いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知ってます。神の聖者です。
マルコによる福音書・1章・24節
月のない夜。エリック・ディースクルは鏡の前に立って、襟のゆがみや髪の乱れをなおしていた。そこは、国立銀行の重役専用トイレだった。ぴかぴかに磨き上げた鏡。しみひとつないステンレスとタイル。
若干30歳にして国立銀行の重役であるエリックはその実、エメリア帝国の首都エリアスバーグで夜な夜な若い女性や娼婦を殺害し、屍姦する殺人鬼だった。この3週間で、8人に手を掛けていた。
今日もこれから、夜の繁華街に繰り出し、獲物を物色するつもりだった。殺害した後で啜る若い女の血の味を想像すると、エリックの端正な顔立ちが醜く歪んだ。
いったん鏡の前を離れかけたエリックだったが、何気なく背後を振り返った。鏡の顔が少しゆがんでいる。
エリックは顔の皮膚をつまみながら、鏡をのぞきこんだ。しばらくすると、顔の皮膚が液体のように波立ちはじめ、鏡面全体が小刻みに震え出した。
突然、鏡が爆発した。
火の玉が鏡面を粉々に打ち砕き、エリックを勢いよく吹き飛ばした。奥の壁に叩きつけられ、そのままずるずると床に滑り落ちた。全身を炎に包まれた。
エリックはわめきながら、はね起きた。上等なスーツはしわくちゃになり、今もところどころ燻っている。
「ふざけたマネをしやがって!どこのどいつだ!」
鏡があったところにぽっかりと穴が開き、裏側の配管工事用の作業通路に、黒い人影が立っていた。長身痩躯で、年のころは20代の男だった。手には、大きなドラム形弾倉を装着した銃身の短いショットガン。首に紫色のストーラをかけ、黒い聖職服の詰襟に赤い十字架が縫い付けられている。
「ジョージ・ロトフェルスか!」エリックは言った。「この呪われた男め!」
「誰をこの世に送り込むつもりだ?ノスフェラトゥ?」
ノスフェラトゥは飛びかかる構えをみせたが、ジョージはすかさず聖水のアンプルを投げつけた。アンプルがノスフェラトゥの顔面に命中し、聖水を浴びた途端、人間としての顔が焼け落ちた。上級デーモンとしての本来の顔が露わになると、ノスフェラトゥは鋭い歯をのぞかせ、にんまりと笑った。
「メイクが取れて、すっきりしたぜ」
ノスフェラトゥはジョージに飛びかかると、ショットガンを叩き落とし、獲物を抱えたまま突進した。壁際に押し込まれたジョージは喉をわしづかみにされ、吊るし上げられた。気道がふさがり、眼の前に黒い点がちらついた。
ジョージは腰に巻いたホルスターから純金の聖なる回転式拳銃を抜き、銃身を掴んで振り上げた。そして、銃把をノスフェラトゥの右側頭部に思い切り殴りつけた。衝撃でよろめいたノスフェラトゥが喉から手を離すと、今度は顎に一撃を加えた。
ノスフェラトゥは床に仰向けに倒れ込み、かすれ声で言った。
「お前も・・・じきに・・・おれの後を追うことになる」
「そうかな」
ひと息ついたジョージは、リボルバーを黒衣の中にしまった。
「どうするつもりだ?」ノスフェラトゥが起き上がろうとした。ジョージはブーツでその身体を押さえつけた。
「臨終の祈りを聞かせてやろうと思って」
「祈りなんかいるか!」
ジョージはノスフェラトゥの傍らにしゃがみこむと、相手の眼をのぞきこんだ。
「誰を送り込むつもりなのか、正直に白状すれば、すぐさま地獄に送り返してやる」
ノスフェラトゥの顔つきが険しくなったと思うと、馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「主が慈悲を持って、汝の罪を赦さんことを・・・」
ジョージはノスフェラトゥの額に手を置き、儀典書の一節を唱え始めた。相手が睨み返してくるが、ジョージの声は厳粛な響きをおびた。
「いかなる罪も主によって赦される。よって、汝にも罪の赦しを与えるものなり・・・」
ノスフェラトゥが泣き声を出し、頭を振る。明らかにパニック状態に陥っていた。
「いいかげんにしろ!」
「誰が来るんだ?」
ノスフェラトゥは狂ったように辺りを見回した。ジョージは祈祷を続けた。
「どうか神の御国へ迎えたまえ!父と子と聖霊の名において―」
ノスフェラトゥが驚くように、眼を見開いた。天国の門が開き、霊魂の暗黒面まであまねく照らし出す光が差し込み出していた。たまりかねて、ノスフェラトゥは叫んだ。
「イブリスだ!」
ジョージは相手をにらみつけた。ノスフェラトゥがうなづいた。
「そう。地獄の侯爵イブリスが来る!」
「ルシフェルによろしく」
ジョージは銃口を相手の額に押し当て、リボルバーの引き金をひいた。途端にノスフェラトゥの身体が青い炎に包まれて消滅した。床に残されたのは、粉々に飛び散った死体の焦げ跡だけだった。足音がして、ジョージは顔を上げた。
トイレの入口に、同じ黒衣を着た男が立っていた。今にも嘔吐しそうな顔色だ。
「聖ヴィッサリオン、枢機卿が呼んでます」