1
午前6時すぎ、しのつく雨の鈍色ににじむ空気はじっとりとからみつくようで、じっとしているだけで額に汗がにじんでくる。
真壁仁は池之端三丁目、上野公園の中に立っていた。晴れた日にはジョギングや散歩の人影が絶えない遊歩道も、今はまだ無人だった。ビニール傘をさしたまま、真壁は緑色に塗られたベンチの前でしゃがみこむと、眼を落としてベンチをにらんだ。
事件は7月18日に発生した。
男がベンチの上で仰向けのまま、頭から血を流して倒れているのが発見された。時刻は、午前1時半。散歩から帰ってこないと、家人から通報があって約半時間後、捜索に出た近所の交番の巡査が遺体を見つけた。巡査はすぐに無線で通信指令センターへ通報し、本庁指揮台からの一報で、所轄の上野南署や本庁の機動捜査隊から捜査員が急行した。
事件当夜も、雨が降っていた。上野南署の当直からの連絡で、真壁も大井町から駆けつけたが、タクシーを飛ばして半時間後に現場近くに到着したとき、慌ててマンションから飛び出してきたために傘を忘れ、公園の中を濡れながら走ったのだった。
その時はすでに、鑑識の作業もあらかた終わり、同じように呼び出された署の同僚たちや機捜隊員たちはほとんど付近の地どりと聞き込みに散ってしまっていたが、署長などの幹部と検視官が到着していなかったために、遺体はまだビニールテントの下にそのままの状態で横たわっていた。
遺体は、痩せた小さな老人だった。コートにウールのスラックス、カシミヤのセーターといった、季節を間違えたと思える着衣がまず眼についた。
そして、次に真壁の眼をひいたのは、コートがベンチに横たわっている背の下で、よじれたりめくれたりしていなかったことだ。まるで女性が椅子に座るときに、スカートがしわにならないように手で裾を引き伸ばすように、仰向いた遺体の背の下のコートはきれいに整っていた。
真壁は現場にいた鑑識課の主任、長谷敏司に「遺体、動かしてないですか」と尋ねた。
長谷は動かしていない、という返事だった。
「着衣その他、まったく触れてないんですね」
「触ってませんよ。まだ検視官が来てませんからね」と、長谷は言った。
発見されたときのまま、まったく動かしていないという前提に立って、真壁はコートを丹念に眺めた。前夜からの雨で布地はすっかり濡れそぼっていた。コートの裾はきれいに伸びているが、背中側の下方に薄く泥がついている。スラックスにも背中側の両脚の袖、靴も踵の裏側に泥が付着していた。
それらは、この遺体の姿勢ではつくはずのない泥だった。コートの袖が背の下からわざわざ引き出して伸ばしていることも考え合わせると、はじめ遺体は別の場所で殺害され、その後ベンチの上に仰向けに寝かされたことを意味していた。
真壁が長谷に被害者の遺留品について聞くと、財布や時計その他、盗まれたものは無し。ベンチから10メートルほど離れた植え込みで、被害者がさしていたと思われる黒い傘が開いたまま、見つかっているという。
傘が見つかった植え込みはこんもりとしたアオキの茂みで、高さは長身の真壁の下腹の辺りまであった。幅も軽く両腕を広げたぐらいはあり、仮にここに遺体があった場合、捜索にはかなりの時間がかかっただろうと思われた。
真壁は雨に洗い流されることなく残った着衣の泥を採取するよう、長谷に頼んだ。鑑定結果はその日のうちに出て、植え込みの付近の泥と同一だという結論だった。
そして、その日から真壁の脳裏にある疑念が沈着していった。誰が遺体をベンチまで運び、乱れた遺体の着衣を直したのか。それは当然犯人に違いないが、なぜわざわざ目立つようにベンチの上に遺体を置き、そして着衣を直したのか。
2
被害者の氏名は杉原精二、74歳。地元の台東区に土地や借家を多数所有している不動産会社を経営していた。家族構成は40になる一人息子と、同じく40の若い後妻の2人。後妻との間に子どもはなし。息子は父親の会社を手伝っていたが、金を使い込んで勘当され、結婚も失敗した。その後、一時はどこかで勤めていたようだが、今では酒びたりでごろごろしている生活だった。
杉原は2年前に脳卒中で倒れて以降、人目をはばかる隠居生活を送っていて、毎晩人が寝静まる午後10時ごろに、妻を付き添って散歩に出るのが日課だった。この散歩は雨の日でも欠かされることはなかった。
言語障害と軽いパーキンソン病の症状があるが、日常生活には不自由はなく、毎日2時間程度の散歩をして、身体はかなり回復していた。
事件前夜、杉原は妻の百合子に「今夜は気分がいいから独りで行くよ」と声をかけ、いつもの午後10時に散歩に出た。
百合子の供述では、杉原がそう言ったとき、たしかに顔色がいいように見えたという。それに、ときどきは独りで散歩に出ることもあったので、特に心配はしなかった。百合子が玄関から見送ったところでは、杉原はいつもの道をいつもの足取りでゆっくり上野公園の方向へ歩いて行った。
百合子は午前0時を回っても亭主が戻らないため、近所へ捜しに行った。上野公園も回り、1時間近くうろうろと捜したが、姿が見えないために不安になって急いで家に戻り、110番に電話をした。
記録では、通報があった時刻は、正確には午前1時5分。池之端の交番から巡査が出動し、付近を捜して公園内の現場に到着し、遺体を発見した。それをすぐに警視庁の通信指令センターに知らせたのが、午前1時半。
百合子が亭主を捜しにいって現場を通ったのは、それより1時間ほど早い午前0時半ごろと考えられ、そのときベンチに倒れている亭主には気づかなかった話だ。たしかに、ベンチの周辺は暗く、まっすぐ伸びている遊歩道の先や、併設されたトイレなどに眼を向けていれば、ベンチの暗がりは見えなかったのかもしれない。
検視の結果、死因は頭部を強打されたことによる頭腔内損傷と断定された。特に後頭部は数回に渡って強打されたために、脳組織が剥き出しになり、毛髪や頭皮に組織の一部がこびり付いていた。
凶器は、現場に落ちていた直径12センチの石。泥にまみれていたが、わずかながら血痕が付着しており、この血痕と被害者の血液型が一致した。創傷内部からは砂粒が検出され、凶器となった石と同一。
暴行の痕跡はなかったが、被害者の顔面や手足に多数の擦過傷が見受けられ、犯人に襲われた後、植え込みに顔から突っ込んだためにできたものと推測された。また、被害者の頬から透明な油性の物質が検出され、科学捜査研究所に送られた。
死亡推定時刻は、当夜午後11時ごろから翌日の午前1時の間。
当夜が雨だったこともあって、現場からは靴の有効な痕跡は採取できず、杉原のものの他に体液、毛髪、皮膚片、糸くずなどもなかった。また現場に残された傘からは、杉原本人の指紋しか検出されなかった。凶器の石からも、何の指紋もなし。
雨の深夜だったため、被害者が公園を歩いていた姿を見た目撃者はいない。
さしたる物証もないまま、上野南署に設置された特捜本部は現場の状況から判断して、他殺の線で捜査を開始した。
3
事件の背景は比較的、単純なものだった。
被害者が残した個人所有の不動産の評価額は、自宅の土地建物で約1億。生命保険が2億。ほかに銀行預金が5000万ほどと、被害者が経営する不動産会社の株式。それらを合わせると、個人資産はかなりの額に達した。
結果的に、それらの資産はすべて妻の百合子が相続することになったが、百合子は生命保険の半額を、勘当された息子の卓郎に分けた。遺産相続で親族ともめた形跡はなく、残された会社の経営の方も、特に不審な点はなかった。
そんなわけで、金銭上のトラブルによる殺人という線は薄くなり、金品目当ての行きずりの犯行という線も、目撃者は不審者が現れないまま行きづまり、個人的な恨みもしくは利害関係を持つ者による犯行という線が残った。そこに第一に嫌疑のかかったのが、被害者の息子、卓郎だった。
父親に対する恨みという意味では充分すぎるほどで、勘当されて以来、卓郎は父親への憎悪をしばしば口外していた。その上、事件前日に被害者に電話をかけていることが判明した。卓郎はたびたび被害者に金の無心をし、百合子の知る限りでは、杉原は月々の生活費を勘当した息子に渡していたという。
その電話の内容を妻の百合子は聞いていないが、いつも通り杉原は「あのろくでなしが」とだけ百合子にもらした。そして何より、卓郎には事件当夜のアリバイがなく、警察の聴取でもたびたび供述を翻し、捜査陣の心証を悪くしていた。もっとも卓郎はかなりのアル中で、酒を飲んでいるときは全く何も覚えていないことも多く、記憶にないことを問い詰められて、狼狽した結果の翻意や逡巡という面を認めなければならないだろう。
特捜本部は1週間前から、ホシを卓郎と内定して、張り込みに入っていた。卓郎は警察の包囲に気づき始めている様子で、家から一歩も外に出ず、1日じゅうテレビの音を響かせていた。
肝心の物証の線では、被害者の頬から検出された油性の物質が分析の結果、サリチル酸メチルと判明した。ヒメコウジから採れる冬緑油であり、凍傷の治療やリウマチによる関節痛の緩和に使われている。
特捜本部は張り込みのほか地どりや聞き込みを続け、ついに2日前、卓郎が20代のころから若年性のリウマチを患っていることを突き止めた。百合子の証言では、卓郎は未だ痛む腕や膝の関節に毎日、冬緑油の軟膏を塗っているという。特捜本部は色めき立ち、今日にでも卓郎を任意同行させ、四八時間以内に必ず落とす作戦に出ようとしていた。
今朝、真壁が早朝から事件現場に足を運んできたのは、ある暗い衝動にかられてのことだった。冬緑油という証拠がある限り、杉原卓郎を逮捕することに異存はないが、晴れない疑念はそのまま残っている。
遺体のコートやズボンを整えたのは誰か。卓郎というアル中を1週間見てきた限りでは、到底そんな気配りをしそうな男には見えない。妻子に逃げられた家はゴミ屋敷のような有様で、自分の着ているものさえだらしなくしている男が、遺体の衣服をご丁寧に整えたりするものか。しかし、絶対に有り得ないかというと、そんな確証は持てない。
卓郎がホシならば、共犯者がいる。遺体をベンチまで運び、衣服を整えた誰か。あるいは、ホシは卓郎の他にいる。
そんなことを自分に言い聞かせながら、真壁は半時間あまりベンチのそばで無為に過ごした。立ち上がった時には、両脚の膝がしびれて、無様にがくがくと震えた。
4
真壁は午前7時すぎに、上野南署に入った。特捜本部の置かれている3階の会議室には足を向けず、まず2階の刑事課へ上がった。
まだ誰も来ていない。最初に黒板のそばに貼られた日めくりが眼に入ったので、昨日の30日の分を破り取り、ゴミ箱に丸めて投げた。31日となった日付をちょっと見つめていたら、ある顔を思い出し、当直が顔を覗かせたことに気づかなかった。
当直は髭の伸びた眠そうな中年の顔で「早いですな、部長刑事殿は」と声をかけてきたが、その白い眼は「誰よりも早くやって来て、通報を待っているくせに」と告げていた。
真壁が早く署に出てきたのは、もちろん特捜本部に顔を出すためだった。事実、昨日も午前7時には本部に入った。この1週間、杉原殺害の捜査が山場を迎えて、本部は24時間態勢になっていた。
昨日は、卓郎宅の張り込みを切り上げたのが前夜の午後10時で、大井町のマンションに戻ったのが午前0時前。5時間ほど寝て、またマンションを飛び出し、本部に出てきたのだった。
その当直は真壁の倍ぐらいの年齢だったが、前回の巡査部長の昇任試験で真壁と明暗を分ける結果となり、それ以来、何かとつっかかってくるのであった。
早朝の不機嫌から「うるさい」と吐き捨てた後、真壁は洗面所に入って、自前の歯ブラシで歯を磨いた。刑事部屋に戻り、当直が宿直室に引っ込んでいるのをちらりと確認すると、隣のロッカー室から、さっき思い出した顔が出てきた。
小野寺茂夫。
刑事課知能犯係のベテラン警部として40年近く本庁と所轄を行ったり来たりを繰り返してきたが、それも今日で最後だった。真壁はある事件の捜査で、小野寺に参考人の別件逮捕で協力してもらったことがあった。
真壁が「手伝いますよ」と声をかけると、「おお、そうかい」と言って、小野寺が持っていた段ボール箱を手渡した。中に入っていたのは、雨靴一足、下着の替え、風呂敷、ナイロン製のヤッケなどだった。
「机の上に置いといてくれ」
そう言われて、すでに片付けが終わった何も上に乗ってない小野寺の机を見ると、真壁は漠とした哀愁を感じた。
「あとは、四品と拳銃の番号札を返すだけだな」
四品とは警察手帳、手錠、捕縄、警笛のことである。
「長い間、ごくろうさまです」真壁は言った。
小野寺は顔に苦笑いを浮かべた。
「それにしてもなぁ、最後のヤマが殺しなんてなぁ」
現在、上野南署は3つの捜査本部を抱えていた。いずれも殺人・強盗を担当する刑事課強行犯係絡みの案件で、強行犯係だけでは当然足らず、杉原精二殺害事件の捜査本部では同じ刑事課から知能犯係が応援に投入されていた。
「今日、おれの送別会あるから、真壁ちゃんも出てくれよな」
「はぁ・・・」
真壁には、不思議に思っていたことがあった。本来なら、小野寺の退官は来年の3月のはずだが、それを7か月も前倒しにするからには何がしかの理由があると考えられるが、それを口にしようとしたとき、小野寺が「そろそろ七時だから行こうか」と言った。
2人が階段で3階の廊下に上がると、特捜本部が置かれている会議室の扉は開け放してあった。扉の脇の壁に、「上野公園内殺人死体遺棄事件特別捜査本部」という墨書きの張り紙、すなわち戒名が出されている。
小野寺が「韮崎さんの方が戒名、上手かったな」と呟くと、去年、本庁の生活安全課に異動した元刑事課長代理の韮崎には、たしか書道のたしなみがあったことを、真壁は脳裏の片隅に思い出していた。
5
会議室の中では、靴音と話し声と警電の鳴り響く音が飛び交っている。席は窓側に本庁組、廊下側に所轄組と分かれていた。
真壁が「お疲れ様です」とひと声かけて所轄組の中に入っていくと、「おはよう」「ごくろうさん」といった声が一つ二つ返ってきたが、どの顔も上の空だった。捜査の状況が刻一刻と動いていて、挨拶どころではないのだろう。
真壁は手近のパイプ椅子に腰をかけると、刑事課強行犯係の同僚に「何か進展はありましたか?」と聞いた。
「卓郎の野郎、逃げたらしいな」同僚は首だけ振り向けた。
「逃げた?」
この1週間、杉原卓郎には24時間態勢の尾行と張り込みがついていた。それが「逃げた」と聞いた瞬間、血が騒ぎ、掌に汗が噴き出すのを真壁は感じた。
「張り込みは何してたんです?」
係長である平阪善明が「本庁の連中と一緒に、ヘマをやらかしたんだよ」と忌々しげに言い、鋭い視線を投げてきた。
ホワイトボードの前では本庁の捜査主任が警電に怒鳴り、その傍では早くも顔を見せた署長と本庁の係長が眉にしわをよせて額を突き合わせ、署活系無線には次々に現場からの報告が入ってくる。誰か話のできる奴はいないのかと見回すうちに、刑事課長の嶋田が「清聴!」と手を上げた。
「卓郎が自宅から消えた。逃亡したものと思われる」
何が思われるだと、真壁は仏頂面を浮かべた。
「報告によれば、逃亡したのは午前7時5分前。近所の通行人が、卓郎が自宅裏の塀を超えるのを目撃した。張り込み班が追いかけたが、卓郎はすばやくタクシーに乗り込み走り去ったため、見失った。現在、タクシー会社が無線で当該のタクシーを呼び出し、位置を確認中」
窓側の本庁組から、「見張りは居眠りでもしてやがったのか」と声がし、平阪が「うるさい、黙っとれ」とはねつけた。
徹夜で張り込んで対象に逃げられるというヘマをやらかしたのは、本庁の2名と上野南署の2名だったが、平阪は別に自分の部下を庇ったわけではなかった。単に、日に一度は本庁組をいびるのが、平阪の日課になっていただけだった。
刑事課長の嶋田がそのやりとりに顔を少ししかめた後、言葉を続けた。
「卓郎が逃亡したことで、容疑は固まった。見つかり次第、署に引っ張ることになる。ついては、これから各班の今日の割り当てを行う・・・」
本庁から来ている第五係の10名と合わせて総勢30名弱の捜査員は三交替で杉原卓郎の行確、証拠固めのための地どり、カン(敷鑑)捜査に続けていた。
さきほど、杉原卓郎が「逃げた」と聞いた直後に、真壁が考えたことは2つある。1つは、これで卓郎はクロということでケリがつくのだろうということ。もう1つは、仮に卓郎がクロになっても、それでもやはり被害者のコートを整えた者は、別にいるのだということ。それは女だと、真壁はにらんでいた。
真壁はこれまで数回会った杉原卓郎の赤黒いアル中の面を思い出しながら、今朝から降り続いている雨のようにじくじくと考え続けた。実は真壁は、本部の捜査方針とは別に、こっそり女を探し続けていた。会社の金を使い込む前は、あちこち飲み歩いて複数の女に手を出していた卓郎だが、最近はもう事情が違った。現にこの1か月の敷鑑でも、特定の女がいるという形跡はなかった。したがって、ホシは卓郎ではないというのが真壁の考えだった。
しかし、そう考えてはいるがはっきりとした裏付けはなく、今の段階ではたんなる思い込みにすぎなかった。卓郎の任意同行が決まった今、異議を唱えるに十分なネタはなかった。本部には、現場に女がいたと考えている者はなく、そんな話がちらりと出たこともない。それでも勝手な思い込みで、女を探し続けてきたこの1か月の経過とわずかな自分のネタを、このまま捨ててしまうにはあまりに虚しかった。
6
会議室の片隅で、つらつらとそんなことを考えているうちに、「以上、今日も全力を尽くして裏付けを固めて下さい」という嶋田の声が聞こえ、ガタガタと椅子を鳴らして捜査員たちが席を立ち始めた。
「真壁、どうする?」
そう呼ばれて振り返ると、事件発生からずっと捜査で組んでいた知能犯係の同期、須藤守が立っていた。
「今日から機捜と組めと言われて、これから行くんだが・・・どうする、あのゴミ箱あさり?」
これまで2人は機会あるごとに「被害者の顔見知りの犯行」の線を追うという、うわべだけの理由をつけて被害者の杉原精二宅と杉原卓郎宅に出入りした者の有無を調べるために、双方のゴミ箱を収集日の早朝にこっそりあさってきたのだった。真壁が精二宅を受け持ち、須藤が卓郎宅だった。
女を追っているという本当の理由は、須藤には内緒にしていた。それでも須藤は何の疑問も持たずに、黙々とゴミ箱をあさり、タバコの吸い殻や出前の割り箸を拾い、日付を入れたビニール袋に入れて鑑識に回してきた。もっとも卓郎に24時間の行確がつくようになってから、卓郎宅のゴミ箱あさりはそうそうにできなくなった。
今のところ、吸い殻などから検出された指紋や唾液から判明した血液型からは、これといった成果が上がっていない。卓郎宅のゴミ箱から、ひょっとしたら女の存在を示す何かが出てこないかと狙ってはいた。
一方、今は未亡人の百合子ひとりが住む杉原精二宅では、この1か月に三度、独りで訪れた者がおり、その何者かはタバコをフィルターぎりぎりまで吸う癖があることが分かった。指紋は該当する者がないので、その何者かには前科はない。卓郎でもない。また、その人物のタバコの吸い殻は、いつも出前の寿司屋の箸と一緒に捨てられている。寿司屋でちらりと聞いてみたところでは、注文はきまって特上にぎりが2人前。配達に行くと、3回とも玄関に男物の革靴が一足脱いであったという。よく磨かれた上質の皮革で、色は黒。時刻はいずれも夜の8時ごろ。
被害者宅を訪れそうな男のひとり客といえば、杉原精二が会社経営の相談をしていた弁護士がいるが、その男はタバコを吸わない。昨日まで、杉原精二の知人や親せきを一人ひとり調べてきたが、まだ該当するような男は見つかっていない。
未亡人の百合子には、男がいるのかもしれない。そんな勘がおのずと働くが、だからといって事件と結びつける理由は何もない現状だった。
「もういい」真壁は言った。「ゴミ箱からはたぶん、もう何も出てこないだろ」
「でも、今日は卓郎の家のゴミ収集日だぜ。ついでだから、見ておく」
「何、考えてんだよ。今日はテレビに映るかもしれねぇぞ」
「まかしとけって」
そう言ってニヤりと笑うと、須藤は立ち去り際、「お前の相方はアッチ」と指で教えてくれた。真壁が須藤の指した先に眼をやると、小野寺と課長の嶋田が話していた。
「シゲさんは、今日どうする?」嶋田が言った。
小野寺は終始、おどけた調子だった。
「どうするって?」
「だって、今日で最後の・・・」
「ええ、今日で終わりですが。遊ばせてくれるんですか」
「ええと・・・どうしたものかな。あんたに任せるよ。いずれにしろ、適当な時間で切り上げたらいい。いろいろ予定もあるだろうし」
小野寺は「そいつはどうも」と嶋田との話を打ち切り、「じゃあ、行こうか」と真壁の肩をたたいた。
真壁が腰を上げたとき、無線の声が「タクシーを発見。日暮里駅前。卓郎を確認。山手線に乗り込む様子」と告げた。また、別の声が「山崎、武下、谷岡、岡田の4名がこれから接触します」という。
「慎重にやれ。逃がすな」嶋田が声高に指示を出す。無線の声が続いた。
「卓郎は改札を通り、内回りのホームへ・・・」
真壁と小野寺はそれらの声を背中で聞きながら、会議室を抜け出した。
7
降りしきる雨の中、真壁と小野寺はアメ横の喫茶店「シラノ・ド・ベルジュラック」に入った。店はどこにでもある庶民的なものだが、上野南署の依存度が極めて高い。昼時になると、スパゲッティやオムライスを食べる知った顔の署員が何人もいたりする。
まだ店が開いてから早いせいか、客はカウンターにひとり新聞を読んでいた。2人で窓際のテーブル席に座り、同じモーニングとコーヒーを注文して食べる。
小野寺がコーヒーをひと口含み、「ああ、美味い」と感慨深げにもらす。真壁には可もなく不可もない味だったので、「急にどうしたんですか」と笑った。
「毎日、コーヒーばっかり飲んでたら胃を壊すと思ってな。50になってから、紅茶にきりかえたんだが・・・最後の日ぐらい、コーヒーでも構わんだろう」
そう言うと、小野寺は半分ぐらい食べ残した皿をテーブルの脇に追いやった。暇そうな様子を見て、真壁は背広からタバコを取り出し、顔の前で振った。
「いや、いいんだ」
「タバコ、やめたんですか?」
「マルボロも飽きたんでな。なんか違うのに替えるから・・・だから、いいよ」
真壁は全て食べ終え、食後の一服にライターを手に取ると、小野寺がマッチ箱を振ってみせた。
「マッチの方がウマいぞ、真壁ちゃん。葉っぱがじかに燃える感じがしてな」
小野寺がマッチを擦り、「スイマセン」とことわってから真壁はタバコをくわえ、火に当てた。最初、マッチの黄リンが燃える香りがツンと鼻を突き、タバコの葉の香りがより鮮明に感じられる。じかに燃える感じとは、このことだろうか。
ふとテレビに眼を向けると、金町で暴力団員2名が薬物の不法所持で逮捕されたニュースの後で、「今月16日未明、中野区中央の鍋屋横丁で・・・」とアナウンサーが言い、真壁は耳をそば立てた。
「中野東署の米村啓太巡査が殺害された事件で、同署の特別捜査本部は今日午前8時、住所不定、無職、中国籍の宋隆生容疑者56歳を強盗殺人の疑いで逮捕しました。宋容疑者は現在、容疑を否認しているとのことです」
小野寺が真壁にならって、テレビに眼を向ける。
「殺された米村って巡査、まだ30にもなってなかったそうだな」
「同期でした」
小野寺が眉をつり上げた。
「知ってるの?」
「学校の剣道の講習会で、何度か試合しただけですけどね。高卒で警官になって・・・早く刑事になりたいんだけど、まだ外勤だなんて笑ってました」
「まぁ、宿命だよな。もっとも、二課のおれが言うことじゃないかもしれんが」
警視庁に在籍する約4万3000人の警察官のうち、機動隊や特殊班に所属しているような場合を除けば、小野寺のように命に関わる場面に出くわさずに退官を迎えるほうがかなり多いはずだ。
「そう言えば、さっき須藤と面白そうな話してたな。ゴミ箱がなんだって?」小野寺がニヤりと笑う。
「・・・女を探してるんです」
「女?どうして?」
「現場で、遺体の半コートを整えたヤツがいます。それはおそらく・・・卓郎じゃないはずです」
「だが、物証があるじゃないか。たしか、冬緑油だったか・・・」
「コートに、油類はいっさい付着してませんでした」
「たまたまかもしれん」
真壁は灰皿にタバコを押しつぶした。
「でも、どうして女なんだ?」
「・・・なんとなくですよ」
小野寺は苦笑を浮かべた。
「なんとなくじゃ、ダメですか?」
「いや・・・真壁ちゃんがそんなことを言うとはねぇ。ほんとは、さしたる確証を持ってるんじゃないの?」
「買い被りすぎですよ・・・」今度は、真壁が苦笑を浮かべた。
「でも、何かがひっかかるわけだ。それを突き詰めていって、アタリだったら、バンバンザイじゃないの」
小野寺とは、喫茶店の前で別れた。「今日はもう遊ばせてもらうよ」と言って、雨の街に消えていくその背は、どこか寂しげだった。さて自分はどうしたものかと考えていると、小野寺にどうしてこの時期に退官するのかを、つい聞きそびれたことを思い出した。
8
いまの真壁に出来ることと言えば、自分の捜査を見直すことしかなかった。
杉原精二の敷鑑(関係者への聞き込み)捜査を行うに当たって、上野南署の特捜本部は精二の妻、百合子の過去を洗い出すことになった。
18歳で秋田から上京してきた百合子は短大を卒業後、デパート勤めのかたわら、22歳で同郷の男と結婚した。子どもができず、同郷の男とは2年で離婚。その後、再婚したが、亭主が遊び人でよそに女を作ったためにまた離婚。
真壁と須藤が百合子の二番目の亭主だった本田和宏に、一応形ばかりの聞き込みをしに、荻窪へ行った。カンは経験と肩書の上位から順番に決まるから、所轄の若手2人に任せるあたりに、本部が一人息子の卓郎の線の他に、何の期待していないことは明白だった。
本田は、36歳。上背があり、少し肉がつきはじめたスポーツマンのような体格をしていた。意外と整った顔立ちをしており、昔ホストでもしていたような感じがした。真壁たちが見た時点では、本田はまったくの無為徒食のヒモだった。住んでいるマンションは不動産会社で確認したところ、一緒に暮らしている木暮早紀という女のものだった。
玄関先で来意を告げると、出てきた男の背後に、女がいた。本田は「ここじゃ、マズい」と言って、2人の刑事をマンションの裏手にある公園に案内した。そこで本田は、投げやりな口調で百合子に対する複雑にねじれた思いを語った。
「百合子のこと?もう忘れたよ」
斜に構えて真壁たちを眺めながら、片足を始終、貧乏ゆすりしていた。
「7年も前に別れた女のことをいちいち覚えてたら、俺はとっくの昔に首つってなきゃならねぇよ。でも、俺みたいなろくでなしと所帯持つと言い出したのは、百合子だからな。誰だって、そう言われりゃ可愛いと思うじゃねぇか」
見たところ、本田は人一倍見栄っ張りで、そのくせ挫折に耐える強さや責任感はなく、それで開き直っているような図太さも感じられない。おそらく忸怩とした人生だったのだろうが、女にはそれなりに優しいのかもしれない。
「でも、俺には分かってたんだ。どうせ、そのうち愛想つかして出ていくのは百合子だってな。物の考え方がどだい合わないのに、一緒にメシ食ってたら夫婦でいられると思ってたらしいな」
本田は左手に包帯を巻いていた。汗で蒸れて痒いのか、包帯と手の甲の間に指をむりやりねじ込んで、ボリボリと掻いている。
「手、どうしたんですか?」真壁は言った。
「この前、酔ったときに転んだんだよ」と言うと、右手が掻くのを止めた。
「それで?」
「俺はメシ食わせてもらって、へぇこらしてたら、亭主でいられるとは思ってなかった。じゃあ働けって言われると、頭に来るしよ。俺はどうせこんな人間だから、一緒にいたいんなら、それを分かれってあいつと何度もケンカしたけどな。結局、俺たちは水と油だったんだよ・・・」
たしかに夫婦生活が成り立つためには複雑な条件がいろいろと重なるから、結果的に本田の言う通り、しばらく付き合ってお互いに愛想を尽かしたということだろう。
だが口とは裏腹に、本田の眼には何か別の色が浮かんでいるように、真壁は思えた。その色が何なのかははっきりと言えなかったが、本田の言葉をそのまま鵜呑みにするには刑事の性分としても、当然ためらわれた。
午前9時半、真壁は成田西四丁目の公園に立っていた。あいかわらず耳にビニール傘に当たる雨の音がつくが、早朝より若干、落ち着いてきている。もうすぐ止むか。
5階建てのマンションの裏手が見える。最上階は大家の自宅というから、4階までが賃貸になっているわけだ。1階は住民用の駐車場で、2階からワンフロア四戸の住宅。本田の部屋は203号室だったが、その窓にはカーテンがかけられ、内部の様子は窺えない。電気も付いてないようだ。さっきちらりとポストを覗いたが、何も入っていなかった。
本田と一緒に暮らしている木暮早紀については、年齢が32歳、銀座二丁目のバー「エルム」でホステスをしていることが分かっている。近所の話では、夕方4時ごろ出かけ、夜中にタクシーで帰るか、始発で朝帰りの日々だという。だとすると、今は部屋で寝ているのか。
大家の奥さんに本田について聞くと、「昼は府中の競馬場、夜は駅前のパチンコ屋にいることが多いみたいですよ」と言った。真壁がそのことを手帳に書いていると、「あの人、何かあったんですか?」と興味津々の顔で覗いてきたので、適当なことを言ってその場を離れた。
この後、真壁は2時間ほどマンションの監視に費やし、空腹とタバコで腹が痛くなってきたところで、近くの交番を目指して歩き出した。
9
五日市街道まで出ると、児童館前の交差点の角に、駐在所を見つけた。中に入り、警察手帳を示すと、「お疲れ様です」と40代ぐらいの巡査が机から立ち上がった。
「巡回連絡カードを貸してくれませんか?」
巡査は振り返り、後ろのキャビネットから分厚いファイルを取り出し、真壁に差し出した。ページをすばやくめくり、「この・・・」と、真壁はあるカードを巡査に示した。
「サンライズ成田西203号室の、本田和宏について何か知ってることはないですか?昼は府中の競馬場、夜は駅前のパチンコ屋にいることが多いとか・・・」
「すいません。自分はまだ数週間前に異動になったばかりで・・・」と、巡査は申し訳なさそうな表情を浮かべて言った。
真壁は礼を言い、ファイルを返そうとしたとき、スチール机の上に置かれた写真立てが眼に入った。収められた写真には、眼の前にいる巡査と、見覚えのある顔がパトカーの前で肩を組んで立つ姿があった。
見覚えのある方の顔を指し、真壁が「これは、米村・・・?」と言うと、巡査が「自分は大谷康夫と言います。事件の日、一緒に出動したんです」と口を開いた。
「危ない目に遭わられたんですね」
「いえ、犯人を見つけて飛び出していったのは、米村なんです。自分は運転してただけで」大谷は重い息を吐いた。「米村は刺された後も、犯人を追ったらしく・・・這ったような跡が続いてました。その先に、制帽が落ちてて・・・手に取ってみると、血まみれでした」
心なしか、大谷の声が震えているように、真壁は感じた。
「その制帽が忘れられなくて、交番勤務に異動を頼んだんです・・・怖くなったんですよ、情けないことに」
大谷は、左手の結婚指輪をなでた。
「自分には家族がいます。自分が殉職したら、妻は、娘は・・・って考えてしまって」
「自分を責めることはないですよ。悪いのは、盗みを働いたあげく、米村を刺したヤツだけです」
真壁がそう言うと、大谷は口元に寂しげな笑みを浮かべた。
「ところで、犯人はどこで何を盗んだんですか?」
「薬局に忍び込んだんです。現金が2万弱と、薬が少し」
真壁は眉をつり上げた。「薬、ですか?」
「自分もよく分からないのですが、どうやら何かの軟膏だとか」
午後1時すぎ、真壁は荻窪駅前の中華屋で昼食を取ると、近くのファーストフード店に河岸を変え、1杯100円の薄いコーヒーをちびちびやりながら、2時間ほど舟をこいだ。だが、寝ても覚めても脳裏によぎるのは事件のことばかりで、タバコを3本灰にした後、真壁は携帯電話を取り出すと、嶋田の声が「はい、本部!」と怒鳴った。
真壁は、杉原卓郎が引っ張られたのかどうかだけ確認した。午前8時10分に日暮里駅構内で任意同行を求められた卓郎は、酔っぱらったまま午前8時30分過ぎに上野南署に入り、現在取調中とのことだった。尋ねもしないのに、嶋田は「もう少しだ。夕方には逮捕できる」と付け足した。
殊勝に「何かできることはありますか?」と言えばよかったのだろうが、「分かりました」とだけ言って、真壁は携帯電話を切った。
頭の片隅に、「夕方には逮捕」という嶋田の声が残っていた。ついに逮捕か。
真壁は、ふと考えてみた。逮捕の一報は、夕方のニュースに出る。遺体となった杉原精二のコートを整えた何者かも、ニュースを見るだろう。息子の卓郎が逮捕されたと知って、その何者かが最初に思うのは、「やれやれ、これでひと安心だ」ということだ。
ニュースが流れた後、これまで息をひそめていた何者かはやっと解放されて、動き出すのでないだろうか。
そんなことを考えたとたん、これまでに得たわずかなネタを、またぞろ惜しむ気持ちが湧いてきた。
殺害した杉原精二の衣服をわざわざ整えた者がいる。それはおそらく女であり、真壁の頭の中では、単純明快に未亡人の百合子だった。それ以外に捜査線上に上がった女がいないということから、自然と百合子に眼が行ったのだ。そして、百合子がひとり暮らす杉原精二宅のゴミ箱をあさるうちに、存在が浮かび上がってきた男がいる。その男は3回、精二宅に姿を現した。百合子と事件を結びつけるのは、ちょっと無理があるが、亭主が死んで四十九日もすまないうちに、2人で三度も寿司を食うような男は、兄弟や親せきや会社関係にはいない。もし百合子の個人的な付き合いならば、死んだ精二が知らなかった一面を、女は持っていたことになる。
事件との関わりで言えば、事件当夜についての百合子の供述がすみからすみまで事実かどうか、疑ってみるのは刑事として当然のことだった。何らかの始末をつけないと、後々まで寝覚めが悪くてたたられるのは結局、自分なのだ。
これといった当てがあるわけでないが、この際、卓郎逮捕のニュースを待ちながら、百合子の動きをみるのも一案だと思った。
10
午後4時半すぎ、真壁は西片六丁目に立っていた。戦後すぐに本郷通り沿いに立った古いしもた屋風の家の玄関に、杉原の表札がかかっている。小雨から曇天にかわり、ビニール傘は手にかけておいた。
死んだ杉原精二は会社を大きくすることに金と時間を注ぎ込み、身嗜みに気をつかっていたほかは、私生活はごく慎ましやかだった。先妻に先立たれて10年、手伝いも雇わず一人暮らしを続けていたとき、駅前のスーパーのレジで働いていた百合子を見初めて1年間口説き続け、再婚を果たした。
精二が気に入ったのは、百合子の地味で質素な性格だったという。近所の評判は異口同音に、「慎ましやかに暮らしていた」というもので、エプロン姿で買い物かごを提げ、毎夕商店街に現れる百合子の姿はどこから見ても平凡な奥さんだった。
秋田から出てきてしばらくは実家や親類との付き合いはあったが、二度も結婚に失敗してからは郷里に帰らなくなった。秋田の両親はすでに死亡。仙台にいる兄弟とは音信不通。精二の葬儀に百合子の係累の姿はなく、葬儀後も親類が出入りした様子はない。
5年前まで勤めていたスーパーの同僚の話では、友人もなかったという。杉原卓郎が会社で不祥事を起こしてからは精二も付き合いをしなくなり、盆や正月などは、夫婦で温泉旅行に出かけることが多かった。精二が脳卒中で倒れたときは、百合子がずっと病院で付き添い、退院してからは散歩に出る以外に、夫婦ともあまり世間に姿を見せなくなった。
そういう話のどこにも、特に奇異な点はないが、外から窺えない人の心の部分には、まだまだ分からないところがあった。6年前、68にもなっていた精二が34の女を見初めた気持ち。スーパーでひとり買い物をしていた老人に、百合子がやさしくしたのだろうか。ろくでなしの息子に裏切られた傷心を、若い女に癒してもらい、息子の代わりに遺産をやろうと思ったのか。
百合子にしても、三度目の結婚で30も歳の離れた老人を選んだ本当の理由は何なのか。いくら性格が地味だといっても、老人相手の日々の生活の、何が面白くて生きてきたのか。肉体的にはまだまだ女盛りの百合子は、性生活はどうしていたのか。
年老いた亭主が亡くなり、1億以上の遺産を手に入れた今、百合子はこれからどうするつもりなのか。それを考えると、このまま未亡人で終わるという想像は難しい。
美貌とまではいかずとも、色白のふっくらした百合子の顔は、かなり男好きがする。亭主のいなくなった家に招き入れて一緒に寿司を食うような男がいても、大いにありそうな話だ。普通なら、そういう男がいたらすぐに捜査陣の知るところとなるが、今回は早い段階で容疑が卓郎に集中した分、その他の人間の身辺調査がおろそかになり、百合子の男は網の目からこぼれてしまったのだ。
百合子が遺産目当てに男と共謀して亭主を殺害したという可能性は、全く無いとは言い切れない。特に、被害者の頬に付着していた冬緑油という唯一の物証は、本ボシが犯行を卓郎になすりつけようとした証左でもあり、百合子は卓郎が若年性のリウマチを患っていて冬緑油を使っていることを知っていたのだ。
また事件当夜、ひとりで散歩に行くと言って出ていった精二を見送ったという百合子の証言を、裏付ける者はいない。亭主が戻らないので午前零時すぎになって捜しに行ったというが、これも目撃者はいない。
仮にそこまでが事実であったとしても、捜しに行ったときに、いつもの散歩コースの途中に倒れていた亭主を、本当に見逃したのかどうかはわからない。実はそのとき、倒れている亭主を見つけ、あれこれ考えた末に警察への届けが遅くなったことも考えられなくはない。
葬儀の席上、喪服姿の百合子は泣いていたが、人間の涙が常に悲しみを表すとは限らない。恐怖や興奮などの入り混じった涙というのもあるはずだ。
そんなことを考えながら、真壁は一時間近く本郷通りを行ったり来たりしていた。足の裏がそろそろ痛くなってきたところで、百合子の家のはす向かいに喫茶店が見えた。そこに向かって歩き出したその時だった。
11
「やっぱりここにいたな」
路上で出し抜けに掛けられた声に、真壁はぎょっと顔を巡らせる。街灯の薄明かりの下、ピンクのビードルの屋根に肘をつき、見馴れた顔がイタズラをたくらむ悪童のように笑っていた。
「何だ、こんなところで。驚かすな」
富樫誠幸。
全国紙の東都日報に勤める記者で、真壁が上野南署刑事課に配属された頃から警視庁捜査一課の「番記者」を務めていた。2人は明真大学の山岳部で同じ釜の飯を食った仲でもあった。
「百合子さんは留守のようだね」
家は玄関の格子戸が閉まり、外灯もついていなかった。この1か月、ほとんど雨戸が閉まったままの2階の窓のベランダに、垂れ下がった洗濯物のロープが1本、ぶらぶらと揺れている。
「やっぱりお前、俺の手帳を勝手に・・・」と真壁が声を荒げると、富樫は「まぁまぁ、無粋なことは言わないで」などと言いつつ、通りの向かい側にある喫茶店「セーヌ」に真壁を追いやった。ガラス越しに家が観察できるテーブル席に座り、真壁はアイスコーヒー、富樫はジュースを注文した。
ジュースをひと口ふくみ、富樫は「子どもができてからこういうのがおいしくてね」と、自嘲気味に笑った。一方の真壁はというと、ファーストフード店が出す安物とは違う本格的なコーヒーの芳香に頭の芯がくらりときていた。
「で、どうなの?」
「それはコッチの台詞だ。卓郎は認めてるのか?」
「殺意はね。でも、手はかけてないって」
「微妙だな」
「またまた、そんなこと言って。卓郎が犯人だとは微塵にも思ってないくせに」
「あのなぁ・・・」真壁は苦笑を浮かべる。「俺の手帳が本筋だと思ったら、大間違いだ」
「ほんとにそうなのかなぁ」
甘いジュースを飲みながら、優雅に笑う富樫は何日か前に、神保町のバー「モンブラン」で一緒に飲んでいたすきに、珍しく酔いつぶれた真壁の上着から手帳を抜き取って中身を読んでいたのだ。
しかし、そんな友人の所業がどこか憎めないのは、百合子が男と共謀して亭主を殺害したにしろ、亭主を捜しに行って遺体を見つけたにしろ、乱れた遺体の衣服を丁寧に整えたのが百合子かどうかについては、真壁は実は疑問に持っていたからだった。
半コートを遺体の背の下から引き出して伸ばしたのは、普段からそういう仕草が身についている人間の仕業だ。すなわち、丁寧で几帳面で細かい気配りをする者が、不必要と思える場面でとっさに遺体の衣服を整えたのだろう。
ところが、百合子という女が、どちらかと言えばがさつだと思えるのは、2階のベランダに垂れ下がったロープ一本にも現れていた。玄関周りも掃除は行き届いていない。ゴミ箱あさりで分かったことだが、生ゴミと不燃ゴミが一緒に袋に突っ込んである。お供えの届け物の包み紙は、四方八方やぶれた状態でくしゃくしゃに丸めてある。
百合子が遺体に何がしかの気持ちを懐いたとしても、とっさの場面で衣服を整えるべく手が動いたかどうか、真壁は今ひとつ自信が持てなかった。事件の周辺にいる女といえば、百合子しかいないから今日まで追ってきたが、本部で何も言い出せなかったのは、そういうところでひっかかったためであった。
「そうだ・・・中野の警官殺しで、何かないか?」
「中野?」富樫は頭をひねった。「いや、特に何も聞いてないけど」
「まだ否認してるのか?」
「そうだと思うが・・・何かあるの?」
真壁は「気になっただけだ」と言って話を打ち切ったが、内心はちょっとざわついていた。逮捕したからには、決定的な証拠を特捜本部が掴んだに違いないはずだが、今まで苦戦しているところを見ると、状況証拠のみで逮捕に踏み切ったのか。
午後7時前、富樫がレシートを持って「おごらせてもらうよ」と言い、颯爽とピンクのビードルを駆って出て行った後も、真壁は中野の強盗について考えを巡らせていた。
犯人が盗んだものが、現金が2万円弱と薬。それも軟膏だ。現金は分かるし、薬もシャブのように依存性のあるものならまだしも、そんなものが街の薬屋に置いてあるとは思えない。とっさに手帳を取り出し、まっさらなページに「なぜ軟膏なのか?」と赤ペンで書きつけた。
その直後、スーパーの袋を提げた百合子が本郷通りの歩道に現れ、玄関の鍵を開けて家の中に入っていった。3日ほど前にも姿を見ていたから分かったのだが、髪型が変わっている。美容院へ行ったのだろうか。服装の方は、いつもと同じ地味な色合いのカーディガンとスカート。
スーパーの袋の中身は、夕食の支度か。今日はもう外出しないのか。
12
午後7時も5分すぎ、真壁は慌ててカウンターの奥へ声を放った。
「すいません、テレビつけてくれませんか。NHKのニュースを」
ニュース番組はすでに始まっていた。国会の法案審議やユーロ圏の金融危機と続き、最後の方で「台東区池之端の上野公園内で・・・」とアナウンサーが原稿を読み始めた。
「不動産会社経営杉原精二さんが殺害された事件で、上野南署の特別捜査本部は今日午後5時、精二さんの息子の卓郎容疑者40歳を殺人と死体遺棄の疑いで逮捕しました」
今朝、上野南署に引っ張られたときの卓郎の姿が映った。ネクタイは着けず、襟のはだけた白いワイシャツ姿の卓郎はカメラの放列に向かって、酔っぱらっているらしい頭をふらふらと揺すって両脇を刑事2人に抱えられていた。
「卓郎容疑者はサラ金で金を借りては競馬に注ぎ込み、平成10年夏、精二さんの会社の金4000万を使い込んで会社を解雇されました。その後も精二さんにたびたび金をせびるなどしていたところ、7月17日の夜、精二さんに借金を断られて腹が立ち、精二さんを殺そうと思ったと供述しているとのことです」
どうやって殺したのか。殺した時の遺体の姿勢はどうだったのかなど、詳しい供述は取れたのだろうか。
逮捕された卓郎は、もう拘置所に移送になったのかどうか。電話を掛けるか、真壁は迷い、結局携帯に伸びかけた手はそのまま引っ込んでしまった。「どうだった?」と誰かに聞いてみたところで、どうせ慌しいからろくな説明は返ってこない。
そうしてさらに半時間ほど経った。自分が何を待っているのか、とうの昔にわからなくなり、もういいと何度も思った。ただ何ひとつ進展しないまま、帰るに帰れない。そんな状態だった。
真壁は3杯目の苦いアイスコーヒーをちびちび啜りながら、本郷通り沿いの車の灯火と、その向こうの百合子の家の玄関を眺め続けた。
午後8時も10分を過ぎたころ、その玄関が開き、百合子が出てきた。ハッとして眼を凝らした。買い物から帰ってきたときとは、服装が違う。濃い色のスーツとパンプスで、ハンドバックを持っている。外出向きの服装に見えた。
真壁は取るものもとりあえず、腰を上げた。外はすでに雨が上がっていたので、ビニール傘は置いていった。
スーツ姿の百合子は初めて見た。言問通りに入り、帝都大学の敷地を通り抜けるその後ろ姿は、髪型が変わって別人のようだ。ひっつめていた髪を短く切ってパーマをかけたことで、10歳ぐらいは若く見える。スカートの裾を翻して進むパンプスの足は軽快な感じがあり、歩調も早い。
誰かに会いに行く足取りだった。人目を気にする様子もなく、帰宅を急ぐ勤め人たちとすれ違いながら、根津一丁目の交差点で地下鉄の駅へと階段を下りて行った。
百合子は改札口を通り、階段をまた下がって北千住方面のホームへ向かった。真壁はちらりと腕時計に眼をやった。時刻は、午後8時39分。
万一の場合に備えて、尾行にはもう一人いた方がいいに決まっている。頼めるのは須藤しかいないが、まだ署に残っているのだろうか。そんなことを考えている暇はないと思い直し、真壁は携帯電話を取り出した。
須藤が電話に出たのは10秒足らずの間だったが、真壁には3分以上待たされたような気分だった。のんびりとした口調の須藤の後ろから、慰労会の喧騒が聞こえる。
「姿が見えないから帰ったんじゃないかと、小野寺さんと話してたとこだよ」
電車がホームに入ってきた轟音に苛立ちが混じり合い、真壁は声を張り上げた。
「ちょっと、俺と付き合え。あと15分か20分、そこで待ってろ。また電話するから、すぐ飛び出せるようにしとけ、いいな!」
「ええ?」
須藤の驚いたような声が聞こえたところで、真壁は電話を切った。百合子が電車に乗り込んでいくのを眼で追いながら、真壁も走った。