41
プーシキンはサンクトペテルブルクの南25キロほどの所にあり、1937年にこの有名な詩人の名前に改称された。緑に恵まれた閑静で小ぢんまりしたこの街に、いくつもの美しい公園と2つの宮殿がある。
警察学校は、エカテリーナ宮殿からほんの少し離れた場所に立っている。幅300メートルほどの青と白の化粧漆喰の前壁に、金色の丸屋根、金メッキを施した鋳鉄の門などを備えた宮殿に対して、警察学校は茶色の煉瓦が崩れかけ、屋根は雨漏りがして、ペンキが剥げかけている。
ロマン・スヴェルコフは、300人は入れる広い食堂で待っていた。折り畳み式の細長いテーブルでギレリスが質問している間に、リュトヴィッツはこの警察学校の指導教官を観察した。金色の髪に青い眼。大きな鼻と肉厚の唇をした強健そうな男だ。高い頬骨がなければ、ドイツ人かポーランド人のようにも見える。気品とロマンをたたえた顔立ちは、警察官より詩人にふさわしい。
「ヴィシネフスキーについて、聞かせてもらおうか」ギレリスが言った。
スヴェルコフは照れたように鼻を掻き、視線を左右に揺らした。ようやく答えようとしたとき、ギレリスにさえぎられる。
「なぜ、名乗り出て来なかったんだ?殺される前のヴィシネフスキーと接触したすべての人間に、われわれが話を聞きたがってることは知ってたはずだ。どう弁明する?」
スヴェルコフは代用品のコーヒーを口に含んだ。麦と藁を煎じ、それに牛乳を入れて煮込んだものだ。それから椅子に背中を預け、自分をかばうように腕を組む。
「アルバイトをしてることが報告書に載ったら、今の職を失うかもしれないじゃないですか。民警での出世の道はもう絶たれてます。ケガをして、補償もなしでOMONを放り出されたことは、ご存じですよね?」
「知ってる」
「妻や家族を抱える身で、この仕事を失うわけにはいきません。金が要るんです。給料以外に、稼げるだけの金が・・・」タバコに火を付ける。「それに大したことはお話しできそうにありませんから」
「大したことかそうじゃないかは、こっちに判断させてもらえんか?」
「わかりました。私は民間の警備の仕事を引き受ける警官どうしの小さな互助会の責任者を務めてます。どういう会だが、分かりますよね?主な得意先は、商店主やコーペラチヴのレストランや合弁企業。つまり、まともに金を稼ごうとするとマフィアに眼をつけられるような人たちです」
「個人の身辺警護は引き受けないのか?」
「たまにですが、引き受けます。連絡はヴィシネフスキーの方から。ある連中につけ狙われてるというんです。最初はマフィアのことかと思いましたが、話を聞くと、どうやら相手はKGBらしいと」
「向こうの目当ては?」
「ただ、いろいろ脅しをかけてくるんだと言うばかりでした。なんでもヴィシネフスキーのせいで収容所送りになったマフィアの構成員がいて、そいつが早めに釈放されるよう、KGBが手を回してるという話でした。その男が出所してきたら、きっと仕返しに来るだろうと、ヴィシネフスキーは心配してました」
「それで?」
「彼のアパートに行って、直接話したんです。警護の案を示して、値段を告げたところ、ヴィシネフスキーがそれでは高すぎると言いました。出せるのは50ルーブル。それも分割で払うと言うので、断りましたよ」肩をすくめる。「それだけの単純な話です」
「いつのことだ?」
「殺される2日前です」
「午前か、午後か?」
スヴェルコフはしばらく考えた。「午前です。9時から10時の間」
「盗難のある少し前だということになりますね」リュトヴィッツが言った。
スヴェルコフが少し驚いた顔をする。
「盗難?新聞には、盗難のことなんか出てませんでしたが」次第に怪訝な表情になる。「そう言われてみると、あのとき・・・」
「何かあったのか?」ギレリスが身を乗り出す。
「アパートを出たときのことです。知ってる顔を見ました。OMONに入りたての頃、ヘロインの密売で逮捕したことのあるウクライナ人です。モスクワの刑務所にぶち込まれたせいか、骸骨のように痩せ細っていましたが。ええと、名前は・・・」
リュトヴィッツがさえぎるように言った。
「まさか、ヴァシリー・セルギエンコか?」
「そう、そいつです」スヴェルコフはうなづいた。「そいつが、すぐ外に停まっていた車の中で、2人の男と話してました。でも、その時は別に気にしませんでしたよ。ヴィシネフスキーは盗まれる心配じゃなくて、殺される心配をしてたわけですからね」
「車の中にいた2人の男の特徴は、覚えてるか?」ギレリスが言った。
「ちらっと見ただけですからね。でも、顔の色は浅黒くて、1人はアメリカ製のタバコを吹かしてました。箱を外に投げ捨てたんで、覚えてるんです」
「銘柄は?」
スヴェルコフは肩をすくめ、首を横に振った。
「車の形式は?」
「ええ・・・旧式のヴォルガですね。色は黒。座席は赤でした。きれいな高級車です」憤然とした手つきで、タバコを揉み消す。「ねぇ、わたしだって、気がとがめないわけじゃないですよ。ヴィシネフスキー氏の身に起こったことを考えるとね。いい人でした。でも、50ルーブルじゃ、とても引き受けられなかったんです。互助会を運営してる手前」
ギレリスは真面目な顔でうなづいた。
「じゃあ、今日のところは、これ以上言うまい」
リュトヴィッツを見て、ギレリスは立ち上がった。ちょうどその時、炊事婦が湯気の立つソーセージの皿を3つ持って来た。腕時計を見ると、昼飯どきになっていた。
「食事はどうするんですか?」スヴェルコフが言った。
「君が食べてくれ。2つも仕事を持ってるんじゃ、2倍腹が減るだろう」
42
大屋敷に戻ってみると、刑事部屋の前の廊下は、OMON部隊とホテル・プリバルチスカヤのジムで逮捕してきたグルジア・マフィアたちでごった返していた。支給されたばかりの新しい防弾チョッキを着ているラザレフが、ギレリスの姿を見つけて、手招きした。
「何か、問題でもあったか?」ギレリスが聞いた。
「ひとり、取り逃がしました。ですが、すぐに捕まえます」
「そうあって欲しいものだな」
取調室に連行されるマフィアたちを、リュトヴィッツとギレリスは見送った。浅黒い精悍な顔立ち、上等な服、男ぶりを誇るような態度を示すこの連中は、かなり人目を引く。それがグルジアの民族性でもあった。メレブ・パルサダニヤンの姿を眼に留めて、ギレリスが言った。
「あの男とは直接、話がしたい。向こうも、言いたいことがあるだろう」
ラザレフがうなづいた。
「スヴェトラーノフは?」リュトヴィッツが言った。
「刑事部屋にいます。ペトロヴァ中尉も一緒です。それから、ガキが1人」
刑事部屋のドアは開け放たれている。まだ電話での聞き込みを続けているクリコフがギレリスの姿を見て、おずおずと立ち上がり、情けない声で言った。
「報告すべき進展はありません」
ギレリスは低くうなった。左手をレーニン像につながれて、スヴェトラーノフとペトロヴァの前に座る青年に注意を向けた。青年は、背中に仏陀の絵が描かれた黒の革ジャケットを着て、イヤリングをいくつもぶら下げている。前髪がひさしのようにせり出し、その顔はべそをかいたばかりのように見えた。スヴェトラーノフが書き上げた供述書を読まされている。
「内容に不服がなかったら、サインしろ」スヴェトラーノフがペンを渡した。
青年がうなづき、哀れっぽく洟をすすり上げた。ペンを手に取り、供述書を机に置き、慎重にサインする。スヴェトラーノフが供述書を取ってサインを確認すると、ギレリスとリュトヴィッツの姿が眼に留まり、こちらへ歩いてきた。
「あれが、ヴィシネフスキーの“金の子牛”を売りさばこうとした坊やか?」
「そうです。イワン・アキモフという名前で、縄をかじってます」
ギレリスが顔をしかめる。スヴェトラーノフは殺人課に入る前、麻薬取締部隊に何年か所属していた。そのせいで、麻薬常習犯の隠語に誰よりも詳しいのだ。
「つまり、マリファナを喫ってるということです」リュトヴィッツが言った。
「ありがとうよ」ギレリスはがなった。
「両親と一緒に、ヴィシネフスキー宅の上の階に住んでます」スヴェトラーノフが言った。
「犯行については、何と言ってるんだ?」
スヴェトラーノフがアキモフの供述書を手渡す。ギレリスはざっとそれに眼を通してから、うなづいた。「本人の口から聞いた方がよさそうだな」傍にあった机の角に尻を乗せて“金の子牛”を手に取り、ペトロヴァに会釈した後、険しい眼差しをアキモフに向ける。
スヴェトラーノフがタバコを取り出すと、1本をアキモフの口に突っ込んでやった。
「こちらは、ギレリス大佐だ」そう紹介して、タバコに火を付ける。「おれたちに話したことをもう一度、話せ。ヴィシネフスキーのアパートの外で見かけた男たちのことからだ」
アキモフはぎこちなくタバコを吸い、しおらしい声でうなづいた。
「階段を下りる途中で、そいつらを見たんだ」震える声で言う。「3人の男。最初は、私服の民警かなんかだと思った。アパートに住んでる人間じゃないことはわかったからさ。おまけに、そいつら、鍵を持ってた。で、2人が中に入って、1人は残った。そいつが見張りをしてるみたいだった。見張りの男は他の2人よりも身なりが悪くて、骸骨みたいに痩せてた」.
大きくため息をついて、タバコを口の隅に押しやった。
「続けろ」ギレリスが言った。
「おれはこっそり様子をうかがった。階段は暗いから、向こうにはおれの姿が見えないんだ。奴らは10分か15分ぐらい中にいて、出て来た時には、書類をいくつかと、買物袋に入った何かを持って・・・」
「何かというのは?」
「分からないよ。それを書類だったんじゃないかな。1人が変なことを言った。『カモメに戻ろう』とかなんとか・・・」
「カモメ?」
「ヴォルガやジルをマネようとした古いアメ車に、そういうシリーズがあったような気がします」リュトヴィッツが言った。「カモメはたしか、ビュイックじゃなかったかな」
「で、それからどうなった?」ギレリスはまた表情を厳しくした。
「そいつら、いなくなったよ。ドアを開けたままでさ。おれは、しめたと思った。何か金目の物が残ってないかと、部屋に入ってみた。テーブルの上に、50ルーブルばかりの現金があって、それから“金の子牛”があった。おれは両方ともひっつかんで、外に駆け出したんだ」
アキモフが湿疹だらけの手でギレリスの袖をつかむと、ギレリスは不快のあまり、鼻にしわを寄せた。
「ほんとのことだってば。おれはヤクを買うために“金の子牛”を売ろうとした。けど、殺人のことについちゃ、何ひとつ知らないぜ。なぁ、大佐。この女の人に、そう言ってくれない?」ペトロヴァ中尉に恐怖の眼を向ける。「この人、いろんなことを言ってるけど、それはほんとじゃないんだよ」
ギレリスはうなづき、アキモフの手を振り払った。机から腰を上げ、リュトヴィッツとスヴェトラーノフに目配せを送り、廊下へと出ると、リュトヴィッツは3階の犯罪記録部へと走った。
「ほんとのことを言ってると思うか?」
ギレリスがスヴェトラーノフに聞いた。
「おそらく。ペトロヴァ中尉が、ありとあらゆる罪状を挙げて、うんと脅しつけましたから。殺人、国有財産の窃盗・・・」
「なんだ、その国家財産というのは?」ギレリスが言った。
「“金の子牛”ですよ。重要な文学賞ですから。最初、あいつは道に落ちてたのを拾ったなんて言ってたんですが、あの中尉にかかっちゃ・・・」
「分かったよ」ギレリスが口角を緩めた。「ペトロヴァが勲章をもらう時には、お前が推薦人になるといい」
そこに、ファイルを手にしたリュトヴィッツが戻ってきて、3人はふたたびアキモフの取調に取りかかった。
「君が見た男たちのひとりか?」
リュトヴィッツがファイルから抜き出し、眼の前に差し出した写真をアキモフはじっと見つめた。
「暗かったからなぁ。けど、こいつが鍵を持ってた男だと思うよ。ドアの外で待って、見張りをやってたやつ」
「骸骨みたいに痩せてた男だな?」
アキモフがうなづくと、ギレリスがニヤりと笑みを浮かべる。
「よし、じゃあ、あとの2人の男について、君の記憶がどの程度頼りになるか、試してみる気はあるか?つまり、面通しということだが」
アキモフは肩をすくめた。「そりゃ、構わないよ。けど、それが終わったら、おれはどうなるんだい?」
ギレリスがペトロヴァのほうを向く。
「書類はもう、検察のところに行ってるのか?」
「いいえ、まだです」
「だったら、どうする?」
「彼が捜査に協力してくれたら、ということですか?現在の状況では、強いて起訴に持ち込むまでもないと思いますが」
「聞いたか?面通しが終わったら、帰っていいとさ。ただし、ちゃんと連中の顔を見るんだぞ。点数を稼ぐために、不確かな人間を指差したりするな。いいか?」
アキモフはうなづいた。
43
3人の刑事は、また廊下に戻った。スヴェトラーノフがアキモフの見ていた写真を手に取って見た。
「このセルギエンコとかいう男、ヤクの売人だったんじゃないか?」
「盗難のあった日、ロマン・スヴェルコフがヴィシネフスキーのアパートの外で見かけてるんだ」リュトヴィッツが言った。「黒いヴォルガに乗った2人の男が一緒だった。その2人がセルギエンコに金をやって、ヴィシネフスキーの鍵を掏り取らせたんだろう。そして、自分たちがその鍵で中に入ってる間、見張りに立たせた」
ギレリスがもう一度、アキモフの供述書に眼を通した。
「その2人のうち1人が、あのきれい好きなウィンストン愛好家だろう」
「箱を反対から開けるやつですね」スヴェトラーノフが答える。
「スヴェルコフも、ヴォルガに乗ってたうちの1人が、アメリカ製のタバコを吹かしてたと証言してる」リュトヴィッツが口をはさんだ。
ギレリスの人差し指が、スヴェトラーノフの手にある写真を叩いた。
「だったら、このコピーを全市にバラまいた方がいい。こいつがドゥダロフと同じ運命をたどっちゃ、困るからな。一刻も早く、いぶり出すんだ」そして、右の拳を左の掌に叩きこんだ。「今はまず、あのスターリンの末裔どもを片づけよう」
拘留されたグルジア人は7人だった。面通しの規則では、被疑者ひとりに対して一般人ふたりを配することになっているから、全部で14人の一般人が必要になる。この規則を公正に運用するため、よくアウトーヴォやデヴィアトキーノの闇市まで出かけて、肌の浅黒い市民を見つけて協力を頼むのだが、大屋敷には近寄りたくない人間がほとんどだった。その結果、今日の面通しに協力を申し出てくれたのは、全員が地元の陸軍士官学校の士官候補生だった。
面通しといっても、大したことをやるわけではない。被疑者と2人の一般人、数人の警察官がひとつの部屋で待っている。合図で3人が立ち上がり、そこへ証人が入って来て、3人のうち誰かに見覚えがあるかどうか告げる。
アキモフはこの方法で、7人のグルジア人と相対した。ゆっくりと時間を取り、余分な圧力はかけなかった。結局、アキモフは7回、首を横に振った。最後の組にはグルジア・マフィアのボス、パルサダニヤンが入っていて、ギレリスがアキモフに本当に見覚えがないか念を押したが、答えは翻らなかった。
「これはどういうことですかね、大佐?」
グルジア・マフィアとヴィシネフスキー宅の盗難をつなぐ糸が切れてしまったので、ギレリスは捜査をその前の段階へ戻ることにした。
「君はオレグ・サカシュヴィリが殺された晩、ずっとホテル・プリバルチスカヤにいたと証言したな」
パルサダニヤンが肩をすくめる。「そうだったか?覚えてない」
「ところが、君はレストラン・トルストイにいたんだ」
パルサダニヤンは、アキモフが出て行ったドアを指差した。
「あのガキは、見覚えがないと言ってたじゃないか」
面通しの目的に対するグルジア人の誤解を、ギレリスはあえて解こうとしなかった。
「ホテルに着いたのは、君が言ったよりかなり遅い時間らしい。11時2、3分前に、ネフスキー大通りで、君の車が目撃されている」
「アンタたち、オレグの葬式をコダックで撮ってたんだろ?おれたちが殺したんだったら、あんな立派な式をやるわけないだろ」
「そいつはどうかな。今のところは、何とも言えん。言うこととやることが違うのは、グルジアの伝統じゃないのか?スターリン然り、ベリヤ然り」
「新聞記事みたいなこと言いやがって。グルジアをこき下ろすのに、スターリンを持ち出すのは、ロシア人の卑劣な常套手段だ」
「グルジア人が天の邪鬼だというのは、誰でも知ってる。父親のことを、君たちは“ママ”と呼ぶそうじゃないか?分裂症と欺瞞は、グルジア人の心理をひもとくキーポイントだ」
「ほう、アンタは民警おかかえの心理学者か?」
「私の考えを聞きたいか?」
「びっくりさせてくれよ」
「この事件はそもそも、チェチェン人との縄張り争いに決着をつける口実として、君たちが仕組んだものだ。オレグを殺しておいて、仇討の名目でチェチェン人に攻撃をかけるために」
リュトヴィッツには、無理な仮説のように思えた。ギレリス自身、強引さは承知の上で、パルサダニヤンをなんとか挑発したかったのだろう。当初からの戦略の一環なのかもしれない。しかし、パルサダニヤンは微塵も動揺した素振りを見せなかった。
「ロシア人にしては、想像力が豊かじゃないか」
「実を言うと、我々も最初はチェチェン人の仕業だと考えた。ドゥダロフは、容疑者の条件を十分に満たしてた。ただ、やつは物理的にオレグを殺すことが出来なかった。2日間飲んだくれた挙句、事件の夜はトラ箱に入ってたからな」
「それで今度は、おれたちに戻ってきたってわけか?」パルサダニヤンはうんざりしたように窓の外へ眼をやり、それからギレリスに向き直った。「なぁ、ペテルにいるチェチェン人はドゥダロフだけじゃないんだぜ。アンタの言う通り、オレグを撃ったのがヤツじゃないかも知れん。他のチェチェン人の仕業だってことも、考えられるだろ?あのコーラン野郎どもは大した理由もなしに、平気でおれたちを襲ってくるんだ。アンタたちがアルメニア人を大掃除してから、チェチェンの野郎どもがその後を狙ってる」
「作戦がひとつふたつ成功しても、問題はなくならんということだな」
「マホメットがひとり消えたら、次のマホメットを捜せってことだよ。ドゥダロフは犯人じゃないって?いいだろう。それなら、オレグを殺ったのは別のコーラン野郎さ」
「心に留めておこう」
「ほんとだぜ」
「放火の件も、我々の勘違いかもしれんな。わからんよ。経営者のモロゾフ氏があまり協力的じゃないから、捜査が全然進まん」
「なんだ、それは?」
「その件にも、君は関わりがないんだろう?」
「ああ。おれたちはレストラン・トルストイの近くには行かなかった」
「誰がレストラン・トルストイのことを話した?」
「アンタだよ」パルサダニヤンが怪訝な顔をする。「たった今」
「いや、私は放火の話をしただけだ。それがレストラン・トルストイに関係があるとは、ひと言も言ってない。レストランとモロゾフ氏を勝手につなげたのは、君だ」
パルサダニヤンの顎が不快そうに動いた。ギレリスの言葉にひっかかって、致命的な失言をしてしまったかどうか、自分でも判断がつきかねるようだ。
「弁護士を呼んでもらおうか」
「明日の朝になったらな。だが、今晩のところは、君は我々のお客様だ」
44
この日の夜、リュトヴィッツとギレリスはアレクサンドル・ネフスキー修道院を見下ろすホテル・モスクワに向かった。ホテルの当直警官がロビーで、セルギエンコを見かけたという情報を知らせてきたからであった。
玄関付近やロビーにうろつく娼婦の群れをすり抜けて、リュトヴィッツは通報してきた当直の警官を見つけた。敬礼しながら、大理石の床を近づいてくる巡査部長の姿が眼に留める。巡査部長が敬礼し、報告をした。
「お尋ねの人物は私が電話したとき、レストランにおりました。現在はカジノ場に移りました。部下の1人が監視しております。逮捕することも考えたのですが、まずお知らせしてからと思いまして」
3人で広い階段に向かって歩いた。そこをのぼると、大きな食堂があり、その先がラスヴェガス式のカジノ場だった。カジノ場は満員で、大半をロシア人が占め、誰もが取り憑かれたようにスロットマシンにコインを飲み込ませていた。
ギレリスとリュトヴィッツを案内してきた民警の巡査部長が、監視に立たせた部下に合図を送る。その視線をリュトヴィッツがたどると、監視に立っていた警官はペトロフだった。ペトロフがマシンの列のひとつをのぞきこむよう、視線を送った。
ギレリスが、膝に乗せた紙コップからコインを次々とスロットマシンに放り込んでいる男に注意を向けた。ジーンズを履き、青いトラックスーツの上着。骸骨のように痩せ細った風貌。タバコを下唇にぶら下げている。
「ヴァシリー・セルギエンコ。間違いありません」リュトヴィッツがささやいた。
ギレリスがセルギエンコの方へ足を踏み出した時、リュトヴィッツは何かが照明の光を反射したのを眼の端に留めた。ブロンドの髪に、俳優に通用しそうな整った顔立ちの男。腿の近くでナイフを握ったまま、セルギエンコの背中に近づいていき、ナイフが振り上げられようとしたそのとき、リュトヴィッツはマカロフを抜いた。
「ナイフを捨てろ」
ナイフを持った男がこちらを向き、リュトヴィッツのマカロフの銃口にすくむ。セルギエンコが座ったまま体を回して、刺客の姿を眼にすると同時に、スロットマシンがジャックポットの絵柄に揃った。コインが吐き出されるけたたましい音に、セルギエンコは刺客を突き飛ばして、レストランの方へ逃げ出した。
払い出しコインのシャワーに、他のギャンブラーたちが殺到する。その混乱に乗じて、刺客も裏口へと走り出す。ギレリスとペトロフがすでにセルギエンコの後を追っていたので、リュトヴィッツはギャンブラーの群れをかき分けて、裏口へ消えた男を追った。
外に出ると、ネヴァ河に沿って北の方へ視線を向け、それからアレクサンドル・ネフスキー橋の上を見る。ギターケースに投げ込まれた紙幣や硬貨をかき集めている大道芸人がいた。マカロフを背広の懐におさめ、リュトヴィッツは小走りに男に近づいた。
「たった今、走っていく男を見かけなかったか?」
男がさっと振り向くと、カチンという大きな音が響き、ナイフが街灯に閃いた。すぐさま、男がリュトヴィッツの方へ足を踏み出した。街灯を受けて、男の風貌が浮かび上がる。セルギエンコを刺そうとしたブロンドの刺客。
「ボリス!」リュトヴィッツは叫んだ。
一瞬のうちに、リュトヴィッツの脳裏にある光景がよみがえった。アブヴォードヌィ運河に近い鉄道の操車場に転がったババジャニヤンの遺体。監察医のコルサコフが「楽しみながら、切ったって感じだな」と言った。リュトヴィッツがとっさに身体を捻ると、ボリスのナイフがわずかに頬を掠めた。
リュトヴィッツの動きに対応できず、ボリスはバランスを失った。リュトヴィッツはすかさず反撃し、ボリスの脾腹に左の拳を叩き込むと、右の拳で顎を下から打ち抜いた。ボリスは呻きを洩らしてよろめき、橋の欄干に寄りかかった。よろめきはしたものの、ナイフはまだその手に握られていた。リュトヴィッツはそのナイフをもぎ取りにかかった。ボリスはさっと逆手にナイフを持ち替え、今度はナイフがリュトヴィッツの右肘のすぐ上を捉え、背広のその下のシャツを切り裂いて血を滴らせた。
「かすり傷だ!」
リュトヴィッツは相手に向かって怒鳴り、後ずさった。たしかに傷は負っていたが、深さは大したことはなかった。ボリスはナイフを右手に持ち替え、じりじりと前進した。
ほんのわずかな一瞬、ボリスがぐらついた。リュトヴィッツはボリスに飛びかかって右手を払いのけ、欄干に叩きつけた。その顔に右の拳を叩き込もうとすると、ボリスは首を横に傾げ、簡単に拳をかわした。リュトヴィッツは繰り出した手でボリスの首を引き寄せ、一瞬にらみ合った後で、額に渾身の力を振り絞って頭突きを喰らわせた。
凄まじい音が響いてボリスが後ろへよろめき、頭から血を流しながら橋の欄干にもたれかかった。もう一撃を食らわそうとしたとき、ボリスがコンクリートの欄干に登った。
「やめろ!」
リュトヴィッツが叫んだと同時に、ボリスは欄干の上で身体を傾け、九メートル下のちらちらと輝く川へと落ちていった。水面を破ったとき、水晶のように水柱が立ち、強い流れがあっと言う間に鏡のような川面を取り戻した時には、ボリスの黒い影は消えていた。
ホテルの正面玄関まで戻ると、ギレリスの周りに小さな人だかりができていた。
「逃がしたのか?」
リュトヴィッツがうなづくと、ギレリスが盛大な舌打ちをした。
「ボリスは河に墜ちました」
「川に落ちたからといって、人間、死にはしない」民警の巡査部長に向かって言う。「船を出して、両岸を捜索させろ。どこか流れ着きそうな場所を徹底的に当たるんだ」
「セルギエンコは?」
ギレリスが救急車を指差す。後部にセルギエンコが鼻と口から流れ出る血を必死に止めようと両腕で顔を覆って座っており、救急隊員が治療していた。リュトヴィッツも右腕を負傷した旨を告げ、包帯を巻いてもらった。その最中に、リュトヴィッツは気遣わしげに、ペトロフに聞いた。
「奴さん、大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。ちょっと張り飛ばしてやっただけです」
45
一行が大屋敷に帰りついた時には、午前2時を回っていた。地下にある古い取調室で、リュトヴィッツが手錠を外してやり、ギレリスと向かい合う椅子に座らせる。
「あと何秒かで、あの俳優に刺されるところだったぞ」ギレリスは相手のタバコに火を付けてやり、それから自分のタバコをライターに近づけた。
「おれはツイてたってわけだな」
「そういうことだ。なぜ狙われたか、お前にはどうせ見当もつかんのだろうが」
セルギエンコは椅子の前脚を浮かせ、ふでぶてしく椅子を揺らし始める。
「なぜ、あのとき、逃げようとした?」リュトヴィッツが低い声を出した。
「そりゃあ、アンタたちが奴の仲間だと思ったからさ」
椅子の前脚を床につけ、机の上に置かれた缶のふたに、セルギエンコはタバコの灰を落とした。その右腕をギレリスがつかみ、大きく口笛を吹いた。
「ずいぶん上等な腕時計じゃないか。どう思う、サーシャ」
「高そうですね」
ギレリスは眼を近づけ、文字盤に記されたブランド名を読んだ。
「ロレックス。本物か、これは?」
「そんなわきゃないよ。香港製のまがい物さ。本物がどうやって、おれの手に入る?」
「全くだ」ギレリスが金とステンレスのバンドの留め具を外した。「もっとよく拝ませてもらうぞ」
セルギエンコはあいまいに肩をすくめて、腕時計からおずおずと手を抜く。ギレリスは腕時計をひっくり返し、文字盤の裏面をじっと見た。
「こいつはすごい。専門家しか、見分けはつかんだろう」うんうんと頷く。「今、ふと思ったんだがな。あの俳優はこれが欲しくて、お前を刺そうとしたんじゃないのか?こういう光り物は金になるからな」
「まさか」
「お前の考えはどうだ、サーシャ」ギレリスはリュトヴィッツに腕時計を投げた。
「おい」セルギエンコが抗議する「落としたら、どうするんだ?」
「すまん、すまん」ギレリスは笑った。「だが、どうせ偽物だろう」
「偽物だろうが、金はかかってるんだ」
「実によくできてる」リュトヴィッツが言った。「とても作ったとは思えない」
「刑事さんは、いつから時計職人になったんだ?」
「そうではないが、お前に保証書を発行してくれるぞ」ギレリスが言った。
「へぇ、何を保証してくれるってんだ?」
「オレグ・サカシュヴィリを呼び出したのは、お前だということだ」
「オレグ、何だって?何の話をしてる?」
リュトヴィッツが腕時計をギレリスに投げ返し、口を開いた。
「お前はオレグに電話をした。この腕時計を売りたいと言ってな」
「刑事さん、何か勘違いしてるぜ」
「お前はサカシュヴィリに、この時計を外国人観光客から奪い取ったと言ったんだろ?」
「そんな奴、名前も聞いたことない。それに、その腕時計は盗んだんじゃないって」
「お前が俳優に殺されそうになったのは、そのためだ」ギレリスが宣告するように言った。「お前がオレグを呼び出して、殺させた」
セルギエンコはひょろ長い首を横に振り続けた。
「ドミトリ・ヴィシネフスキーの部屋を荒らすのを助けたようにな」リュトヴィッツが付け加える。
「2人を撃ち殺す手助けもしたかもしれんな」ギレリスが言った。「いずれにしろ、最高15年の懲役は覚悟しとけ。シベリアのラーゲリで伐採作業に明け暮れる日々・・・」
「凍える冬、焼けつく夏」リュトヴィッツが引き継いだ。「数十キロ四方に、人の住む家は無い。この世の果てだ。全国から囚人が集まってくる。だだっ広くて、何もない。モスクワの刑務所よりも酷い場所だ」
「脅かしっこは無しだぜ」
「お前みたいな色男が行けば、胸をときめかせる囚人も多いはずだ」ギレリスは口角を緩めた。「その前に、事故や病気で命を落としたりしなければの話だが」
「くそったれめ」セルギエンコは吠えた。
「もちろん、ラーゲリまでたどり着けない可能性もある。グルジアの連中が、眼の色を変えてお前を追ってるわけだからな。どこにいたって、誰かに脇腹をくすぐられることになるぞ。違うか、サーシャ」
「連中にとって、これほど容易いことはないですよ。シベリアのどのラーゲリにも、グルジア・マフィアの息がかかった囚人がいます。収監中の人間をひとり殺すと、報酬はマリファナ二袋なんて黒い噂もあるしな」
セルギエンコの青白い顔に、汗が伝い始める。片手で汗を拭って、震える口許からタバコを抜き取った。灰がぱらぱらとズボンに落ちる。
「誰に頼まれたんだ?」ギレリスの声に苛立ちが混じった。
「誰にも・・・」
「ヴィシネフスキーのアパートに一緒に行った2人の男は何者だ?」
「な、何の話をしてるんだか」
「なぜ、ヴィシネフスキーを殺した?」
「おれは誰も殺してないって」
ギレリスは疲れた息を吐き、背中を椅子に預けた。タバコを灰皿で揉み消す。
「正直にしゃべらん限り、貴様の命には5コペイカの価値もないんだぞ」
セルギエンコは不安と嫌味の入りまじった笑みを浮かべた。
「もししゃべったら、いくらの値打ちになるってんだ?」
ギレリスは肩をすくめ、ロレックスに眼をやって、それを机の引出しにしまった。
「おい、返してくれよ」
立ち上がろうとしたセルギエンコを、リュトヴィッツは両手で椅子に押し戻した。
「おとなしく座ってろ。腕時計は返してやる。ただし、お前が良い子になってからだ」
セルギエンコが激しく首を振った。
「アンタたちのお遊びに付き合ってる暇はないんだ」
リュトヴィッツはしゃがれた声で笑った。
「今のお前にあるのは、暇だけだ」
取調室を出ると、ギレリスはリュトヴィッツの方へ向き直り、こう告げた。
「明日の昼までに、奴さんを河向こうのクレスチへ移せ。違う場所に放り込めば、考えが変わるかもしれん。手配してくれるか、サーシャ。だが、必ず誰かを見張りにつかせろ。奴の身にもしものことが起こらないようにな。それから、グルジア人どもを起訴に追い込めたとしたら、別の場所に拘置した方がいいだろう。シパレルヌィでも、ニジエゴロドスキでも、とにかくクレスチ以外の場所だ」
46
リュトヴィッツはギレリスからジグリを借りて、ヤクーボーヴィカ通りに建つ国家検察局に出頭した。グルジア・マフィアの顧問弁護士が、ヴィシネフスキー事件の捜査担当者と面会したいと申し込んできたためだった。
国家検察局の建物はその緑色の外壁といい、時代物のリフトといい、つんと来るアンモニア臭といい、リテイヌイ大通りの大屋敷とそっくりだった。1階のラウンジで、伯父のフェデュニンスキーが待っていた。リュトヴィッツの顔を見るなり、やっぱりなという表情を浮かべた。
「ギレリスは面会を嫌がっただろう」フェデュニンスキーが言った。
「問答無用ですよ。君が行けって」
「まぁ、無理もないな。顧問弁護士のルージンは五年前まで、ここで地方検事補を務めてたからな。ギレリスと一緒に事件を処理したこともあった。今じゃ、昔の月給を1時間で稼ぎ出す身分だ」
リュトヴィッツは伯父と一緒に、2階の会議室に入った。小箱のような部屋で、ルージンは細身の葉巻を吹かしながら、英語で書かれた法律雑誌を読んでいた。頭の禿げた小柄な男で、マフィアのおかかえ弁護士というより大学教授のような雰囲気を漂わせていた。
「おお、おいでになりましたか」慇懃な口調で言って、立ち上がる。
互いに握手を交わそうともしなかった。リュトヴィッツとフェデュニンスキーはテーブルの向かい側に座った。2人とも何も言わず、相手が態勢を整えるのを待った。
ルージンは書類を無造作にまとめ、葉巻を灰皿に捨て、眼鏡の上縁ごしにこちらを見ながら、張りのあるバリトンで話し始めた。きびきびした事務的な物腰だった。
「わたしの顧客が、大屋敷に拘留されてるようですな」そう言って、7人のグルジア人の名前をメモも見ず、父称に至るまですらすらと並べてみせる。
これには、リュトヴィッツも感心させられた。中には、途中で息が切れそうな長い名前もあったからだ。
「彼らのことをよくご存じで。昨日の朝、逮捕したばかりですよ」
「パルサダニヤン氏やその同僚の方々とは、終身契約を交わしておりましてな。パルサダニヤン氏のご友人から連絡があって、逮捕されたということを知りました。直接ここをお訪ねするのが、最善ではないかと考えたのです」
ルージンはリュトヴィッツの返答を待つように言葉を切ったが、リュトヴィッツが肩をすくめると、愛想笑いを浮かべて話を続けた。
「通常の手続きに従えば、本日のうちに被疑者たちが代理人立ち会いのもとで、逮捕理由の告知を受けることになります。いつでもその作業にかかれるよう、こうして参上した次第です」
「気を遣っていただいてありがとうございます」リュトヴィッツはフェデュニンスキーに眼を向けた。「ですが、こちらとしては、その前に国家検察局へ捜索令状を請求したいと考えているんです」
「何をお探しになるのか、うかがって構いませんでしょうか?」
「残念ながら、お答えできません」
実を言うと、レストラン・トルストイへの火炎瓶投げ込みに関して、何を探せばいいのか、リュトヴィッツは見当もつかなかった。空き瓶、ぼろきれの布、ガソリンの缶、マッチ箱とかを目当てに、フェデュニンスキーに捜索令状を請求するわけにはいかない。とっさに令状の話を持ち出したのは、単なる時間稼ぎだった。
「では、ここへはいついらっしゃるのでしょう?」
「今日中に」リュトヴィッツはぼかした。
ルージンは金色のペンでそれを書きとめ、ほっそりしたデザインの金のライターで新しい葉巻に火を付けた。リュトヴィッツはルージンが金の腕時計と指輪をしていることに気づいた。もしかすると、金以外の金属は受け付けない敏感な皮膚の持ち主なのだろうか。
「わたくしの依頼人たちに科せられた罪状は?」
「恐喝、財物強要、放火ならび殺人」
「もっと具体的におっしゃっていただけませんか?」
「証人に不利益が生じます。状況が許せば、その都度お知らせします」
「そうしていただきたい」
ワニ革の財布から、ルージンは名刺を取り出した。受け取って見ると、表裏両面に英語とロシア語で名前が記してある。
「ところで、わたしの依頼人たちは昨日の午後早く逮捕されました。ということは、あと53時間。まぁ少しおまけして、あと55時間したら、あなた方は起訴するか、釈放するかしなくてはなりません」
「いいえ、きっちり53時間で結構です」リュトヴィッツは感情を押し殺して言った。
「では、53時間後に」意に介するふうもなく、ルージンはそれをまた書きとめた。「もし起訴ということになれば、わたくしは当然、保釈を申請いたします」
「こちらとしては、拒否する方針です」
ルージンが粘り強い笑みを浮かべる。
「訊問調書を拝見させていただけますかな?わたくしの依頼人たちに、51条の権利が保証されているかどうか、念のため確認したいので」
リュトヴィッツは持参してきたファイルを開き、数枚の書類を机の上に滑らせた。
「刑事部の方々が、時どき無茶をなさるようですから」申し訳のように、ルージンが付け加える。
「この件に関しては、心配ご無用です。7人の容疑者ひとりひとりに対して、1通ずつ調書を取ってます」
丁寧に書類に眼を通し、内容に満足すると、ルージンは導火線に火を付けようとでもするみたいに、何度も葉巻を吹かした。
「リュトヴィッツ大尉は、モスクワへ行ってらしたとか」
「ええ」
ルージンは書類をかき集めて、しゃれた黒い革のアタッシェケースに入れた。その後も何か言いたげで、なかなか腰を上げようとしない。
「モスクワへは、もう何年も足を向けておりません」おもむろに切り出した。「最後に行ったのは、1987年。マーガレット・サッチャーがソ連を訪れたときで、市内を歩いているところを見かけましたよ」
リュトヴィッツは微笑んだ。要するに、ルージンは少なくても犯罪者ではない他人と、世間話がしたかっただけなのだ。たしかサッチャーがソ連を訪問したとき、ヴィシネフスキーは彼女と会ったのではないか。
「実に偉大な女性ですな」ルージンは言った。「まさに豪物と言っていい」
それはめずらしい見解ではなかった。多くのロシア人が、あの“鉄の女”なら偉大なロシアの宰相になれただろうと考えている。
「そうですね」リュトヴィッツは言った。「ですが、英国民がゴルバチョフに対して同じような思いを懐いていることもお忘れなく」
47
ルージンとの面談を終えると、昼前になっていた。リュトヴィッツは伯父を昼食に誘った。フェデュニンスキーの勧めで、リュトヴィッツはバクーニン大通り沿いに建つレストラン・スタニスラフスキに向かった。
伯父はこのレストランの常連らしく、ウェイターから八人掛けのテーブルが置いてある個室に案内されると、大目にチップを渡して「別のお客を入れないでくれ」と頼んだ。
料理が運ばれてくると、2人は食事を始めた。前菜はニシンの塩漬けと茹でたてのジャガイモ、キノコのマリネ、メインに陶器の壺で煮込んだ羊のシチュー。こんな贅沢な食事が出来るのは、伯父が著した法律の凡例書やチェスの教本の印税のおかげだった。
フェデュニンスキーはウォッカをちびちびやりながら言った。
「お前はちょっと困ったことをしたそうだな。プロらしくない振る舞いを。おかげで身分証と銃を取り上げられそうになったそうじゃないか」
「ギレリスからはきつい叱責を食らいました。それだけで助かったのも、伯父さんのおかげですか」
フェデュニンスキーはうなづいた。
「車は戻らなかったが」
「すいません」
「それよりも・・・どうだ?」フェデュニンスキーはウォッカのボトルを差し上げた。
「アルコールは今やめてるんです。思ったよりも頭が動かなくなるので」
「いつから医者の言うことを聞くようになったんだね」
「今でも人の言うことは聞きませんね」
「やはり親子だな」フェデュニンスキーは笑った。「私もお前の父さんには時々、手を焼いたものだが、私を置き去りにして先に逝った後は、少しさみしくてね」
伯父は軽い感じを心掛けていたが、部屋の雰囲気は重苦しくなっていた。リュトヴィッツは父親が死んだ後の日々のことを思い出した。伯父はネフスキー通りの家のキッチンの隅でうなだれていた。シャツのボタンはかけ違え、食卓に置いたウォッカの減っていく様子が、伯父の落ち込み方の激しさを表していた。
「実は謎をひとつ抱え込んでいましてね」リュトヴィッツは切り出した。「だから、食事にお誘いしたんです」
「謎か。私は謎が嫌いなんだが」
フェデュニンスキーはウォッカをグラスに注いだ。
「最初から話したまえ」
「そもそもの始まりは、俺が住んでるホテルで麻薬中毒者が死んだことでした」
「ははあ」
「事件のことは知ってるんですか?」
「ラジオで何かを言ってたようだ。新聞記事も少し読んだのかもしれない」
「そのヤク中はチェスが趣味で・・・そういえば、最近はユスポフのチェスクラブに行ってるんですか?」
伯父が首を振る。
「ここ数年は行ってない」
「そのヤク中はニコライと名乗って、ユスポフに出入りしてました。知ってますか?」
「いや」
「ニコライの本名は、ヴァレリー・サカシュヴィリと言うんです」
「確かヴィクトル・サカシュヴィリの息子だ」伯父がうなづく。「子どもの頃はずいぶんと期待されていた」
「そのヴァレリーが、現場にこんな棋譜を残していたんです」
リュトヴィッツは206室に残されたチェス盤の写真を伯父に手渡した。フェデュニンスキーはテーブルに対して体をやや斜めに構え、まるで長考に入るかのように棋譜の写真を見ていた。1分ほど経った頃、伯父は低い声を出した。
「1927年の公式世界チャンピオン戦。アレクサンドル・アレヒン対カパブランカ。2戦目の途中まで、再現されている」
伯父の記憶力に驚きながら、リュトヴィッツは震えた声を出した。
「何を意味してると思います?」
「ただの棋譜にしか見えんが・・・ダイニングメッセージとは思えんな。そんなものは私が生まれてこのかた、とんと見たことが無い」
「“カイーサ”というのは知ってますか?」
「チェスの女神だろう」
「10年ほど前、ユスポフのチェスクラブで、ヴァレリーがチェスをしていた相手です。ご存じありませんか?」
「知らないなぁ・・・待て、だいたい君が今追っているのはヴァシレフスキーの事件だろう?なぜ、ヴァレリー・サカシュヴィリの事件にも取り組むのだ?」
「ヴァシレフスキーと一緒に殺されてたのは、ヴァレリーの兄のオレグです。わずか2日間に、兄弟そろって殺されてるんです」
フェデュニンスキーは背広から葉巻を一本出し、両手ではさんで転がした。ひとしきりそれをやるうちに、葉巻のことなど念頭から消えたようだった。
「私は謎が嫌いなんだが」とようやくそう言った。
リュトヴィッツは話を変えた。
「親父の遺書の内容を知ってますか?」
「6行の詩だったな」
「この前、読んでいて気が付いたんです。詩の行の最初の文字をつなげると、名前になるんです。“カイーサ”と」
両手の間で葉巻を転がしながら、フェデュニンスキーは眼を閉じ、息を深く吸った。葉巻の匂いだけでなく、滑らかな葉の冷たさも鼻腔で味わっているように見えた。結局、伯父は火を付かずに葉巻を背広へしまった。
「いま思い出したんだが・・・それは、お前の父さんの最後の通信チェスの相手はじゃないのかね?」
「通信チェス、ですか」
「お前のお父さんはチェス狂いだった。ユスポフだけじゃあきたらず、雑誌に投稿して相手を募集してた。自殺した間際まで、そうだった」
たしかにリュトヴィッツの父グレゴリーは、昼はユスポフで常連の相手に打ち、夜は自宅でチェスの専門誌を片手に定石の研究と、人生をチェスに捧げていた。
「相手に心あたりはありますか?」
「いや・・・だが、その相手はとても強かったようだ。どんな手を打っても袋小路に追い込まれるようで、『息子の気持ちがようやく分かったよ』と私にぼやいていた」
「・・・」
「負けを認めたくなかったんだろ。おそらく次の手を打つと、自分のキングを倒すしかなかった」
フェデュニンスキーはプラスチック製の青い櫛を背広から出して、灰色の頭髪に入れ始めた。キザ者らしい伯父の身だしなみを整える癖だった。リュトヴィッツはあることに気づいた。伯父はリュトヴィッツの母である妹のガリーナから金製の櫛をもらっていた。柄の部分に彫金文字で“GからFへ 愛のたけを込めて”と書かれていた。
「金の櫛はどうしたんです?」
「ああ・・・ヴィシネフスキーの“金の子牛”じゃないが、このご時世に金色のものを持ち歩くのもどうかと思ってね。今のロシアでまともに機能してるのは、マフィアだけ。ギレリスもそう言ってるだろ?」
「地獄の沙汰も金次第というのが、昨今の流行だから」
フェデュニンスキーは力なく笑った。
48
午後3時を回ったころ、リュトヴィッツはネフスキー大通りを走っていて、市電の停留場にカテリーナ・ヴィシネフスカヤを見かけたのだった。
電車待ちの列はかなり長く、カテリーナはしばらく乗れそうになかった。表情は相変わらず憂いを帯び、胸の前で腕を組んでいる。その美しさは、リュトヴィッツの記憶にある通りだった。広いレースの襟が付いた黒と白のプリントのワンピースを着て、片手に空の買物袋を提げていた。
列の横に車を停めて、リュトヴィッツは助手席のほうへ身を乗り出し、窓を下ろした。
「カーチャ、乗っていかないか?」
ゆっくりと前に進み出てきたカテリーナは、列に並んでいる人数を確かめようと背後を振り返った。「方向が違うんじゃない?」窓の方へ上体をかがめて言う。「アタシ、テレビ局に夫の所持品を取りに行くところなの」
「だったら、乗るといい」
「回り道にならない?」
「いや、全然」
カテリーナが助手席に乗ると、リュトヴィッツは車の流れに割り込み、西へ車を走らせた。「ありがと」と言って、カテリーナがにっこりと微笑んだ。
「これ、あなたの車?」しばらくしてから、聞いた。
「ギレリスから借りたんだ」
「ギレリス?あの石みたいにコチコチの刑事さんね。エレーナのお父さんとは、とても思えないわ」
「エレーナは、母親似なんだ」
「あたしのことが、あまり好きじゃないみたい」
「そんなことはないだろ」
カテリーナが肩をすくめる。
「ギレリスはただ、この殺人事件を少し深刻にとらえてるんだよ」リュトヴィッツはつけ加えた。「ヴィシネフスキーとは盟友の間柄だったようだし・・・君には夫について全てを語ってほしいんだよ。犯人を捕まえるために」
「犯人を捕まえたからって、ミーチャが帰ってくるわけじゃないでしょ」カテリーナが憂いの表情を浮かべ、窓に眼を向ける。「それで何かが変わるわけじゃない。『言葉を呼び起こすことは・・・』」
「『できるだろう。君の歌に負けぬくらい無垢な言葉を。けれど呼び起こさなくとも、私には構わない。間違っていても知りはしない』」
顔をほのかに赤らめながら、カテリーナがちらっとこちらを見る。
「こんな時に詩を引用するなんて、嫌味な女だって思われるわね」
「いかにも君らしいじゃないか」
リュトヴィッツの脳裏に、カテリーナとの出会いが結ばれた。今から思い出しても、浮世離れした不思議な光景だった。授業の合間の休憩時間、大学の敷地内に立つ大きなニレの木の下にレジャーシートをしいて、その上で二人の女性がチェスを興じていた。
「エレーナ、あなたの番よ。また、長考?」
タバコを咥えたブロンドの女性が、短い黒髪の女性をはやし立てる。
「うるさいわね。少し考えさせてよ、カーチャ」
あのとき、チェスを骨の髄から憎んでいたはずなのに、吸い寄せられるようにレジャーシートへ歩み寄った自分の思考をリュトヴィッツは思い起こすことは出来なかった。カテリーナの声で、その思考が断ち切られた。
「あなたが初めてアパートに来た時、驚いた顔をしてたわ」
「そりゃあ、もう・・・」リュトヴィッツは苦笑をうかべた。「ヴィシネフスキーとは、どこで知り合ったの?」
「あら、これは取調?」
「意地悪するなよ、カーチャ」
カテリーナは口に手を当て、のけぞって笑った。小さな顎が上を向き、喉が見えた。横顔に幼い頃の面影が映る。
「ニコライ聖堂近くの出版社に勤めてたとき、ミーチャが出版社の編集者と懇意にしててよく来ていたの。初めて夫と会ったのはその時かしらね」
「最初は、どっちから?」
「ミーチャからよ。あのときはまだ無名だったもの」
「仕事のことは?」
「何度も言うようだけど、あの人は私には仕事のことをいっさい話してくれなかったわ」
「君が頼んでもか?」
「そう」
ふとバックミラーに眼をやると、薄手の布をまとったカテリーナの下腹部の丸みが収まり、ピンボードに貼ってあった写真を思い出した。大学生の頃、リュトヴィッツは二人の女性の間で揺れ動いた時期があった。最初に付き合ったのは、カテリーナだった。リュトヴィッツの下宿で同棲し、ベッドで肌を合わせたこともあった。
「ギレリス大佐がパステルナークを知ってたのは、とても驚いたわ」
「詩を暗唱できる警察官は、ギレリスだけじゃないさ」
「ギレリス大佐の場合は、理由があると思うの。アタシの勝手な推測だけど、あの人は自分の楽しみのためじゃなく、何かを学ぶために・・・例えば人の心を理解する手がかりを得るために、詩を読んでるじゃないかしら。つまり、警察官としての洞察力を磨くために」
「考え過ぎだよ。ギレリスはそんなに怖い人じゃないさ」
「あら、怖いのは確かよ。昔、KGBにいた人みたい。冷酷非情で、妥協をいっさい許さない。中間色はなくて、白か黒か、善か悪かだけ」
結局、リュトヴィッツがカテリーナと別れたのは、彼女の指導教員が地下出版の活動家と関わりがあるとして当局に逮捕されたためだった。カテリーナも当局の聴取を受けたという噂が立ち、リュトヴィッツが民警に入ることを知っていたエレーナの勧めもあり、カテリーナとの関係は自然消滅した。
「なぁ昔、君からミリツィアになるのか、それともポリツィアになるのかと訊かれたことがあるんだが、あれはどういう意味だったんだ?」
「あまり気にしないで」カテリーナは微笑んだ。
気が付くと、ペトログラードスキー島のテレビ局の前に来ていた。車を停めると、リュトヴィッツは自分がカテリーナとの再会を強く望んでいることに気づいた。
「なぁ、もしよかったら・・・」
「アタシと一緒じゃ、きっと楽しめないわ」車から降りながら、カテリーナが言った。「それに、ギレリス大佐がいい顔をしないでしょう」
「反対される理由なんかない」
「反対はしないでしょうけど、大いに首をかしげると思うわ」
カテリーナはドアを閉め、窓から顔を突っ込んだ。
「あなたの知りたいことが全部分かって、この事件にけりがついたとき、それでもまだアタシを誘う気があったら、電話してちょうだい」
「そうする」
「約束よ」
大屋敷に戻ってみると、刑事部屋には誰もいなかった。クリコフが自分の席に座り、電話機のそばで書類をまとめている。ただし、今日は表情が輝いている。
「ギレリスは?」リュトヴィッツは言った。
「ラザレフ少尉と出かけました。ある手がかりを探りに」