[1]
東京・神保町。
ある日の夕刻、私がいつもより早く仕事をすませて出版社の玄関を出た。その時、ある男が神田すずらん通りの数歩前を歩いていた。
《同志》ミーチャ。本名は倉田道義という先輩記者だった。根っからのロシアかぶれ。何ごともロシア語とロシア流で対応する。その《同志》がちらっと視線を横に向ける。その時、《同志》は後ろから歩いて来た私に気付いた。ロシア語で話かけてくる。
「おや、本郷君。仕事終わりかね?」
《同志》とはすでに長い付き合いだった私もロシア語で返事した。
「ええ。先輩も?」
「うん、大洗の取材から帰って来たところだ。会社に行こうと思ったけど、その前に腹が減ってね」
「自分もメシを食べようかと」
「一緒にどうだい、ちょうど私の知ってるレストランで美味しいロシア料理を食べさせる店がこの近くにあるから」
気前のいい《同志》からロシア料理を奢られるとあれば、私は断る言葉がなかった。
《同志》が案内してくれた店はレストラン・オルセーといった。通り沿いに建つこじんまりした店だった。席は十脚ばかりしかない。客はみな正装に身を包んでいる。私は自分が着ていた服装―くたびれたネルシャツとジーンズが恥ずかしくなったが、《同志》はすきのない黒スーツ姿だった。それが戦車道の取材に行く時の《同志》なりの流儀だった。
2人ともミリタリー専門の月刊誌で戦車道の取材を担当している記者だった。私は本郷健という本名だが、入社した時に編集長から「お前の担当は黒森峰だ」と告げられた。ドイツ軍のハインツ・グデーリアン将軍が書いた回想録―「電撃戦」の翻訳者と同名だったからだ。ドイツ軍の装甲部隊に近しいところが多い黒森峰の担当として適材だろうという判断だった。
給仕に私たちを窓際のテーブルに案内する。《同志》はメニューを私に手渡し、独特の発声で聞いてきた。
「スープとアントレは、何にする?それから、料理は・・・」
「先輩にお任せします」
《同志》のおまかせで出てきた料理とワインはどれも一級品だった。《同志》の評では、この店の都築というシェフの目利きが良いらしい。ロシア本国から最高の品物を輸入しているとのことだ。当然ミュシュランガイドにも載っている。
琥珀色のコニャックを2人で舐めながら、私は《同志》の大洗で行われたエキシビションマッチの取材を聞いている。戦車道全国高校生大会の優勝校はその地元で優勝記念の試合をやる決まりになっていた。今年のエキシビションマッチは第63回大会で優勝した大洗女子学園・知波単学園・継続高校と聖グロリアーナ女学院とプラウダ高校。
「プラウダ番として試合はどうでしたか?」
「ほとんど聖グロリアーナの勝利のお膳立てみたいな感じだったよ。君こそ黒森峰は?何か動きでも?」
「まだお通夜モードですかね」
「決勝は姉妹対決で外野は大いに盛り上がったが、黒森峰としては決して負けるわけにいかない大会だったのは容易に想像がつく。それを落としたんだからなあ」
私はコニャックをひと口含んだ。
「そういえばプラウダにはたしか、留学生が来てるんでしょう?」
「そう。名前はクラーラ」
「戦車は?」
「T34/85。プラウダは留学生に必ず載せるんだ。そういう伝統がある」
「T34/85に?どうして?」
珍しく酔いが回ったらしい《同志》がこんな話を始める。
「本郷君、どんな留学生にせよ、あまりマトモと呼べるような選手は数少ない」
私はうなづいた。一時期の大学駅伝のように、どの大学でも脚の速い留学生選手をスタメンに入れることが流行ったように、戦車道でも留学生がスタメンにいることが増えた時期はあった。駅伝とは異なり、戦車道で勇名をはせた留学生はあまり聞かない。
「ぼくは今までプラウダに来た留学生を何人も取材したけど・・・1人だけだ。あれこそ偉物だった」
「誰です?」
「マリア・オクチャブリスカヤ。プラウダには女帝がいたんだ」
「女帝?」
「エカチェリーナだよ。T34の砲塔に女帝の名を冠してたんだ・・・」
[2]
無線に雑音が混じっていた。小隊長の命令が辛うじて聞こえてくる。
《ベア1より各車、先頭の車両は私がもらう。ベア2は二番目、ベア3は三番目をやれ》
「ベア2よりベア1、了解」
ベア2の車長―マリアはそう答え、無線を車内通話に切り替えた。
「アーリャ、徹甲弾を装填」
装填手のアーリャは車体の床に屈み込む。床の弾薬庫から徹甲弾を取り出して砲身に装填し、装填口の閉鎖栓を閉じる。
「戦車長、装填完了しました!」
砲手も兼ねるマリアは電動旋回レバーを押す。76ミリ砲を備えた砲塔が唸りを上げてゆっくりと旋回する。マリアたちが乗るT34/76の砲塔には左側面に白いペンキで「エリザヴェータⅠ世」と書かれている。「当時のプラウダはどの戦車も」《同志》が言った。「砲塔にスローガンが書かれた。《母校の勝利に》とか《タピオカ万歳》とか」
「《タピオカ万歳》?」私は思わず尋ねた。
《同志》は「言葉は何でも良かったようだ」と笑った。
砲塔の中では照準器や計器、戦車砲の閉鎖機も全て左に旋回を始めたが、マリアとアーリャの座席は動かなかった。これはT34の欠点だった。車長と装填手の座席は車体の旋回リングに取り付けられている。そのため砲塔が旋回する度に、2人は回転する砲尾と射撃装置と一緒に動き回らねばならない。マリアは《同志》に対して「まるで砲塔とダンスを踊ってるみたい」と自嘲していた。
マリアは身体をねじ曲げながら射撃照準器を覗き込む。敵役の戦車が左翼から縦列でこちらに迫ってくる。小隊長から指示された通り、先頭から2番目の車両―T34に照準をつける。俯仰ハンドルを回して主砲の砲口を目標の側面に合わせ、そのまま前進してくる敵戦車を照準器で追い続ける。敵を約600メートルの地点までひきつける。
その時、小隊長が無線から「ベア1より各車、発射!」と叫んだ。
「発射(アゴーイ)!」マリアは左脚で発射ペダルを踏んだ。
轟音とともに主砲の76ミリ砲から徹甲弾が放たれた。ほぼ同時に、小隊の全車両から射撃が行われる。各車の主砲から炎が閃いて花火のようだった。戦車が衝撃で揺れ、砲尾が勢いよく後退する。焼けた薬夾が砲身から押し出され、むき出しの弾薬箱に音を立てて落ちる。砲尾から逆流した硝煙が狭い車内に充満する。全員が軽くせき込んだ。
マリアたちの戦車―《女帝》はじりじりしながらうずくまっていた。ディーゼル・エンジンはアイドリングしながら命令を待っている。砲塔の旋回装置が唸りを上げ、戦車砲を前方に向けた。マリアが不意に操縦手の首筋を固いブーツの足先で突いた。
「前進全速!急いで!」
操縦手であるサーシャは左右にある操縦レバーのうち左を手前に引き、右を前に押し出した。《女帝》がかすかにスリップしながら左に旋回する。T34に装備された履帯の広いキャタピラが泥を噛むのを感じ取った。続けてクラッチを踏み、変速レバーをT34の一番高いギアである四速に押し込んだ。変速機がギリギリと鳴る。サーシャは屈んでハンマーに手を伸ばしたが、操縦手に殴られて従わされることを嫌った《女帝》のギアが噛み合った。サーシャはアクセルを一杯に踏み込み、《女帝》は最大速度の30マイルで陣地の土手を乗り越えて跳ねながら走った。
練習場は雨上がりの泥にまみれた不整地が広がっていた。身構えていなかったマリアは詰め物入りの戦車帽をかぶった頭をどこかにぶつけた。戦車の中は金属に囲まれている。サスペンションが装備されているとはいえ、練習が終わった後は全身が打ち身やアザだらけになる。車体がガタガタと揺れる中、マリアは弾着確認を行う。数秒後、爆音が轟いた。マリアは目標の車体から立ち上がる白旗を視認した。
敵の先鋒は全て撃破されていた。マリアたちの小隊が迫ると、敵の本隊は向きを変えて窪地の傾斜を下り始める。そして煙幕を張る。
[3]
敵は河に逃げるつもりだろう。
小隊長―ベア1はそう判断した。無線でマリアたちに追撃を命じる。小隊は窪地を横切るように煙幕の中を探りながら進撃し、そのまま敵ともつれるように戦闘に入った。マリアは思わず悪態をついた。それなりにロシア語が分かる3人の反応も三者三様だ。
「××××!この×××野郎!」
アーリャが「そすもんでね、マリアしゃん」と言えば、「美人が台無しだっぺよ」と嘆いたのは無線手兼機関銃手のナージャ。サーシャはウハハと忍び笑いをする。
マリアが黙ったまま、肩の高さにある小さな展視孔を睨んでいる。敵役がばらまいた煙幕のせいで視界は余計に悪い。市街戦を彷彿させるような乱戦に陥り、いつの間にか小隊長との通信も途絶える。
ペリスコープから周囲を監視していたナージャがまっ先に敵を発見した。車長であるマリアには考えている時間は与えられない。要は戦うか逃げるかである。
「T34、12時!」
この時、とっさに頭に血が上ったアーリャだった。ナージャの叫び声を聞くなり、アーリャは砲弾を装填して「装填完了!」と怒鳴った。マリアは主砲を12時方向に向けて発射ペダルを踏んだ。発射と弾着がほとんど同時だった。「命中!」ナージャが言った。その声と同時にハッチから顔を出したマリアはいま交戦したばかりのT34の変速機が吹っ飛ぶのを眼にした。すぐ傍を味方のT34が走り抜けた。
「KV1、2両!」ナージャの大声がマリアの注意を引き戻した。重戦車だ。ところがアーリャは「徹甲弾、装填済み!」と叫んだ。重戦車にはより貫通力があるAPDS(装弾筒付徹甲弾)が有効であることを分かっていたが、砲弾を抜いている暇はない。マリアは反射的に「発射!」と言いながら撃った。
「命中!」ナージャが報告する。
マリアはアーリャに命じる。
「APDSに切り換えて!」
アーリャは指示された通りにAPDSを装填する。またマリアは発射ペダルを踏む。再び「命中」。マリアはそこで下に手を伸ばし、次の徹甲弾を装填しかけているアーリャの腕を掴んでAPDSを装填するよう伝えた。砲身に徹甲弾が入っている時に重戦車に遭遇したくない。APDSならどんな戦車が相手でも装甲を貫ける。
《女帝》が高地を登り始める。ようやくマリアの戦車は煙幕の外に出た。右方に軽戦車のT60が2両見えた。マリアは射撃照準器を覗いて命令を出しかけてやめた。T60はじっとうずくまっているだけだった。どうやら破壊された車両らしい。
視界の端に何かが動いた。マリアは躊躇せずにサーシャの左肩を蹴った。《女帝》が左に旋回する。マリア砲塔を敵に向けた。
「アーリャ、APDS!T34!」
「装填済みは徹甲弾!」アーリャが訂正する。
「発射!」マリアは発射ペダルを踏んだ。「APDS装填して!」
アーリャから「装填よし」という報告が入る。とっさに照準を決めて再び発射ペダルを踏んだ。砲弾はT34の上方を飛んで行った。マリアはあらためてAPDS装填を命じた。アーリャが「装填完了」と言った瞬間、マリアは「発射!」と続けた。
今度は敵の前部装甲に命中した。命中した箇所から火花と炎が噴き出した。乗員が飛び出してくる。
「T34!8時!」
マリアが叫んだ矢先、ガンと殴られたような衝撃に襲われた。相手が撃った徹甲弾が砲塔側面の傾斜装甲に当たって弾かれた。マリアはさっと砲塔の内部を見回す。異常は見当たらなかった。判定装置も動作していない。マリアは砲塔を背後に向けて叫んだ。
「目標、8時のT34!APDS!」
「装填完了!」アーリャが叫び返した。
敵が逃げようと旋回を始める。マリアが「発射!」を告げて左側のペダルを踏む。
同時に衝撃が襲った。次いで主砲の反動が《女帝》を揺るがした。マリアはハッチを開けて左右に眼を向ける。左上方―斜面の天辺に3台目のT34を発見した。
アーリャが「命中!」を報告する。その声を聞きながらマリアは旋回レバーを押して砲塔を左に急旋回させつつ、いま撃破したT34には見向きもせず、サーシャの右肩を蹴った。《女帝》が右に旋回して敵と正対する。
T34は《女帝》に向かって徹甲弾を放ち、斜面を後退しながら上がり始めた。マリアは主砲を敵の正面に定め、発射ペダルを踏んだ。T34の砲塔に火花がまばゆく咲いた。次の瞬間、判定装置の白旗が揚がる。
「状況終了!」
無線から隊長の声が響いた。その瞬間、マリアは身体から緊張が解けるのを覚えた。戦車にいる他の乗員も同じだった。心と身体を消耗しているのを感じた。マリアは腕時計に眼を落とす。戦闘に突入してからまだ20分しか経っていない。誰かが《女帝》の上に飛び乗り、車長用のハッチをノックした。
マリアは砲塔から顔を出す。差し伸べられた手を掴んで立ち上がる。眼の前にプラウダ戦車道の隊長が立っている。隊長が思わずマリアの身体を抱きしめる。周囲に戦車道の履修者が集まり、皆が拍手を送る。隊長がマリアの耳元でささやいた。
「すばらしい(ハラショー)、マリア。ハラショー」
[4] 幕間
「最初の練習試合で、単騎で7両撃破とはすごいですね」私が言った。
「そうだろう」
《同志》が1枚の写真をテーブルに出した。
T34/76を背景に、4人の選手が写っている。いずれも戦車兵(タンキスト)の伝統である青い軍服と戦車帽を身に着けている。今なら戦車道の選手といえばパンツァージャケットにスカートを履いているのが一般的だが、この頃はまだ第2次世界大戦の兵士と変わらぬ姿が多かった。すなわち、オーバーオールを着て詰め物入りの戦車帽を被るスタイルだ。
一番左に身体の大きいアーリャ。隣は細面に眼鏡をかけたナージャ。少し老けたような顔立ちのサーシャ。そしてマリア。「エカチェリーナⅠ世」の車長兼砲手。
マリア・オクチャブリスカヤ。モスクワ生まれだが、一族はコサックの末裔だった。留学先のプラウダでは最初の紅白戦から、もう周囲に一目置かれるようになった。切れ長の瞳は淡青色。鼻筋がすっと通り、口元は不敵な様子で緩められている。上背は高いようだ。背丈は他の乗組員たちよりも一回り大きい。
「マリアたちと初めて会ったのは、どこで?」私は言った。
「当時、私がちょうどプラウダで取材をしていて、試合後にマリアたちと会ったんだ」
大学で史学科を専攻した私はつたない記憶を頼りに言った。
「『エリザヴェータⅠ世』というのはたしかにロマノフ朝の女帝ですが、どうなんですかね。あまり一般的じゃないような気がします。ロシアの《女帝》といったら誰もが同名のⅡ世の方を想像しますが」
「そこがマリアなりの謙虚なところだ。たしかに気持ちの上ではⅡ世に倣ってそう書きたいところだが、自分はまだまだ未熟者なのであえてⅠ世を選んだ」
「マリアはともかく、他の乗員たちは戦車道の経験者だったんですか?」
「いや、操縦手のサーシャが中学生選手だっただけだ。あと二人はちょっとロシア語が喋れるというだけで選ばれた。マリアがプラウダに来て最初の一週間ぐらいは真夜中までクルーと一緒に練習を積んだそうだ」
「それでも、初心者の乗員を使い物にするのは簡単に出来ることじゃありませんよ」
当たり前だが、戦車は素人が扱えるほど簡単ではない。私も何度か取材で戦車に乗せてもらったことがある。自分よりもずっと年下の女子高生が操縦する姿をカメラで写真に収めたりした。どの学校でも言われていることがあった。未経験者がまともに隊列を組んで行進するまでに3か月。目標に砲弾を当てるのに最低でも3か月はかかる。
「まあ、元々が無茶な要求だったんだ。当時、プラウダは大会に出場する選手を選抜するためにこんな無茶をよくやってた。1個小隊3両で大隊規模の敵を相手にして生き残ったらめでたくスタメンになれる」
「まるでスパルタだ」
「うん?」
「ああ、厳しい教育という意味ではなくて、古代ギリシャの都市国家スパルタのように思えますね」
《同志》はうなずいた。
「まあ、まさしく今は無きソ連流の『力こそ正義』を実践したってところだ。ただ、面白いのは当時、戦車道の顧問をしていたのは元自衛官で機甲科出身の諸橋という体育教師でねえ。諸橋はマリアに1週間でものにならなかったら、すなわちスタメンにならなかったら国に帰すと言ったそうだ」
「それはひどい」
「自分の権威が落ちることを恐れたんだろう。まあ実は諸橋はあの練習試合で、戦車に乗ってたんだ」
「へえ」
「マリアが最後に撃破したT34だよ。マリアは諸橋と正面からやりあって見事に撃破してみせた。諸橋は面目が丸潰れになって、顧問を辞めざるを得なくなった。それもマリアの株を上げることになった」
「マリアは黒船ですね」
「黒船?」
「黒船が来ないと、部活にはびこる悪しき慣習を正そうとする雰囲気にならない」
《同志》は受け答えに困るという顔をして黙ってしまった。何か変なことを言ったのだと私は気づいたが、自分の物言いの何が変だったのか分からなかった。分かっていたら、初めから言っていない。
「それで、マリアの留学生活は順風満帆だったんですか」
「そうでもない。さっそく試練が襲いかかるわけだが」
《同志》がコニャックのお代わりを2人のグラスに注いだ。
「そうこなくっちゃ」