交響曲第7番「レニングラード」ハ長調 作品60
深遠な歴史的結果をもたらす出来事であったために、ソヴィエト連邦へのナチス・ドイツ軍の侵攻は多くのロシア人の意識に正確に入り込むことはなかった。1941年6月21日、ドイツ軍の装甲部隊が最初の侵略を始めていた頃、ショスタコーヴィチはレニングラード音楽院で卒業試験の監督をしていた。ナチス・ドイツ軍攻撃の報せは日常を中断させることはなかった。ソ連の多くの人々と同じように、学生や役人たちはソ連軍が迅速にドイツ軍を撃退して、敵の退路を断つだろうと信じていた。何人かの学生たちは進んで地図に赤い旗が付いたピンを刺して、ソ連軍の進撃の広がりを示してみせた。偽りの安心させるような公報があり、政府が沈黙してからたった数日後、ロシアが飲み込まれた大惨事の規模が明らかになった。
ナチス・ドイツ軍がレニングラードを攻撃し、爆撃がさらに頻繫に起こるようになった時、ショスタコーヴィチは消防士を志願した。また公式の作品番号に従って、交響曲第7番の作曲を始めた。作曲を始めてからたった1か月半後の1941年8月29日、第1楽章が完成した。
ドイツ軍は9月8日にレニングラードの包囲を完了した。これが900日に及ぶ包囲戦の始まりを布告した。9月17日、ショスタコーヴィチは放送委員会の招待を受けて自分が交響曲を作曲しているという士気を高揚させるニュースを放送した。「残酷な戦闘がちょうどその門戸を開ける時、私はレニングラードからあなた方に話したいことがあります。2時間前、私は交響曲の最初の2つの楽章を完成させました。もし私がこの作曲に成功したら、もし私が第3・第4楽章を書き終えましたら、私はその時この作品を第7交響曲と呼ぶことでしょう。何故、私はこのことを伝えているのでしょうか?私は今聞いている人々に、私たちの街の生活が普段通りに行われていることを知ってもらいたいからです」ショスタコーヴィチは少しの間にクイビシェフに疎開し、疎開先で全曲を完成させた。1942年3月5日に世界初演が行われた。後にモスクワ、ロンドンとニューヨーク(マイクロフィルムにコピーした楽譜が送られた後)でも演奏された。しかしながら最も注目すべき戦時中の演奏会は1942年8月9日、包囲されたレニングラードで行われた。公然たる抵抗を示したこの演奏会はソヴィエト国民を鼓舞させるだけではなく、政府の勝利への決意をイギリスとアメリカに認識させるために計画されたものだった。
最初の3つの楽章が持つ全体の雰囲気は、生命の信念に対する驚くほど熱烈な肯定である。だが、各楽章には好戦的な中断がはさまれる。第1楽章のソナタ形式は連続的にドラムが奏でる退屈な行進曲の無慈悲な反復によって中断され、音量を増し、テクスチュアは不吉なクライマックスを築く。戦時中に第1楽章の印象とこの交響曲に大きな評価を与えたのは、12回も蓄積するように反復される18小節の主題である。この主題は批評家たちから戦後、とても長くつまらないだと攻撃され、交響曲の評価を低下させた。一般的に、この主題はレニングラードに対するドイツ軍の攻撃と包囲戦の恐怖を描いている。しかしながら、ショスタコーヴィチの音楽における真実は公式の見解よりかなり異なっている。実際、ショスタコーヴィチは第1楽章を包囲戦が始まる前に完成させていた(彼の息子マキシムによると、この楽章はドイツ軍侵攻の1か月前に作曲を始めていたという)。また、レニングラードの英雄的な抵抗について描いたのと同様に、スターリンの圧政による犠牲者を描いていたのである。
第2楽章は物思いに沈んだような様式で始まる。多少、薄暗い雰囲気がベートーヴェンの「交響曲第8番」第2楽章に似ている。トリオはそつなく入念に作られている。荒涼とした落ち着きのない音楽と初めはそれに勝利するかのように思える行進曲が対比される。
管楽器のコラールと弦楽のアリオーソによる第3楽章は、恐ろしい状況下で苦しめられている街で作曲するショスタコーヴィチの明白な音楽的声明である。この楽章には作曲家の木管楽器に関する見事な書法があり、作品が書かれた状況が完全に忘れられても、この交響曲がオーケストラのレパートリーに収まるのは正しくこの楽章のおかげである。
戦線から離れた安全な地で作曲された第4楽章の性格は、戦闘が最も色濃く反映される。この戦闘から輝くような歓喜が現れる。ショスタコーヴィチ自らの解説によると、ある程度は第1楽章の続きである。終結部では、交響曲の開始主題が循環して引用されて、力強く再現される。つまり、レニングラードは廃墟から再び蘇える。しかし、この結末もあいまいなものである。最後の小節、勝利を奏でる弦楽と木管を背景にした金管の和音が不安な響きを残している。ショスタコーヴィチの将来に対する楽観主義は少しも明白ではないことを示している。
(この後に指揮者の経歴があるが省略。ノートの著者不明)