1
3月14日、午後11時10分。
真壁仁は文京区大塚の監察医務院にいた。変死体の解剖を待ちながら、年中冷房の効いた廊下のベンチに腰掛けていた。頭にのしかかる眠気に瞼が垂れ、蛍光灯が明るすぎると思っていると、ファイルを手にした監察医が眼の前に立った。
「検案、終わりましたよ」
真壁は顔を上げ、ベンチから重い腰を上げた。
「おたくの見立て通り、直接の死亡原因は狭心症による心臓発作で間違いない。死後3日から4日といったところです」
通報があったのは、午後2時半。台東区の民生委員が、訪問先で人が倒れているのを発見したという。場所は、東上野3丁目×‐×にある柏木自動車工場。倒れていたのは工場主の柏木達三、47歳。
「行政解剖は?」
「必要ないでしょう」
その時、胸にしまっていた携帯電話が震え出した。取り出してみると、画面が「上野南署刑事課」となっていた。
「はい、真壁」
「平阪だ」
相手は直属の上司である刑事課強行犯係長、平阪善明だった。
「検死はまだ終わらんのか?」
「いえ、たった今終わったところです。病死で確定です」
「今し方、署に通報があって、刑事課長が帰ってきてほしいそうだ。あとどのくらいで、帰って来れる?」
「案件は何ですか?」
「分からん。おそらく刑事課長が話すだろう」
「分かりました。20分くらいで署に着くと思います」
「頼むぞ」
電話を切ると、監察医に死体検案書の写しを上野南署に送るよう頼み、真壁は監察院の暗い廊下を走った。
春日通りに出てタクシーを拾い、後部座席に体を滑り込ませながら、運転手に「台東区役所の近くまで。急いで」と告げる。
「この時間に仕事ですか」
「うん、まあ。人使いの荒い会社だから」
「失礼ですが、どういう方面の・・・」
「電線の保守とか」
「へえ、技術屋さんですか・・・」
真壁はシートに深く背をうずめ、数分を惜しんで目を閉じた。所轄には6日に一度、「本署当番」という宿直勤務がある。これに当たると、当番日の朝から翌日の同時刻まで、所轄係に関わらず、発生した事案はすべて当番員が手分けして処理することになる。
例えば今日の真壁がそうだ。まず朝一番で担当したのはガソリン盗。元浅草4丁目の月極駐車場に停めてあった普通乗用車3台が被害に遭った。鑑識係と現場に向かい、被害状況を確認した後、実況見分。この最中にも「事務所荒らしだ」、「ひったくりだ」と事件発生の報せは入って来たが、「まだ動けません」とその度に断った。
ガソリン盗にどうにか恰好がついて次に向かったのが、さっきの変死体事案だ。47歳男性の孤独死。遺体の検視は刑事課長代理の韮崎警部が、現場の実況見分と民生委員への事情聴取は真壁が受け持った。
ちょうど聴取を終えた頃に、孤独死男性の遺体は監察医務院に移送したとの報せを受け、その次に向かったのが東上野5丁目のひったくり事件の現場。38の主婦が自転車の前カゴからバッグを奪われた。その実況見分と被害女性からの聴取。
これを終えて大塚に向かったのだが、死体検案書を確認する間もなくまた署に通報があり、しかも案件の内容は刑事課長が直々に伝えるという。忙しさもこれ極まりで、ありがたくて涙が出るといった投げやりな気持ちになっていた。
去年の9月に新宿西署から籍を移して、八か月目。歌舞伎町交番に巡査として務めていた頃と変わらず、他人よりよく歩き、よく聞き、よく見るだけだと微睡む脳裏に改めて刻み付けた。
2
上野南署の前にタクシーが着いた頃には、15日の午前0時10分前になっていた。
真壁が刑事部屋に入ると、奥のパーティションで仕切られた応接室から、平阪が手招きした。平阪と一緒に、刑事課長の嶋田栄作が待っていた。
「まずは、これを聞いて欲しい。通報電話の録音だ。昨日の午後8時にあった」
3人が革張りのソファに腰を下ろすと、嶋田が机の上に置かれたICレコーダーの再生スイッチを押した。
《こちらは、上野南署です。ご用件をどうぞ》
《・・・》
《名前と住所をおっしゃって下さい》
《・・・今年の2月25日にあったマンションの墜落事故は事故じゃない》
メモを読み上げているような硬い感じだが、声の質感は男だった。
《もう一度、ご用件をおっしゃってください》
《カシワギユウヤは殺された。聞こえたか?父親が殺した》
《切らないでください!》
ここで、録音は終わっていた。
平阪が説明を始めると、真壁はメモ帳を取り出した。内容を書き留めてはみたが、要約すると、通報の背景は何も分かっていないような雰囲気だった。
「通話は上野5丁目26番の公衆電話から。御徒町派出所から警らを出して、不審者を捜索したが、当該人物は発見できず」
「カシワギユウヤについて心当たりは」
「中野のセンターにB号照会をかけたが、『両名とも家出人原票に該当者なし』という回答だった」
「だが、ウチの署の資料庫から、これが出てきた」
嶋田はそう言って、1冊のファイルを真壁に差し出した。
ファイルを開くと、西浅草2丁目のマンション、パレス南上野で発生した墜落事故の調書一式が収められていた。事故の発生は約2週間前の2月25日。亡くなったのは、現場の7階に住む、小学3年生。氏名は柏木裕也。
「カシワギユウヤというのは、この柏木祐也ですか?」
嶋田と平阪がうなづく。
「しかし、これが殺人ですか・・・?」
真壁は実況見分調書に眼を通した。
7階のベランダの柵は高さが約1メートル。その手前に約20センチの踏み台が置かれていた。柏木裕也の身長は、約133センチ。裕也が踏み台の上に立った状態から、足を滑らせて約20メートル下の地面に墜落した。踏み台は前日の大雨で濡れており、踏み台の上に立った柏木祐也が足を滑らせて滑落したと推測されていた。
「犯人として名指しされた柏木祐也の父親の名前は、柏木達三だ」平阪が言った。「昨日の午後2時に、東上野の柏木自動車工場で倒れているところを発見された。君が処理した事案だそうだな」
「監察医の判断は?」嶋田が言った。
真壁は訝しげに顔をしかめ、調書から顔を上げた。
「『狭心症による心臓発作で間違いない』と・・・」
「先月のマンションの事故死。今回の変死体発見」嶋田が続ける。「どちらの事件も、課長代理の韮崎が立ち会ってる」
真壁は再び墜落事故の調書に眼を落とす。たしかに、実況見分調書の欄に、韮崎稔の名前が記されている。韮崎はこの署の刑事課長代理。年齢は55歳。東上野で検視に立ち会っていたはずだが、その顔は輪郭すらおぼろげだった。
まず現場に立った姿を見たことがない。部下が指示を仰いでも曖昧に答えてその場を濁し、課長の嶋田に指示を求める。眼の前にいる平阪でさえ、「ありゃあダメだな」と呆れる場面があったと聞いている。
「どう思う?」
何か言葉を洩らそうにも、漏らす言葉が出てこない。そんな心境だった。
「韮崎さんには、来月に本庁への異動が出ると聞いてる。最後の花道にケチは付けたくはないというのが署長のお考えだ。タレ込みは考えたくもないが、署の内部という線も有りうる。2つの事件について、慎重に再調査してほしい」
3
深い闇に没した上野南署を振り向き、真壁は心中に呟いた。
《とりあえず、ぶつかってみるしかないだろう―》
浅草通りを歩き出した時、靴音が一対追ってきた。真壁はそのまま歩き続けた。相手は人目を警戒している様子で、声はかけてこなかった。常葉銀行の横の歩道橋に上がると、靴音はすぐに背後に迫り、やがて横に並んだ。
横顔を見るなり、真壁はあっと思い、その場に立ち止まってしまった。
富樫誠幸。
明真大学山岳部の同期生だった。全国紙の東都日報に入社し、初任地で札幌支局に派遣されていたはずだった。
「いつ、戻って来たんだ?」
「春に。今じゃ、社会部で捜一の番記者」
思わぬところで顔を合わせた戸惑いを、富樫は飄々と笑ってみせた。山岳部で一緒だった頃、山で撮った写真や登山日誌をエッセイ風にして雑誌に投稿していたのは知っていた。経済学部の卒論は院の進学を勧められた程の出来栄えで、一流企業からも声が掛かっていたはずだが、新聞記者という仕事を選んでみせる。
「ところで、事件の感触は?」
「おまえ、警視庁担当だろ?」
「一課長とか署長の話だけ聞いたって記事、書けないんだよ。当たり前のことしか言わないんだから。現場のナマの声を訊きたい」
「ナマの声って・・・」
富樫が言った。「東上野の孤独死が気になるんだよね」
「どうして?」
「工場主と同じマンションに記者クラブの同僚が住んでてね。その同僚が言うには、工場主の子どもが2月の下旬に事故死したらしい。その子どもの父親が、東上野で見つかった孤独死した」
刑事課長が神経過敏になっている理由にこれも含まれているのかと思いながら、真壁は昨日の午後2時ごろのことを思い返していた。
現場となった東上野3丁目の自動車工場には、修理中の乗用車が2台置いてあった。西向きの壁に面してスチール製の机が二2。机の上は帳簿や書類で散らかり、工具箱の中はどの器具も埃をかぶっていた。
遺体は、ビニールシートの上に寝ていた。検視で服は脱がされていた。眼は見開き、開いた口から舌が歯並びより前に出ていた。色黒の肌に、相撲取りのような大きな体。
「トドのようだな」
韮崎が青い顔をして言った。警部のまま17年を過ごし、野方東署盗犯係の係長から上野南署の刑事課長代理になった。虚勢をはっているつもりだろうが、死体に慣れていないのは明らかだった。
「死因は?」
韮崎が遺体のそばにしゃがむと、ペンライトを眼に当てた。
「顔面はわずかながら蒼白。両の瞼と眼球には、多数の溢血点。心臓疾患による急死の典型的な所見だ」
真壁はだんだん重くなってきた口で答えた。
「心臓発作による自然死だ。事件性はない」
富樫は急にジャケットに手を入れ、震えている携帯電話を取り出した。その場で少し話したかと思うと、「浅草で動きがあってね」と言い、上野駅前で別れた。
富樫が乗り込んだのは、ニュービートル。塗装がピンク色だった。真壁にとって、この友人は事件以上の難物だった。
大井町の駅前にあるコンビニへ立ち寄り、カウンター横の《あったか~い》と書かれたケースの中から缶コーヒーを1本買い、真壁は自転車で八潮高校近くの6階建てマンションに帰った。マンションの管理人と新宿西署で上司だった高城一範が懇意で、北新宿にある警視庁の独身寮を出るときに紹介してもらったのだ。
温かいコーヒーの差し入れをすると、年配の管理人は「今夜は早いですな」と長閑な笑顔をよこした。「おやすみなさい」と声をかけ、真壁は最上階にある自分の部屋まで階段を上がった。体力を落とさないためのささやかな努力だった。
部屋に入り、上着とネクタイを外す。ベッドに寝るのが面倒になり、真壁は毛布を体に巻きつけてリビングのソファに横になった。当てもなく事件のことをあれこれ思い描きながら、明け方ごろにやっと、少しだけうとうとした。
4
3月16日、午前11時13分。
西浅草2丁目のパレス南上野という10階建てマンションが、柏木達三の住まいだった。
柏木の部屋は、7階にあった。不動産会社の管理人がドアの鍵を開けると、玄関は靴が散乱していた。廊下は、コンビニのレジ袋で包んだゴミや洗っていないと思われる衣服で覆われ、足の踏み場が無かった。
リビングに入ると、今度は異臭が鼻をついた。台所は汚れた食器やカップ麺の容器で埋まり、テーブルの上は弁当の残飯がそのまま放置されていた。
ハンカチで鼻を覆いながら、真壁は2LDKの部屋をすべて調べた。寝室のタンスから、薬局から処方された紙袋が出てきた。中には3種類の錠剤と説明書が入っており、どれも狭心症の薬だった。
タンスの上に眼を向けると、埃をかぶった写真立てが倒されていた。写真を見ると、柏木達三と野球のユニフォームを着た子どもが映っていた。
真壁は写真を管理人に見せた。
「この子どもは?」
「たしか、裕也くんです。柏木達三さんの息子さんです」
「事故で亡くなったと聞いたんですが」
管理人がうなづく。
「どういう事故だったんですか?」
「そこのベランダから足を滑らせて、黄色い花の花壇に墜ちたんです」
真壁はベランダに出た。広さは約1畳。高さが1メートルほどの鉄柵があり、その前に20センチの踏み台が置かれていた。
「足を滑らせたんですか?」
「その台の上に乗っかって、足を滑らせたんですよ」
真壁は約20メートル下の地面をのぞいた。真下は白い花の花壇。黄色い花の花壇は左隣に広がっていた。脳裏に自動的に黄色信号が点滅し出すのを感じながら、ベランダから出ようとして、真壁の眼がある男を捉えた。
マンションの前で管理人と別れると、真壁は急いで路地を回った。ベランダから見えた道路に出ると、男はまだいた。どこか落ち着かない様子だった。
「おい!そこのお前、ちょっと・・・」
真壁が呼びかけた瞬間、男は駆け出した。
「あっ、コラ!待て!」
真壁は急いで角を回ると、男の姿が数十メートル先の角を右に消えた。男を絶対に逃すまいと、懸命に追いすがった。
男に異変が起こった。肩が大きく揺れ、足元がふらつき、ついに脚を止めた。そして、家のブロック塀に寄り掛かり、地面に崩れ落ちた。
真壁はそばに駆け寄った。
男は顔じゅうに玉のような汗を光らせ、ぜいぜいと喘いでいた。真壁は声を掛けようとしたが、荒い息が出るばかりで、喉が焼けるように痛かった。
「・・・か、金だよ。金が欲しかったんだ」
「金!?何のことだ!」
「は、話すから・・・手をどけてくれ!息が苦しい!」
しばらく経って、男は松井保治と名乗り、塗装工で柏木の麻雀仲間だという。松井は地べたに座ったまま、話し始めた。
「俺は柏木に金を貸していたんだ。なんでも賭け麻雀やら、競馬やら・・・とにかくあいつは負け越していたんだ」
「柏木の借金はどのくらいだったんだ?」
「知らないよ。でも、聞いたところによると、800万くらいあったらしい」
「それで?」
「柏木が最近、金を持ってるって聞いた。何人か借したヤツは金を返してもらったって話を聞いて・・・でも、俺はまだ返してもらっていなかった」
「マンションの近くにいたのは?」
「俺はあいつに20万近く貸していたんだ。最近は生活が厳しくなって・・・どうしても返して欲しかった」
「もういい、帰っていいぞ」
松井は立ち上がり、尻を叩いて埃を払った。真壁は脳裏にある事を思い出して、松井に振り向いた。
「柏木の子どもについて、何か知らないか?」
「・・・噂だけど、柏木が最近、金を持ってるのは子どもを殺したからだって」
真壁は眼を見開いた。
「何だって?」
「昔、居酒屋で柏木が酔った調子に言ったんだ。『最近、ガキが消えた女房にそっくりでムシャクシャする。殺してやりてぇ』って・・・」
真壁は厳しい表情を浮かべ、その場に立ち尽くした。
5
午後9時前、刑事課の大部屋で真壁は自分の机の上に、柏木裕也の墜落死に関する捜査報告書を広げた。日中は通常の業務をこなすので手一杯で、再調査もこのぐらいの時間からしか始められなかった。タバコに火を付けると、「帰らないのか」と声をかけられた。
顔を上げると、部屋の入口に知能犯係にいる同期の刑事、須藤守が立っていた。
「気になることがあってな・・・」
そう言うと、真壁は書類に眼を戻した。実況見分調書によると、事故発生時刻は2月25日の午後3時。添付された鑑識の写真を見ると、ベランダは前日の大雨で濡れていた。踏み台の上から足を滑らせて墜落したという結論だった。
「ほら、見てみろ」真壁は須藤に書類を見せた。「柏木裕也がベランダから滑って落ちたとすると、真下の白いハボタンの花壇に落ちるはずだ。でも、実際は左隣の黄色いアリッサムの花壇に落ちてるんだ。おかしいと思わないか」
「ほんの少し斜めになって墜ちたんじゃないか」
「それにしても、検死官が臨場してないのはどういうことだ・・・?」
「その日に限ってヤバい死体が都内にゴロゴロしてて大繁盛だったとか」
「勘弁してくれ」
「子どもの事故で検死官の手を煩わしたくなかったんだろうよ」
「しかしな・・・」
須藤は死体検案書に指を走らせた。
「一応、課長代理の円谷さんが死体を見てる。法的にも問題は無いだろ」
真壁は紫煙とともに、荒い息を吐いた。事件性の有無は本来なら検視の判断によってなされるはずだが、現場に検視官を呼ばず、「事故」として処理してしまっている。事故当日に立ち会った制服警官にも話を聞いたが、韮崎が「事故」と判断したことに疑問を抱いたような節はなく、早くも14日の通報が署の内部からという線は消えた。
翌日の午後、真壁は千駄木の東亜医科大学の前に立っていた。柏木裕也の解剖を担当した法医学者は、岡島進という名前だった。上野南署とその近辺の署の変死体の解剖を担当していたが、平阪に言わせると、「かなりの変人」という評判だった。
真壁は狭い廊下を進み、ようやく目的のドアの前に着いた。ドアには、白文字で書かれた黒い木のプレートが貼られていた。《法医学研究室、岡島進》。
「失礼します」
そう言って、部屋に入ると、真壁はぎょっとした。
部屋は狭く、テーブルには何やら得体の知れない物がホルマリン漬けにされた瓶がたくさん置かれていた。人の気配が感じられなかった。
「岡島先生?」
すると、テーブルの奥から白衣を着た小柄な男が姿を現した。
「君は?新しい研究生かな?」
「上野南署の真壁といいます。電話でお話したはずですか・・・」
「あ、ああ。そうだったね、准教授の岡島です。やっと来てくれたんですね」
真壁と岡島は東亜医科大学の前の路地でタクシーを拾い、パレス南上野に向かった。岡島は白衣姿のままで、医師が診察に使うような黒革のカバンを持ってきていた。
真壁はマンションの玄関先で待っていた管理人に言った。
「遺体はどのへんにあったんですか?」
「アリッサムの花壇に倒れてたんですよ」
岡島は黒革のカバンからメジャーを取り出し、マンションからアリッサムの花壇とハボタンの花壇までの距離をはかっていた。
「それは頭から?それとも、背中から?」
「頭からですよ。ちょうど・・・水泳の飛込みをやるような感じです」
真壁はハボタンの花壇を指した。
「部屋のベランから覗くと、ハボタンの花壇が真下になります。事故の際、ハボタンに何か痕跡はありましたか?少し乱れていたとか?」
「いや、そんなことは・・・無かったと思います」
岡島が戻ってきた。
「アリッサムとハボタンの花壇は、約3メートルの距離があったよ」
真壁が言った。
「直接の死因は?」
「頚椎の骨折と脳挫傷が認められた。その同時損傷で絶命したんだ。そのほかに、肌が露出していた部分に無数の擦過傷があったけど、花壇に突っ込んだ時にできたんだろう」
「事故か他殺か、どう判断しますか?」
岡島は腕を組んで少し悩んでいたが、さっと答えを出した。
「これは、他殺だね」
真壁は眼を見開いた。
「どうしてですか?」
「報告書の状況だと、おそらく裕也君は真下に落ちるはずだ。だから、ハボタンの花壇に跡が残るはず。でも、それは無い。遺体は隣のアリッサムの花壇に落ちてた。すると、横向きの加速度が必要になるんだよね」
「横向きの加速度?」
岡島は真壁のそばに立ち、右手でその胸をぐっと押した。
「要するに、押しだす力だ。誰かがベランダから裕也君を外に投げたんだ」
6
3月18日。
北風が強く吹き寄せる肌寒い日だった。真壁は少し体を震わせ、町屋から隅田川の方に向かって歩いた。ある解体工場を目指していた。
岡島医師によって柏木裕也の他殺が決定的になると、真壁は塗装工の松井と会い、柏木達三がギャンブル仲間からどのくらいの借金をしていたかを聞き出した。その結果、柏木は消費者金融からの借金を含めると、約900万近い負債を抱え、金を借りた人数の総勢は十数名に上った。
真壁は柏木に金を貸した人間に当たり、柏木達三が裕也の事故死後、急に羽振りが良くなり、借金を返して来たことや負債のほとんどを清算したことを突き止めた。そして、今日は柏木の工場で最後に働いていた元従業員、星野寿和を聴取する予定だった。
解体工場に入ると、プレス機が大きな騒音を立てていた。真壁は耳を手で抑え、近くにいた作業員に声を張り上げた。
「星野寿和っていう従業員は!?星野だ!」
男は鉄くずの山の向こうにある倉庫を指した。
真壁は倉庫の中に入った。青いジャンバーを着た男が、錆びついた廃車のボンネットに上体を屈めていた。エンジンを解体しているようだった。
「星野さんですか?」
男が振り向いた。中肉中背で、眼鏡を掛けていた。青いジャンバーの下は、灰色のつなぎを着ていた。
「そうですか、何か?」
先日、パレス南上野の7階で聞き込みを行った際、事故当日の午後2時ごろ、青いジャンパーを着た男が目撃されていた。中肉中背で、眼鏡を掛けていたという。近くの通りでも、午後2時半ごろ、同じ風采をした男を近所の主婦が目撃していた。
真壁は興奮を抑えて、手帳を見せた。
「上野南署の真壁という者です。柏木達三について聞きたいことが」
「柏木がどうしたっていうんですか?」
「柏木にどれくらい金を貸していた?」
「だいぶ貸しましたよ。未払い分の給料を含めて・・・30万ぐらいでしょうかね」
「未払い?」
「この不況ですし・・・なにしろ、柏木は仕事してなかったんですから」
そう言いながら、星野は工具でエンジンをいじっていた。真壁の脳裏に、柏木の工場が浮かんだ。工具はどれも埃をかぶっていた。
「柏木の子どもは知ってますか?」
「事故で亡くなったと聞きましたけど」
「2月25日の午後3時ごろ、どこで何をしていました?」
「後楽園の馬券売り場に」
「証明できる人物は?」
「柏木と・・・松井っていう友人も一緒でした」
星野は続けた。
「たしか、午後の3時半を過ぎたころでした。柏木の携帯が鳴って・・・話し終えると、慌てて売り場を出て行ったんですよ。後で聞いたら、子どもが事故に遭ったって」
真壁は注意深く星野の表情を観察していたが、変わったところは見られなかった。
「柏木は子どもを殺したいって言ってたそうだが、聞いたことは?」
「それはしょっちゅうでしたよ。おれが工場を辞める時にも言われましたし」
「いつのことです?」
「2月の、20日だったかな。柏木と御徒町で飲んでたんですが、酔ってたとは思うんですけど、その席でも言ってました。もっともママには怒られましたけども」
「御徒町のどこ?」
「『ル・ボア』ってバーです」
真壁はそれを手帳に書き留めると、星野がぶつぶつと言った。
「柏木の子どもは事故じゃなかったんですか・・・」
「柏木は金をどうやって管理していました?」
保険会社に問い合わせたところ、柏木裕也に掛けられていた保険金は約8000万円。柏木が抱えていた負債を差し引いても、約7000万は残る計算だった。柏木の銀行口座は残金が数十万程度しかなく、貸金庫を借りているような形跡もなかった。
「工場じゃないですか?」
星野の答えに、真壁は驚いた。
「冷蔵庫ですよ。柏木は工場の売り上げを冷蔵庫に入れて保管してたんですよ。『ここなら、泥棒にもバレないだろ』って、柏木が得意そうに言ってたのを覚えてます」
その日の夜、真壁は柏木の工場にいた。冷蔵庫は、柏木が倒れていた机のそばに立っていた。扉を開けると、ひんやりとした冷気の代わりに、ゴキブリが飛び出してきた。中をあらかた浚うと、ビールの空き缶やら腐ったコンビニの惣菜しか出てこなかった。
7
事故当日、青いジャンパーを着た人物が目撃されている。中肉中背で、眼鏡を掛けていた男。それはおそらく、真壁の頭の中では、単純明快に星野寿和だった。それ以外に捜査線上に上がった人物がいないということから、自然と眼が行ったのだ。ここ数日、真壁は消えた約7000万の保険金の行方を追っていたが、大した成果は挙げられずにいた。元従業員なら、金の保管場所を知っていて当然だろう。
真壁は適当な理由をつけて柏木の工場の検証令状の請求書を書いて判事のハンコを貰い、鑑識課の部屋に入った。部屋には、ほんの数人しかいなかった。
主任の長谷敏司に、令状を見せた。
「関係者指紋採取?工場の広さは」
「調べるのは、机2つと冷蔵庫、出入り口」
「立会人は」
「工場の地主に連絡済みです」真壁は声を低くした。「それと・・・今夜中に照合してもらいたい指紋を2つ届けますから、作業は明日の朝一番でお願いします」
真壁は普段なら持たないショルダーバックに、簡易指紋採取セットと指紋原紙数枚を詰めると、上野南署を出た。
この日は、柏木自動車工場の周辺で聞き込みに回った。総合病院の近くに住む老人からこんな証言が得られた。
「最近、自動車工場かその近くで何か変わったことはありませんでしたか?」
「3日前だったかな・・・」
「3月16日ですか?」
「ええ。自販機でタバコを買いにいった時ですよ。男の人がね、工場の脇から出てきたんですよ」
「人数はひとり?」
老人はうなずいた。
「服装とか、顔とか、背格好とかはどうです?」
「あの辺は外灯が少ないからね。よく見えなかった」
「何時ごろ、その男を見ました?」
「夜の11時ぐらいかな」
真壁はその足で、京成立石駅の近くの星野のアパートまで出向いた。消耗する日だ。しかし、何かが《当たる》まで掘り続けなければならない。陽が傾いてきた頃、アパートの呼び鈴を押すと、小柄な女性がドアを開けた。星野の妻だろう。
「どちら様?」
真壁が「旦那さんはいますか?」と言った傍から、星野が廊下の奥から出てきた。まだ6時にもなっていないのに、すでに晩酌を始めていたらしい。頬がほんのり赤い。
「3月16日の午後11時ごろ、どこで何をしてましたか?」
すると、星野は青ざめた顔になり、「すいません・・・!」と三和土の上で土下座した。
「柏木祐也を殺したのか?」真壁は低い声で言った。
「それは違います」
星野は涙まじりのひどい声で答えた。16日の深夜に柏木の工場に忍び込んだことは認めた。未払いの給料が欲しい一心だった。しかし、冷蔵庫を開けたが、金は全くなかったという。最後に消え入るような声で「女房には内緒にしてほしい」と言った。
真壁はアリバイを調査するために、指紋を採取すると星野に告げると、意外に素直に応じた。無色の指紋スタンプ台に指を当て、真壁も手伝って1本ずつ、丁寧に指紋原紙となる感熱紙に押し当てる。指紋を採取されている間、星野はぶつぶつ言った。
「殺したとしたら、柏木です。『ル・ボア』のママだって、そういうに決まってる」
上野南署に戻ると、真壁は鑑識の長谷に星野と柏木達三の指紋原紙を渡した。照合した結果は、翌日の朝どころか、数時間後に分かった。
「工場の冷蔵庫を調べたところ、3種類の指紋が検出されました。そのうちの2種類は、柏木と星野のもので間違いないです」
手渡された報告書には、不鮮明ながら親指と人差し指の指紋が写っていた。
「3つの指紋は、すべてドアの取っ手に付着していました」
「新しい指紋の識別は可能ですか?」
「かなり厳しいです。なにしろ一部しか採取できなかったですから」
真壁は礼を言うと、総合病院の近くに住む老人の顔が浮かんだ。その老人は柏木達三が死んだ翌夜、柏木の工場から出てくる不審な男を目撃している。それが、残る指紋の持ち主に違いなかった。
8
午後9時50分、御苑を見下ろす外苑西通り沿いのマンションに、真壁がタクシーで乗り付けた時、路地には所轄のパトカーが2台停まっていた。
2階の廊下に出ると、《ル・ボア》のママが住んでいる部屋のドアが空いており、「出て行け!バカ!」という派手な女のわめき声が響いていた。そのドアの前に、長身の柔道で鍛えたらしい体格をした男が立っており、真壁に向かってニヤリと笑った。
「家探しを始めた途端、姐さんがいきなり素っ裸になってくれてな。四谷署から婦人警官を呼んで、何でもいいから身にまとっていただいてるところだ」
落合諒介。以前、新宿西署で一緒に交番勤務したことがあり、今では本庁の組織犯罪対策部四課に所属する「マル暴」刑事だった。
「何の容疑ですか?」
真壁が尋ねると、落合は右手を左肘に向けて注射を打つ手真似をした。
「あの女、昔やってるのは分かってたんでな。今日ブツが出るかどうかは分からんが、尿検査したら一発だ。本命は女の情夫の方なんだが。お前の方はどうした?」
真壁が捜査の経緯を手短に話すと、落合は「まぁお前の事件だからな」とうそぶき、近くにいた制服警官に「ちょっと姐さんの様子を見て来い。下着1枚付けるのにいったい何分かかるんだ」と怒鳴りつけた。
《ル・ボア》のママこと門田紗江子は、捜査員を前にネクリジェ一枚の恰好でベッドの上にどっかりあぐらをかいていた。年齢は35だというが、いかにも夜の仕事が長いらしい疲れた肌は女の顔をもっと老けさせていた。
「さあ姐さん、ちょっと教えてもらおう。まず秦野を最後に見たのはいつだ?」
「土曜の夕方よ。あたしが店へ出るときはここにいたけど、帰ってきたらいなかったのよ。それきり見てないんだから」
「土曜の夜にあんたが帰ってきたのはいつだ?」
「午前様。2時か3時でしょ」
「土曜の夕方、秦野はどこかへ出かけるという話をしたか?」
「秦野こそムショへ行けばいいのよ」
「あんたの口、ジッパーを締め直した方がいいと、前にも言ったはずだがな」
落合はのんびり苦笑いしたが、真壁はこんな女のために貴重な時間が潰れていくことに心底苛立っている自分を感じた。堪えきれず、威嚇するような低い声を発していた。
「柏木達三について聞きたいんですが」
「何よ、あのお巡り!」と女はまた声を荒らげたが、落合にはのれんに腕押しだった。
「姐さん、そう突っ張るな。あんたの好みのタイプだろうが。あの兄さんも一応刑事だからな。聞かれたことには答えてやれ」
「柏木なんて、秦野よりもクズ野郎よ。あいつがいったい、何したっていうの」
「今年の2月、柏木達三は《ル・ボア》に来たはずです。いつの日か覚えてますか?」
「たしか・・・20日だったわ。若い従業員と一緒に来て」
真壁が「若い従業員だというのは、この人?」と言って星野寿和の写真を見せると、紗江子はうなづいた。
「2人は何時ごろ来ました?」
「6時半ごろ」
「柏木は何か、物騒な話をしたんじゃないですか?子どもを殺すとか?」
「あのね、お酒が入ると、誰だって気が大きくなってなんでも口に出すのよ」
紗江子はため息をついた。
「柏木は子どもを殺すとか、そういう話をしてたんじゃないのか?」
落合が言うと、紗江子は頷いた。
「その時、他に客はいませんでしたか?」真壁は言った。
「・・・いたわ。今日も店に来てたわ。カウンターの一番奥に座ってた」
「名前は?」
「白瀬さん。たしか、白瀬淳平って言ったわ」
「よし、姐さん、ちょっと署で話を聞かせてもらうぞ。今日のところはブツが出なかったからクスリの件は任意同行。尿検査はしない。いいな?代わりに、秦野の所在を吐いてもらうのと、ある殺人事件の捜査で、この兄さんにちょっと協力してやってくれ」
落合がアメとムチの手管で必要な端緒をつかんでみせると、真壁は素直に頭をペコリと下げた。そうして日付が変わる直前、門田紗江子は四谷署へ引っ張られ、真壁と落合の2人から聴取された。