16
「よろしい」ジョージが碗をゼルマに戻すと、ベルタが言った。
ジョージは手を吊り帯にドサリと落とした。すでに上げていることが出来ないほど重くなっていたのだ。ジョージは再び世界が遠のいていくのを感じた。
ベルタが前屈みになり、垂れ下がった衣服の端がジョージの左肩に触れ、ベルタの匂いが鼻を突いた。爛熟しながらも乾燥しているような香り。ジョージは体力があれば、吐いていただろう。
「少しでも体力が回復したら、その小汚い飾り物を取り外しなさい」
「欲しいのなら、自分たちで取りなさい。ぼくは止めることが出来ないんだから」
ベルタの顔が黒ずんだ。ひっぱたれるぞと、ジョージは思った。メダルまで近づく勇気があればの話だが、ベルタが触れることが出来るのはジョージの腰までだった。
「お前はもう少し事を深く考えたほうがいいと思う」ベルタは言った。「私は修道女長なのだから、その気になれば、まだヴェロニカを鞭打つことが出来る。このことをよく肝に銘じておくがよい」
ベルタが立ち去った。ゼルマがその後に続く。立ち去り際、ゼルマは恐れと欲望の入り混じった眼差しを肩越しに投げかけた。
ここから抜け出さなければ、絶対に。ジョージは思った。
つかの間、夢を見た。指がジョージの顔を愛撫し、唇がまず耳に口づけしてから囁いた。
「枕の下を見て、ジョージ。でも、私がここにいたことを誰にも教えちゃダメ」
しばらくして、ジョージは眼を覚ました。その際、自分の上にヴェロニカの顔があるのではないかと半ば期待していた。だが、誰もいなかった。ジョージは陽の光を見て、正午前後だと思った。おそらく、修道女の2度目のスープを口にしてから、3時間は経っているだろう。
隣のベッドでエミールはまだ眠っており、かすかにいびきをかいている。
ジョージは片手を挙げ、枕の下に滑り込ませようとした。指先をくねらせることは出来たが、手が動かない。出来るだけ心を落ち着かせ、根気よくじっと待った。エミールが言っていたことを考え続けた。
《―襲撃の生存者は20名いた・・・少なくとも最初は。1人ずつ、彼らは出ていき、ついにぼくと、あの向こうの方にいる人だけになった。今はアンタもいるけど》
それからだいぶ経ってから、ジョージは再び手を挙げてみた。今回は、手を枕の下に入れることができた。枕はフワフワと柔らかく、ジョージの首を支えている幅広の吊り帯の中にたくしこまれていた。最初は何も手に触れなかったが、指をさらに奥深く這わせていくと、細い枝の束のような感じのものに触れた。
ジョージは休み、もう少し力を蓄え、そこからさらに手を深くもぐりこませた。枯れた花束のようだ。リボンでひとつにくくられている。
周囲を見回した。依然として病棟に人の気配がなく、隣人のエミールが眠っているかどうか確かめてから、机の下にあったものを引っ張り出した。頭の部分は茶色くなり、下のほうは緑が失せはじめていた6本の脆い茎だった。発酵しているような奇妙な匂いを放っていた。茎は幅広の白いリボンでくくられており、焦げたパンの匂いがした。リボンの下には布が折り畳まれている。絹のようだった。
ジョージは呼吸を荒げ、眉に汗が滴るのを感じた。折り畳まれた布を取って開いた。伝言がかすれた炭の文字で苦労して記されていた。
《頭の部分を少し齧って。1時間置きに。
多すぎると、激しい腹痛を起こすか、死にます。
明晩。あせらずに。
用心して!》
何の説明も無かったが、そんな必要はないと思った。また、ジョージには何の選択権も無かった。ここに居残れば、死が待ち受けているばかり。修道女たちはジョージからメダルを取り外すだけで良いのだ。
ジョージは乾燥した茎の頭のひとつをそっと噛んだ。味は子どものころ、厨房で姉からせがんでもらった焦げパンと似ていた。喉に苦く、胃の中で燃えた。齧ったあと1分も経たぬうちに、動悸が2倍になった。筋肉は目覚めたが、熟睡した後の心地よい回復感とはほど遠い。最初、筋肉は震えていたが、やがて結ばれたように固く引き締まった。この感覚は急激に過ぎ去り、1時間ほど後でエミールが目覚めたときには、胸の鼓動は落ち着いていた。ジョージはヴェロニカの伝言がどうして一度に多く口に含まないように警告していたか理解した。この茎の効能はかなり強いのだ。
ジョージはシーツの上に落ちていた齧りカスを入念に払い落としながら、茎の束を枕の下に戻した。それから親指の腹で布の切れ端に炭で書かれた文字をこすった。その布も枕の下にたくしこんだ。
17
エミールが起きたとき、ジョージとエミールは手短に若き兄弟たちの故郷、ニレギハーザについて語った。その地は時おり冗談半分に、《竜の巣》とか、《嘘つきの天国》とか呼ばれていた。あらゆるホラ話の出処はニレギハーザだとも。エミールはもし可能なら、自分と兄のメダルを取って一緒に、故郷にいる両親に手渡し、自分たち兄弟、ヨルグの息子たちに何が起きたかを出来るだけ詳しく話してくれとジョージに頼んだ。
「それは自分ですべきだ」ジョージは言った。
「できないよ」エミールは片手を挙げようとした。鼻でも掻こうとしたのだろう。手は少し上がってから、ベッドのカバーの上に落ちて小さな音を立てた。「ダメだと思う。こんな状況で出会うなんて残念だね。神父さん、アンタのこと好きだよ」
「ぼくもだ、エミール。もっと良き出会いであったらと思う」
「魅力的なご婦人たちの介護を受けてる状態でなければね」
その後すぐに、エミールは再び眠りに落ちた。
修道女マティルデが夕食用のスープとサンドウィッチを持ってきたその時、ジョージは茶色く変色した茎を2度目に齧り、その結果生じた筋肉の震えと激しい動悸が収まったばかりだった。マティルデはジョージの火照った顔を興味深げに見つめたが、熱はないと断言されたので、その言葉を受け入れるしかなかった。マティルデはあえてジョージに触れて熱を計ろうとしなかった。メダルが接近させなかったのだ。
スープは薄味で、パンは革のようで、中に挟んである肉は固かった。ジョージはいつもと同じようにガツガツと貪り食った。マティルデは胸に抱えるように両腕を組み、時おりうなづきながら、独りよがりの笑みを浮かべて見守っていた。ジョージがスープを飲み干すと、マティルデは互いの指が触れないように細心の注意を払いながら碗を取った。
「治りかけてるね」マティルデは言った。「じきに退院できるよ。そして私たちには、アンタはただの思い出になっちまうのさ。ジョージ」
「それはホントか?」ジョージは静かに聞いた。
マティルデはジョージを見つめるばかりで、舌を上唇に押しあて、くすくす笑い、立ち去った。ジョージは眼を閉じ、枕に頭を乗せて横たわりながら、再び気だるさが身体中を覆ってくるのを感じていた。好奇な眼。ちらりと先をのぞかせた舌。ローストチキンや骨付きマトンの焼き上がりを眺める女性の表情に似ていると思った。
ひどい睡魔に襲われたが、ジョージは1時間が経ったと思われるまで覚醒状態を必死に保ち、それから枕の下から茎を1本取り出した。新たに《動きを封じる薬》を投与されたので、実のところ茎を取り出すことはおろか、リボンにくくられている束の中から1本だけ取り出すことは不可能だと思った。
明晩。ヴェロニカの伝言にはそうあった。それが脱出を意味するのであれば、その考えは馬鹿げているように思える。今の自分の身体の状態は年老いるまで、このベッドに寝たきりでいそうな感じだったからである。
ジョージは茎をひと噛みした。力が体内の組織に押し寄せ、筋肉が引き締まり、動悸が激しくなった。しかし、活力は急に失せ、修道女のより強力な薬に埋もれた。ジョージに出来ることは期待を抱き、眠るだけだった。
眼が覚めると、辺りは真っ暗だった。ジョージは自分が吊り帯の中で自然に四肢を動かすことが出来ることに気付いた。枕の下から茎の1本を引き抜き、用心して少し齧った。ヴェロニカは6本置いていったが、最初の2本はほとんど食べ尽くしていた。
茎を枕の下に戻し、それからびしょ濡れになった犬のように震え始めた。食べ過ぎたと、ジョージは思った。
《これで痙攣を起こさずにすめば運がいい・・・》
心臓は暴走するエンジンのように猛り狂っている。通路の向こう端に、ロウソクの明かりが見える。すぐに修道女たちの衣擦れの音と、室内履きが床を掃くような音が聞こえてきた。
《なんで今頃?魔女たちに震えてることが分かってしまう―》
意志と自制力をかき集め、ジョージは眼を閉じ、震えている四肢を鎮めることに意識を集中した。吊り革がジョージの痙攣に合わせて、震えだした。
《せめてベッドに横たわってるのであれば・・・》
修道女たちが次第に近づいてくる。ロウソクの明かりがジョージの閉じられた瞼の中で赤く咲きほこる。修道女たちは忍び笑いをせず、囁き声で会話を交わしていない。ジョージは中央に見知らぬ姿があることに気付いた。息と鼻水がまざってズルズルとやかましい音を立てる生き物だ。
ジョージは四肢の痙攣と引き攣りを抑え、眼を閉じて横たわっていたが、筋肉が皮膚の下で疼いていた。心臓は鞭でせきたてられる馬のように全力疾走しており、たしかに傍から見れば―。
しかし、修道女たちが見ていたのはジョージではなかった。少なくとも、今は。
18
「あれを取り除くのだ」ギーゼラが言った。ジョージがほとんど理解できないほど訛った公用語で喋った。「やれ、ロイスマン」
「酒は?」鼻水を垂らした生き物が聞いた。ギーゼラよりもさらにひどい訛り方だった。「タバコは?」
「よしよし、たんとくれてやる。けれど、そのおぞましいものを取り外してからだよ!」その声には苛立ちと恐れが混ざっていた。
ジョージは用心しながら頭を左に向けて、パッと瞼を開けた。
6人の修道女のうち5人が眠っているエミールのベッドの向こう側に集まっており、ロウソクの明かりがエミールの身体に投げかけられている。その光は女たちの顔も照らし出されており、夜闇では魔法を使うまでもないのか、女たちの顔はたっぷりした衣類に包まれた古の死体以外の何物でもなかった。
修道女ベルタはジョージの拳銃を手にしていた。ジョージは神の名において、その下劣な行為に対する報いを必ず受けさせると心に誓った。
ベッドの足元に立っているのは、《灰色の民》の1人だった。ジョージは一度、ロイスマンを眼にしていた。忘れもしない。山高帽子の男である。
ロイスマンはエミールのベッドから、ジョージのベッドに近い側を迂回してゆっくりと歩いている。
エミールのメダルはむき出しの状態で胸の上に乗っていた。おそらく、そうした方が自分を守ってくれると信じながら、メダルを寝巻きの外に出しておいたのだろう。ロイスマンは溶けて爛れた手で、メダルを拾い上げた。ロウソクの光に照らし出された修道女たちが見守る中、《灰色の民》はメダルの鎖の端をつまみ、エミールの胸の上に放した。修道女たちはがっくりとうなだれた。
「こんなもん、どうでもいい」ロイスマンは鼻づまりの声で言った。「酒が欲しい!タバコが欲しい!」
「くれてやる」ベルタが言った。「お前とお前の仲間たちに充分なだけ。だが、あのおぞましいものを取り除くのが先だよ!二つとも!分かった?それと、私たちをからかうんじゃないよ!」
「さもないと?」ロイスマンは声を上げて笑った。喉か肺に悪性の病を患って死にゆく人の笑い声だったが、ジョージは修道女の忍び笑いよりはマシだと思った。「さもなくば、修道女ベルタ、俺の血を飲むってか?俺の血はアンタらを即死させちまって、闇の中で光らせてやるぜ!」
ベルタはジョージのリボルバーを構えて、ロイスマンに狙いを定めた。
「あの不快なものを取るんだよ。さもなくば、お前は即死さ」
「そして、アンタのお望み通りのことをした後で、ズドンってこともありえる」
その言葉に対して、ベルタは応えなかった。他の修道女たちは漆黒の瞳でロイスマンを凝視している。
ロイスマンは頭を垂れて、思案しているようだ。この山高帽子の御仁は考えることが出来ると、ジョージはうすうす感づいていた。
「アンタに銃を渡すなんてヘマをした奴は誰だ?」ロイスマンはようやく口を開いた。「俺には一言も無かったな。アンタ、そいつに酒をやったんか?タバコをやったんか?」
「そんなことはお前と関係ない」ベルタは応えた。「今すぐ少年の首から黄金を取れ。さもなくば、弾丸がお前のわずかな脳ミソにぶちこんでくれるわ」
「わかったよ」ロイスマンは言った。「おおせの通りに」
再び、ロイスマンは手を伸ばして黄金のメダルを溶けた拳でつかんだ。鎖をちぎり、メダルを闇に放り投げた。そしてもう一方の手で、長くてギザギザに尖った爪をエミールの首に沈めて引き裂いた。
エミールは一声、泡立った絶叫を上げた。血がエミールの喉から、ロウソクの炎より黒ずんだ赤い放流となって噴き出した。
女どもが悲鳴をあげ、ロウソクを落とし、明かりが消えた。ベルタはジョージの拳銃を無頓着に放り投げた。胸をときめかせた興奮状態にある女たちが上げる悲鳴だ。ロイスマンは闇の中へ姿を消した。ジョージが最後に眼にしたのは、血が乾いてしまわぬ内に出来るだけ多くの放流を捉えようと、前屈みになっている修道女たちの姿だった。
19
ジョージは筋肉を震わせ、心臓を激しく脈打たせ、自分の隣のベッドでエミールの命を貪り食っている怪女たちに耳を傾けながら、闇の中に横たわっていた。それは永遠に続くと思われたが、やがて満足した修道女たちはロウソクの明かりを灯すと、ぶつぶつ言いながら去っていった。
スープに混入された薬が効いてきて、ジョージはありがたいと思った。しかし、その眠りは悪夢に悩まされた。
夢の中で、ジョージは『悪行および矯正措置の記録簿』と題されたファイルの中にある一行のことを考えながら、町の水桶の膨張した死体を立って見下ろしていた。
「洞穴より《灰色の民》が送られた」
おそらく、陸軍の山岳猟兵連隊がある洞穴に入った。露営したのかもしれない。その洞穴には、何かが《封印》されていた。北部のこの一帯を治めた『串刺し王』ラヨーシュⅢ世にまつわる《何か》―。その《封印》が解かれ、《灰色の民》が出現し、陸軍の兵士やルゴシの村民を襲った。その結果、さらに悪い種族がやってきた。
地獄の侯爵イブリスを信奉する結社、青薔薇救世会の魔女たち。魔女たちは村民や兵士たちにも飽き足らず、無線を使ってペドリッチ兄弟の騎馬隊をおびき寄せた。ジョージの脳裏に、ある古文書の記述を思い出した。ラヨーシュⅢ世は当時、一夫多妻制を取っていた。粛清を精力的に行っていた壮年期に侍らせた花嫁の人数は5人―。
《5人?だとしたら、6人目は・・・?》
ジョージが映っている水桶の上に影が落ちた。相手と対峙しようとしたが、ジョージの両脚はその場に釘付けになっていた。やがて灰色の手に肩を掴まれ、ぐるりと身体を回された。ロイスマンだった。山高帽子を後ろに逸らして被り、エミールの血にまみれたメダルを首にかけていた。
「バアーッ!」ロイスマンは叫んだ。唇を左右に広げ、黄金色をしたリボルバーを構えている。撃鉄が起こされる。
ジョージは震え上がり、びっしょりと汗をかいていた。身体は冷え切り、ビクッと目覚めた。左側のベッドを見やる。誰もいない。シーツは皺ひとつなく伸ばされ、きちんと整えられおり、枕は白いカバーの中に納まって置かれている。エミールが寝ていた痕跡は全く無い。何年も空いていたかのように思える。
いまやジョージただ独りだった。神の加護により、ジョージは青薔薇救世会の最後の患者となった。宙吊り状態で横たわりながら、拳にしっかりと黄金のメダルを握り締め、通路の向こう側にある無人のベッドの長い列を見つめた。しばらくして、枕の下から1本の茎を取り出し、少し齧った。
修道女ベルタがやって来た時、ジョージはベルタが持っていた碗を身体が弱っているふりをして受け取った。碗の中身はスープではなく、お粥だった。基本的な成分は同じに違いない。
「今朝は調子がいいようね」
そう言うベルタの血色が良い。血を十分に啜ったことで、しっかりと偽りの姿を保っていられるのだろう。そう考えて、ジョージは吐き気を覚えた。
「すぐに自分の足で立てるようになる。請けあうわ」
「たわ言を」ジョージは悪意を込めて唸るようにして言った。「ぼくの体調を悪くしてるのは、あなたたちだ。ぼくはあなたたちが食べ物に何か入れてないかと思い始めてる」
ベルタは陽気な笑い声を上げた。
「まあ、威勢のいい若造だこと!いつだって、自分の弱さを頭の良い女のせいにするのに熱心なんだから!どうして私たちを恐れる?見かけによらず、肝っ玉が小さいんだね、そんなに怯えて!」
「ぼくの弟はどこへ行った?夜、弟の周りで何か騒がしい夢を見たが、いま見れば、ベッドに誰もいない」
ベルタの笑みが小さくなり、眼がきらめいた。
「お前の弟は急に熱に冒されて、発作を起こしたのさ。だから、『内省の館』に移した。一度ならず、そこは伝染病棟として使用されてたからね」
エミールを移した場所は墓場だろうがと、ジョージは思った。
「お前が彼の兄弟でないことは分かってる」ベルタはお粥を食べているジョージを見守りながら言った。すでにジョージは、お粥の中に入っている薬が力を消耗させはじめているのを感じ取っていた。「徴があろうとなかろうと、お前が彼の兄でないことは分かってる。なぜ、嘘をつく?」
「あなたこそ、なぜそんなことを言う?」
「修道女長は知るべきことは知ってるのだ。白状したらどうだ?告白は魂にとって良いことと言うではないか」
食事を終え、ベルタはスカートの前を床から持ち上げ、女王然とした様子で颯爽と去って行った。無人のベッドの列に沿って、ぼやけて不明瞭な形がベルタの歩調に合わせてつきしたがっていたが、実際に影と呼べるような代物ではなかった。
20
まどろみはしたが、熟睡はしなかった。茎は効き目を発揮していたので、ヴェロニカの助けを得れば、実際にここから脱出できるかもしれないと信じ始めていた。それと、自分の拳銃のこともあった。
ジョージは緩慢に流れる時を、過去を考えることでやり過ごそうとした。過去の記憶についた古傷がずきずきと疼きだし、どくどくと血を流し始めていた。
《今日、ここに神はいないよ。神父》
轟音が響き渡った。恐怖にひきつった村民たちに血しぶきが飛び散り、小さな体がどさりと地面に転がった。頭が石畳を打ち、グシャッと嫌な音がした。
《ふふ・・だめねぇ》ヘレーネが笑う。《私のほうがお姉さんなのに・・・でも、こうしてると落着くわ。慣れてるのね》
ヘレーネの声はすでに濁っていた。悪魔の声だ。ジョージは思わず歯を食いしばった。恐怖が口から唸りとなって漏れ出す。
《どうしたの、ジョージ?あたしとヤリたくないの?》
悪魔は灰色の舌を出して唇をなめた。眼がぎらりと黒光りしている。
《あんたは弱き器だ、ジョージ。神があんたのような男に力を与えると思う?この呪われた地を浄める力を?あんたはあの連中を見殺しにした。あんたは神に背を向けた。どうして、神があんたの言葉に耳を貸すと思う?何も信じないあんたに》
だいたいの目安で1時間おきに、ジョージは枕の下から茎を1本取り出し、少し齧った。いまや茎の効能が組織に浸透していく際、筋肉はそれほどひどく震えなかったし、心臓もそれほど激しく鼓動しなかった。
太陽の輝きが病棟の白い天井を横切って移動し、常にベッドの高さに浮遊しているようだった薄闇が立ち昇りはじめた。長い部屋の西側の壁に、バラ色が溶けて橙色に変化した夕闇が花開いた。
その晩、ジョージに夕食を持ってきたのは、修道女ゼルマだった。スープとパン。ゼルマはジョージの手の横にユリを置き、微笑んだ。頬の血色が良い。破裂しそうなほど血を吸った蛭さながらの色合いだった。
「お前のお気に入りからだよ」ゼルマが言った。「ヴェロニカはお前に首ったけさ!ユリの花言葉は、『私の約束を忘れないで』だよ。どんな約束をしたんだい?」
「再び会って、話をすること」
ゼルマは大喜びして両手を打ち鳴らした。「なんと、まぁいじらしい!ああ、そうとも!その約束が決して守られないなんて悲しいね。アンタ、彼女と二度と会うことはないよ、色男。修道女長が決めたのさ」スープの碗を取り、立ち上がった。「そのいけすかないメダルを取りなよ」
「ごめんこうむる」
「アンタの弟は取ったよ。見てごらん!」ゼルマが顎で示したので、ジョージはメダルが通路のはるか向こう側に落ちているのを見た。ロイスマンに放り投げられたままだった。
「彼はあれが自分を病気にしているんだと悟って、投げ捨てたのよ。あなたもそうしなさい、おりこうさんなら」
「ごめんこうむる」ジョージは繰り返した。
「あら、そう」ゼルマは馬鹿にしたように言うと、ジョージを深まりゆく闇の中でちらちら光っている無人のベッドの列に独り置き去りにした。
ジョージは募りくる睡魔に抗いながら、病棟の西側の壁を染めて血のように真っ赤に燃えあがっている色合いが沈静して灰色と化すのをじっと待った。そして茎の一本を齧り、筋肉の震えや痙攣ではない、本当の力が体内に蘇るのを感じた。ジョージは最後の明かりの中できらめきながら、エミールのメダルが落ちている場所を見つめた。いま自分が首にしているメダルと一緒に、あれをエミールの身内に渡すのだ。
その日初めて、心が完全に安らぐのを感じながら、ジョージはまどろんだ。目覚めると、辺りは漆黒の闇だった。虫が激しい金切り声で鳴いている。ジョージが枕の下から茎を1本取り出し、それを齧りはじめると、冷ややかな声が聞こえた。
「やっぱりね。修道女長の言った通りだった。アンタには、そんな秘密があったんだ」
ジョージは自分の心臓が止まったかと思った。ぐるりと見渡すと、修道女クリスタがこちらに向かって通路をやって来た。まどろんでいる間に忍び寄り、ジョージを監視するためにベッドの下に潜んでいたのだ。
「それをどこから手に入れた?」クリスタは言った。「それは―」
「私があげたのよ」