33
オレグ・サカシュヴィリの葬儀会場は、さながら高級外車の展示場のようだった。メルセデス、サーブ、ボルボ、BMW。どの1台をとっても、警察官の一生分の賃金であがなえる範囲を超えている。もちろん、真正直に働いたとしての話だ。
車が次々と、オクチャブリスキー大通りを走って来て、スモレンスキ墓地の門の前で停まった。黒いスーツに白いシャツを着た体格のいい男たちが数人、さっと車を降り、四方を見回す。辺りに危険の兆候が無いことを確かめた上で、組頭や首領など、グルジア・マフィアのエリートたちを車から降ろすのだ。
リュトヴィッツは運河をはさんだデカブリスト島から、双眼鏡でグルジア式の葬式を見物していた。そばにカメラマンが立ち、スヴェトラーノフとラザレフも双眼鏡をのぞいている。時おりスヴェトラーノフがリュトヴィッツに視線を投げるのは、息子の死を悲しむグルジア・マフィアの女帝が墓地を出るところを捕まえて、不躾な質問をしないことを確かめようとしているかのようだった。
「そもそも近づけやしないぜ」スヴェトラーノフはリュトヴィッツに言った。「仮に近づけたとしても、話を聞くのは無理だ。撃たれるかもしれないぞ」
リュトヴィッツは反論できなかった。オレグとヴァレリーの母親であるアンティサはほとんど外を出歩かない。そして出歩くときは、おそらくボディガードと弁護士軍団の鉄壁で身を護っているだろう。
「それはやめろと言ってるのか、それともおまえ抜きで行くのはやめろと言ってるのか?」
「自分が何を言いたいのかよく分からないよ、サーシャ。ただ、クソッたれと言いたい気分だ」
そこに、刑事部長のコンドラシンと一緒にギレリスが到着した。カメラマンを見て、怪訝な表情を浮かべたギレリスはラザレフの耳元に口を寄せる。
「誰だ、あれは?科学技術部のポポフは、どうした?」
「病気らしいですよ。スミルノフが代役です」
ギレリスはあいまいにうなづき、スミルノフが巨大な望遠レンズの焦点を合わせるのをじっと見守った。
「心配いりませんよ、大佐。昔はKGBで、監視業務に就いてた男ですから。人員整理で辞めさせられましたけど」
「ほう。で、今は何をやってる?」
「婚礼写真を撮ってます」
ギレリスはため息をつき、双眼鏡を持ち上げた。「婚礼写真か」と、沈鬱な声で呟く。
グルジア人の一団が、霊柩車からオレグを運び出した。レーニン並みに、蓋のない棺に横たわり、花で覆われている。男たちが広い肩にその棺をかつぎ、祈祷書を読むグルジア東方正教会の司祭を先頭に、吊り香炉を振る従者、聖像を持つ男が続いて、葬列は墓地へと続いた。
「メレブ・パルサダニヤンですよ」スヴェトラーノフが言った。「あのネクタイを直してる男。組織のボスです」
リュトヴィッツは双眼鏡のピントを微調整し、パルサダニヤンの背後にいるアンティカ・サカシュヴィリの像をくっきり結ばせた。骨ばった身体つきの小柄な老女。顔は黒いベールで隠されていた。
スミルノフのカメラがせわしくフィルムを巻き上げる音がした。
「たいした見世物だな」コンドラシンが言った。「彼らがオレグ・サカシュヴィリを密告者と考えてたとは、とうてい思えないが」
「去年、スヴェルドロフスクで行われた《リトル・ジプシー》の葬儀に比べれば、ちゃちなものです」ギレリスが答える。「あのときは、全市の交通が麻痺しました」
「うむ、ドゥシャン・ヌルジノフか。あの男を殺したのは、誰だった?」
「アゼルバイジャン人です」
「まぁ、しかし・・・われわれの基準からすれば、これでも豪勢な式だ」
「昨年だって、ルイバルコの弟の葬儀がありました」
「《黒鳥》か?あれは、どういう事件だった?」
「乗っていた車ごと爆破されたんです。死骸をかき集めても、棺どころか、靴の箱を満たすほどにもなかったんですが、コサックの連中は盛大な式を催しました」
「わかってるよ、アレクセイ。君の言いたいことはな」コンドラシンは、ギレリスから教えを受けることを愉快に思っていないようだった。「この後、弔いの宴をどこでやるか、分かってるのか?」
「情報提供者によれば、トビリシというレストランに移動するようです。ネヴァ河を渡ったペトログラードスキー地区にあるグルジア料理の小さな店です。事件に関係ある話が聞けるかもしれないので、盗聴マイクを仕掛けておきました」
「それで、ドゥダロフのほうはどうなった?」タバコに火を付けながら、コンドラシンが言った。「ドミトリ・ヴィシネフスキーに恨みを抱いているかもしれないという、例のチェチェン人だ。足取りは掴めたのか?」
「全市の観光客用のホテルに眼を光らせてます」ギレリスは答えた。「やつが新しい雌牛の群れを動かし始めたら、すぐにでも網に引っ掛かるでしょう」
「早いことに越したことはないぞ、アレクセイ。さっきスヴェルドロフスクの葬儀の話を持ち出したくらいだから、あのときの騒ぎは覚えているだろう。あれは、戦争だった」
「ええ」
「解せないのは、ドゥダロフがこんなに早くシベリアから帰って来られたことだ」
「懲役施設管理委員会の部内者の話では」リュトヴィッツが横から言った。「保安省のある人物が手を回したようです」
「その人物の名前は分からないのか?」
リュトヴィッツは肩をすくめ、首を横に振った。
「保安省も何を考えるのやら・・・このチェチェン人については、君の勘が当たってることを祈ろうではないか、アレクセイ。この男の他に、君には何もないのだからな」
ギレリスはただ唇を噛んで、むっつりとうなづいた。
オクチャブリスキー大通りは駐車場と化しており、弔問客も見物人もディーゼルエンジンの排気ガスの靄の中にいた。リュトヴィッツはバンパーやフェンダーの間を縫い、群衆の中に身体をこじ入れる。ヴィシネフスキーの葬儀へと向かったギレリスたちには、「トイレを済ませて後からついてくる」と言ってあった。
正直言って、計画は何もなかった。スヴェトラーノフが予想したような不作法で幼稚な方法すら考えていない。巨獣のような特別仕様のリムジンのほうへ向かっていく。全長六メートルほどの四輪駆動車だ。
喉をごろごろ鳴らすような低い唸り声が聞こえた。なかば獣のようなその声は、何かの警告か、どす黒い悪意に満ちた非難の言葉をリュトヴィッツに向かって発していた。リュトヴィッツは怒っている男に眼を向けた。パルサダニヤンだった。
リュトヴィッツはアンティカの姿を見失ったが、数人のボディガードが目標のリムジンの後部座席に何かを押し込んだのを確かめた。運転手がドアを開け、体操選手の身のこなしで運転席に飛び込む。ボディガードの1人が車の横腹を叩いて「行け!」と叫ぶ。
リムジンが近づいてくると、リュトヴィッツは後ろに下がった。両手の指を動かしながら、タイミングをはかり、車が眼の前に来たとき、後部ドアを引き開けた。5メートルほど車のわきを引きずられると、ボディガードの1人がリュトヴィッツの腕をつかんだ。それをどうにか振り払うと、片膝を車内に突き入れて、全身で転げ込んだ。
34
リムジンの中は、洞窟のように暗かった。オレグとヴァレリーの母であるアンティカは、後部座席にちんまりと坐っていた。衣服はくすんだ色だが生地は上等で、レインコートの裏地にはお洒落なブランドのロゴが覗いている。
「知らない男性とこの近さで一緒にいるのは4、5年ぶりです」アンティカは波紋模様が浮いて見える黒いベールを下ろしたまま、口を開いた。「このほうが話しやすいので」
「どうぞご自由に」
リュトヴィッツは前後に向き合う座席の間の広い床にしゃがんだ姿勢で言った。「あなたは私と話したいそうですが」
「そうですの?」アンティカは眉の端をつり上げた。「あなたが私の車に強引に乗り込んできたんだと思いましたけど」
「ああ、これは自家用車ですか?間違えました。てっきり市営バスだと」
「この野郎、ふさげやがって」
恫喝とともにリュトヴィッツの後頭部に、冷たい物が押しつけられる。眼を向けると、運転席の近くに後ろ向きに設置されている座席からボディガードがマカロフを突きつけている。アンティカが「止めなさい」と低い声を発し、ボディガードはしぶしぶ銃を下ろした。
「助かりました」リュトヴィッツは言った。
アンティカは柔らかな視線をリュトヴィッツに向けてきた。「あなたのホテルまでお送りしますわ。ホテルを見てみたいし。それでよろしいですか、リュトヴィッツ大尉」
「それで結構です」とリュトヴィッツは答えた。アンティカはボディガードに運転席との仕切りを開けさせて、運転手に行き先をセンナヤ広場と告げた。
「喉は渇いていらっしゃいませんか、刑事さん?」
「お気づかいはありがたいですが、喉は渇いてませんから」
アンティカの眼が大きく開き、細くなり、また大きくなった。リュトヴィッツを値踏みし、すでに知っていることや聞いていることと照らし合わせているようだ。視線は敏捷で無慈悲。優秀な刑事になれそうだ。「ウォッカはお嫌いなのね」
車はボリショイ大通りに出ると、エカテリーナ教会を左に見ながら、レイチェントシュミット橋を渡って市街地に向かう。あと10分で、ホテル・プーシキンに着く。アンティカの眼がリュトヴィッツを射すくめた。
「いえいえ、いただきます」リュトヴィッツは言った。
アンティカが目配せすると、ボディガードが冷えた瓶入りのウォッカをよこす。リュトヴィッツはその瓶をこめかみに当ててから、ひと口飲む。
「さてと」アンティカがそう言うと、息でベールが持ち上がった。「認めましょう。その通りです。私はあなたとお話ししたいと思いました」
「私もです」
「なぜです?私が2人の息子を殺したと思ってるんですか?」
「オレグについては何とも言えませんが、ヴァレリーは違う。あなたはヴァレリーを探していた。チェチェン・マフィアのチンピラ2人を使って」
「ヴァレリーは殺されたのですか?」
「えと、ええ、そうです。聞かされてなかったんですか?」
「ヴァレリーが死んだことは、パルサダニヤンから聞きました。ただ、あの男はいつも私に嘘ばかり聞かせるのです」
アンティカは身を乗り出してきた。
「さあ、お願い。話してくださいな」
「ヴァレリーは射殺されました。やり方は・・・この際はっきり言いますが、彼は処刑されたんです。犯人は分かりません。ヴァレリーは死んだときにヘロインをやってたことが分かってます。だから、何も感じなかったろうと思います。つまり、苦痛はという意味ですが」
「何も、と言う方が正しいわね」とアンティカは言った。「続けてください」
「我々は、犯人は素人ではないと考えてます。ただ、捜査はあまり進展してません」
「なら、私とお話ししたいのはどういうわけ?」
リュトヴィッツはウォッカの冷たい瓶を額の上で転がした。「あなたなら、犯人の目星がつくかと」
アンティカは1分ほど何も言わなかった。ヴァレリーのことは誰にも話さないというこれまでの習慣と闘っているように見えた。まして、初対面の刑事には話しにくいのだろう。あるいは、声に出して話しながら息子のことを思い出すにつれてわれ知らず湧き起ってくる喜びと闘っているかもしれなかった。
「ヴァレリーとは、15年以上会っていませんでした」アンティカは言った。「そして、もう二度と会えないのです」
「なぜです?」
「あの子は頭が良過ぎました。だから、チェスしか出来ませんでした。チェスで人と会話してたんです。私はチェスが出来ませんでした」
「彼のチェス相手で知ってる人はいませんか?」
「昔、電話で話したことがあります。もう10年ほど前です。ヴァレリーはその相手のことを“カイーサ”と呼んでいました」
「オレグの事件についてはどうです?」
「オレグは愚か者です。度し難い程に。自分の父を殺した男の許に行ったんですから」
「パルサダニヤンのことですか?」
「パルサダニヤンは狂信者です。オレグも愚かでしたが、物事の善悪の区別はちゃんとついてました。だから、殺されたのです」
「パルサダニヤンがヴィクトル・サカシュヴィリを?」
「そうに決まってます」
リムジンが減速して停止した。リュトヴィッツはスモークガラスごしに外を見る。ホテル・プーシキンの前だ。アンティカがボタンを押して自分の側の窓を下ろすと、午後の灰色の光が入りこんできた。アンティカはベールを持ち上げてホテルの正面を見た。2人のみすぼらしい恰好をした酔っ払いが、ホテルのロビーからよたよたと出てきた。互いによりかかった2人は風に飛ばされてきた1枚の新聞紙を相手にドタバタしたコントをしたと思うと、通りに消えて行った。
アンティカはまたベールを下ろして窓を閉めた。リュトヴィッツは黒いベールの奥で非難がましい問いが燃えているのを感じた。あなたはよくこんなボロ宿に住んでいられるものね。いったいどうして私の息子を守ってくれなかったの。
「私がここに住んでいると誰に聞いたんです?」
「セミョーノフから」
「地質学の教授が私のことを話したんですか」
「昨夜、電話をもらったの。あの人は言いました。かりにあなたが訪ねてきた場合、あなたを少しばかり信頼してみるのはまったくの間違いとは言えないと。あなたが最初にヴァレリーの遺体に見たんですってね」
「ありがたいことを言ってくれる」
心からの感想を口にすると、ボタンを押してドアロックを解除した。リュトヴィッツは自分の側のドアを開けてリムジンを降りた。
「ともかく」とアンティカは付け加えた。「このおぞましいホテルを前もって見ていなくてよかった。見ていたら、絶対にあなたをそばへ来させなかったでしょうから」
「大したホテルではないが、私には我が家です」
「家などと言うものではありません」アンティカは言った。「でも、そう考えた方があなたには楽なのでしょうね」
リュトヴィッツは走り去るリムジンを見送った。ホテルの前で立ちすくんでいると、広場の方からパトカーがやって来た。運転席の窓が開いて、ペトロフが顔を覗かせる。
「同志大尉、科学技術部からのお電話で、遺体安置所まで来てほしいとの要請です」
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ヴィシネフスキーの葬儀はグルジア式の豪華な式典とは正反対に、終始つつましく営まれた。国からの補助金だけでは、いちばん安い棺の値段にも遠く届かず、ギレリスが大屋敷じゅうからかき集めたカンパがなかったら、カテリーナ・ヴィシネフスカヤはレンタルの棺でとりあえず遺体を墓地まで運び、ビニール袋に移して埋葬するという策を取らざるを得なかっただろう。
レルモントフスキ大通りのユダヤ教会堂に、わざわざ哀悼の意を表しに来た参列者の多くはヴィシネフスキーの読者で、市長もじきじきに姿を見せていた。ベリンスキーやツルゲーネフ、ブロークなどの国民的作家が眠る最古にして最も格式の高いこの墓地に、ヴィシネフスキーが葬られることになったのも、市長の計らいによるものだった。
門の外に並ぶ車も市長のジルは別として、どれも人目を引くようなものはなかった。献花も、大きな花輪などなく、一輪ずつのカーネーションだけだった。しかし、そこには紛れもなく、この6月の暖かい午後に集まってきた人々の胸を打つ本当の悲嘆があった。
埋葬が終わり、参列者がゆるやかに散り始めても、カテリーナは夫の墓のそばに立ち、墓掘り人たちが棺に土をかけるのを見守っていた。
ギレリスがスヴェトラーノフとラザレフの方を向く。
「車で待ってろ。私は夫人と少し話をしてくる。この前、隠してたことがあるとすれば、今こそそれを吐き出させるときだ」
「どうして、あんなマネができるんだ?彼女にも、夫の葬式のときぐらい、ささやかなプライバシーを要求する権利があるんじゃないか?」
車を出たギレリスの背を見ながら、スヴェトラーノフはタバコに火を付けた。
「あなたの言う通りですよ」ラザレフが言った。「大佐は時々、鬼みたいになるんです」
ギレリスは“詩人の小道”をひとり歩いているカテリーナに追いついた。
「お話しして構いませんか?」
「ロシアは自由の国になったんでしょ」ため息をつく。「みんな、そう言います」
ギレリスは深く息を吸い込み、一気に吐き出した。
「あなたは今まで、われわれに対して、完全に心を開いてなかったような気がするんですが、どうでしょう?」
しばらくの間、カテリーナは黙っていた。ギレリスは質問をくり返した。
「正直なところを聞かせていただけますか?」
青い空を見上げたカテリーナの眼に、きらっと涙が光った。
「おっしゃるとおりです。ボディガードのことです。実を言うと、ドミトリはひとり雇おうとしました。でも、それは誰かを特に恐れてのことじゃありませんでした」
「よくのみ込めませんな」
「いくつかの理由が重なり合ってたんです。ドミトリはある程度のリスクを伴うテーマにぶつかるまで、決して満足しない人でした。常に、危険を背負ってました。それが、あの人のエネルギー源だったんです。どんなに脅かされても、どんなに恨まれても、自分の居場所を人に譲ろうとしませんでした。前に申し上げたように、その姿勢のツケが最近、まわってきたようでした。でも、ボディガードを雇うことで、そういう重圧から少しは逃れられるように思えました。そして、お酒の問題からも・・・というわけで、あなた方のお仲間の警察官を雇おうとしたんです。暴動を鎮圧する仕事をしてた人を」
「特別任務民警支隊(OMON)ですか?」
「ええ。ただ、その人の請求する報酬があまりに高すぎました。ボディガードなど雇う余裕はないと申し上げたのは、そのことがあったからです。わたし、民警に腹を立てたんでしょうね。もう少しお金があれば、ドミトリは死なずに済んだかもしれないと思って」
「そのOMONの男ですが、名前を覚えてらっしゃいますか?」
「ロマン・・・スヴェルコフ」
ギレリスはその名を頭に書き留めた。カテリーナが深いため息をつき、片手を胸にやる。
「わがままを言うようですけれど、しばらく1人にしていただきませんか?」
ギレリスが車に戻ってくると、ラザレフが自動車電話で話していた。科学技術部にいる“鉄のソーニャ”から、見に来てもらいたい死体があるという。ラザレフが通話を終えると、スヴェトラーノフが大きな声でうめいた。
「遺体安置所だけは、遠慮したいな」
ギレリスが新しいタバコを口にくわえ、ライターで火をつけ、くっくっと笑う。
「物事は明るいほうに考えるんだな。当分の間、食欲に悩まされずに済むぞ」
サンクトペテルブルクで1日に発生する200人から300人の死者の内、大多数は北東にネヴァ河を越え、包囲戦の犠牲者が眠るピスカリョフ記念墓地を過ぎて、その隣に立つ法医学検査所に運ばれる。
夕闇が迫る時刻に、ギレリスのジグリはピスカリョフスキー大通りをはずれて、メチニコフ病院の横を通るでこぼこ道を走った。遠くから見ると、要塞の形をした検査所の建物は、死の不気味さとはおよそかけ離れた外観を呈している。西日がピンクの煉瓦を温め、黄色味を帯びた窓を照らして、まるでグリム童話に出てくるお菓子の城のように見えた。
正面玄関の前に、リュトヴィッツがタバコを吸って待っていた。車を降りると、ギレリスは「ずいぶん長いトイレだったな」と肩を小突いた。リュトヴィッツが黙っていると、スヴェトラーノフが耳に口を寄せた。
「何か収穫は?」
「何も」
刑事たちは、すぐ所長室に通された。所長のグリゴリーエフは電話中だった。
「タリウムだね。そう言ったろう?タリウム203」受話器に向かって話しながら、刑事たちに椅子をすすめる。「ああ、毒性はたいへん高い。エステル化したものを殺鼠剤に使うぐらいだ。その女、化学の教授だと言ったね、中尉?手に入れるのは、そんなに難しくないはずだ。よし、わかった。構わんよ。うん、明日の朝までに報告書を用意しておこう。それじゃ」
受話器を置くと、グリゴリーエフは立ち上がり、全員と握手を交わす。白髪頭に、ほんのり日焼けした肌。白衣をまとい、表情はいかにも気さくそうだった。
「どう思うかね?」誰にともなく問いかける。「地位も教養もある女が、共同住宅の同居人たちに毒を盛っていた。タリウムだよ。自分の部屋がもうひとつ欲しいばっかりに」
「それはなかなかいい手だな」ギレリスは言った。「隣の家にピアノがありましてね。子どもがしょっちゅう練習するんですが、とんでもない調子外れで」
グリゴリーエフは笑い、机の上からタバコの箱を取って、白衣のボタンをかけた。
「秘書に言って、君の分を注文させよう」
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刑事たちはグリゴリーエフの後をついて、傾斜のある長い廊下を進んだ。
「問題の死体は、私が解剖した。切り開いたままで、台の上に置いてあるよ。君たちがこの後、昼食を取るつもりでいると困るから、あらかじめ言っておくんだが」
「お心遣い、感謝します」ギレリスが言った。
「けさ早く、民警が発見した。場所は、ヴィシネフスキーが殺された森からそう遠くない。残念なことに、担当者は脳みそが足らん奴でな。2つの事件につながりがありそうだと分かる前に、死体が動かされ、ここへ運ばれてきた。ソーニャはカンカンに怒ってる」
「でしょうな」
「死体は1週間ばかり放置されてたようだし、季節柄、暖かい日が続いた。おまけに、小動物の餌にされたみたいでね。顔の片側が概ね食いちぎられてる。そんなわけで、警告しておくが、諸君、イコンを鑑賞するのと訳が違うぞ」
刑事たちはいくつかのスウィングドアを通り抜け、ホルムアルデヒドの強烈な臭いと、裸の死体を載せた担架の渋滞の中を、縫うように歩いた。ほとんどが老衰や事故で死んだこのロシア人たちは死体になってまで、順番待ちの列に並ばされる運命らしい。
グリゴリーエフが「検査室5号」というプレートが付けられた鉄扉の前で足を止めた。その鉄扉を開けると、タルタコヴァが書類をかき集めて立ち上がった。瘴気の漂う廊下を一緒に歩く途中、ギレリスに聞いた。
「なぜ、こんなに時間がかかったのですか?」
「ドミトリ・ヴィシネフスキーの葬儀に出てたんだ」
「全員で?あの悶着屋さんのお弔いに?」
ギレリスがうなづく。
労働力の無駄遣いだと言いたげに、タルタコヴァが首を振った。グリゴリーエフがいさかいの火種を消すように、すかさず口をはさむ。
「解剖室は真っ直ぐ行った先だよ」
解剖室には2つの解剖台があった。一方では、うら若き美女がまさに切り開かれつつあり、肉のついた骸骨が脂肪の黄色いコートを脱ごうとしているように見えた。グリゴリーエフの部下たちは声高にしゃべり、血だらけのゴム手袋の指でタバコを惰性的に口へ運びながら、慣れた手つきでメスを振るい、内臓を仕分けしている。
もう一方の台を、刑事たちは取り囲んだ。台上には40歳半ばの裸の男が横たわり、上半身をまだ切開用ブロックに載せて、両腕を広げている。
顔の損傷についてのグリゴリーエフの警告は、けっして誇張ではなかった。片方の耳は無く、頬と顎の下側に硬貨大の穴がいくつも開いている。
「身元はまだ分かってません」タルタコヴァが言った。「どのポケットも空で」ファイルを開き、1枚の写真をギレリスに渡す。「しかし、これがドゥダロフでないことは、皆さんに同意していただけると思います」
ギレリスが無言でうなづいた。
「それでも、あなた方に来ていただいたのは、例の衛生観念を持ち合わせた喫煙家が現場にいた形跡があるからです」思わせぶりな視線をリュトヴィッツに向けた後、底のほうから開封されたウィンストンの空箱を入れたビニール袋を見せる。
「死体のそばに落ちてました」
「死因は?」ギレリスが言った。
「頭を1発、撃ち抜かれてる」グリゴリーエフが言った。「最初は、これも動物の咬み跡かと思ったが、よくよく見ると、額の真ん中に弾痕がある。犯人は額に銃口を押し当てて撃ったようだ。発射の衝撃で、傷口周辺の骨に亀裂が入ってる。処刑人の一撃だ」
「同一の凶器によるものと断定するには早すぎますが、もしそうだったとしても、意外ではありません」タルタコヴァが言った。
「死後経過時間は?」
「約1週間」グリゴリーエフが答える。「もうちょっと長いかもしれん。それ以上、絞り込むのは難しい。なにせ、ずっと日光浴をしてたわけだからね」
「1週間か、それ以上・・・」ギレリスが反芻するように言った。「だとすると、ヴィシネフスキーより先に死んでた可能性が大きい」
「ああ、そうなるね」
「胸と腹にある三角形の傷は、なんです?」リュトヴィッツが言った。
「死ぬ前につけられた火傷の痕だ」
「電気アイロンによるものです」タルタコヴァが付け加える。
「マフィア式のステーキの下ごしらえか」スヴェトラーノフが小声で言った。
「そうだな。この男から、何を聞き出そうとしたのか・・・」ギレリスが死体の片手を持ち上げた。「これはなんだ?この爪の中の汚れだ」
「ディーゼル油です」タルタコヴァが答える。「服にも、靴にも付着してました」
部屋の隅から段ボール箱を引っ張ってきて、中を指差す。ギレリスは上体をかがめて、死んだ男の長靴の片方を取り出した。中をのぞき込み、眉根を寄せて、製造業者の名前を読み取ろうとする。
「レンウェストだな」
「ということは、機械工でしょうか?」ラザレフが言う。
ギレリスは黙ってうなづきながら、長靴を丹念に調べた。
「あるいは、運転手だ。この靴底の減り具合を見てみろ。右の踵がずいぶん減ってる。アクセルを頻繁に踏んだせいかもしれん」
「バスの運転手?」
「バスか、トラックだろうな」
「油を分析してみれば、もっとはっきりとするでしょう」タルタコヴァが言う。
「そうだ、もうひとつ」グリゴリーエフはひとりの男性職員のほうを向き、招きよせた。「あの肝臓、ここに出してくれないか」
男性職員は解剖台の下からバケツを取り出し、ねばねばした赤黒い塊を掴んで、台上の死人の足元に載せる。
「たいへんに肥大してる」グリゴリーエフが言った。「だから、大酒飲みだったのだろうと考えた」
白衣のポケットからメスを取り出し、肝臓を切り裂く用意を整えた。
「みんなで匂いをかいでもらいたい」刑事たちは、肝臓のほうへ上体を傾けた。「よし、いくぞ」
メスが一直線に走ると、すえたアルコールの強烈な匂いが立ち込め、リュトヴィッツはむせ返りそうになった。全員が後ずさり、咳をしたり、力なく笑ったりする。
「ふむ、この件に関しては疑問の余地が無くなったわけだ」グリゴリーエフはご満悦の体だった。「ただ、不思議なのはこの男がベジタリアンだったらしいことでね」
「ほぅ、それは確かに妙だ」ギレリスが同意する。
「そうですか」リュトヴィッツが言った。「最近の肉の値段、見たことがありますか?」
スヴェトラーノフがうめき声を上げた。向かい側の台で若い女の死体を解剖していた職員の1人が、電気ノコギリで頭蓋骨の上部を切り取り始めたのだ。
「二度と肉なんて食えそうにないな」情けない声で、スヴェトラーノフは呟いた。
37
リュトヴィッツはパンツと靴下の恰好で、ベッドにじっと横になっていた。
頭までシーツをかぶり、眼を閉じる。頭の中でチェスのコマが、命じられもしないのに盤上に並んだ。自称カスパロフが残したチェス盤。リュトヴィッツは棋譜を脳裏から消し去ろうとした。コマを全部払い落して盤の白いマスを黒く塗りつぶそうとした。コマやプレーヤーに汚されず、テンポだの戦術だの戦力差だのに煩わされない、ウラル山脈のような黒いチェス盤。
頭の中のチェス盤が全て塗りつぶされたとき、ドアにかすかなノックがあった。半身を起こし、壁と向き合った。こめかみで脈がずきずきと打った。頭からかぶったシーツがぴんと張った山になり、リュトヴィッツはさながらお化けに扮して誰かを脅かそうとしている子どもだった。テーブルの上の電話から柔らかな囀りが聞こえたが、あまりにも深い泥の中に埋まっていたような感じで、電話の音も夢の中のように思えた。枕は酒や汗、唾の汚らしい混合液で湿っていた。腕時計を見る。午後10時20分。
「サーシャ?」
しばらくすると錠が音を立て、ドアが開き、ギレリスが入ってきた。
「まったく・・・まさに糞の山だな」
リュトヴィッツの背広やバスタオルの浅瀬を渡って、ギレリスはベッドの裾に立った。ピンクの地に赤ワイン色の花輪模様を配した壁紙、焦げ跡や染みが不規則に散る緑色のフラシ天のカーペット、割れたガラス、空き瓶、表面が剥げたり欠けたりしているベニヤ板張りの家具などを見回す。
リュトヴィッツはベッドの裾からギレリスの嫌悪をあらわにした顔を見上げるのを愉しんだ。愉しまなければ、恥辱の念が襲ってくるからだ。
「何があったんです?」
「私は待つのが好きじゃない。とくに君を待つのは」ギレリスはタバコに火を付けて、紫煙を吐く。「気つけにどうだ?」
ギレリスが箱をよこすと、リュトヴィッツは身体を起こし、シーツを巻きつけた。
「パンツと靴下だけで寝る。君の場合はいつも悪い兆候だ」
「たぶん憂鬱症のせいですよ」
ギレリスは灰皿の代用品を眼で探した。「刑事部長に電話があった。ルージンとかいうグルジア・マフィアの顧問弁護士から。君がオレグのご母堂にどうたらこうたら」
「すいません。ちょっと失礼します。もう我慢できない」
リュトヴィッツが下着姿で立ち上がると、シーツがずり落ちた。ベッドを回りこみ、洗面台とスチール製の鏡とシャワーのある狭いトイレ兼バスルームに入る。ドアを閉めて長い小便をし、純粋な快感を味わった。ドアのフックに掛かっていたバスローブを着て、ベルトを締める。便器の水を流して部屋に戻り、リュトヴィッツは口を開いた。
「息子が死んだことを知らせなきゃならなかったんです」
「息子?」ギレリスが顔をしかめる。
「このホテルの206号室で、宿泊客が撃ち殺されたんです。被害者は若いロシア人で、カスパロフという偽名を使っていた。偽名の通りチェスが趣味のヤク中で、チェス仲間にはニコライと名乗っていた。だが、カスパロフことニコライこと206号室の被害者の本名は、ヴァレリー・サカシュヴィリ」
「噂で聞いたことがある。ヴィクトル・サカシュヴィリの消えた長男」
「オレグ・サカシュヴィリの兄でもある」
ギレリスは口を開き、また閉じた。驚きよりは関心を強く示すしぐさだ。ヴィシネフスキーの事件との関連を探り出そうとしているかのようだった。
「オレグとヴァレリーの母親は何と答えた?」
「ちょっと冷淡な印象を受けました」
「驚いた様子は?」
「特にそんな様子もなかったです。ただ、そこから何が言えるかは分かりません。ヴァレリーはだいぶ変わり種だったようで、一緒に生活することが出来なかった。オレグは度し難い程の愚か者だと憤ってました」
「ヴァレリーというのは、どんな奴だったんだ?」
「一種の神童。チェスにしろ、語学にしろ、IQが170あったとか」
「ほう」
ギレリスはチェスの神童が麻薬中毒者となってセンナヤ広場の安宿で殺されるまでの道程に、思いをはせるような顔になった。
「ところで、何があったんです?」リュトヴィッツが言った。
「ああ、そうだ。君は早く服を着たまえ」ギレリスはタバコの吸殻を開けた窓から投げ捨てた。「ドゥダロフが大屋敷に電話してきた。話をしたがってるらしい。容疑を晴らすためにな。ヴィシネフスキーの死と無関係だと証明してみせるということらしい」
「どうやって?」
「ヤツは、外で会いたがってる」腕時計を見ながら、ギレリスが言う。「グリボイェードフ運河に架かるバンク橋の上で、20分後だ」
そう言って、ギレリスは先に部屋を出て行った。リュトヴィッツはバスローブを脱ぎ、手早く身支度を整える。上着の内ポケットに身分証があることを確かめ、マカロフを収めた腋の下のホルスターを軽く叩いた。
部屋を出ると、エレベーター待ちをしていたギレリスに追いつき、2人で箱に乗り込んだ。アルコールと吐瀉物のすえた臭いに、ギレリスが顔をしかめる。
「信用していいんですか?」
「こっちには、失うものがない。それに、逆探知する時間も無かったようだから、他にやり方はあるまい」
エレベーターがガクンと揺れて一階に着き、ギレリスとリュトヴィッツは夜の日差しのもとに出た。ギレリスのジグリをリュトヴィッツが運転し、ネフスキー大通りを南に、そして西へ走る間、沿道に人影がほとんど見えなかった。
グリボイェードフ運河の岸まで来て、小さな木造の吊り橋の少し手前で、ギレリスは停めるよう言った。ダッシュボードからタバコの箱を取ると、ギレリスは車を降りた。
「君は車に残って、電話が鳴ったら出てくれ」
道路を渡って、ギレリスは橋の真ん中に立ち、欄干に寄りかかる。しばらくして、腕時計に眼を落とす。ドゥダロフが指定してきた時刻のようだが、ドゥダロフの姿はない。ギレリスは忍耐強く橋の上に立ち、時おり灯るマッチの火だけが、緊張が途切れず続いていることを告げていた。
日付が変わって1時を回ったとき、自動車電話が鳴った。ギレリスにも、ベルの音が届いたようだ。リュトヴィッツがすかさず受話器を取ると、ギレリスはこわばった背筋を伸ばし、ゆっくりと車のほうへ歩いてきた。電話の相手は、ラザレフだった。
「ドゥダロフは来ませんよ」ラザレフが言った。
「何があったんだ?」
「撃たれました。ネフスキー大通りのチタン・シネマの前です。そこで会いましょう」
38
ギレリスを助手席に乗せると、リュトヴィッツは押し黙ったままハンドルを回し、車をグリボイェードフ運河沿いに走らせた。ネフスキー大通りに出て、後ろ足で立つ馬のブロンズ像をあるアニチコフ橋に差しかかるあたりから、スピードを緩めた。前方に、青いライトが点滅しているのが見えてくる。
車を停め、ギレリスとリュトヴィッツが野次馬を押し返している警官の列をすり抜けたとき、ゲオルギー・ベルマンと取材チームの姿が眼に入った。ベルマンの叫び声が追いかけてきたが、ギレリスは無視した。
赤いジグリの周りを、科学技術部の技官たちが取り囲んでいた。うち2人がメジャーを持って、凶器となった銃と被害者の間の距離を測っている。59分署の管轄内なので、ペトロヴァ少尉が報告の用意をして待っていた。
「顔面に3発。直射です。停車中のジグリから発射されました。一部始終を見ていたという目撃者がおります」
振り向いて、2人の警官の間に不安そうに立っている小さな少年を指差す。
ギレリスとリュトヴィッツは距離の測定が終わるのを待って、開いた車の窓に首を突っ込んだ。
ドゥダロフはシフトレバーの上にかぶさるように倒れ、血だらけの助手席に顔を埋めていた。助手席側のドアが開けられており、技官の1人が流れ弾を探して、床やドア・パットを入念に調べている。
リュトヴィッツは身体を起こし、ちょうど現場に到着したラザレフがギレリスを捜しているのを見た。ギレリスは少年の前にしゃがみこんでいた。
「名前は、なんというんだ?」
少年は腹をすかせた犬みたいに、ギレリスの喉元を見据えた。汚れたデニムのジャケットと、二まわりくらい大きいタートルネックのセーターを着ている。坊主に近い丸刈り頭を掻き、それから暗くどんよりとした眼をこすった。せいぜい12歳というところか。疥癬に罹った犬よりひどい臭いがする。
「このガキ」警官のひとりががなり声で言った。「施設に入れられたいのか?」
「おい、おい」ギレリスが言った。「大事な目撃者さまだぞ」
タバコの箱を出して、ギレリスは少年に1本勧めた。少年は受け取り、ギレリスのライターのほうへ上体をかがめて、慣れた動作でタバコを吹かした。
「ミハイルだよ」ようやく言う。「ミハイル・チヴィソフ」
「なぁ、ミハイル。君は勇敢な子だ。同じ年配の子どもなら、大抵こんな事件を目撃したら逃げてしまうだろうからな」
少年はわずかに肩をすくめた。「ちっとも怖くなかったよ」鼻をふくらませる。
「ああ、そうだとも。で、何を見たんだ?」ギレリスはそう言いながら、残ったタバコを少年の汚れた上着のポケットに押し込んだ。
「撃たれたほうの人は、ちょうど信号で車を停めたとこだった。何秒かしてから、横に別の車が停まったんだ。その車の助手席の人が、タバコを持った手を窓から出して、火を貸してくれっていうみたいに何度か振った。それで、相手の人が窓を下ろして、マッチを渡そうとしたら、タバコを持ってた人がその腕をつかんで、銃を撃ち始めた」
興奮ぎみに首を振りながら、ヒットマンの動作をまねる。
「バン、バン、バンって。こういう感じ。あんな音を聞いたのは、初めてだったな。そして、その車はすごいスピードで走り出した。ネフスキーを旧海軍省のほうへちょっと走った後、タイヤをキーッといわせてUターンしたよ。映画みたいにさ」
「どんな車だったんだ、ミハイル?」
「ジグリ。薄茶色。ペテルのナンバー」
「何人、乗ってた?」
「3人。でも、後ろに乗ってたのは、女の人だと思うよ」ミハイルは首を振った。「はっきりとは分からない。もう一方の車が間にいたし、銃の音がしたもんで。ぼく、あそこの戸口で身をかがめてたんだ」
映画館の入口を指差す。
「それでよかったんだよ」ギレリスが言った。「ところで、ミハイル。君の住所は?」
「プーシキンスカヤ通り77番地。1号棟の25号室」少年は自分のトレーナーに眼をおとした。「父さんが休暇で、海軍から帰ってきてるんだ。帰ってくると、必ず酒を飲む。そして、必ずぼくを殴る。だから、なるべく家にいないようにしてるのさ」
ギレリスはうなづいた。プーシキンスカヤ通りは、ここからほんの数ブロックほどの距離にある。それに、酔っ払いの父親はロシアの家庭につきものだ。
「よし、ミハイル。もう行っていいぞ。気をつけてな」
少年はニヤッと笑って、慎重な足取りで去っていった。
「うそつき小僧め」ギレリスが呟いた。「どこかの施設から抜け出してきたんだろう。あの頭は、どうやってもごまかせん」
リュトヴィッツは車の向こう側を回って、ビニール袋の上に並べられたドゥダロフの遺留品を見に行った。ドゥダロフのリボルバーを手に取り、薬室を開いて、銃身を調べる。
「ヴィシネフスキーを撃ったのは、オートマチックでしたね」
ラザレフはタバコの箱を点検していた。「ロシア製です」1本のフィルター部分を引っ張り上げる。「箱の上のほうをちゃんと開けてあります」
ギレリスはドゥダロフの財布を開いた。ドル紙幣の束を袋の上に投げ出す。それから何枚かの食券、コンドーム1個、鉄道乗車許可証、ヴィシネフスキーの死を報じた新聞の切り抜き。ゴム印の押された公文書ふうの小さな紙切れを手に取ると、「これだ、これだ」と抑えた声で言った。
「なんです?」リュトヴィッツが言った。
「ドゥダロフのアリバイだ。このことを話したかったんだろうな。釈放証明書だよ。ペトログラードスキー地区の民警が発行してる。これによると、ヴィシネフスキーが殺された夜、ドゥダロフは泥酔してトラ箱に入られてる。だから、自信たっぷりに私に会いたがったわけだ。これが本物なら、ヤツは完全にシロになる」
ギレリスはラザレフに証明書を渡した。
「明日の朝、確認しておいてくれ。念のためにな」
「よいニュースがあるんですが」ペトロヴァ少尉が告げた。
「もったいぶらずに、聞かせてくれるか?」
「窃盗犯が見つかりました。昨日の夕方、分署の者がアウトーヴォ市場で逮捕しました。ヴィシネフスキー氏の“金の子牛”を売ろうとしてました」
「何者だ?」
「イワン・アキモフという名の未成年者です。両親と一緒に、ヴィシネフスキー氏と同じアパートに住んでます」
ギレリスが労をねぎらうようにうなづいた。
「よくやったな、少尉。それから・・・」
その頃には、ベルマンの取材チームが民警の非常線を突破していた。カメラマンがドゥダロフの死体に近づき、その隣にベルマンが立ち、手にしたマイクに向かって状況を説明している。再びベルマンがギレリスを呼び、追いかけてきた。
「何がここで起こったのか、お聞かせ願えませんか?」それから、マイクに手の平をかぶせた。「ギレリス、この前のことをまだ根に持ってるじゃないだろうな。ぼくは自分の仕事をしてるだけだ。今だって、同じだよ。ここで何があったのか。これは、マフィアの殺し合いなのか?」
ギレリスは足を止め、あからさまな憎悪の眼差しをベルマンに向けた。一瞬、拳がくり出されるのではないかと思えた。ギレリスは赤いジグリとドゥダロフの死体のほうを顎で示した。
「本人に聞いてみたらどうだ?」
39
ギレリスの執務室は広さがコンドラシンの部屋の半分ぐらいだったが、リュトヴィッツには今のロシアで個人の部屋が与えられるだけで僥倖のように思えた。壁にサンクトペテルブルクの大きな地図が貼られ、市内22の地区に境界線が書かれていた。片隅にはファイルや書類を収めた大型の金庫が置かれ、レーニンの石膏像が上に載っている。洗面台とコート掛けのついた造り付けの戸棚がある。
何台もの電話が並ぶ執務机にテープレコーダーを載せ、ギレリスとリュトヴィッツはKGBが盗聴したヴィシネフスキーの通話記録を聴いていた。その前に保安省に頼んでレストラン・トビリシに仕掛けてもらった盗聴マイクの記録を聴いたが、大した成果は上がらなかった。グルジア・マフィアの大半が酔っ払っていて、何を話しているのか、さっぱり分からないという有様だった。
「ちょっと聴いてみてくれるか?事件の1週間前に録音されたものだ」
ギレリスがスイッチを入れる。
《はい、ドミトリ・ヴィシネフスキー》最初の声は、テレビでおなじみのものだった。
《トーリャだよ》
《おお、トーリャ。かかってくるのを待ってたよ》
《手紙、受け取ったか?》
《ああ、受け取った。とても興味深い内容だった。しかし、本当なのか?》
《全部、本当さ。証拠もある》
《だったら、これは大変なことだ。でかい記事が書ける》
《そりゃそうだろうよ》
《電話では、これ以上話さないほうがいい。どこで会える?》
《ペトロパブロフスカ要塞はどうかね?聖堂の中で。そうだな、三時に》
《わかった。行くよ》
ギレリスがスイッチを切り、反応を待つように相手の顔を見た。
「トーリャはウクライナ人のようですね」リュトヴィッツは言った。「子音がちょっとこもり気味で」
「私もそう思った」
ギレリスは手帳を見て、書き留めておいた数字にカウンターが達するまで、テープを早送りする。
「次はこれだ。ヴィシネフスキーが盗難を届け出たその日の朝」
《もしもし》女性の声だった。教養が感じられる。ペテル近郊のなまり。
《やぁ、ドミトリ・ヴィシネフスキーだ》
《お久しぶり。お元気?》
《ああ、元気だよ》
《今は何を追いかけてらっしゃるの?》
《あなたにちょっと、頼みたいことがあってな。興味があればの話だけど》
《マスコミのお役に立つことなら、なんでも》
《よかった》
《どういったテーマ?》
《電話では、話したくない。そちらへ、迎えに寄ろう。昼前では、どうかな?》
《結構よ》
《じゃあ、そのとき》
「さて、何の話をしてたのやら」ギレリスが言った。
テープをまた早送りする。
「最後はこれだ。われらがウクライナの友が、ヴィシネフスキーの殺されたその日に、再びかけてきてる」
《はい、ドミトリ・ヴィシネフスキー》
《おれだよ、トーリャ》
《トーリャ、どこに行ってたんだ?何か起こったんじゃないかと、心配したぞ》
《夕べは酔っ払っちまったんだ》
《またか?そんなに飲んだら、だめじゃないか。体によくない》
《飲むぐらいしか、やることないだろ。それに、ほかのことも忘れられる》
《調子が悪そうだな》
《きっと、二日酔いさ。ところで、もう一度会えないかな?まだあんたに話したいことがあるんだ。大事なことだよ》
《いいとも。どこで会う?》
《またペトロパブロフスカで。あそこのレストラン、知ってるかね?》
《ポルタヴァか?ああ、知ってるよ》
《8時半に、テーブルを予約しといた。ベリヤって名前で》
《ベリヤ?》ヴィシネフスキーがくすくす笑う。《違う名前は思いつかなかったのか?》
しばしの沈黙が訪れる。
《なんか都合が悪いのかね?》
《気にしないでくれ。それより、体は大丈夫か?トーリャ》
《ただの二日酔いだって。ほんとだよ。じゃあ、あとで会おう。来るだろ?》
《行くよ》
「さぁ、どうだ?」ギレリスが言った。
「トーリャが、なんだかびくついてるようですが」
「かなりな」
「ヴィシネフスキーはレストラン・ポルタヴァでトーリャを待ってたんですね」
「ベリヤが何者か、トーリャは知らなかったようだ。それは、ただの無知なのか?出まかせを口にしただけの偽名なのか?それとも、何か意味があったのか?ヴィシネフスキーが警戒しなくちゃいけなかった何かの兆候が・・・」
「われわれが見逃した何か」
「もしかすると先日、保管所で見てきた死体はこいつだったのか?芳醇な香りでわれわれを楽しませてくれたあの肝臓が、トーリャのものだったとしても、別に不思議はない」
「そうだとすれば、トーリャを痛めつけた連中は、彼を使ってヴィシネフスキーを呼び寄せたかった。最後の電話をかける間、銃口が頭に突き付けられていたのかもしれない。だから、トーリャは具合が悪かったというより、不安に脅えていた。脳天を吹き飛ばされるんじゃないかという不安。そして、まさにその不安は的中した」
リュトヴィッツは息をつき、ギレリスが相槌を打ってくれるのを待った。
「続けてくれ」
「連中はヴィシネフスキーをレストランで待たせて、出てきたところを捕まえた。夜の要塞はひっそりしてて、騒ぎが起こる心配もなかった。車に乗せるのに、大して苦労は要らなかった。その頃には、オレグ・サカシュヴィリも連中の手の内にあった。連中は二人をあの森まで連れていき、撃ち殺した」
ギレリスがうなづいた。
「ああ、そういうことだろうな。サーシャ、クリコフに言って、市内のバス会社と運輸会社にかたっぱしから電話させろ。トーリャという名のウクライナ人で、この2週間ほど、欠勤してる運転手がいないかどうか、確かめるんだ」
リュトヴィッツの顔に浮かんだ懐疑の表情に気づいて、首を左右に振る。
「とんでもない命令だということは分かってる。長期や無断の欠勤は、最近じゃちっとも珍しくないからな。トーリャの身元を割り出して、彼がどんな情報を持ってたのかを突き止める必要がある。それが分かれば、ヴィシネフスキーが殺された理由も分かる。たぶん、オレグ・サカシュヴィリについても」
40
そのとき、ラザレフが執務室に飛び込んできた。
「麻薬取締部隊にいる友人から、電話がありました。ヴィシネフスキーが殺された夜、部隊の追っていたヤクの売人が緑のメルセデスで走り回ってるという通報があったそうです。GAIに照会したところ、それに相当する車は全市に3台しかありませんでした。それを1台に絞り込んでいく過程で、残る2台のうち1台が午後11時ごろ、ネフスキー大通りを走ってるのが目撃されました。その1台の持ち主が、メレブ・パルサダニヤン」
「あのグルジア人どもがいたと言い張ってる場所からは、ずいぶん遠いな。プリバルチスカヤのレストランからは」ギレリスはタバコに火をつけ、ぐいっと身を乗り出した。
今度は、スヴェトラーノフがドアを開けた。写真を何枚か手にしている。
「スミルノフが今、あのグルジア人の葬式の写真を持ってきてくれました」そう言って、ギレリスの執務机にずらっと並べた。その中の1枚に、ギレリスの注意を引きつけようとしている。グルジア・マフィアのボス、パルサダニヤンの写真だった。
「なかなか男前じゃないか」ギレリスが言った。
「面白い話があります。たった今、モロゾフから事情聴取をしていて・・・」
「モロゾフと言うのは?」
「レストラン・トルストイのオーナーです」リュトヴィッツが言った。「フォンタンカ運河沿いに建つコーペラチブ形式のレストランで、窓から数本の火炎瓶が投げ込まれ、従業員ひとりが火傷を負い、テーブル二脚が焼失した事件があったんです」
「それで?」
「事情聴取のとき、俺がうっかり写真を床に落としたんですよ。やっこさん、パルサダニヤンのこの写真をちらっと見て、すくみあがったような顔をしてました」
「モロゾフのレストランは、ネフスキー大通りからほんの少ししか離れてない」
ギレリスが眼を向けると、スヴェトラーノフはうなづく。
「火炎瓶が投げ込まれたと通報があったのは、何時だった?」
「10時50分ごろ」リュトヴィッツが応えた。
「その10分後、パルサダニヤンの緑のベンツがネフスキー大通りを走ってたという報告があった。となると、連中は火炎瓶で脅しをかけた後、モロゾフの店から引き上げてきたところだったのかもしれん」
ギレリスは椅子から立ち上がり、小さな流し台で手を洗い始める。
「なあ、放火未遂事件の参考人として、あのグルジアの野郎どもをしょ引いてくるというのは、どうだろう?」
「ですが、あの連中を拘留できるのは3日ぐらいしかないですよ」ラザレフが言った。
ギレリスは肩をすくめ、扉の内側に掛かったタオルで手を拭いた。
「3日の期限が切れる前に、まずは放火未遂で起訴に追い込める。その次は、ヴィシネフスキーの殺害容疑で再逮捕すればいい」
ギレリスはジャケットをはおり、ネクタイを直した。
「OMONに話を通しておこう。サーシャ、一緒に来るんだ」
階段を降りると、女の塗装工が壁を緑のペンキで塗っているところだった。
「なんで、どこもかしこも緑にしなきゃならんのだ?」ギレリスががなった。「マフィアの頭領が乗ってるベンツと同じ色とは。他の色にできんのか?たとえば、赤とか」
女は咥えていたタバコをゆっくりと口から離した。ロシアで暮らすほとんどの労働者と同じく、てきぱきと仕事をこなそうなどという考えは頭に浮かべたことも無さそうだ。
「赤は切れてんのよ。緑しかないの」
ギレリスはうめき声を漏らしただけだった。リュトヴィッツは慌ててその後に続いた。
「文句があるんだったら、上の人間に言ってよ」女の声が追いかけてくる。「あたしに言われても、困るよ。ここで働いてるだけなんだから」
特別任務民警支隊(OMON)は武装犯罪集団の取締や、デモ・暴動の鎮圧を主な任務としている民警のコマンド組織である。迷彩柄の制服にヘルメットや目出し帽、防弾チョッキを着用し、機関銃やショットガンを携行している。
大屋敷の1階にある広い一室で、OMONの隊員たちは出動命令を待ちながら、シュワルツネッガーのビデオを鑑賞していた。アクションシーンさえあれば、筋やセリフはどうでもいいらしかった。隊員のほとんどは、20代の青年だ。職務に熱心なエリート警官の集団というより、試合に備えて肩の力を抜こうとしているプロのサッカー・チームのように見える。
リュトヴィッツは、スヴェトラーノフから聞かされたホテル・プリバルチスカヤでグルジア・マフィアと対峙したときの様子を思い出した。グルジアの連中は、研修用のビデオとして「ゴッドファーザー」を繰り返し見るのだという。犯罪者に対したときのOMONの非情さを考えれば、マフィアと大して変わらないなと、リュトヴィッツは思った。
隊員たちの大部屋の隣に、サンクトペテルブルクのOMON部隊長セルゲイ・シェバーリン中尉の部屋がある。その部屋で、翌朝行われるグルジア・マフィアの一斉摘発について打合せした後、ギレリスはヴィシネフスキー事件の話をし始めた。
「君の部隊にロマン・スヴェルコフという男はいるか、中尉?」
「今はおりません。1年前、右脚に銃弾を受けましてね。覚えてますか?ほら、アブハズ人の組織と銃撃戦をやらかしたときです」
ギレリスはあいまいにうなづいた。
「傷病を理由に、OMONを外されました。今はプーシキンにある警察学校で、小火器の指導教官をしてます。短銃の射撃で、あいつに敵う奴なんていませんよ」
「アルバイトに個人の護衛を請け負うような男だろうか?」
シェバーリンは隣の大部屋の方に眼をやった。シュワルツネッガーが機関銃を連射する場面に、部下たちが喝采を送っている。
「大佐、うちの隊員の半分はなんらかの副業を持ってます。安月給という辛い現実がありますからね。本業で月225ルーブルしか稼げないのなら、非番の空いた時間に雑誌のモデルをやったとしても、責めるわけにはいかんでしょう。スヴェルコフですが、傷を負ったとき、補償金をいくらもらえたと思います?ゼロですよ、ゼロ」
「いつも言うことだが、安く賄える警察ほど高くつくものはない」