19
入り組んだ住宅街の路地に建つマンションは、半分以上の部屋に明かりがなかった。帰宅の遅い共働きの世帯や独身者が多く、子持ちの世帯が少ないのだろう。
真壁は3階建てマンションの下に立って、まず3階の窓を眺めた。302号室はカーテンがかけられていたが、明かりは漏れていた。インターフォンを押すと、ラフなスウェットの上下を着た奈緒子が出てきた。眼鏡をかけている。
真壁が「急に悪いな」と詫びると、奈緒子は「ううん、大丈夫だよ」と言い、幼馴染をしげしげと見つめる。
「何か、ついてるか?」
「マーちゃんの私服姿、久しぶりに見るかなって・・・」
昨日の雨で、スーツの上下を全部濡らしてしまったので、真壁はジーパンとセーターの上にゴアテックスのジャケットを着込んで、足元は登山靴という恰好だった。
真壁は「早くそこをどいてくれよ。靴が脱げないだろ」と言うと、玄関の三和土に腰かけ、登山靴の紐を解いた。玄関からキッチンに入ると、奈緒子が「何か、飲む?」と尋ねてきた。「ハーブティーにしない?コーヒーだと、寝れなくなっちゃうから」
「なんでもいい」
隣のリビングで、真壁は床に敷かれたベージュの絨毯の上に腰を下ろした。上着を脱ぐと、冷えきった両手を電気ストーブにかざす。テレビがお笑い番組を流していたが、音は抑えてある。その傍に、編物でもしていたのか、毛糸の玉が転がっていた。
「何か言うことないの?」
ティーカップを運んできた奈緒子が、1つを真壁の前のテーブルに置きながら言った。真壁がきょとんとした顔になる。
「何だよ?」
「眼鏡」奈緒子が眼元をくいっと上げてみせる。オーバルレンズに、ピンクの細いフレームがつながっている。
「眼鏡がどうかしたのか?」
「ん、もぉう・・・ドンちゃんなんだから」ぷぅと頬がふくれたと思うと、今度は笑って見せる「そこが、マーちゃんらしいけどね」
真壁は腐れ縁だと思っているのだが、奈緒子とは高校までほとんど一緒だった。周囲から許婚だと散々からかわれたのは苦い思い出だが、なんだかんだと付き合えたのは、奈緒子がよく笑うからだった。真壁自身がめったに笑わない人間だからこそ、どこかで波長が合うのかも知れない。
「さっきお風呂入ったの。お湯、まだ残ってるから、入れば?疲れてるでしょ」
「そんな気ぃ使うなよ・・・シャワーでいいから」
「水道代ぐらい、稼いでるよーだ」奈緒子が興味津々といった様子で尋ねてくる。「ねえ、どうして泊まりに来たの?アタシに会いたくなった?」
「事件」真壁はカップに口をつけた。「家に帰るのが面倒になったんだよ」
「この近くで起こったの?どんな事件?」
「明日の朝刊見れば分かる」
「ケチ」奈緒子は真壁のジャケットに手を伸ばした。「いいもん、手帳見るから・・・」
「おい・・・やめろ」
寸前でどうにか、奪い取る。奈緒子は「むう」とふくれっ面だ。
「マーちゃんって、昔っからそうだよね」
「何が?」
「そうやって全部、心の中に隠してる」
「隠してるって・・・」真壁は呆れた表情を浮かべた。「これは警官の義務だ」
奈緒子の幼馴染は子どもの頃からひどく老成した口をきいたものだが、実の両親は分からず、知っている家族は祖父だけという生立ちの故か、その本心を明かしたことはほとんどない。
「アタシ、びっくりしたんだから。マーちゃんが刑事になったなんて。ねぇ、どうして?やっぱりお祖父さんに憧れて?」
「さあな」真壁の口から欠伸が漏れ、眼に涙が出た。時刻は午前1時半を回っている。
「あは、大あくび。そろそろ、風呂入る?」
真壁はうなづく。
「明日も早いの?」
「お前は?」
「ううん、非番」
奈緒子はクローゼットに手を伸ばすと、バスタオルを取り出して真壁に手渡した。礼を言ってバスルームに入ると、「どこで寝る?」と尋ねてきた。
真壁が「リビングでいい」と応えると、奈緒子はドアから顔を覗かせて「添い寝してあげようか」とチェシャ猫のような笑みを浮かべた。
「うるさい」と言ってドアを閉めると、部屋の甘い香りに異性を感じ、真壁は少しくらりとした。
20
翌朝、真壁は絨毯の上で眼を覚ました。カーテンから薄日がさしている。かけていた毛布を押しのけ、上体を起こすと、背中と腰が悲鳴を上げた。痛みに呻き声をもらす。
腰をさすりながら、テーブルに置いたタバコとマッチを掴む。時計を見ると、午前6時半過ぎだった。窓を開けてベランダに出ると、冷気が顔を刺してくる。タバコに火を付け、紫煙をくゆらす。
真壁はときどき、自分が空っぽだと感じることがある。それは、周期的に訪れる気分の起伏というより、もっと切実な飢えのようなものだ。
日々事件に追われ、ひとつの事件が終わると、また次の事件がくる。それは、自分の頭に蓄えた情報をそっくり流して、また次の新たな情報を詰め込んでいく繰り返しだが、そこから自分自身の血肉になるものを見出し、学んでいくというのは、真壁には仕事の延長としか思えず、充足感などない。そのくせ、ほとんど個人生活を持たないような生き方をしているのは、現実に忙し過ぎるという理由ではなく、どうやって個人を生きればいいのか分からないからだ。
ときどき漠然とした生理的欲求が起こる。何でもいいから、自分のためだけの心浮き立つような世界が欲しいという思いだ。しかし、それで何をするかと言えば、せいぜいバランタインを呷り、聖書を読むだけで、結局、元のもやもやした気分で終わってしまうのだ。
思えば故郷の新潟を出てから十余年。自分の周りで流れてしまった月日がいかにも雑然として騒々しかったことを思った。しかし、その胸底には、いつも通奏低音のように、ある種のしこりが根づいていた。
24時間、一分(いちぶ)の隙もなく、強くありたいという激情。
大学3年の冬、思い立ったように警察官という生業を選んだ瞬間、その激情が脳裏に無かったと言えば、嘘になりはしないかと、真壁は自問自答してみる。
あの激情を初めて懐いたのは、高校1年の秋だった。
野球部の部活を終えたのは、午後7時だった。その日も後ろに奈緒子を乗せて、真壁は自転車をこいで帰り道を急いでいた。街灯の少ない住宅街の交差路で、奈緒子は「じゃあ、また明日ね」と言って、自転車を降りた。左に曲がると、奈緒子の家があった。
「ああ」とそっけない返事をして、奈緒子の背を見送った。そのとき、奈緒子の家に向かう路地の奥から影が現れた。
真壁はその影から、何かが突き出しているのを見た。街灯に反射して光り、先が尖っているものだった。それが何なのか考えあぐねいている内に、全ては刹那の間に起こった。
悲鳴も何もなかった。奈緒子と影が重なったと思うと、奈緒子の体が暗い地面に崩れ落ちた。影はすぐ左手に走り去った。
真壁は自転車を投げ捨て「奈緒子!」と叫んで駆け寄った。奈緒子は仰向けに倒れ、右脇腹から鮮血があふれ出ている。いつの間にか、そばに来たスーツ姿の男が「どうしました?大丈夫ですか?」と声をかけてきた。
奈緒子を男性にまかせ、真壁は急いで奈緒子の家のドアを叩くと、ドア口に出てきた奈緒子の父親に「救急車、呼んで下さい!ナオが刺された!急いで!」と口早に伝える。
周辺の住民が何人も道に出ている。真壁はその間を縫って、影が走り去った路地に駆け出した。影はすでにない。心の内でひとつ舌打ちし、暗い住宅街を消えた影を追って、夢中で走り回った。
遠くで救急車とパトカーの音が聞こえる。投げやりな気持ちになって、真壁は息を切らし、その場に倒れるようにして立ち止まった。近くの家のブロック塀に身体を横たえ、生まれて初めて神に祈った。
眼の前に、自転車が止まった。顔を上げると、外勤警官をしている里親の父が珍しい大声で「こんなとこにいおったか、このバカモンめ!早く奈緒子ちゃんのそばにいてやるんだ!」と怒鳴りつけた。
奈緒子が搬送された病院に行くと、警官から事情聴取された。犯人はジャージの上下を着ていた。フードを被っていて、顔は分からない。男か女さえも分からない。動機など、なおさら分からない。真壁が言えるのは、こんなことしかなかった。
手術室前のベンチに奈緒子の両親と腰かけ、真壁は事件のことを改めて考え直そうとするが、つのってくるのは後にも先にも後悔だけだった。
あのとき、ちゃんと声をかけてやればナオは刺されずに済んだのではないか。
神に祈りながら、そんな後悔は二度としたくないと思った。自分の裡にあったほんのわずかな逡巡を、真壁は『自分は弱かった』と結論づけた瞬間、思いもよらなかった熱い感情がこみ上げてきた。
空っぽの頭にタバコの毒を吹き込みながら、真壁は改めて10年という年月を数えた。まるで都会の人混みのように、過ぎてしまえば何も残っていないが、15の秋に懐いたあの激情はまだ胸の中に疼いている。
21
真壁はいったん大井町の自宅に帰って着替えをすませた後、午前8時半に池袋南署の捜査本部に入った。会議前に済ませておこうとトイレに入ると、洗面台で顔を洗っていた馬場が開口一番にのたまった。
「ほほう、抜け駆けでご活躍のお方はさすが清々しいお顔をしておられますな」
ウィスキーの臭いがぷんと鼻を突き、真壁は顔をしかめた。
「息が酒臭い」
「けっ、飲まなきゃやってやれるか」
「それで、俺は言ってやったのよ」ドアが開いて、高瀬が入ってくる。「てめえ、女だったらそんな大口叩く前に、股開けって。そしてらそいつ、ほんとに脱ぎやがんの。たまらねえよ、俺は・・・」
「なめられたんだよ、それは」鼻先でせせら笑う磯野の声が後に続く。
「おい、そこの2人」馬場が低い声を出す。「諸井が会ってた女、まだ分からねえのか」
「諸井がもしかしたら、男の趣味をあるんじゃないかってことでソッチも調べてますからちょっと遅いだけですよ」高瀬が言った。
真壁が「新宿2丁目?」と応えると、磯野が真壁の方へ鋭い流し目をくれる。
「そうか、若いのは昔、新宿にいたっけ。まあ、主任、結果はお楽しみに」
馬場が出ていくと、入れ替わりに杉田が入ってきた。真壁の隣に立つと、声をかける。
「おい、開渡から何か言われたか?」
「いや。何かあったんですか?」
「奥寺が入院した」杉田は告げた。「急性何とか病で面会謝絶だそうだ。まったく、代議士みてえな野郎だ」
真壁がつたない記憶をたどると、「奥寺」という名前は諸井のカンにあった。奥寺康一。城之内建設の取締役専務。ガイシャが事件前日、東京で回った3社のうちの1社が城之内建設だった。
「いつから?」
「昨日」
真壁は事件との関わりを想像することが出来ず、とっさにはピンと来なかった。必死に頭を巡らせたが成果はなく、杉田から「それより、お前は《ニューワールド企画》の方、なんとかしろ」と頭ごなしに言われ、出かけた小水も引っ込み、不快さだけが残った。
薬物捜査第三係の主任によると、《ニューワールド企画》は溜まり場としては大きい方だという。夜に出入りする人間の大半は、個室でポルノビデオを見る男だが、不況のせいか人数はあまり多くはない。一方、3階に上がる人間たちの中には、かねてから目星のついている売人が数人、コロンビアからブツを入れている運び屋が数人混じっているという。
毎日、ビルに出入りする人間を望遠レンズのついたカメラで撮影する。その写真を中野の照会センターや本庁の鑑識に回して、出来る限り身元を特定していく。身元が判明した男女の中には、売れない芸能人もいる。たまたま髪をかきあげる女がいて、長く尖った手の爪が写っている写真もあった。
雑多な写真を眼の前に、開渡係長が「めぼしいの、誰かいるか?」と聞いて来るが、真壁は「分かりません」と答えるしかなかった。
真壁と津田が探しているのは、ヤクの売人や運び屋ではないのはたしかだが、何者を探しているのか分かっていなかった。それでもとにかく、寒空の下に居座り続けた。
不況のせいか、深夜の人通りは数年前と比べて明らかに減っている。コートを着た酔っ払いの姿はほとんど見えない。客引きの声もない。あてもなくさ迷う浮浪者。小物を売りつける獲物を探している外人。流しで客を拾っている女。そういうのがときどき駅の方からふらりと現れては、またどこかへ散っていく。
この日の夜、《ニューワールド企画》のビルにまた1人、若いモデル風の女が入っていった。阪本がうさん臭そうな横目をくれる。
「いったい、あの人間たちの中に殺人犯がいるのか?」
「分からん」と真壁は応えた。
「面も割れてないんだろう?何を根拠に、誰を探してるのか分かってるのか」
「うるさい、黙ってくれ。頼む」
「末期症状だな」
「黙れって言っただろ」
ホシの面も分からず、ホシがあのビルにいる根拠もなく、それでもほかに探るところがないから、ここにいるだけだった。時間潰しと、ぎりぎりで紙一重。
実際のところ、無為というのは一番神経が消耗する。せめて風邪は引きたくなかった。簡易カイロをコートのポケットに入れ、手袋と耳あてを着ける。傍らの津田も、似たような恰好で黙々としている。
ときどき杉田や馬場、吉村が様子を見にくるが、同じ人間が同じ眼で見続けなければ意味がないので、交替は出来なかった。開渡係長は差入れの缶コーヒーを届けに来て、「独り者の特権だな」と言うと、真壁は津田を見やった。
「彼女、いないのか?」
「いるわけないですよ」津田がもごもご言う。「こんなことやってましたら」
「そうだな」
眼下の仄暗い繁華街のどこかで、今夜も磯野と高瀬が歩き回っているはずだった。被害者が雪の深夜にあの現場で待っていたかも知れない女を探し続けている。
22
事件発生から2週間も経つと、新年を迎えていた。
1月1日朝の捜査会議は、ひさびさに景気のいいものとなった。磯野と高瀬が、ついに諸井が待っていた女を捜し当てたのだ。
「これだ、これ!」
磯野が黒板前で、あの週刊誌の広告欄に載っている小さな写真を指し示した。歳のころ30過ぎの女が裸の胸をさらしていて、「人妻の〇〇」というキャッチコピーがついたダイヤルQ2の広告だった。
「名前は新山香里。昨夜やっと、事情を知っている別の女と会うことが出来た」
磯野の報告は、次のようなものだった。
女の名は恵美子。12月17日午後7時前、中年の男の声で電話がかかってきた。男は、電話に出た恵美子に「新山香里さんと話がしたい」と言った。
「あたしじゃだめかしら」と恵美子。
「私は香里の知り合いで、彼女と話がしたいんだ」と男は言った。
そのとき、香里はほかの電話に出ていたので、恵美子は「お名前、何ていうの。香里の手が空いたら言ってあげるわ」と応えた。
「京都の諸井邦雄。そう言えば、香里に分かる」
恵美子は「30分ぐらいしたら、また電話して」と言うと、電話は切れた。恵美子はやけに切羽詰まった声だったし、実名で指定してくるような男なら、本当に知り合いなのだろうと思い、実際に香里に諸井邦雄のことを伝えたということだ。
その後、香里が実際に男の電話を受け、何事か約束したかどうかについては、恵美子は知らないと言った。しかし、別の美奈という女が午後7時半ごろに、諸井邦雄を名乗って新山香里を指名してきた男の電話を受けていた。美奈は香里に電話を回した。そして、当夜は午前3時ごろまで香里はずっと事務所にいて、外出はしなかったという。これは複数の証言で裏付けられた。
杉田が即座に手を挙げた。
「電話をかけてきた男の声が『切羽詰まった声だった』というのは、恵美子の言葉か」
「そうだ。ダイヤルQ2にかけてくるような男の声でなかったので、恵美子は『なによ、このバカ』と思ったと言っている」
「そうと分かれば、さあ、香里の前歴を聞かせてもらおうか」と馬場。
吉村が珍しく「闇の中だろ」と、そっけない言葉を吐いた。
「会社が保存していた履歴書は、名前以外は全部ウソ。恵美子は、香里が関西の出身だと聞いたことはあるらしいが、県名までは聞いていない。もっと親しい友人を探しているが、まだ見つかっていない」
真壁は心底、鬱々としたものを感じた。これでまた、あの京都の遺族に電話をしなければならない。真面目一方の孝行息子、あるいは会社と家の往復だけの人生だった夫の隠れた私生活を暴いて、得する者は誰もいない。皆を不幸にする電話をかけて、捜査書類を整えるのが警察の仕事だと割り切るしかなかった。
諸井の妻の声は初め、だいぶ落ち着いていた。夫の葬儀もとっくのとうに済ませ、生命保険も下りたのだろう。
しかし、東京の警視庁からかかってきた電話の主が「ご主人の生前の女性関係についてですが」と言い出すと、絵里の声は強張り始め、当惑と怒りの響きが加わってきた。
「前にも申し上げたはずです。主人が女遊びをしていたはずはありません。妻の私が知ってます」
「こちらの調べでは、ご主人は事件当夜、新山香里という女性と連絡を取ろうとしていたのは事実なんですが・・・」
「新山などという人は知りませんが、だからどうだと言うんですか。主人を静かに成仏させてやっていただけないんでしょうか!」
ひたすら気は滅入ったが、その一方で、冷酷な職業意識は働き続けた。平静を乱された絵里の怒りは分かるが、怒りの出方が少し早過ぎる。初めて会ったときの印象もそうだったが、夫婦の関係はかなり複雑なものだったのは疑いようがないと感じられた。絵里は夫の不倫を知っていたのだろう。それでもなお、夫婦生活を清算できない事情がいろいろあったのだろう。たぶん、あの老いた実父もいくらかは知っていたに違いない。
電話では埒が明かず、絵里の口からこれ以上の詳しい話は聞けないと真壁は感じ、受話器を下ろした。新山香里の身元を調べて、被害者との関係を知ることは不可欠だから、馬場が「誰か、京都へ遣らねばならんな」と呟いた。
順当なところで、その役目は磯野と高瀬が負うことになった。香里の写真を持参して、京都市内の歓楽街を訪ね歩くことになる。それでもだめなら、府警に駆け込むしかない。
開渡係長の「土産を持って帰ってこい」という激励を背に、真意など間違っても顔に出さない本庁の刑事が2人、その日の午後にはさっさと旅立っていった。