11
秋晴れの下、天羽は小田急伊勢原駅に降りると、北口からバスに乗った。車窓からも北西にそびえる大山が見える。バスはその麓の東豊大学付属病院を目指していた。
上野のホテルで撃たれた傷は、左脇腹の貫通銃創だった。数週間の加療の間は、妹のゆかりに泣きつかれ、天羽は少し申し訳ない気持ちになった。
退院した後は、本庁で聴取と始末書の作成に明け暮れた。その間に、いくつか判明した事実を貫井から聞かされた。
まず『向島一号』と安斎英道の指紋が一致。新潟県警からは、「継続捜査班の主任を務める高村紘一」という捜査員はいないという回答を得た。宝町のホテルのラウンジに設置された防犯カメラには10月18日の午前11時48分ごろに、武田が男と接触している様子が収められていた。拡大してプリントしたが、画質が悪く、俯きかげんでもあり、人物の特定には至らなかった。武田を狙撃した犯人については、ホテルから30メートルほど離れたマンションの防犯カメラに、ゴルフのクラブケースを持った不審な男の姿が映っていた。管理会社に問い合わせたところ、マンションの住人ではないという。
「新潟県警の神田警部補から連絡があった」貫井が言った。「事件のあったスナックは極声会のシマ。公安捜査員の森谷は行方不明」
「いつからですか?」
「18日の夜からだそうだ」
つらつらとそんなことを思い出しているうちに、「次は、東豊大学病院前」というバスのアナウンスが聞こえ、天羽は慌てて降車ボタンを押した。
指示された地下の駐車場に入ると、暗がりに黒のヴァンが駐車してあった。
天羽は後部座席のドアを2回叩いた。さっと内側からドアが開くと、暗がりの中でいくつものモニタが青い光を放っている。知った男の顔がひとつ、モニタから離れた。ヘッドホンを耳から外し、巨躯を揺らして低い笑い声が響かせた。
「久しぶりだな。元気そうじゃないか」
佐渡邦彦が座席から身を乗り出し、天羽の手を握って車内に引き入れた。柔道の有段者らしく凄まじい握力で、天羽は思わず顔をしかめた。
「腹の傷の具合は?」
「大丈夫だ」天羽は空いている席に腰を下ろし、モニタに眼をやる。「配置は?」
「表と裏に、バイクが1台ずつ。警備員に化けたのが正面口に張りつけてある。看護師と医師に化けたのが、対象の近くに。いまモニタに写ってるのは、そいつらが持ってる隠しカメラからの映像」
「対象は監視に気づいているのか?」
「ヅかれるようなバカはウチの班にはいない」
佐渡は外事二課で、「ウラ作業班」の主任を勤めている。「ウラ作業班」は都会や郊外の闇に溶け込み、見えない網を張ってひたすら“獲物”を待つ。その“獲物”とは、高度な諜報技術を持ったエージェント他ならない。
「対象の現在位置は?」
「3階の小児科病棟」
「小児科?」
佐渡が雑誌を手渡した。
折り紙の専門誌だった。付箋が貼ってある個所を開くと、記事に添えられた写真にたくさんの縫いぐるみが飾られたベッドの上で、子どもが作品を手に取っている。緊張しているのか、ややすまし顔だ。その傍らで、両親が腰を屈めるようにしてのぞき込んでいる。小さな記事は「病気に負けず、これからも大好きな折り紙を続けて下さい」という言葉で結ばれていた。
「主治医の話では、白血病でもう先は長くないらしい。対象は宗教団体からいいカモにされて多額の御布施をつぎこんで、家庭内の雰囲気はサイアク」
天羽は非情に思いつつも、つけ込まれるスキは大有りだと納得した。
「接触は?」
「3日前に、銀座2丁目のクラブで。時刻は午後11時15分」
そう言って、佐渡は数枚の写真をよこす。淡い照明の中に浮かぶ対象と接触している相手は男だった。男の風貌に武田が宝町のホテルで昼間に会った「高村紘一」の特徴を照らし合わせてみたが、何の感触も得られなかった。
「今度の接触は?」
「1週間後に、荻窪の居酒屋で」
モニタには夕陽が沈むころ、対象が病院の正面口から出て来る姿が映し出された。その数歩後ろに、眼を赤く泣きはらした女性が歩いている。佐渡が呟くように言った。
「アイツがお前の腹を撃ったんだぜ・・・」
天羽は逡巡していた。死期が迫った難病の我が子に対して何を為すべきか真剣に考えた末の裏切りだったのだろう。気持ちを奮い立たせ、天羽は低い声で言った。
「決行だ」
12
JR荻窪駅北口の周辺を一般車に紛れて回遊するヴァンの中で、佐渡は監視中の捜査員から状況報告を受けた。対象が“点検”を始めたという内容だった。
「ヅかれたのか!何やってんだ!絶対にリカバリーしろ!」
いきなり沸点に達した佐渡の隣で、天羽は「接触相手から警告を受けたのかも」と言わずもがなのことを口にし、佐渡は眉をひそめた。
「なら、今日の接触は中止か?どうする?」
銀座2丁目のクラブで正体不明の男と接触したのが、12日前。その際、クラブに潜入した捜査員の指向性マイクで、「今度は荻窪の居酒屋で。『とりひさ』という名前です」と話す接触相手の声を録音していた。
頭で思考を進める天羽に、再び状況報告の無線が入る。
「対象は書店にて書籍を購入。タイトルは『100を切るゴルフスコアマネジメント』。カバンの中の濃い緑色の袋に入ってる模様」
天羽は思わず口を開いていた。
「対象は必ず接触に来る」
「根拠は?」
「対象は接触相手に資料か何かを渡すつもりだろう。受け渡しの際、万が一バレたとしてもゴルフの本なら問題にされにくい」
佐渡はうなづき、「緑色の袋は押さえるブツじゃない」と無線に吹き込む。ヴァンを天沼2丁目の路上に止め、天羽と佐渡は女性捜査員ひとりと午後6時半に、『とりひさ』に入った。店員に案内されて、天羽たちはテーブルに着いた。店内にはすでに何人もの捜査員が配置され、天羽たちに「特異動向ナシ」と合図を送ってきた。
対象が接触相手とともに、姿を現したのは午後7時ちょうどだった。店員に向かって接触相手が口を開いた。
「高村です。予約をとっています。あの席でいいですか?」
対象は天羽たちの席から7メートルほど離れた窓際の柱の陰のボックス席に座った。天羽の席からは、2人の姿がちょうど死角になっていて確認することができない。
「冴えない中年男だ」天羽の隣でメニューを眺めながら、佐渡は向かいの席に座る女性捜査員に小声で指示した。「お客さんが何か渡そうとした瞬間に合図をくれ」
運ばれてきたビールを飲むふりをしながら、天羽は対象の手前に立つ太い柱に苛立っていた。時計を見ると、午後7時16分を指していた。
その時、女性捜査員が佐渡の袖口を引っ張って、視線を対象の方へ送った。佐渡はさっと立ち上がり、天羽が呆然としている中、柱の向こうへ駆け出した。対象の眼の前で急停止すると同時に、分厚い掌を大きく振りかぶり、テーブルに叩きつけた。
バンという破裂音のような音が室内に響き渡った。
「はい、そのまま!そのまま!動くんじゃない!」
残りの捜査員も一斉に、椅子を膝裏で跳ね除けるように立ち上がった。対象が座るテーブルに人垣ができた。天羽が人をかきわけると、佐渡の汗ばんだ手がテーブルに置かれたA4判の茶封筒を強く押さえつけていた。
2人に向けて写真撮影担当のフラッシュが3回焚かれ、天羽は口を開いた。
「藤岡郁夫巡査、ですね?」
対象がうなづく。
「私たちは警視庁の者です。これから本部の方に一緒に来ていただきたい」
藤岡の接触相手に声をかけたのは、佐渡だった。有無を言わせぬ口調だった。
「アンタも一緒に来てもらおうか」
「いったい何ですか?私は外交官です。ウィーン条約で保護されてるから、お断りする。行く必要はない」
中年風の男の口から飛び出してきたのは、流暢な韓国語だった。面食らいながらも、佐渡が韓国語で反論した。
「外交官なら身分証明書を呈示するんだ」
「それは無理です」
「では、カバンの中に入ってるものを見せろ」
「これは私の書類です。見せることはできません」
「今さら何を言うか!藤岡へ渡す金が入ってるんだろう!俺たちはずっとアンタらが乳繰り合ってるのを見てたんだぞ!」
その瞬間、男は眼を見開き、苦渋の表情を浮かべた。天羽は男のカバンに分厚い封筒がいくつかあるのを見逃さなかった。
「2人とも立て!写真だ!」
佐渡の大声で、再びフラッシュが3回焚かれた。
13
2人の取調は、目黒1丁目の公安機動捜査隊本部で行われた。
まずは韓国語を話した中年男の聴取だった。「まさか」とは思いつつ、念のため韓国大使館への問い合わせ、今までに入出国した韓国外務省の関係者全員の顔写真を中野の紹介センターにあるデータベースと照合し、小一時間かけた結果、男が大使館と一切関係ないことを確認した。
緊迫した場で外交官だと詐称してみせる男の豪胆さを感じ取った結果、天羽と佐渡は2人で脅し、すかして男を徹底的に絞り上げた。男が「高村紘一」と名乗り、宝町のホテルで武田と接触したことを認めた頃には夜が明けていた。
天羽は窓のない三畳ほどの広さの部屋に入り、藤岡と鉄製の机を挟んで座った。
「武田がホテルで狙撃された時、あなたは休憩ということで、現場を離れてましたね」天羽が言った。「あなたの携帯電話の通話記録を調べさせてもらいました。狙撃があった1時間前、あなたは銀座のユニオンビルに入ってる誠光プロダクションという会社に電話をかけてます。この会社と、どういう関係にあるんですか?」
「私用ですよ」
「誠光プロダクションは暴力団のフロント企業と目され、組対が監視してます。あなたの答えようによっては、地方公務員法違反に抵触しますが」
「・・・私が、何か不審な動きを?」
「介護ホームへ入れたご両親の費用、息子さんの治療費、宗教団体への御布施・・・あなたの家の経済状態は火の車のはずなのに、ここ数年の間に銀行のローン、多額の借入金への返済が済んでるという事実があるんですが」
「それが何かの証拠に?」
「その返済金はどこから捻出したんですか」
「自分の私財をどう使おうが、どう蓄えようが、問題になるはずがない」
「私たちはあなたが今夜、接触した相手をつかんでます」天羽はスーツの胸ポケットから1枚の写真を取り出し、机の上に置いた。「高村紘一というんじゃないですか?」
藤岡が、唾を呑み込む音が聞こえた。
「あなたのファイルを調べさせてもらいました。公安一課に配属される前、あなたは外事二課にいましたね。そのとき、獲得したエス(内通者)が高村紘一ですね」
藤岡の体が揺れていた。小刻みに震えた双眸が、見開かれていた。
「高村紘一とは、どういう人物ですか?」
「・・・」
「高村紘一には、安斎夫妻を射殺した容疑がかかってます。富久町の事件の前日、高村は警察官を騙って武田に接触し、安斎夫妻のアパートの住所を聞き出してます。そして、あなたから武田がいたホテルの住所を聞き出してから1時間後に、武田は狙撃されてるんです。高村紘一とは、どういう人物なんですか?」
「金融ブローカーです」藤岡は低い声で言った。「外事二課にいたとき、私は北朝鮮の担当でした。高村は在日三世で、本名は金鉄泰(キム・チョルテ)。朝鮮総連の傘下団体に出入りしてたんです」
「あなたが高村のコントローラーじゃなかったんですか?」
「立場が逆転したんです」藤岡の声は震えていた。「高村は私の子どもの病気をどこかで掴むと、気前よく金を渡してきました。最初は断ろうとしましたが・・・いつしか、高村から貰う金が生活費の一部になっていきました」
天羽は愕然としながら、口を開いた。
「見返りは?」
「公安部内の情報です。ですが、私が渡したのは、政府の広報誌に基づいたレポートばかりでした」
「武田の所在を、高村に告げたのは?」
「富久町の事件があった前日、高村から連絡がありました。麻布署の生活安全課にいる武田紀介警部補の所在を把握しといてくれと」
「理由は?」
「不明です」
天羽は壁際の机でPCに供述調書を作成していた警官に「少し外します」と言い、隣の取調室に向かった。佐渡が高村紘一の取調をしている部屋だった。取調の様子を録音している小部屋に入ると、貫井がマジックミラーで様子を観察していた。
「高村が安斎英道を狙った理由は?」
「安斎英道は極声会系高徳組の準構成員。3年前に新潟のスナックで狙撃事件を起こした後、組の金を無断で持ち出して、女と一緒にふけた。一緒に逃げた女はスナックで安斎の犯行を支援するように送り込まれていたそうだ。組の総意で、2人とも始末することが決まって、自分がそれをしたと」
「高村と極声会の関係は?」
「極声会はもともと在日朝鮮人の青年同盟から出来た暴力団だから、在日三世で金融ブローカーという立場上、つながりは自然に出来たと話してる」
その時、貫井は胸から携帯電話を取り出し、何事か交わした。通話を終えると、貫井が無表情で告げた。
「新潟県警から連絡があった。森谷が見つかった。海岸沿いで焼身自殺したと」
14
日曜日の昼下がり。天羽は大田区長原の聖マルコ教会で貫井と会った。
ミサの終わり際に、天羽が教会に入り、ベンチの後方に座った。数人が司祭からパンを拝領するために並んでいる。その列の中に、貫井の家族がいた。地味なセーターにスラックス姿の貫井は拝領を済ませると、妻と子どもを先に帰し、出口へは向かわずに天羽のほうへ近づき、隣に腰を下ろした。
空っぽになった聖堂の片隅で、天羽は一連の事件の報告を行った。ここ数日、藤岡の聴取を終えた後、すぐさま新潟へ向かい、森谷繁の身辺を洗っていた。
報告の合間に、貫井が次々と質問をはさんできた。
「安斎は逮捕後、栃木の刑務所に3年服役した後、韓国に出国して行方不明になってたんだろう?極声会はたった1人の刺客に、なぜそこまで時間をかけたのか?」
「会の内部に、武闘派があるという噂が」天羽が言った。「刺客の素質がある者を選抜し、軽い実刑を喰らうよう指示する。刑務所で心身を鍛える寸法です」
噂の真贋が気になるが、組織犯罪対策部第四課から聞いたこの話は安斎の経緯と重なる部分が多いと、天羽は思った。出所後、安斎の行確を行っていた捜査員の証言、資料の行間から感じられた背後に何らかの組織が関与しているのではないかという筋読みにも符合する。
新潟で事件を起こした後、安斎英道は3年間を潜伏していた。安斎瑤子が教会で懺悔したことから、安斎英道を暗殺者に仕立て上げた極声会に所在が発覚され、高村が仕向けた殺し屋によって安斎夫妻は殺害された。
さまざまな不審な点は残るも、天羽はそこまで脳裏に事件の構図を描いた。
「高村紘一に、武田のタレ込みを漏らしたのは?」
「森谷繁です。森谷は武田が新潟県警に連絡を入れた夜、県警本部で当直をしていたことが分かりました。偶然だったと思いますが、松山の電話を耳にした」
「森谷が極声会にバラした理由は?」
「恨みです。あの事件で、現場捜査員としての森谷は終わりました。そして、同席していた2名を殺害された。おそらく情報源だったのでしょう」
「そもそも国会議員の島村武彦を、極声会が狙った理由は何だ?」
「事件当時、北朝鮮の拉致被害者の再調査に関して、島村は国家安全保衛部と接触があったといわれてました」
「《ジェラルド》か」
北朝鮮国家安全保衛部に、《ジェラルド》という人物がいるのだった。保衛部は総書記が直接指揮していると言われており、総書記の命令を受けて水際外交を展開していた。その対日担当官は公安部が付けたコードネームで、《ジェラルド》と呼ばれていた。
「極声会はもともと反共や、朝鮮総連への反発を旗印に出来た組織です。たびたび北朝鮮と接触していた島村に対し、よい感情を持ってたとは限りません」
「一体いつの時代の話をしてるんだが」貫井はため息を吐いた。「気に入らないから、撃つとか殺すというのはKGBのゴリラどもと一緒だよ。そう思わないか?」
「そこまで単純だとは、ぼくは思いませんが」
貫井は何故か笑みを浮かべた。
教会を出ると、外は雨だった。天羽は折りたたみ傘をコートから出して、通りを歩き出した。降り注ぐ秋雨に、聖堂の姿が消える。
あまりに大勢の死が、頭を麻痺させている。
しばらくの間、天羽は霞む街並みに佇んでいた。