷を治して、先に進むしかないですよ」
「神のご加護のもとに」
グレインジャーは鼻をならし、モンヴァサの地図が掛けられている壁の方へ戻っていった。頭上では、扇風機が生ぬるい空気をゆっくりとかきまぜている。
アンは窓辺に立ったまま、ジョージ・ロトフェルスが白い石畳を歩いてきて、正面玄関の階段に用心深く腰を降ろすのを見ていた。ジョージは革のケースを開け、何か巻物のようなものを取り出して広げ、じっと見ている。アンは自分が無意識に、ジョージに向かって短い祈りの言葉をつぶやいているのに気づいた。
「伍長!」グレインジャーは声高に命じた。「ジョージ・ロトフェルスを通せ!」
ジョージは公邸の玄関先に坐っていた。あまり長く待たされないよう、祈り始め、それから祈るのを止めた。前庭には2本の旗竿が立てられ、エメリアの国旗と教皇府の紋章を染め抜いた旗が、生ぬるい風にゆったりとはためていた。その向こうにはみすぼらしい灌木が点在する、起伏のゆるやかな平原が連なっている。
ミスル公国の首都カーヘラから南へ下る1週間の旅をようやく終え、埃まみれでエヴァソに着き、そして今、ピジクスから受け取った拓本をじっと見ている。
ライオンの頭が、悪意に満ちた嘲笑の眼でこちらを見返している。1匹の蠅がその顔を這い、突然、ジョージはそこから眼をそむけたくなった。ジョージは拓本を巻き、革筒に戻した。
そのとき、舗道に軍靴の音が迫り、ジョージは思わず顔を上げた。エメリア軍の兵士がジョージの傍らを過ぎ、街の方へ向かって進んでいく。規則正しい足音に、曹長の号令が飛ぶ。汗が褐色の軍服を黒く染め、焼けつくような太陽の下で兵士の顔がギラギラと光っている。
「しっかり歩け、このウスノロども!」曹長が怒鳴る。「1、2、1、2!」
熱風が吹きあがり、砂埃がジョージの顔と首に叩きつけた。なぜか砂埃は冷たく、煙った雨のようだ。
今日は休みなのか?街へお買い物にでも行くのか?(ハスト・ドゥ・デン・ウアラウブ?ゲーエン・ヴィア・イン・ディ・シュタート・フィーライヒト・アインカウフェン?)
突然、異国の言葉がジョージの耳を突き、兵士たちの黒い軍靴が狭く高い家並みの間を抜け、石畳を進軍していく。ジョージは記憶と現実の狭間にとらわれ、体を前後にぐらぐらと揺すった。
肩に誰かの手を感じ、ジョージはハッと我に返る。身を翻すと、背後にアメンドラ党の兵士が立っている。一瞬の後、視界が崩れ、アメンドラ党の兵士の姿は若いエメリア人伍長に変わった。グレインジャー少佐の部下だ。
「ロトフェルスさん。少佐がお待ちです」
ジョージはあわてて呼吸を整えた。
「ありがとう」
伍長の後に続いて、グレインジャー少佐のオフィスに入っていく。黒っぽい板張りの部屋で、床には薄い色の織物が敷いてあった。グレインジャーは机の前に坐っていた。ジョージは革筒を脇の下に挟んだ。
グレインジャーの態度は、まさに“領主”という言葉が似合いそうなくらい、ふてぶてしかった。モンヴァサのこの一帯を領地よろしく支配し、もともと地元住民のものだった土地を勝手に分割し、エメリア人に分け与えているのだ。
こうした行為は当然、現地民との間に深い恨みを残した。エメリア側の横暴に対抗し、どこかの部族が蜂起しない年はなかった。しかし、圧倒的な武力をもってして、エメリア政府は蜂起の萌芽をことごとく摘み取ってきたのである。現地民の間では、もはや部族同士の対立を越え、一致団結して憎きエメリア人を自分たちの大地から追い払おうという機運が高まっていると、ジョージは聞いていた。
白い肌の憎きエメリア人。その代表が、グレインジャー少佐だった。電気のある暮らし、上等の服、贅沢なご馳走。植民地政府の官吏たちは高い税金を徴収し、法外な地代を巻き上げる。税金や地代が払えない者は軍に徴集され、召使や料理人として働かされる。土地を奪われた地主たちは困窮し、飢えた。救いを求めて直訴すれば、自由のない労働契約を押しつけられる。
地元民に対するそうした圧政を眼にする度、ジョージの血は怒りにふつふつと沸き立った。しかし、このような連中に対抗することは無駄であり、時には危険だということも、身に染みて知っている。学問の世界にひっそりと隠れている方が、ずっとたやすかった。
4
「ロトフェルス神父、アン・マコーミックと言います」
グレインジャーの横から、聖職者の黒いワンピースを着た若い修道女が言った。背がジョージの肩ぐらいまでしかなく、細面の顔に大きな黒い縁の眼鏡を掛けている。見覚えのない顔だった。
「お会いできて本当に光栄です。あなたの論文はすべて読みました。シスター・アンと呼んでください」
アンが片手を差し出した。ジョージはいささかたじろいだが、埃まみれの手でしっかりと握手を交わした。
「どうも、初めまして。シスター・アン」
「で、こちらはグレインジャー少佐」
「よろしく」
ジョージは軽くうなづいた。
「いや、またとない時に電報をいただきました。とりあえずお茶を1杯、いかがですか?」
グレインジャーが机の上に置かれた呼び鈴を鳴らすと、黒人の召使が入ってきて、紅茶の用意をし始めた。その間、ジョージは周囲の壁にずらりと並んだガラスケースに眼をやった。ラベルを貼った白い台紙に、ピンで留められた色とりどりの蝶が翅を広げている。
「少佐が鱗翅類学のご専門家とは知りませんでした」ジョージが言った。
グレインジャーは驚いた顔をし、アンと眼を合わせた。
「ほう・・・よくその言葉をご存知ですな」
ジョージは標本に近づいた。明るいオレンジの翅に、太く黒い縞。ラベルには「CALLIORATIS MILLARI:南アファル」と記されている。ジョージは息をのんだ。
「これは、南アファル・ヒトリガですね。ここ25年は発見されてないという・・・」
「そうです。これが、ほとんど最後の1匹ということになるでしょう」
グレインジャーが紅茶で満たされたカップを手に取り、ジョージとアンに手渡す。
「子どもの頃からの趣味でしてね。実に心が癒されます。お試しになられては?」
「ぼくにも趣味はありますから」
ジョージは紅茶をゆっくりとすすった。
「考古学がですか?」アンが言った。「それは、あなたのような方には趣味とは言えないでしょう」
「ぼくのような人間には、趣味でしかないんですよ。ところで、今回の発掘というのは?」
グレインジャーはうなづいた。
「現場はデラチといい、トゥルカナ地方のはずれにあります。数か月前、駐屯兵が遺跡を発見したのです。当局がその価値に気づき、発掘を決定したわけです」
「当局というのは?」
「教皇府です」アンが言った。「遺跡は明らかに教会ですから、処理に間違いがあってはならぬと」
「あるはずのない場所で見つかった教会だとしても?」
「だからこそ、です」
「教会を建てたのは誰かという問題ですが、何か仮説でも?」グレインジャーが勢い込んで聞いた。どうやら、ジョージを信用し始めたらしい。
「実際にこの眼で見るまでは、分かりません。しかし、当然、教皇府にはこの教会の記録が残っているのでしょう?」
アンが首を横に振った。
「それが、実はないんです。まったく、何の手がかりも」
「教会だという確証はあるんですか?たとえば、寺院とか、他の建造物かもしれない」
「すでに発掘された部分を見れば、その点ははっきりしています。明らかに、教会です。間違いありませんわ」
「しかし・・・ありえないことです」
ジョージは思わずつぶやき、考え込んだ。平静を装おうとしているのだが、どんどん話に引き込まれていく。
「教会の宣教師がアファルのこの辺りまでやって来たのは、ほんの最近のことでしょう。教会が進出したのは、たかだかこの十数年。考古学的な記録が残るはずもない」
「あたしたちも全く同意見です。とにかく、発掘を引き継いで下さるという連絡を受けて、ほっとしました。ちょっと、困ってたんです。考古学者を探すと言っても、この辺りじゃ、そう簡単にいかないですし、教皇府が発掘を続けるようにと言うので、ここしばらく監督なしに作業を続けていました」
ジョージの胃がまたチクチクと疼いた。一刻も早くここから飛び出し、現場へ駆けつけてダメージを最小限に食い止めたい。
「現場にはもういらしたんですか?」
ジョージはアンに訊いた。
「まだ報告書を読んだだけです」
「では、こちらでのシスターのお立場は?」
アンは紅茶のカップをグレインジャーの机に置き、咳払いをした。
「あたしはトゥルカナ地方で布教活動をする予定なんです、ロトフェルス神父。これはちょっと申し上げにくいんですが・・・教皇府はこうした発掘を、その・・・休職中の神父に任せるのはちょっと、心配だとおっしゃって。教会の人間が発掘現場にいるように、との指示なのです」
どうやら状況はジョージにとって、次第に好ましくない方向に向かっているようだ。
「どういう権限で?」
「教会のオブザーバーということです。宣教活動をしながら、聖なる遺跡がきちんと扱われるよう、確認するという役目です」
「教皇府はその点、ぼくを信用していないんですね。いや、お答は結構。教皇がぼくをどのように評価しているかは、知っていますから」
「神学大学校では、最高の考古学者として評価されてますわよ。ロトフェルス神父」
ジョージがきっぱりと言う。
「神父は止めてもらえますか。ジョージと呼んでください」
アンはたじろいだ。
「あなたも考古学者なのですか?」
「一応・・・学位は取りました」
「これまでに発掘のご経験は?」
「二度ほど。イール・シャロームとバイトゥル=マクディスで」
どちらもジョージが過去、遺跡の発掘作業を行ったことのある聖地だ。
「神学生のときに?」
「・・・ええ」
「発掘を監督したことは?」
アンは口ごもった。
「厳密に言うと、ありません。バイトゥル=マクディスでは、第二助手でしたが」
ジョージが不審そうに眼を細めた。経験から言って、“オブザーバー”というのは、とにかくどこにでも口を出し、問題を起こす連中のことだ。第一、アンには発掘に使う道具の区別すらつきそうにない。現場では、たったひとつのミスで至宝が永久に失われてしまうこともあり得る。経験を積み、知識を持った専門家でさえ、時には失敗を免れない。こんな大事な現場を未経験の人間に任せるとは、聖杯を幼児に渡すようなものだ。アンは人が好さそうだが、現場に行けば、どうなることやら。
「では、さっそく現場に向かうとしますか。早いに越したことはないですから」
「おっしゃる通り」グレインジャーが言った。「主任のムティカが、トラックで現地まで案内します。デラチに着いたら、とりあえずディック・モーガンという人間を探してください。前の考古学者がいたときからずっと働いている唯一の白人でね、後任が見つかるまでしっかり現場を見張っておくよう、言ってあります」
「そのモーガンは今、現場に?」
「聞くところによると、たいてい地元のバールにいるらしい。連絡を待ってますよ」
ジョージはグレインジャーに礼を言い、アンとともに公邸を後にした。
5
エメリア領東アファル・トゥルカナ
2台の車がゆっくりと東アファルの大地を進んでいく。白い雪を頂くモンヴァサ山の周辺は豊かな緑と赤土に覆われているが、北へ向かうにつれ、地形は次第に荒削りな黒土の丘陵へと変化していった。やがて丘は低くなり、いつしか荒れ地のなかに起伏がすっかり埋没してしまうと、眼の前にはトゥルカナの広漠たる砂地が広がっている。
トゥルカナは砂漠地帯であるが、低木の茂った岩場や峡谷の谷間にアカシアの木が点在している。2台の車は干上がった川床を駆け、川岸に沿って椰子が並んでいる。
2台目の車はローヴァーだ。前を行くのはトラックで、資材や食料の他に道中で拾ったヒッチハイカーを満載していた。
ローヴァーに載ったアンは最初のうち、トラックが人を載せる度にちょくちょく止まり、そのために移動が遅くなっているので苛々していた。とにかく早くデラチに着いて、あるはずのない教会を見たくてうずうずしているのだ。
そんなアンを、ローヴァーを運転するムティカが手短にたしなめた。ムティカは長身の屈強なアファル人で、小さな眼とあけっぴろげな表情をしている。彼によると、車の少ないこの地では、交通手段を必要としている人を無視することは、この上ない非礼に当たるのだと。ムティカのエメリア語は、ほぼ完璧だった。
一方、ジョージは移動中、必要なとき以外はほとんど口をきかなかった。アンはいささか落胆していた。神学生の時にジョージの著作はすべて読み、彼の発掘に関する論文まで2本も書いた。今回、会えるのをどんなに楽しみにしていたことか。そのジョージが今、自分の眼の前に坐っているのに、ほとんど相手にしてもらえないのだ。
ローヴァーが川床のこぶにガツンと乗り上げ、3人は頭を天井に打ち付けそうになった。顔をしかめながら、アンは窓の外を指し、ムティカに言った。
「昔、この地に鉱山があるって聞いたんだけど、あの丘のあたりかしら?」
「以前はね。今はすべて閉鎖されてます。デラチも昔はずいぶんにぎやかでしたよ。金を求めて、エメリア人がどっと押し寄せてきましたから」
「あなたは金鉱で親方だったんですって?」
アンの問いに、ムティカはうなづいた。
「そこで、エメリア語を覚えました」
「今回の現場では、どのくらい働いているの?」
「発掘が始まったときから。エメリア側に通訳として雇われたので」
「今のデラチはどんな様子なの?収入源とか、商売はあるの?」
「ヤギと牛とラクダを飼ってます。それと、井戸。金が発見される前は、商人たちは水を求めてデラチにやって来たもんです。今まで来ますが、井戸の何本かが採掘で汚染されてしまったので、昔ほど多くありません」
アンは驚いて尋ねた。
「水は湖から引いてるんじゃないの?」
「湖は塩水なんです。生活は苦しいけど、みんななんとかやってますよ」
それから1時間、2台の車は川床を離れ、デラチの郊外にたどり着いた。ジョージ、アン、ムティカの3人はローヴァーを降り、長旅で疲れた手足を伸ばした。頭上では太陽が空を焦がし、空気はまるで息を詰めたように静止している。前方ではヒッチハイカーたちがドヤドヤとトラックを降りてくる。アンは強烈な日差しに眼を細め、周囲を見回した。
「どうしてここに止まってるのかしら?まだ街に着いてないわよね」
ジョージがヒッチハイカーたちの方を指さした。皆が道の脇の何かを見つめている。
「みんな、見物したいらしい」
アンがそちらに眼を細めると、突然、荒々しい唸り声が響いた。ハッとしてそちらを見ると、みなの注目を集めているものが眼に飛び込んできた。
近くの草地に、赤いサロンを身に着けたトゥルカナの部族民が集まっている。その輪の中央に、杭につながれた黒い雄牛がいた。雄牛の尻に何やら赤いマークが描かれ、角の先端は金色に塗られている。
男たちは色とりどりに塗られたビーズや羽根飾りつきの長槍を手に、雄牛の周りで儀式に則って踊っていた。突然、男のひとりが雄牛の脇腹にぐさりと槍を突き立てた。雄牛は怒りと痛みに鋭い咆哮を上げ、激しく頭を振って角を突き立てようとするが、男はすでに踊りながら脇へ飛びのいている。雄牛が大人しくなったところで、別の男がまた忍び寄り、2本目の槍を突き立てる。
雄牛は悲鳴を上げ、口から泡を吹く。アンはショックで青ざめた。
「なぜ、あんなひどいことを?」
「あれは生贄です。族長のセビトゥアナの妻の出産が近づいているので、神々に生贄を捧げ、男子の誕生を祈るんですよ」
ムティカがそう言うと、踊っている男たちの傍らに立つ、やや長身の男を指さした。族長なのだろう。孔雀の羽根のような見事なかぶりものを頭に着け、裸の胸に両腕を組んで立っている。
「なんて野蛮だなんて、思ってるんですね」
「善良な人々が道に迷ってるだけでしょう」
アンが注意深く言葉を選ぶと、ジョージはやれやれといった感じで首を横に振った。
「それが宣教師の困ったところです。文化の相違と無知を混同してしまう」
「残虐行為は常に無知の成せる業です、ロトフェルス神父。よりによって、あなたがそれを知らないはずがないでしょう」
アンは抑えきれずに思わず言い、相手の反論に身構えた。だが、ジョージはしばらくアンの顔を見つめ、それからただうなづいただけだった。
さらに槍が突き刺さった。雄牛はまた咆哮を上げ、がっくりと前足を折った。すると、長身の男が1人、雄牛の背に飛び乗った。男が眼にも止まらぬ早業で、手にした半月刀を雄牛の喉に振り下ろし、あっという間に飛びのくと、雄牛はどうと地面と倒れた。族長が満足そうにうなづく。さらに2人の男が土器の桶を手に駆け寄り、雄牛の傷口から噴き出す血を受ける。アンは吐き気を覚え、ムティカに向かって言った。
「まさか、あなたはこの迷信を信じてるわけじゃないわよね?」
「私は、白人から学ぶことは多いと思ってます」
ムティカは礼儀正しく言った。
「で、あの人たちはどうなの?」
アンは雄牛の血を採っている男たちを指さした。
「連中は、白人が災いを運んでくると思ってます」
「何だ、あれは?」
ジョージが大股でその場を離れた。アンが慌てて後を追い、ムティカも続いた。ようやく追いつくと、ジョージの眼は地面の上に釘つけになっている。
6
「どうしたの?一体、何が・・・」
ジョージのそばに立ってみると、アンにもジョージが見ているものが飛び込んできた。眼の前の地面には浅い窪地が広がっていて、何列もの白い石の十字架がずらりと並んでいる。数百はありそうだ。ジョージが明らかに落ち着かない様子で、帽子をかぶり直した。アンは生唾を飲み込んだ。
「ここで何があったんだ、ムティカ?」ジョージが言った。
「疫病です」
ムティカは落着きはらって言った。
「50年前、この谷の村落は疫病で全滅したんです」
「どのくらい、死んだ?」
「全員です」
「もうトラックに戻りましょうよ。その・・・資材も積んでるし・・・」
アンの言葉に、ムティカはうなづいた。
「村の人間が資材を盗むかもしれないってことですか。まぁ、心配はごもっとも。最近はみんな貧しいからですね」
立ち去り際、ジョージはアンに最期の秘跡をするようにと言った。すると、アンが落ち着き払って応えた。
「あなたは今でも神父でしょう?」
「ぼくはもう神父ではないよ」
「これまで、修道士の誓願を破ったことはありますか?」
「いや・・・教会には行ってないが」
「枢機卿に辞表を提出されましたか?教皇に、平信徒になりたいと願い出たことは?」
「・・・」
「では、神と教会の眼から見れば、あなたは今でも神父ですわ」
アンの態度に、ジョージはむかむかし始めていた。
「シスター・アン、あなたがいくら理屈をこね回しても、ぼくを説得することは出来ないよ。神と教会は・・・」
そう言いかけて、ジョージはその先が言えなかった。過去の記憶についた古傷がずきずきと疼きだし、どくどくと血を流し始めていた。
「神と教会は、何です?」
「何でもない。とにかく、ぼくは神父じゃないんだ。だから、周りにぼくが神父だというのはやめてもらいたい」
トラックに戻ると、ヒッチハイカーたちは雄牛を切り分けている男たちの周りに集まっていた。蠅がすでに分厚い雲のように群がり、年配の男が子どもたちに大きな葉っぱを手渡して、蠅を追い払うように指示している。異国の言葉と怒ったような蠅の羽音が3人の耳に渦巻いた。
ムティカが何回かエンジンをかけ、ローヴァーはやっとのことで息を吹き返した。ジョージとアンが乗り込み、車は村の敷地内へと入って行った。
デラチはさびれた田舎町だった。村の外縁を囲んでいる泥壁に藁葺き屋根の家並みを過ぎると、レンガと漆喰を使った建物が軒を連ねている。2台の車は徐行しながら、町の広場へと向かった。メインストリートには、かつて金鉱夫やエメリア人で賑わっていたレストランやバールが並んでいるが、今は訪ねる客もない。
ローヴァーが止まると、ジョージは地面に降り立ち、体を伸ばした。3日ぶりに跳んだり撥ねたりしないところに立てるのがありがたかった。小さな古ぼけた2つのスーツケースを手に取る。もはや聖職者として清貧に身を尽くす立場でもなかったが、戦後から今まで各地を放浪したおかげで、金回りがよかったためしはなかった。
そのとき、眼の前の建物から白人の女性がタオルで両手を拭きながら出てきた。肩まで伸ばした黒髪を束ね、白衣を着て、首に聴診器をかけている。その容姿を見た途端、ジョージはショックで身体が凍りついた。
―姉さん!
女性はジョージとアンに軽く会釈し、まっすぐムティカに歩み寄った。
「おかえりなさい。荷物は?」
「トラックに積んであります。全部そろってますよ。ジョセフ、ドクターの荷物を運んでくれ」
女性の後ろから、現地人の少年が顔を出す。7、8歳といったところか。茶色の癖毛に細い腕。まじめな顔つきをしている。ジョセフと呼ばれた少年はうなづき、トラックの荷台へと走って行った。
どうやら女性の方から自己紹介してくれそうにないので、ジョージはスーツケースを下ろし前に進み出たが、先に手を差し出したのはアンの方だった。
「アン・マコーミックです。シスター・アンと呼んでください。こちらは・・・」
「ジョージ・ロトフェルスです」
「ドクターのヘレーネ・ノイマンです」
ヘレーネはそう言って、2人にそれぞれ握手した。
「女医さんですか?」
アンは驚きを隠さずに言った。
「その質問は、もう聞き飽きました。ええ、私は医者です。ちゃんと医大を出ましたし、専門は内科です」
「これは失礼しました」
「発掘の引き継ぎにいらしたんですか、シスター・アン?」
「いえ、私は教会の代表でして。発掘は・・・」
ジョージはその先を言わせなかった。
「ぼくはシスター・アンの助手なんです」
「なるほど。ムティカ、私宛に手紙はあった?」
ムティカは胸ポケットから1通の封書を取り出してヘレーネに手渡し、ジョージとアンに言った。
「デラチには、ホテルは1軒しかありません。そこで食事もできます。こちらです」
ジョージはヘレーネに失礼、というふうに視線を送った。ヘレーネの顔は無表情で、まだジョージに対する評価は定まっていない様子だった。ただ少なくとも、嫌われたということは無さそうだ。なぜか、それがとても大事なことに思われる。スーツケースを手にムティカを追っていくと、アンもスーツケースを二つ提げて続いた。1つはやけに重そうだ。辞書か何かでも、詰め込んできたのか。
7
ムティカは板張りの歩道から、ある建物の中へと入って行った。ドアの上には、下手な手書き文字で「カマラ・バール&ホテル」と書かれた看板が下がっている。
建物の中に入ると、一瞬、眼がくらんだ。強烈な日差しの下を歩いた後で、室内は闇の中のようだ。辺りには気の抜けたビールの匂いがたちこめ、外に比べるとだいぶ涼しい。次第に眼が慣れてくると、木製のテーブルやカウンターに座っている客がちらほらと見え始めた。ジョージは帽子を取った。
カウンターの中では、大柄な黒人のバーテンダーがグラスを洗っていて、12歳ぐらいの少年が店内の床を掃いている。3人が入って行くと、バーテンダーが顔を上げ、愛想良く笑った。少年が掃除の手を止め、新しい客をじっと見た。
「ムティカ、そしてみなさん!ようこそ、我がホテルへ。お部屋をお探しで?」
「ええ。その前に、ディック・モーガンさんを探しているんですが?」ジョージは言った。
「後ろの、その隅にいますよ」
ジョージが振り向くと、独りの男がうずくまっていた。ジョージはドアのそばにスーツケースを置き、男に歩み寄って手を差し出した。
「ジョージ・ロトフェルスといいます。新任の考古学者です」
モーガンは身を乗り出し、ジョージの手を握った。そのとき、相手の顔に光が当たり、ジョージはぎょっとして身を強張らせた。
モーガンの顔は一面、ブドウの粒ほどもある赤い大きな腫れ物に覆われていた。膿んでいるものもある。一瞬、腐った肉の臭いが鼻をかすめた。胃がゆっくりと痙攣し、吐き気がこみ上げる。
「まだ、ガキじゃねぇか。いくつだ?」
「18歳です」ジョージは気を取り直し、平静を装って手をひっこめた。「座ってもいいですか?」
「別にかまわねぇよ」
ジョージは帽子を椅子の背にかけ、腰を下ろした。相手の顔をじろじろと見ないように気をつかった。テーブルには、スコッチのボトルとグラスがひとつ置かれている。
「教会のドームを掘り出した後、多少時間がかかっているようだが」
「そんなとこだな」
モーガンはジョージの背後に視線を投げた。
「ねぇ、ドクター?」
ジョージが振り向くと、いつの間にかヘレーネがバールの入口に立ち、アンと話している。ヘレーネはモーガンの声に顔を向けた。
「何の話?」
モーガンはヘレーネに、ボトルを持ち上げた。
「先生、ちっともおれの部屋に寄ってくれないじゃないか。夜になると、顔が腫れるんだよ。何か顔につける薬はないかね?」
「くつわなんか、どう?それとも、切開しましょうか?」
モーガンが大声で笑い、再びスコッチをあおった。ジョージは咳払いした。
「で、内部の発掘はどんな様子ですか?」
「まだやってない」
「やってない?建物が崩れたんですか?」
「いや、教会は今のところ完璧さ。だが、誰も中に入ろうとしねぇ。少なくとも、今残ってる連中はね」
ボトルに残ったスコッチを飲み干し、モーガンはげっぷをした。
「これからすぐ現場に出かけるが、一緒に行ってみるかね。車ですぐのところさ」
モーガンは立ち上がり、ヘレーネに視線を送ると、ふらふらとドアから出て行った。入れ替わりに、ジョージの前にヘレーネが腰を下ろした。
「モーガンのあの顔は、どうしたんですか?」
「そもそも、あの顔が首にくっついてるのが間違いね」
ヘレーネは不愉快そうに言った。
「正直、原因は分かりません。ただ、検査に来る度にヘラヘラして、服は脱がなくていいのかいとか聞くので、まだちゃんと診察してないんです」
「何かのアレルギーか、局所的な感染症のようだが」
ヘレーネは一瞬、眼を丸くしてから「あなたは嘘をつくのが下手ね」と微笑んだ。
その微笑みに思わずドキリとしてしまい、ジョージは咳払いして、気を取り直した。
「それで・・・どうして現地の人たちは、教会の中に入らないんでしょう?」
ヘレーネは肩をすくめた。
「悪魔がいるから。あの人たちの言葉を信じるなら」
「信じますか?」
「いいえ、医者ですから」
ヘレーネは笑い声を立て、つけ加えた。
「でも神父さんは、もちろんそういう存在を信じてるのでしょう?」
「ぼくは考古学者です。神父じゃない」
ヘレーネは首をかしげた。
「あら、変ね。シスター・アンから、そう伺ったばかりなのに」
ジョージはさっきまでの苛立ちがまたぶり返してくるのを感じた。そのとき、まじめな顔つきをしたジョセフが駆け込んできた。
「ノイマン先生!箱は診察室に運びました」
「ありがとう、ジョセフ。助かるわ」
そして身を翻して駆け出そうとし、こちらへ向かって歩いてきたアンとバーデンダーにぶつかりそうになった。バーテンダーはジョセフの肩に手を置いた。
「気を付けて。店の中では走っちゃいけないよ」
アンがバーテンダーを指し示した。
「こちらは、カマラ。ミッション・スクールのために、ホテルの部屋を提供して下さるんです」
カマラはジョージに手を熱心に握った。
「みなさんが来てくれて、本当に嬉しい。カマラといいます。このバールとホテルを経営してまして、これが息子のジョセフ。もう1人・・・」
カマラは床を掃除している少年を指し示した。
「あれがルイスです。2人には、儀典書を勉強させます」
カマラは身を乗り出し、白い歯を剥き出してにっこり笑った。
「うちの家族は全員、洗礼は受けました」
「それは、シスター・アンも嬉しいでしょう」
ジョージは曖昧に答えた。
そのとき、外でクラクションがやかましく鳴り、小さなアカゲザルがバールに飛び込んできた。眼にも止まらぬ速さで床を走り抜け、猿はジェームズの肩によじ登った。
「モーガンだわ」ヘレーネが言った。
「あの猿が?」
ジョージが真顔で言うと、ヘレーネはジョージの肩を叩く真似をした。
「外で待ってるジープよ。カマラ、ジョージとシスター・アンは出かけなくちゃならないわ。荷物、見ててあげてくれる?」
「もちろんです」
再び、クラクションが苛立たしげに鳴った。ジョージは立ち上がった。
「ではまた、ドクター・ノイマン。シスター・アン、行きますか?」
ジョージはアンには眼もくれずに言うと、帽子を手に取り、大股でバールから外へ出た。強烈な午後の日差しが照りつけ、慌てて帽子を被る。外はまだ灼熱地獄だ。
モーガンはかなり苛々した様子で、バールの前に止めたローヴァーに坐っていた。ローヴァーの後ろには発掘用の資材を積んだトラックがいて、運転席にムティカがいる。
「出発しますぜ」
モーガンが叫んだ。日なたで見ると、その顔はいっそう恐ろしく見える。
「行こう」
ジョージは助手席に乗り込んだ。後からついてきたアンが後部座席に座った。
8
ローヴァーは曲がりくねった丘陵地帯を抜け、岩の多い平地へと向かっていく。地平線の辺りでルドルフ湖の湖水が光り、塩水の金気くさい匂いが鼻先をかすめた。灌木が点々と地面にこびりついた岩地が、見渡す限り広がっている。
モーガンは茶色い丘の間を通る、小さな谷へと車を走らせていく。近づくにつれ、ジョージの眼に発掘現場が見えてきた。ちょうど丘の間の平地に位置している。周囲には低い杭が打たれ、白いロープが格子状に張り巡らされていた。近くにはテントがかたまってオフィスを作り、現地人の作業員たちがカゴや移植ごて、ブラシなどを持ってせわしなく働いている。
ジョージの眼は遺跡に吸い寄せられた。現場の東端の地面から突き出しているのは、屋根の先端のようだ。軒と、壁の上部も見えている。軒の下にはドームが盛り上がっている。
モーガンは現場近くで停車させ、ローヴァーを降りた。後にジョージとアンが続いた。ジョージの心臓は高鳴り、指先は一刻も早く遺跡に触れ、その秘密を掘り起こしたいと疼いていた。アンはジョージよりも興奮した様子で、ワンピースの裾を持ち上げるや否や、もう数歩も先を駆けだしている。
ジョージはわざとらしく大きな咳払いをした。アンは立ち止まり、決まり悪そうに振り返った。頬を赤らめ、照れ隠しに小さく笑う。
「すいません、つい興奮しちゃって・・・さぁ、お先にどうぞ」
「では、一緒に見ましょう。モーガン、何人か呼んでトラックの資材を下ろさせてください。それと、君とムティカは現場を案内してほしい」
「了解しやした」
ジョージはアンとともに教会に近づいた。壁の周囲には壕が掘られている。数人の現地人スタッフが、こてと小さなシャベルを使い、作業を進めている。
端から端まで、10メートルほどの壁が掘り起こされ、壕の端はかろうじて建物の端に届いている。ジョージはいても立ってもいられず、壕に飛び降りた。中は日陰で、少し涼しいようだ。ブーツの下で砂と石がじゃりじゃりと音を立てた。
ジョージはポケットから幅の広いブラシを取り出すと、壁に積もった埃をそっと払った。壁は完璧に切り出された石材で組み立てられ、モルタルで固められている。
「ニカイア建築に似てますね。もっと異国風ですが」
アンが壕の上から言った。
「遺跡の印象はどうですか?」
ジョージはブラシで塵を払い続けている。壁は白い。
「2000年前から1800年前、といったところかな。ニカイア建築ではない。トラキア建築でしょう。隅のコーニスのデザインを見て下さい。様式化された木々の下の藪に、人々が集まっている。間違いなく、トラキアです」
トラキアはニカイアが滅亡させた一大帝国で、その進出範囲はアファルの西端にまで及んでいる。
「なるほど。トラキア時代はちょっと専門外なんです」
「シスターも中に入ったらどうです。そこにいられては、話がしずらいでしょう」
アンは壕の中へ飛び降ると、ジョージは石の細工を指し示した。
「見事な技術です。それぞれのブロックが完璧に彫刻され、磨かれている。ノミの跡も見えないくらいとは」
アンはうなづき、それからふと怪訝そうな表情になった。
「初歩的な質問かもしれませんが、石ってこんなに新しく見えるものでしょうか?」
「そんなはずは・・・」
ジョージはさらにブラシをかけ、隅の方へ進んでいった。アンの言う通りだ。埃の下から現れる壁はどこも光沢があり、輝いてさえいる。
「石壁は、数千年も昔のものだ。風雨にさらされて、かなり傷んでいるはずなのに・・・まるで、これは・・・」
「まるで、何です?」
ジョージはアンの問いを無視し、大声で叫んだ。
「ムティカ、でかいブラシをくれ!」
「了解!」
しばらくして、ムティカの大きな体が壕の上に現れ、ブラシを差し出した。ジョージは今度、土に埋もれた壁の角の埃を払い始めた。アンは同じ質問をぶつけてみたが、ジョージには聞こえないらしかった。ジョージの確かな刷毛さばきで、くっきりと角の石が現れ始めた。ジョージは長い間、じっと壁を見つめていたが、やがて壕の壁に背をもたれ、呆然とつぶやいた。
「まさか」
上の方から、ムティカが何か言うのが聞こえた。見上げると、ムティカの顔にも同じような驚愕の表情が浮かんでいる。
「どういうことなんです?」
アンが少し苛々して言った。
「もっと壁に近づいてみてください。何が見えますか?」
アンは石壁に顔を近づけた。
「見事な彫刻よ。保存状態も素晴らしいわ」
「ほとんど真新しく見えると思いませんか?まったく風化してない」
アンはハッとした。
「でも、この風と日差しを考えると・・・本来なら、かなり傷んでいるはずよね」
「破損もあるはず。土砂崩れか地震のために、建築直後に地中に埋まった可能性を考えていたんですが、それでも長い年月の間に、多少の破損はあるはずなんだ」
「でも、ピカピカよ。まっさらに見えるわ」
「とすれば、今になって誰かが大昔の建築方式と材料を使ってこの教会を建てたか、最初から・・・つまり、建てた直後に埋められたかのどちらかになる」
「ここまで来て、埋めるために教会を建てた?そんなこと・・・」
「教会の場合は、有り得ないでしょう。ただ、埋葬用に建物を建てる習慣は、あちこちにあります・・・ミスル文明がその典型でしょう。しかし、ニカイア帝国にはそうした風習を採用しなかった」
「少なくとも、人の知る限りは」
ムティカが上から言った。
「ひょっとして、ニカイアの人々は似たような教会をたくさん造った。でも、発見されたのはこれが最初だったってことはありませんか?」
「可能性はあるが、あまり高くはないでしょう。特に、この地がニカイア帝国の領土からかなり南に離れてることを考えるとね」
「実際に墓なのかも」
「まぁもう少し見てみないと、何とも言えない」
ジョージはそう言って、両手をこすりあわせた。
「ムティカ、二交代制で工程を組んでくれ。壁を完全に掘り起こして、中に入りたい」