〇救出作戦
モスクワの「最高司令部」は「天王星」作戦の成功を受けて、冬季戦の第2段階である「土星」作戦に着手した。この作戦は南西部正面軍の西翼によって、ドン河に沿ったイタリア軍陣地を突破し、そこからロストフの奪取を目指すものだった。
一方、ドン軍集団司令部は第6軍の救出作戦である「冬の嵐(ヴィンテルゲヴィッター)」作戦を、総統大本営との十分な協議を重ねた末に立案した。
「冬の嵐」作戦の目的はソ連軍の包囲を突破して、第6軍に補給物資と増援部隊を送るための「回廊」を作り上げることだった。ヒトラーは第6軍の陣地を保持し続けることによって、今後もスターリングラードをうかがうことを考えており、孤立地帯の包囲突破を許可するつもりは毛頭なかった。
しかし、ドン軍集団司令官マンシュタイン元帥は第6軍が孤立地帯で越冬できる状態にないことを知っていたので、独自にドン軍集団司令部に「雷鳴(ドンネルシュラーク)」作戦の立案を命じていた。「雷鳴」作戦は「冬の嵐」作戦が成功した後、第6軍は陣地を放棄してドン軍集団と合流するという内容だった。
「冬の嵐」作戦の基幹兵力はA軍集団から引き抜かれた第57装甲軍団(キルヒナー大将)であったが、あまりにも弱体化していたので、マンシュタインは軍団下に第23装甲師団(ボイネブルグ=レングスフェルド少将)の他に、フランスから第6装甲師団(ラウス少将)を編入させ、この師団は11月27日にコテリニコヴォに到着した。
12月3日、コテリニコヴォから北西約11キロの地点にあるパフリョービン村近くで、第6装甲師団はソ連第4騎兵軍団との猛烈な戦闘に巻き込まれた。固い氷を踏み砕きながら進撃するドイツ軍の戦車部隊は、ソ連第81騎兵師団に多大な損害を与えて排除した。
この報せを知ったスターリングラード正面軍司令官エレメンコ大将は、ドイツ軍が増援部隊を得てコテリニコヴォから北東に攻めるのではないかというジューコフの危惧が具現化したことをスターリンに急報したが、スターリンは孤立地帯の南西に兵力を移すことを拒否した。
ヒトラーはもはや一刻の猶予もならないと主張し、12月10日に「スターリングラードに救援攻撃を行うべし」との指令をドン軍集団司令部に送った。「冬の嵐」作戦は包囲網から125キロ南のコテリニコヴォから開始されることになった。
12月12日、短時間の支援砲撃を行なってから、第57装甲軍団による「冬の嵐」作戦が始まった。孤立地帯に閉じ込められた第6軍の兵士たちは遠くで響く砲撃に耳をそばだてた。噂が第6軍を駆けめぐる。兵士たちは口々に「マンシュタインが来るぞ!」と言い合った。
「最高司令部」はドイツ軍の救出作戦がこんなに早く行われるとは予想していなかった。ドイツ軍攻撃のニュースが無線で伝えられた時、第51軍司令部にいたヴァシレフスキー参謀総長はクレムリンに電話をつなげるが、スターリンは出なかった。次にドン正面軍司令部に電話を入れ、第2親衛軍(マリノフスキー中将)を反撃のためにスターリングラード正面軍に移すよう頼んだが、ドン正面軍司令官ロコソフスキー中将は強く抗議した。夕方になってスターリンとようやく連絡が付いたが、自分に決断を迫る気だと思ってスターリンは腹を立て、返事を渋った。
一方、エレメンコは包囲網の南西でドイツ軍の攻撃を受けている第57軍の救援に、第4機械化軍団と第13戦車軍団を派遣した。第57装甲軍団の先鋒をゆく第6装甲師団はすでにアクサイ河を渡り、48キロも前進していた。翌日の朝までクレムリンは討議し、2日のうちに第2親衛軍を移すことをエレメンコに伝えた。
12月14日、第6装甲師団はヴェルニフェ・クムスキーに到達した。ここにソ連軍の戦車部隊が駆けつけ、3日間の攻防が始まった。ドン軍集団はイタリア第8軍の後方にいた第17装甲師団(エッターリン少将)を応援に送り、損害は大きかったものの第57装甲軍団はムイシコワ河の南岸に到達した。
スターリンはドイツ軍の進撃の速さに驚きつつ、ジューコフとヴァシレフスキーの情勢判断が正しかったことにすぐ気づいた。第6軍の救出作戦を粉砕する最も効果的な方法を求められたヴァシレフスキーは、ひとまずムイシコワ河の線で救援部隊の攻勢を阻止しながら、他の地点からドイツ軍に打撃を加える案を示した。そのため、「土星」作戦は予定していたロストフへの進撃を中止し、ドン河とチル河の南岸を守っているイタリア第8軍とホリト支隊だけを包囲することを最優先目標に変更された。
「土星」作戦は名前も「小土星(マルイ・サトゥルン)」に変更され、ムイシコワ河におけるドイツ軍の反撃に、第2親衛軍が包囲網の締め上げから外れることになった。
〇「小土星」作戦
12月16日、ドン河の上流から南西部正面軍の第1親衛軍(クズネツォーフ大将)と第3親衛軍(レリュウシェンコ大将)が南に向かって攻撃を開始した。「小土星」作戦が始められたのである。当初、ソ連軍の攻勢は遅れ気味だったが、2日後にはイタリア第8軍の2個軍団(第2・第35)を一掃させた。第17装甲師団も「冬の嵐」作戦に参加させた今、ドン軍集団には戦略予備が全くなかった。
南西部正面軍は第3親衛軍の第1親衛機械化軍団と、ヴォロネジ正面軍に所属する第6軍の第24戦車軍団を先頭に、チル河南方のタツィンスカヤとモロゾフスカヤにあるドイツ空軍の野戦飛行場に向かって進撃を続けた。
12月19日、マンシュタインは情報将校アイスマン少佐を孤立地帯の第6軍司令部に派遣した。後にドン軍集団司令部と第6軍司令部の間でテレタイプ(無線機と連動したタイプライター)による通信回線が開かれ、来たるべき包囲突破作戦の段取りについて具体的な話し合いが行われた。
第6軍の現状を知ったマンシュタインは、ただちにパウルスに包囲突破の第1段階として、スターリングラードを維持しつつ孤立地帯の南を流れるドンスカヤ・ツァーリツァ河まで前線を拡張するよう命じた。第57装甲軍団はすでに孤立地帯から48キロ南のムイシコワ河に到達しており、作戦開始のタイミングとしては悪くないだろうと思われた。
しかし、パウルスは孤立地帯の放棄を含めた「雷鳴」作戦との組み合わせでなければ「脱出は実行不可能」と反論した。この点はマンシュタインも承知していたが、ヒトラーは「雷鳴」作戦の認可を頑なに拒み続けていた。
12月23日、マンシュタインはパウルスがヒトラーの命令を無視して行動を示すことに期待して、このように打電した。
「『雷鳴』作戦を今すぐ実行に移すことは可能か?」
これに対し、パウルスはこのように答えた。
「現状の燃料備蓄量では、第57装甲軍団の待つ位置まで到達できる見込みは皆無です」
ドイツ空軍は11月24日から孤立地帯への空路補給を始めていたが、結果として第6軍に十分な物資を輸送することは出来なかった。第4航空艦隊司令官リヒトホーフェン上級大将は、空軍参謀総長イェショネク大将に「輸送機の一部が北アフリカ戦線に転用されて機数が不足しており、第6軍への空路補給はできない」と警告したが、ゲーリングからは何の反応も無かった。
輸送機の不足に悪天候が重なって、日毎の平均到着量は第6軍が必要と算定した量(300トン)の半分も満たない、約120トンに過ぎなかった。約28万人の兵士に対する食糧はわずかで、積荷の4分の3こそ燃料だったが、そのほとんどが輸送機をソ連空軍から護衛する戦闘機に使用されていた。
パウルスは空路補給に関して疑問を覚えていたが、すでに第6軍内部では権威を失っていた。代わりに軍を掌握したのは、参謀長のシュミットであった。シュミットは総統大本営やB軍集団司令部が孤立地帯に対して十分な補給を行う責任があると周囲に説き、パウルスの意見を無視して、十分な燃料が空輸されるまでは脱出しないという軍全体の総意を取り付けていた。だが、第6軍への補給はさらに窮地に追いやられることになる。
12月23日、第24戦車軍団(バダノフ少将)が約240キロもの進撃を果たしてタツィンスカヤの北に位置するスカシルスカヤに到達した。タツィンスカヤには第6軍の空路補給のためのJu52輸送機の主力基地があり、ドン軍集団司令部が置かれたノヴォチェルカスクまでわずか180キロの地点だった。
第24戦車軍団はタツィンスカヤの飛行場に急襲を仕掛け、基地に置かれていた輸送機72機を破壊することに成功した。4日後にドイツ第48装甲軍団の反撃を受けて撤退せざるを得なくなった頃には、タツィンスカヤの飛行場は完全に破壊されていた。ドイツ第4航空艦隊は遠くの粗末な飛行場に移動しなければならなくなった。
12月24日、ムイシコワ河にいる第57装甲軍団は第2親衛軍の第7戦車軍団(ロトミストロフ少将)による反撃を受けて大きな損害を受けた。あまりの損害の大きさに、第4装甲軍司令官ホト上級大将はついに退却命令を下達した。
この退却命令は第6軍の救出作戦が完全に失敗したことを意味していた。
〇「鉄環」作戦
マンシュタインによる救出作戦が失敗に終わり、第6軍に残された道は空路補給された物資で次の応援部隊が来るまで持ちこたえることだったが、それも絶望的であった。ソ連南西部正面軍の戦車部隊によって、タツィンスカヤに続いてモロゾフスカヤも制圧され、ドン軍集団はドン河上流の陣地を放棄しなければなくなった。
12月28日、第14装甲軍団長フーベ中将は孤立地帯を出て、ドン軍集団司令部に飛ぶよう命令を受けた。東プロセインのラシュテンブルクで、ヒトラー自らがフーベに柏葉付騎士十字章を授与するという。パウルスはシュミットに命じて、燃料から医療品まであらゆる件に関する「全必要書類」をフーベに持たせた。フーベはヒトラーが尊敬する数少ない軍人であり、第6軍の幹部たちはフーベの訪問に希望を託した。
その間に、スターリングラードの市街にあったソ連第62軍は、ヴォルガ河の氷結にわき立った。負傷者が出ても今後はすぐに氷の上を通って野戦病院に運べる。半装軌車やトラックに続いて、北部の工場地帯における膠着した戦況を打破するために、必要な火砲が西岸に運ばれた。
12月19日、第62軍司令官チュイコフ中将は2か月前に司令部を移動して以来、初めてヴォルガ河東岸に赴いた。徒歩で氷の河を渡り、東岸に着いた時には振り返って、自軍が守っていた廃墟をつくづくと眺めた。
スターリンはこの日の朝、「最高司令部」代表として「小土星」作戦の監督にあたっていたヴォーロノフ上級大将に電話を入れ、第6軍の陣地壊滅とスターリングラードの解放を目的とした作戦の立案に取りかかるよう命じた。
12月27日、ヴォーロノフは「鉄環(コリツォフ)」作戦を、モスクワの「最高司令部」に提出した。スターリンは大筋で作戦に承認を与えたが、スターリングラードの工場地帯と南部を切り離して孤立させるべきとの意向を示した。
第6軍にとどめの一撃を加える「鉄環」作戦を担うことになったドン正面軍には兵員28万8000人、戦車169両、火砲5610門、航空機300機が与えられた。しかし、正面軍の兵站能力が貧弱なため、物資の配送や部隊の移動に遅れが相次ぎ、ヴォーロノフは4日間の猶予を要請した。スターリンは怒りを爆発させた。
「君はそこに安穏と座って、ドイツ軍が君やロコソフスキーを捕らえに来るまで待っているのか!」
スターリンは腹ふくるる思いで、攻撃開始日を1月10日にすることに同意した。
1月8日の晩、ドン正面軍司令部は第6軍に対して正式な降伏勧告を行った。もし第6軍が降伏すれば、「鉄環」作戦に参加予定の7個軍を他の戦区に投入して、さらに戦果を拡大できると考えてのことだった。次のような文面のビラが、ドイツ軍陣地に上空からばら撒かれた。
「本勧告が貴官(パウルス)によって拒絶された場合、我が軍の陸上および航空部隊は、包囲下のドイツ軍に対して殲滅作戦を開始することになる」
さらに、ヴォーロノフは2人の軍使に対し、パウルスに宛てた信書を持って停戦交渉を行うよう命じた。真夜中に出発した2人のソ連軍将校は、第24軍の戦区でドイツ軍の前線を越えた。ドイツ軍の兵士に見つかった2人は目隠しをされ、内側を木の幹でしっかり覆ってある掩蔽壕の中に通された。
ドイツ軍の大佐がやって来ると、「軍使をよこしたのはどんな機関か?」と尋ねた。ソ連軍将校の1人が「赤軍総司令部である『最高司令部』だ」と答えると、大佐は電話をかけるためか壕を出て行った。大佐がなかなか戻って来ないと、ソ連軍の将校2人は身体が次第に緊張していくのを感じた。
大佐は厳しい表情を浮かべたまま戻って来て、2人に向かって言った。
「私は次のような命令を受けた。諸君をどこへも連行するな。同行してもいけない。何であろうと諸君から受け取ってはならない。諸君を元のところに案内せよ。武器を返して安全を保障せよ」
結局、ドイツ軍の大佐はパウルスに宛てた信書を受け取らなかった。前線まで戻ると、敵味方の将兵は互いに顔を見合わせて敬礼した。ドン正面軍司令部に帰った2人の将校は惨めに疲れていた。任務は失敗に終わり、大勢の兵士が無駄死にする運命にあると知ったからである。
〇脱出
大多数のドイツ国民は、第6軍の決定的な敗北がどれほど近いかということなど想像もしていなかった。ヒトラーが、スターリングラードが包囲されたとのニュースを国民に知らせてはならないと厳しく命じていたからであった。1月になっても、「スターリングラード地域の部隊」という曖昧な語句とともに相変わらず作り話が伝えられた。
1月9日、ラシュテンブルクの「総統大本営」でヒトラーと会談してきたフーベが孤立地帯に戻ってきた。パウルスとシュミットは、フーベからヒトラーがスターリングラードでの敗北の可能性を断じて認めようとはしないことを打ち明けられた。
タツィンスカヤがソ連軍に攻撃されてから、輸送機数はめっきり減った。空軍の努力を認めつつも、第6軍が憤懣やる方なかった出来事もあった。貨物を開けてみたら、中にマジョラムと胡椒しか入っていなかった。第6軍の補給参謀は「どこの馬鹿がこんなものを詰めやがった?」と怒鳴った傍で、一緒にいた将校は「少なくとも胡椒なら接近戦で使えるんじゃないか」と冗談を飛ばした。
1月10日午前6時5分、「鉄環」作戦は発動された。7000門の火砲が反動で砲架ごと跳ね上がって唸りをあげた。黒い煙の尾を引いて空に向かうカチューシャ・ロケット砲が55分間に渡って絶え間なく発射された。
ドン正面軍は第21軍(チスチャコフ少将)と第65軍(バトフ中将)がカルポフカの突出部から攻撃を開始し、第66軍(ジャドフ少将)はドン河の北から第6軍司令部が置かれたグムラクに向かって進撃した。
この期に及んで、ヒトラーは第6軍にさらなる援助を与えねばならないと決断し、航空機総監ミルヒ元帥に「特別参謀部」を設けて空輸作戦を監督するよう命じた。ロストフ西部のタガンログに到着したミルヒだったが、上官のゲーリングから孤立地帯への飛行を禁じられ、ミルヒと参謀たちは第6軍の実情を把握する手立てを奪われていた。
1月16日、重要な補給基地であるピトムニクをソ連第21軍に奪取された第6軍は、包囲網の東半分に押し込まれた。ドイツ軍の残兵たちの中で動ける者は負傷兵を引きずりながら、氷の道を約13キロ先のグムラクに向かった。ドイツ空軍の大尉がこのように記録している。
「みな疲れ果てているようだ。あちこちの部隊で落伍兵がかなり増えてきた。所属部隊と連絡が取れなくなったのだろう。食糧と避難所を都合してくれと懇願する」
ドン正面軍司令官ロコソフスキー中将はここで全軍に対し、停止命令を下した。ドイツ軍の抵抗は驚異的であり、最初の3日間でドン正面軍は兵員2万6000人を失っていた。日毎に損害が次第に大きくなり、部隊を再編する必要に迫られたためであった。
1月20日、ドン正面軍は兵力の再編を終え、再び大攻勢を開始した。第65軍はゴンチャラの北西を突破して、第6軍最後の補給基地であるグムラクに迫った。この時、グムラクの飛行場からは第14装甲軍団長フーベ中将など装甲部隊の将校や、重傷を負った第4軍団長イエネッケ大将、一部の技術者や特殊兵が脱出した。
1月21日、グムラクの飛行場と第6軍司令部の撤退は、ソ連軍の砲撃が始まったために混乱を極めた。トラックの燃料が不足していたため、負傷兵と軍医が野戦病院に残された。補給が全くなくなった第6軍はスターリングラードに向かって退却する他なかった。市街地に近づくにつれて、敗北の惨状はますます眼を覆うばかりとなる。
「戦車に踏み潰された兵士、身も世も無く呻く負傷兵、凍結死体の山、燃料切れで放置された軍用車両、吹き飛ばされた砲などの種々の兵器類。見渡す限りそんな光景である」
1月22日、グムラクの飛行場が陥落した。第6軍司令部はヒトラーからさらなる追い討ちを受けた。
「降伏は論外である。部隊は最後まで戦うべし。できれば、なお戦闘可能な部隊で要塞を縮小して守れ。勇敢なる行為と要塞の堅持によって新たな前線を確立し、反撃を開始する機会が生まれた。かくして第6軍はドイツ史における最も偉大なる一幕に歴史的貢献をなしたのである」
それからわずか3日後、ヒトラーは第6軍を完全に見限っていた。廃墟から蘇った不死鳥のごとく、「新生」第6軍の着想は断固とした計画となった。ヒトラーの副官シュムント少将は次のように記した。
「総統は20個師団の兵力を持って第6軍を新たに編成せよと命じられた」
〇終焉
1月26日未明、「赤い十月」工場の労働者居住区に近い「ママイの丘」の北で、第21軍の戦車部隊と第62軍の第13親衛狙撃師団が合流を果たした。その光景は、ほぼ5か月間自力で戦ってきた第62軍の兵士たちにとって、予想に違わず感動的だった。「筋金入りの強者たちの眼に喜びの涙が溢れていた」と、チュイコフは記した。
スターリングラードの孤立地帯は2つに分断された。続く2日間で、パウルスら高給将校たちは南部の狭い地域に、第11軍団は北部の工場地帯に閉じ込められた。負傷兵も戦闘神経症の者も、まだ体力が残っている部隊も寒さと砲弾を避けて建物の地下室へと身を潜めた。外界との連絡は、第24装甲師団の無線機だけだった。
パウルスとシュミットは赤の広場に面したウニヴェルマーク百貨店の地下に新たな司令部を置いた。ドイツ軍の占領を示しているのは、玄関の上のバルコニーに取り付けられた間に合わせの竿に下がるハーケンクロイツだけだった。
1月30日、第64軍司令官シミュロフ中将は第38自動車化狙撃旅団に工兵大隊を加えて、市南部の中心街を制圧するよう命じた。建物の中や地下室に潜んでいたドイツ軍の間に絶望感が漂い、狂ったように譫言を言う兵士や、極度の緊張と栄養失調で幻覚を見出した兵士が増加した。
1月31日、ヒトラーはパウルスを含めて4名の上級大将を元帥に任命した。「ドイツ軍の元帥は決して降伏しない」という、自身の勝手な神話に基づく思い付きであった。最後になった将官会議で、パウルスは部下の1人に力を込めて言った。
「あのボヘミアの伍長のために自殺するつもりなどないね」
第64軍はスターリングラード中央部の全域を事実上確保した。破壊された建物や地下室は手榴弾と火炎放射器で一掃された。赤の広場は火砲による集中砲撃にさらされ、ドイツ軍の地下司令部の上にいた第194擲弾兵連隊の近衛兵は降伏した。
午前7時35分、タガンログに置かれた「特別参謀部」は第6軍司令部から最後の通信を受け取った。
「玄関にロシア兵あり、我々は降伏する」
その2時間後、第64軍参謀長ラスキン少将がパウルスの正式な降伏を受諾し、パウルスとシュミットをベケトフカに置かれた第64軍司令部へと連行した。
東プロイセンのラシュテンブルクで第6軍降伏の報せを聞いたヒトラーは憤慨すると同時に信じられない様子だった。会議の席で呼び出したカイテルやツァイツラーに向かってこのように述べた。
「かくも多くの兵士の英雄的な行為がたった1人の凡庸な意志薄弱者によって無になるとは胸が痛む。人生とは何か?人生とは国家だ。個々の人間はいずれ死なねばならぬ。私的な意味で最も苦痛なのは、それでも私がパウルスを元帥に昇進させたことだ。私は彼に最後の満足感を与えてやりたかった。さすれば彼はあらゆる悲しみから己を解放し、国家にとって永遠かつ不滅の存在となったはず。だが、彼はモスクワへ行く方を選んだ」
そして北部の工場地帯に閉じ込められた第11軍団に対し、「孤立地帯を死守し、出来る限り多くの敵兵力を釘づけにして他前線の作戦を促進せよ」とする総統命令を下した。
第11軍団長シュトレッカー大将は戦闘の続行がマンシュタインの援護という立派な目的があるとは信じていたが、ナチの宣伝目的に自滅するのは不本意だった。苦慮の末、2月2日の早朝にシュトレッカーは降伏を決意し、最後の通信文を送った。「第11軍団はその6個師団とともに奮戦し、最後の一兵まで任務を遂行した。ドイツ万歳!」
2月2日、ドイツ軍の全面降伏が伝えられると、信号弾が空に打ち上げられた。外を歩いている人々は嬉しさのあまり誰彼なく出会った人と抱擁した。街を巡る悲惨な戦いを思い出すにつれ、生きている我が身は驚異でしかない。戦前は60万を数えた市民はわずか9796名に激減していた。街は打ちのめされ燃え尽きた残骸だった。
ソ連軍の兵士はドイツ軍の敗残兵たちに命令を下した。「歩ける者はみな表に出て収容所まで行進せよ」捕虜たちは武器も鉄兜もなく、収容所へ向かってとぼとぼ歩いて行った。捕虜たちの前に立ちはだかったソ連軍将校は、周囲の廃墟を指して叫んだ。
「ベルリンだって、こうなるんだ!」
ドイツ軍はスターリングラードにおいて、不敗の名声以上のものを失った。第6軍は完全に消滅した。戦死者は14万7000人を数え、9万6000人が捕虜となり、故国に帰れたのはわずかだった。ソ連軍もまたスターリンの名を冠した工業都市を奪還するために、約169万人の兵員を動員して47万9741人の戦死者を代償として支払ったのである。